目を覚ますと、ただ暗闇があった。すべての感覚が飲み込まれてしまうような闇だ。手足が動くことを確かめ、僕は半身を起こした。辺りを覆う暗さは、うつ伏せていたせいではなく、どちらを向いても同じ漆黒なのだと知る。真夜中に向かって密度を増していく暗さなのか、夜明けへ向かう直前のそれなのか、そもそも、夜という概念が存在する場所なのかも分からない。物音ひとつ、どんな匂いも、自分が触れているはずの地面の感触すら届かない闇の中だ。閉鎖空間やそれに類するものでないことだけは、感覚と経験が伝えていた。むやみに動くのは危険だ。しかし、ただ待つばかりでも状況が好転するとは思えない。どうすべきか、と目の前の暗闇に目を凝らす。途方に暮れるのはまだ早い。僕は戻らなければならない。
「ほとりの夜明け」
「遅かったな」
部室のドアの向こうにいたのは、長机に座る彼一人だった。いつもならこの時間にはいるはずの他の三人の姿は見当たらない。
まるで何かの罰のようなタイミングの悪さだ、と思った。適当な理由を付けて今日の団活を辞すという目的ばかりに気を取られ、ノックの返事に覚えた一瞬の違和感を無視してしまった自分の迂闊さを悔いる。
「すみません。人目に付かない場所で少し電話をしていまして」
長門さんはともかく、涼宮さんか朝比奈さんがいれば、彼が返事をすることはない。
「何かあったのか?」
眠そうにしていた目を僕の方に動かして、彼が尋ねる。
「いいえ、定時報告のようなものです。ご心配には及びません」
それよりお三方は、と聞き返すより早く、
「ハルヒの奴なら、ちょっと前に二人を引き連れて飛び出して行ったぞ。これといってすることもないからな、一人で退屈してたところだ」
お前も付き合え、と彼が指先を落とした机上には、白と黒の石が互い違いに置かれたボードが用意されていた。
着席を促すように見上げてくる彼の視線に、僕は思わず右手でパイプ椅子を引き、同時に左腕のカバンを下ろす。これでは、彼と二人きりになるのを避けるために、全員が揃う頃合いまで時間をつぶした意味がなくなってしまう。
――すみません、今日は用事がありまして。いえ、閉鎖空間というわけではないのですが。
追及されることはないだろう。涼宮さんには彼から伝えてもらえばいい。そう思うのに、それだけの言葉が喉から先の音にならない。
見えない力に押されるようによろよろと正面に座った僕に、
「白やるよ。お前、後手の方が打ちやすいって言ってたろ」
俺が誘ったしな、と黒石をつまみ上げて彼が言う。
「……ありがとう、ございます」
押し出した声で礼を述べながら、胸の底にひやりと冷たい液体が溜まっていくのを感じる。
これは本当に、何かの罰なのかもしれない。部室にやって来たタイミングの悪さも、めずらしく彼の方からゲームを持ちかけてきたことも、僕の意思が意思としての役割を果たせないでいることも。
ぱちり、と盤上に一手目の黒が置かれた。
喉の渇きに、僕は閉じていた目を開けた。辺りは変わらずの闇だ。少し眠ってしまっていたのかもしれない。最初に目覚めた時から、どれくらい経ったのだろう。空腹は感じないが、喉だけでなく、体中、どこもかしこも渇ききっている。何かが頬に触れた気がした。風? さらり、ふわりと二度、三度、今度ははっきりと感じた。風が吹いてくる。暗さで何も見えないが、向こう、ずっと遠くの方から。かすかに混じっているのは、水の匂いと……よく分からない。もっと柔らかで優しげな何か。とてもいい匂いだ。もっと近くにこの匂いを感じたい。確かめたい。あれ程感じていた渇きが、いくぶんか和らいでいる。この風の吹いてくる先へ行けば、確かめられるだろうか。この渇きと暗闇から抜け出すための手がかりが見つけられるだろうか。僕はすっかりこわばっていた体を動かしてゆっくりと立ち上がり、全身に力を込めた。
「近頃、平和だよな」
挟んだ白石を三つ返して、彼が呟いた。
「ええ、そのようです」
盤上に集中している振りをして、彼の顔を見ずに僕は頷いた。彼の言う通り、今、何か大きな案件が進行している、あるいは異常な事態が発生しているという知らせは『機関』から入っていないし、僕自身も感じ取っていなかった。
「どこか物足りないとお思いですか?」
と尋ねると、
「まさか」
と彼は小さく肩をすくめてみせる。
