カント『純粋理性批判』を読み直す カント『純粋理性批判』(岩波文庫 篠田英雄訳) 1985年7月31日から9月5日までの夏休み、頭の冴えている午前中に講談社学術文庫板、野貞祐訳4冊もので読んだと当時の日記に記してある。2回生だ。記憶というのは曖昧なものでずっと、3回生だとばかり勘違いしていた。そして熱くなった頭を冷やすために記憶の中では『カラマーゾフの兄弟』を夢中で読んだことになっていたのだが、事実はセリーヌ『夜の果ての旅』であったことも判明。その頃からメモ魔であった僕は読んだ本や聴いたレコード等をその日記帳に書いていたのだ。今とちっとも変わらない。その当時は「アンチノミー」が最高に面白く興奮したが、続くかなりの論証は非常に細かくトレースできず、日記にも「難しい」とあった。 今回改めて読み直してみると反応する箇所はかなり変わっていて、月日の流れを感じざるを得なかった。この著作は引き算の哲学であるような気がした。そして文章を読んで行くとその文章の終わり(結論)が否定になるのか、肯定になるのかがある程度予想できるようになっていた。つまり答え合わせで正解率が高かったのだ。客観的に論理的に読めているということなのだろう。 時間と空間という直感形式とはなんなのか?表象は時間空間によって制限された素材として外から与えられた現象にしか過ぎず、それを感性的領域と呼ぶ。時間と空間はア・プリオリな形式であるのに対して経験はア・ポステリオリな認識を意味する。先回りして云うとここから物自体は認識できないという結論が導きだされる。「時間は経験から抽出された経験的概念ではない」「空間は一切の外的直感の根底に存するア・プリオリな必然的表象である」。 続いて悟性について。「悟性は感性的直感の対象を思惟する能力である」。例えば因果律というカテゴリー。夏のゲリラ豪雨。酷暑が河川や海洋の水分を大量に熱し蒸発させ、大量の水蒸気を上空に押し上げるもののある一定の重さで一気に落下する。地球温暖化を引き合いに出すさいによく使われる論法だ。つまり大雨という現象と温暖化という現象を繋ぐのが因果律なのだが、英国経験論の哲学者ヒュームはそれを認めず、単なるそういうことがよくあるという、習慣化という概念にまで先鋭化させた。 最後は理性。「理性は直接に対象に関係するのではなくて常に悟性のみに関係しまた悟性を介してのみ理性自身の経験的使用に関係する」。そしてここで白眉の「アンチノミー」が登場する。「世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する」と「世界は時間的始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である」この両方の命題はそれぞれ論理的に破綻せずに証明できてしまうのだ。同様に「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、その他になお自由による原因性も想定する必要がある」と「およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」。一つ目のアンチノミーに一度は囚われた経験が誰にでもあるのではないだろうか。そして恐怖すら感じ、眠れなくなった夜があるのではないか。この論証はじっくり読めばなんとか辿れたような気がかつてもしたし、今回もそうだ。ただし上に書いたように「数学的ー先験的理念の解決に対するむすびと力学的ー先験的理念の解決に対するむすび」等は今なお理解できなかった。 今回読んではっとした箇所。「自然状態においては、争いを終結させるものは勝利である。そして勝利は双方の当事者の誇りとするところであるが、しかしこれに続く平和は、仲裁に介入する当局によって制定された不安定な平和である」。ウクライナに限った話ではない。戦争がなかった時代は存在しない。 「医師は、危険に陥った患者になんらかの処置を施さなければならない、しかし彼には患者の病気そのものが判っていないとする。そこで彼は、現象を観察して肺病と診断する、そうするよりほかに仕方がないからである。彼のかかる信は、彼自身の判断においてすら偶然的なものにすぎない、ほかの医師なら、或はもっと的確な診断をするかもするかも知れないのである。私はかかる偶然的信、即ち或る行為を目的達成のための手段として実際に使用する場合に、かかる使用の根底に存するところの信を、実用的信と名付ける」その当時にはまだセカンドオピニオンという概念はなかったということだろう。5/14~6/16 岩波文庫を纏めて三冊。 スウィフト『桶物語 書物戦争 他一篇』(岩波文庫 深町弘三訳) スウィフトの代表作と云えば『ガリヴァ旅行記』だけど、子供の頃に読んだ絵本『ロビンソークルーソー』とごっちゃになってて、区別がつかないから、初スウィフトになるはずだ。『桶物語』は全く何を表現しているのか、理解できないのだ。風刺書らしいのだが、その元ネタを知らないと、全く面白くないのだろう。『書物戦争』は固有名詞頻出の内容なのだが、まだ多少面白かった。少しボルヘスに通じるところがあると思うのだが、どうなんだろう。4/22~30 ケェルケゴール『死に至る病』(岩波文庫 斎藤信次訳) 高校の倫理の教科書ではたしか、キルケゴールだったはず。大学生時代読んでみたのだが、頭がくらくらして、苦手意識がずっとあった。あれから、様々な本を読んで来て、基礎体力もついたはずと買って読み直してみた。冒頭部分を少し長めに引用する。「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、ーそれで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、総合である。要するに人間とは総合である。総合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない」頭が混乱しませんか?「関係」が主語になったあたりから、怪しくなり、そして最後の文章で全てが否定されるともうお手上げだ。しかし以前よりはすんなりと読み進んでいけるようにはなっていた。 「我々が老人の口からよく聞くところのこの『過去形』は青年の未来系と同様に大きな幻影である、ー彼等はともに嘘をいっているないしは詩を語っているのである」気をつけないと同じ轍に陥りかねないな。 「人間は語ることを人間から学ぶのであり、神々からは沈黙を教えられるのである」この文の元ネタはブルターク『モラリヤ』らしいのだが、僕はウィトゲンシュタイン『論考』(『語りえないことについては、沈黙しなければならない』)を思い出した。そして前半は後期の言語ゲームに関する要点、つまり使用についての論及について頭に過った。4/30~5/10 萩原朔太郎『猫町 他十七篇』(岩波文庫 清岡卓行編) 朔太郎の代表作と云えばたぶん『月に吠える』等の詩になるのだろうか。しかしこの『猫町』は散文で幻想小説的なのだ。リアリズムから徐々に離れて幻覚に溺れて行く内容なのだ。それは文中にある「簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう」こんなにあからさまに書き記しても許されていた時代があったのだ。それはこんあ文章にも影響を与えているんじゃないか。「詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ」。5/11~13 海外小説を纏めて3冊。 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『悪党列伝』(晶文社 中村健二訳) 帯にはこうある。「ボルヘスの悪漢ギャラリー ビリー・ザ・キッドもいれば、吉良上野介もいる。その名も高い天下の無法者たちの生のパロディーがおりなす悪徳の世界!」ブエノス・アイレス出身の博学のボルヘスが様々国の実際にいた悪漢を使って書いたもの。ただしパロディーというのが味噌なのだろう。史実を微妙にずらして書いているということか?その人物の正史を知らないものだから面白さが僕には伝わりませんでした。ただ「トム・カストロ 詐欺師らしくない詐欺師」はノンフィクション/フィクション関係なく面白く読み進めることができました。3/9~14 『集英社判世界の文学14 パヴェーゼ』(河島英昭 米川良夫 訳) 昨年イタリアの文学作品を集めたオムニバス本を読んだ際に強烈な印象を残した作家がパヴェーゼでした。こりゃ読まねばと思い立ちこの本を購入したのですが。全く前に進まない。重いし暗いというのもあるのだろうけども、それだけではない様なような気がする。実存主義的なないようだからか?何故なんだろう。言葉が難解なわけでもない。登場人物が多数過ぎて迷子になるわけでもない。僕が思うにはあまりにも内容が土地や風土に密接に繫がり過ぎているのではないかと思っています。「丘」や「川」などが頻出するのだけど、具体的な景色を指し示すものなのか、抽象的な概念を表しているのかが判然としないのだ。それはパヴェーゼが16歳ですでに詩で身を立てる決意を固めていたことと無関係ではないと思う。1950年8月26日家を出たパヴェーゼはそのまま帰らぬ人となる。3、4人の女たちに電話をかけ、最後に掛けた相手からは「いやよ、あなたなんか面白くないんですもの。退屈しちゃうわよ」と拒絶されたらしい。「みなを許します。みなに許しを乞います。いいね?あまり騒ぎたてないでくれ」と書き込みがあった。「みな」は最後に掛けた電話の3、4人の相手だったのか?あるいはより多くの関係者を指し示しているのか分からない。3/16~4/14 バリー・ユアグロー『東京ゴースト・シティー』(新潮社 柴田元幸訳) ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の研究者の父の元にこの本が郵送されて来たのだが、数章読んで掘り出した父に代わり僕が読んだ。書店員時代『一人の男が飛行機から飛び降りる』を楽しく読み、文庫担当時代平台に積んでそれなりに売った記憶がある。帯の「五輪と疫病に揺れる都で幽霊たちの大騒ぎ!」からも判断できるように、発行は2021年9月25日。最新刊です。 川上弘美は「いろいろ今、もやもやしているひとにぜひお薦めしたい本なのです」と推薦文を寄せている。内容はガチャガチャ騒がしさ満載です。僕は高橋源一郎を思い出さずにはいられませんでした。帯の裏には本書に登場する幽霊たちとして、太宰、荷風、三島、黒沢等の名前が挙っています。