| 4月は Y から借りた山下澄人や Y お勧めの阿部和重やその他日本人の作品ばかりを読み雑誌も熟読。 Y から借りた。予習だ。再び10t に保坂がやって来るのだが、山下も同伴なのだそうだ。帯には「これはピカソを魅了した荒々しいアフリカの彫刻のような小説だ。―保坂和志氏(小説家)」とあり続けて「気鋭の劇作家が放つ小説/世界を前提から更新する意欲作」とある。刊行記念の小冊子で保坂と山下が対談しています。 読み終わって直ぐに正直な感想を Y にメールする。 「緑のさる読み終わりました!うーん、不思議話しあうところが面白かった。全体はよう分からんかった。とっても自由なんはわかったのだけど構成が(泣)それがつじつま合わせと保坂がいうところなんだろうね。最初主人公薬で頭やられてるのかなって思ったよ」 Y からの返信。「あのデジャヴの話しが続くところは僕もいちばん楽しかった。視点と時間と語り口から小説の自由さと人間の(或は人間が語るということの)不自由さ(或は無力さ)を感じます。また話したいですねー」 複数視点で小説は進んでいると思うのだがいきなり視点が変わるのでついていけなくなるのだ。例えば A. ウェルシュの『トレスポ』とか伊坂の『コインロッカー』『ゴールデンスランバー』等は同じ様に複数視点で進むのだがエンタメだからちゃんと章が別れていてそれほど読むのに混乱しない。しかしだ。この『緑のさる』は違う。いきなりカットインされるように他の視点が導入される。そうだこの作家は劇作家なのだ。戯曲はシェークスピアしか読んだことないのだけれど戯曲には台詞の上に誰が話者なのか記してあるのだけど、それをカットした結果なのではないか?だから一瞬迷子になりかける。とはいえその内容にまったくついていけないというわけじゃない。夢なのか幻覚なのかそうでないのかはどうでもよかったりする。ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ』ほど時空列の混乱を極めているわけじゃないから。 表紙のメルヘンチックな写真に騙されてはいけない。えげつない描写が次から次へと襲いかかって来る。帯には「20世紀最後の夏、神の町で何が起きたのか?著者最高の傑作長篇1600枚!!」 Y が若い頃(とはいえ未だ若いやん)夢中で読みふけったと、薦められたので購入したのだが上下巻をたった4日間で読破するくらい読みふけった。さしずめ分母がドストエフスキーの『カラマーゾフ』『悪霊』で分子がアーヴィン・ウェルシュ経由のヴェルベット・アンダーグラウンドと言えるかもしれない。 まず分母から。冒頭に聖書の引用がなされていたから。『悪霊』も『カラマーゾフ』も同様だ。そして殺人事件の犯人探しという側面。次から次へと起きる奇怪な事件が物語を引っ張っていく。では分母はどうだ。ウェルシュには数々のジャンキーが登場しありとあらゆる類いの犯罪が描写される。そしてウェルシュが創作活動の源泉と公言しているのは文学じゃなくイギー・ポップやヴェルベッツである。えげつない暴力には SM も含まれる。当然薬物乱用者だから留まるところを知らずどんどんエスカレートする。そして『シンセミア』は2000年代の作品だからそこには IT を含む最先端?技術も導入される。 この小説の要約は阿部自身が書いているアル・パチーノとミシェル・ファイファーが共演している映画についてのこの文章のように思える。「暴力と裏切りと栄光と凋落と反米と南米とコカイン塗れの物語」未観だが『スカーフェイス』という映画らしい。 この小説の凄さはヒーローが皆無なとこだ。警察も含め皆同じ穴の狢。唯一書店店長くらい?でもこの人が登場するのもほんの僅かだ。消息は?どきどきしながら読み進めたが再び登場することはなかった。緊張感溢れる内容で笑える箇所等ほぼ皆無だが楽しめた。そして本当の最後。凄いなぁ。続きを読まねばいけないな。 ワイドショー的に驚いた阿部和重との結婚があったので部屋にあったこの本から読み出した。この作品で芥川賞受賞。 主人公が住む東京へ大阪から母子がやって来る話。母巻子が豊胸手術を受けるために娘緑子が連れてこられるのだが母子関係はこじれている。娘は母と口を聴こうとしないのだ。全て筆談。母が豊胸手術という極度に外的な問題に捕われているのにたいして娘は言葉という極度に肥大化する内的問題とこれからやってくるであろう身体的問題に捕われているのだ。それは思春期に陥り易い問題かもしれない(ただし男子じゃなくて女子的に顕著に現れる問題かもね)。電子辞書を使って、主人公と娘との間でこんなやりとりがある。<もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べってたら、じしょ中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの>。言葉の迷路にはまり込むから内面が肥大化するのか逆なのかよく分からないけれど緑子はもがいているのだ。 大阪弁が多用されているので非常に読みづらい。話される大阪弁は別に苦じゃないのだけどいざ読むとなると骨がおれる。原文一致体じゃなくて原文一緒体っていったのは誰だっけな。中島らも?高橋源一郎?らもさんが云ってたのは『思考だだ漏れ症』だっけな。娘が書いている日記がまだそこまでべたべたな大阪弁じゃないのは書き言葉だからだろう。それにたいして母は喋っているだけだから大阪弁なのだ。それもところどころ間違った漢字の読みなどがあるので意味が一瞬通じなくなるところもある。 主人公と巻子とが娘をおいて入りに行った銭湯での乳首についての会話。「色も大きさも何でここにお菓子のオレオがっていうこれはないよ」爆笑! 帯には大絶賛の言葉が数々と躍る。「反響続々、発売即重版!」「驚愕と衝撃!」「圧倒的感動!」「涙がとめどなく流れる」そしてキャッチコピーは「善悪の根源を問う、著者初の長篇小説」。 クラスで酷い虐めにあっている二人が手紙のやりとりから交流をスタートさせる。こんな会話に胸が締め付けられる。「「机も花瓶も、傷はついても、傷つかかないんだよ、たぶん」とコジマはつぶやくように言った。「うん」と僕は肯いた。「でも人間は、見た目に傷がつかなくても、とても傷つくと思う、たぶん」とコジマはさっきにくらべてもっと小さくなった声で言い、それきり黙ってしまった」。 この小説の冒頭でフランスの呪われた作家セリーヌの『夜の果てへの旅』が引用されている。僕が大学二回生の時にあまりにかっこいい断定口調の文章に感動し文章を書き写しながら読み進んだ記憶が蘇った。はっきりとした文章は覚えてないけれどたしか「この糞みたいな世界からどれだけ逃げようとしても待っているのは地獄だ」みたいなのがあった。ちなみにその当時読んだのは家に読まれずに放置されていた中央公論社の「世界の文学」の中のもので訳者は大槻鉄男と生田耕作とによるもの。父は百万遍の大学に通っていたのだが、フランス語の授業をうけもっていたのがまだまだぼんぼんで学生のように見えた若き生田だったそうだ。冒頭にセリーヌの引用があるからずっとその世界観を引きづりながら読むのは自然だと思う。だから最悪のシナリオばかりを予想しながら読み進めた。―――――いつどちらが裏切るのだ?何げなく選んだ行動が不用心で不用意な行動に転化するんじゃないか?―――――だから結末はふに落ちないものだった。これじゃぁまるで『罪と罰』じゃないか?コジマはまるで宗教者や聖者のようにともとれる。コジマの末路はまだ物語的に選択可能だ、と思う。でも主人公の結末はあまりにも取って付けたような感じが付きまとう。もっと出口なしの状況で終わって欲しいと思った。帯に書かれた数々の絶賛評は最後までの展開を含めたものなのかあるいは途中までの展開なのかはっきりしないのだが、このある意味逃げた結末を含んだものなのだろう。だとするとあまりにも内面軽視/外側重視過ぎる世相に沿ったものだとしか思えないよ。暗く重く後味悪く救われない結末は今の日本の小説には必要とされていないのかもね。或は別バージョンがあったとか。終わり近くまでは本当にドキドキしながら読みました。 岡村詩野の音楽ライター講座のもやもや感を払拭するために読んだ。やはり痛快だよ。全三章からなるのだけど第一章の『ジャズ評論家の真実』が素晴らしい。しばしば聞かれる質問に音楽は抽象的なものなのに言葉で表現するのは難しいでしょうというのがあるそうです。