「おとなになれない」
「そのままサボるんじゃねーぞ、キョン」
「それもいいかもな」
谷口の声に軽口で返して、手早く弁当箱を片づけた俺は教室を後にする。さっきハルヒに言いつけられて、今の俺は古泉へのメッセンジャーになっている。必ず昼休みが終わるまでに古泉に伝えるようにと言われて、毎度のことながらなぜ俺には予告しないくせに古泉へは伝令(俺)を走らせるのかとか、どうせ未だに飽きもせず昼休みに校内をうろついているのならお前が自分で伝えに行けばいいだろうとか、今度は何をやらかそうとしているんだなどなど、言いたいことは瞬時にいくつも浮かんだが、何を言ったところでハルヒは聞く耳を持たず、不毛かつ無用な問答をするくらいなら、より少ない労力で済む伝令役を素直に引き受けた方がいい。それが俺の、少なくとも団長どのに対するスタンスだ。
長い廊下の端にある古泉の教室を覗くと、もう昼休みも終わりに近いというのに奴の姿はなかった。時間もあまりないことだし、癪だが奴は常時クラスの女子たちの視界に入れられているような存在だ、もしかしたら行き先を知っているかもしれないと思い、ドア近くに集まっているグループに声をかけた。
聞き出した話から不要な古泉情報を除いて要約すると、どうやら奴は、四時間目の体育の時間に調子が悪そうなところを発見され、保健室行きを言い渡されたらしい。
隣の棟の反対側の端にある保健室までは少し距離があるが、急げば間に合わなくもない。すでに別の古泉話で盛り上がり始めた集団に礼を言って――聞こえたかどうかは分からないが――俺は今度は保健室に向かった。
ところで、なぜ古泉をたずねて三千里みたいなことになってるんだ?
それぞれの教室に戻っていく生徒たちと逆行して俺は大股で歩く。こんなに足早になっているのは時間を気にしているからか?
ずんずん歩きながら俺は、段々腹立たしくなってきた。昨日の夜だって、ほんの数分だったが電話で話したんだ。他愛のない話しかしなかった。見抜けなかった俺も俺だが、あいつ、調子が悪いなんて一言も言ってなかっただろうが。なのに、体育の時間にそれを誰か――おそらく同じグラウンドにいたクラスの女子たちだろう。岡部が誰よりいち早く古泉の不調を見抜くなんてあり得ないからな――に見つけられ、授業を辞した。俺は、偶然ハルヒに言いつけられて教室に行かなければ知ることがなかった。たぶん放課後まで。それに、さっきの女子グループの会話も気になるぞ。聞きたくて聞いたわけじゃない。必要な情報を得るためには仕方なかったんだ。とは言え、あとで様子見に行ってあげなよ、とか、えっ一緒に行ってくれるんじゃないの? だとか、一人の方が古泉君喜ぶかもよ、とか、何だ何だ、名前も知らない他クラスの女子をお前呼ばわりするなんてのは俺のマナーに反するが、ここはあえて呼ばせてもらおう、お前らの誰かが見舞いに行けば古泉が喜ぶだって? 冗談じゃない。何をどう解釈すればそうなるんだ。いや待て、もう顔も忘れちまった女子たちに悪態をつく前に、古泉の野郎を責めるべきじゃないのか? あいつが周りにそういう幸せな勘違いをさせるような態度を取っているということだって、十分考えられる。普段、古泉と一緒にいるのを目にするのはハルヒと長門と朝比奈さんぐらいで、そして部室における古泉が満点好青年なのは任務やら責務やら妙な磁場のパワーバランスやらが絡み合ってのものだと知っていて、だから俺は、そう、つまるところ安心していたのかもしれない。……安心? 俺が? 古泉に?