そしてハーンが登場するからこの本が父に送られて来たのだ。生きている人だと「こんまり」こと近藤麻理恵や都築響一等。北野武もたしか。 東京を舞台に繰り広げられる小説なのですが、最後の「その後の顛末」だけは書き下ろしだそうなのだが、ケンジとショーヘイが登場。共に東北だからこの組み合わせなのだろうけれど、この章だけは心に染みる文章で非常に美しい余韻に浸れます。4/15~20 2022年元旦からハードル高めの人文書3冊。 ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(河出書房新社 市倉宏祐訳)は二人のフランス人の共著によるポストモダン思想書です。マルクスもフロイトもラカンもソシュールもじっくり読んだことがない僕にはハードルが高過ぎました。全く理解不能。 「テキストを読むということは、決していくつかのシニフィエを求めて博識を競う訓練でもなければ、またひとつのシニフィアンを求めてひたすらテキストに従う訓練でもない。(中略)テキストからその革命的な能力を引きだし、分裂気質を養う訓練なのである」「意味とは、使用(用法)である」は後期ウィトゲンシュタインの思想を念頭に書かれたのか?「第三節 オイディプス問題」はプルーストが念頭にあったのかも知れない。『源氏』を思い出しながら僕は読みました。2024年の大河ドラマが紫式部に決まったが、脚本は大石静(「半分、青い」は面白かった)が手がける。『源氏物語』の描写もあるはずだが、コンプラ的に大丈夫なのだろうか。そして伊藤沙莉が素晴らしい演技を見せた「いいね!光源氏君」は前振りだったのかもしれない。どちらにしても今から楽しみだ。「無意識は何も語らない。それは機械として作動する。それは表現あるいは表象の働きをするのではない。生産の働きをするものなのである。」「音声と文字の二つの要素は異質なるものであり、連続性を失い均衡を欠いているが、このことは、第三の視覚の要素ーつまり、眼ーによって補われる」「商人というものは、ものが安いところで買い、高いところで売るために、自分が土地をおさえておいて、その投機をを行うことをやめないものなのだ」レコードの催事で独占するもの穴場で開店前から並ぶ悲しい者を思い出す。「器官なき身体は、ことばの最もスピノザ的な意味で内在的実体であり、種々の部分対象は、いわば、この実体の究極の諸属性である(中略)種々の部分対象と器官なき身体とは、分裂症的な欲望する諸器官の質量をなす二つの要素である」「ひとは老人たちが、極めて悪意をこめて若いものたちを非難する声を聞く。若者たちは、自分たちの利益(仕事、貯蓄、きちんとした結婚)よりも、自分たちの欲望(自動車、クレジット、借金、自由な男女関係」を優先させている、と」「十分に読みとっていないのと、全く読みもしないとでは、どちらがよいのかわれわれにはわからない」「われわれは余りにも専門領域にとらわれすぎている。われわれは、むしろ絶対的なる門外漢の立場において語りたいのだ。」「カフカとプルーストという二人の偉大なオイディプス人間は、面白半分にオイディプス人間なのである」。以上がメモを取った部分の一部。(1/1~26) ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(白楊社 野崎昭弘 はやし・はじめ 柳瀬尚紀 訳)も読むのにもの凄く時間がかかりましたし、全く理解できませんでした。この翻訳本が出版された時は話題にはなっていたのですが、どれほどの人が頭をかかえながら最後まで読んだのか、あるいは挫折したのかわかるはずもありません。「論理学」「数学」「音楽」「エッシャーの騙し絵」そして最後の方では「AI」についての言及すらあります。そんな専門知識をぶち込んだ二段組で700頁を超える大著です。 「意味は明らかにテクストの中にあって、解読法の中にはない。音楽はレコードの中に宿っているのであって、プレーヤーの中にないというのと同じだ!」「エリオット・カーターの曲を聴く聞き方は、ジョン・ケージの作品を聴くにふさわしい聞き方とは根本的に異なる。同じように、ベケットの小説もベローの小説は大事な点で異なった読み方をされなければならない」「知能はパタンを愛し、乱雑を避ける。多くの人々にはとっては、ケージの音楽の乱雑性のほうがいっそう説明を要する。説明を聞いても、メッセージが欠けていると感じるかもしれないーこれに対して、バッハの音楽には言葉は余分である。その意味では、バッハの音楽はケージの音楽にくらべてはるかに自己完結的である。しかし、バッハの音楽への理解が人間のという条件をどれだけ前提しているかは、依然明らかはない」「語は意味をもつ実体であって、文字から構成されているんだが、その文字自体はなんら意味をもたない」「主観=客観二分方と密接なつながりをもつのがシンボル=オブジェ二分方で、これは今世紀初め、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインによって深く掘り下げられた。のちには『使用する』と『言及する』という二つの語が、この同じ区別立てをするのに採用された。(中略)とりわけ音楽では、音に禅風のアプローチを持ち込むことに関してジョン・ケージの与えて来た影響は非常に大きい。彼の作品の多くが伝えるのは、音を『使用すること』へのーつまり、音を使ってさまざまな感情のありさまを伝えることへのー侮蔑である。そして、音に『言及する』ことから得る勝ち誇ったような喜びーつまり、音の任意的並列を混ぜ合わせ、聴き手がそれを解読してメッセージを得ようと待つ、あらかじめ公式化されたコードに一切見向きもしないでおく。」 頭が固くなっていると駄目だな。様々な図が掲載されているのだけど、直感的に理解できないし、論理式や数列を辿る根気強さも最早ない。こういうのは頭が柔らかいうちに挑戦しておくべきですね。(1/26~3/1) L・キャロル『不思議の国の論理学』(朝日出版社 柳瀬尚紀=編訳)はあの『アリス』書いたL・キャロルの本業の数学や幾何学そして論理学をテーマにした一種の問題集或は謎なぞ。根気強く読めば未だなんとかなりそうなんだけど、根気がもうないんだよ。こういう学術書は直感的に理解できるか、出来ないかのどちらかだと思います。 「1年に1度しか正確にならない時計と、1日に2度正確になる時計と、どちらがよいか?」そこから論理をもてあそんで後者をと答えた人の頭を混乱させていく。「6匹の猫が6匹の鼠を6分で殺すとすれば、50分で100匹の鼠を殺すには何匹のの猫が必要か?」これも同様。 特に興味深かったのは『魔法の数』という頁。 『142857』 2倍すると 285714 3倍すると 428571 4倍すると 571428 5倍すると 714285 6倍すると 857142 各行を1から読んでいくと、6倍までは魔法の数と同じ順序で数字が並び、7倍すると9がずらりと並ぶ。 これと似たのを知っていて7の倍数以外の数字を7で割っていく。 1割る7 0.1428571428 2割る7 0.2857142857 3割る7 0.428514285 小数点以下に着眼すると同じ数字の繰り返しになっているのに気づく。そして上の『魔法の数字』と同じであることに愕然とする。なんらかの証明の方法があるに違いないが、僕には荷は重すぎる。(3/2~8) カミュ『ペスト』新潮社 宮崎嶺雄訳 12月1日から8日 「無人島に持って行くレコードあるいは本は?」こういった質問は容易に答えられない。何故ならそれは自分の未来を決めることになるからだ。 では「人生を決めたレコードあるいは本は?」これは未だ答えられる余地がある。他人に過去のある時点を語れば済む話だからだ。僕は迷いながらもレコードなら小学6年父から渡された90分テープに入っていた『ホワイトアルバム』と答えることにしている。「レコードじゃないし、テープやん」となるのだがこの際メディアは無視しても良いかと。実際バイトをして初めて買ったのはドイツ盤の『ホワイトアルバム』だったはずで、銀閣寺のユリナレコード。つボイノリオ『ジョーズ・ヘタ』とSly & The Family Stone "Stand!"という可能性もあるのだけど、記憶が曖昧なのだ。レコ屋は京大農学部入り口近くにあったJoe's Garage とはっきりしているのだけど。最近こんな電話取材を受けたので書いてみた。本はやはり銀閣寺のユリナの隣にあった本屋さんで購入したカミュ『シーシュポスの神話』と答えることにしている。同級生の顔を思い浮かべると高校3年で間違いないと思う。順当にまず家にあった『異邦人』を読んでなんかよく分からず、この本を選び読んだ。全く歯が立たなかったず、理解したくて哲学科を選んだ。この哲学的エッセイにはドストエフスキーやカフカについての言及もあり、読書ガイドとしても有用だった。 しかし『ペスト』を初めて読んだのはかなり遅く(あるいは過去に挫折したのかも)2018年8月13日から30日と日記には書いてある。そして2020年4月15日の日記には「コロナさわぎは収まらず」とある。その時期思い出したのがこの小説だった。書店員だったらすぐに新潮の営業に電話で大量注文してどーんと平積みしたはずだ。売る自信?手書きのポップ次第だろうな。しかし悲しいかな書店員じゃ最早なく、攻勢をかけることもあたわず。せいぜい知人に教えるくらいが関の山だった。 以下そんなコロナ禍と重ね合わせつつ、読みながらはっとした箇所を引用していく。 「天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。」 「この病を終息させるためには、もしそれが自然に終息しないとしたら、はっきり法律によって規定された重大な予防措置を適用しなければならぬ。そうするためには、それがペストであることを公に確認する必要がある。」 「カステルはリウーに電話をかけてきたー『幾床あるんだね、分館の収容能力は?』」 「うち見たところ、何ひとつ変わったものはなかった。電車は相変わらずラッシュアワーには満員であり、昼間は空っぽできたなかった。」 「僕が問題の病気にかかっていないことを確認するという意味の証明なんですがね。<中略>僕はその証明書を書いてあげることはできません。というのは、事実上、僕はあなたがその病気にかかっているかいないか知りませんし、またかりにそうでない場合でも、あなたが僕の診察室を出た瞬間から県庁にはいる瞬間までの間に病毒に感染することがないとは、僕には保証できないからです」 「そうなりゃ、もう人道問題だ、それこそ。」