僕もそう思います。――――早い話、何を書いてもいいわけです―――――痛快でしょ?例えばライナーや雑誌などの評論家は基本誉めるモードで書くのです。つまりちょうちん持ち。ぼろんちょに書いている評論もありますが、好き嫌いという逃げ道なのです。ことジャズに関してはほぼ死んでいる人たちが多いのです。そして現役の人たちですら所詮日本語が理解できない外国人です。そんな逃げ道は沢山あるのです。「好き嫌いで逃げる」「インタヴューで逃げる」「音楽理論で逃げる」等。例えば「好き嫌いで逃げる」だと。「「オレはこれが好きだ」こう書けば読者やファンは「情熱がある」と受けとってくれます。「オレはこれがきらいだ」こう書けば「正直でいい」と受け取ってくれます。」では何を書いているのか。「ぼくはその音楽を聴いて自分のなかにどういう内面的変化が起きたか、その情緒的なものを書きたいと思ってます」。そして「「なにを書くか」とは、すなわち「自分を書くこと」にほかならず、その「自分が書いたこと」を「読者」が読んで、そこに「もうひとりの自分が」がいることを発見してもらうことが着地点ではないかと考えます」。音楽は買うもんじゃなく聴かせるもの。文章を読んで買わせるのじゃなく聴かせること、それが評論家の存在意義だと。「ジャズ評論家改造論」では様々な提案がされているのですがやはりこれが重要だと思います。「とにかく、書く。これしかありません。だがそのまえにもう一度、こう問いましょう。書きたいことがあるのか。そして、書けるのか」 朝日新聞金曜の夕刊で関西にゆかり深い4人のエッセー競演の連載がスタートしている。津村記久子〜川上未映子〜西加奈子〜柴崎友香。唯一読んでないのが津村だったのでデビュー作を手にしてみた。それより以前にやはり朝日火曜の夕刊で池澤夏樹の「終わりと始まり」という連載で「物語の喪失」というのがあり、芥川賞選考委員をつとめていた時に「あるころから自分には評価できないと思う作品が増えた。否定するのではなく、うまいと思いながらも共感に至らない。受賞した作で言えば青山七恵や津村記久子のような緻密な日常に終止する小説」とあって気にはなってたのだ。その連載で言及されていた作品は『ポストライムの舟』だったけれど作風はそれほど変化してないと思い『君は永遠にそいつらより若い』を読み出した。流石京都の大谷大学出身だけあって頻出する京都の地名は森見登美彦譲りだとして、お気洛な大学生のおちゃらけ感もあるにはあるのだが比重的にはシリアスさと重さがそれを凌駕する内容だった。2000年代の日本の閉塞感を表現するムード/モードなんだろうか。『デッド・ケネディーズ』、『ファウンテンズ・オブ・ウェイン』、『ブルースブラザーズ2000』などの固有名詞が効果的に使われるのだ。たしかそれぞれ80年代、90年代、そして2000年代のもの。飽和している(ような気がする)サブカルチャーが何よりも時代の閉塞感を表現してるでしょ?最後の映画も80年代の作品の続編だ。そして面白くなかった。やり尽くされた感。こんなことを書くと若い Y には否定されるのだが。この小説ではやはり停滞感なんだよ。じゃぁ停滞感を打ち破るには?安い言葉で申し訳ないのだけど池澤夏樹の指摘通り「仲間」なのだと思う。やってられない現実を変革するんじゃなくて変色させるためのつながり。内容については全くふれてないけれどとても読みごたえある作品でした。この作品で「太宰治賞」を受賞。賞の存在を初めて知った。 今から十年前に面白く読んだ本にマーティン・ミラー『ミルクから逃げろ!』(青山出版社)というコミックノベルがある。「映画 lock , stock & two smoking barrels 好きな人にお勧め!」と書いたポップは売り上げに貢献できなかったけれど英国らしい作品だった。そんな内容を期待しながら読んだ。 それは牛乳を飲んだ一人の老人の体調が激変し救急車で運ばれるところから始まる。集団食中毒に拡大し、お客様相談センターの電話は鳴りやまない。それに対して呑気な役員達には切羽詰まったところはない。役員会の後に待つお楽しみのことしか念頭にないのだ。そこでこのままじゃいけないと危惧する会社の良識派が役員達の首切りに立ち上がる。ある意味かつてのコミックよりもコミック的と言えるだろう。あるいは時代劇的忠臣蔵的勧善懲悪もの。 驚いたのはずっとその会社の名前を『雪印』と読んでいたこと。大丈夫なのか?って。実際にそんな事件あったでしょ。そしたら社名が『雲印』だったのだ。ここ数年視力の衰えが酷くたしか両眼とも0.2くらいしかないのに加えて、文庫故の字も小ささ。現代の日本でも会社ぐるみの犯罪は後を絶たないけれどけっして上層部まで責任追求が及ぶことはない。最近だと7年前の JR 福知山線脱線事故の判決などある。現在進行形だと福島第一原子力発電所。司法ではどうにもならない壁がある。だからせめてフィクションの世界ではこういう内容も必要とされる。 とても面白かったのは社長石森岩哲が記者会見でのシーン。連日のストレスから耳鳴りが酷くなるくだり。大笑いしました。そして記者会見終了直後こう言い放つ。「私は寝てないんですよ!」。たしか実際にこんな発言をして世間の顰蹙を買った事件あったような記憶があるのだけど。映画にすればハリウッド的な作品になりそうな小説でした。 帯を引用すると「本、それは運命を変え、世界につながる小さな魔法」。本にまつわる不思議話です。なんでもメディアファクトリーより刊行された『この本が、世界に存在することに』を改題したものらしい。ということはひょっとして雑誌『ダ・ヴィンチ』で連載していたもの?ネットで調べてみると WEB版で連載していたようです。素晴らしい短編集でした。本を読むっていうのは私的な行為だからノンフィクションというかエッセイと勘違いして読んでました。最初の短篇から女性の一人称で書かれているから「へぇ〜不思議なこともあるんだなぁ」とまんまと術中にはまってました。角田光代のバイオグラフィーに一致するように読んでしまうのもこちらのかってな接し方なんだけどどうしても早稲田辺りの古本屋街を思い浮かべてしまう。これが例えば京都だと百万遍辺りを想像し、通っているのは京大って連想するように。エッセイじゃなくてフィクションだと気付いたのは七つ目の作品『ミツザワ書店』の主人公が「ぼく」であることから。なんたる遅さ。でもそんな不思議なことがあってもおかしくないのが読書だと思う。ところでその『ミツザワ書店』のぼくは一度だけ万引きをしたことがあるのだけど(というのもその店番をしたいたのはずっと読書に夢中のおばあさんで――――もし、日本全国万引きしやすい店ベストテン、なんてものがあったとしたら、ミツザワ書店は間違いなくぶっちぎりで第一位だ――――)それくらい無防備な本屋さんだったのだ。そこでぼくが万引きしたのは驚くような高値で(一万円近い)箱入りで分厚い長い小説だったと。はたと考えてしまった。この店は古本屋じゃない。出版社で思い浮かべるのは国書刊行会?だとするとセリーヌ?あるいは幻想小説系?そういうふうにフィクションなのに想像してしまう。フィクションとノンフィクションという垣根を楽々超えた作品を書き上げる手法はほんとうまいなぁと思う。例えばこれがCD ショップだったら?値段がそこまで張るものって箱ものくらいしかないだろうから リアリティーをあまり感じない。そこそこ値段は平均しているはずだ。それに比較して書店にはそれこそ安値の雑誌コミック文庫から画集や全集ものといった高いものまで雑多に並ぶ。そんなことから言っても本じゃなければならなかったんだと思った。 日本のサマセット・モームと名付けても良いのじゃないか?誉め過ぎだとは思えない。この作品ではその閾まで達していると思う。凄いよ。なんというか後味の悪さや人間の闇や業の深さをこの小説で描ききってるのだ。共通するのはそればかりじゃない。作品数の多さだ。全ての作品をフォローしているわけじゃ全くないけれどこのレベルの作品ばかりだと思うと「どえらい作家に手を出してしまったな」と後悔しきりだ。 「隠し事はしない」と取り決めているある四人家族のお話です。その家族に関係する祖母や愛人や彼氏彼女などが彩りを加える。それぞれが秘密を持ちその家族をそれぞれの視点から眺める。それぞれの章が一人の視点から進み一つの家族を描くのだけれど、決して客観的で同一の家族なんてものは存在せず、幻想でしかないと登場人物は自分の秘密を知っているのは自分だけだという理由で思っているのだが、たまに綻びが生じるんじゃないかと危惧する場面も現れる。その時の慌てようが読者には面白い。だけれどひやひやする感じもあるってことはどうにか上手くおさまって欲しいと家族を応援する作用もあるということだ。 余りにも上手い文章が多過ぎて引用するのも躊躇うのだが二つ程。「あのとき、母は、自分が楽になるために泣いていると私は理解したのだった。泣いて許しを請えば、その場にいる全員が、あなたのせいではないと言う、それで母自身は救われるだろうが、私にとっては、彼女が泣いたことによって、自分のしていることが問題でなく罪になる。解決できるかもしれない問題ではなくて、償いようのない罪になる」――――――人前で泣いたこと多いからなぁ。 「働いてお給金もらって、いやなら辞めて、また一からやりなおし、横にならいくらだって移動できるけど、縦に積みあがらないんだ。いつまでも今日の食い扶持を稼ぐような暮らし。そりゃ自業自得だって言われればそれまでなんだけどさ」――――――今までを振り返ると耳にとても痛い。 心をえぐる文章の多さもモーム的だな。 |
