「夏のおわりから」

「キョンくんの部屋、こっちだよー!」
 スキップせんばかりの勢いで廊下を行く妹に先導されて、女子三人組が俺の部屋に消えていく。
「男の子のお部屋に入るのって初めてだから、どきどきします〜」
 部屋の中から聞こえた朝比奈さんの感想に目を細くしていると、ハルヒの上げた声が二階に響いた。
「武士の情けよ! ベッドの下は見ないでおいてあげるわ!」
 おいおい、どんな武士だよ。
 昨日、家に帰ってから部屋の掃除とチェックは済ませておいたから、見られて困るものはないはずだが、主不在の自分の部屋に誰かがいるというのは、何となく落ち着かない。
「妹さん、可愛らしいですね」
 そう思って三人娘プラス妹に続こうとした俺に、後ろの古泉から声が掛かった。
「ん、そうか? まあ歳が離れてるしな。俺のことをあだ名で呼ぶのはやめて欲しいところだが」
 振り返ると、古泉は、それも含めて微笑ましいではないですか、と明るい笑顔を見せた。そう言えば、古泉の奴には兄弟はいるのだろうか。話題に上がることがないし、ぼんやりとしたイメージで勝手に一人っ子だと思い込んでいたが……って、どうして俺は古泉の家族構成などに思いを馳せているんだ。
「あれ、これはもしかして……」
 呟いて、古泉が廊下の天井の奥を見上げた。
「階段、でしょうか」
 古泉の視線の先にあるのは、小さな屋根裏部屋へと続くハシゴが格納してある四角い扉だった。
「よく分かったな」
 その扉は、引き下ろす時に金具付きの棒を引っ掛けるためのフックが付いているだけで、ほとんど天井と一体化している。そこにあると知っていなければ、一見して分かるものではない。
「え? あ、……そう言われると、そうかもしれませんね」
 古泉は、はたと気づいたように、自分の発見に不思議そうな顔をする。
「そこから上がれる屋根裏部屋があるんだが、お前に話したことあったっけか」
 少なくとも、俺には覚えがない……ん、待てよ? 古泉に、屋根裏部屋の話?
 何か引っかかるものがあり、俺は古泉を見返した。
「お聞きしたことがあるような、ないような……何か、約束を……」
「約束?」
 約束、と聞いて、頭の隅に、ある光景が浮かんだ。夜、の、ぬるい空気、道路で、星空、並んで歩いている、のは……古泉か?
「いえ、すみません」
 思い出せそうで、その光景をたぐり寄せ切れずにいる俺に、古泉は首をかしげながら苦笑する。
「伺った覚えはないのですが、なぜだか気になって、目で探してしまいました」
 あなたは何か心当たりがあるんですか? と尋ねる古泉に、だが俺も、どうだったかな、と曖昧に返すしかなかった。
 夏休み後半になってから、時々、顔を出すようになった奇妙な違和感と既視感。初めて出会った出来事のはずなのに、こんなことが前にもあったような、と感じたものの数々は、同じ二週間を繰り返しているこの夏の、いつかの経験――古泉の言葉を借りるなら、前回以前のループの記憶のリセットからこぼれ落ちた部分――ということらしい。だから、今かすかに浮かび上がったのも、いつかの夏に実際にあったことなのかもしれない。そしてそれは、悪くない出来事として。その時の会話や感情は思い出せないのに、どうしてか俺にはそんな気がするのだ。根拠はない。ないのだが、もしも、だ。俺の中に沈んでいる、すくい上げられないぐらい小さな記憶の欠片が、そう思わせてるのだとしたら。それは立派な拠りどころになるんじゃなかろうか。
 見れば、古泉も同じことを思ったのか、苦笑に戸惑いが混じりつつあった表情が、優しく柔らかい笑みに変わった。感情の読み取れない爽やかスマイルでも、疲労と諦めの色が浮かぶ微笑でもない、笑顔が基本装備の古泉にあって、間違いなく一番上等であり、俺から見ても好ましいと思える笑顔だ。この夏で何度となく見た覚えのある。
「ちょっと二人とも! 始めるわよっ!」
 と、せっかく人が温かい気持ちになっているところに、団長様からのお呼びがかかった。まあ相手が古泉というあたり、そんな気持ちになったところで楽しくも何ともないのだが。
「行こうぜ」
 顔を見合わせ、俺たちも勉強会会場である廊下の先に足を向けた。