「あなたのいっているのは、理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるんです」 「このペストがあなたにとって果たしてどういうものになるか」「際限なく続く敗北です」 「タルーは、あまりにも多くの人々が無為に過ごしていること、疫病はみんな一人一人の問題であり、一人一人が自分の義務を果たすべきであること、をいった。」 「ペストがいっさいをおおい尽くしたといってよかった。もうこのときには個人の運命というものは存在せず、ただペストという集団的な史実と、すべての者がともにしたさまざまな感情があるばかりであった。その最も大きなものは、恐怖と反抗がそれに含まれていることも加えて、別離と追放の感情であった。」 「ほかの地区の居住者は、それに引きかえ、彼らのもっとも困難な瞬間にも、他の人々は自分たちよりもまたさらに自由を奪われているのだと考えることに、一つの慰めを見出していた。『それでもまだ俺以上に束縛されている者があるのだ』というのが、そのとき、可能な唯一の希望を端的に示す言葉であった。」 「カステルの血清がためされたのは十月の下旬であった。事実上、それはリウーの最後の希望だった。万一これもまた失敗に終わった場合には、市は病の気紛れままに、病禍がまだ延々数ヶ月にわたってその威力を継続するか、あるいは、なんの理由もなく終息する気になるか、そのなすままに任せられるであろうことを、リウーは確信させられていたのである。」 「ペストがその仕事ぶりにしめした、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます尖鋭化されたのであった。もちろん完全無欠な死の平等だけは残されていたが、しかしこの平等は誰も望む者はなかった。」 「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。」 引用したテキストは主にペストに関しての普遍的なものが多くなりましたが、胸が痛くなる沢山のエピソードや美しい描写やシリアスな独白や少し難解な考察等とともに物語りは進行していきます。高畠正明の解題にはこうある。「不条理と人間の闘いの寓意小説となり、不条理と闘う唯一の手段として、人間相互の連帯が、聖火のようにかかげられるのだ」。たしかに神父の説教でリウーが気付いた言葉。「『あなたがた』とはいわず、『私ども』というものであった」は当事者としての語られた説教です。分断から融和と言い換えることも可能だろう。しかし少し時代に引きずられすぎている(1972年)気がするのは僕だけだろうか。そんなことを言っても僕だってコロナ禍に引きずられすぎているのは間違いないのだけど。ちなみに原作は1947年発表。カフカの『審判』や自身の『異邦人』についての言及と思われる箇所もあるから、『不条理文学』というのも分かるのだが、それは決して幸福な結末を迎えることに向けて書かれたのではなく、それこそ『際限なく続く敗北』に焦点を合わせた内容と云えるのではないだろうか。 さて新種のオミクロン株はどういう経緯をたどるのだろうか? Ludwig Wittgenstein (1889-1951) 永井均 『ウィトゲンシュタイン入門』筑摩新書 黒田亘編 『ウィトゲンシュタイン・セレクション』平凡社ライブラリー ヴィトゲンシュタイン 『反哲学的的断章』青土社 丘沢静也訳 『入門』は大昔読んでとても感銘を覚えた本でした。彦根に戻る電車の中でのことだから今から凡そ25年前だろうか。その時はすとんと腑に落ちたはずだったけれど、今読み直すと何もわかっちゃいなかったようだ。頭が固くなっているのも事実ですが。ウィトゲンシュタインの伝記的な側面と彼の思索の歩みを丁寧に関連付けながらこの本は進みます。特に『論理哲学論考』の部分は非常に勉強になりました。そして彼の思想が徐々に例えばニーチェやフッサールあるいはソシュールに近づいた地点があったことや、カフカの小説に近づいたことまで言及されています。この本は売らずにおいておこう。 『セレクション』は彼の著作(生前発表されたのは『論考』ただ一冊であとは講義録だったりメモだったりする)をある程度時代的に選び彼の思索の流れを追って行く本です。良く言われるのは『論考』と『哲学探求』との間には齟齬あるいは断絶があるということなのだが、実際に丁寧に追って行くとそれは見かけに過ぎないということが分かるようにこの本は纏められています。 「4・0141 或る一般的な規則のおかげで、音楽家は総譜から交響曲を読みとることができ、人々はレコード盤の線条から交響曲を引きだすことができ、さらに最初の規則に従って再び総譜を導き出すことができる」(『論考』)そして後期の『探求』ではその規則=言語ゲームという風に定義しなおす。「例えば、どのくらいの高さまでテニスのボールを打ち上げていいのか、あるいはどのくらい強く打っていいのか、といったことについても規則など存在しない。にもかかわらずテニスは立派に一つのゲームであり、規則を持っているのである」 2021年の秋クールのドラマは充実した作品が多いですが、杉咲花主演(どことなく高畑充希とかぶる)の『恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール』で、生まれた時から全盲だった同級生がヤンキー君に自分がどんな世界に生きているのか説明しているシーンがあった。「熟した林檎の赤、信号機の赤。見たことはずっとないのだけど、それを理解しないと面倒で話が進まない」。そんな発言だった。何故こんなエピソードを挿入したかと云えば、こんな記述があるのだ。「一部の人間には或る赤さの感覚があり、他の一部の人間には別な赤さの感覚がる、と仮定することもーーーー検証不可能であるにもかかわらずーーーー可能とされるのであろう」「私はどのようにしてこの色が赤(ロート)であることを知るのか。ーーーー『私はドイツ語を習いました』と言うのも、一つの答え方であろう」。 『断章』の『序』はこう始まる。「ヴィトゲンシュタインの手稿のなかには、直接的には哲学的著作とは呼べないようなメモが、たくさん遺っている、とはいえそれらのメモは、哲学的なテキストのなかにいりまじって遺されているのである」。この本をまとめた G・H・フォン・ウリクトの言葉です。「■ 『死後には、時間のない状態がはじまるだろう』とか、『死とともに、時間のない状態がはじまる』とかいう哲学者がいる。だがその哲学者は、自分が『後』とか、『ともに』とか『はじまる』とかを時間的な意味で発言したのだ、という点には気づいていない。1932」「■ 『哲学というのは、そもそも文学として創作できるだけである。』(中略)わたしの思考が、現在の、あるいは過去の、またあるいは未来のものであるか、ということが、明らかになるにちがいないと思われる。1933-1934」「■ いまわたしたちは、ある風潮に反対してたたかっている。だがそのうち、その風潮も消えるだろう。ほかの風潮に押しのけられるだろう。するとそのときには、いまわたしたちが繰りひろげている反対の議論も、もはや理解されなくなるだろう。どうしてこういう発言が必要だったのか、も理解されなくなるだろう。1942」「どんなに洗練された趣味であっても、創造力とは無関係である。趣味とは感覚の洗練である。感覚はなにもしない。感覚は受容が専門なのだ。1947」「■ 音楽のフレーズの理解と説明。ーーーーいちばん簡単な説明は、身振りであることがある。またダンスのステップとか、ダンスを記述する言葉である場合もある。(中略)音楽の理解とは、人間が暮らしていることの、ひとつの表明である。その表明を、わたしたちはどのようにして他人に記述することができるのであろうか。(中略)じっさい、詩や絵を理解することを教えるということも、音楽の理解とはなにか、の説明にふくまれるものなのである。 1948」「■ まったく同一の主題でも、短調と長調とではちがった性格をもっている。じっさい、短調一般の性格について語るなどというのは、とても馬鹿げている。(シューベルトではしばしば長調のほうが短調より悲しげである。)おなじように、色の性格を個別に論じるというのも、絵画の理解にとってはむだで役たたずの話であると思う。緑はテーブル掛けとしてこの効果があり、赤はあの効果、といったことは、一枚の絵における緑や赤の効果について、なにも教えはしない。1950」 。 引用ばかりになってしまいましたが、ここから何を掴むのかは人それぞれです。この本の最後には多数の文学者や哲学者そして作曲家までを網羅した人名索引がある。この OCHAGAYU で文学や音楽に関して何かを叩くときの心構えとするにはあまりにも語彙力が貧しすぎるけれど、足りないなりに真摯に逃げ出さずに取り組みたいなと思う。まぁ単なるメモだし、ハードルを必要以上にあげなくても良いかなとも思う。そしてそもそもそこまでのレベルを誰も期待しているわけでもないのだから、気楽にお手軽でも構わないとは思ってますが。 これといったまとまりもなく適当に選んだ本。 ニック・ホーンビィ『ア・ロング・ウエィ・ダウン』集英社文庫 最所篤子訳 かなり背伸びした読書が続き、頭がパンクしそうだったので軽く楽しく読める本を。以前は新潮社からかなりのタイトル数が出ていたのだが、売れなくなったのか、この文庫は集英社から出版されています。楽しいエンタメですが、単に笑えるだけじゃなく、シリアスな自殺と言う問題に取り組みながら四人を軸に物語は進行します。そこが英国作家らしい強みだなぁと。「あんたも自殺した人間の書いたものを読んでみなよ。まずヴァージニア・ウルフから始めたんだけど、灯台についての本を二頁くらい読んだら、彼女がなんで死にたくなったのかもう分かっちゃた。彼女はさ、自分の言っていることを理解してもらえなかったから、死んだんだね。一行読めばすぐ分かる」こんな風に文学や音楽についての言及に溢れた楽しい小説です。 ポール・オースター『ムーン・パレス』新潮文庫 柴田元幸訳 書店員時代ハマっていた現役作家は彼とジュリアン・バーンズでした。翻訳されたものは殆ど読んだんじゃないかな。『ムーン・パレス』も読んでいるはずなんだけど、全く記憶に残っていませんでした。大きい活字版を見つけたので読み直しました。いやぁ読み応えたっぷりです。ニック・ホーンビィとは全く違う純文学なんですが、様々な伏線が張られ、回収されながら、収斂する。