| 3月はL.W とR.B を読んだのだけど、読書感想文というわけにもいかず、引用ばかりの駄目な大学生のレポートみたいになってしまった。 熱くなった頭を冷ますために窓の外を眺めるとレンガ作りの校舎に日が当たっていた。ということは大学二回生のこととなる。どうして一人で読んでいたんだろう。授業と授業の間かそれとも休講だったのか放課後だったのか、既に20年以上も経っていて記憶は不鮮明だ。そもそもどういう経緯でヴィトゲンシュタインを知ったのかも曖昧だ。おそらく大学のカリキュラムでその名前を知り全く知らない哲学者にあせりのような義務感を覚えたのだろう。全く歯がたたなかった。当然である。三回生の時に記号論理学の入門書を買い込み勉強した。その直後に読んでいたなら理解の幅も広がったに違いない。 卒業後暫くして、ちくま新書『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均 95年)を読んだのだと思う。発売と同時に買ったのだとすれば彦根の書店時代だ。電車の中で読み切り(ということは彦根〜京都移動中?)思わず「かっこいい!」と声を出してしまった。そして『色彩について』(新書館 中村昇・瀬嶋貞徳訳 97年)を(四日市か?彦根か?)読んだ(はず)。そして月日は流れちくま学芸文庫版『論考』(中平浩司訳05年)、2010年下鴨神社の納涼古本祭りで大修館書店の全集に収められた『哲学探究』の全訳を読む。しかしその間もかなりの頻度でウィトゲンシュタインの名前に遭遇していた。それは柴田元幸『愛の見切り発車』(新潮社 97年)でありカフカの同名小品を下敷きにしたガイ・ダヴェンポートの『ブレシアの飛行機』(晶文社『紙の空から』所収 柴田元幸編訳 06年)でありジョン・L ・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』(新潮社 藤原正彦・美子訳 98年)であり高橋源一郎である。 というわけで改めて再読する。『新・読書の快楽 ブックガイド・ベスト500』(角川文庫 ぼくらはカルチャー探偵団編 89年)所収の『思想書 ベスト56 小林康夫選』にはこう記されている。「初めから一貫して読むのがよいとは限らず、気に入った命題で立ち止まって考えてみるのがいい」 世界は、論理的空間における事実の総和である1 世界は、成立していることがらの全体である。 1.1 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。 1.11 世界はもろもろの事実によって規定されている。さらにそれらが事実のすべてであることによって規定されている。 1.12 なぜなら、事実の全体は、いかなることがらが成立しているかを規定し、そしてまた、いかなることがらが成立していないかということのすべてをも、規定するから。 1.13 論理的空間の中にある事実が世界である。 1.2 世界は事実へと解体する。 1.21 どのことがらも、成立することができ、あるいは成立しないことができる。そしてその余のことがらは、すべて同じままでありうる。 鋭利な刃物のような切れ味。断定が気持ちいいのだ。 ちくま学芸文庫版の付記に興味深い考察がある。 1 算数世界とは例えば2+3=5 のごとき一切である。 1.1 算数世界は式の総体であって、数の総体ではない。 1.11 算数世界は式によって規定されており、また、一切は式である、ということによって規定されている。 1.12 なぜならば、式の総体が2+3=5のごときことを規定し、またすべて+−×÷のごときことをも規定するからである。 1.13 論理の枠内に置かれた式が算数世界である。 1.2 算数世界は砕け散って2+3=5のごとき式となる。 1.21 いかなる記号系列も式か式でないかであり、残りのすべては算数世界と関わりない。 途中かなり複雑な手続き(記号論理学に言及している部分)に読むのも骨が折れるのだがこの辺りからなんとなく理解できるような論述が始まる。 言語の限界5.6 わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。独我論 「形而上学的主観」5.621 世界と生とは一である。5.631 思考し表象する主体なるものは存在しない。「わたくしの見いだした世界について」という表題のもとに、わたくしが一冊の書物を著したとしよう。その書物は、わたくしの肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないかについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体である。 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。 5.633 世界のどこに、形而上学的な主体が認められるのか。君は、眼と視野との関係とまったく同じ関係が、ここになりたつという。しかし君は、自分の眼を実際に見ているわけではない。そして視野のうちにあるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。 帰納と自然法則6.363 われわれの経験と調和しうるもっとも単純な法則の存在を認めるところに、帰納の手続きなりたつ。6.3631 しかしこの手続きは論理的な根拠にもとづくものではない。それはたんに心理的な根拠にゆらいする。最も単純な出来ごとがこれからも実際におこるだろうと予想するいわれはない。これは明らかだ。 6.36311 太陽が明日も昇るであろうことは一つの仮定である。すなわち、太陽が将来も昇かどうか、われわれは知らない。 6.37 ある事件が起こったからといって、それにともない別のある事件が起こらなければならぬ筋合いはない。必然性は論理的な必然性にかぎられる。 6.371 いわゆる自然法則は自然現象を解明するかのごとき錯覚が、今日の世界観全般の根底にある。 世界はわたくしの意志から独立に存在する6.373 世界はわたくしの意志から独立している。6.374 たとえ、われわれの望むすべてが生起したにせよ、それはいうなれば天佑にすぎない。意志と世界との間には、それを保証するいかなる論理的関係も存在しないからである。ともあれ、快適な自然の連鎖を、われわれ自身望むべくもない。 死と不死6.431 同様に、死にさいしても、世界は変化せず、終熄する。6.4311 死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように。 6.4312 人間の魂の時間的な不死、いいかえれば、魂が死後も永遠に存続するということ、これにはどんな保証もないし、それどころかこれを仮定したところで、ひとがそこに託した希望はけっして満たされない。そもそも、わたくしが永遠に生き続けることによって、謎が解けるというのか。そのとき、この永遠の生命もまた、現在の生命とひとしく、謎と化さぬか。時間・空間のうちに生きる生の謎の解決は、時間・空間のかなたに求められるのだ(げに、解かれねばならぬ問いは、自然科学のそれではない)。 