思い出させてはいけないと思った。なのに、彼の中に、僕の手を取ってくれたいつかの彼を探してしまった。そして彼は――
「眩んでしまう」
夏休みの後半、SOS団で夏休みのイベントをこなしていく中で、僕は妙な既視感に見舞われていた。それは、目の前の光景が別の時間のそれと重なるように浮かび上がり、同時に、そこに存在しているらしき自分自身の感情が流れ込んでくるというものだ。おかしいと気づいたのは、ただの既視感に感情まで付随するだろうかという疑問と、それ以上に、圧倒的な鮮やかさをもって押し寄せる感情が、今の自分が抱いている気持ちよりも、ずっと強く、確かなものだったからだ。願望や妄想ではなく、実感を伴った自身のものだと、理屈抜きで感じた。けれどその感情は、それでも、今の自分のものではない。たとえるならそれらは、記憶の深いところから浮上してくるという表現が一番相応しいように思われた。いつかの自分が経験して刻んだはずの、閉じ込められている記憶の断片が、何かの拍子によみがえってくるのだとしたら。自分は、いつかの自分は、それを『知っている』のかもしれないと。
そんな空想じみた仮定が、実際に起こっている現象と一致していると知ったのは、夏休みも残り十日程となった日のことだ。その日の既視感はことさらに強烈で、僕は自分の感情に眩暈がした。持ち直して周りに視線を配ると、長門さんと目が合った。彼女の表情から意思を読み取ることは僕には不可能だが、その時は、何か共有意識のようなものを感じた。解散後に追いかけて、二人だけで話をする機会を得た。自分たちの周りでもし突拍子もないことが起こっているのだとしたら、それは涼宮さんの能力によるものだろうと、半ば予想はしていたものの、聞いた話は、想像以上に壮大で、信じ難いものだった。僕たちは、この世界は今、じつに一万四千七百五十三回目の今年の八月後半を過ごしているというのだ。あまりの途方もなさに一瞬、くらりとしたが、それより僕は、自分の既視感が、願望から生まれた白昼夢ではなかったことに安堵したし、何より、自分の中に湧き上がる思いが、過去のいつかの自分が確かに経験していたものであったことに嬉しさを感じた。
しかし、嬉しいと思ったのはほんの一時で、今度は別の感情が生じた。それは嫉妬だ。今の自分にはとても考えられない思いを持ち得た自分に、それを彼と共有していたであろう自分自身に、僕は嫉妬を覚えた。その感情を思い出し、ふたたび得たところで、今の僕は行き場のないこの気持ちに一人で耐えなければならない。彼は、彼はどうなのだろう。思いを、もっと別のものも分け合ったはずのいつかの彼の記憶は、今の彼の中に、欠片の少しも残ってはいないのだろうか。それをこの一万四千七百五十三回目の夏に思い出す可能性はないのだろうか。
そこまで思って、僕は恐ろしくなった。とんでもないことを考えている。僕は浮かれてしまったのだ。彼と特別に親密になったいつかの自分の記憶に、眩んでしまった。間違えてはいけない。世界の安定のためにも、今の自分の存在意義のためにも、そのようなことを望んでいいわけがないのだ。彼の中にも眠るかもしれない記憶が目覚めてしまうことのないよう、全力で注意を払わなければならない。彼が最も近くにあるべき相手は彼女であり、自分ではない。最終的に確定し次の季節へと続くべき夏もまた、決まっている。それに、とも思う。僕と同様に、いつかの気持ちを自らの内によみがえらせた彼が、その感情に従って、もし僕に手を伸ばしてくれたとしたら。その手を拒むことなど、自分にはとても出来そうにない。
「…っ、」
強く掴まれた左肩が痛い。差し入れられた手のひらが支える後頭部は、じんわりとしびれている。
悪い、古泉、と彼は言った。なぜそんな言い方をしたのだろう。同意を待たずに僕をさらったからだろうか。こうなるかもしれないと分かっていて、彼をこの場所に連れて来たのは僕だ。否定と願望のせめぎ合いの中で迷ってしまった僕の弱さだ。
息を継ぐのも惜しむように、僕たちは長いキスをした。いつかの記憶をなぞるような、そしてこの夏の自分たちにとっては初めての。
「お前が何を知ってるのかとか」
