エセルが王宮内の馬場でファーゼに乗馬を習い始めると、カルナスも勉強を教えてくれる
ようになった。
ちゃんとした教師が決まるまでだが、二人の兄は楽しんでもいるのだ。
カルナスはエセルと差し向かいになった時に、
「何かやりたいことや学びたいことはないか。例えば医学とか。」
聞いてみるとエセルは首を振った。
「私に医者は無理です。」
理由は傷口を直視できないからだ。
修道院でも病人や怪我人の世話をするのだが、ほんの子供だったエセルは真っ赤に染まった
包帯に驚いて以来、血を見るのが怖くなってしまった。
かわりに覚えようとしたのが薬の知識だったのである。
話を聞いてメイティムとファーゼも、武術は不要というより、エセルが嫌がるだろうと、特に指南役を
つけないことにした。
勉強自体は好きなようで、いつも本を読んでいるのは暇つぶしではなく、エセルの趣味らしい。
「とりあえず歴史と文学と宮廷作法か。」
メイティムの見るところ、エセルは立ち居振る舞いは完璧なのだが、修道院で教育を受けたため
宮廷や貴族社会の慣習には無知に等しい。
行事や式典という公の場でなくても、知らないと不都合なことも起こりえる。
「耳に入れたくない話もありますけどね。」
ファーゼが苦笑を漏らす。
無闇に金品を受け取るな、やたらと女性に名前を尋ねるな、と細かく取り上げたらきりがない。
「いっそのこと将来は慈善団体の名誉職でも与えたらいかがですか。父上。」
「どうした、ファーゼ。何も今から決める事もあるまい。」
「リュオンの言い分ではないですが、あまり政治に向くような子じゃありませんよ。」
十四歳にもなって、まるで人が善意の塊と信じて疑わない性格では、レポーテの内情はきついかも
しれない。
「本音を申し上げれば、気付かれたくありません。リュオンがわざわざ、マリアーナとエセルを連れ
出した原因にも関っていると思いますが、違いますか。」
「ファーゼ!言い過ぎだ。」
「何故ですか、兄上。父上とリュオンが仲違いして辛いのは、マリアーナとエセル。それに母上です。
リュオンが嫌ってるのは、取り入ったり、利用したりする、宮廷貴族のやり方でしょう!」
「そうだろうな。」
メイティムは反論しなかった。
綺麗事だけですまない部分はいくらでもある。
はたしてエセルに耐えられるかどうか。
「父上と兄上を前にして、無礼を承知で言いますが、私も馴れ合い政治は好きになれません。」
すっと椅子から立ち上がると、ファーゼは会釈をして自分の部屋へ戻った。
カルナスは弟の後姿を見送って、軽くため息をつく。
「すみません。父上。」
「何もカルナスが謝るとこもあるまい。ファーゼの言う事は正しい。」
多分エセルの純粋さに、今まで我慢してきたことが頭に浮かんできたのだろう。
重臣達と表立った衝突はなくても、煙たがれる存在には違いない。
「物事を是非を曲げては、政治とはいえない。確かにエセルには理解できない世界だろうな。」
「世の中、聖者ばかりでないことはわかってるでしょう。ラジュアにシャルロットが行くかも
知れないと、還俗して戻ってきたのですから。」
世俗に無関係な修道士として、見て見ぬふりもできたはずだ。
王子として姿を表せば、少年である現在はともかく、将来は多かれ少なかれ、公務に携わる
日が来る。
エセルはしばらく自由にさせてやりたい。
王宮内に澱んだ空気があることは、いずれ知ることになるとしても。