「降る夏」

「これ、お前のなんだろ」
 長門さんを除いた二人を駅まで送った帰り道。
 ひとしきり、現状の打開策についての意見を述べ合い、結論が出ることもなく明日の予定などを確認して、ふと落ちた会話の切れ間に、彼がつぶやいた。
「え……、はい。僕が用意したものです」
 雑談の続きのようにも、独り言のようにも聞こえた声に、一拍、反応が遅れた。
「そういう意味じゃなくて、」
 案の定、見当違いの返答をしてしまったようだ。
「お前の持ち物だろ、って訊いたんだ」
「……はい」
 驚いた。そんなことを彼から指摘されるとは思わなかったからだ。
 ああ、いや、と彼は三脚を入れたバッグを反対側の手に持ち替えて、
「別に何かを問いただそうとか、そういうんじゃなくてだな」
 僕の驚いた様子を気にしたのか、そう言い加えた。
「なぜ、そう思ったんです?」
 確かに、今夜持参した天体望遠鏡は、『機関』を通して用意したものではなく、僕自身の所有物だ。
「扱い方とか、」
 彼は言葉を探すように区切り、
「それに触ってる時の、お前の表情だとか」
 こちらの手にある鏡筒用のキャリーケースに視線を送ってから、顔を上げた。「ああいう顔、初めて見た気がしたから」
 もう一度驚く。彼が自分を見ていたこと、普段見ているのとは異なる表情に気づいたらしいこと。そして、それを口にしたことに。屋上での自分は、彼の目に、いったいどんな風に映ったのだろうか。
「変なこと言ったな。悪い、忘れてく――」
「いえ、違います!」
 無言を別の意味に受け取り話を終わらせようとした彼を遮っていた。慌てて上げた声は思いのほか大きく夜道に響いて、彼の目を丸くさせる。
「すみません。少し驚いてしまって」
 謝ると、ふ、と彼の表情が和らぐ。
「そんなに驚かせるようなことかよ」
 何気ない一言でも、今の僕にとっては。
「ご指摘の通り、この望遠鏡は僕の私物です」
 三年前、『機関』の迎えが来て家を出る時、一緒に持ち出したものだ。それまでの日常はもう振り返るまいと決めたはずだったのに、これだけは手放しがたく、最後に手荷物に加えたのを覚えている。
「じゃあ、趣味だったってのも」
 自宅のベランダから眺めたことも、家族で週末に遠出をしたことも。
「ええ。中学に上がる頃までは、よくこれで空を見上げていたものです」
 そう言ってケースを軽く持ち上げて見せると、彼は一瞬、言葉に詰まり、
「……そっか」
 とだけ言った。過去形になる表現に、今の僕の境遇が思い当たったのだろう。
「でも今日は、楽しかったです」
 本当だった。久しぶりに、無心でこれに触ることが出来た。点検のために部屋で一度組み立てた時にも、長らく忘れていた、心の弾むような感じがよみがえった。
「そうか」
 彼は、街灯が照らす道の先に視線を戻した。「なら、よかったな」
「はい」
 それに。
「いい思い出になりました」
 しまい込んだ過去を、彼がささやかな断片から見つけてくれた。そのことに純粋な嬉しさを感じる自分と出会った驚きも含めて。
「思い出、ってお前」
 と、呆れ顔にも似たような表情がこちらを向いた。
「え?」
 何かおかしなことを言ってしまっただろうかと聞き返すと、
「楽しかった思い出は結構だが、べつに、これきりってわけでもあるまい」
「天体観測が……ですか?」
 この夏のイベントとしての天体観測会は無事終了した。この望遠鏡は、手入れをしてから、元通りクローゼットの奥にきちんとしまうつもりだ。
「また、長門のところの屋上を使わせてもらってもいいだろうし」
「はあ」
 意図を測りかねる彼の言葉に、気の抜けた相づちを打つ。
「今回はすぐに場所が決まったから、言う必要はないと思っていたが、」
 それにさすがに五人は無理があるしな、と彼は小声を挟んで、
「うちに屋根裏部屋がある」
「屋根裏、ですか」
「と言っても、半分ぐらいは物置になってるんだが、ちょっと片づければ使えると思う」
 そこで彼は、何かの大きさを示すように、空いている方の腕で空中にやや縦長の四角形を描いた。「天窓があるんだ」
「天窓……」
 彼の家の、天窓付きの屋根裏部屋。
「そこにお前を招いてやらんでもないぞ」
「僕を?」
 思わず、隣を歩く顔をまじまじと見てしまった。
「参加条件は、それだ」
 言って彼は、目で僕の手元を指す。
「だから、これが最初で最後、みたいな顔はしなくていい」
「あ……、」
 本当に、どうして。
「……りがとう、ございます」
 今日は驚かされてばかりいる。もしかしたら彼は、こちらが思っているよりもずっと、僕に親しみを感じてくれているのかもしれない。そう思ってしまいたくなる。
「それにまあ、そもそも、昨日長門から聞いたアホな話の通りなら、俺たちの天体観測会は、すでに何千回と行われているわけだ」
 覚えていなくてもな、と続けた彼の、苦笑混じりのような、それでいて妙な安心感を与えてくれる声と表情を僕は見つめる。
 何千回と行われたであろう天体観測会。これまでの何度かの屋上でも、彼は天体望遠鏡に触る僕の表情に気づいて、幼い頃の趣味がこれだったという言葉は本当だと、しまい込んだ過去をすくい上げてくれたのだろうか。
「秋や冬に見頃の星座や天体だってあるんだろ?」
 そしてこんな風に、先へと続く約束をしてくれるのだろうか。
「そう、ですね」
 ループする夏休みから抜け出せないという途方もない状況にあるというのに、胸の奥の方からじわりと、暖かい気持ちが染み出してくるのを感じる。覚えてはいない。けれど、数え切れない程繰り返される夏と一緒に、この気持ちも確かに自分の中に降り積もっているのだと思うと、どこか嬉しく、幸福な心持ちだ。
「そのためにも、だ。やれるだけやってみようぜ」
 ずっと夏にいるのかと思うと他の季節が恋しくなるしな、と彼が笑って見せる。
「はい。僕も出来るだけのことはするつもりです」

 覚えていたい胸に積もるこの気持ちと、その先に待つ季節のために。

「降る夏」(2007/10/11)

ループする夏の話、ふたつめ。