しばらくの間、エセルは大怪我こそしなかったものの、あちらこちら痣だらけであった。
 書棚にぶつかった時は、落ちてきた本の角が頭に当たり、拍子で本人が座り込んだため、
居合わせたカルナスが慌てて駆け寄ったくらいだ。
 人気のない場所でこうなのだから、町の往来に出してもらえるわけがなく、王宮で過ごす
羽目になる。
 何をしても身に入らないので、エセルは礼拝堂にこもりがちだ。
 やはり祈っていると心が落ち着く。
 一緒に暮らしている家族は、何も神様でなくても、と思うのだが習慣なのだろう。
 無理に選ぶ必要はないと繰り返すと、ただ困惑してはいるものの、嫌がっているふしが
ないのだ。
 本気で悩んでいるところをみると、案外好きな姫がいるのかもしれない。

 十日近く経った夜、静かにエセルの部屋をノックする音がした。
 扉を開けるとリュオンが立っている。
「どうしてるかと思って、様子見に来たんだ。起きていて良かった。」
「兄上。こんな時間に大丈夫でしたか。」
「警護の交替時間と庭の構造くらい覚えてるさ。一応、生まれ育った場所だから。」
 エセルは夜道は危ないと聞いたつもりだったのだが、リュオンは見咎められなかったかと
誤解したらしい。
 言い訳できるようにか、普段着でも白衣でもなく、ちゃんと略礼服を纏っている。
「少し額が赤くなってるけど…。」
「ちょっと本に当たって。」
「頭、打ったのか?」    
 エセルは左右に首を振る。
 リュオンの根が医者なのか、心配性なのか、多分両方だ。
「塗り薬も持ってきて、ちょうど良かった。」
「もうすぐなくなりそうだったんです。やっぱり兄上の調合した方が効きますから。」
 前に置いていった薬がないということは、ほとんど毎日生傷が絶えないということになる。
 リュオンの曇った表情を見て、エセルは言った。
「大したことはないんですよ。余所見して、テーブルの端や椅子にぶつけたりしてるだけですから。」
「ちゃんと前見て歩く練習しなさい。」
 ため息をつくとリュオンは踵を返した。
「もうお帰りですか。」
「長居すると遅くなるからな。おやすみ。エセル。」
 取っ手に腕を伸ばすと、意外なほど簡単に扉が開いた。
「何だ、リュオン来てたのか。」
 廊下側からファーゼが取っ手を握っている。
 リュオンは誰にも会わない内に帰ろうとしたのだが、見つかってしまった。
「ちょっと待ってろ。兄上も呼んでくる。」
「私は帰りたいんです。」
「騒ぎにされたいか?」
 リュオンは押し黙った。
 他の人間を呼ばれては、今夜は帰れなくなってしまう。
 カルナスを連れて戻ってきたファーゼに、リュオンは聞いた。
「大体、兄上は何しに来たんですか。」
「随分な言われようだな。エセルが眠れないんじゃかと思って、届け物。」
 手に持っていたのは、二本の瓶。
「寝る前に飲むと、温まるんだ。」
「エセルに酒!?」
 カルナスとリュオンが同時に叫んだ。
「酒って、白ワインとリンゴ酒だけど。」
「リンゴ酒なら大丈夫ですよ。」
 エセルが笑って立ち上がり、棚からグラスを四つ出してきた。
 せっかくの心遣いだ。
 グラス一杯くらいで酔ったわけではないが、気分がほぐれたエセルは、気にかかっていたことを
口に出した。
「今回のお話は姫もご承知のことでしょうか。」
 言葉以上に、エセルの瞳が真剣さを物語っていることに、三人の兄は感じたのであった。


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