目指していたドアが突然目の前に現れて、俺はすんでのところで立ち止まる。危うく衝突するところだった。ええと、どこまで考えていたっけ? いや、それより奴だ。
ノックをしても返事がない。俺はドアを引いた。
「古泉、いるんだろ」
養護教諭の姿はなかった。俺はまっすぐ、カーテンで仕切られている方のベッドに向かった。
「……どうしたんです?」
カーテンを払って顔を出すと、ベッドの端に腰掛けた制服姿の古泉が、少し驚いた顔でこちらを見上げていた。
「お前こそ、何してる」
「ここに来たということは、事情はご存知なんでしょう。休まなければ辛いという程でもなかったのですが、疲労気味なのは本当なので、一時間程眠らせてもらいました」
もしかして心配してくださったんですか、と古泉が微笑む。
「お前の心配なぞするか」
勢いに任せて歩いて来たせいで、俺の息は上がっている。最後の方はほとんど走っていたからな。
「では、そんなに急いで、何かありましたか?」
「お前が、」
「はい」
古泉はいつもの穏やかな笑みのまま、俺の言葉を待っている。古泉が、何だ。俺は何を言おうとしていたのだ。上下する肩と収まらない苛立ちが、考えるのを邪魔しやがる。そしてそれを助長するのが、いつもと変わらない古泉の様子だ。俺は、こんなに――
えっ、と驚く古泉の顔を俺は間近に見下ろしていた。少し伸びた古泉の柔らかい髪が白いシーツの上に散っている。俺は古泉の上にまたがるようにして、奴を押さえつけていた。
「待っ、」
そのまま、キスをする。苦しいのは、息が上がっているからだ。
顔を離して、もう一度古泉を見下ろした。
「お前のせいだ」
古泉は濡れた唇で、困ったような笑い顔を作る。「本当に、どうしたんです。こんなところで、誰が来るかも…」
「しようぜ、古泉」
古泉の言葉を遮って、俺は言う。
「お話でしたら、伺いますから」
古泉は困り笑いを崩さない。くそ。
「恐いのか? 嘘つきめ」
安い挑発だ。なぜこんなに必死になっているのか、自分でもよく分からない。だが、こんな安い挑発に乗るお前も、まだまだだな古泉。
一瞬にして、体勢が逆転した。今度は古泉が俺を見下ろして言う。
「あなたに嘘をついた覚えはありません」
ベッドに縫いつけられた手首はびくともしない。悔しいが腕力は古泉の方が上だ。ひょろりとした優男のくせに。
「来いよ」
でも怯んでなどやらない。お前は確かに言ったんだ。古泉一樹自身は、何があっても俺を一番に思うって。お前が。
「あなたの、せいですよ」
整えられた自分のネクタイに指をかけて、古泉がわずかに目を眇めてみせる。浮かんだ本気の色に、ぞくりとした。いいな、その顔。
古泉の顔がゆっくりと近づく。俺は目を閉じない。
「では、行きましょうか」
ドアの鍵を回して、むだに爽やかに古泉が振り返る。おい、ちょっと待て。
「何でしょう?」
「何でお前がここの鍵なんか持ってるんだよ」
『機関』とやらは、こんなところにまで手を回してるっていうのか?
いいえ、と古泉は笑って俺を促す。肩を並べて歩き出しながら、古泉は続けた。
「僕がやってきた時は、まだ養護教諭の方がいらっしゃいまして」
聞いてないぞ。
訊かれませんでしたし、と古泉はうそぶく。
「午後から外出するからと言って、ベッドを使わせてもらうことになった僕に、これを」
言って古泉は鍵を胸の高さに持ち上げてから、ブレザーのポケットに落とす。「あとで職員室に返しに行かなくては」
「ということは、お前、」
むくむくと、疑念が確信に変わっていく。
「ええ、お察しの通りです」
涼しい顔で古泉が言う。こいつは、午後の保健室に、少なくとも部屋の主である養護教諭が戻っては来ないことを知っていたのだ。
「ですが、まさかあなたがご自分で鍵をかけるとは思いませんでしたよ」
……何だって?
思わず立ち止まった。
「やはり、お気づきではなかったんですね」
数歩先で、古泉も立ち止まる。
「気づいてないも何も、そんな事実はないぞ」
「さっき僕たちが部屋を出た時、内側から鍵を開けましたよね」
「あ」
確かに。古泉が内鍵に手を伸ばすのを、俺は後ろから無感動に見ていた。
でしょう? と古泉は手のひらをこちらに向けた。「ノックの返事をほとんど待たずに入って来たあなたがかけたんです。おそらく無意識に」
古泉の指摘に、顔に血が上るのが分かった。他の誰でもない、俺が部屋を密室に仕立てていたのだ。しかも、無意識に。意識的にやったのよりタチが悪い。
俺は無言で古泉に並び、そのまま追い越して足を速めた。もう一つの疑いも、俺にとって愉快じゃない方向に転びそうな気配がしたからだ。
「でも何と言いましょうか、先程のあなたは、その、」
最高速度の制限されている俺にやすやすと追いついた古泉が、めずらしく言いよどむ。言いにくいのなら言わんでいい。というか、言わないでくれ。嫌な予感しかしないぞ、もはや。
「いつもより艶めい…てっ……」
俺の肘が古泉の脇腹にめり込む。思ったより軽快に決まったな、今の。
しかしこれで、やはり確定だ。途中でおかしいと気づいて、だがその時にはもうどうしようもなく、またどうでもよくなってしまっていたのだ。
気づかなかったわけじゃないんだぜ。お前が挑発に乗ってきたのは、ただのフリだったってな。
……負け惜しみのようにしか聞こえないだろうが。
「おとなになれない」(2007/07/05)
テレカのけしからんキョンを自分なりに表現してみました。