「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である」クッキーに入っていた占いの言葉。これがこの小説のモチーフなのかな。おじさんから譲り受けた膨大な量の書籍を読みそれを古本屋に処分しながらなんとか生活していく。(まるで現在の僕のようです。違いは自分で買った本やレコードということなのですが。僕もそうなるのだろうか。)とうとうお金が底をつきどうにか得た仕事は眼も足も口も悪い老人の世話。車椅子をおして散歩するのだが地獄のような仕事なのだ。眼が見えない彼に言葉で全てを伝えるのだが、駄目だしばかりなのだ。「僕にはそれまで、何事も一般化してしまう癖があった。物同士の差異よりも、類似のほうに目が行きがちだった。」その件でこんな告白が続く。「フロベールを雇って、フロベールに車椅子を押してもらって街をまわるしかなかっただろう」。そしてフロベール自身も決して仕事が早かったわけではないと。しかしこんな嫌な雇い主とも悪戦苦闘の日々の後雪解けが来る。そこから話は意外な方向に展開していきます。静かな読書体験でした。 武藤徹一郎 『大腸がん』ちくま新書 2017年 1 月に直腸癌が見つかり、府立医大に入院。放射線と抗癌剤でステージ4からステージ2?まで小さくなった結果無事手術も成功。その当時の記憶は『もりとも問題』と『府立医大スキャンダル』(各TV 局が押し寄せていた)。外側ではそんな状況。僕はと言えば優しい看護師さんとの日々日常。(とにかく名前を覚えること。楽しく会話しながら病院生活を快適に過ごすこと)。そして友人や家族のサポート。特に友人 I が差し入れてくれたヘッドホン端末。毎日それで音楽を聴いていた。メイデンやパープルやXTC やビートルズやファンクのコンピをヘビロテしていた。あと友人Y が差し入れてくれたカルビーノの『冬の夜ひとりの旅人が』。途中で挫折しましたが。あれから数年経過していて再発も転移もしていないようですが生活は激変してしましました。まぁ運が悪かったと諦めるしかないようです。 罹患してから読んだところでどうしようもないのだけど、原因や術後の対処の仕方など参考になればなと手に取った。原因はどうも食生活が洋食志向になったことにあるらしい。治療法の詳しい歴史等専門的な内容にははついて行けませんでした。とにかくこの本で言われているのは癌系統の家系なら検査を受けてみるということ。そしてこの本にはこんな言葉がありました。『天寿がん』という概念。「天寿を全うしたひとを解剖して調べるとあちこちにがんが見つかることがあります。臨床的には何も問題はないけれど、細胞学的にはがんがあるわけです。死因は老衰ですから、一応天寿は全うしたことになります。」ウィズ・コロナじゃなくウィズ・カンサーってわけです。 丸谷才一編『私の選んだ文庫ベスト3』毎日新聞社 買い直したこの本には新聞の書評の切り取りが挟んであった。「プロ、アマ問わず本を愛する人たちが『文庫本になっている』ことだけを条件に選んだ古今東西あらゆる著者のおすすめ三冊。すごく読み得な本です。ハイ。」大傑作『ポーの一族』の萩尾望都が『レイ・ブラットベリ』を選び、奥泉光は『ドストエフスキー』。三浦雅士は『フィリップ・K・ディック』を選びながらこう記している。「SF は思考の実験に最適だ。デカルトもヒュームもウィトゲンシュタインも、じつはSF作家だったのではないか。」当たり前にこうして生きていると思う世界とは違う世界が実は広がっているのだという直感。一旦その直感に気づくと対処方法は限られてくる。細かく物語として紡ぎ出し描写していくか、可能な限り分析していき底まで達するか。ちなみに装丁挿画は和田誠。煙草『ハイライト』のデザインを手がけ、嫁は平野レミで息子の嫁は上野樹里。 恩田陸 『酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記 イギリス アイルランド』講談社 ふと手に取ったこの本。装丁が「地球の歩き方」まんまなのだ。恩田陸は強度の「飛行機恐怖症」らしく、実際に飛行機に搭乗するまでの文章がとてつもなく長い。しかしくすっと笑える描写が散見される。持って行く本の候補に保坂和志『カンバセイション・ピース』。コメントはこうだ。「保坂和志は、私の中では裏村上春樹だ。顔もなんとなく似てるし」。モンティ・パイソンの名前が出たりもする。「私は、小説を書く時、タイトルから考える。気に入ったタイトルを考えて、それに合う話を考えるのだ。(中略)。内容が決まっていないタイトルも沢山ある。その中の一つに、『ライオンハート』というタイトルがあった。ブリティッシュロック歌手のケイト・ブッシュのアルバムのタイトルでもあり、映画にも同名のタイトルがあるが、昔から気になっていた、使いこなしたいタイトルの一つだった。」 作家がアイルランドについて書く際にはほぼデフォルトとなっているのはこういった記述だ。「アイルランドは世界に知られたビンボー国であったが、その一方で世界に知られた文学の国でもある。」「アイルランドは四人のノーベル賞作家を輩出している。ウィリアム・バトラー・イエーツ(詩人、アイルランド文芸復興の立役者)、ジョージ・バーナード・ショー(世界史の教科書には大体『人と超人』が作品例として載っている)、サミュエル・ベケット(ご存知『ゴトーを待ちながら』の作者)、シェイマス・ヒーニー(この人、知らなかったけど詩人で評論家だそうです)。他にも綺羅星のごとく独創的な作家がいて、『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフト、極東の少女漫画ファンのカリスマ:オスカー・ワイルド、読んだことなくてもみんな知っている意識の流れ『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイス、などなど。」ツアーから離脱して訪れた文学博物館ではこんな体験をする。「更に、最近在住アイルランドの日本人の尽力で出来たという小泉八雲=ラフカディオ・ハーンのコーナーがある。さすがに彼がアイルランド人であることは知っていた。なにしろ、松江の小泉八雲記念館には何度も行っている。彼が日本の『怪談』に興味を持ったのは、子供の頃にアイルランドで聞かされたフェアリー・テールとの共通点を感じたからだいうことだし、(中略)しかし中庭に唐突に「Zen Garden」なるものがあるのは理解に苦しむ。小泉八雲は禅にはあまり関係ないとおもうのだが。」八雲研究者の父に聴いてみよう。こういう本を読むとまたロンドンへ行きたくなる。どういう食事制限をかけてお腹の調子を整えたら行けるか考えてみたが正解はでない。日本と違って時差が絡んでくるから。そして数年前台風で関空が機能しなくなった時に、伊丹や神戸からも国際線が運行するようなニュースを観て喜んでいたのだが(京都から関空まで遠すぎるんだよ)、その話も結局頓挫したらしい。そんな事情+コロナ禍の影響もあって、ロンドンへは行けそうもないというのが哀しいけれど結論だ。 これといったテーマもなく読んだ日々。7月1日から9月6日。 あまりにも沢山の本が所狭しと積まれている。とにかく読み続けなければこの惨状を克服することができないのは自明で、まず朝食の準備を終えた後、以前は仮眠を取っていたのを止めて時間を確保。そして朝食後BS で『あぐり』と『モネ』が始まるまでの時間。そして夕飯ご入浴前と入浴後。あくまでも調子が良い場合だけどひたすら活字。レコードだったりTV の時間も必要だ。 スピノザ『知性改善論』岩波文庫 畠中尚志訳 奥付は昭和44年第七刷り。初版は昭和6年。装丁も字体も古いままで読みにくい。表紙のタイトルも右から左に並んでいる。感覚がいかに人を欺くかという箇所にこんなたとえが記述されている。「若し人が例へばたった一つの恋愛劇しか読まなかったとすれば、その人は同種の他の多くのものを読まぬ限りに於いて最もよく之を記憶するであろう、何故ならその場合その物語だけが想像のなかにはたらくからである。これに反して、もし同種の多くのものが存在すればすべてが同時に想像され且つ容易に混同される」。音楽も同様であることは言うまでもない。例えばモーツァルト。主題は区別できるがそれ以外となると僕は自信ない。 スピノザ『エチカ(上下)』岩波文庫 畠中尚志訳 大学時代同級生で読書会で取り組んだもののあまりにも解らず止めてしまった記憶がある。そして個人的に中公の『世界の名著』で読み直したのだった。当時は何となく理解した気がしていたのだけど、やはり頭が固くなっているんだな。スピノザはデカルトを批判的に読むという立ち位置なのだけど、こういう風に哲学史は進んで行くわけで、そこが細かく繊細な論理だから余計に手こずる。唯一メモしたのがこの記述。「第三部 感情の起源および本性について 定理 51 異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺戟されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺戟されることができる」。僕なりに理解しているフッサールの現象学はまさにここに問題提起したのだと思う。誰も客観的で同一の世界を観たり理解したり人間はいないのに逆にそういった世界がまずあって、ばらばらの個人が違った見方をしているとされる。どうしてそういう世界観が要請されたのか?スピノザは神がこの世界を創造したということを時代的な制約もあって、無批判に導入。しかしフッサールはそれは幾何学という神とは違う別の理念から帰結したと、結論づけた。 アイリアノス『ギリシア奇談集』岩波文庫 松平千秋・中務哲郎訳 「プラトンがアクラガス人の贅沢な暮らしぶりを笑った話」にはこんな記述がある。「アクラガスの連中は家造りは、まるで永久に生きられるつもりでいるようだし、食事の仕方はまるで明日死ねばならぬかのようだ」哲学が認識論など細分化する以前はこういった身の処し方についてうだうだ語り合っていたのだ。コロナ禍の現在にはこんな言葉はどうだろう。「プラトンは、希望とは目覚めている人間の見る夢だといった。」そしてアリステッィポスの言葉にはこんなのがある。「現在のみがわれわれのものであり、過去も未来もそうではない。過去は既に滅びたものであり、未来は果たしてそうなるか不明だから」。 『世界短編名作選 イタリア編』新日本出版社 監修 蔵原惟人 アルベルト・モラヴィア『病人の冬』は二人の少年がサナトリウムで繰り広げる感情のもつれ合いを描いた小説でとても胸が痛くなる。