「ジュブナイル」

「僕も未来人だと言ったら、信じてくださいますか」

 よほど間の抜けた顔をしたのだろう、言ってから古泉は俺の顔を見て、くすりと笑った。
 ついさっき、五分ぐらい前だったか、突然飛び出してきた車とぶつかりそうになって跳ね上がった心臓がやっと落ち着いてきたというのに、今度は理由の分からない嫌な動悸がこめかみを打ち始める。
 おい古泉よ。いくら明日から高校生活最初の夏休みが始まるからといって、浮かれ気分でかます冗談にしては、楽しくも何ともないぞ。
「お前の担当は超能力者だろ」
 三ヶ月前の俺なら、だったら面白いな、などと鼻先で笑っていたに違いない。だが今の俺は、本物の未来人を、宇宙人を、超能力者を、そしてでたらめな力を秘めた少女を知っているのだ。
「ええ、その通りです。ですがそれ以前に――」
「未来人だってんなら、朝比奈さんとかぶるだろうが」
 俺の中の未来人の定義はすでに、愛くるしい上級生と決まっている。
「事実ですので仕方ありませんとしか。ついでに申し上げますと、不可抗力ながらある意味、僕は異世界人も兼ねていると言えます」
「……どういうことだ」
 夕暮れに染まった古泉は、知らず足を止めていた俺を促すように、手のひらを先へと向けた。


「古泉一樹です。……よろしくお願いします」
 五月の中頃、ハルヒが即戦力だと引っ張ってきた謎の転校生。整った顔立ちに柔らかい笑みを浮かべて現れた古泉は、手を差し出しながら、その時が初対面のはずの俺を、どこか懐かしそうに目を細めて見ていた。覚えてはいないが以前にどこかで会ったことがあるかと問うと、古泉は表情をしまい込み、顔を合わせるのは初めてだと、それから取り繕うように、一度、駅で見かけたことならあると言った。俺はすれ違っただけで相手の印象に残るような外見は持ち合わせていない。


「どこからご説明しましょうか。予定時刻にはまだ三十分程ありますから、残りの時間で許される限り、あなたのご質問にお答えしますよ」
 予定時刻だとか残り時間だとか、不安感を煽る物騒な単語が古泉の口から出てくる。
「あと三十分で何が起こる」
「座りませんか?」
 古泉は俺の問いかけを無視して、川沿いの遊歩道に置かれたベンチに誘った。「それもこれからお話します」
 並んでベンチに座ると古泉は、西日を映す前方の川面に視線を固定したまま、ゆっくりと話し出した。
「この世界が涼宮さんの能力によって作り変えられる可能性については、以前にもお話ししましたよね」
 これから語られる話がどんなものなのかと緊張する俺とは対象的に、古泉の声はいつもと何ら変わりないように聞こえた。
「ああ。それを防ごうとしてるのが、お前のいる『機関』なんだろ」
「僕の本来の所属は、この世界の『機関』よりも先に『改変世界の未来』なんです」
「改変世界の……未来」
 俺は初めて耳にする単語を、おうむ返しに呟く。未来ってのは、朝比奈さんが所属する時代を言うんじゃないのか。ハルヒの力で変わっちまった別の世界の未来もあるってのか? どう違うんだ。
「平行世界、という言葉が一番近いでしょうね。こことごく近い次元にほとんど重なるように存在する、とてもよく似た、けれども決して同一ではない世界――そうですね、『改変並行世界』と呼ぶことにします。その『改変並行世界』、つまり僕のいた世界が生まれたのが、いえ、もう言い換えるべきですね、誕生する予定だったのが、今日の午後六時五十九分、つまり今から約三十分後です」
 三十分後に、こことは別の世界が生まれるはずだっただと?
「はい。『改変平行世界』誕生のスイッチとなったのが、あなたの……」
 一瞬、古泉は言いよどんで、
「気分を悪くされたらすみません。回避出来たので告白してしまいますと、スイッチは、あなたの死亡です」
 俺の死? 俺は死ぬのか? いや、回避出来たって?
「それが先程の出来事です」
 めずらしく古泉と二人での帰り。気まぐれに付き合わせ、少し遠回りをした。今年の桜には間に合わなかった古泉に、教えておいてやろうと思ったのだ。夏休みが始まることに浮かれていたのかもしれない。突然、脇道から飛び出してきたトラック。まるでそれを予見していたかのように、古泉が俺の体を引き寄せた。浮いた前髪の先を掠めるように走り去る影。どっと汗が吹き出た。それから、さあっと血の気が失せ、冷えた全身に震えがきた。へなへなと座り込みそうになる俺を、古泉が深い安堵の溜息とともに、しばらく抱き止めていた。回避出来たというのは、あれのことなのか?
「そうです。あなたがあの時に生を終えた世界があったんです」
 ですが、ご心配なく、と言って古泉は俺を見た。安心させるように、穏やかに笑ってみせる。
「申し上げた通り、それは回避されました。あと三十分――ええと、もう残り二十六分ですが、このまま何事もなく過ぎれば、完全に確定します」
 俺は古泉の表情に目を凝らす。
「仮にお前の話を信じるとして、けど俺が死んだからって、何がどうなるってわけでもないだろ」
 家族や友達を悲しませることにはなるだろうが、それがどうして平行世界の誕生とかいう大事になるんだ。
「五月のこと、覚えていますか?」
 覚えてるも何も、
「忘れられるもんなら忘れたいね」
 ハルヒと二人だけで隔離された空間。古泉によると、隔離されたのは、俺たち二人を除いた世界全部の方ということだったが、どっちにしても、あんな冗談にしたって笑えない展開と、あの空間から戻ってくるために取った行動は、取っ手のない記憶の引き出しにしまい込みたいぜ。
「あの時は肝を冷やしました。僕がこちらに来たことで、あるべき世界の筋書きが変わってしまったのかと」
 まあ、誰にとっても予想外なとんでもない悪夢だったってのは確かだが、
「筋書きって何だよ」
「『改変並行世界』の未来における既定事項を、僕が今日のあの瞬間に覆すことです」
 待て。変えるって、未来での既定事項を遡った過去で変えちまうってのはマズいんじゃないのか。それぐらい俺にも分かるぞ。
「ええ、その通りです。ですからこれは逆の発想なのです」
 古泉は、そこでいったん言葉を切った。

