「僕たちを繋ぐ、」
足元から坂の下に向かって二つの影が伸びる。少し先にも同じく並んだ三人分の影が、こちらは寄り添ったり離れたりしながら、にぎやかに坂道を下りていく。その向こう、道の両脇に茂った木々の間には、夕日に染まる街並みが眩しく広がっている。
僕は小さく息を吐いた。見慣れているはずのこのいつもの光景が、これまでとはまるで違ったものに見えることに胸が詰まったのだ。何でもない日常のささやかな断片が、今の僕の目にはどれも美しく、かけがえのないものに映る。それは、僕が彼と――
「あっ、すみません」
隣を歩く彼の手に、僕の左手がぶつかった。少しぼんやりしていたせいだ。
「何で謝る」
何でもない風に彼が言った。
「すみませ……」
はっと口をつぐむと、お前アホだろう、と彼がわずかに目を細くする。
謝ったことを咎められて、それを詫びるためにまた謝罪の言葉を重ねてしまうのは、僕が彼に対してよくする失敗で、けれどそれすら彼は律儀に拾い上げてくれるから、その度に僕は嬉しくなる。
「ありがとうございます」
そんな感謝の意を込めて微笑み返すと、彼は、ふい、とあちら側を向いてしまう。むやみに笑いかけるなと、近頃よく彼に言われるのを思い出した。近頃というのは、僕と彼が互いへの特別な気持ちを自覚して、共有するようになってからのことだ。
少し日の長くなった、冬の終わりの放課後。淡いオレンジに、ところどころ薄紅を流したような不思議な空の色が、部屋の中まで染めていた。僕たちは二人、いつものようにボードゲームを挟んで向かい合っていた。彼女たちが戻るまでの時間つぶしに他愛のない話をした。会話の内容は覚えていないが、穏やかで幸福な時間だと思った。雲が切れて西日が射し込み、彼が眩しそうに目を眇めた。僕は彼に笑いかけた。がたり、と音を立てて彼が立ち上がった。気に障ることでもあったのだろうかと見上げると、彼が机に手をついて身を乗り出し、気づいた時にはキスされていた。驚きより疑問より先に、何かが胸の真ん中に落ちてきた。姿を現した、と言った方がいいかもしれない。僕の中に確かに存在していた、彼へと向かう感情に、名前が付いた瞬間だった。
「明日の放課後と明後日、空いてるか」
反対側に顔を向けたまま、彼が言った。心なしか声が固い。
「ええ、何もなければ空いていますよ」
この週末は市内探索などの予定はないし、今のところ、『機関』絡みの任務もない。どこかへ誘ってくれるのだろうか。自然と顔がほころぶ。
「お前んち、泊まりに行ってもいいか?」
「もちろん構いませ……え、と、それは……?」
弾んだ声で即答しかけてから、思わず聞き返してしまった。
「言葉通りだ」
言葉通り。彼が僕の部屋に泊まりにくる。経験がなくとも、それが意味するところを理解出来ないわけではない。
「……分かりました。部屋、片づけておきますね」
そう伝えると、うっすら赤くなった耳の向こうから、ん、と短く声が返った。
彼が明日、僕の部屋に。
あまり深くは考えないようにしていたことが、にわかに浮かび上がって、ぐるぐると回りながら頭の中を占めていく。彼が視線を逸らしていてくれて助かった。もし今、顔を見られたら、間違いなく僕はいたたまれなくなってしまう。自信があるはずの表情のコントロールがまったく出来ていないのだ。
僕は心を静めるために深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出しながら、全員で顔を合わせる最初の分かれ道までの時間を計ることに努めた。
自覚された感情は走り出し、このまま自分のものにしてもいいのだろうかとためらう気持ちを、あっという間に追い抜いた。昼休みの屋上に続く踊り場で、着替えを待つ部室のドアの前で、帰り道の駐輪場で、市内探索の路地裏で、僕たちは手を繋ぎ、時にはキスをした。「それ以上」を意識したことがないと言えば嘘になるが、それを彼に伝えるなど僕には出来なかった。彼への気持ちに名前が与えられ、同時に共有も許された。そんな自分の感情の手触りが、温かさが本当に嬉しくて、世界が変わったようにすら感じた。けれど、だからこそ、彼と思いを重ねながらも、どこかで、夢中になり過ぎてはいけない、浮かれ過ぎてはいけないと思ってきた。僕の気持ちは、きっと重い。このままではそう遠くない先、手を差し伸べてくれる彼の重荷になってしまう。それが僕には何より怖いというのに、「それ以上」を経験してしまったら。
「タオルぐらいあるよな?」
彼の肩から下がる通学用のカバンは、いつもより中身が詰まって膨らんでいる。
「ええ、フェイスタオルもバスタオ、ルも……あります」
変に意識してはいけないと自分に言い聞かせていたのに、バスタオル、という単語に口ごもってしまった。
「着替えと歯ブラシしか持ってこなかった」
気にせず続けた彼は普段と変わりがないのに、僕の方ばかりがそわそわと落ち着きがない。今日の団活が団長外出による自主練習となったのは幸いだった。
「このまま真っ直ぐお前んち行っても、結構時間あるな」
「そうですね。どこか寄りますか?」
提案すると、彼は少し考えてから、
「晩飯どうする?」
と訊いてきた。
「あ……すみません、考えていませんでした」
このまま彼が僕の部屋に泊まるのなら、二人分の食事を用意しなければならない。そんな当然のことも、僕の頭からはすっかり抜け落ちていた。
「ちょっと遠回りになるけどいいか?」
買い物ですか、と訊き返すと彼は頷いた。
