「雨上がりまで」

 アパートから少し離れたところで止めてくれるよう頼んで降り、ふたたび静かに滑り出す車に軽く頭を下げて見送った。歩きたい気分だったので、少し遠回りして部屋に帰ることにした。視界いっぱいの空は、車に乗っている間にみるみる厚くなった暗い雲に覆われていて、まるで、ついさっきまでいた灰色の世界のようだった。本当は比べるべくもないのだけれど。
 鼻先に雨粒を感じたと思ったら、瞬く間に地面が黒くなっていく。雨を遮るようなものは持ち合わせていなかったが、かといって走り出すような意欲もなくて、垂れた髪から滴る水をそのままに歩いた。
 細い路地の脇を通り過ぎようとして、足が止まった。雨音に紛れて、猫の鳴き声がする。覗くと、塀の外まで張り出した庭木の下に、かろうじて雨を避ける薄汚れたカゴの中で猫が丸くなっているのが見えた。近づくと、猫は億劫そうに頭を持ち上げてこちらを見、すぐに前足の上に戻してしまった。拾ってくれそうな人間なのかどうかと一瞬で見分けられたことに苦笑して、カゴの前にしゃがみ込む。遠目には子猫のように見えたが、成猫だ。
 雨足が強くなる。アスファルトの上に出来た水の膜を雨粒が穿っている。この猫に自分を重ねる程感傷的にもなれないが、互いに求めるものは何もないというのに、なぜかこの場から動けなくなっていた。その程度には疲れているのかもしれないと、ぼんやり思った。
 どのくらいそうしていただろう。


「まったく嫌気がさす遭遇だな」

 耳に慣れた声が降って、と思うと、打ちつける雨が消えた。彼だった。
 驚いて、そのままの姿勢で振り仰ぐと、上から傘を差しかけていた彼が面白くなさそうな顔をして言った。
「あのな古泉、こんなところで猫と一緒に濡れそぼってたって、何もいいことなんか起こらんぞ?」
 冷えてこわばった頬を、染みついている微笑の形に動かして、ゆっくりと立ち上がる。
「あなたが来てくれました」
 いつものように冗談めかして言えば、ふん、と鼻を鳴らして彼は傘の柄を差し出した。
「俺がここを通ったのは本当に偶然だ」
 見れば、もう片方の手には子供用の小さなピンク色の傘が握られていた。
「帰りたくなったら帰ろうかと」
「お前は猫か」
 言う彼の眉間が寄せられた。
「お、」
 それまで大人しくしていた猫が、突然起き上がったかと思うと、背後の塀の上にひょいと飛び乗った。猫はこちらを振り返ることもなく、雨の当たらないところを選びながら、行ってしまった。
「ほらな、猫だって濡れるのを嫌がってどっか行っちまっただろ」
「そうみたいですね」
 差し出された傘は、二人の間で所在なく浮いたままだ。
「だからこれ持って行けよ」
 受け取ろうとしない僕にしびれを切らして、彼は腕に傘を押しつけるように渡そうとする。
「いえ、お気持ちは嬉しいのですが、この傘をお借りするわけにはいきません」
 おそらく彼は、妹をどこかに迎えに行く途中なのだ。大人用の彼の分の傘を借りてしまっては、帰り道が大変だ。彼は自分が濡れるのに構わず、小さな傘の中に妹をすっかり入れて歩くだろう。
「僕はもう、ここまで濡れてしまいましたので、傘がなくても大して変わりはありませんよ」
 そうして彼が黒い傘の方を差し出した理由も分かってしまう。可愛らしい傘を人に使わせることに躊躇したからだ。
「お前のことなんかどうでもいいんだ」
 これは俺の気分の問題だ、と言って彼は腕を引かない。
 どうしたものか。
 この押し問答をどうやって決着させようかと視線を泳がせて、少し低い位置にある彼の肩が目に入った。傘をこちらに傾けた分、雨にさらされた肩が、シャツの色を濃くしているのが見えた。
 次の瞬間、思わず傘を受け取っていた。二人の体を傘の下に収める。
 彼は、やれやれ、とでも言いたげな顔で、空いた両手でピンクの傘を広げる。
「お前んち、この辺なのか」
「ええ、歩いて数分といったところです」
 ならいいか、と彼は独り言のように呟いて、小さい傘を手に雨の中に踏み出した。
「それでは、お気をつけて」
 こちらも一歩下がって、少し笑う。彼が、無意識にだろう、可愛らしい傘をくるりと回したのだ。
「お前こそ、早く着替えろよ」
「はい。傘、ありがとうございます」

 じゃあな、と肩越しに片手を上げて彼が歩いて行くのを、数歩分だけ見送ってから背を向けた。次の曲がり角に姿が見えなくなるまで見ていたかったけれど、同時に、そうは出来ない自分がいることも知っていた。
 彼の気遣いや優しさをもらう度、それが彼にとっては本当に何でもない、ごく自然な振舞いなのだと分かっていても、何かを期待してしまいそうになる自分が現れる。自分自身でも正体の掴めない、でも確かにどこかで望んでいる何かを、与えてくれるのが彼だったらいいと思ってしまう自分に気づく。あってはならないものだと、その度に自分を戒める。望んでは、いけないのだ。

 少し、雨音が弱くなったような気がして、傾けた傘の端から空模様を見上げた。向こうの空に雲の切れ間が見える。夕暮れの淡いオレンジが射し始めていた。
 この雨が止むのも、そろそろだろう。

「雨上がりまで」(2007/06/29)