「ないしょのだついじょ」

「願望が具現化される空間……」

 隣を歩く古泉の呟きに、何もないところですっ転びそうになる。願望とか具現化とか、今一番聞きたくない単語だぞ、それ。
「な、何だよいきなり」
 加えて、どもっちまった。ああくそ、さっきの動揺を引きずっていること山の如しだ。
「大丈夫ですか? 足元がおぼつかないようですが、やはり先程、何かあったのでは」
「ない。断じてない。言っただろ、ちょっと臆病風に吹かれただけだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ってな」
 我ながら苦しい持っていき方だとは思うが、やむを得ん。苦しかろうが何だろうが、とにかくさっきの風呂場で起こった出来事を、こいつに気取られるわけにはいかないからな。
「そう……ですか? それならいいのですが」
 古泉は、納得いかない様子で、だがこれ以上の追及は無意味であると悟り、自分の話に戻った。物分りのいい奴ってのは、こういう時に助かるぜ。
「いきなりではありませんよ。ずっと考えていたのです。やはりこの洋館は、我々の願望や欲求を検知して、その具現化が行われる、言ってみれば、涼宮さんの『願望を実現する能力』を限定的に模倣したような空間なのではないでしょうか。より直接的な、と言い換えることが出来るかもしれません」
 俺は古泉の話を意識的に半分以上聞き流していた。実際、浴場に行くまでは、俺だって薄々そんなことを考えていたさ。吹雪を抜けてたどり着いた俺たちが欲しい、あればいいなと思うものがことごとく用意され、それこそ、脱出を助けるもの以外なら、おそらく望みさえすれば、だいたいのところは手に入るんだろう。
 しかし、だ。俺は古泉の推論を聞き流し、かつ、自分の仮説も綺麗さっぱりと捨てることにした。でないと、俺はまず第一に、自分が正気ではないことを立証するための仮説から練り始めなければならない。
「実証、と言ってしまうにはいささか即物的でしたが、単純だからこそ説得力がある。あなたもご覧になったでしょう?」
「……まあな」
 見たさ。ああ見たとも。絶体絶命の危機から一生を得た俺を脱衣所で迎えてくれた、風呂に入る前には影も形も見当たらなかったはずの自販機もどきをな。
「僕、憧れていたんです。お風呂上りのフルーツ牛乳」
 さっき飲んだ瓶入り牛乳の余韻を噛みしめてでもいるのか、古泉の切れ長の目がきらきらと輝いている。こいつは、俺が非常事態に陥っていた時、湯につかりながら、のん気なことにフルーツ牛乳を所望していたというわけだ。
「イメージとしては非常に曖昧なものだったのに、よくあれだけの再現がなされたものです。欲求イメージを具現化する際に何らかの補正なり補強が入るのだとしたら、効果範囲は小規模ながら、かなり高度なシステムですね」
 欲求の補強とやらに関しては、全力で否定したい。その高度なシステムにエラーが発生する可能性になら、両手を上げて賛成してやるんだが。
「あの、」
 俺の沈黙および不本意極まりなさを遺憾なく発揮しているであろう表情に、古泉がおずおずと尋ねてくる。
「フルーツ牛乳の他に、通常のものとコーヒー牛乳ぐらいしか思いつかなかったのですが、もっと別のものがよろしかったでしょうか? たとえば炭酸飲料ですとか……」
 確かに、かなり曖昧だったと言うだけあって、俺も確固たるイメージを持ち合わせているわけではないが、脱衣所の隅に突如として現れた瓶入り牛乳の販売機は、コインの投入口も付いていない――よって正確には『販売機』とは言えない――、シンプルな冷蔵庫の扉がガラス製になったと言った方が早いような代物だった。
「いや、うまかったぞコーヒー牛乳」
 だが、本体の見かけこそ微妙だったものの、味の方は間違いなく、乳脂肪分の高そうなおいしいコーヒー牛乳だったのだ。
「それならよかった。このような状況下に、僕だけが一人で満足感を得ていたのなら申し訳ないと思いまして」
 そういう場合に申し訳ないも何もないし、まあ、お前が願望を叶えられて嬉しかったならいいんじゃないか。
 俺としては完全に記憶から葬り去ってしまいたい入浴タイムではあったが、古泉が見せるめずらしく心からの明るい表情に、なんとなくほだされてそんなことを思っていると、あ、でも、と古泉が自分の唇の前に指を立てた。
「このことは、涼宮さんたちには内緒にしておいてくださいね」
 フルーツ牛乳に喜んでいたなんて、僕のキャラクターではありませんから。
 そう言って古泉は、はにかんだようにふわりと微笑んだ。
 あー……、その、何だ。コメントは控えさせていただく。

「えっ、あの、待ってください! 何か気にさわるような……」
 古泉の声を背中に、俺は食堂まで一直線に伸びる廊下を足早に突き進む。
 風呂場での一件で俺はもう、下手に古泉の境遇やら心情を思いやったり、古泉の見てくれに余計な感想を抱いたりしてはならないと、高い授業料を払って学習したんだ。
 だから、花がひらくような微笑ってのはこういうのを言うんだな、とか、そんな顔があるならもっと普段から見せたらいいのに、などと思うわけがない。
「分かってる。絶対に言わんから安心しろ」
「ではなぜ逃げるんですかっ」
「入浴後の運動だ」
「それは順序が逆では……」
 なんでもいいから、その顔で追いかけてくるな。

 思ってない。思ってないぞ俺は。

「ないしょのだついじょ」(2008/01/17)

「ひみつのよくじょう」のアナザーエンドというか、キョンデレエンドです。