神秘的なるもの6.432 世界がいかにあるか、ということは、より高次の存在にとっては、全くどうでもよいことだ。神は世界の中に顕われない。6.4321 事実はすべて問題を課するのみで、解答を与えぬ。 6.44 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ 6.45 「永遠の相のもとに」世界を直感するとは、世界をーかぎられたー全体として直感することにほかならない。かぎられた全体としての世界にいだく感情、これこそ神秘的なものだ。 6.5 いい表すすべのない答えに対しては、また、問いをいい表すすべを知らぬ。「これが謎だ」といえるものは存在しない。そもそも、ある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることも可能である。 6.51 懐疑論は論駁不可能なのではない。というより、問うことのできぬところに疑いをはさもうとするゆえに、それはまぎれもなくナンセンスなのである。なぜなら、疑いがなりたちうるのは、問いがなりたつときにかぎり、問いがなりたつのは、答えがなりたつときにかぎり、答えがなりたつのは、なにごとかを語りうるときにかぎるから。 6.52 科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたそしてもなお、人生の問題はいささかも片付かないことをわれわれは感じている。もちろんそのとき、すでにいかなる問いも残っていない。まさにこれこそが解答なのだ。 哲学の正しい方法 『論理哲学論考』はいかに理解されねばならぬか哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外なにも語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。ーそして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はそのひとの意にそわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。 分かったような気になる命題を引用したらこんなに長くなってしまった。これでもかなり省略したんだけど。そして引用が多くそして長くなるのは興味深い命題を引用するにはその前後の命題も引用しないと理解できないように組み立てられているのだ。文の前の小数点を含む数字はこれを表している。つまり注なのだ。無視してはいけないと分かっているのだが、夢中で読んでいるとかなりすっとばしている。そして『神秘的なるもの』を読むと保坂の世界観(文学観)にかなり影響を与えているような気がする。ただ保坂は語ろうとしているのだが。 哲学史的に『論考』のエッセンスは「言語を世界を写しとる絵画」つまり『写像理論』にあることになっている。この引用で締めくくりたい。 映像としての命題4.011 一見したところ、命題はー紙に印刷されている場合などーそれがあつかう実在の映像とは思えない。しかし、楽譜も一見音楽の映像とは思われず、われわれの音標文字(アルファベット)も話し言葉の映像とは思われない。それでも、これらの記号言語は、普通の意味においても、それが表現しているものの映像であることがわかる。4.014 レコード盤、楽想、楽譜、音波。これらすべてはたがいに、言語と世界との間に成立する、かの模写の内的関係にある。論理的な構造が、これらすべてに共通する(童話に登場する二人の若者とその二匹の馬と百合の花のように。かれらすべては、ある意味で一身同体なのだ)。 4.0141 音楽家が総譜から交響曲を引きだし、人々がレコード盤の溝から交響曲を引きだすことができるための普遍的な規則があり、さらにその最初の規則にしたがって交響曲から総譜をふたたび推測することができる、まさにこの点に、一見はなはだ異なるこれらの形象の内的類似性が存在する。そしてかの規則は、交響曲を音符の言語に投影する、投影の法則にほかならない。それは、音符の言語をレコード盤の言語に翻訳する規則なのだ。 帯にはこう記されている。「語の意味とは何か―もっとも読みやすいウィトゲンシュタイン」 これが「読みやすい」とされているのはケンブリッジでの講義録だという理由からなのだろうか。じゃぁ本当に理解しやすいのか?当然否だ。授業とはいえケンブリッジの学生相手だ。その学生ですら理解できずにいたようである。 「語の意味とは何か」答えは「意味はない。使い方があるだけだ」になるのだろうか。そんな風に理解していたのだが野矢茂樹の解説を見ると誤読だと。まいったな。 気になった箇所を引用してみる。 アウグスティヌスの有名な時間論を引きながら(過去はもうない。未来はまだない。現在には幅がない。だったかな?)「またなぜ人は、ただ時間に定義がないことに困惑して、「椅子」の定義がないことには困惑しないのか」「我々を困惑させているのは「時間」という語の文法なのである。ただその困惑を表現するのに、「・・・・・・とは何か」といういささか誤解を招く問を立てているのだ。この間は、すっきりしない気持ち、心のもやもやを表現しているのであって、子供がしょっ中きく「なぜ」の問に類するものである。この子供の問もまた心のもやもやの表現であって、必ずしも原因なり理由なりを尋ねているのではない」 ここでいきなり脱線。昔のテレビアニメ「一休さん」に『どしてぼうや』という、何を云っても「どうして?」と聞き一休さんも含め大人達を大変困らせるキャラクターがいた。 いつも負けてばかりいる将軍様(義満?)が一休さんを困らせるためにご家人衆を集めてこんな作戦をたてる。何をいわれても「どうして」と尋ねる。流石の一休さんも困るだろうと。 で新左衛門?さんが一休さんにその作戦をもらす。で一休さんがとった方法が最高だったのだ。 一回目「わたしが何をここでお話しするために来たのかご存じですか?」ーいや誰も知りませんー「何を話すのか全く分からない人たちに向かって話しても無駄なので帰ります」ーやられたぁ 二回目「ようやくお分かりいただいたようですね」ーはいみんな分かっていますー「全てわかっているみなさんには何もお話しすることはありません。帰らせてもらいます」ーまたやられたぁ 三回目「どうなりましたか」ー分かっている人も分かってない人もいますー「では分かっている人が分かってない人に教えてあげて下さい」 「哲学で我々は日常言語に対立する理想的言語を考察する、と言うのはいけない。そう言うと、我々が日常言語を改良できるとでも思っているようにみえるからである。日常言語はちゃんとしている」 「ここで、レコードの存在と曲(自体)の存在とを混同するのに似た誤りが犯されていはしないか。曲が存在(の場)に登場するには、或る種の(心的)レコードがなくてはならず、曲はそれから演奏されるのだ、と思いこまれていはすまいか」 「我々を取り囲む(外的)対象と我々の(内的な)個人的経験との関係を考える時、時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実が作られていると言いたくなる。(中略)こうした考えでは、我々の周囲の対象に対する確固とした保持が失われ、代わりに、人それぞれのばらばらになった多くの個人的経験だけが残るように思われる。そしてこの個人的経験自体もまた定かならず、絶えざる流動のうちにあるようにみえる。我々の言語はそのような個人的経験を描写するように作られていないようにみえる。そこで、この事態を哲学的に明らかにするには日常言語は余りに粗すぎ、それより微妙な言語が必要だ、と考えるようになる」 「通俗科学者の語るところによれば、我々の立っている床は常識には堅固に見えるが実はそうでなく、その材は殆ど真空といってよい程稀薄にちらばった微粒子からできているのがわかった、と。これは我々を面くらわせやすい。或る意味では我々はもちろん床が堅固なことを知っているし、それが堅固でないとすれば材木が腐っているからということはあるが、それが電子等からできているためだなどということではないことも知っているからである。それが電子等からできているという理由で床は堅固でないと言うのは言葉の誤用である。かりに、その微粒子が砂粒位大きくまた砂山の砂程度につまっているとしても、砂山が砂でできているという同じ意味で床が微粒子でできているならば、床は堅固ではないだろうからである。