「なつかげ」

 日陰を選んで少し先を行く古泉の後ろを、全身を包む熱気にめげそうになりながらも、自転車を押して黙々と歩く。今が日中最高気温あたりなんだろう。少しは暑さがマシになるような時間帯にすればよかったと思うも、ことわざ通り、後悔ってやつは先には立たないものだ。いつもならどうでもいい話の二つや三つ、頼まなくても提供してくるくせに、今日の古泉はだんまりで、それがいっそう、うだるような暑さに拍車をかけている。まわりくどく暑苦しいと感じる古泉の喋りより、暑気の中での沈黙の方が場合によってはこたえるというのは、新しい発見だな。
 俺は無言で古泉の背中に呼びかけることにした。おい古泉、何か話せ。暑い上に重苦しくてかなわん。
「そこの公園で、少し休んでいきませんか」
 驚いて足が止まりそうになった。こいつはエスパーか。あまりのタイミングのよさに、振り返って声をかけてきた古泉の顔をまじまじと見てしまう。と、古泉は、俺の視線を避けるように顔をそむけて、ふたたび先に歩き出した。
 何だ? 普段は口頭注意が必要なぐらいの近さでもって話しかけてくる奴が、まるで人の目が苦手だとでもいうような今の反応は。そんなに不躾な視線だったなら謝るが、それなら俺は毎日こいつに詫びを入れなければならなくなるぞ。
 思えば、さっき待ち合わせた時から、古泉の様子はおかしかったかもしれない。いや、それなら、昨日の別れ際からだ。


「なあ古泉、お前もまだ終わってないって言ってたよな」
 ハルヒに連れられて行ったバッティングセンターの帰り道、古泉と二人になった時を見はからい、俺は奴に話を振った。ハルヒ主導のSOS団夏イベントではなく、夏休みの課題を片づけるための勉強会という俺イベントだ。ハルヒの奴は七月のうちに終わらせてしまったというし、教えを請おうものなら、どんなスパルタが待っているか分かったものじゃない。長門は前に答案を見せてもらったことがあるのだが、解法や計算式を全部取っ払った答えのみで成り立っており、参考にするにしても写すにしても俺には敷居が高い。一番ご教授願いたい朝比奈さんは、上級生であるため残念ながら課題自体がまるっきり異なる。SOS団以外に目を向けても、谷口は論外、国木田は確か毎年、夏休みのこの時期は家族旅行で不在のはずだった。
 というわけで、消去法から導き出された結論として、俺は古泉を誘ったのである。
「宿題、一緒に片づけちまおうぜ」
 というか、すまんが数学と物理は写させてくれ。
 隣を歩く古泉は、軽く目を見開いて、一瞬、足を止めた。俺はその反応に少々面食らう。まさかお前、宿題の存在を忘れていたわけじゃあるまいな。俺でさえ多少は手を付けてたぞ。二ページぐらい。
 すみません、承知しました、と古泉はすぐに微笑を戻し、
「それでは、どこで…図書館にでも、」
「お前んちはだめか?」
 また古泉の表情がわずかに固くなった。ような気がした。
 図書館だと閉館時間までに終わるか分からんし、俺の部屋だと妹の侵入を防ぎきるのに気力ゲージの四分の一ぐらいは消費されそうだと思ったからだが、都合が悪いならいいんだ。
「いえ、結構ですよ。分かりました」
 では待ち合わせしましょう、と言って、そっと顔を伏せた古泉は、腕時計に目をやるフリをして、何か別のことを考えているようにも見えた。


