「十一月のイントロ」

 見下ろすグラウンドや中庭からは活気に満ちた明るい喧騒が届き、足下の校舎からも生徒たちの高揚した息づかいが伝わってくる。どれも、昨日――と言っても、感覚的には数時間前だが――まではずいぶんと遠いものになっていた感触だ。
 ここに来たのは何となく足が向いたからだったが、俺はもう一度確かめたかったのかもしれない。エース長門が再登板した野球場も、危うくフェードアウトしそうになった季節はずれのビーチも、あちこち崩壊して無残な姿になった校舎にも、今はその痕跡一つ見当たらない。すべてが元通りだ。
 俺は視線を青空に転じ、フェンスに背中をあずけてずるずると座り込んだ。
「全部元通り……ってわけでもねえか」
 部室で向かい合った深層意識ハルヒの言葉を思い出す。
 楽しいはずがない、楽しいと感じるのはおかしいのだと、あいつは言った。四月に自らが打ち出したマニフェストと現状との矛盾が日々大きくなっていくことに苛立ち不安を覚えたハルヒの深層意識が、古泉が言うところのバージョン違いの≪神人≫として現れた姿。強がりながらも自問するように言葉を紡いだ深層意識ハルヒのあの言葉に、俺は思わず大声で返していた。
 『仲間』という単語に一片の気恥ずかしさもなかったかと言えば否定出来ないが、それでも俺があいつに言ったのは、全部本当のことだ。深層意識ハルヒを説得するための方便や出まかせなんかじゃなく、ひょっとしたら自分自身にも向けられていた、本心だった。
 これまで俺は、意思に関係なく巻き込まれ引っ張られ振り回されて、何の特殊能力も持たない凡人の自分は、ただ付き合わされているだけなのだと、どこか傍観者気分であったように思う。
 だがあの数日間、気づけば俺は必死になっていた。夏休み後半を思い出させる、文化祭前日のループから抜け出したいという気持ちももちろん大きかったが、それより、他のみんなが助かるならと、そして俺のことを思ってくれた長門に応えたいと本気で死を覚悟したし、どうなるか分からない状況の中でけなげに頑張る朝比奈さんを本気で支えたいと思ったし、心身を削りながら一人で≪神人≫を追い、戦おうとした古泉を本気で心配して走り回った。『仲間』という言葉は俺にとって、一朝一夕で出てくるようなものじゃなかった。
 『仲間』たちと一緒にいて、楽しくないわけがない。楽しいのが当たり前だ。細かいことなんて気にせず、高校時代ってやつを謳歌しちまえばいい。
 深層意識ハルヒに語りかけながら、俺もその実感を噛み締めていた。連帯保証人になってやると言ったのだって嘘じゃない。これからも、アホみたいなとんでもないことが起きるかもしれないが、楽しんでやろうと心に決めたんだ。それも、自分から進んで、他のメンツも一緒にだ。楽しいと感じる気持ちに枷をはめるなんて、青春の損失以外の何ものでもないからな。
 こうやって気づくことが出来ただけでも、あのループはハルヒや俺にとって、確かに意味のあるものだった。まあ、相当心臓に悪い思いをさせられたには違いないが。