我々が面くらったのはそれを誤解してここに、ぽつぽつ微粒子が散在する画像を当てはめたためである。(それどころか、逆に)物質構造のこの画像はもともとこの堅固さという現象を説明するためのものだったのである」 「我々の知るものごとすべてを眺めて、この世界は個人的経験の上にたてられていると言えるとすると、我々の知識はその価値、信頼性、堅固さの多くを失うように思える。すべては「主観的」だと言いたくなる。或る意見を単に主観的であり、趣味の問題だと言う時のような、見下す意味で主観的だ、と」 「例えば、彼が「私の痛みだけが本当の痛みだ」と言うとすると、この文は彼以外の人間はみな痛むふりをしている、という(経験命題を)意味することもできる。また、「誰も見ていないときこの木は存在しない」とは、「その木に背を向けると、その木は消失する」という(経験的内容を)意味することもできる」 「哲学的問題には常識に依る答えはないのである。哲学者の攻撃から常識を守る道は彼らの困惑を解決してやることしかない。つまり、常識を攻撃したい誘惑から彼等を癒してやることであって、常識の見解を繰り返すことではない。哲学者は正気をなくした男ではない、誰もに見えることが見えない男ではない」 「真の私は私の体の中に住んでいるというこの考えは、「私」という語の特異な文法ならびに、この文法がひき起こしがちな誤解に結びついている。「私」(又は「私の」)という語の用法には二つの違ったものがあり、「客観としての用法」、「主観としての用法」、ともよべるものがある。第一の種類の用法の例としては、「私の腕は折れている」「私は六インチ伸びた」「私の額にはこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」、等。第二の種類の例は、「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕を上げようとする」「雨がくると私は思う」「私は歯が痛い」、等。次のように言うことで、二つのカテゴリー間の相違を示すこともできる。第一のカテゴリーの場合は特定の人間の認知が入っており、したがって誤りの可能性がある、というよりむしろ、誤りの可能性が用意されていると私は言いたい(中略)それに対して、私は歯が痛いという時には人間の認知は問題にならない。(中略)「私は歯が痛い」という言明をするとき誰かを私と間違えることが不可能なのは、誰かを私と間違えてその痛みにうめくのが不可能なのと同じである」 「「私」という語は、たとえ私が L.W であったにせよ、「L.W」と同じことを意味しないし、「今話している人」という表現と同じことを意味するものでもない。しかしそれは、「L.W」と「私」は別々のことを意味する、ということではない。ただ、この二つの語は我々の言語において異なった(働きをする)道具だ、ということだけである」 「命題、「私は痛い」と「彼が痛い」の違いは、「L.W が痛い」と「スミスが痛い」との違いではない。むしろ、うめくことと誰かがうめいていると言うこととの違いに対応するものだ」 「表現の意味はその表現を我々がどう使ってゆくかに全くかかっている。意味を、心が事物と語との間に 設定する神秘的な結合のように思わないようにしよう。また、樹木の種がその木を中に含んでいると言えば言えるように、この結合が一つの語の使用全部を含んでいると思わないようにしよう。痛みを感じ、また見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、「私は痛みを感じる」の中の「私」は或る特定の体を指示していない、ということだけである。「私」に体の或る記述を代入することはできないからである」 ということで要約にはまったくなってないが数多くの引用をさせてもらった。要する「私」という語が哲学史上いかに混乱した使い方をされてきたのか、ということがこの時期のウィトゲンシュタインの講義のテーマだったと言える。 野矢茂樹による「解説「青色本」の使い方」によると33年から34年にかけての学期行われた講義録だという。そしてややこしいのは「彼は、自分自身の『論理哲学論考』を批判し、新たな哲学を模索するのである」そして「言語を規則に従った記号操作として捉えるようになった。例えばチェスがチェスの規則に従って駒を動かすことから成るように、言語も言語規則ないし文法(ウィトゲンシュタインは言語規則をしばしば「文法」と呼ぶ)に従って記号を使用する活動だというのである」そして「言語をゲームとのアナロジーで捉えるという発想は、「言語ゲーム」という後期ウィトゲンシュタイン独特の概念へと展開していくこになる」 「例えば私は雑踏の街角に立つ。私は車が行きかう道路や立ち並ぶ店を見ている。しかし独我論的な観点に立つならば、それを見ているのはただ私だけしかない。そこにいる全ての他人たち、彼らは何も見ていない。何も聞いていない。何も感じていない。彼らの姿もその声も、ただ私の意識に映じた現象にすぎず、その現象を受けとめているのは、この私なのだ」しかし「その「私」は特定の一人物のことではない」 たまたま○○であるにすぎないのだ。それは本好きのY かもしれぬ。あるいは本等全く読まない S かもしれない。でもみんな自分のことを「わたし」というのだ。 いつものように高野の交差点にある喫茶店でうだうだ喋っている時。「誰が?」と僕が聞き「わたし」と答える S とのやり取りの際の「わたし」と「わたしの世界」とY がいう時の「わたし」は使い方が違うのだ。同じ語を使っているから混乱が生じる。独我論がいっしょくたにしてしまった誤用なのだ。それはデカルトの近代哲学から始まったのだ。 引用した微粒子の箇所を読み直してほしい。そして「日常言語はちゃんとしている」というあまりにも簡潔で当たり前の文を思い出して欲しい。保坂のことも含めいろんなことを考えながら読んだ『青色本』でした。どうでもいいことだけど古本じゃない新品の本を買ったのはものすごく希なことで(多分去年?)これと一緒に買った『もういちど読む山川世界史』は未だ読んでない。 これはまぁ回想とタイトルにあるとおりケンブリッジの教え子などが書いているのだがすごく楽しんでなおかつ入門書としても良い本でした。しかしなによりけったいな人柄とエピソード満載の彼の生活が興味深かったのです。でも実際もし彼の緊張感に支配された授業を受けていたなら絶対に耐えきれず逃げ出していただろうな。 『放浪』というタイトルがまたしめすように彼の人生は転々と場所を移動し興味も変わる。当初は工学機械系。ベルリンの工業大学〜マンチェスター大学の機械科〜(多分この頃に飛行機ショーを見にいっているのだろう。そこでカフカ?あれはフィクション?)〜数学〜数学の基礎及び哲学そしてケンブリッジのラッセルの下で研究開始。1912年春。こんなことをラッセルに聞いたと言う。「先生、先生は私のことを、全くの鈍物とお考えにありませんか」「もし完全な鈍物なら、私は飛行機の操縦士になります。さもなければ、私は哲学者になりたく存じます」第一次大戦に従軍。1918年捕虜として収容。 それにしても彼が第一次大戦の際に塹壕の中で『論考』を書いていたというのはよく聞く逸話なんだけど本当なんだろうか。この評伝では多少違っていて既に『論考』のもっとも古い部分は書き上げていたそうである。そして捕虜になったときには背嚢の中に『論考』の原稿を持っていたとある。そしてラッセルのおかげで釈放されウィーンに戻り教職免許を取得へき地の小学校を転々。その間の22年には独英対訳という形で『論考』が出版。(だからヴィトゲンシュタイン(独)ウィトゲンシュタイン(英)という二つの読み方があるのだろう。そして後に英国籍を得て帰化したのも関係か?) 柴田元幸『愛の見切り発車』(新潮社)には彼のこんなエピソードが紹介されている。「ウィトゲンシュタインは十数年ぶりに研究生としてケンブリッジに戻ったが、このとき彼は四十歳で、すでに『論理哲学論考』も出版され哲学界に大きな衝撃を与えていた。ところが本人は無一文、大学にとどまる金がない。そこで、博士号があれば奨学金も取り易かろうと、『論考』を博士論文として審査することになり、かつての師ラッセルとムーアに口頭試問役がまわってきた。