チェーザレ・パヴェーゼ『闖入者』は刑務所内での二人のドラマ。このアンソロジー中これが一番良かった。ということで古書店に集英社のパヴェーゼを買い求めた。女流作家ナターリア・ギンズブルグ「彼と私」は冒頭から素晴らしい。「彼は暑がり屋で、私は寒がり屋である」若干の変化を加えながらこの調子で物語は進む。ミニマルな小品。そしてイタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』は少年が主人公。シリアスな状況が淡々と描かれていて、それがいかにもカルヴィーノらしい。 『世界短編名作選 フランス編 1』新日本出版社 監修 蔵原惟人 オノレ・ド・バルザック『知られざる傑作』は息が詰まる程濃密で圧倒的な小品。アルフォンス・ドーデ『最後の授業』ではこんな文章。「フランス語は世界じゅうで一番美しい、一番明晰な、一番しっかりした言語であること、ある国民が奴隷の境遇におちても、その国語をしっかり保持していく限り牢獄の鍵を握っているようなもの」。ギイ・ド・モーパッサン『脂肪のかたまり』は戦時下同じ乗り合い馬車に乗車することになった、様々な身分の様々な組み合わせにおこる化学変化をおもしろおかしく描いた小説。キーパーソンが娼婦なのだ。彼女を説得するためにあの手この手を使うやり取りが最高です。 ロバート・A ・ハインライン『夏への扉 新訳版』早川書房 小尾芙佐訳 定番の福島正実は以前読んでいますがあまり内容を覚えてなく、偶然に新訳版を見つけたので読み直しました。復讐心に燃え、苛つきの激しい主人公が活躍するタイムトラベルものの古典SF となっています。「タイムトラベルが普及したら、この回帰的状況をあらわすために、英語の文法は新たな時制をくわえなければならないだろう」「『荒仕上げをするは人間、最後の仕上げをするは神』とハムレットは宣う。一つの文章のなかに自由意志と運命が語られている、その両者とも真実である。ほんものの世界はひとつしかない、ひとつの過去とひとつの未来」哲学的な考察だ。スピノザを思い出した。 『黒人学・入門』別冊宝島EX にはこんなサブタイトルが付されている。「黒いキリスト教からNBA まで。ブラック・カルチャーの素顔を知る決定版」。映画や音楽やスポーツ等が検討されながら、黒人の問題を取りあげたこのムックは非常に示唆に富む。この本が出版されたのは1993年。Hip-Hop が商業ベースにのり前年にはスパイク・リーの『マルコムX』が公開。そこに時代が流れ込むように編纂されています。特に納得したのが「黒人文化は常に白人によって『搾取』や『盗作』を繰り返されてきた。」例えばビートルズ、ストーンズ、ツェペリン等みんなベースにあるのはブルースだったりする。どうしてビートルズは『ラバーソウル』などと自虐的なアルバムタイトルをつけたのか?元々黒人の音楽だったデトロイトテクノが英国で流行ったのか。肉薄したアーティストも存在するけれど、黒人からみれば剽窃に過ぎなかったのだろう。じゃぁビースティーズはどうなのって話になるけれど、ここで何かしらの答えは持ってません。そしてマイケル・ジョーダンをアイコンして使いながらこんな結論に至る。「黒人にとって、自分たちの才能や文化のなかで唯一白人社会に『搾取』や『盗作』『横取り』されないと確信できるもの、それは肉体の技術である」。ショッキングなのは『イエス黒人説』についての記述でした。アフリカのエジプト出身のイエスは黒人だったと問題提起した研究者も存在したらしい。じゃぁ何故みんなイエスが白人のように刷り込まれたかと言えば、ルネッサンス期ダ・ビンチが『最後の晩餐』でイエスと十二使徒をヨーロッパ人の容姿で描いたのがそもそもの始まりだと。出来すぎたタイミングでRoots のドラマーQuestlove 監督作品の映画『サマー・オブ・ソウル』が日本でも封切りされた。時は1969年。ウッドストックと同時期だ。登場アーティストが豪華だし、ニーナ・シモン、マヘリア・ジャックソンそしてスライ・アンド・ザ・ファミリーストーン。ノンフィクション作品であるし愛情もって編集に携わったに違いないクエストラブ。是非観たい。 高橋哲雄『アイルランド歴史紀行』ちくまライブラリー 「ノーベル文学賞の受賞者数をみても、人口五百万にみたぬ小国というのに、イェイツ、ショー、ベケットと三人を数える。現代文学への衝撃度においては彼ら異常に大きな存在であるジョイスを加え、かつそれを人口五千万のイギリスの受賞者七人と比べると、そのアンバランスな、といってよい存在の大きさに見当がつく」。じゃぁそんなにアイルランドは自由な国かといえば、答えは否だ。カトリックの検閲だ。「アイルランドの現代作家では、ジョイス、エドナ・オブライアン、ショーン・オケイシー、ブレンダン・ビーアンの主要作品や、ショーの『神を求める黒人娘』などが出版を禁止された。海外作家ではジョン・ドス・パソス『ある若者の冒険』、ダフネ・デュ・モーリア『二度と若くはなれない』、ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリー』、『八月の光』、アナトール・フランス『仮装役者物語』、グレアム・グリーン『事態の核心』、『情事の終わり』、アーネスト・ヘミングウエイ『陽はまた昇る』、『誰がために鐘はなる』、トマス・マン『聖なる軍人』、ジョージ・オーウェル『一九八四年』、J.D.サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』、ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』、『エデンの東』などが、やはり出版を禁止された。」そんな不自由な言論界だからこそ、検閲をかいくぐろうとする努力があったのかもしれない。 『改訂版 詳説日本史 B』山川出版 高校時代にははたしてどこまで学んだのか覚えていないし、予備校時代はピンポイントで良く入試に出題される過去問を勉強したに過ぎない。ということで全て読んでみた。やはり歴史はいろんな意味で興味深い。近現代こそ先に学ばねばいけないとも思った。コロナ対応を巡って良く後手後手と批判されている。しかしこの本を読んで今に始まったことじゃないやんと痛切に思った。今まで何か問題が起きるたびに後になって対応するという事実の繰り返しなのだ。珍しく先手を打ったのは例えば1941年の12月8日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃。しかしその後の経緯をみれば先手が必ずしも良い結果を招いたわけじゃない。 しかし今の政治家と昔の政治家の違いがよく分かるのは『総辞職』というキーワードだ。今でも『総辞職』が現憲法下で可能なのかどうかは解らないけれど昔の総理は総辞職という責任の取り方を選んでいる。潔かったのだろう。例えばまた、この本の最後は「2011年3月11日の東日本大震災における東京電力福島第一原子力発電所の事故などによって、原子力発電の安全性に対する信頼がゆらぎ、再生可能エネルギーを推進するなど、エネルギー政策そのものが問い直されている」という記述があるのだけれど、既に10年経っても遅々としてこの問題は解決されていない。全てがこの調子だ。2018年発行。 1935年英国生まれのデイヴィッド・ロッジと1931年アメリカ生まれのドナルド・バーセルミを読む。 デイヴィッド・ロッジ『交換教授』(白水社 高儀 進訳)6月13日〜6月22日 帯の宣伝文はこうです。「大学紛争の時代を背景に、ポストを交換した英米の二人の大学教授が異国で演ずる哀しくも滑稽な人間喜劇。二つの文学賞に輝くコミック・ノヴェルの傑作」。その宣伝文に嘘偽りはありません。僕の世界に住んでいる人物への言及。パスカル、アレサ、ヴィトゲンシュタインやカミュ、『ホワイト・アルバム』収録の "Why don't we do it in the road?" 。楽しくにたにたしながら読み進むのだけど、それだけでは当然済む小説ではない。『小説の技法』でも対比された小説と映画の違いが最後に述べられている。「小説家は、終わりの近いことを物語る残り少ないページをごまかすことはできないんだ」対して「そして、予告もなしに、何も解決されぬまま、何も説明されぬまま、なんの決着もつけらられぬまま、監督が選んだ時点で、映画は、すっと、、、、終わることができる。」これに関しては当時の映画論だろう。最近はみんな結末を求めたがる。最初の劇場版の『エヴァ』のラストが不評だったのも、作っている文法がそもそも違っていたからかもしれないな。最近の映画は結論あるもの。 ドナルド・バーセルミ『雪白姫』(白水社 柳瀬尚紀訳)6月22日〜6月26日 帯文「アメリカ文壇の鬼才が倦怠と不安の現代に生きる雪白姫とその恋人たちに贈る荒唐無稽のスーパー前衛ファンタジー」。すらすら読めるのに全く理解できない小説でした。そんな中にあってもくすっと笑える文章はあるんだな。「充満空間ですら漏れることがあるのです。充満空間ですら、憚りながら、穴があくのです」。散々使われた五輪ワード『バブル』のことが頭を過る過る。「作者をほめちぎって定価の表示されている外側の部分だ。ぼくらはがらくたのふんだんに詰まっている本が好きだ。つまりまるごと関連があるわけではないもの(いや実際、まるきり関連がないもの)として現れながらも、注意ぶかく見つめると、何がどうなっているかという一種の『感覚』をもたらしうる物質だ。この『感覚』は行間を読むことによっては得られなく(その白い空間には何ものもないからだ」、行そのものを読むことによって得られる・・・行を見つめ、そうして厳密には満足感ではない気分に到達する、満足感など望みすぎというもので、行を読み終えた、行を『完了した』という気分に到達すのだ』。これがポストモダン小説なんだろう。 ドナルド・バーセルミ『帰れ、カリガリ博士』(国書刊行会 志村正雄訳)6月26日〜7月1日 この作品は1964年に発行されたバーセルミ最初の単行本らしいのだが、それぞれの作品はひと作品を除き様々な媒体に発表されたものらしい。『教えてくれないか』はこう始まる。「ヒューバートはチャールズとアイリーンにクリスマスプレゼントとしてすばらし赤ん坊を与えた。赤ん坊は男の子で名前はポールでであった。チャールズとアイリーンは長年にわたって赤ん坊ができなかったので大喜びであった。」そしてここからどんどん複雑さを増した人間関係が即物的に書かれていきます。小品なのに目眩を起こします。