「OTOMEGAMEism(i)」
「古泉!」
生徒たちが行きかう昇降口でやっとその背中を見つけ、俺は声を張り上げた。
見間違えるはずのない後ろ姿は、呼ぶ声に一瞬動きを止め、しかし振り返らずに出て行こうとする。
「待てよ」
俺は上履きで追いかけ、校舎から十数歩のところで捕まえることに成功した。
「あの、何でしょうか」
腕を掴まれた古泉が、こちらを見ないで前を向いたまま言う。
「何もくそもあるか。お前、俺のこと避けてるだろ」
ハルヒの都合で急に団活がなくなったから、顔を見がてら昼休みに九組まで伝えに行くと、古泉の姿はなく、クラスの奴から、まだ来ていない、遅れるらしいと聞いた。学校に来るなら一緒に帰ろうぜ、と午後の授業の合間に送ったメールには返信がなく、欠席ではないのだからと帰りのホームルームの後、急ぎもう一度教室に行ってみれば、今度はもう帰ったというのだ。これは避けられているという以外、他に解釈があるだろうか。
「いえ、そのようなことは……」
「メール見たか?」
古泉は思案するような沈黙の後、
「……すみません、気がつきませんでした」
「下手な嘘だな」
言って、前に回り込もうとすると、古泉は体の向きをくるりと変える。くるり、くるり。
「何やってん……だっ」
フェイントを入れて踏み込み、正面を捉えてやる。
「って、……眼鏡?」
お前、眼鏡なんてかけてたのか、と言いかけた俺の目の前で、
「いえ、違うんです」
と古泉は眼鏡を外そうとする。違うって何だ、違うって。
「待て」
「待ちません」
制止を聞かない古泉に俺は言った。
「これは命令だ。メールを無視した罰だ」
強い口調にびくりと肩を震わせた古泉は、手にした眼鏡と俺とを見比べてから、おずおずとそれを顔に戻す。
命令だとか罰なんてのは、もちろん言葉のあやだが、眼鏡をかけなければならない程目が悪いということを知らなかったのは、正直面白くない。
「それにお前、今日遅れてきたようだが、例のアルバイトか?」
「ええと、まあ、そのようなところです、と言っても差し支えないかと」
眼鏡をかけた古泉は落ち着かない様子で、なんとも歯切れが悪い。何か後ろめたい――言えない、のではなく、言いたくないことでもあるのか。わけの話せないものを言う必要はないが、そうじゃないなら話は別だ。
追及の態勢に入ろうとした俺は、そこで初めて、古泉の右目の縁辺りに、かすり傷のようなものがあるのを見つけた。
アルバイト、遅刻、目の近くの傷、見たことのない眼鏡、俺を避ける……。
古泉の妙な行動の点とキーワードが線を結び、今度は俺がぎくりとする番だった。
「お前、まさか、怪我して……」
続ける言葉を失う俺に、古泉は何でもないことのように、
「面目ありません。目の表面を少し傷つけて、コンタクト装用禁止を言い渡されてしまいました。と言っても、全治二週――」
「ばっ、」
かやろう、の大声をかろうじて飲み込む。
「ちょっと来い」
「えっ? あ……」
俺は古泉の腕を取り、ぐいぐいと引っ張って足早に歩き出した。すれ違う奴らが何事かと視線を向けてくるが、今はそんなの知ったことではない。
こいつのアルバイトやその周辺の諸々に関して、それに危険が付いてまわることや代役が立てられないことなど、納得は出来なくても理解してるつもりだし、全部を教えて欲しいと思っているわけじゃない。だが、古泉が俺の知らないところで怪我を負ったり、それを隠されるのだけは、本当にこたえる。
本館非常階段の踊り場まで連れて行き、俺は古泉の腕を解放した。
「お前、怪我したのを隠したくて俺を避けたのかよ」
「え? どうしてそう――」
「俺はお前の怪我を治したり防いでやることは出来ないけどな、痛むだとか調子が悪いとか、分かっていればやれるフォローだってあるんだ。前に言ったよな? お前を心配するのは俺の特権だって。なのに……」
「ち、違います、勘違いです」
まくし立てる俺の顔の前に、古泉の両手のひらが突き出された。
「そうじゃないんです。今回の傷のことでしたら、明日にでもお伝えするつもりでした」
「は?」
古泉は慌てた様子で続ける。
「あなたに会わないようにしたのは謝ります。すみません。ですが……」
ですが、何だよ。今日じゃだめだったのか? どうして明日ならいいんだ。
「それは、あの……」
「言え、古泉」
勢いを失った古泉は、腕を下ろし、
「あの、もう眼鏡は外してもよろしいでしょうか?」
と、まったく関係のないことを聞いてきた。
「だめだ。俺を避けた理由を話すまで、それは認めん」
古泉は、しゅんと肩を落とし、微妙に俺の視線から顔を逸らした。
「……たくなかったんです」
「聞こえん」
「見られなくなかったんです、あなたに」
何を。
「眼鏡を……眼鏡をかけた姿を見られたくなかったんです……」
ええと、今、こいつは何て言った?