だが何しろ、こと哲学に関してはとうの昔に師弟関係は逆転したも同然、まっとうな試問になるわけない。『論考』の疑問点を二人が指摘すると、ウィトゲンシュタインは彼らの肩をぽんぽんと叩き、「気にしないでください。どのみちあなた方には理解できないでしょうからと」慰めた(結局、彼は博士号も奨学金も得た)。」(1929年)かっこ良すぎじゃないか? でケンブリッジで講義が始まる。それは青色本や茶色本として有名である。 いろんなエピソードを引用します。「ヴィトゲンシュタインがかつて、完全に冗談(おどけなしの)だけから成り立っていながら、しかも真面目で立派な哲学的著述が可能だ、と言っていたことである。別のときには、彼は、哲学論文には質問(答えなしの)だけしか含まれていなくてもよい、と述べている。自分自身の著述においても、かれはこの双方を広く用いた。例を挙げれば「なぜイヌは痛がっているふりをすることができないのか。イヌがあまりにも正直すぎるからなのだろうか。」」 「ある招待会でヴィトゲンシュタインは、哲学の性質にいくばくかの光明を投げかける目的で、謎々を一つ出した。それはつぎのようなものであった。一本の紐が地球の赤道のまわりにぴたりと張られていると仮定せよ。そのとき、この紐に一ヤードの長さの紐がつけ加えられたとする。もしこの紐全体がぴんと張られ、円状の形になっているとすると、それは地表どのくらいの高さになっているだろうか、というのである。そこに居た人たちは皆、答えを計算もせずに、すぐさま地表から紐までの距離は非常に微小で、目に見えないくらいだろう、と言いたくなった。しかしこれは間違いで、実際の距離はほぼ六インチになるのである。ヴィトゲンシュタインは、この種の過ちこそ哲学に起こる過ちである、と主張した。それは、写像によって欺かれるということである。この謎々の中でわれわれを欺いた写像は、つけ加えられた紐の長さと紐全体の長さを比較したことである。この写像そのものは十分に正しい。一ヤードの長さは、全体の長さから見れば、無意味なほど小さな部分であろうから。しかし、われわれは、このことに欺かれて、間違った結論を引き出したのである。これに類似したことがらが哲学の中で起こる。われわれは常時、それ自体は正しい心的写像によって欺かれているというのである」 数学は苦手なので夕飯の時に数学の得意な父に聞いた。寝る間際思い出した父は朝トリックを教えてくれた。 整理した感じだとこんなトリック。元の円周の長さをL とする。半径をR とする。X は増えた高さ(或は長さ) L=2πR・・・・@ L+1 yard =2π(R+X)・・・A 右辺を展開し @をAに代入すると。 2πR+1 yard =2πR+2πX 1 yard =2πX ゆとり学習をみならって(笑い)π=3 1 yard =6X X=1/6 yard 1 yard =36 inch なので X=6 inch これでいいのかぁ? 「表現というものは、生の流れの中でのみ意味を持つ」 「若いころには秀れた仕事をしたが、年をとってからまったく仕事のさえなかった人たちの例は、枚挙にいとまがありません」 ケンブリッジを去り(ほんとうにうんざりしていたようだ)哲学を完成させるために場所を移動しながら最後は殆ど病気勝ち。健康が優れている時に一心不乱に書きとめ再び病気に臥すといったかんじが最後まで続く。なんかジョイスとも似てるよな。そして死後『哲学探究』が公刊される。 彼の名前を知ったのは大学生の頃。ポストモダン思想がブームで別冊宝島の『知りたい人のための現代思想』(?)だったと思う。そして最初に読んだのが『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳)だ。奥付を見ると97年4月30日第16刷発行とある。ちょうど彦根〜四日市の時期だ。つき合うのか合わないのか微妙な関係が続いた女の子に最終的にふられた時にこの本を読んだ。珍しく線を蛍光ペンで引きながら。こりゃ身にしみたねぇ。四日市の書店で働いていた時に恋愛のどつぼにはまっていた女の子にこれを貸した。 真面目な学生さんで何か本を貸す度に感想文を書いてくれた。「この本を読んでいると、いろいろと共感できる部分があり、おもしろかったです。特に「待機」がまさに記述されているとおりだと思いました。「待機」という状態を自分で意識をもって分析したことがなかったけれど、文章化されるとその通り自分が行動しているのだから。この本は自分が恋愛対象ばかりをやっていて恋愛主体をやったことがなければ、よく理解できないと思いました。たとえ理解できても共感はできないことでしょう」 ―待機とは魔法にかけられたような状態なのだ。動くなかれという命令を与えられているのであるー という感じで断章形式で進む。 さて前置きはこれくらいにしておいて。この作品は個別に発表された(61年〜71年)テクストを集めたものであるようだ。冒頭の『物語の構造分析序説』では「007ー『ゴールドフィンガー』のジェームズ・ボンド」を使いながら論述が進む。そういえばウィトゲンシュタインもこの類いの推理小説好きとあったし。エーコについての論評『エーコ博士の流血館』(ニコラス・シュリンプトン『ロンドンで本を読む』所収)ではこう記されている。 「エーコの使う推理小説というメディアが形而上学的な可能性を持っていると指摘したのがボルヘスだからでしょうね。彼は1968年に、推理小説は「現実の模写ではない。余分な要素の介入をまったく認めない人為的なものである」と書いています。エーコはこの説からでてくる可能性にわっとしゃぶりついた。このジャンルだと、言葉は現実とのつながりなどうっちゃっておいて、自由に遊べます」 つまり全文章がミステリーの前振りとしてあるいは大事な要素として見落とすことなく読まねばならぬということを要請する。それにたいしてバルトは書き手の側面から記述している。或る行為から或る行為までの間に様々な文章を挟み込む自由があると。 「物語内容のレベルの一つに単位を結び付ける糸が、どれほど長く、どれほどゆるく、どれほど細くても、無駄な単位は決してないのである」 そして『作者の死』だ。 「つまり、作品の説明が、常に、作品を生み出した者の側に求められるのだ。」 「「作者」の支配は、今なお非常に強い」 「プルーストは、見たり感じたりした者でもなければ書いている者でもなく、書こうとしている者を語り手にした」 「「作者」は、その存在が信じられている場合は、常に彼自身の書物の過去と見なされてきた。書物と作者はおのずから、前と後に分けられた同一線上に位置づけられる。「作者」は書物を養うものとされる。つまり彼は書物より前に存在し、書物のために考え、悩み、生きる。(中略)これとはまったく反対に、現代の書き手は、テクストと同時に誕生する。彼はいなかることがあっても、エクリチュールに先立ったり、それを超えたりする存在とは見なされない。彼はいかなる点においても、自分の書物を術語とする主語にはならない。言表行為の時間のほかに時間は存在せず、あらゆるテクストは永遠にいま、ここで書かれる」 「ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読>するという意図は、まったく無用になる」 「一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、 伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない」 そしてとても興味深かったのは次の『作品からテクストへ』からの引用。 「作品は(本屋に、カード箱のなかに、試験科目のうちに)姿を見せるが、テクストはある種の規則にしたがって(または、ある種の規則に反して)論証され、語られる。作品は手の中にあるが、テクストは言語活動のうちにある。(中略)「テクスト」は作品の分解ではない。作品のほうこそ「テクスト」の想像上の尻尾なのである。」 「ある作品の<源泉>や<影響>を探し求めることは、系譜の神話を満足させることだ。あるテクストを構成している引用は、作者不詳、出典不明であるが、しかしかつて読んだものである。それは引用符のついていない引用である」 「今日、書物に差異を設けることができるのは、作品の<質>(これは最終的に、<趣味>による評価を前提とする)であって、読書の操作そのものではない、ということはたしかに認めなければならない。