「星宛て」

「おつかれさまです」
 灯りの漏れる診察室を覗くと、机に向かって熱心に書きものをしている彼の姿があった。
「先生。まだいらしたんですか」
 医局にももちろん彼の座席はあるのだが、ここの机が一番落ち着くのだと言って、彼は外来の診察室にいることが多い。
「だから先生はやめろって」
 言いざま顔を上げた彼が、ボールペンの先をこちらに向けた。
「お前それ、わざとだろう」
 まったく趣味の悪い、と寄せた眉の下で両目を薄くして、ペン先を振る。
「指さないでくださいよ、先生。いい子が真似をするといけませんから」
「今この部屋に、俺以外には悪い大人しかいないんだが」
 僕は大仰に肩をすくめ、嘆いてみせる。
「悪い大人とは心外です」
「だったらその悪趣味を控えろ」
 彼はペンを挟んだ右手で眼鏡のフレームを押し上げ、一つ短い溜息をつくと、机上に視線を戻した。
「先生はお優しいですね」
「何がだ」
 横顔が律儀に声を返してくれる。そういうところもですが、と僕は内心で呟きながら、
「控えろとは言っても、やめろとはおっしゃらない」
「……勝手に言ってろ」
 鼻を鳴らしてふたたびペンを動かし始めた彼の手元を、邪魔にならないようそっと覗き込んでみる。僕には彼の居残りに心当たりがあったのだが、案の定そこには、色とりどりの細長い紙片が重ねられていた。
「拝見しても?」
「どうせ後から読むんだろうが。早いか遅いかだ」
 書き終えた分の山から、一番上の紙を手に取る。『はやくがっこうにいきたいです』という子供の文字の横に、彼の字で『おかあさんのいうことをちゃんときいて、びょうきをなおせば、あと3しゅうかんぐらいで、またいけるようになります』と書かれていた。『おかあさんとせんせい』ではなく、ただ『おかあさんのいうこと』としているのが彼らしいなと思う。次の一枚には、こうあった。『でぃーえすがほしいです』に、『もう、けがをしないでげんきにあそんですごし、つぎのおたんじょうびに、おとうさんにおねがいしてみましょう』。
「……今年もずいぶんと具体的ですね」
「返事を書くなら、適当に合わせて済ませるよりその方がいいだろ。ちなみに、その子のお母さんとは相談済みだ」
 あなたらしいですね、と、僕は短冊を机の上に戻した。
 この短冊は、一昨年から彼が始めた七夕の催しのためのものだ。診察室を訪れる子供たちが書いた短冊に、彼が一つ一つ返事を付けてから笹に下げ、小児科の待合室の隅に出しておく。七夕の短冊に返事というのも面白いが、願いごとに対する具体的なアドバイスだけではなく、子供の無邪気さゆえの突拍子もない願いに付けられるユーモアのある回答も、子供たちや保護者に好評だった。七夕の短冊と言うと、僕にとっては何よりも、高校時代のあの部室で三年間、皆で揃って願いごとを書いた初夏の日が思い出される。彼がこの催しを始めたきっかけも、同じ暖かい懐かしさからではないだろうかと僕はひそかに思っている。
「僕も一枚、書かせていただいてよろしいでしょうか」
 言い終わらないうちに、ほらよ、と藤色の色紙が突き出された。「返事は書かんからな」
「ええ。ありがとうございます」
 僕は胸ポケットから出した手帳の上で、同じく取り出したペンを走らせる。
「少しぐらい考えてから書けよ」
 彼が呆れたような声を出した。
「すみません。でもこれでいいんです」
 ただ一言だけが書かれた手の中の短冊を僕は見つめる。その言葉は、これから続く先に叶えて欲しいと思う願いでも、祈っても叶うことはないと知っている気休めの希望でもなかった。
「そういや、あれ、今年じゃなかったか」
 次の短冊を手元に寄せて彼が言った。
 彼の言う『あれ』が何を指すのかは、すぐに分かった。僕がたった今、この短冊に乗せて今夜の星に伝えたいと思いついたことも、同じ思い出に繋がるものだったからだ。
「あの頃は十六年も先なんて想像も出来ませんでしたが、あっという間だったような気がします」
「そうだな」
 彼は手を止めて、椅子を回した。少し遠い目をしている。
「衣食に困らないぐらいの稼ぎはあるし」
「庭付き一戸建てではありませんが、家もありますしね」
 お前、あんなのよく覚えてたな、と彼は少し驚いた顔で僕を見上げてから、
「だが、二人で3LDKもあれば十分すぎるぐらいだ」
「僕もそう思います」
 振り返ってみると、この十六年間は、あの時星に宛てた願いごとを自分の手で叶えるための時間だったのではないかと僕には思える。もちろん、これほど具体的に思い描けていたわけではないし、特定の相手を浮かべての言葉でもなかった。ただぼんやりと、確かに続いていく世界の中で、大人になれた自分が大切な人と共に幸福であればいいと思っただけだ。もしそれを、七夕の日の星たちが見届けてくれたのだとしたら、やはり僕はもう一度、伝えなければならない。

「よし、と」
 机に向き直っていた彼がペンを置き、短冊を両手に揃えている。「あとはこれを笹に下げたら終わりだ」
「おつかれさまでした」
 僕は机を立った彼に続く。
「お手伝いしますよ」
「ん、悪いな、笹はそっちだ。バケツに水足しておくか」
 と、診察室の奥に向かいかけた彼が振り返り、空いている方の手を差し出した。
 向けられた手のひらに彼を見ると、
「ついでだ、お前のも一緒につるしてやる」
「え? ああ、僕のは別に……あっ、」
 遠慮しようとする間に、手にした短冊を取り上げられてしまう。
「ちょ、返してください」
 見られて困るような内容ではないものの、彼にとってはおそらく意味不明な言葉であるだろうし、理解されたらされたで、何やら気恥ずかしい気がする。
 手を伸ばす僕をあしらいながら短冊を一瞥した彼は、それを机に置き、再度ペンを手に取った。
 何をするつもりなのかと、つられて僕も自分の短冊に目を落とす。
「これが届くのにもまた十六年だか二十五年だかかかるとか言うんだろ」 
 気の長い話だぜ、と彼は、短冊の左下隅、僕の名前の隣りに自分の名前を書き足した。
「連名な。郵送料が割り勘になるかもしれん」
 そう言って彼が眼鏡の奥の目を柔らかく細めるのを、僕は短冊に託した感謝の言葉と共にいつまでも見ていたいと思った。

「星宛て」(2008/07/07)