いまだ王に世継ぎがないからこそ、エンリックは放置されるだけですんでいる。
もし、エンリックに子が生まれると知れば、ただではすまないだろう。
今は誰もが無事なエンリックの成長だけを願っていた。
子供だと思っていたエンリックが子を持つ親になるとは、共に暮らしている者にとっても、
嬉しい驚きである。
病弱のため地方で静養という名目上、随行してきた老医師などはすっかり顔をほころばせていた。
「もう大人ですかな。エンリック様も。」
実際は医師というよりゼアドと共に家庭教師だ。
「父親には随分お若いですが。」
「ゼアド卿のお子さんは、確かご子息でしたか。」
「はい。」
ゼアドの妻が男児を出産したのは、都を離れた後であった。
しばらくして事情を知ったエンリックは帰って良いとも、呼び寄せて良いとも言ってくれたが、
「いずれ会うことができます。」
と、断った。
他に身辺を守る人間のいない館を離れることはおろか、幼くして両親を失い、叔父にさえ
冷たい扱いを受けているエンリックの手前、自分だけ家族を置くことは憚られたのである。
「私には皆が一緒にいてくれるから。」
エンリックは退屈だとは言っても、寂しいとは決して口に出さない。
いつも明るく振舞い、フローリアが来てからは更に笑顔が増えた。
最初は姉弟のような感情だったもかもしれない。
だが想いは変化する。
特にエンリックは二歳年上のフローリアに対する不安があったのだろう。
たとえフローリアが身寄りの無い村娘であろうと器量も気立ても良く、縁談がおこっても不思議では
ない年頃になっている。
自分が大人になるまで待って欲しい、と悠長に構えていられないほどエンリックには切実だった
のだ。
フローリアは迷った。
エンリックの年齢や性格ではなく、身分である。
ここにいる間は普通の少年と変わらないが、王子あることは事実だ。
他にふさわしい相手はきっといるに違いない、と思いながらもフローリアが申し出を受けたのは、
今現在、エンリックの心の支えになりたかった。
快活さと優しさの中に、王宮で何不自由ない生活を送っていたはずなのに、嘆く姿を見せようと
しない強さ。
まだ少年のエンリックが、辛い顔を見せてはいけないという、周囲の人間に対する心遣い故だ。
人を大切に思う気持ちと素直で真剣な瞳に、フローリアは胸を打たれたのである。
フローリアが身ごもったと知った夜。
「今日から手を繋いで寝よう。」
ベッドの中でエンリックはフローリアの右手を軽く握った。
「気分が悪くなったら起こして。そばにいるから。」
エンリックは目が覚めた時、隣にフローリアがいないと、多少不機嫌になる。
元々フローリアは何かとこなすことがあるので、エンリックより早起きで当たり前なのだが、
「眠ってる間に黙って行かなくてもいいじゃないかー。」
と大声を上げて階段を駆け下りて来られた時は、さすがに気恥ずかしくなった。
他の者はあらぬ方を向いて聞こえない風を装ってくれたが、以来、一応声だけはかけるように
している。
特に変わった点といえば、寝室が一緒になったことと皆が「フローリア
様」と敬称を付けて呼ぶ
ようになったことだ。
フローリアは今まで通りで構わないのだが、「主君の奥方」に対する礼儀だと言われてしまい、
やっと少し慣れてきたところである。
館の人間が結婚に関して早いとは思っても、あえて止めなかったのは、エンリックにとって
フローリアが必要な女性と認めたからであった。