もうどうでもよくなっちまったな、と彼は僕の肩に額をあずけて言った。表情は見えないが、声は穏やかだった。そうかもしれませんね、と返して僕は目を伏せた。僕が少しばかり先に知り得たことは、成立させてはならないフラグを回避するという役目を果たさなかった。僕が。どこかで恐れを感じながらも、望まずにいられなかったからだ。
気温と上昇した体温とで汗ばんだ互いの手は、ベンチの上で繋がれている。
「古泉」
呼ばれた名前も繋いだ手も、どの記憶の中のそれより本物だった。
「はい」
自分を戒めながらも、欲しがってしまったものだ。
「お前が何も言えないってんなら、べつにいい」
彼の声が肩先から体の中に響く。
「こうすることが当たり前の俺たちが、いたんだな」
僕は答える代わりに、重ねた指に力を込めた。
「お前もなんだろ? 振り返っても覚えがないはずなのに、でも確かに自分の気持ちだって、理屈じゃなく感じてる」
彼の言う通りだ。けれど、それを自分のものだと認めることと受け入れ従うことは、同義ではない。
「否定、しないんですね」
「して欲しいのか?」
彼が顔を上げて問う。
「顔が近い、とは言わないんですか」
茶化すな、と彼は僕の指先を握り締めた。この手は嘘をついてないのだろう、とでも言うように。
「否定より先に、俺は、……嫉妬してた」
自分の耳を疑った。彼は今、何て? 嫉妬した、と言わなかったか。僕と同じように、いつかの自分に嫉妬したというのだろうか? そんなことが。
「もっと、」
頭上で風が吹き抜けて、ベンチを覆う木陰を大きく揺らした。
「確かめてもいいか? それとも――」
彼の声はどこまでも自らに誠実で強く、僕の逡巡など簡単に吹き飛ばしてしまいそうな力があった。
「僕は……」
先に立ち上がった彼が光の中から右手を差し出した。引かれて踏み出した日射しの強さに目が眩む。日陰から見つめるより、自分がその中に立っている方が眩しいのだなと思った。
それから僕たちは、僕の部屋で、十分な知識も用意もないまま、それでも感情と体との距離を縮めたくてたまらなく、出来る限りの熱心さをもって触れ合い、埋め合った。
自分は彼の手を取った。少なくとも、この夏では。
「これで数学終わり、っと」
声に振り向くと、小さなテーブルに向かっていた彼が、シャープペンを放り出し、両肘を張って上半身を伸ばしていた。ぱきぱきと鳴った軽い骨の音に、お疲れさまでした、と僕もデスクチェアを回す。
「さすがに、日中遊び倒してから机に向かうのはきついぜ」
「そうですね。とくに今日は重労働でしたから」
今日は朝から、リニューアルオープンを控えたリカーショップの倉庫で、荷物運びのアルバイトをした。初めから割り当て量が多かったのに加え、朝比奈さんが途中から応援係になったため、その分を彼と僕とで引き受けたのだった。シャワーを浴びてから課題に取りかかった彼の首には、僕のフェイスタオルが掛けられている。
「区切りもいいし、今日は帰るな」
欠伸を噛み殺しながら彼が言った。「明日も朝っぱらから集合だ」
「途中まで送ります」
持ち物をまとめて玄関に向かった彼に続こうとすると、目の前に、すい、と腕が伸びた。
「いや、いい。お前も早めに休んで明日に備えろ。タオルとノート、サンキューな」
タオルを受け取る。自分と同じボディソープの香りに混じって、かすかに彼の匂いがした。ぐらり、と心が揺らぎそうになったのを、かろうじて踏みとどまり、後ろ手に握り締める。
「分かりました。では下まで」
アパートの階段を先に降りていく彼の背中を見つめる。
あの公園の日から、一週間近くが経った。少なからず望んでいたとは言え、信じ難い展開に最初は驚き戸惑ったが、団の集まりの隙間をぬって一緒に過ごすうち、彼から与えられる嬉しさや喜びを受け取ることが出来るようになっていた。けれど、受け取り過ぎてはいけない。僕は残りの日数で、それらに別れを告げる心を固めなければならない。終わりが約束されている幸福の中に、最後の瞬間まで何も考えずにいられる程、自分は強くない。八月三十一日が終わるその時に暴発した感情が、次のシークエンスに影響を及ぼすような記憶の傷跡にならないとも限らないからだ。そうなれば、また自分は繰り返してしまうかもしれない。
「古泉」
突然、彼が振り返った。強い目で見上げてくる。
「俺たち、付き合ってるんだよな」
「え、」
思考を見透かされたのかと思った。とっさに言葉が出ない。
「ぼ……くは、そのつもりでしたが、あなたは違うんですか?」