「僕は、僕のいた世界を消失させるためにここにいます」

 古泉の言葉を理解するのに、一呼吸分の間が必要だった。
「何、言ってんだ?」
 意味としては理解したつもりでも実感が伴わないのは、その劇的な告白の内容と、目の前の古泉の穏やかに澄んだ様子とが、あまりにかけ離れているからだ。 
「あなたの死を知った涼宮さんは、おそらく心の底から絶望したのでしょう。その喪失感に耐えられず、いえ、表層では気丈に乗り越えようとなさったのかもしれませんが、結果として、深層意識の働きにより、もう一つ、あるいは二つの世界を作り出した」
 俺が死んだから、ハルヒが別の世界を作っただって?
「ですが、やはり涼宮さんはさすがと言うべきでしょう。そのような精神状態にあっても、ぎりぎりのところで摂理というものをわきまえていた。現実にあなたの死をなかったことにはせず、本来あるべき世界はそのままに、別の世界を派生させたのですから。それが、喪失感に耐える必要のないよう、自身の存在を消してしまった世界なのか、それとも、死から放たれたあなたと二人きりの世界なのかは分かりません。後者の場合、僕のいた世界は、隔離され取り残された側ということになるわけですが、どちらにせよ、『改変並行世界』にあなたと涼宮さんは存在していないのです」
 古泉は続ける。
「さすがと言うべきは、それだけではありません。涼宮さんは、自分の無意識が生み出してしまった世界を別次元の平行世界という位置づけにしただけではなく、その“あるべきではない世界”を正すための手も同時に用意していた」
 正すための、手?
「そうです。僕たち『改変並行世界』の者は皆、程度の差こそあれ、ある共通認識を持っていました。自分たちのいる世界が、本来ある世界の複製品であること。あなたと、涼宮さんという神を欠いた不完全なものであること。そして、その不完全なレプリカ世界が消失すべきものであるということです。おかしなことを言っているようですが、僕たちにとってはすべてが紛れもない事実です」
 荒唐無稽な話だと思う一方で、俺は静かに語り続ける古泉の言葉が性質の悪い嘘や冗談ではないのだと感じ始めていた。そう信じさせるだけの何かが、古泉にはあった。