構造的には、<教養ある>読書も(電車のなかでの)走り読みと差異がないのである」 こんな指摘もある。修辞学は書くことを教え、時代が下ると学校では正しく読むことを教える。そして音楽についての言明が続く。 「音楽の歴史は、「テクスト」の歴史とかなり平行している」。 演奏することと聴くこととが殆ど差異のない時代があり、そして二つの役割が誕生する。演奏家と愛好家。その間のピアノの役割。そしてレコード。 そして最後。「わたしはプルーストを、フロベールを、バルザックを読み、さらに読みかえして、大いに楽しむことができる。それがアレクサンドル・デュマであっても、どうしていけないわけであろう?しかし、この快楽は、たとえどれほど強烈であっても、たとえあらゆる偏見を免れていても、なお(批評がおこなうある種の例外的努力を除けば)、部分的には消費の快楽にとどまる。というのも、わたしはこれらの作家を読むことはできるが、しかしまたそれをふたたび書くことはできない(今日<そのように>書くことはできない)、ということを知ってもいるからである。そして、このかなり悲しい認識だけでも、わたしをこれらの作品の生産から遠ざけるには十分であるが、まさにそのとき、このへだたりがわたしの現代性の基礎をきずくのだ。(現代的であるということは、繰りかえすわけにはいかないものは何かを真に知っている、ということではなかろうか?)。「テクスト」はといえば、享楽、つまり、距離のない快楽と結びつく。(中略)「テクスト」とは、いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言語活動が(循環する、というこの用語の意味を保ちつつ)交流する空間なのである」 さてこれからどんな風に本が読めるのか?どんな風にここに感想文が書けるのか?僕に実践できそうなのは次のようなことなんじゃないか?「「テクスト」を構成する運動は、横断である(「テクスト」はとりわけ、作品を、いくつもの作品を横断することができる)」 |
| 2月は気楽に7冊も読んだ。 この小説の下敷きはジョン・F ・ケネディの暗殺事件を使っている。冤罪が国家ぐるみで作られるのならレッテルを貼られた個人はひたすら逃げるしかない。そして謝辞には様々な参考引用文献のリストが学術論文のように列挙されている。時代を表現するのに突っ込みをいれられないようにここまでやらぬとだめなんだろうか。昔はもっと悠長だったということなのか。間違っていても許されていたのか。あるいは先端技術なしで現代の社会生活は成立せずそれを使う小説でもやはり基本知識をしっておかないと駄目ということなんだろうか。 様々な雑誌等に載った多数のエッセイが所収されているのだけど佐藤先生の『ロックを感じる世界の文化』の「第4位 ウィーン生まれの哲学者ルトヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの晩年の思索の断片を集めた『哲学探究』―『暗闇のなかのバラについての二つの映像』についての考察はザ・スミスよりスミス的だ」というのと(読んだにもかかわらず全く覚えてない)と続いての柴田先生による『やるせない』でウィトゲンシュタインが歳より若く見たことから繋いで世代的な開きを綴っているのだがそこにこんな文章がある。「三十五〜四十五歳が最悪なのは、文化的共有度はずいぶん減ってきているのに、教師の側がそれを自覚せず、『共有の幻想』にしつこくしがみつくからである。『通じるはずだ』と悪あがきすればするほど、相手は白けていく。隔たりを自覚することが肝要なのだ」。自覚が抜け落ちてるからかなり耳に痛い。三月はウイトゲンシュタイン強化月間で『論考』を読み今『青色本』に突入。『放浪 回想のヴィトゲンシュタイン』(ノーマン・マーコム)が待ち受け頭に余裕があればバルトの『物語の構造分析』に突入の予定。 |
| 2012 年1 月はこんな本を読んだ。 そして「神秘的なるもの」には次の文章。「事実はすべて問題を課するのみで、解答を与えぬ」 |
| 無職の期間読んでいた本そして職が決まり読んでいたジョイスの『ユリシーズ』以外の本。2011. 7月から12 月。 |
河出書房版の『ユリーズ』を手にとったのは大学四回生。河原町通りにあったふたば書房でバイトをしていた時に再発された。悪戦苦闘しながらなんとか読破。そしておそらくもう一度かなり歳をとってから読んだような気がしているのだが記憶違いかもしれない。この新訳はみやこめっせの古本市で購入した。 訳者3人は変わらないがそれでもかなりまだ読みやすくなっています。というのも各挿話の前に要約と解説が記述してあるのです。だからまだ自分が何をどこを読んでいるのか理解する手段になるのです。 読み出したのは2011年の6 月で読み終わったのは12月初頭。途中諸般の理由による長いブランクのためにこれほど時間がかかってしまいました。現在は集英社文庫に4冊もので入っています。 各挿話について語るすべも才能も生憎持ち合わせていないので(そういうのは研究者に任せれば良いと思います)気になったことをざっくり書きます。 文学史的には意識の流れ文学の系統。ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を下敷きに1904年6月16日ダブリンのたった一日を濃密に描いた小説。部屋にある原書では933頁に及ぶ。 丸谷才一編著の『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス 01年)からまずはこの書物の困難さを理解してもらいましょう。 英語を解する出版社あるいは印刷業者は数あるにしても、危険を冒してまでこれを本の形にしようと申し出る物は皆無であった。いや、かろうじて二人いた。パリで書店を経営するアメリカ女性(「シェイクスピア書店」シルヴィア・ビーチ)とディジョンに住むフランス語しか解しない印刷業者(モーリス・ダランチエール)」かくして二十世紀のおそらくは最高の傑作刊行はこの二人にゆだねられ、本書について発禁処置がとられた地域を除く世界各地に届けられることになったのである。英語を全く知らない印刷業者であるから万やむを得ずとはいうものの、『ユリシーズ』初版は誤植に富んでいる―「著者自身のテクストからの離脱箇所五千有余」とガーブラー氏は言う―それに加えて、英語圏の印刷業者たちによる改訂版なるものにしてもそれまでの誤植を除く一方で新たな誤植を生み出しているわけで、「現存する『ユリシーズ』本はいずれも平均して一頁に少なくとも七箇所の誤りがある」とのことだ。(アントニー・バージェス 大澤正佳人訳) 三巻目の帯にはアントニー・バージェスの言葉。『ユリシーズ』は持っているべき本、いっしょに暮すべき本だ。借りて読むのはいけない。 二巻目の帯にはヘミングウェイの言葉。『ユリシーズ』の力がすべてを変えぼくたちは制約から解放された。 じゃぁなにから解放されたんだろう。どんな制約から? いろんな疑問を挙げながら考えてみたい。 □どうしてこんなに登場人物が多いんだ? 大学生の時に読んだギリシャ神話や旧約聖書には沢山の人物が登場したのだけどその時味わった目眩に似たものを感じる。市井の人たちを主人公にした神話を書こうとする結果?ダブリンの一日を一応二人の主人公(22歳の文学志望の青年スティーヴンと新聞社の広告とりである38歳のユダヤ人ブルーム)を中心に出会った人たちを全て書き漏らさないように努めたんじゃないか?それを複数視点で描写。そりゃ邪魔くさいわな。 □勘違いも間違いも当然? 一人一人がちゃんとした真実に裏付けされた知識ばかりをもっているわけじゃないのは当然。ジョイス自身の勘違いもあるかもしれないしこいつは阿呆だから間違いさせてやれとジョイスが描写した人物もいるだろう。解放されたのはそういう客観的に真な事実を書かなくてはだめだというリアリズムなのかもしれない。例えば伊坂幸太郎の小説の最後に記してある参考文献とは真逆という方法。 □性的だったり人権的なモラルからの解放。 とにかく下ネタのめじろ押し。駄目でしょう、13挿話ナウシカアなど。帯にはこう要約されてます。 「少女は花火の下でスカートの奥を紳士に見せ、彼はそれを見ながら手淫する。これはナボコフ絶賛の章」 そして少女は足が悪かったりするのだ。他にも数えきれないくらいあった(SM まがいのポルノグラフィーも)。