『ぼくとマンディブル先生』は笑えます。子供の作品よろしく日記形式で進みます。冒頭はこう。「ミス・マンディブルはぼくと寝たいんだが躊躇している。なぜならぼく、公式には子どもだから。ぼくは、記録によれば、ミス・マンディブルの机の上の成績簿によれば、校長室の、カード・インデックスによれば、十一歳。」しかし本当は三十五歳。そして学校に通っている。「しかし、こんな小さな椅子に坐って、机に股をきゅうくつに押さえつけつけながら、」分数を習っている。ずっとこんな調子です。「バレーボールのチームに入れと言われた。僕は断る。身長を利用して不当に得をするのはイヤだ」。 『マリー、マリー、しっかりつかまって』がリアリスティックに読めるのは日にちや時間や場所が具体的だからなのだろう。 そしてほぼ会話文で進行する『マージン』は微妙に会話がズレているように思える。ベケット? こういう風に短篇集を読むと引き出しの多い作家であることに改めて驚きました。 小説についての本を纏めて読む。 保坂和志『書きあぐねているひとのための小説入門』草思社 5/24-5/27 辻邦生『小説への序章』河出書房新社 5/28-6/5 デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』白水社 柴田元幸・斎藤兆史訳 6/6-6/12 保坂とロッジは再読です。まず保坂。ゴダールの『映画史』を読むきっかけになったのは保坂だという記憶はあったのだけど、かなりの数の著作を読んでいたので、どの本だったのかまるで覚えておらず、部屋に偶々あった買い戻しの本を選んでみたらやはりこの『書きあぐね』でした。『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンドとの会話のシーンで尺的にカットせざるを得なかった為にベルモントの発言を全カットしてしまったというゴダールの証言から、保坂はさらに大胆にカットし、読者がぼんやり読まないように、読みにくくしたのだそうです。もう一カ所のゴダールについての言及は「シーンというのはショットの積み重ねであり、それによってつくり出された”流れ”のことだ。大事なのはその流れであって、一つひとつのショットの切れ味ではない」。つまり細かいディテールに拘るのではなくトータルで掴むという帰結なのだろう。あくまでもこの本はこれから小説を書こうと考えている人のためのより実践的(実用的ではありません)な本と云えるのでしょう。 辻邦生は非常に理解し辛い本でした。小説の成立史を踏まえながらの哲学的アプローチと云えば良いのでしょうか。「第5章 プルーストと全体性への視点」が圧巻でした。「誕生と死との間にとざされた人間の有限的な時間の肯定をさしているということでもあり、過去から未来へ川のように流出する時間ではなく、主体のうちに重層し、蓄積してゆく時間ということができる」「第6章 小説空間の意識」ではこんな記述がある。小説といえども伝達に過ぎないと限定した上で、「ある出来事を目撃したとすれば、伝達主体間では、いつ、どこで、何が、どのように、誰に対して、起こったかを認知し合えば、それで伝達の役割は果たされたことになる」。ピンチョンの『重力』を読んで特に思ったのはポストモダン小説はそこをあえて無視するゆえの、分かりにくさではないのか。そして保坂と同様に「第7章 ディケンズと映像」では映画についての言及があり、ゴダールの『映画史』でも名前が挙がった、「映画の創世記の二人の巨匠ーD・W・グリフィスとエイゼンシュテインとが、ディケンズからその詩的な刺戟と、映像言語の新しい可能性を学んでいる点は興味深い」。「『書く行為』を、既存の現実の描写、もしくは、事実の報告という役割に限定し、言葉を、この伝達手段と見なす結果となる。すくなくとも外界が先在し、それを言語が写してゆくという関係が、自明のものと感じられる意識の地平がそこに開かれる結果となったのである」これは英国経験論的な言及でしょう。「ディケンズから多くを学んだプルーストが、その微分化する感覚的世界を照応し結合する手段として、印象主義的なメタフォールを自在に駆使したのもにも比較しうる。プルーストの場合もメタフォールは疑いない感覚的な体験のうえに構成されたある超越的な領域を啓示しているのである」メタフォールというのは「ある事物を表すのに、それと深い関係のある事物で置き換える法」ということだそうです。よくわからないな。文学の中でも特に詩で良く使われる手法ですよね。そして「第8章 終末論の構図」でモーリス・ブランショの引用がある。「トーマス・マン、プルースト、ジョイスはそれぞれ別々の道をたどりながら、すべての真の物語がわれわれを導いてくれるこの無意識的記憶の時間の神秘を見いだしていったのである」。未だかつてマンを読んだことがないので手に取らねばならないな。何でもマンの代表作「『魔の山』の冒頭において物語の時制は過去時制であると書いているが、あらゆる事象を過去的なものとなし、未来までも過去に属せしめる主体とは、あらゆる未来にさきがけて未来である主体、つまり最終末に立つ主体に他ならない」この結論が次に読んだロッジと反響する部分があったのだ。 名古屋の友人 M 氏とのメールのやり取りの中でジョージ・オーウエル『パリ・ロンドン放浪記』『動物農場』に続いて現在『1984』を読んでいますと、あった。そんな折『小説の技巧』の「29 未来を想像する」で取り上げられているのが奇しくも『1984』だった。「未来についての小説のほとんどが過去形で語られるのは、一見矛盾しているように見えて、実はそれなりの理由によるものである」。「過去形は物語にとって『自然』な時制なのだ。現在形ですら、何となくしっくりとこない。なぜなら、何か書かれているということは、論理的にそれがすでに起こっていることを前提としているからである」。哲学は未来を語らない。普遍性を求めるから時制に制約される必要がない。時間そのものをも定義する学問ですからね。別の項目「8 名前」 では自作品に加えてポール・オースター『シティー・オヴ・グラス』が取り上げられていて興味深く読んだ。「構造主義の基本的発想のひとつに『記号の恣意性』ということがある。つまり、言葉と、言葉が指し示すものとのあいだには、何の必然性・実存的結びつきもないという考え方である」。これはソシュールの記号論。「この問題に関して、固有名詞というものは、奇妙で興味深い位置をしめている。ファーストネームというのはたいがい、何らかの意図をこめてつけられる。両親は何かしかの楽しい、あるいは希望的な連想をこめて、われわれに名前をつける(我々がその名にふさわしく育つか否かはまた別問題だが)。」 最近のキラキラネーム(もう下火?)はポストモダンの影響下にある現象なのかな。 2021 年元日からピンチョンを手始に2冊ものの長編に挑む。 トマス・ピンチョン『重力の虹』国書刊行会 越川芳明他訳 元日から2月15日。 冒頭の数ページに及ぶ<主な登場人物>で迷子になること必至だと諦めました。5W1H を正しく使わないと悪文になると作文で習ったような記憶があるのだが、この小説は年代(第二次大戦を挟む前後)や場所(ロンドンだけ?)等ある程度しるされているのだけれど、なにせ登場人物が多すぎる。彼等はスパイ活動に従事していたり実は二重スパイだったり、ロケットを開発していたり(そこにはロケット工学などの理論が展開される)。 知っていることと理解することは当然違う。バップの天才のチャーリー・パーカーも広島もビートルズファンにはそれなりに知られている4人組のフール(聴いたこともレコード自体見たこともありません)等の固有名詞は知っているかそうでないかで事足りる。普通の小説は問題や事件等何かが起きる。そしてその後数ページ後に実はこうだったのだと答え合わせがある。ロラン・バルトは扉を開ければ数ページ先でその扉は閉められると、たしか指摘していた記憶がある。しかしこの小説は伏線が多過ぎて答え合わせができない。つまり因果関係が全く掴めないのだ。 戸田恵梨香主演のドラマ『SPEC』を思い出させる数々のスペックホルーダ(特殊能力保持者)も多数登場する。つまりSF 的な要素も持ち合わせている。日本のSF 作家円城塔を読んだ時の目眩を思い出しました。そしてあっちこっちで物語が始まっていくのだが、収束に向かっているのかどうかが分からない。しかし唯一ロケット工場の技師フランツとその娘イルゼのシーンは素晴らしく美しい。殆ど何処を読んでいるのか分からないままラスト近くこんな会話がかわされる。「”ヒントぐらい”は残しておかないと、と思っています。かれらから希望を奪っちゃいかんでしょう」。これは読者に向けたメッセージと受け取るのは深読みすぐるだろうか。この小説を読んでいる時に頭に浮かんだのはヴィトゲンシュタイン『論考』のテーゼ。「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」。これってひょっとしたらハイデガーの『存在と時間』で頻出する存在論的/存在的という用語に重なる部分があるのかも知れないな。ものは知っている知らないーつまりマークシート的な問題。しかし理解するーは記述式問題。そんなことが脳裏をよぎっては消え去った。 T. ピンチョン『V.』国書刊行会 三宅卓雄他訳 2月17日から3月12日。 以前読んだのは新訳か改訂訳だったのかな?表紙が違っているし、今回のは<ゴシック叢書>シリーズの中の1タイトルとして出版されたもの。以前読んだ時は涙流しながら腹を抱えて笑ったページ(大量に売りに出されて予想以上に大きくなりすぎたワニを皆が下水に流したため異常にNY の下水で繁殖してしまった件。でか過ぎて美術館から盗むことが出来なかった絵画の描写)があったのだけれど、今回それほど大笑いという訳にはいかなかった。。その日の体調もあるだろうし、訳が少し変更されているのかも知れない。読書は不確定要素が多すぎる。でも『重力』に比べたら未だ物語りとして読める。ルーニーは『珍妙レコード』の重役なのだが、彼は婦人便所にテープレコーダーを持ち込んだりするのだ。そんな愛すべき登場人物多数。しかしこんな記述もある。「『状況』というものはある特定の時点でそれと関わり合った人々の心の中に存在するだけなのだ」。そして次の会話に愕然とする。「世界とは、その場に起こることのすべてである」ーつまりヴィトゲンシュタインのテーゼなのだ。前回読んだ時に無意識に刷り込まれたので『重力』を読んでる際に浮かんで来たのかどうか謎なのだ。