「恋の中」

 自転車を止めて通りに出ると、西北口の柱の前に佇む古泉が目に入った。
 休日の昼過ぎ。駅前はそれなりに人通りがあって、待ち合わせと思しき姿も多い。その中で古泉の姿も時折り、重なる人影に遮られるのだが、視界が開けた途端、俺の目は迷うことなく古泉を見つけていた。
 すぐに古泉も俺を見つけ、軽く手を上げる。きらきら。
 ……いかん。古泉が奴にしては屈託のない笑顔を見せた瞬間、周りにちらちらと光るようなものが見えちまった気がする。

「おはようございます」
 近づくと、古泉が柱を離れてこちらに歩み寄ってきた。
「はよ。もう昼だけどな」
 立ち止まらずそのまま目の前をかすめて構内に向かう俺に並んで、
「本当に春らしい日ですね」
 古泉の言葉通り、今日はもう冬を思い出せないくらいの暖さで、吹く風も日射しも優しく心地よい。
「おかげで眠くてかなわん」
 階段を上るのも億劫に感じるぐらいだ。
「寝不足ですか?」
 隣から古泉が気遣うように顔を覗き込んでくる。
「いや、そういうわけじゃない」
 以前に比べるとだいぶ落ち着いたとは言っても、昼夜を問わないアルバイトで睡眠不足に陥るのは、古泉の専売特許だ。だから市内探索のない休日ぐらいはゆっくり寝かせてやりたくて、待ち合わせをこの時間にしたわけだが、……まあそんなことはどうでもいいな。
「こう暖かいとな」
 言っているそばから出そうになる欠伸を噛み殺す。春の陽気と一緒に俺の心身も緩んでいるのに違いない。いっこうに去らない眠気もさっきの錯覚も、きっとそのせいだ。
 無理はしないでくださいね、と言い置いて、古泉は先の券売機に向かった。行きの切符は古泉が二人分買い、帰りは俺がまとめて買ってから渡す。いつからか、二人だけで出掛ける時の約束事のようになっていた。

「どうぞ」
「ん、サンキュ」
 切符を受け取って、上り線の乗車口の脇に立つ。
「去年は去年で頭を捻りましたが、今年は品物選びから難航するかもしれません」
 そうだった。眠さで半分忘れかけていたが、今日の俺たちは、とある使命を帯びている。来週に迫ったホワイトデーのお返しの品を探しに行くのだ。
「だがまあ、今年のバレンタインはあれだったから、品物さえ選んじまえば、渡すのは普通のやり方でもいいんじゃないか」
 古泉は、少し考えるようにしてから、
「一理ありますが、それ以前に、その『品物さえ』が問題です」
 うーん、確かに。去年は欲しい物が銘柄指定でリストアップされてきたから、それを揃えるのには苦労しなかった。その分、渡す方法に二人で頭を悩ませ、『北高ミステリーツアー』なるイベントを打ち出したわけだが、今年はその逆ってことか。
「彼女たち、とりわけ涼宮さんに満足していただけるようなものを、果たして見つけることが出来るのかどうか」
 半日仕事では終わらないかもしれませんね、と付け加えた古泉は、その声音や言葉のわりに、どこか楽しそうに見える。
「俺たちなりに、これだ、ってのを探すしかないだろ」
「ええ、そうですね」
 頷いた古泉が反対側に顔を向ける。つられて目をやると、電車がホームの端に滑り込んでくるのが見えた。

