エセルは透けて見える水の中を飽きもせず、眺めるばかりだ。
「あまり乗り出して落ちるなよ。エセル、泳げるか。」
慌てて身を引いたエセルは、幾分小声で言った。
「私は泳いだことないんです。」
「じゃ気をつけてくれ。この辺はもう足が届かないから。」
漂っているだけでも、ボートが揺れている。
静かなようでいて、海面は絶えず波打っているのだ。
浜から離れると、後はただ果てしない海原である。
空を見上げると海とは別の蒼さが広がっていた。
「海の青と空の青はこんなにも違うんですね。」
エセルはじっと目の前の兄の顔を見つめた。
「兄上の瞳の色は、海の青さです。」
ファーゼの深く澄んだ青は空よりむしろ海に近い。
「ラジュアの姫も青い目だと言ってなかったか。」
「シェレン姫はもっと淡い色です。」
エセルは透明感を湛えたシェレンの瞳を思い浮かべた。
遥か遠いラジュアにもこの空と海は続いているのである。
かなり海で戯れたので、出立も遅れることになり、もう一度、海に落ちる太陽を
見たかったが、諦めるしかなかった。
しかし気を遣ってくれたのか、海岸線を選んで馬車を走らせてくれたようで、
ずっと窓から海の景色を楽しめたのが嬉しい。
エセルが興奮冷めやらぬ様子で、いつになく良く喋っている。
普段おとなしくても、やはり十四歳らしい無邪気な子供だ。
その夜、エセルは枕元に拾った巻貝を置いて眠りについている。
引いては返す波の音が耳に聞こえてくるような気がしたのだろうか。
ディザが近付くにつれ、迂回するかのように道を辿ってきたのだが、すでに予定場所を
視察し終えた後では、いつまでも郊外にいるわけにもいかない。
見慣れた街並みに帰ってきた日は、夜空に月が昇る時刻になろうとしていた。
リュオンの診療所に馬車で乗り付けるわけにも、一人で勝手な行動をとるわけにもいかず、
エセルは通り過ぎる窓の外を見ている。
「レナックを使いに出そうか?」
弟の胸中を察したかのようにファーゼが声をかけると、エセルは首を横に振った。
「いいえ。この時間では姉上もいませんし、兄上も往診中かもしれません。」
他に素性を知る人間がいないからといって、騎士であるレナックを毎回使い走りさせる
ことに遠慮もある。
王宮でもメイティムやデラリットが待っているだろう。
「帰ったら、一応文書にして視察報告しないといけないな。」
もうすぐ王宮の門が見え始める頃、ファーゼは憂鬱そうに呟いた。
「私も手伝います。」
「頼りにしてるよ。」
事後処理が済んだところで、今度は正式にシェレンとの縁組について話をすることと
なるだろう。
多分エセル本人が考えているより、事が運ぶのは容易ではない。
最大の難関は父メイティムだろうことは、ファーゼは黙っていた。
すでにエセルの心には最愛の女性としてシェレンがいる。
たとえ誰が知らなくても自ら求婚する形をとったのが、決してラジュアからの申し込みを
ただ受諾したのではないという、個人として真剣な証拠だ。
宮廷での波瀾が待ち受けているなど、おそらくエセルは想像だにせず、帰途に
着いたのである。
第二十三話 TOP