「平穏無事な高校生活、結構。夏休み後半のあれも文化祭前日のも、今から振り返れば、やれやれで済むが、抜け出せなかった時のことを考えると、ぞっとするし、とくに北高祭のループの方は繰り返した記憶があった分、正直、少し疲れたからな」
まあ、全部が無駄なことだったとは言わんが、と付け足して、彼は次の石を手に取る。
「僕としましても、やはり、コンピュータ研とのゲーム対決ぐらいのイベントが程よいように思いますね」
今度はこちらが斜めに挟んで、盤の手前に白を置く。
「コンピ研の連中には悪かったと思うが、俺も同感だ」
言いながら伸びた彼の指が、ちょうど石を返し終えた僕の爪の先に触れた。
「あ、悪い」
弾かれたように腕を引いた僕に、彼が驚いて謝罪の言葉を口にした。
僕は駆けていた。暗闇に馴染んだのか、踏みしめる大地には少し湿った土と重なった落ち葉の、風を切る顔や肩には、ぴしり、ばさ、と丈のある草や木々の低い枝が当たるのを感じられるようになっていた。遠のいていた五感が戻ってきたことにいくばくかの心強さを覚え、懸命に駆け続ける。ぼんやりとした周囲の輪郭がぐんぐんと背後に、通り過ぎた瞬間にはもう振り返ることもままならない程遠くへと流れていく。僕はこんなに早く走ることが出来ただろうか。額や頬に触れてはなでてゆく風が少しずつ強くなり、それに乗ったあの匂いもまた、焦れながら駆けるこの体を潤していくようだった。もっと早く、あの先へ。もっと近くに、この心地よい匂いを感じたい。たどり着くまでどうか、どうか消えないで。
「いえ……こちらこそ、すみません」
ちょっとした接触なら普段からいくらでもあるというのに、今のは明らかに過剰反応だ。平生を装うことに傾けていた意識が、たったのこれだけで、途端にぐらぐらと足元から揺らいでしまう。
「顔色、悪いんじゃないか」
長机の向こうから、彼が僕の表情を窺う気配がする。僕は俯けていた顔を上げ、いつも通りの微笑を作った。
「大丈夫です。驚かせてしまって申し訳ありません」
それからいくらかの苦笑を混ぜて、一瞬だけ視線を合わせる。
「お恥ずかしい話なのですが、少々、夢見が悪かったようでして」
僕は事実の一部を告白することにした。彼に対する動揺を隠し通すのが難しいなら、こうした方がいい。
「夢?」
「はい。顔色がすぐれないように見えるなら、そのせいで疲れが残っているのかもしれません」
嘘はついていない。彼が僕の見た夢の内容に興味を持つとは思えないし、今日の僕の様子に覚えた違和感にも、これで説明がつくと考えるはずだ。
あなたの番ですよ、と僕は次の手を促した。
突然、目の前が開けた。僕は駆けてきた勢いを殺して立ち止まる。湖だ。薄暗く沈んだ風景の中、切り取られたようにぽっかりと、淡く光る水を湛えた美しい湖があった。そのほとりには、誰かが立っている。優しい風が吹く。この風だ。それに、あの匂いも。僕はこれが幻ではないことを祈りながら、恐る恐る進み出る。僕の足元が立てた音に、湖の縁に立つ人物が振り返った。……彼だった。少し驚いたような表情をしているが、間違いなく彼だ。彼も僕と同様に、この場所に来ていたのだ。よかった。僕は一人ではなかった。そうだ、二人で一緒にここから戻る手だてを考えよう。きっと何とかなる。僕は駆け寄った。あれ程感じていた不安も渇きも忘れて、彼の元へ。
「夢なら、俺も見たのを覚えてる」
星の位置に打たれた黒石が、僕の白を斜めに四つ裏返す。中盤までは互角に見えていた形勢も、気がつけば黒が優位に立っていた。
「どんな夢だったんです?」
彼の声に、その覚えている夢を厭うような響きはなかった。僕とは違う。
「どんな、ってか、妙に意識がリアルでな」
見たこともない場所なんだが、と彼は視線を盤上に据えたまま、
「夢みたいに綺麗なところで、俺は人を待ってんだ」
と続けて、また次の石を手に取る。
見たことのない綺麗な場所。夢がその主の心象を描き出すものであるなら、彼の見た光景は本当に美しいのだろう。
「待ち人には会えたのですか」
彼が待っていた、僕ではない誰か。
「ああ」
肯定の返事に、なぜだか胸の痛みを覚える。これがどういう種類の痛みなのだとしても、あんな夢を見てしまった僕に、彼への感情を波立たせる資格などないというのに。