「やはり、こちらでしたか」
「古泉」
 鉄製のドアが音を立てたのに目をやると、演劇衣装の古泉が姿を現した。
「通し稽古は終わったのか」
「ええ、おかげさまで滞りなく。練習にお付き合いくださり、ありがとうございました」
 いい加減見飽きた衣装で柔らかい笑みを浮かべながら、古泉は両手に持った紙パックのジュースを差し出して俺の前に立つ。
「礼は出し物が大成功に終わってからにしろ」
 言いつつ、俺はフルーツ牛乳に手を伸ばしかけて、気が変わり、ウーロン茶のパックを受け取った。あの閉鎖的閉鎖空間でバージョン違いの≪神人≫と対峙した後、古泉が、疲れた時には甘いものが欲しいと、砂糖を最大限に増量したコーヒーを飲んでいたのを思い出したのだ。映画が完成し、もうやるべきことが何もない俺とは違い、古泉はこれから午前と午後に二回ずつの公演が残っている。糖分は摂っておいた方がいいだろう。
 古泉は、一瞬、何かに思い当たったように眉を上げて、それから俺の隣に腰を下ろした。
 気づかんでいいからな、今のは。
「ああそうだ。そう言や分かったぞ、あれ」
 パックにストローを挿して、古泉に話を振る。
「あれ、と言いますと……編集作業の件ですか?」
 おお、察しがいいな。
「お前と会った後な、長門も違うって言うから、朝比奈さんと鶴屋さん、万が一にもあるわけないと知りつつ、一応、谷口や国木田にもそれとなく探りを入れてみたんだが、全員シロだった」
「では一体……」
 フルーツ牛乳には手を付けず、古泉は耳を傾けている。
 たいした話でもないんだ。飲みながらでいいぞ。
「うろついてたらシャミセンに呼ばれて、あいつ、見たってんだ」
「シャミセン氏が。それでは誰が――」
「俺だとよ」
 古泉は目を丸くして、
「え、あなた、ですか?」
 俺の顔をまじまじと見る。
「話は最後まで聞け」
 すみません、驚いたものですから、と古泉はストローに口を付けた。
「朝比奈さんのクラスで焼きそばパーティーしただろ。あの時、シャミセンが部室の前を通りかかって、目撃したそうだ」
 古泉は目で疑問を投げかけてきた。
「ん。俺はお前やみんなと一緒に焼きそば食ってたよな。だからシャミセンの奴、何言ってんだと思ったら」
 シャミセンの言葉を思い返す。
「あいつが見た『俺』は、確かに俺だが、今ここにいる俺とは違う『俺』なんだとさ」
「なるほど……」
 そんな思案顔したって、手にしてるのがフルーツ牛乳じゃ、格好ついてないぞ。
「あなたには編集作業の仕上げをした覚えがなく、失礼ながらそのためのスキルもお持ちではない。そして何より、時間的に不可能です。しかし、シャミセン氏があなたを見間違えるという可能性も極めて低い」
 古泉は、窺うように俺を見た。
「俺だって同じこと考えたぜ。で、思い浮かんだのが、」
「ひょっとして……」
「その、まさかさ。どうやら俺は、これから、CGムービーやらエフェクトやらの勉強を始めなけりゃならんらしい」
「未来のあなた、ですか」
 強い日射しがあるわけでもないのに、古泉は眩しそうに目を細めた。
「あくまで憶測だけどな。詳しく聞こうにもシャミの奴、もう、にゃあとしか言わないんだ」
「僕も、お会いしてみたいですね」
 古泉は、細くした目でフェンスの向こう、もっと遠くを見るように言った。
「別にそれ程今と変わらんと思うぞ」
 未来からやって来たのだとしても、そう何年も先の未来ではないだろうしな。
 古泉は遠くにやっていた視線を戻し、
「あなたでしたら、そうかもしれません。その未来で僕はどうしているのかと、少し気になったんです」
 そう言うと、目を伏せた。
「お前もたいして変わってないんじゃないか」
 五年、十年と先の話なら分からんが、だったら俺も同じだし、少なくともこれから二年半の間は、相も変わらずこの珍妙な活動目的を持つ団体の一員として、非日常的な出来事が半ば日常化しちまってるような高校生活を送ってるだろうさ。俺もお前も。
「まあ、閉鎖的閉鎖空間なんてのは、もう御免だけどな」
「ええ、そうですね」
 ここ数日の奮闘を思い出したのか、俯いたままで古泉が苦笑する。
「にしても、今回の功労者はお前だよな」
 お疲れさん、と残り少ないウーロン茶の紙パックの角を、古泉のそれにぶつけてやる。
 状況を打開するための策をあれこれと考えたり、いつもとは様子の違う閉鎖空間に『機関』の仲間たちと協力して穴を開けようとしたり、バージョン違いの≪神人≫を追いかけたり、崩壊に近づく空間の軋みを肌で感じながらも冷静に対処し、深層意識ハルヒの意図を読み取って動いたのも、全部、古泉だ。古泉がいなければ、俺はもっと取り乱していたかもしれない。
「とんでもありません」
 古泉は顔を上げ、俺を見た。
「功労者と呼ばれるべきは、あなたの方です」
 俺が一体どこでどう活躍したって言うんだ。
「深層意識が具現化した涼宮さんとの会話、僕も聞かせていただきました」
「あー……」
 あれか。あの時の会話を他の三人も聞いていたのだと思うと、どうにも気恥ずかしさが湧いてくる。美辞麗句を並べたつもりはないが、わざわざ口に出すものでもないからな。
「おかしなことを言うようですが、正直、涼宮さんを羨ましく思ってしまいました」
 何だよそれ。
 思わず見返した古泉は、自分でもどうにもならない感情を持て余し、なのにそれをひたすら押し隠そうとしているような、苦しそうで切なげな表情を浮かべていた。この数日間で何度か見たことのある表情だった。
 ハルヒの奴が羨ましいだって? 俺と深層意識ハルヒとの会話に、何か古泉が羨むような内容があっただろうか。
 考えかけて、俺はすぐに投げ出した。考えるまでもないからだ。俺は深層意識ハルヒに、いたって単純で当たり前のことしか言っていない。
「……すみません、冗談で――」
 はあ、と俺は古泉を遮り溜息をついた。深層意識ハルヒの前でついたのより、ずっと盛大にだ。決まってる。ハルヒといい古泉といい、どうしてこうも俺の周りには面倒くさい奴が多いのかね、まったく。まあ、俺もその単純で当たり前な自覚を先延ばしにしていたという点では五十歩百歩なのだが、それはこの際棚上げしておく。
 俺は、こわばる古泉の肩を無視して言った。
「古泉、お前、俺とハルヒの話、本当にちゃんと聞いてたのか」
「そのつもりですが……」
 微笑をしくじったような顔で古泉が答える。
「なら、お前がハルヒの奴を羨む理由がどこにある」
 言わなければ分からないというのなら言ってやるさ。ただし、一度だけだ。
「『SOS団の仲間』ってのには、当然ながらお前も含まれてる」
「は、」
「ついでに言えば、俺のあの時の言葉は、ハルヒだけじゃなく、俺自身やお前、朝比奈さん、長門、SOS団の全員に同じく当てはまることだ」
 お前だって、何も四六時中、任務やら役目やらに付き合わなくてもいいんじゃないか。たまにはそういうのを忘れて、高校生活ってやつを楽しんでもさ。それが、もしお前一人じゃ難しいというなら、俺が手伝ってやらんこともない。もう決めちまったからな。
「あ、りがとう……ございます」
 俺は古泉の顔を見ないよう、反動を付けて勢いよく立ち上がった。こっちが恥ずかしくなるような顔をしてるに違いないと思ったからだ。
「これ、ごちそうさん」
 空になった紙パックを振って、俺は屋上を後にする。
「お前のクラス、気が向いたら寄ってみるから」
 はい、ぜひ、と古泉の声が背中に届いた。

 ともあれ、今日から北校祭だ。

「十一月のイントロ」(2008/05/08)

ハルヒグッドルートのエンディング後。