 手つかずで残っていた宿題の山を何とか全部片づけた頃には、もう結構な時間になっていた。本来なら勉強会などには参加する必要のない長門が最初に抜け、ハルヒに口出しされつつ小論文を書き上げた朝比奈さんが抜け、コントローラを握りながら途中まで付き合っていたハルヒも、さすがに飽きたのか階下に降り、残された俺と古泉は、居間から聞こえる、うちの母親と妹も加わった談笑をBGMに、必死になって手を動かした。今日知ったのだが、特進クラスには俺たちより余計に課題が出ていたらしい。まったくもってご苦労なことである。
 最も難航した数学を終えて、座ったまま上半身を伸ばしていた俺に、用意したローテーブルからあぶれ、勉強机に陣取っていた古泉から、お疲れ様でした、と声が掛かった。その時にもまた例の既視感がやってきたのだが、俺はそれを不思議とも不可解とも思わなかった。一万と五千何回もの夏休みの中で、終わりそうにない宿題を、古泉をアテにして一緒に片づけようとしたことが何度となくあったのだろうと、容易に想像出来たからだ。俺たちは、リセットからこぼれ既視感としてよみがえってきた分はもちろんのこと、それ以外の、完全に消えてしまった記憶の分も、こうして同じ夏を過ごしてきたのだ。


