−大好きだよ、フローリア。ずっと一緒に暮らそう。−
少年のエンリックが精一杯の想いを込めた求婚の言葉。
都から離れた館でのささやかな幸福は、ごく限られた人々にしか知られていなった。
緩やかに、だが、確実に月日は流れていくのである。
「子供…?」
午後のお茶の時間に老医師と幾分顔を赤らめたフローリアから懐妊を告げられ、エンリックは
ティーカップを持ったまま、一瞬固まってしまった。
我に返ったのは、傾いたティーカップからこぼれ、手にかかった紅茶の熱さである。
「え、うわっ。」
慌てて指を離したエンリックの手を隣に座っているフローリアが布で拭いてくれた。
「大丈夫ですか。すぐに冷やさないと。」
「平気。それより本当に?フローリア。」
こっくりと頷くフローリアの手をエンリックはそのまま握り締める。
驚いたのも束の間、エンリックの表情が喜びに変わった。
「そうか。私達の子か。」
嬉しそうな笑顔を向けた途端、何故か顔が曇る。
さすがに父親になるには若すぎて、不安がよぎったのかと思えば、
「準備、どうしよう。ここで生むんだろう。何が必要なんだ。」
うろたえだしたエンリックにフローリアが微笑んだ。
「落ち着いてくださいませ。まだ何ヶ月も先のことです。」
エンリックはとまどいながらも、喜びを隠せないのは、ティーカップをひっくり返したのが、
一度でないことからわかる。
お茶の後、食器をお盆に乗せて持とうとするフローリアに、
「後片付けくらい、私がする。」
エンリックが声をかけた。
転んだら危ないという、妻に対する気遣いらしい。
エンリックと「結婚」した現在でも、フローリアは家事を受け持っていて、エンリックも時折手伝って
いる。
「では、そちらのお皿を持って来ていただけますか。」
エンリックが振り返った隙に、フローリアは厨房へと向かう。
人目が少なく、本人に自覚が薄いとはいえ、エンリックは王子なのだ。
いくら夫とはいえ、お盆ごと渡すことはフローリアにも出来ず、せいぜい空の大皿を運んでもらうのがせいぜいなのである。
もちろん他の人間も何かと家のことをやっているのは以前からで、ほとんど家族とかわらない。
一人で充分と追い返されたエンリックは、厨房の隅で足をとめた。
「どうかなさいましたか。」
裏から薪を置きにきたゼアドが聞いた。
本来は騎士だが、ここでは力仕事全般を自ら引き受けている。
「赤ん坊って、このくらいかな。」
見れば足元にりんごの木箱があるではないか。
「ご心配なさらなくても、御子様のベッドは私がお作りします。」
まさかとは思うが、エンリックは適当な大きさを見て、木箱を代用しようという考えついたのかもしれない。
赤ん坊の布団は枕で何とかなるかもしれないと言う位だから。
それでも屈託のないエンリックに周囲の者は胸を撫で下ろしている。
幼いという理由で王位は叔父が継ぎ、さらに王宮を追い払われるかのように、この地へ来て何年が経っただろうか。
警護という名の見張りも最近では見かけなくなり、エンリックとフローリアの「結婚」も都に漏れる
気配はない。
却って知られてはいけないのだ。