まさか弟に顔と名前を認知されていないとは思ってもみなかったが、一つにはローネの
デラリットに対する遠慮からか、兄弟とはいえ子供達同士の距離をおこうとしていたとも
考えられる。
もし立場が違うと言い聞かされていたとしたら、幼心にも漠然と感じていたかもしれない。
現在も頭のどこかに残り、きっと尾を引いている。
打ち消してしまえるだけの時間が、もう足りない。
兄弟で最初の旅が、最後の思い出作りという気持ちがファーゼには強かったのだ。
もうすぐ陽も落ちようというのに、途中から進路を変えさせ、向かった先でエセルは早足で
歩かされた。
急な坂道と断崖を登りきった場所に広がった光景は見たことがないものだった。
一瞬ごとに金から朱に変わろうとする太陽と、青から薄紅に染め上げられていく中に紫がかる
雲がたなびく空。
同じ色合いを映し出そうとするさざ波が瞬く一面の海。
まさに夕陽が海の彼方に沈もうとしていた。
「これが、海、ですか…!」
「見るのは初めてだろう。」
「はい!」
レポーテの内陸で育ち、海を知らなかったエセルは、潮風に吹かれながら、魅入られるように
立ち尽くしている。
限りなく続く空と海は、想像以上に広大で、眩く感じたのである。
「こんなに夕陽が綺麗だと思ったのは初めてです。」
「足を延ばした甲斐があって良かった。」
夕景の素晴らしさで、しばし絵画の題材としても知られる場所だ。
エセルは刻一刻と彩を変えていく様に目を見張ったまま、すっかり陽が落ちるまで、動こうと
しなかった。
立去ってしまうのが惜しく、結局近くに宿を探すことになり、一晩中波の音を子守歌代わりに
聞き入るのである。
翌朝早々、
「兄上。浜辺に散歩に行きましょう!」
ファーゼはエセルに揺り起こされることになった。
砂浜を歩いて間近に海を見ると、エセルは波打ち際に駆け出していく。
遠浅の海で風も静かのため、波も高くないが、押し寄せる白い波しぶきも紺碧の海の色も
昨日とはまるで違い、透けるようである。
近付くと濡れるので引き返したかと思えば、靴と靴下を脱いで裸足で走り出した。
波が足にかかり潮が引いていく感触は、まるで自分が動いたような錯覚にとらわれる。
「泳ぐにはもう水が冷たいな。」
止めるどころかファーゼは自分も裸足になって隣に来ていた。
「海って気持ち良いですね。」
緑の木立に囲まれて育ったエセルは海辺が珍しくてたまらないらしい。
貝殻を拾ったり、小さな生き物を見つけて喜んだり、砂浜で寝転んだりしたおかげで、
すっかり砂だらけだ。
引き上げようとしたら、杭に繋がれている小舟があった。
せいぜい二・三人しか乗れないような古びたボートである。
浮き輪が積んであるところを見ると、緊急時のためにおいてあるのかもしれない。
「乗ってみるか。エセル。」
「でも勝手に借りて良いんですか。」
誰かに断ろうにも周りに人も家もない。
「夏じゃないから泳いで溺れる人間もいないだろう。」
ファーゼがロープを外そうとすると、さすがにレナック達も近寄ってきた。
「殿下!」
「すぐに戻る。」
追いつかれる前にと、急いで海に出る。
オールは四本あるのだが、エセルが使うと前に進まないので、ファーゼが一人で漕いでいる。