「ひみつのよくじょう」

 明る過ぎも薄暗くもない光に満ち、足音を吸い込むような上質の絨毯が敷かれた廊下を、古泉と並んで歩く。
 すぐ先の中央階段から広間に降りて左手側の通路を進めば、浴場と表現した方がいいような広さを持つ浴室がある。向かっているのはそこだ。確か手前から四つ目だったか。全部のドアが一様だから、開けてみないと分からないな。

「さっきから難しい顔をなさっていますが、ゆっくりとお湯につかって、心身の疲労を癒すのも必要ですよ」
 隣から掛けられた声に、思わず古泉の顔を見返してしまう。
「何か、おかしなことを言いましたか?」
「あー、いや」
 少し意外な感じがしただけだ。
「気を悪くしたらすまん。お前がそう言うの、ちょっと意外でな」
「と、言いますと」
 こいつとの付き合いも、かれこれ半年を過ぎた。決して長いとは言えない期間だが、共にSOS団の一員として、ハルヒに振り回されながら、だがあいつ本人には明かせないようなトンデモ現象を大なり小なりやっつけてきた。その中で俺が見てきた古泉は、ハルヒの近くで現状維持に努めることの次ぐらいに、自身を労わるような余裕を意識的に排除することも任務のうちと思っているようだった。
「ゆっくり、とか、疲れを癒す、とか、いつも二の次にしてるだろ」
 正直にそう言うと、
「そう、かもしれませんね」
 古泉は唇の端だけで笑って、
「確かに、僕一人の問題でしたらその通りですが、今は状況が違います。ここに閉じ込められているのは僕だけではありません。あなたや彼女たちも一緒なのですから」
 自分一人なら、と断る古泉の言葉に、部室の大掃除の時の会話を思い出す。あの時にも思ったものだが、こいつは、ひょっとして、自分の言葉を否定して欲しいのだろうか。俺が否定したところで、もっともらしい理由を並べ立て、それをさらに否定して返しやがるくせに、だ。同級生に丁寧口調を続けるのも疲れる、という言葉だって、本音だったんだろう?
 せっかくの豪華バスルームだ。お前が言う通り、ゆっくりと湯船につかって、とくに心の疲れを癒せばいいんじゃないか。俺もそうする。元々の出来からして過剰な期待は禁物だが、何かここを出るための名案が浮かぶかもしれないしな。
 そうやってさっぱりしてからお前は、敬語キャラに疲れたと言うなら、「僕の敬語は、言ってみればキャラ作りのためだったんです」とでも告白してやめちまえばいいし、俺やハルヒたちを気遣う気持ちがあるのなら、同じように自分自身も大事にしてやればいい。そのための後押しが必要だと言うのなら、たとえ否定のポーズを取られるんだとしても、俺は背中を蹴飛ばしてやらんこともない。そうすればもっと、……もっと、何だ?

「ここでしたよね」
 気づけば、立ち並んだ見分けのつかないドアの一つの前に到着していた。いくつ目か数えていなかったが、古泉がここだと言うから、たぶん合ってるんだろう。
 中に入ると、さっき全員で確認したのと同じ脱衣所があった。朝比奈さんに聞いた通り、壁際の棚には、バスタオルや着替えなどが並んでいる。
 適当に空いている棚の前に立って、一息に脱いだフリースを放り込んだ。ベルトを外しジーンズのボタンに手を掛けながら、ふと隣の古泉に目をやると、何を遠慮しているのか、フェイスタオルを手に取った状態で立ち尽くしている。
「何だよ。べつに俺しかいないんだ。とっとと入っちまおうぜ」
 促すと、古泉は、はあ、でも……などともじもじして、動こうとする気配がない。
「それとも、監視カメラかなんかの心配でもしてるのか?」
 誰が用意したかも分からない得体の知れない場所だ。そういう不安も理解出来なくはないが、もしそんなものがあったら、真っ先にハルヒの奴が見つけて叩き壊しているだろうし、俺たちに知覚出来ないような何かだってんなら、それこそこっちにはお手上げだ。腹をくくるしかない。
「いえ、そう言うわけでは……」
 そう言って俯く古泉のシャツから覗いた首筋が、柔らかく暖かな色の電球に淡く照らされる。俺より少し白いくらいで、まさか肌の色にコンプレックスを持っているとかいうわけでもあるまい。
「海やプールは平気だっただろ」
 それと大差あるようには思わんが。
「先程までは、そう思っていたのですが、じつは人と一緒に入浴をするというのが初めてなものでして、いざ入るとなると、少しばかり抵抗が……」
 そのもじもじ具合が「少しばかり」という程度か。そんなんじゃ、修学旅行なんかどうする……もしやこいつ、中学の時、修学旅行に行ってない、のか? そうか、エスパー少年になったのが三年前だというから、あり得ない話でもない。自分の意思とは無関係に時間を選ばず発生するアルバイトに備えて、すぐ駆けつけられる範囲の場所に待機していなければならなかったのだ。
「なら、先に入ってるから、後から適当に来いよ。さっき覗いた感じじゃ、中は湯気でほとんど見えないぞ」
 ほっとした顔をする古泉を置いて、俺は浴室に続くドアに手を掛けた。