「見られたくなかった? 俺に? 眼鏡をかけてるのを?」
すまん。意味が分からないんだが。
「取り立ててお話しすることでもないと思い黙っていましたが、僕は普段、コンタクトレンズを使用しています。裸眼視力は〇・五なので、それ程悪いというわけではありません。ですが、板書を見たり、少し離れたところにいる人の顔を判別するには、矯正が必要です。いつ何が起こるか分からないからと、医師からも森さんからも、コンタクト禁止期間中、代わりの眼鏡の着用は絶対だときつく言い渡されました。転校してきてからずっとコンタクトだったもので、僕は新しい眼鏡を持っていません。今日、仕方なしにかけてきたのは、中学の時に作った古いものなんです」
俺はべつに、お前が眼鏡をかけていようがいまいが、どうでもいいと言えばどうでもいい。確かに、お前のことで知らないことがあったのは少し面白くないと感じたが、それだけだ。
「お前の視力が矯正を必要とするのも、今かけてるのが古い眼鏡だというのも分かった。でも、何でそれだとだめなんだ? 俺に見られたくないってのとどう繋がるんだよ」
顔を背けたまま開き直ったようにとうとうと話す古泉の説明は、いま一つ要領を得ない。
「何か気にしなけりゃならないことでもあるのか?」
「……それはあなたの方がよくご存知だと思いますが」
「あ?」
俺がご存知なわけあるか、と俺は短く溜息をつく。
きっ、と古泉が俺を見た。
「だってあなた、僕の顔が好きでしょう」
……。
俺に絶句以外の反応があるというのなら、ぜひとも教えてもらいたい。……古泉よ、何でそうなる。顔が好きでしょう、などと、これがあなたの疑問に答える最強のカードです、みたいに言われてもなあ。
「だから見られたくなかったんです。こんな流行遅れの、ありていに言えばダサい眼鏡をかけている僕を、あなたにだけは」
「それで、避けてたっていうのかよ」
呆れて声も出ないというのが本音だが、本音に従ってだんまりを決め込むと、古泉の妄想に拍車がかかることは必至だ。
「そうです。午前中にレンズの処方箋を出してもらったので、これから真っ直ぐ、新しい眼鏡を作りに行くつもりでした」
古泉の指摘通り、俺は古泉の顔立ちを少なからず好ましいと思っている。いや、正直になろう。少なからずどころか、かなり気に入っている。が、だからと言って、
「何か誤解というか思い込みがあるようだからはっきりさせておくが、どれだけダサい眼鏡をかけていようが、床屋でしくじってフォローしようのない髪形になろうが、ものもらいで目が腫れ上がろうが、俺がお前に幻滅することはないし、評価や印象だって変わらないぞ」
「え……」
そんなの考えるまでもないだろう。お前は自分の思考回路のショートを早くどうにかしてやった方がいい。
「まあ、もし俺がお前の眼鏡に何か思うところがあるすれば……」
古泉はレンズの向こうから、俺の表情を注意深く窺っている。
「古泉、ちょい、しゃがめ」
「あ、はい……?」
一緒に姿勢を低くして、俺は重ねた自分の手ごと古泉の両手をコンクリートの床に押し留める。そうして壁と地面の間に古泉を閉じ込めてから、傾けながら顔を近づけた。
「……こうする時に邪魔になるとか言うが、全然平気みたいだな」
「は、」
じゃあ行こうぜ、と俺は立ち上がり、相づちに失敗したまま動けないでいる古泉に右手を差し伸べた。
「どこへですか?」
俺を仰いで、古泉がのろのろと腕を持ち上げる。
「買いに行くんだよな、眼鏡」
掴んだ手を勢いよく引き寄せて俺は言った。
「今のお前に似合う眼鏡、選ぶの手伝ってやるよ」
古泉はわずかに目を見張り、
「あ、りがとうございます」
それから、ふわりと笑った。
その笑顔は、かけている眼鏡が中学時代のものだと聞いたせいか、どこかあどけなくも見えたのだが、俺はその感想を胸の内にしまっておくことにした。
うっかり口にしてまうと、またアホな思い詰め方をしそうな奴を一人知っているからな。
「OTOMEGAMEism(i)」(2008/09/15)
6/8「あかだま」にて配布したペーパー(回式#00)より。古泉の視力はこの話だけの設定です。