「じゃあみんな、明日学校でね! せっかく片づけた宿題、忘れるんじゃないわよ?」
 とくにキョン! と最後に楽しげに人を指差して、ハルヒは朝比奈さんと長門を両脇に連れ、満足そうに駅への道を帰って行った。
 小さくなっていく三人分の背中と伸びる影を眺めながら、知らず、俺は長い息を吐いていた。
「……終わったな」
 隣りを見ると、古泉は頷いて、
「終わりましたね。ですが、これで確定かどうかはまだ分かりませんよ」
 発言内容の割には、どこか晴れやかな顔が、沈みかけの最後の西日に照らされている。
「それは分かってるさ。でもな」
「ええ、おそらく僕も同じ心持ちです」
 古泉はそう言って、俺の言葉を引き継いだ。
「どうしてでしょう、確かな根拠などどこにもないのに、僕は今、明日やって来るのは九月一日であるという気がしているんです」
 それに、白状してしまいますと、と古泉は続けた。
「膨大な夏の記憶を保持していた長門さんや、未来と連絡が取れなくなって弱っていた朝比奈さん、それに、大変な気苦労をなさったであろうあなたには申し訳ないのですが、僕はこの二週間、とても楽しかった」
 少しはにかんだように笑う。
「このループを抜け出すという目的がありましたから、涼宮さんの希望や計画には、それが満足のいくものになるようお手伝いしましたが、それは決して義務感や使命感からだけではなく、僕自身も夏休みを楽しみました。ですから、明日から二学期だというこの確信には、その思い出を手放したくないという願望が多分に含まれているかもしれないのですが」
 古泉の頬がうっすら上気して見えるは、夕日のせいだけじゃないんだろう。
「お前はそう言うかもしれんが、じつのところ、あながち外れてないと思うぞ」
 問う視線に俺は答える。
「長門から話を聞いた時は、事態のあまりのアホさ加減にくらりときたものだが、振り返ってみれば、何だかんだ言って俺も夏休みを満喫したし、楽しんだんだ。あとの二人だって同じじゃないか」
「夏祭りも花火も、プールも天体観測も、みんなで楽しかったですよね」
 古泉は過ぎた夏を惜しむように、また思い出して大切に触れるみたいに笑った。
 明日、新学期を迎えるとして、このループから抜け出すための鍵となった『アタリ』が一体何だったのか。決定打は今日の勉強会なのかもしれない。昨日の晩、帰ってから長門に確認してみたら、最終日に全員で揃って宿題を片づけたのは今回のシークエンスが初めてだと言っていたからな。だが俺は、その勉強会も含めた最後の最後まで、めいっぱい夏休みを楽しめたことが、じつは最大の『アタリ』ではないかと思うのだ。
「ハルヒの奴は夏休みを思う存分楽しんでやろうとしてた。けど、それはあいつ一人の話じゃなくてさ」
 リセットされるかもしれないと気づいた前回以前のループの俺たちだって、夏休みを楽しんだろう。でも何かがちょっと足りなかった。
「お前も俺も、あいつと一緒にいる俺たち全員が、本当に心から夏休みを楽しむことが大事だったんじゃないか」
「僕も……ですか?」
 わずかに目を見開き、一拍置いてから、古泉が言った。
「まあ、俺が勝手にそう思ってるってだけだけどな」
 と言うか、そう思い至ったのは今日の古泉を見たからだったりなんかするわけだが、どうも俺の古泉に向ける目が、二週間前よりずいぶんと友好的になっているような気がするのも、エンドレスな八月の副産物だったりするのだろうか。
「ありがとう、ございます」
 古泉が見せたのは、勉強会の前に廊下で見たあの表情だった。好きな顔だなと思う。
「そう言やお前、今朝、約束がどうとか言ってたよな」
 思い出せたか、と尋ねると、古泉は、いいえ、と首を振る。
「あなたと一緒にいれば思い出せそうな気がして、あれから何度か頑張ってみてはいるのですが、まだ……」
「俺と?」
「おかしいですよね。誰と交わしたものなのか、そもそも本当に約束があったのかも分からないのに、あなたに関係している気がするなんて」
 俺に迷惑じゃないか、みたいな顔をして困ったように笑う古泉を見ていたら、言う必要はないと思っていたことを口にしたくなってしまった。
「それ、俺にも似たようなのがあるぞ」
 古泉の約束という単語を聞いてから、俺の中にちらつき始めた記憶、いや、感情の破片のようなもの。
「決意、ってのは大げさかもしれんが、何か、そうしようと心に決めていたことがあった気がするんだ」
 しかも、肝心の中身は思い出せないのに、それでもなぜか、その決意に古泉が深くかかわっていた気がしてならないのだ。何か、とても大切な。
「決意、ですか……」
 古泉は軽く俯き、思案顔で噛み締めるように、決意、と二度、三度呟いてから顔を上げた。
「僕の『約束』もあなたの『決意』も、ループしていたいつかの夏で実際に経験したものだと仮定するなら、それらは記憶の抹消から免れ、無数の夏を越えてここにあるということなのでしょう。希望的観測に過ぎないかもしれませんが、」
 そこまで一息に言って、僕はこう考えます、と続けた。
「それ程までに僕たちが忘れたくないと願い、強く記憶に刻んだものなら、いつかきっと思い出せる。そうは思いませんか」
 俺を見る古泉は、晴れ晴れとして、しなやかな、真っ直ぐに前を見据えるような目をしていた。こいつのこんな顔を見るのは、たぶん初めてだ。妙に惹きつけられる。そんな顔も持ってるんだな、お前。
「確かに、思い出せそうで出せないなんてのは、どうもすっきりしないしな」
 言ってから、俺は一つ思いつく。
「なあ古泉、賭けようぜ」
 突然持ち掛けられて、古泉は、ぱちりと瞬きをした。
「賭けるとは、ええと、このことにですか?」
「そうだ。どっちが先に思い出すか、だ」
 なるほど、分かりました、と古泉が応じる。
「では何を賭けましょうか」
 俺は、そうだな、と一瞬考える振りをして、
「宿題」
「……を一日で片づけるのは、少々骨が折れましたね」
 古泉は眉を下げて笑う。
「明日の放課後までに考えておけよ」 
「了解しました。では明日、また部室で」
 明日、二学期の部室で、一万五千何回も八月の後半をやっていたなんて嘘みたいだな、と振り返って、それから、この話の続きをしよう。
 
 笑みの柔らかさを残した目で頷いて歩き出した背中を見送りながら、俺は無数の同じ夏を重ねた俺たちを思った。
 いつかの古泉と交わしたかもしれない『約束』も俺の『決意』も、それが俺たちにとって本当に必要なものなら、必然であるのなら、たとえすべてを思い出せなかったとしても、きっとまた同じようになぞることが出来る。おそらく今年の夏休みは今日で終わるが、だからどうか、安心して欲しい。俺は、リセットされた俺たちがいたことを決して忘れないし、その俺たちから確かに受け取った何かを、この先に続く季節へと繋げていくつもりだ。

 ――夏から覚めても、きっとこの手は。

「夏のおわりから」(2008/08/31)

エンドレスエイト連作の第4話(完結)です。