「教えてくださいね」

「悪い、古泉。もう一件、見てもらってもいいか?」
 足早に彼が検査室に飛び込んできたのと、最後のモニターの電源を落としたのとが同時だった。
「ええ、いいですよ」
 すぐさま、もう一度電源に指を伸ばしながら、振り返る。「先生が直接お持ちになるなんて、めずらしいですね」
「先生はやめろ、先生は」
 まあ時間が時間だし、最後の診察だったからな、と彼は、診察室で直接採血してきた容器を差し出す。
「そう言われましても、公私の区別はきちんと付けたいと思っていますので」
「まあ、それは必要だと思うが、お前に呼ばれると、むずがゆいんだよ」
 僕が採血容器を受け取ると、彼は手近な椅子を引き寄せて座った。
「すまんな、時間外に。あとでコーヒーおごるな」
「お気遣いなく。あなたがここまで来てくれたことが報酬になりましたから」
「……あのな。さっき公私がどうのと言った奴のセリフかよ」
 眉間に寄せられたしわに、僕は笑う。
「あなたのここでの姿、好きなんですよ」
 小児科医長の肩書きが付いた今でも彼は時々、自分に医者など似合わないとぼやくが、医師は彼にとって天職だと僕は思っている。彼は患者に寄り添うタイプの医師で、どんな時でも、彼が作る表情や、その声も手も、相手に深い安心と信頼感を与える。それは彼の揺るぎない性質で、出会った頃から今も変わらず、僕もその恩恵を与えられている。そんな彼への好意的な評価が、内外からを問わず、検査室にいる僕のところまで聞こえてくるのも、当然だろう。
「こんなの、毎日見てるだろうが」
 確かに彼の言う通りだが、それでも、もっと見ていたいと思うのだから仕方がない。いつでも首から下げたままの聴診器も、胸ポケットを重くしている何本ものペンも、あまり年若く見られるのもよくないなと言って少しだけ顎に残しているひげも、最近かけるようになった眼鏡も、とてもよく似合っている。
「いいじゃないですか。初心を忘れたくないんです」
 彼が将来進む道を決めたから、僕もここにいるのだ。彼が進む道で、自分にも手伝えることがあるのならと、進学する学科を選んだ。同じ医師にしなかったのは、その方が自由がきくと考えたからだ。伝えた時、彼は、主体性のない奴め、と感想を述べたが、僕が将来に目指す職業を決めたことを一番喜んでくれたのも彼だった。それに、じつは僕も知っている。
「あー、分かった。この話題はおしまいな」
 相変わらず、面と向かってストレートな言葉を投げられるのが苦手な彼は、先に着替えて来るわ、と言って椅子から立ち上がった。「コーヒーは、やっぱやめる。今日は早い方だし、外で飯食ってこうぜ」
「分かりました。いつものところで?」
 同居しているマンションと病院のちょうど中間ぐらいに、行きつけの定食屋がある。上がる時間が一緒になれば、寄ることが多い。
「いや、今日は駅前に出ようと思うんだが、いいか? うちの主任に聞いたところがあったのを……」
「主任にですか?」
 思わず聞き返していた。
「何だ」
「いえ、駅前に新しくできたビストロでしたら、僕も主任からお聞ききしていたので」
 夫婦二人でやっている洋食屋で、座席の数は少ないが、と主任には、こう聞いたのだった。
「雰囲気があって、恋人同士で行ってみたらどう――」
「いいワインを出すって聞いたんだよ」
 気まずそうな横顔が見えた。驚いて聞き返してしまったが、黙っていた方がよかっただろうか。そうは思っても、笑顔がこぼれてしまうのを止められない。
「ああ、そうでしたね。ワインが」
 笑みの形に弧を描いた唇のせいで、僕の声は笑いをこらえている風になってしまった。
「……お前の車で行くからな。俺だけ飲む。お前は水だ」
 口早にそう言い置いて、止める間もなく彼は出て行ってしまった。
「そんな……外で飲むの久しぶりじゃないですか」

 知ったのは、つい最近のことだ。街で偶然会った涼宮さんと喫茶店に入った時に、今思い出してもまったく腑に落ちない、という様子の彼女から聞いた話だ。
『キョンのやつ、お医者なんてちゃんと出来てるの? あいつが医学部を目指すって言ってきた時は本当に驚いたわ。あんまり青天の霹靂だったから、問い詰めたのよね。何でよりにもよってお医者なのよ、って。そしたら――』
 彼は話したがらなかったそうだが、涼宮さんがしつこく食い下がるので、一言だけ答えたのだという。
『古泉を見てたら、思い立ってな、ですって。あたし、あの時ばかりは本気で理解不能だったわ。だって、あの頃、入院するぐらいの経験があったのは、あたしたちの中でキョンだけだったし、古泉くんが大怪我をしたとか病気になったとか、そんなのなかったわよね?』

 いつか彼の口から直接聞ける時まで、このことは自分の胸にしまっておこうと思った。それから、彼のその告白に何と言葉を返そうか、時間をかけてゆっくり考えようとも。最初の言葉だけは決まっている。

「教えてくださいね」(2007/11/19)

臨床検査技師古泉×小児科医キョン(30歳)の未来妄想パラレル。