 窓越しに降り注ぐ昼下がりの日射しが、床の上に柔らかい陽だまりを作っている。古泉と並んで座る背中も、陽を受けてじんわりと温かい。
 まずいな、これは本格的に眠気に太刀打ち出来なくなりそうな予感がする。
「昨夜、僕なりに考えてみたのですが」
 声に視線を床から拾うと、
「やはりヒントが抽象的過ぎて、行き詰まってしまいました」
 古泉がジャケットのポケットから、折り畳まれたメモ用紙を取り出した。昨日、部室でハルヒに渡されたノートの切れ端だ。ハルヒからは、小遣いの範囲で買えるもの、という条件も付けられた。金額ではなく、知恵とアイデアで希望を叶えてみせろということらしい。
 訊くと古泉は、整った指先に挟んだメモに目を伏せて、思案顔になる。
「こちらからも同様にお茶会を用意するという前提で」
 古泉の色の薄い髪の輪郭が、射す陽光に透けて輝いて見える。
「まず、涼宮さんの“きらきらしたもの”ですが」
 らしいと言えばらしいが、あいつの場合、本人がきらきらどころかぎらぎらしてるぞ。
「シンプルなもので、ゼリー菓子や和菓子、デコレーションの繊細なケーキ類、」
 菓子の見た目ってことか。
「少し比喩的になりますが、金平糖ですとか」
「まあ、きらきらしてるってのには当てはまるな」
「ですが、このような単純なものでご満足いただけるかというと……」
「なら、菓子類にこだわらなかったらどうだ」
「と言いますと」
 俺もこれといっていい考えがあるわけじゃないんだが、
「品物じゃなくても、部室で出来ること、って考えるなら、たとえば、簡単なプラネタリウムとか」
 予算を考えると、手作りってことになりそうだが……、って、なんだよ古泉、何か変なこと言ったか? まじまじと見るような顔じゃないぞ俺は。
 至近距離からの視線に眉をひそめてみせると、古泉は、あ、いえ、すみません、と小さくかぶりを振った。
「僕にはとても思いつかなかったので、感心していたんです」
 そうか? こういうのはお前の方が思いつきそうなものだと思うが。
「部室でプラネタリウムなんて、きっと涼宮さんも喜んでくださるでしょう」
 おい、決めちまうのか? 適当に思いつきを言っただけだぞ?
「いいえ、とても素敵だと思いますよ。場の演出としてもこれ以上ないかと」
 僕も楽しみです、と古泉が目を細くした。その睫毛の先に光が跳ねたのが見えて、当然お前も一緒に作るんだからな、と言おうとしたのを、思わず飲み込んでしまう。
「どうかしましたか?」
 何でもない、と古泉の視線をかわして、手元の紙切れに目を落とす。
 さっきといい今といい、やたらと古泉がきらきらして見えるのは、光の加減のせいだよな?
「次は朝比奈さんの“あまいもの”ですね」
 古泉の指が、今度は朝比奈さんの可愛らしい文字を示す。朝比奈さんの場合、その愛らしいお姿そのものが“あまいもの”になると思うわけだが、あまいものか……甘い……甘い、匂い……ん、今もするな、やっぱり。
 俺は古泉の横顔を、気づかれないようにちらりと見る。
 このぐらい近くにいると、古泉から何やらほのかにいい匂いがする時があるのだ。いい匂いと言ってもいろいろあるが、形容するなら、『甘い』が一番近い気がする。ずっと、香水の類を使っているか、あるいは、シャンプーや石鹸、整髪料などの匂いなのかと思っていたのだが、ある時、そうではないと知ることになった。ああ、参ったな、と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。一年近く前の話だ。
「こちらは普通に、可愛らしいお菓子を探せばいいでしょうか。あるいはお茶の路線で」
「そうだな。朝比奈さん、最近、何て言ったか、甘い香りのする……」
「フレーバーティーですね」
 ああ、そうそう。
「少し調べてみたのですが、僕たちが飲んだことのあるもの以外にも、種類がたくさんあるようです。紅茶の専門店も覗いてみましょう」
 男二人で紅茶の専門店か。まあ、俺はともかく、古泉なら似合うだろう。
「ご自分が卒業した後のことをご心配なさっていますから、いろいろと買い込んで、お茶の講習会を朝比奈さんにお願いしてもいいかもしれませんね」
 ああ。
「甘い香りのものの他にも、涼宮さん用に、何か面白いお茶も探しましょうか。長門さんは、どのようなものがお好みでしょう」
 古泉の柔らかい声が耳に心地いい。古泉のさまざまな表情を知るようになって、同じようにいろんな声も知ったが、一番心地よく響くのは、こんな、何でもないことを穏やかに話している時の、陽だまりの似合う、凪いだ声だ。
「――に、長門さんのリクエストは“やわらかいもの”――」
 そう、柔らかくて……、
「――には、やはり食べ物がいいでしょうね。ここはストレートに食感を――」
 ああ、それがいいな……。
 相づちを打っていると、くすり、と隣で古泉の笑うような気配がした。
 すまん、大丈夫だ。話は聞いてるぞ。
「いいえ、そうではありません」
 いつのまにか俯けていた顔を上げようとするが、頭が重くて、思うようにいかない。ああ、くそ、瞼も重くて仕方ない。
「眠っててもいいですよ」
 耳元で古泉の声がした。
「近くなったら、ちゃんと起こしますから」
 眠ってもいいと言う古泉の声に、体じゅうの力が抜けていくのを止められない。
「よろしければ、肩、どうぞ」
 言われるが早いか、俺の頭は、ぐらりと古泉の側に寄り掛かっていた。少し癪だが、ちょうどいいんだ、古泉の肩の高さ。
「おやすみなさい」
 まるで魔法の呪文のような古泉の言葉に、俺はもう、立ち向かうすべを持たない。

 メモ用紙に書かれた言葉が、ぐるぐると回る。きらきらしたもの、あまいもの、やわらかいもの。
 そう、これから古泉と二人で探しに行くものだ。でもそれらは、もっとずっと近いところにあるような気がする。
 きらきらしたもの、あまいもの、やわらかいもの。
 そうだ、たとえば、今ここに。俺の胸の中、それからたぶん、古泉の中にも。

 瞼越しに感じる優しい光に溶け出すように、残りの意識も手の中からこぼれていく。

 そうだな、全部、ここにある。
 だけれど、と俺は思う。
 ああ、けど、悪いな。古泉は誰にもやれんし、分けることも出来ないんだ――

「恋の中」(2008/03/27)