喜びのうちに駆け寄った次の瞬間、僕の四肢に伝わったのは、どっ、という鈍い衝撃と、押さえつけた柔らかいものから返る弱い弾力だった。僕は自分の体の下に彼を組み敷いていた。何が起こったのか分からなかった。僕の下から彼は、振り返った時の驚いた顔で見上げていた。同様に驚くばかりの僕は、すぐに、もっと信じられないものを目にした。彼の腕と腹の辺りに置かれた自分の両腕が、僕の知る自身のそれではなかったのだ。それは、僕の認識が正しければ、くすんだ金色の体毛に覆われ、指の先に太く鋭い爪をはいた、虎の前足だった。彼の半身を容赦なく押しつぶす重い前脚も、今にも薄い皮膚を突き破ってしまいそうな爪も、まるで精神と体とが隔てられてしまったように、自分の意思で制することが出来ない。僕の視線が、軽く仰け反った彼の喉笛に定められた。恐ろしい想像に震えた。逃げてください、と上げた声は、獣の低い唸り声にしかならなかった。僕の口元から滴り落ちた唾液が彼の胸を濡らす。馬鹿な。こんな馬鹿なことがあってなるものか。
「古泉」
呼ばれて、はっと顔を上げる。彼が僕を見ていた。
「……僕の、番でしたね」
小さく頭を振って恐ろしい光景を払い、僕は自分の石に指を伸ばした。
「古泉、お前、俺のこと見てるか?」
彼の問いかけに、手を止めて盤面を眺める。すでに勝敗は決していた。
「いつものことではありますが、今日はとりわけ、あっという間に勝負がついてしまいましたね。もっと局面を読めるように――」
「そうじゃない」
彼の落ち着いた、けれど強さのある声が僕を遮った。「そういうことを言ってるんじゃない」
僕は出来る限りの平坦な声で答える。
「この場に限らず普段のあなたを、という意味でしたら、見ているつもりですよ。先日お話しした通り、今やあなたも重要な観察対象なのですから」
言いながら、その言葉に空々しさを感じるのは、他の誰でもない僕自身だった。僕は彼のことを見ているつもりで、本当はただの少しも見ていなかったのではないだろうか。もし違わずに見ていたのなら、たとえ夢の中であっても、あのようなことにはならないはずだ。
彼の表情からは驚きの色が消えていた。その唇が何かを呟いた。しかしその声は獣の耳には届かない。内から湧き上がる衝動のまま、長い二本の牙が彼の喉を食い破ろうとしたその時だった。彼の自由になる方の腕が、すいと持ち上がったかと思うと、その指先が僕を引き寄せるようにこちらへ差し伸べられ、触れた。
胸の底に溜まった水が冷たさを増す。僕は自分を恥じ入るより他にない。なぜ彼にあのような振る舞いをさせてしまったのだろうか。自分勝手な妄想にも程がある。あたかも彼が虎の姿になった僕を、その恐ろしい所業を許し受け入れてくれたかのような。
確かに僕は、彼に惹かれている。彼女との間に築かれた信頼関係を羨ましく思うし、任務も役目も関係のないところで彼と友人になれたらいいと思うようになっていた。彼を知りたいし、また僕のことも知って欲しいと思う。けれど、それだけだ。それ以上でも以下でもない。僕には、この感情をどのように扱えばいいのか分からないし、そもそも、この気持ち自体を何と呼ぶべきなのかも分からない。自身でも掴めない曖昧な心のありようが、あんな夢を見せたのだとしたら、僕は本当に自分を恥ずかしく思う。もう僕には、こうして彼と向き合って座ることも、彼について思いをめぐらせることも、決して許されはしないのだ。
「……と思ったんだ」
「――え?」
意識に飛び込んできた声に、反射的に目を向けた。視線が交わる。僕は息を飲んだ。彼のこの目を僕は知っている。どこで? いつ出会ったのか。ああ、そうだこれは――
「お前がそうしたいなら、いいと思ったんだ」
僕は夢の結末を思い出した。どうして今まで忘れていたのだろう。
淡い光を湛える湖によく似た、深く澄んだ瞳が見つめていた。彼の伸ばした指先が僕の頬に添えられている。頭上に広がる湖面を輝かせながら、ほの暗い灰色の世界に夜明けが訪れ、射す日が僕たち二人を静かに照らした。彼の目に映る僕は人の姿に形を変え、その僕の視界の中で彼は、微笑んだようにも少し怒っているようにも呆れたようにも見える表情で、なんて顔してんだ、と唇を動かしたのだった。
「ほとりの夜明け」(2008/06/28)
「虎と古泉」を題材にした共同企画もの。
文化祭前日(のループ)というのは、「約束」のエピソードです。