リュオンがファーゼに右腕を掴まれたまま、走りこむように庭園に面したバルコニーに
きたのは開始時刻直前である。
 待ち構えていたメイティムが、ほっとしたような表情をした。
 よもやすっぽかすつもりでははないかという懸念があったのだ。
 マリアーナとエセルが口を聞こうとしたが、身内の挨拶は後とばかりに、窓の方へと
追いやられる。
 歓声の上がる光景。
 かなり遠目とはいえ、群集の中に自分の患者が紛れていないことを心の中で願ってしまう。
 エセルの婚約がメイティムから正式に公表され、
「尚、シェレン王女との婚儀はラジュアにて、今年の夏に執り行なう予定である。」
 そう締めくくられると、さらなる拍手が耳に響く。
 夏と聞いてリュオンは驚いた。
 あと半年足らずとは、随分早い。
 他国との王族同士で結婚など、一年二年準備がかかることも当たり前なのに。
 ラジュアでは、シェレンを輿入れさせるわけでないので、花嫁道具も大仰にする必要も
ないのだろう。
 リュオンがあやうく不機嫌な顔にならずにすんだのは、多少はにかんだ微笑を浮べながら、
挨拶を返すエセルの姿が目に入ったからである。
 国の事情はともかく、きっと本人は心待ちにしているに違いない。
 想いが通じてはいても、会うことすら叶わないのだ。

 ようやくバルコニーから引き上げる際、出仕間もない者はおろか、古参の重臣達まで
リュオンを振り返る複数の視線があった。
「まさか陛下のご落胤?」 
「滅多なことを申すな。殿下に無礼であろう。」
 ろくに王子の顔を知らない人間が年長者にたしなめられる声が、あちらこちらで囁かれている。
 リュオンの栗色の髪は、亜麻色と金色の髪の兄弟の中で目立つのだ。
 ただ誰もがメイティムの王子だと疑わない。
 好奇の眼に晒されるのも、儀礼的な言葉を受けるのも面倒なので、足早に居間へと立ち返る。
 ちゃんと姫らしく装ったマリアーナを見るのも、子供の頃以来だ。
 明るく華やかなドレスを纏った妹に、「神の花嫁」から「人の娘」に戻って良かったと、
本気で思う。
 きらびやかな世界にも、いずれ慣れる日がくるだろう。
 新年の祝いの挨拶だけして帰ろうとするリュオンに、
「今日くらい、ゆっくりできるんじゃないのか。」
慌ててカルナスが呼び止めた。
「そんなこと、いつ言いました?大体、休診にはしてないんですよ。」
「呆れた奴だな。」 
 ファーゼが正月に患者が来るのか、と言いかけてやめたのは、何もこんな時に口論することも
ないと考えたからである。
「兄上、外は寒いです。せめてお茶を召しがっていきませんか。」
 エセルに引き止められると、リュオンも頷きながら、扉の取っ手に手をかけた。
「わかったから、着替えさせくれないか。こういう服は肩がこるんだ。」
 先刻、足を踏み入れたかつての自分の部屋。
 二度と戻らない気で飛び出したのは、十五歳の時。
 王宮で過ごした年月の方がまだ長いのに、遠い昔のように思える。
 慎ましい生活が身に付いた現在では、変わらないはずの部屋さえも空々しく見えてしまう。
 リュオンには町での暮らしが性にあっているのだ。
 やっと見つけた生き甲斐がある。
 得たものの多さが、何をも失って惜しいと感じるには及ばない。
 後悔するとしたら、マリアーナとエセルを手放したことだ。
 今の自分であれば、決して他所へ預けるなどしなかった。
 「守る」ということは言うに容易く、行なうに難い。
 二人の弟妹を支えるには、リュオンも幼すぎたのである。