それも二度に渡り引用され『論理哲学論考』というタイトルまで登場する。偶然なのか必然なのか少し恐怖を感じた。そしてこんな文章にも胸を掴まれた。「固有名詞と文学的アリュージョンと、それに批評用語とか哲学用語がある並べ方でつないであるといったしろものなのだ。手持ちの積木をどう並べるかで、気が利いているか、バカに分かれる。他の人間については、どう反応するかで『わかる仲間』と『わからない部外者』に分かれる。だが積木の数は限られているのだ」。これはラジカルな問題だ。SNS のコメントを含めたありとあらゆる表現に付きまとう。気をつけねばならないな。 バース『酔いどれ草の仲買人』集英社 野崎孝訳 3月13日から5月6日。 時代は17世紀。舞台は英国からアメリカ。つまり入植時代。とにかく長い物語だ。それにはちゃんと理由があって物語を巡る側面があるからだ。ルーツを書き記した物語を探し求める旅行記なのだが、そこにはやはり海賊等の多数の人間が登場する。そしてその時代には指紋認証はおろか写真すらないのだ。なりすましが横行するので主人公以外誰が誰かさっぱりわからなくなるのだ。味方だと思っていた人が裏切ったり、当然逆である場合もある。退屈な長話は退屈なままでみたいなリアリズムの側面もある。ダンテの『神曲』や特にセルバンデスの『ドン・キホーテ』等の冒険潭を思い出しました。登場人物が異常に多かったことと物語を生き直す物語だったからだ。そんな作品群のパロディーとも読める。こんなアフォリズムもでてきそうでしょ?「正義は盲目だからな」「すべてがくるくるとよく変わる上に、実に複雑に入り組んでおるわ!」この一行が要約なのかも知れない。混乱したまま物語は終わるのかと読み進んでいくと、最後に裁判が開かれてある程度整理され全体が見通せるようになる。「やがてトマス卿が口を開くと、本件は各種の主張や申し立てが常になく錯雑紛糾をきわめておるからして、始めは審問会の形式によって審理を行い、係争点が明確になり次第、正式の裁判に移行するものである旨を宣告した」そして最終章は読者への釈明で次の文章で始まる「この長大な物語において作者は…」。頭がぱんぱんになりくらくらする小説でした。 ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール映画史』筑摩書房 奥村昭夫訳 5月6日から5月21日。 映画とは縁遠い生活を今までずっと送って来た。多分100タイトルも見てないと思う。わざわざお金を払ってまで見に行った映画は数少ないし TV で放映される定番の映画で好きなものならまぁ見るかという感じだ。『ダイハード』『ホームアローン』『オーシャンズ』。アニメなら『サマーウォーズ』『ナウシカ』『カリオストロ』『トトロ』くらいなものだ。若かりし日々にゴダールの映画をレンタルで見たのは『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』(いつからかこのタイトルに変わっていた。昔は違っていたはずなのだが)そして『マクベスという名の女』で全く理解できなくなり見るのを止めた。ストーンズ絡みのも途中まで見たかも知れない。じゃぁ何故この本を読むことになったかといえば、かつてハマった保坂和志の著作でここには小説を書くヒントとなる記述が多数あると記されていたからです。ゴダールはおろかその他の映画を観た経験がなくても、学生さん相手のとても示唆に富む講義録です。 「ひとは自分が見たものを言葉で表すことはできません。見るということと見たものを言葉に表すということとの間にはなんの関係もないのです」「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものだろうか、それとも、自分自身のなかに戻るのを助けるものだろうか?」「人々は自分の目を、見ることためではなく、読むためにつかうようになるのです」「重要なのは、その吹き替えのできがいいかどうかということです」「吹き替えは、子供に大人のしゃべり方をさせたりします」この最後の2文で思い出すのは TV でよく見るユニセフの CM です。あのムサテカという難民になった少女が発言する言葉が気になるのです。『虐殺、拷問、虐待』と彼女は発言にたいして字幕がでるのですが、違和感を感じざるを得ません。意味的状況的にはそのようなことを発言しているはずですが、果たしてそんな言葉を少女が本当に知って使っているのか? CM 的効果を狙ってより強烈なインパクトある言葉を大人達が勝手に意訳しただけなのではないかと思っています。もし意訳なら相当悪質だと思いました。大好きなバラエティー番組の『絶力タイムス』ならなんら問題はないのですが。これはシリアスな CM なのです。 2020年を振り返る前に2019年はこんな書籍を入浴後に一時間程。 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』新潮社。元日から9月20日。 ジョン・バース『金曜日の本』筑摩書房 志村正雄訳 9月21日から10月9日。 CJ トーマス『コルトレーンの生涯』スイングジャーナル社 武市好古訳 10月10日から10月19日。 ナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』講談社文庫 木島治訳 10月21日から10月27日。 『カフカ短篇集』岩波文庫 池内紀訳 10月28日から11月3日。 カフカ『変身』白水Uブック 池内紀訳 11月4日から11月7日。 ブコウスキー『パルプ』ちくま文庫 柴田元幸訳 11月8日から11月14日。 レーモン・クノー『地下鉄のザジ』中公文庫 生田耕作訳 11月15日から11月20日。 北山修『人形遊び』中央公論社 11月21日から11月25日。 『1枚のレコード』監修・扇谷正造 PHP研究所 11月25日から12月1日。 岡俊雄『レコードの世界史』音楽之友社 12月2日から12月8日。 保坂和志『プレーンソング/草の上の朝食』講談社文庫 12月9日から12月23日。 高橋源一郎『ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫』講談社文庫。12月24日から12月28日。 日にち不明 マーク C クリフトリー『ジャズのスタイルブック』スイングジャーナル社 本多俊夫訳。 山口弘滋 『ジャズ・ヴォーカル決定盤』音楽之友社。 出谷啓『レコードの上手な買い方』音楽之友社。 金聖響+玉木正之『ベートーヴェンの交響曲』講談社現代新書。 これら以外にも音楽関連の書籍があったかもしれない。というのもプルーストの余り時間で軽く読んでいたから。 プルーストは書店員時代に集英社文庫版の抄訳3冊を読んだ経験があるが、やはり全てを読まないと話にならないと考えていた。河原町丸太町の古本屋で箱入り7冊ものを安価で見つけたのが2018年の11月末で2019年の元日から読むことが決定。 2018年の8月に高校の同窓会があり、国語のS 先生と文学について話していた時に「来年はプルーストを読む計画です」と、話すと「マスイ君には『源氏』を読んでもらいたい」と云われた。2020年は『源氏』に決まった。死ぬまでに読まないとあかんなと両者について思った。ということでここでは単純な比較を。浅い読み方であるのは許してもらいたい。プルーストは貴族、『源氏』は宮廷という両者ともハイクラスの人達がテーマ。両者とも植物の名前が頻出する。登場人物の多さに加えて結婚や出世によって名前が変わる。当然迷子になる結果になる。絵画や音楽、文学等についての会話がふんだんに盛り込まれる。フランスにはワグネリアンが多かったのだろうか。政治やゴシップも同様に盛り込まれる。現在のコンプライアンスという基準からは問題が多すぎるので映画でも当然TVドラマでも制作が無理だろうこと。前者では同性愛やSM 等、Velvet Undergroud 的な世界観。後者は権力を背景にした強姦や誘拐等。そして両者とも現在の言葉で云う『マウンティングの取り合い』が非常に多い。「誰それが行くなら私は行かない」そんなことばかりなのだ。そして最も根本的なテーマは母親との距離という気がする。プルーストの冒頭では幼年時の病弱な主人公(どことなく『エヴァ』のシンジを想起させる)がベッドで母親がやって来るのをずっと待っている。そして光源氏は死に別れた母親の姿をずっと求めて女性遍歴を辿る。プルーストは1871年から1922年までの生涯だったので、第一次世界大戦の描写があったり電話があったり車があったりすることが、意外だった。(戦禍などどこ吹く風非常事態なのに彼等は社交をやめない。昔も今も変わらないということか)。祖母が逝く件は悲しい。そして迷子になって路頭に迷いながらも最後まで読み進めると視界がぱっと広がるのだ。その瞬間を味わうためには、耐えねばならない。 ジョン・バースの本で記憶に残っているのは、『千夜一夜物語』の詳細な分析だけ。ジョイスやプルースト、カフカの名前も出たかもしれない。リアルタイムでは意外にもジャズミュージシャンのアイラー?シェップ?どちらかが登場していた記憶もある。書籍は読み終わると纏めて処分するから手許にない。 『コルトレーンの生涯』はずっと歯痛に苦しみながらも彼がいかに努力家であるかということと、様々な人の影響を受けやすいかということが述べられていた。特に最近再評価されている Yusef Lateef に薦められた本をちゃんと読むんだよ。あと記憶に残っているのは来日公演でのフリージャズ的な内容に対する作家の筒井康隆の酷評。 『ジャズ・カントリー』は素晴らしい小説でした。白人が黒人に混じってジャズを演奏する意義。いたたまれない青春群像小説です。作者の N.ヘントフはジャズ評論家でレコードジャケットの裏面に良く文章が掲載されています。 『カフカ短篇集』『変身』。前者は『父のきがかり』以外全く覚えてない。実は『変身』は初めて読んだ。大学時代第2外国語がドイツ語だったので、これくらいの薄さなら原文でと思いながらずっと放置していた。悲喜劇っていうのかな。面白すぎる。 ブコウスキーはふざけた探偵小説。誰からなんの依頼があったのかも覚えていない。たしかワケありの依頼者(人間だっけ?)だったはず。その依頼者からピンチに助けられたりするのがおもしろい。。 『地下鉄のザジ』は再読。大学生の頃映画を見て面白くて直に文庫を買い求めたが(たしか寺町二条の残念ながら2020年休業してしまった三月書房だったはず。)