何か勘ぐられてしまうだろうかと危ぶんだが、ならいい、と短く言って彼は前を向いた。「俺だけがその気だったら悪いなと思ったんだ」
「そんなこと」
階段を降りきって、もう一度、彼が僕の顔を見た。指が伸びてきて、あ、と思った瞬間、鼻先を摘まれた。
「変な顔してたぞ。疲れてるんなら、ほんと早く寝ろ」
な、と言い聞かせるように笑って、彼は指を離した。
顔には出していないつもりだったのに、やはり見咎められてしまった。それなら、そういうことにしておいた方がいい。
「ええ、そうします」
「じゃあな」
「暗いので、お気をつけて」
自転車の後ろ姿が夜道の向こうに溶けるまで見送ってから、階段を引き返した。
付き合ってるんだよな、と訊いた彼の言葉が胸に落ちる。
彼が性急だったのはあの最初の時だけで、それから僕たちは、じつに高校生らしい――経験がないのであくまで一般的イメージだが――付き合い方をしている。公園でのあれを最後に、既視感は現れなくなった。彼とてまったく疑問に思わないわけではないだろうが、それに関して僕が説明を求められることはなかった。彼にとって今の僕たちの関係は、消えゆく膨大な時間の中に葬られる、数日間だけのイレギュラーなものではなく、この先の季節へと確かに繋がっていく日常の一部なのだ。
問われて、自分はそのつもりだと返答する胸の苦さは、繰り返す夏の秘密を打ち明けられない後ろめたさとともに、最後まで隠し通さなければならない。事態を知った彼が過去に例のない行動を取れば、それだけ現状に変化の生じる可能性が高くなる。
それこそ避けなければならない。この夏を確定に至らせる選択肢を、少しでも遠ざけるためにも。
瞬きながら消えていく小さな明かりが、楽しげに輝く彼女の表情を浮かび上がらせる。さっき見上げた大輪の余韻を手元に描くことに夢中になっている様子が微笑ましい。
少し遠出をした花火大会の帰り、解散を宣言しつつも名残惜しそうな涼宮さんに彼が提案して、そのまま近くの河原でSOS団花火大会となっていた。
昨日の釣り大会参加の後には、それもまた彼の提案で、帰宅後、再度集合し、隣市であった遅い夏祭りに足を運んだ。到着するやいなや、彼は真っ先に探し出した出店の前に涼宮さんを引っ張って行った。先週行った盆踊り会場の縁日で、射的が見当たらず彼女が残念がっていたのを覚えていたのだろう。いつになく意欲的で積極的な様子を口では訝りながらも、そんな彼を彼女が喜ばないはずはない。あれ程満足げな彼女の笑顔は、この夏に見た中でも一番かもしれないと思った。
「じゃあ、今日は解散! 明日はいよいよ肝試しよ。集合時間は丑三つ時だから午前二時、現地入り口前ね」
「げ、現地って、あの……お、お墓ですよね?」
涼宮さんの言葉に身を震わせた朝比奈さんが、怯えきった様子で聞き返す。
「そうよ、みくるちゃん。その方が盛り上がるでしょ? 最後のイベントなんだから、思いっきりいくわよ!」
「おいハルヒ、それなら俺に提案があるんだが」
人差し指を突きつける彼女の横から、彼が声を上げた。
「何よ、キョン」
「墓地で肝試しの前に、一度集まって、みんなで怪談をやるってのはどうだ?」
涼宮さんは指の先を唇に当てて一瞬考えたあと、
「それ面白そうね。あんたにしちゃ、気が利いてるじゃないの」
「長門、お前んち借りてもいいか?」
「いい」
長門さんが小さく頷く。
「古泉、お前もいいだろ」
「ええ、僕は構いませんが」
「ひぇえ……」
彼の提案を涼宮さんが採用したのなら、僕に異論などあるわけがない。しかし、彼が朝比奈さんをさらに怖がらせるような提案をわざわざするとは、どういうことだろう。確かに涼宮さんは喜んでいるようだが、何かが引っかかる。残り二日となった夏休みを惜しむ気持ちが彼の中にも芽生えたのだろうか。
「それなら有希の家に十一時集合ね。みんな、うんと怖い話をたくさん用意しておきなさいよっ!」
明日の楽しみに思いをめぐらせ意気揚々と改札に向かう涼宮さんに、数歩遅れて朝比奈さんが続く。僕も奥の通りの方に足を向けてから、ふと、彼はどうするのだろうと振り返った。
彼は柱の少し陰になっているところに長門さんを連れて行き、横に半身を屈めて、何か話しかけている。他のメンバーに聞かれては困ることでも――
長門、どうだ、このパターンは今までにあったか?