「スーパーに付き合え」
「スーパー?」
「こないだの調理実習で親子丼作ったろ。あれならまだ覚えてる」
「えっ、作ってくださるんですか?」
思わぬ提案に驚く僕に、お前も手伝うんだからな、と言って彼は笑った。
アパートに着いた僕たちは、狭い台所に並んで立ち、二人前の親子丼を作った。テレビを見ながらそれを食べ終えると、とっとと洗っちまうか、と言って彼が流し台に向かった。僕がやりますから、と後に続くと、お前は先に風呂に入れ、と追い返されてしまった。先に風呂、という言葉に、僕は戻りかけていた平常心をふたたび取り落としそうになったのだが、出てきた僕と入れ替わりで浴室に向かった彼の横顔は、変わらずいつも通りだった。
彼を待つ間、僕の不安と緊張は増す一方だった。「それ以上」はもう目の前で、望む以上に、自分がどうなってしまうのかという怖さの方が大きく、また、行為自体への心許なさも重くのしかかってくる。僕には初めてのことだけれど、もしかしたら彼は違うのかもしれない。あるいは、今日の彼の落ち着きぶりは、僕の方にそれなりの経験があるという思い違いのためかもしれない。そうなると、事実一度も経験のない僕が、この行為において彼に応えることが出来るだろうか。それならば、いっそのこと――
がちゃり、浴室のドアが開いた。広くはない室内に、その音は何かの宣告のように響いた。
「タオルってこれでいいんだよな? もう使っちまったけど」
持参したスウェットのパンツにTシャツ姿の彼が、頭から被ったバスタオルで無造作に髪を拭きながら現れた。
「って、何してんだ?」
「え、僕は何も……」
中に入っているわけにもいかないと思い、僕はベッドの上に座って待っていた。
「ベッドで正座はないだろう」
しょうがないなという顔で彼は僕の腕を取り、ベッドの端まで引き寄せて座らせると、自分も隣に腰を下ろした。湯上りの彼の手も普段より熱かったが、掴まれた僕の腕はそれ以上の熱を帯びた。動悸が視界をぐらぐらと揺らす。
「古泉」
「僕、」
声が重なった。言いよどむ僕に彼が先を促す。彼が言おうとした内容も気になったが、それより、と僕は意を決して続けた。
「じつは僕、初めてなんです」
言ってしまった。彼の想像を裏切る自分を告白してしまった。呆れられるだろうか。彼は落胆するだろうか。
「知ってるさ」
「……え?」
彼の反応を見るのが怖くて固くつぶっていた目を、僕は恐る恐る開けた。
「お前の態度見てたら分かる」
伸びてきた彼の手が僕の頭のてっぺんをぐしゃりとまぜた。
「またアホなこと考えてるだろ」
そう言って寄せられた眉の間の皺が彼の優しさだということを僕は知っている。
「俺だって初めてなんだ。だから緊張してるし、多少の不安もある」
ほら、証拠、と彼は僕の手を自分の胸に導いた。鼓動が早い。視線を上げると、彼は、な? と手を離した。
「では……」
それでも彼は僕よりずいぶんと落ち着いて見える。
「もし落ち着いて見えるんだとしたら、それは腹をくくったからだ」
僕の気持ちを読んだように彼が言った。
「俺もお前も初めてなら、上手くいかなくたってご愛嬌だ」
なるようになるだろ、と、彼は被っていたバスタオルをばさりと下ろした。
「それにお前、何で俺がこうやって誘ったか分かってるか?」
彼が僕を誘った理由。言われて初めて僕は、彼の側にも理由があるのだということに思い至る。
「あなたも僕と……もっと先のことをしたいと……思ってくださってるんですか?」
二重の恥ずかしさで語尾が震えた。本当なら考えるまでもない当たり前のことを、僕は自分の不安や怖さで塗りつぶしてはいなかったか。
「じゃなけりゃ誘うかよ」
彼自身をありのままに見ていたと言えるだろうか。
「お前はそんなだし、したいと思ってるのは俺の方だけなんじゃねえかとか」
柄にもなく悩んじまったぜ、と続けて、彼は視線を逸らした。目元と頬が色づいている。
「で、思ったわけだ。何も、お前から来るのを待つことはないんだよなって」
彼も僕と同じように、「それ以上」を望んでくれている。
「あの、」
「何だ」
それでもまだ、「それ以上」の先に待つものを怖れる僕は臆病者だ。
「あなたの気持ちは分かったのですが、でも本当に――」
「くどいぞ古泉」
ベッドが軋んだかと思うと、僕の視界はふさがれた。さっきは手のひら越しに感じた彼の心臓の音が、今度はずっと近く、僕のそれと重なって聞こえてくる。
「俺はお前とこうすんの、後悔しないし、する予定もない」
だからお前も腹をくくれ。僕の背中と頭の後ろに回された腕に力がこもるのが分かった。
彼が僕にくれるものは、いつだって優しく温かい。僕はそれらを共有しているつもりでいたけれど、実際には、差し伸べられる手や与えられる言葉をただ受け取るばかりだったのだ。
「……もう一つ白状してしまいますと、僕、こう見えて執着心が強いですよ」
彼と本当の意味で繋がるためには、それでは足りないと知った。
「こう見えても何もないだろう」
だから、間違えることなく真っ直ぐに彼を見て、怖れずに、こちらからも。
「あは、お見通しでしたか」
「お見通ししちまう自分にまったくもって驚きだが、まあそいつも含めてな」
覚悟しろよ、の言葉が彼のものなのか僕のものなのか、二人の間に溶けてしまっては、もうどちらにも分からない。
「僕たちを繋ぐ、」(2008/10/20)
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