 聞いていた所要時間からして、古泉が一人暮らししているというアパートは、もうかなり近くだろうと思われたが、待ち合わせた駅前での挨拶からこっち、無言を通していた古泉が口にした提案だ。課題を写させてもらうという恩義もある。付き合うことにして古泉に続くと、言葉通り、すぐに小さな公園が現れた。遊具はブランコと砂場ぐらいで、あとはベンチが二つと、広さに不釣合いな程立派な木々がその上に枝を伸ばしていた。
「こんなところ、あったんだな」
 前に近くを通った時は全然気づかなかったな。
 足を踏み入れて、ぐるりと見渡した。敷地の半分ぐらいが木の影に覆われているおかげで、路上よりはいくらか涼しげだ。ほっとする。これで近くに自販機の一つでもあればよかったんだが。
 俺たちは、二つあるベンチのうち、入り口から離れた、覆う木陰の色濃い方に並んで座った。
 ――その時だ。目の前の光景が、ばちり、と散った。断片が同じ景色と重なる。
 この公園、このベンチ、の感触、落ちる陰、ぬるい風、が揺らす葉のざわめき、蝉の声、隣には古泉、俺の手は古泉の、俺は古泉と、何を? 顔を離した古泉の表情は――
 勢いよく隣を振り仰いだ。古泉がこちらを見ていた。
「お、まえ、俺に何を」
 違う。そうじゃない。古泉が俺に、ではない。今見えた光景、は。
「俺は、」
 古泉ではなく、俺が。俺が古泉に――、
「お前に、何をした…?」
 古泉の顔には暗い木陰が落ちて、日射しに慣れた目では細かい表情までは分からなかった。目だけが、俺を見つめる瞳だけがその中で、鈍い光を放っていた。
 ざあ、と大きな風がベンチを覆う影を揺らす。まだらになった陰から射し込んだ光に眩しそうに目を細めて、古泉は口を開き、しかし何も言わずにまた唇を閉じた。声に出来ない言葉を込めたような目で、ただ俺を見る。
 俺がここに来たのは初めてで、古泉と一緒にというなら、それはなおさらはっきりしている。だが今見た光景は、ただの既視感というには鮮やかすぎて、無意識下の願望や妄想というにはリアルすぎる。
 俺は知っていた。掴んで力を込めた古泉の肩の骨の形も、もう片方の手を差し入れた、少し湿った髪の柔らかさも、深く合わせた唇の甘さも、顔を離した古泉の濡れた瞳も、それから――
「古泉、お前も、」
 知っているのか? 祈るような、けれどそれを自分に許してはならないとでも思っているような、そんな目で俺を見るお前は、何を知ってる?
「僕、からは」
 ようやく古泉が、押し出すように言葉を音にした。
「すみません。僕からは、何も言えません」
 言えないんです、と古泉は重ねる。「あなたをここへ連れて来てしまった。それだけが事実です」
 俺は、古泉が泣き出すんじゃないかと思った。それぐらい、声はか細く震え、目の光は頼りなげに揺れていた。
 これがどういうことなのか、まったく見当もつかないし、そもそもこんな出来事自体、理解や説明など不可能だ。だが、おそらく俺と古泉は、あの光景を共有している。そんな気がした。理屈ではなく。あまりに鮮明な映像と感覚の中に、俺たちはいた。この場所へやって来て初めて見た、記憶にはないはずの光景を、確かに俺は知っていた。昨日の別れ際からの、いつも通りとは言いがたい古泉の様子も、もしこの同じ光景を俺より先に見て――あるいは、思い出して――いたのだとしたら。
 言葉を手放して俺を見る古泉は、まるで、俺の中に別の俺を探しているようにも見えた。
 よせよ古泉。今、お前の目の前にいるのは俺だろうが。
 不意に俺は、自分の驚きと戸惑いが、別のものに形を変えていることに気がついた。気づいてしまった、というべきか。
 信じられない、という目で古泉が俺を見つめ返した。俺の右手はあの光景と同じように、古泉の肩を掴んでいた。
「悪い、古泉」
 古泉が何に囚われているのか、俺の中に何を求めているのか、俺には分からない。なのに、それを踏み越えて、自分勝手な振る舞いをしようとしている。ひどいことをする、と自分でも思うが、止められそうにない。
「…っ、」

 すまん古泉。
 俺は、俺の知らないはずの光景を知っている俺に、胸の芯が疼くような感情をお前に抱く自分に、

 ――嫉妬したんだ。

「なつかげ」(2007/08/30)

ループする夏の話、ひとつめ。みっつめに続きます。