「ハロー、ワールド」
体のあちこちが変な感じだ。そのせいで目が覚めちまった。
動かした左腕が隣の体温にぶつかり、俺は思い出すまでもなく、瞬時に状況を理解する。ここは古泉の部屋で、加えて言うなら、狭っくるしいパイプベッドの上だ。
まだ眠っている様子の古泉を起こさないよう最小限の身動きで落ち着ける姿勢を取り、俺は小さく息を吐いた。
大丈夫だ。
何が大丈夫なのかって、それは俺のいろんな部分がだ。変わってはいない。古泉とこうすることで、俺の中の何かが大きく変わってしまいはしないかと、俺自身より、古泉の方がそれを怖れているようで、だから俺は、何も変わらなかったことを自分で認識出来て、安心したのだ。俺の古泉への感情に変化はないし、視界が昨日までとはまるで変わってしまったということも、また、ない。
そして、昨夜の出来事のおおまかな感想を述べるなら、こんなものか、であり、古泉の名誉のために言っておくと、奴が下手くそ――経験がないので他と比べようはない。念のため――だったとか、期待外れ――俺は初体験なるものに夢見る少女のごとき存在ではないが――だったというわけではない。と思う。が、やはり言葉にするなら、こんなものか、だ。
途中、どちらが上になるかで見解の相違があり、二人して顔を見合わせるという間抜けな場面もあったのだが、物事というのは、収まるところに収まるものらしい。決して、古泉が決意をたたえた切なげな表情でもって、僕があなたにするのではいけませんか、などと訴えてきたからではない。と言わせてくれ。
となると、あとは古泉だ。
古泉の奴は、俺がそのつもりで、自分の意思でこの部屋にやって来たというのに、それでもまだ、俺に触れることへのためらいを捨て切れずにいたようだった。
何をそんなに怖れたり、ためらったりする必要がある。俺たちが男同士だからか? お前が、一般的とは言えない組織に所属している人間だからか? それとも、お前が再三、口にする、うちの団長どのの精神状態を左右するとかいう何かのせいか? なら、お前の意思は。お前を押しとどめる要因をすべて脇に除けて残る、お前自身の気持ちはどうなんだよ。
そう思ったから、俺は言ったのだ。お前が本当に俺の手を拒むのなら、もちろん尊重する。だが、そうじゃないなら俺は――
「ん、」
……驚かせるなよ、古泉。
俺は視線だけを横に向けて、ゆっくりと開いていく古泉の睫毛を見た。知っていたが、あらためてスローモーションで見ると、一段と長いな。
開いた目が、ぱちり、と一つ瞬きをする。
「あ……」
俺は、奴の声に驚いてしまったことを悟られないよう、寄せた眉の下で細めた目をもって応戦した。応戦も何も、ビジュアル面での勝敗は火を見るより明らかなんだが。
「え……と、」
もしかしてお前、何らかのショックで、言語を忘れるとかいう劇的な変化を起こしちまったわけじゃあるまい――
「なっ」
「夢、じゃ、ないんですね」
……どこから突っ込めばいい。
俺にここまでアクティブな行動を取らせておいて、夢じゃないのかと抜かしやがったことにか? それとも、言葉を思い出すが早いか、素っ裸の男の肩から上の自由を完全に奪いやがったことにか。そうでないなら、香水の類は使っていないと言っていたのに、やっぱりなぜかいい匂いがする――と脳に信号を送ってくる俺の嗅覚にか……って、いや待て、それより、これは……かなり本気で苦しいぞ!
「っつ、」
「は、あっ」
押しつけられていた肌に思い切り噛みついて、奴がひるんだ隙に、なんとか間に腕を入れる。呼吸を確保することには成功したが、これはこれで、ものすごくありがたくない体勢かもしれん。なぜなら、古泉の整いまくった顔――しかも今の奴は、いつも部室で見せるものとは少し種類の違う嬉しそうな顔に、妙な色気のようなものが加えられている――が目の前にあり、俺の凡庸な顔などそんなに見つめたところで、これ以上どうにもならんぞと言ってやりたくなるくらい、俺の顔面に視線が注がれてくるのだ。
俺の二重の抗議の視線がやっと伝わったのか、古泉は、すみません、と言って、はにかんだように小さく笑った。うっ、これはちょっと、思わずほだされそうになるぞ。俺の方こそ、他の伝達手段が封じられていたとは言え、いきなり噛みついたりして悪かったな。
「いえ。それより僕は、」
古泉は、ふわりと目を伏せてから、
「あなたに謝らなければなりません」
少し色を変えた、真摯な眼差しで俺を見つめてきた。
「お気づきだったかもしれませんが、」
古泉が言おうとしているのは。
「僕は、怖がっていたんです」
言って古泉は、自分の内側に向けたような苦笑を浮かべた。
「僕が『機関』の人間であることも、本来ならば最優先に考えなければならない、今の僕の存在意義に関わることも、僕を立ち止まらせる理由の一つでした」
古泉の目は俺を見据えている。
「ですが正直、一番怖かったのは、あなたのことだった」
感情を映して、その瞳が揺れた。
「一度あなたの手を取ってしまえば、あなたへの気持ちに歯止めがきかなくなってしまいそうで、抑えられる自信がなくて……」
俺は古泉の言葉を待つ。
「その重さが、あなたを怯えさせはしないかと、僕に手を差し伸べたことを後悔させてしまいはしないかと、あなたの傍にいたいと思えば思う程、僕は怖くなったんです」
気づけば俺は、鼻を鳴らしていた。
「ずいぶん見くびられたもんだな」
一瞬、驚いたように見開かれた古泉の目が、
「すみません」
そのまま、柔らかい笑みの形に変わった。「ですから、謝罪しなければならないと――」
「いや、謝らんでいい」
俺は古泉を遮った。「俺は変わったかもしれん」
「え……」
古泉の微笑が、着地に失敗して固まった。器用な真似をする奴め。
そうだな。口に出して言ってはやらんが、古泉。確かに、さっき安堵した通り、俺の中で世界の色彩が反転することも、ましてや、お前が怖れていたような心情の変化なんてものも起こらなかった。だが、本当に何一つ変わらなかったのかと言えば、嘘になることに気づいたんだ。
俺にだって、お前程ではないにしろ、迷いやためらいがなかったわけじゃない。ただ、俺よりも足取りの危なっかしく見えるお前に向かう気持ちの方に、いくらか傾いていただけでさ。
それが、今はどうだ。こうして多少強引にでも、お前の手を取ってよかったと心の底から思うし、まあ少なくとも、
「古泉。目、閉じろ」
「……あの、それは、」
「いいから早くしろ」
「は、…っ」
こういうことをやってのけてしまうぐらいにはな。
「ハロー、ワールド」(2007/09/22)