 後から思えば、風呂に入る直前にあったこれらの出来事すべてが、まずかったんじゃないかと思う。回想も含めて古泉についてあれこれと思いやったこと、脱衣所でためらう古泉を目にして余計な感想を抱いたこと、それに、この洋館への消せない不安感。そういうのが全部、よろしくなかったんじゃなかろうか。この空間の要望感知検出システムに、アホなエラーを起こさせるぐらいには。
 ……とでも思わなけりゃ、俺が自分の正気を疑わなければならないという話なんだが。


 何やらかいだことのないいい匂いのシャンプーを泡立てていると、背後でドアの開く音がして、古泉が入ってきた。俺から少し離れた場所に腰を下ろしたのが、湯気の向こうにぼんやりと見えた。

「お先に」
 頭を洗い流し、続けて体を洗っていると、隣りから声が掛かった。顔を傾けると、浴槽に向かう古泉の背中が見えた。
「お前、早くないか」
 湯煙の向こうに消えていく背中から声が返る。
「カラスの行水が身に付いてしまっていまして」
「熱いから、のぼせるなよ」
 追いかけた俺の声も、暖かい湯気の中に響きながら拡散していく。
 あまりのんびり出来る状況でないのも確かだが、しばしの休息だ。俺たちの後には誰もいないし、のぼせない程度に、ゆっくりしていこうぜ。

「背中、流しましょうか?」

 突然、斜め背後から声がした。ぎょっとして上半身を捻ると、腰タオルに、もう一枚のタオルを手にした古泉が立っていた。
 たった今、お前が消えたのは反対方向だろ?
「古泉お前、今、湯船に向かったばっかだよな? カラスだってもうちょっと長湯するぞ」
 俺の声が聞こえていないのか、古泉は俺が座る後ろに膝をついた。
「背中なんか自分でやるからいいって」
「遠慮なさらずに」
 すい、と伸びた古泉の手が俺の肩に乗せられる。
「いっ」
 浴場を満たす湯気と掛け湯でだいぶ暖まっている体にも、古泉の手のひらはかなりの熱さだった。こいつ、本当に湯につかってきたってのか?
「前を向いていてください」
「だから、いいって」
 もう一度断って、ホールドされた肩から古泉の手を外そうとしたが、びくともしない。それどころか、もう片方の肩も掴まれ、強引に前を向かされる。
 さっきまで背後を映していたはずの目の前の鏡は、白く曇ってしまっていて、鏡越しに古泉の様子を見ることは出来ない。
「古泉、お前、変だぞ?」
 古泉が変なのは今に始まったことではないが、これはそういうんじゃない。何かが明らかに違う。しかし、さっき振り向いた時に見たのは、紛れもなく古泉だった。
「ひ、」
 思わず変な声が出ちまった。
 両肩を掴んでいた古泉(変)――この(変)は、変態の変ではなく、変な古泉の変である。一応――の手のひらが、つい、と俺の肩を首筋まで撫で上げたのだ。
 古泉(変)の意図は分からないが、こいつ、さっきは背中を流すって言ってなかったか? なあ、こいず――
「……、っ!?」
 声が、出ない。おい、ちょっと待て。声が出なくなっただけじゃない、指の一本すら動かせなくなってるぞ!
 古泉(変)は、肩先まで戻した手のひらで、今度は包み込むように俺の両方の腕を上から撫で下ろしていく。手首まで到達して、いったん離れた手は、いよいよ俺の背中に回された。
 これが古泉流の背中の洗い方ってわけじゃないよな?
 肩の後ろの骨を、それから背骨とあばらを確かめるように、熱すぎる手のひらと指先が背中を這う。その熱に呼び起こされたみたいに、触れられた部分からじわじわと、表現しがたいむずむず感と気持ち悪さをない交ぜにしたような感覚が広がっていく。
 感覚はあるのに、動かしたいという自分の意思だけが伝わらない。
 ぴたり、と背中に古泉(変)の平らな胸が重なったかと思うと、そのまま脇腹から体の前面へ腕が回された。
 人が身動き出来ないのをいいことに、好き勝手にしやがって。おい古泉(変)、やり過ぎだぞそれは!
 しかし俺の心の叫びは、音にはならない。
 なめらかに動いてまとわりつく指が向かう先を、こわごわ肌の感覚で追うと――
 ……やばい。どころじゃない。
 腰に巻いているタオルの下が、わずかに反応し始めていた。そして指先が目指しているのはそこだ。
 たちの悪い冗談にも程があるぞ! くそっ、動けよ俺の体! 頼むから、せめて声だけでも……!