市井の人々の生活を描くにはあらゆることが行われ存在してているのだから書かなくちゃ駄目なんでしょう。 □妄想や幻覚も逐一書く。 男が子供を産んだり(昔読んだ時には全く理解不能でした)頭の中を通り過ぎた考えを余す所なく書く。件の少女も妄想に捕われていた。森見登美彦もジョイスがいなければ作家じゃなかった? □文学論と無数の引用と下敷きサンプリングとパロディー シェークスピア『ハムレット』が論じられる9挿話スキュレとカリュプディス。作品の中で別の作品を語ると言うのは今でこそ村上春樹等でお馴染みの手法だけど当時はそれぞれ独立したジャンルだったのかもしれない。『オデュッセイア』を下敷きにしていることは既に叩きましたが14挿話太陽神の牛では古代英語から現代の話し言葉まで使われているそうです。それを日本語に訳すため例えばデフォーは西鶴にディケンズは菊池寛に訳されているそうです。大変だ。しかし有効なんだろうか。そして教義問答風の17挿話イタケはばかばかしくておもしろい。 □(時間と)場所 10挿話さまよう岩々 19の断章からなっているそうで市内各所の市民が描かれる。ここでは俯瞰っぽい視点から綴られているのだけど面白かった。それまでは二人の中心人物がそれぞれ別々にほぼ同時進行?で物語が進行するのだけどここでは多数の市民。映画なら最初は大きなスクリーンに二つが並列されているだけなのにこの挿話ではどんどん増えていき数えきれない程小さな画面に分割されるだれるだろう。あるいは地図にミニチュアの人形を使って動かすとか将棋盤(向こうならチェス盤?)を使って再現してみるとか。しかし巧妙にジョイスのことだからトレースできないようになっていたりして。 □文法規則からの解放 最終章『ペネロペイア』からはアポストロフィーもカンマも消えた。原文はこんな感じ。 Yes because he never did a thing like that before as ask to get his breakfast in bed with a couple of eggs since the City Arms hotel when he used to be pretending to be laid up with a sick voice doing his highness to make himself interesting to that old faggot Mrs Riordan that he thought he had a great leg of and she never left us farthing all for massers for herself and her soul greatest miser ever was actually afraid to lay out 4d for her methylated spirit ... さてこの文章は幾つの意味を持つ文章に分けれるでしょう? 河出書房版訳では そうよだってあさのしょくじをたまごをふたつつけてベッドのなかでたべたいなんてかれがいったことはシティーアームズホテルにいたころからずっといっぺんだってなかったことなんだもんあのころころかれはいつもびょうにんみたいなこえをだしてびょうきでひきこもってるみたいなふりをしててていしゅかんぱくであのしわくちゃのミセスリオーダンのおきにいりになろうとしてじぶんではずいぶんとりいってるともりだったのにあのばばあときたらみんなじぶんとじぶんのたましいのめいふくをいのるミサのためにきふしてあたしたちにはびたいちもんのこさないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4シリングつかうのにだってびくびくして..... 集英社版では多少読みやすくなって Yes朝の食じを卵を2つつけてベッドの中で食べたいなんて言ったことずっとなかったものシティーアームズホテルを引きはらってからは1ぺんだってあのころあの人は亭しゅ関しろでいつも病人みたいな声を出して病きで引きこもってるみたいなふりをしていっしょうけんめいあのしわくちゃなミセスリオーダンの気を引こうとして自ぶんではずいぶん取り入ってるつもりだったのにあのばばあと来たらみんな自ぶんと自ぶんのたましいのめいふくを祈るみさのため寄ふしてあたしたちにはなんにも残さないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4ペンスつかうのだってびくびくもので.... 引用した原文が正しい所までとどいているのかどうかすらも怪しいけれどお赦しを。 spirit が二つの意味で使われているのに気付いた。今思い出したんだけどイーグルスの『ホテルカリフォルニア』の有名な歌詞にそういう用法あった。We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine . 酒と魂。よく使われる用法なんだろう。あとたしか Dog とGod もあったはずだ。ポール・オースターの『ガラスの街』 と『ティンプグトゥ』で見かけたからよく使う言い回しなんだろう。 □どうしてこんなに固有名詞だらけなのか? とにかく多い。地名や実在した居酒屋、その当時実際にいた人物や歴史上の人物。流行歌など固有名詞のオンパレード。村上春樹(音楽や文学作品)や森見登美彦(京都ローカルな地名)やニック・ホーンビィ(音楽)等など皆ジョイスのおかげ? 11月18日寺町の10tで保坂和志の講演会があり質疑応答でそのことを尋ねてみた。「保坂さんの『カンバセイション・ピース』にビートルズの赤盤のことが書かれていたのですが固有名詞を使う際に何か考えておられることはありますか?たとえばジョイスの『ユリシーズ』にはいきなり居酒屋の名前が登場したりするわけですが読者はそこを知らなくて小説を理解したことにならないのですか?」(僕の念頭には当然村上春樹のことがあった)保坂の答えにかなりがっかりした。「あるからしかたがないんじゃない?」 保坂によれば「ジョイスは自分は偉大な作家で後に研究者がちまなこになってその人物や場所を特定するに違いないと考えていた節がある。」「京都に『10t』という古本とレコードを扱うお店があって、じゃなくていきなり『10t』と使う方が面白いと思う」と付言されていました。 @固有名詞を使うのは読者を限定するためなのか? A作品中の全ての固有名詞を知っているのは作者だけじゃないのか? Bその登場人物の世界観を手早く表す方法? C最初から読者ははじき出されているのか? D固有名詞なしでも作品が成り立つのなら不用なんじゃないか? E読者を限定するつもりがないのなら固有名詞なしでもいいんじゃないか? F知っていようがいるまいが作品が楽しめるのなら使わなくてもいいということにならないか? とりあえず頭の中を整理するために思い浮かんだことを書いた。 @とA から結論付けられそうなのは C かな。Bは@の前に位置すべきか?そしてDはBの否定?DとFは同じ意味? 確かに登場人物には名前という固有名詞が使われるがそれは任意の記号で良い。実在する固有名詞のことを問題にしているのです。ハルキストは作品が発表されるたびに使われた固有名詞を体験する会を開くらしい。ニック・ホーンビィも音楽ネタ満載だったりするのだけど知っていれば余計に笑えるのは確かなんだけど。例えば彼のサッカーのプレミアリーグを扱った『ぼくのプレミア・ライフ』は完全にアウトでした。あるいは1653年にロンドンで刊行されたアイザック・ウォルトン『釣魚大全』は魚の生態や釣り方を描いた本で全くアウト。そして極めつけは宮沢賢治。鉱石の名前頻出。具体的であればあるほど遠すぎて理解できない。そんなことを考える契機となった作品が僕にとっての『ユリシーズ』です。 長いブランクがあったにもかかわらずこんなに長文になってしまった。一冊読み終わるたびに何かを書いていたらどれほどの文字数になったのかこわい。保坂がよく書く「読書は読んでいる時だけの体験だ」というのはこの小説を読んでいる時に良く頭をよぎった。だって筋はないといえばないのだ。1904年6月16日のダブリン市民の生活をあらゆる文学的手法を駆使しながら描いただけのものだから事件の始まりも解決もエンタメのごとくないのは当たり前じゃないか。 |