『思想・信条の自由を言っている場合じゃない』
橋下知事が許しがたい暴言
橋下府知事の言いたい放題、暴言もついにここまで来たか―。
4月1日、府庁で行なわれた今年度新規採用職員の《任命式》における発言のことです。
『君が代』斉唱のあと、知事は言い放ちました。
「思想・信条の自由と言っている場合じゃありません。国家・国民を意識してもらうため、事あるごとに国歌斉唱を求めていきたい」
『君が代』斉唱について
は、たしかにさまざまな意見がありますから、橋下知事が《賛成》の信条の持ち主であるとしても、公正であるべき行政の長が斉唱を「押し付けること」には慎重であるべきです。ところが、あろうことか「思想・信条の自由と言っている場合じゃありません」という前置きをつけての発言。
知事という《公人が公式の場》で思想信条の自由を「否定する」というのは、どういう神経なのか。
『思想・信条の自由』は民主主義のもっとも重要な根幹です。
橋下知事の暴言には《慣れっこ》とはいえ、この発言ばかりは黙過することはできません。協会としてもきびしく抗議していく予定です。
日露戦争期に佐野村で徴兵忌避者が4名
泉佐野市の市史には「1軍事大国と佐野」「2 日露戦争と泉佐野」「3 日露戦争後の植民地経営と地域社会」の章があります。
それに対応して「兵事書類」などの戦争関連資料も数多く収録されています。この点について、同市史は「なぜ兵事・軍隊・戦争をとりあげるのか」と自問、鹿野政直氏(早大名誉教授)の言葉を引いて以下のように答えます。
【20世紀の日本を概括すれば『日本は二つの意味で大国へと突き進んだ。前半における軍事大国への途(みち)、後半における経済大国への途である。そうしていま、それらの結果と向きあうことが、避けられない課題としてある』(日本の近代思想)】
ページをめくっていくと早速、興味深い資料が目につきました。佐野村(当時)出身の「徴兵忌避者」(もしくは逃亡兵士)について南日根郡役所が村長にあてた調査依頼と回答です。
【当村〇〇(氏名を塗りつぶし)同人義…逃亡セシハ…全く徴兵忌避或ハ民刑訴訟中ニモ無之然レドモ同人義ハ極貧ニシテ負債多ク、一時弁済ノ方法難相立ヨリ逃亡セシ者ナラント思考候…(後略)
明治二十二年十二月廿四日
日根郡佐野村長
道下 太郎与茂
南日根郡役所戸籍課長
松下 敏雄殿 】
煩雑を避けるために、引用は村長の回答だけに留めましたが、郡役所は「〇〇は徴兵忌避者ではないか」として調査を求めており、もし、そうであれば《思想犯》という疑念でしょう。
村長は「徴兵忌避ではない」と庇っていますが、それにしても「同人は極貧で負債が多く、返済方法も立たないほど困難」という逃亡の理由は、あまりにも哀しい現実です。
入営兵士の逃亡に関しては、ほかにも明治41年1月、3名の逃亡者が存在したことを歩兵第37連隊の中隊長から村長あてに報告している文書も記載されています。
このほかにも、日露戦争関連の記述と資料にも興味深いものが多くあります。
そのうちの1つ【敵国艦隊発見時の急報指示】を見ましょう。
【日本の連合艦隊が迎撃するためには、一刻も早い正確なバルチック艦隊の進路情報が必要であった。「指示」が佐野村役場に届いたのは(明治38年)4月20日であり、ただちに佐野の漁民に伝達された】
【…敵国艦隊之動静ヲ知悉スルハ刻下ノ急務ナル趣ヲ以テ、出猟ノ漁夫其他ニ…敵国軍艦及運送船ハ勿論、疑ハシキ諸船舶ヲ認メタルトキハ急速ニ其総叟数、進行方向及各船ノ檣数、煙突数等ヲ…官衙ニ届出シメ、該官衙ヨリ直ニ其筋ヘ急報スベキ旨内牒ノ次第モ有…別紙艦体図熟覧…御処置相成候様…命ニ依リ…御移牒候也】
佐野村長あてに泉南郡役所から出され指示です。もちろん、指示は全国的なものでしょう。
興味深いというのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』との関連です。
司馬はバルチック艦隊を発見した九州の漁民が、それを「官衙」に告げるためにとった行動を大いに賛美していますが、その行動は(司馬が書いたような)漁民の自発的行動というよりは、この指示に強くうながされていたと思われます。
泉南郡の岸和田、佐野、貝塚、田尻などの漁民は1895年頃からコリア半島南岸の馬山浦沖合方面に出漁、やがて【朝鮮海通漁組合】に組織されます。
【1910年にかけて、大阪府では550円〜1300円の奨励費が支出され…明治30年代後半には…100人をこえる場合もあった】
【その後、大正時代初期に導入されたトロール漁業や底曳網などの発展にともなう水産物市場の構造の変化…輸送コスト…などにより朝鮮通漁の優位性は失われ…1914年にそれは終焉を迎えた】
また、つぎの記述も注目されます。
【1902年には、朝鮮半島南岸の鎮海へ5戸が移住したが、軍縮による同地の衰退のため、継続的な移住もなかった】
(以下次号) |