「プロポーズ」

 完全に不注意だった。
 しまった、と思った時にはバランスを失った体が後ろに放り出され、次の瞬間、捻った半身の肩から上腕にかけて重い衝撃が走った。
 詰まった息をそろそろと吐き出すと、鈍い痛みと痺れが同時にやってきた。
 体を起こして、動く方の手で確かめる。折れてはいないようだ。
 見上げた空には、この世界が色を取り戻す始まりの合図が今にも響き渡ろうとしていた。

 少し休んでから帰ることにして、近くの路上に停めていた車に重たい体を押し込む。ミラーを覗くと、唇の端に血が滲んでいた。倒れ込んだ時に切ってしまったのだろうと、手の甲で拭う。
 座席に体を沈めて目を閉じた。
 久しぶりのこととは言え、またあの人に怒られてしまいそうな失態だ。
 そう思うのに、その苦笑すらどこか気持ちは柔らかい。
 今回のこれは僕自身のミスだ。最後に緊張感が途切れてしまったことで起きた自損事故だ。だから、心配をさせてしまう彼に謝罪するのは道理のはずだが、それでも彼は、謝るなと言うだろうか。そうしたら僕は、「すみません」を別の言葉にして、彼への謝罪と感謝の気持ちを伝えなければならない。
 ある時を境に僕は彼に対して、『機関』やそこでの役目に関することでは「すみません」を口にしなくなった。
 あれは、帰る部屋を同じくする以前、今より少し先の寒い季節のことだった。


 僕より二年遅い国家試験の最終日、打ち上げの後、遅くなっても行くとの言葉通り、彼はもう少しで日付けが変わろうとする頃、僕の部屋へやって来た。玄関から上がるなり彼は、疲れた、と呟いて僕を廊下に押し倒した。酔っているのかと訊くと、そんなもったいないことはしねえよ、と上から唇をふさがれた。彼の匂いがふわりと鼻先をくすぐって、一月ぶりの感触に僕は胸が詰まった。
 その時だった。僕の携帯が鳴りだした。
 互いに一瞬動きを止めて、視線を交わし、促された僕が電話に出ると、何もこんな時に、というタイミングの悪さで、久しぶりの『アルバイト』の呼び出しだった。
 その頃にはすでに、閉鎖空間の発生頻度は、今程ではないものの、徐々に減少しており、また規模も縮小の一途をたどっていたため、僕を含めた≪神人≫戦闘部門の能力者たちは、イレギュラーが起こらない限り、当番制のような形で任務にあたっていた。
 彼は僕の上から身を起こして立ち上がると、勝手に休んでるからな、と部屋に向かった。
「すみません」
 僕も慌てて立ち上がり、彼の背中に声を掛けた。
「謝るな」
 肩越しに彼が言った。
「いいえ、すみません。せっかく来てくださったのに――」
「古泉」
 彼は遮るように振り返り、
「この際だからはっきり言っておく」
 強い目で僕を見つめた。
「お前の意思とは無関係なところで起こる物事――具体的には主に『機関』絡みだな、それでお前が俺に申し訳なく思うことがあっても、俺には謝らなくていい」
「あの、それは……」
 彼は続けた。
「謝罪の言葉を口にすることで、お前の心が軽くなるとか、折り合いが付けられるってんなら、別に構わないと思ってきたが、それがお前の気持ちを重くすることに変わりないなら、謝るな」
 その時、僕は、それまで彼の「謝らなくていい」を「すみません」への単なる返事のようなものだと思っていた自分の愚かしさを知った。彼はもっと深い気持ちで、僕に謝るなと言い続けてくれていたのだ。
「お前が、突然呼び出されたり、俺には言えないことを抱えていたり、そのせいでいまだに俺に後ろめたさを感じてるのも、自分自身をどこかで信じきれないでいる厄介な性格も、そういうの全部ひっくるめて、俺はお前とずっと付き合っていくって決めてるんだ。だから――っ、こいず、」
 数歩の距離ももどかしく、飛びつくように抱きしめた。すぐにでも部屋を出なければならないというのに、彼から離れることを全身が全力で拒んでいた。
「……ずみ、離れ、ろっ」
 どのくらいそうしていたのか、僕はとうとう彼に押しのけられた。
「分かったなら、とっとと行ってこい」
 気持ちを持て余したまま、心ゆくまで彼を抱きしめられずに離れるのは辛かったが、役目は役目だと僕は自分に言い聞かせた。
「はい。では行ってきます」
 しかし、彼も相当意地が悪い。
 苦しい程抱きしめられた意趣返しのつもりなのか、それとも照れ隠しだったのか、なんとか自分を奮い立たせドアノブに手を掛けた僕に、こう言ったのだ。
「俺の勤務先が決まったら、部屋を探すぞ」
「え……」
「寝る。帰ってきたら起こせ」

