第36話
風音にまぎれそうなほど、微かなノック。
夜半過ぎに、診療所の戸を静かに叩く者などなく、リュオンが起きていなければ、
あやうく聞き逃すところだった。
「…兄上…。」
雪も散らつこうかという冷え切った中、佇んでいたのはファーゼである。
「まだ、灯りが見えたから…。」
他に人影が見当たらないということは、また一人で来たのだろう。
「いくら兄上が丈夫でも、こんな寒い日に出歩いてたら風邪をひきますよ。」
リュオンが椅子に座ったファーゼの前に、淹れたてのハーブティーのカップを差し出す。
「…お前が出て行った日は、雨だった…。」
リュオンが言葉を失うと、ファーゼが俯iいていた顔を上げた。
「貴族嫌いの理由は、スローンのお祖父様が原因か。」
「聞いたのですか、あの話。」
「…母上が涙ぐんでた…。」
「母上を問い詰めたんですか!?私が言いたかったのは…!」
「まさか。父上に話を聞きにいって、母上に気付かれた。カルナス兄上は…。」
「落ち込まれているんでしょう?」
ため息まじりに、リュオンが語尾を続けた。
今頃は眠れなくなっているのではないだろうか。
多分ファーゼはじっとしていられなくなって、飛び出してきたに違いない。
「母上や兄上達のせいでは…。私はいずれ二人を連れて出て行く気でいましたし。」
「待てなかった理由は何だ?父上は快方に向かって、お祖父様も亡くなっていたのに。」
「父上が病床にある間、貴族達が何を言っていたか、兄上なら想像つくでしょう。」
聞きたくなくても耳に入ってくる声。
どんなに王子が多くいても、所詮はまだ子供。次の国王は若くて御しやすいかもしれない、など
宮廷中あからさまに飛び交っていた。
「マリアーナとエセルをどこぞの国と誼を結ぶ時にでも役に立つだろうなんて、噂でも許せなかった。
まして素性のわからぬ女の生んだ子供、誰の子かわからないなんて、ローネ母上を侮辱されて
我慢できるわけないでしょう!」
ほとんど私室にこもりがちだったローネに対して、どれだけ濡れ衣を着せようというのか。
絶対にマリアーナとエセルを道具のように扱わせない。
「また何かあった時に振り払えるだけの力はなかったから、後は王宮を出て行くしか…。私が武術に
熱心だったのは、ファーゼ兄上のように好きだったわけじゃない。庇いきれる力があればと。
随分な思い上がりだでしたが、守れる力が欲しかった。」
ローネが衛兵に取り込まれた光景が、リュオンの目に焼きついている。
駆け寄る衛兵に剣を抜こうとしたリュオンを制止したのはローネだった。
「いけません。リュオン様は王妃様の御子です。」
騒ぎにしてはならないという、配慮の言葉だったのだろう。
自分も辛い思いをしたはずなのに、誰をも恨むようなことは一切口にださないままだった。
「父上とローネ母上がお互いに想い合っていたなら、まだいい。だけど…。」
「子供の目から見て、わかるのか。」
「いつも寂しそうだったよ。」
デラリットもローネも控えめでおとなしい性格ということでは、似ていたかもしれない。
だがローネの、明らかに遠慮が先立った父への接し方は、仲睦まじいという表現に近いものでは
なかった。
「それでも私が遊びに行けば、笑ってくれたのが嬉しかった。…自分だけの母上ができたような
気がして…。兄上達もシャルロットもいるし、私がローネ母上のそばにいたところで、かまわない
と思った。もっとも、父上にそっくりだから、辛かっただけかもしれないけど…。」
ファーゼは弟に問いかけようとした言葉を飲み込んだ。
寂しかったのは、リュオンだったんじゃないのか、と。
上の二人とやや離れ三番目に生まれたリュオン、次に生まれたのは待望の王女シャルロット。
溺愛される妹に、いつも一緒の二人の兄。
幼かったリュオンが感じたのは、子供らしい嫉妬心ではなく、寂しさだったのではないか。