「負け続けるのがそんなに嬉しいもんかね」
 部室の長机で向かい合った古泉に、そう言っていた。次から次へと新しいボードゲームを持ち込んできては俺を誘い、次のゲームこそは得意なのかと思えばまったくそんなことはなく、別段強いわけでもない俺の勝率は限りなく十割に近いあたりから動かなくなっている。それでも懲りずに、もう一戦いかがでしょうと嬉しさをにじませた笑みを見せるのだから、よほどマゾっ気があるのか何なのか、それならそれでもっと然るべき相手がいるんじゃないかという意味だったのだが、それに対し古泉は、そういうわけではないが、勝敗の問題以前に、念願が叶ったから嬉しいのだと言った。こいつはそんなに対人戦に飢えていたのだろうかと思いつつ、俺を見る古泉の目に浮かんで消えた、その言葉とは裏腹な寂しげな光が心に残った。


「こちらの『機関』が≪神人≫の所以を知り、それを倒す力を持っているように、あちらの『機関』は『改変並行世界』の成り立ちと自分たちがなすべきことを認識し、こちら側に干渉する手段を持っていました。それが僕です」
 時期外れの転校生は、ある目的を持って俺たちの前に現れた。初めて会ったはずの俺を、まるでずっと前からの知り合いと久方ぶりの再会を果たしたような目で見ていたのも。
「誰一人として聞いたことも会ったこともないあなたと涼宮さんを、もちろん僕も知っていました。その不在という存在感は絶対的なものです。僕は会いたいと思った。自分たちの世界を生み出した彼女に、そのきっかけとなったあなたに。焦がれていたと言ってもいいかもしれません」
 俺とのボードゲームは勝ち負けではないと、念願が叶って嬉しいのだと言い、なのにその言葉の背中に寂しさのようなものを潜ませていたのも、古泉にとっての真実がそうさせていたのだ。
 黙り込む俺に、古泉は話を変えるように一息ついてから、
「『改変並行世界』と僕の存在は、長門さんの勢力が把握し、朝比奈さんの未来やこちらの『機関』も知るところとなったようです。あなたの保護および涼宮さんの観測継続という目的が一致していたことで、こちらに来てからいろいろとサポートを受けられたのは助かりました。まさか、都合よく限定的超能力まで得ることになるとは思いませんでしたが」
 ……今日、朝比奈さんが急に休みになったのは。
「おそらく、直前にこのことを知らされたからでしょうね」
 長門が早く帰ると言い出したのは。
「長門さんの配慮でしょう。涼宮さんと別れてから、少し前まで、それ程離れていない場所で僕たちの行動を看視していたはずです」
「知らなかったのは俺だけ、俺とハルヒだけだったってのか」
 気づくはずがない。超能力者でも未来人でも宇宙人でも、何の後ろ盾もない凡人の俺に分かるわけがないだろう、こんなこと。
「すみませ――」
「すみませんで済むか」
 俺は古泉を遮った自分の声の強さに驚いた。いつのまにやら俺は、この胡散臭いニヤケハンサム野郎に、友情とまではいかないかもしれんが、少なくとも、珍妙な活動目的を持つ団体に同じく属する者として、仲間意識のようなものを感じていたらしい。古泉はその部分を明言していないものの、話の内容からするに、『改変並行世界』とやらがあと数分で初めから存在しなかったことになるのなら、同じくこの古泉の存在も消えちまうんじゃないのか。にもかかわらず当の古泉が、まるで何度も練習してきたような口ぶりで淡々と俺の質問に答え、説明し、あまつさえ微笑すら浮かべていることに、俺は腹立たしさを覚えたのだ。
「それでも、すみません」
 古泉は言い直し、
「ですが、あなたに一番言いたいのは感謝の言葉なんです。この二ヶ月間、いろいろとありがとうございました」
 それから、ふ、と笑った。いつものニヤケ笑いではない表情だった。何度か見た覚えがあった。
「僕は楽しかったんです。最初からすべてが決まっていて、自分は終わらせるための存在で、どうして僕が、と一度も思わなかったと言えば嘘になりますが、今は、こちらに来ることが出来て、それが他の誰でもない自分で、よかったと思っています。あなたと涼宮さんに会えて、SOS団の一員になって、慌しくも充実していて、短い期間でしたが、本当に楽しかった。これが欠けたもののない、あるべき完全な世界の姿なのだと実感もしました」
 その挨拶は何だ。十六やそこらで、今生の別れなぞ経験したくないね俺は。
「僕だけが一方的にそう思っていたのだとしても、あなたと友達になれて嬉しかった」
 ああそうさ、お前が勝手に思ってるだけだ。俺の中ではまだ友達未満だぞお前は。
「時間も次元も越えて友達になれたなんて、おとぎ話みたいですよね」
 気持ちの悪いことを言うな。だから、友達になるのはこれからだ。
「……お前がいなくなったら、男子団員が俺一人になるだろうが。力仕事やらフォローやらの面倒ごとが全部俺に回ってくるんだぞ」
 俺の文句に、古泉は眉を下げて笑った。
「申し訳ありませんが、頑張ってください」
 頑張るのは性に合わん。お前も知っての通りだ。
「明日からの合宿はどうする。拝命したばかりの副団長が職務怠慢なんて、ハルヒの奴が許すわけないだろ」
 古泉は、そこで初めて、わずかに顔を曇らせた。
「それは……」
 しかし、それは一瞬のことで、
「それは、大丈夫です。僕の存在が消えるのと同時に、その痕跡と、こちらの世界で僕がかかわったすべての人の記憶から、僕に関する部分が綺麗になくなるはずですから」
 何でもないことのようにそう言うと、話はこれで終わったとばかりにベンチから立ち上がり、一歩踏み出してからこちらを振り返った。
「すみません。そろそろ時間のようです」
 そんな、何もかも諦めることを初めから覚悟していたような顔で、笑うな。
「お前は……、お前はそれでいいのかよ。それがお前の本音なのか?」
 分かってる。本音がどうであれ、古泉にはそれを選ぶことが出来ないのだと。受け入れるよりほかにないからこそ、静かに微笑んでみせるのだということを。それでも俺は、本当の気持ちを明かさないまま消えていこうとする古泉に、聞かずにはいられなかった。
「……僕は……」
 言いかけて古泉は、それを飲み込む。
「いいえ。それでは失礼します」
 傾いた日の最後の光に縁取られた古泉の体が、輪郭を風景ににじませていく。
「おい古泉っ」
 追いかけて伸ばした俺の手は、古泉の腕をすり抜けて空をきった。
 待てよ、待て古泉。俺の話はまだ終わっちゃいないんだ。
「…………、」
 俺の顔を見て息を飲んだ古泉が何か呟いた。だが、その声はもう俺には聞こえない。
「古泉っ――」


