――こわい。
でも行かなければ。
――いきたくない。
それでは世界が。
――せかい?
何を信じたらいいのか分からない世界なんて。
――だれか。
誰を呼べるものか。こんな、
「こいずみ」
呼ばれたような気がして、立ち止まる。振り返る。
差し伸べられた手に向かう自分の腕は、記憶よりいくらか骨ばっていて、ひと回り伸びやかな、そして見慣れたブレザーの群青をまとう。ああこれは――
「あなたがくれる、」
「――ずみ、古泉」
右肩に強い力を感じて、はっとする。開いた視界に、間近から覗き込む彼の顔。
「起こして、よかったよな?」
眉を寄せて、案じるような表情だ。
「……は、」
はい、と言おうとして、こわばった全身に声が阻まれる。
「夢でも見たのか」
夢。そうだ、またあの夢を見ていた。夢であり、かつての記憶でもある。
「すみません」
やっとそれだけ出した声は、少し震えてしまったのかもしれない。
「なんで謝る」
肩に置かれていた手が頭の上まで伸びたかと思うと、手のひらと腕の内側で、ぐいと引き寄せられたのだ。胸元に抱え込まれる格好になった。
言っておくが、とふたたび声が降った。体の中に直に響くような距離から。
「俺はお前の境遇やら役目やらを、かわいそうだとか不憫だとか思って付き合ってるわけじゃない」
言い聞かせるように。
「はい。知っています」
今度は少し、ましな声になった。
知っているが、けれど、とも思う。たとえ同情や憐憫であっても、彼がくれる感情ならば自分は嬉しく思うのに。矜持や自尊心の及ばないところに、気づくと彼は存在していたのだから。
「けど、こうするぐらいならいいよな」
「……はい」
さっきとは別の情動で声が揺れた。
まただ、と思った。そうして、自分がひどい顔をしていたのだと遅れて気づく。
あの時も。
ひどい顔をしているに違いないと思った。だから見られたくないと思った。彼の問いかけに俯いたまま何も返せないでいたら、前触れもなく、顔を上げさせるように前髪を掴まれた。らしからぬ乱暴な振る舞いに驚いて目をみはると――顔が近づいて唇が触れた。始まりというなら、それは出会いなのかもしれないが、確かにあの時、僕たちはもう一度始まった。
こちらが見せたくないと思うものを彼は、目をそらしたり背中を向けるのではなく、腕の中の至近に抱えようとする。今だってそうだ。見られたくない、でも受け入れて欲しいと本当は望んでいるのを見抜いて、叶えてしまう。それも、何でもないことのように。だから惹かれた。
「よく見るのか」
過去の出来事をなぞる夢。実際の出来事とは少しずつ形を変え、細部は具体性を失っていくのに、それとは反対に、恐怖や混乱ばかりが鮮やかな。
「以前に比べたら、ずいぶん減りました」
本当のことだった。去年の冬の初めから、そして早い春の頃を境に。
分かりやすいですよね、僕も、と続けた声は、鼻先の体温にぶつかって緩やかに溶ける。
「いいんじゃねえか、分かりやすいぐらいでさ。いつもお前は物事をわざわざ小難しくしやがるからな」
そう言われて、苦笑する。今も、まだ声に気遣わしげな色をにじませる彼に、夢の内容をどのように説明しようかと思案していたからだ。夢の中の自分の姿が制服を着た現在のそれになっていたのも、これは夢だと気づいたのも、初めてのことだったんですよと、伝えたら彼は安心してくれるだろうか。
伝える代わりに、体の脇で竦んだままになっていた両腕を、そろそろと伸ばして背中に回した。
「落ち着いたか?」
「ええ。せっかくあなたが甘えさせてくれそうなので、堪能させていただかこうかと」
「なら、あと十秒な」
えっ、と声を漏らすと、
「真に受けるなよ」
そう小声が返って、照れ隠しなのか、彼の腕に力が込めれられる。
痛いぐらいの力が少し苦しくて、心地よかった。
あなたがくれる、これ程の。
「あなたがくれる、」(2007/07/26)