「……っや、めろって古泉!」

 振り向きざま、思い切り古泉(変)を突き飛ばしていた。
 あ、と思った時には、古泉(変)の体は後ろにふわりと浮かび、危ない、ととっさに伸ばした手は、湯気の中に消えていく指先を掴めずに空をきった。
「った、」
 バランスを崩して床に手と膝をつく。
 消えた、のか……?

「どうしました!? 大丈夫ですか!」

 血相を変えた古泉が、消えた古泉(変)とは逆の方向から現れた。
「お前……、古泉、だよな?」
 タイルに這いつくばる俺の姿を見て、さらに険しい顔つきになった古泉は、傍らに膝をつき、素早く周囲を見回した。「誰か、いたんですか?」
 俺の隣で警戒している古泉を横目で盗み見ると、さっきまでいた古泉(変)のような妙な雰囲気は感じられない。俺の知る古泉だ。となると、やはりあの古泉(変)は、(変)などではなく、(偽)を付けるべき存在だったというのか。
「あー……、いや、悪い」
 古泉(変)が古泉(偽)だったという結論が出たところで、さてこれを何と説明すればいい。何の因果か古泉そっくりの古泉(偽)が現れて、過剰なんてものじゃないスキンシップをかましてきた、などと話せるわけがない。
「誰かがいたような気がして、思わず大声を出しちまったんだが、勘違いだった」
 心配させたな、と、ゆっくりと立ち上がる。まだ少し、体がこわばっているような気がした。
「それならいいのですが、本当に大丈夫ですか?」
 古泉も警戒を解いて体を起こし、気遣わしげに俺の肩に手を添えた。
「うっ」
 慌てて自分の口を押さえる。驚いた古泉が俺の顔を見る。
 これ以上ここにいては平常心が戻らない。早いとこ出た方が賢明だ。
「のぼせたかもしれん。先に上がってる」
 古泉の顔を見ないように横をすり抜け、俺は脱衣所に向かった。


「お前、人と一緒の風呂、平気になったのか」
 あの後、古泉は、気を遣ったのか、俺がすっかり着替えを終えて一息ついた頃に戻ってきたのだが、その時、風呂に入る前のような様子は見られなかった。
「そう言えば、そうですね」
 一瞬、無防備にきょとんしてから、古泉が答える。「あなたに非常事態かと飛び出した時には、おそらくもう」
 非常事態宣言も裸足で逃げ出すぐらいの九死に一生体験だったぜ、まったく。
 だが、まあ、
「なら、来年の修学旅行も平気だな」
「え、修学……旅行ですか?」
「ああ。ハルヒの奴が、あの一大イベントで何も引き起こさないなんて考えられないだろ。俺たちがフォローしてやらんとな」
「そう、ですね。その時はよろしくお願いいたします」
 どことなく和らいだ表情を見せた古泉に、俺は付け足しのように言う。
「それから、さっきはサンキューな」

 広間を挟んで反対側の通路の突き当たりにある食堂に着いて、俺は細工の施されたドアノブに手を掛けた。
 終わりよければすべてよし、と言ってしまうには俺の受けた精神的ダメージは大きかったものの、思春期に修学旅行を経験していないエスパー少年の理由なき苦手意識も克服されたようだし、こうして落ち着いてみると、風呂のリラックス効果は確かにあったと言えるだろう。
 もう一度じっくりと、この奇妙な洋館を脱出するための案を練ってみようという前向きな気持ちになれたし、ずっと続いていた緊張もいくらか解けて、眠気が染み出してきた。
 お前はどうだ、古泉?

 ……などと綺麗にまとめようとした俺の中のささやかな心の平穏への欲求は、次の瞬間、ドアの向こうで待っていたハルヒの何気ない一言によって、見るも無残に打ち砕かれた。

「ずいぶん長風呂だったじゃん。何してたの?」

 その場にいた全員を心配させる程盛大にむせ返った俺は、苦しい息の下で、あの数分間の出来事を墓の中まで持っていくことを、思いつく限りのあらゆる方面に固く誓ったのだった。

「ひみつのよくじょう」(2008/04/08)

SMILING EDGEさま主催、07/12/30発行の雪山アンソロジー「贋作 雪山症候群」に
参加させていただきました。お誘いとサイト再録のご快諾、ありがとうございました!