 もし僕が悲恋の物語の主人公だったなら、向かった戦いの場で命を落とし、ふたたびその部屋に戻ることはなかっただろう。それぐらいの劇的な展開だった。
 けれど実際にはそのようなことはなく、僕は無事、三時間後に部屋へ帰り着き、すっかり寝入っている彼を言われた通りに起こしていいものか朝まで待つべきなのか三十分程迷った挙句、冷え切った体で大きなくしゃみを連発してしまい、不本意ながら彼の目を覚まさせてしまったのだった。


 車を駐車場に入れて、マンションのエントランスに足を向けた。ドアに映った自分の姿に、もう一度苦笑が浮かぶ。思っていた以上に酷い有様だ。車内のミラーでは顔ぐらいしか見えなかったのだが、コートやパンツは土埃にまみれ、拭った唇の端からは新たな赤い筋が流れていた。彼の目から隠すのには限界があるし、隠したつもりでも、見通されてしまう。
「またあの人に怒られちゃうなあ……」

「まったくだ」
「あ」
 耳慣れた声に顔を上げると、まさに彼がエレベーターホールからこちらに向かってくるところだった。寝間着代わりのスウェットに、カーディガンを羽織っただけの格好だ。
「ただいま帰りまし、た……」
 出てくる時に起こしてしまったのだろうか。あれから二時間以上は経っている。もう明け方に近い時間だ。
「車の音で起きたんだ」
 僕の思考を読んだように彼が答えた。本当はずっと起きていたのかもしれないと思った。
「それにしても、酷いな」
 彼の視線は、汚れた衣服や切れた唇ではなく、まだ力の戻りきらない右腕に注がれていた。
「ええと、折れても外れてもいませんから、ご心配なく」
「馬鹿言え」
「いっ!」
 近づいた彼に容赦なく腕を取られ、小さく悲鳴を上げてしまう。
「打撲も立派な怪我だろ。応急はしておくから、明日整形に寄って診てもらえよ」
「……はい。分かりました」
 僕はそう答えるしかない。
「面目ありません」
 先を歩く彼が振り返った。「シャワー、入れるか?」
「そう、ですね。このままベッドに入るわけにもいきませんし、大丈夫かと……」
「洗ってやるから、玄関でそれ脱いで直行してろ」
 彼はエレベーターの扉を閉じて、階数ボタンを押す。
「あの」
 僕はどうしようもなく、目の前で普段と何ら変わりのない顔をしている彼を抱きしめたくなってしまった。
「何だ」
 しかしそうは思っても、腕は片方上がらないし、服は汚れている。キスなら出来るかもしれないが、この状態では血の味しかしない。
「いえ、何でもありませ――」
 無事な方の腕を掴まれ、引き寄せられたかと思うと、
「んっ」
 止める間もなく、唇の傷を舌先でなぞられていた。目を見張る僕に彼は、
「お前、そういう顔は俺の前でだけにしろよ」
 そう言って、わずかに目を細くしてみせる。
「……そんなに物欲しそうな顔してましたか」
「まあ少なくとも俺には見えたな」

 利き腕はほとんど力が入らないし、唇だけではなく実は口の中も切れていたりするのだが、もし彼が許してくれるなら、それらの痛みを堪えるぐらい、今の僕には容易いように思える。
 彼がくれる一生ものの言葉がもう何度目のそれなのか、僕には到底数えられやしない。

「プロポーズ」(2008/01/22)

30歳古キョン未来妄想パラレル。
古泉が超能力者でいるのは高校時代までと基本的には思っているのですが、たとえばの話。