切れぎれに届いた彼の声と、いつも見ている唇の動きからその言葉の意味を理解した瞬間、すう、と周りの音が遠のき、立っている地面が大きく傾いたような気がした。
彼は知っている。
どうして?
いつから?
どこまで?
――本当は。
僕は知っていた。
いくつもの手がかりから、彼がこの繰り返される夏の秘密にたどり着くことを。その時は長門さんが彼の力になるであろうことを。そして、事態を把握した彼がどのような行動を選択するのかを。
気づいていて、僕が知らない振りをしたのは――
彼が僕の視線に気づいた。長門さんと別れ、こちらにまっすぐ歩いてくる。
「あの……」
「話がある」
一昨日の夜、階段の途中で見た、あの強い目で彼が言った。
二人で並んで座るのは、あの公園の同じベンチだ。駅前から互いに無言のまま歩き出し、ここに来ていた。鬱蒼と生い茂る木々の影はなく、代わりに外灯がその足元に淡い輪郭を落としている。
「お前、俺に言うことがあるだろ」
彼が口を開いた。いつもと変わらない声に、僕を責めるような色はない。
「この異常事態をあなたに黙っていたことは謝ります。ですが――」
「俺を試すな古泉」
彼が遮った。僕が逃げることが、彼を試すことと同じだとでも言っているのだろうか。確かに、僕は逃げようとしている。彼が過去の無数の夏の存在を知ることに、そして選ぶであろう行動に気づいていながら知らない振りをしていたのは、このまま僕が黙ってさえいれば、その覚悟を決めてしまえば、それで済むのではないかと思っていたからだ。
黙り込む僕に、彼が続ける。
「お前が諦めるのを俺は認められない」
彼と思い合ったこの夏の日を忘れなければならない痛みも、その奥にある、僕が最も恐れる苦しさに比べれば、まだ耐えられると思うからだ。
「今の俺たちは、今の俺たちのものじゃないのか」
「お言葉ですが、今の僕たちは、唯一無二の絶対な自我ではなく、数多の偶然が重なることで生じた、言うなればifの存在です。この夏のループから抜け出て未来に繋がるべき正史とは異なるものだと思いませんか」
「本当にそう思ってるのか?」
彼が僕を見る。
「確かに、きっかけは強烈だったが、俺はあの時から始まった自分の気持ちを信じてる」
表情は穏やかだが、嘘を許さない真摯さがあった。
「僕は……」
「お前だって、好きでもない相手とああいうことが出来る奴じゃないだろ」
これ以上は。
「僕はそれ程純粋な人間では――」
「俺もお前が好きなんだ」
それこそを僕は最も恐ろしいと思うのに。
「だから、お前の後ろ向きな決断に腹が立った」
彼が。
「何がお前をそうさせるのか、本当のところは俺には分からない」
彼が僕を。
「俺の自分勝手だとは思う」
それでも、そうしたいと思っちまった、と彼は言う。
「俺一人でやれるだけやってこの夏を確定させて、そうして続いた二学期の朝、驚いてるお前に一番に、ざまあみろと言ってやりたいんだ」
彼が僕を思う気持ちだけで、世界を変えようとしてくれることが。
それ程の気持ちを受け取ることが、自分に許されるのだろうか。知ってしまってから、手放すことが出来るのだろうか。全てを引き換えにしなければならなくなった時、僕は正しい判断が出来るのだろうか。
「古泉」
僕は、ぐらぐらする体を必死でベンチの背に押しつける。
「たとえ、この夏がリセットされたとしても、だ」
彼が立ち上がる。僕の前に立って、右手を差し伸べた。
「こうなることが必然なら、次の夏でも、一緒にいた夏を知らない先の季節でだって、また俺たちは同じようになると思うぜ」
彼の手を取ると、背中がふわりと軽くなった。既視感。でもこれは、確かにこの夏の記憶だ。僕が彼の手を取った、この。
いつかの夏の記憶ではなく、夏の強い日射しでもなく。僕が本当に眩んでしまうのは、今ここに、目の前にいる彼だった。
「眩んでしまう」(2007/12/24)
エンドレスエイト、みっつめ。ひとつめ「なつかげ」の続きです。