「会いにいく」
窓の水滴を指先で拭って、狭いベランダが面した路地の様子を窺う。日も昇りきっていない、まだ早朝と呼べる時間だというのに、きらきらと跳ねる光のおかげで、視界はぼんやりと明るい。昨夜、日付の変わる少し手前で電話を切った時にはすでに、街灯が降り始めた雪を照らし出していた。今は晴れているが、夜の間にいくらか積もったようだ。
腕時計に目を落とす。この部屋から駅前までは、ゆっくり歩いても二十分程度だ。集合時間の十五分前に到着するようにしているから、路面状態を考慮に入れても、家を出るにはまだ時間がある。
少し高揚しているのだろうか。眠りが浅いのはいつものことだが、昨日の夜は、通話を終える間際の彼の言葉が耳に残って、なかなか寝つけなかった。今朝は今朝で、携帯のアラームより先に目が覚めてしまった。早く起きてもすることがなかったので、身支度はすっかり済んでいる。
暖かいものでも飲んで落ち着こうかと、台所に足を向けた時だ。
ドアがノックされた。
このような早い時間、それも元旦だ。何かの勧誘とは考えれられないし、新聞は取っていない。『機関』絡みなら、まず電話で連絡が入る。宅配便や年賀状の類なら、そもそも届くあてがない。
少し警戒しながら、ドアに体を寄せる。
ドアスコープから見えたのは、思いがけない、けれど見間違えるはずのない、見慣れた面差しだった。
「何かあったんですか!?」
ドアチェーンを外すのももどかしく、体当たりするようにドアを開けた。
「……はよ」
焦る僕とは裏腹に、少し気だるそうな普段通りの彼がいた。
「お、はようございます」
「あけましておめでとう」
続いた年始の挨拶に、
「え、……あけましておめでとうございます」
同じ言葉を返すも、一体どうしたのかと訊かずにはいられなかった。
「あの、どうしてここへ? 駅前に八時集合――」
「年賀状」
彼は僕を遮り短く告げると、コートのポケットから葉書を取り出した。
「僕にですか?」
受け取ると、少し折れ曲がったその二枚は、表にそれぞれ、丸みがかった可愛らしい文字で『古泉くんへ』、彼の字で『古泉』とある。
「妹に、書くの付き合わされてな。お前んちの住所知らないから」
年賀状から目を上げ、あらためて彼の顔を見る。むき出しの耳も鼻先も、ひどく赤い。声が少し硬いのは、体が冷え切っているからだ。足元はスニーカーが濡れ、ジーンズの裾も色を濃くしていた。
「中へ」
ドアの内側に引き込むのと同時に、腕の中に抱きしめた。引いた手は驚く程冷たかった。
一瞬、彼は僕の腕を拒むように、
「冷え切ってるぞ」
「だからじゃないですか」
押し返そうとする腕は、やがて、諦めたように背中に回された。
雪の匂いをまとう彼を強く抱いて、僕は喜びに震える。
「僕も、一番にあなたに会いたかったです」
腕の中からくぐもった声が返る。
「『も』ってのは、他にも該当する事柄がある時に使うもんだ」
雪の残る早い朝の道を、歩いてここまで。
「ええ、ですから、僕『も』、です」
その間、彼は、僕の驚く顔を思い浮かべてくれただろうか。
「……今年もよろしくな」
自分も、昨日電話を切った瞬間から、新しい年に最初に会う彼のことを考えていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ふつつかものですが」
ぶは、と腕の中の彼が噴き出した。
「何だよそれ」
「言葉通りですよ」
新たに色づいた彼の耳に唇を寄せながら、僕は厳かな気持ちでこの朝に誓う。
こうして彼が与えてくれる喜びを、自分からも少しでも多く返していくのだと。
『じゃあ、そろそろ切るか』
『そうですね』
『今年最後に話したのはお前になったな』
『え、それは……』
『切ったらこのまま寝る』
『……はい。おやすみなさい』
『あー、まあ何だ、来年も……いや、やっぱいいわ』
『今何て――』
『また明日な。おやすみ』
「会いにいく」(2008/01/04)