「こいずみっ――」

 切羽詰まった自分の声が耳に届いた。
 明るい視界に、見慣れた天井。宙に突き出した右手は痛いぐらいに固く握られている。渇ききった喉で叫ぶように呼んだのは……古泉?
「古泉!」
 俺は転がるように、というより慌てて転がり落ちたそのままの体勢で机の上に手を伸ばした。携帯を引きずり下ろし、アドレス帳を呼び出す。古泉。名字だけで登録した記憶の通りにその名前はあった。次いで日付を見れば、カレンダーは夏休み初日を示している。今日から夏休み。合宿の予定だ。俺は古泉を知っている。
「夢、だよな」
 携帯を床に放り出し、脱力する。なんてこった。
 なんという恥ずかしい夢を見てしまったのだ俺は。よりにもよって、古泉。リアル未来人である朝比奈さんでも、同じくリアル宇宙人である長門でもなく、リアルに超能力者ではあるがれっきとした現代社会を生きる高校生男子であるはずの古泉に珍妙と評するしかない設定を背負わせ、のみならず、ご丁寧にいくらかの本物っぽさまで織り込んだ話を、夢の中でとは言え、でっち上げてしまうとは。なんてこった。
 いろんな意味で力が抜け仰向けに転がったまま、これまたいろんな意味で起き上がれないでいる俺を、階下から妹の声が呼ぶ。思い出したように、目覚まし時計もその役目を全うせんと鳴り出した。
 もう起きてるから来なくていいぞとドア越しに大声で返し、俺はのろのろと体を起こす。
 今から俺がしなければならないことは、まず目覚ましを黙らせて、それから、そう、忘れることだ。ああ、忘れるに限る。
 あんなアホな内容の夢と、何より、あれが夢だったと分かってこぼれた、心底から安堵したような自分の声なんてものは。

「ジュブナイル」(2008/04/26)