「恋をしている」

「今日は楽しかったですね」
 オレンジの西日を背中に受けて、足下から二人分の影が伸びる。一つは自転車を押す俺の影、もう片方は、指定バッグの他にもう一つの袋をさげている古泉の影だ。
「それは自慢か」
 そのいつもとは異なるシルエットを作っている袋の中身に関しては、面白くないので具体的な説明は割愛する。
「とんでもありません」
 意地悪を言わないでください、と古泉が困ったように眉を下げる。「これでも回避に努めたのですから」
「だからそれが自慢だと言っているんだ」
 実は甘いものが苦手だという嘘の情報を広め、休み時間という休み時間には教室から姿を消して――その度に部室やら屋上やらで時間つぶしに付き合ってやった俺も、たいがいお人よしと言える――、それでも一日が終わってみると、紙袋いっぱいに色とりどりの包みが詰まっているのだ。普段はあまり意識していなくても、こういうイベントがあると、やはり古泉の女子人気の高さを再認識させられる。同時に、同じ男としてただ羨ましいというのとは別の感情も自覚させられるわけだが。
「お菓子作りなんて、自分ではしませんしね」
「嫌味なくらい似合ってたけどな」
 ハルヒの用意したピンクのエプロンを着けて、朝比奈さんと並んで生クリームを泡立ててる姿なんか特にな。
「そうですか?」
 ふふ、と古泉が目を細くする。まだ髪の毛や制服に残っている気がするチョコレートやバニラビーンズの甘い匂いも、こいつにはたいそうお似合いだ。
「俺はお前が『実は僕、お菓子で出来た家に住んでるんです』と言っても驚かんぞ」
「僕の部屋、ご存知でしょう」
「ものの例えだ」
「それは好意的な評価と受け取ってもよろしいのでしょうか?」
 どうだろうな、と生返事をして俺は溜息をつく。
「それにしても、また来月が思いやられるぜ」
「今年はどうしましょうか」
「ハルヒの奴、去年同様、三十倍返しとか抜かしやがったからな」
「ですね」
「今年は俺たちだって一緒に手伝っただろう」
 去年、あれだけの騒動と苦労の最後を飾ったバレンタインチョコの印象は、さすがに鮮やかで、だから今年は、二月十四日が何の日なのかということをうっかり忘れるなどしなかったのだが、ふたを開けてみば、本年度のSOS団バレンタイン企画は、全員参加のお菓子作りとお茶会だった。別段何かを期待していたわけではなかったものの、ある程度身構えていた分、少し拍子抜けしたのも確かだ。
「どうやっても、あなたがこの日を意識すると分かっていたから、あのような形になったのかもしれませんね」
「あいつはいい加減、素直さってやつを覚えるべきだな」
「そんなところもまた、可愛らしいではないですか。誰かさんと同じで」
 いたずらっぽい笑顔を見せて古泉が言う。
「誰かさんとは誰のことだ」
 その含みのある言い方、聞き捨てならんぞ。
「ヒントを出しましょうか」
 古泉の目がきらりと瞬いたような気がして、
「いや、いい」
 俺は慌ててそれを遮る。危うく誘導に乗せられるところだったぜ。話題を変えるのが賢明だな。
「今日の男どもは、もらえるアテのある奴もない奴も、一様に落ち着きがなかったな」
「一大イベントですからね」
 その一大イベントに、こいつは迫り来るプレゼントの波状攻撃から身を守ろうとしていたわけだ。まったくもって、世の男たちの非難を一身に浴びても文句は言えない所業だ。しかしその古泉の行動も元をただせば、……まあ、俺が考えることでもないだろう。
「谷口の奴なんか、分かりやすいというか単純というか」 
 あの単純さが、女子の好意の対象になる日はやってくるのであろうか。
「何かあったんですか?」
「一週間ぐらい前だったか、体育の後の話だ」
「先週というと、マラソンでしたよね」
「ああ、外から戻って着替えてた時、おもむろにカバンからリップを取り出してな」
「リップクリームを?」
「それまで使ってるの見たことなかったから、訊いたら、『男の身だしなみだ』とか言ってて」
「……なるほど」
 一拍置いて古泉が、理解した、というように頷く。古泉と谷口の間には、谷口の奴が一方的に『特進クラスの二枚目』をやっかんでいるぐらいで、これといった親交はないのだが、そんな古泉にも瞬時にして意図を理解されてしまうくらい、あいつの行動原理は単純明快なようだ。
「その『身だしなみ』とやらが報われてた気配はなかったがな」
「ですが、気持ちは分からないでもありません」
「そうか?」
 意外な言葉に、隣りの古泉を見る。古泉が谷口のような真似をするとは思えんが。
「想定される有事に対して万全のコンディションを整えておきたいと思う、という意味で」
「有事、ねえ」
 古泉の言うところの『有事』と、谷口の起こる可能性がほとんどゼロな『有事』とじゃ、話が違うだろうよ。
 そんなことを思ったのが顔に出たのかもしれない。古泉は穏やかな表情を崩さずに、
「いいえ、実に単純な話です」
 どこか、はにかむように言った。
「リップクリーム、あなたは使っていませんよね」
「確かにこの季節、カサついてる感じはあるが、気にする程じゃない」 
 自分の唇に指を触れると、表面が少し荒れているのか、薄くめくれた部分が引っかかった。
「お前は使ってたりするのか、リップの類を」
 自然と古泉の唇に視線が止まる。薄く形のいい唇は、少し違えば酷薄にも見えそうなところ、しかし絶妙なバランスで、理知的かつ物腰の柔らかい印象を与えている。もちろん荒れてなどいないのだが、それはデフォルトでそうなんじゃないのか?
「告白してしまいますと、使っています。かなり薄づきのものですが」
 あなたが気づかないぐらいの、と古泉は、小さな秘密を打ち明けるように付け足した。
「言われても分からん」
 俺は古泉の口元を見つめていたことに気づいて、目を逸らした。言っておくが、今の視線に深い意味はないからな。そもそも、何だってリップがどうのという話に……って、俺か。当たり障りのない馬鹿話に話題を変えるつもりが、迂闊だった。話を転がしたのは古泉の方だと思うが。責任転嫁じゃないぞ。
「少し気になっていたのですが、よろしければ、あなたも使ってみますか?」
「気にならないってさっき言ったろ」
 それに、お前に唇の荒れを心配される筋合いも……ないとは言い切れないかもしれないような気がしないでもないところが、まあ、何だ。
「あなたの唇の状態を気遣って手加減しなくてもよくなりますから」
 あまりにさらりと言われた言葉に、最初のリアクションを取り損ねてしまう。
「……加減、してるのか?」
「どうでしょうね」
 その返事は何だ古泉。ひょっとして、さっきの俺の生返事にやり返したつもりじゃないだろうな。
 とは思ったものの、蒸し返されても分が悪い。
「そのうち気が向いたら使ってみなくもな――」
 一瞬、だった。
 足元に落とした視線が遮られたかと思うと、キスされていた。瞼を下ろす間もなく、唇の表面を合わせただけのそれは、すぐに離れた。
「なっ、」
「先程、学校を出る時も付けてきましたので」
 優雅にすら見えるカーブを描いて、今触れた古泉の唇が笑む。
「お前な……」
「どうかしましたか?」
 本日二回目の溜息は、自分でも嫌になるくらい甘いものだった。誰のせいだろうな。
「俺も谷口の奴のことを笑えんくらいには、単純で分かりやすいと思っただけだ」
「それはそれは」
 ええい、くそ。認めたくはないが、何やら今日は、とことん分の悪い日柄らしい。
「今日はお前んちに寄る約束はしてなかったよな」
「ええ。そのように記憶しています」
 それなら無理に逆らうのも、無駄な抵抗に終わる可能性が否めないことになる。
「これから行ってもいいか?」
「はい、もちろんです」

 仕方ないな、と俺は内心で呟いてみる。ああ、仕方がないのさ。
 紙袋いっぱいのチョコレートに要らない嫉妬を覚えるのも、それが『要らない』ものだと本当のところでは知っている自惚れも、キスの一つで帰り道を変えるのも、喜ぶ瞳の色を深くして手を差し出す古泉を嬉しいと思うのも、全部。
 それは、今日が二月十四日だからというわけではない。
 俺は、いや言い換えるべきか、俺たちは今、一時のものとは到底思えない、気の迷いの真っ只中にいるのだ。

 俺は自転車を止め、古泉と繋いだのと反対側の手で、遅くなると家に連絡を入れるために携帯電話を取り出した。

「恋をしている」(2008/02/14)