当時はシュールな映画の方が面白かった。今思うと映画Home Alone 的?今回読み直してドタバタの原作がやはり良いという結論。 北山修は京都が誇る元フォークルのオリジナルメンバーで当時は府医大の学生だった。フォークル解散後は作詞を手がけたりしていたが、後にロンドンへ留学。そこで精神医学を勉強し直し最終的には学会のお偉いさんになったそうです。前半のビートルズ論は読んでいて面白かったのですが後半は良く理解できませんでした。 『1枚のレコード』は様々な方が書いた音楽というかレコードにまつわるエッセイを集めた本です。大概がクラッシクばかりなのですが、評論家の犬飼智子さんだけがロックを取り上げていて興味深い。上がっているアーティスト。It's a Beautiful Day デヴィッド・ボウィー 、ピンクフロイド、キング・クリムゾン、エリック・クラプトン、イイノ等。『1枚のレコード』なのにこんなに?「本はムードでも読むけれど、やはり考えるために読む割合が高いのに、レコード、つまり音楽は、はっきり、その時の気分で聴くものだからだ」 『レコードの歴史』はどういう変遷を経て丸いレコードが発達して来たかを纏めた本です。エジソンが絡んでいたエピソードだったり、レコード会社が吸収合併を繰り広げながら現在に至ったかなど、あまりに詳細過ぎて全く覚えていません。お金になると踏んだ世界各国のレコード会社が熾烈な競争を繰り返すそんなノンフィクションです。若干ビートルズの記述もありましたが、殆どはクラッシック音楽にページがさかれていました。 保坂和志は既読の小説なのですが、合本を見つけたので購入。当然両者とも猫が登場します。やはり登場人物が全員面白い。特にダフ屋絡みの辺りが最高です。主人公が巻き込まれ系の小説です。 高橋源一郎は読書中心のエッセイです。確かに読んで面白かったはずなのにジョギングしながらの読書以外全く記憶に残っていません。エッセイってそんなものなのだろうか。 『ジャズのスタイルブック』はジャズの歴史を辿るノンフィクション。どちらかといえば、学理寄り。Be-Bop やら Mode やらお勉強になります。そしてその理論を身につけるには「これを聴け」的なリストも掲載されていたような。ちなみに作者の子供はサックスプレイヤーの俊之。 『ジャズ・ヴォーカル決定盤』には沢山のアーティストが紹介されているのですが、釈然としないのは R.フラックをジャズ・ヴォーカルにいれるかどうかを散々難癖つけているにもかかわらず、Pointer Sisters にはなんの躊躇もなく取り上げていること。彼女達は人脈から考えてソウルでしょうし、R.フラックにしてもやはりいくらバックにジャズメンを起用しようがソウルです。まぁそんなカテゴリーなんてどうでも良いのだけど。こういったガイド本はほどほどに参考にしたほうが宜しいようです。 『レコードの上手な買い方』は役に立つ実用書でした。ここ数年で一番買っているレコードがクラッシックなのでどう整理しようか迷っていたのだけど、時代順や国別に分けるのは断念して結局作曲家のアルファベット順に落ち着いた。しかし問題がない訳ではなく、ベートーヴェンの『運命』はシューベルトの『未完成』と一緒になっているレコードが非常に多い。仕方なく指揮者で分けるしかない。あとソリストはソリスト。等々。クラッシック音楽中心ですが、「世界のレーベル」は勉強になりました。例えば Kinks で有名な PYE は国粋主義的傾向があるとか。なるほどね、キンクスは英国に根付いた音楽性なのも頷ける。この殺し文句になんど殺されたことだろう。『「レコードは見つけたときに買え」、とうのが、コレクションにおける鉄則だ』 『ベートーヴェンの交響曲』はそのタイトル通り、9のシンフォニーを指揮者の金聖響さん(女優のミムラさんの元夫)が語り尽くす素晴らしい新書です。素晴らしいエピソード( G.グールドが7番について世界で最初のディスコ・ミュージックと評したとか)大指揮者時代とよばれる巨匠達が沢山居た時代に比べて、今は最悪だと述べる評論家があまりにも多過ぎるのは、ある意味権威主義的なんじゃないかとか。そういうクラッシック愛好家多過ぎますね。聴く前から「話にならん」と、切り捨ててしまっている愛好家。もったいないと思うのは僕だけでしょうか。じっくりこの本を読みながらレコードを聴きたいな。 2020年の前半は『源氏』に費やし、後半は哲学思想書に費やす。 紫式部『源氏物語』円地文子訳 新潮文庫 元日から4月30日 角田文衛+中村真一郎『おもしろく源氏を読む』朝日出版社 5月1日から5月6日 丸谷才一『輝く日の宮』講談社 5月7日から5月17日 森見登美彦『ぐるぐる問答』小学館 5月17日から5月20日 村上春樹『象の消滅 短篇選集』新潮社 5月21日から5月28日 干刈あがた 斎藤英治『80年代アメリカ女性作家短編選』5月29日から6月4日 筑摩世界文学大系36メルヴィル『白鯨』『書記バートルビ』6月5日から6月28日 井上章一『京都ぎらい』朝日新書 6月29日から6月30日 筑摩世界文学大系49ジェイムズ『ある婦人の肖像』『ディジー・ミラー』『ねじの回転』6月30日から7月28日 筑摩世界文学大系79ウォー/グリーン『ブライヅヘッドふたたび』7月28日から8月8日『事件の核心』8月8日から16日 現代日本文学大系31谷崎潤一郎集(二)『細雪』『鍵』『陰影礼讃』筑摩書房 8月17日から9月11日 世界大思想全集デカルト『方法序説』『省察』『哲学の原理』『情念論』河出書房新社 9月11日から9月23日 世界の名著51ブレンターノ/フッサール『厳密な学としての哲学』『デカルト的省察』9月23日から10月5日 E.フッサール『ヨーロッパ緒学の危機と超越論的現象学』中央公論社 細谷恒夫・木田元訳 10月5日から10月18日 エドムント・フッサール『ブリタニカ草稿』せりか書房 田原八郎編訳 10月18日から10月22日 エドムント・フッサール 『幾何学の起源』ジャック・デリダ序説 青土社 田島節夫/矢島忠夫/鈴木修一訳10月23日から11月1日 ジャック・デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』現代思潮社 足立和浩訳 11月2日から12月4日 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店 今村仁司 塚原史訳 12月5日から12月15日 小出亜佐子『ミニコミ「英国音楽」とあのころの話 1986-1991』ディスクユニオン 12月15日から12月19日 小川隆夫『改訂版 ブルーノート・コレクターズ・ガイド』河出書房新社 12月19日から12月22日 サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』白水社 安堂信也 高橋康也訳 12月22日から12月24日 『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』中央口論社 村上春樹訳 12月25日から12月29日 2002年2月8日。場所京大農学部近所の進々堂。友人 Mさんと妹さんとその彼氏と僕。薄暗い店内でお茶。その日京都駅で待ち合わせバスで移動し哲学の道へ。ソルボンヌの学生さんが谷崎のお墓参りをしたいとのリクエストに応えた形だ。徒歩が続いたので休憩中。「死ぬまでにプルーストを読まないとあかんなって思ってる」「学校の授業で読んだ」と日本語専攻の彼は達者だ。「そうなんや」フランス人にとってのプルーストと日本人にとっての『源氏』は教科書的だということが、云いたい訳。 『若紫』をほんの触りだけ古典の授業で読んだはずだ。全体を読んだ。政争に巻き込まれて須磨に流される場面はとても悲しい。しかし様々な行事や儀礼が多過ぎてかなり読むのがしんどい。そして登場人物の多さ。しかし当時の人はこれがすらすら迷子になることなく読めたのだろうか。だとしたら現代人の読む力は確実に衰えている。どうでも良いことしか記憶に残っていない。既に宮中では猫が飼われていたとか(笑)。現代のコンプラ的には多いに問題ありの箇所があったり。(ルッキズムや誘拐強姦等)。しかし扱っている題材はプルーストより広い。ごくごく普通に生霊が存在していたりするのだ。流石にプルーストはオカルトまでは描いていない(はず)。当時のあらゆる事象を取り込んだ物語です。部屋には村山リウ訳があるのでまた挑戦してみるつもりです。テレビじゃ流石にドラマ化できないよなって思っていたら NNK で『いいね光源氏くん』が読み終わりそうな良いタイミングで始まった。千葉雄大ー光源氏 桐山蓮ー中将 そして伊藤沙莉!コンプラ的に問題のある箇所を上手く避けて制作されたドラマでした。 『おもしろく「源氏」』を100円で見つけて読んだのはプルーストについての言及があったからだ。英国にかつて「ブルームズ・グループ」というのがあって(京都で云えば京都学派?)そこにはケインズやフォースターそして再評価著しい(らしい)ウルフなんかが名前を連ねる。そこでプルーストやジョイスといったモダニズム文学が盛んに読まれたらしい。そのグループの中に『源氏物語』を訳したアーサー・ウエイリーがいた。たしか『源氏物語』を読む素地を作ったのはプルーストが紹介されていたからだと、『ロンドンで本を読む』に記述があった記憶がある。もう少し突っ込んだ分析を期待していたのだがそれほどでもありませんでした。ただ読んで良かった点もあって。当時紙というのは高級品でそう容易く手に入るものではなかったらしいが、藤原道長といういわばパトロンが紫式部にはいて好きなだけ紙が使えたというような記述があった。なるほどね。 『輝く日の宮』は再読です。源氏物語の成立史や奥の細道についての洞察を含む現代が舞台の小説です。果たして源氏物語は冒頭から順番に書かれ発表されたのかなどとても勉強になりました。学会での大混乱の場面は何度読んでも面白い。 森見さんの本は対談集です。ある時期一部の人のアイコンになった現在京都在住らしい本上まなみ(デビュー作『太陽の塔』でちゃりんこに『まなみ号』と名付けるくらい好きだったのだろう)や京都出身の綿矢りさ、京大出身作家の万城目さん(『鴨川ホルモー』『プリンセストヨトミ』)等の対談を所収。 『象の消滅』も再読。ロンドン旅行に携帯したはずだ。アメリカで編纂されたものを再編纂しなおしたもの。訳し直したんだっけな?『パン屋再襲撃』や『象の消滅』がやはり面白いし、最初に発表されて後に長編化された『ねじまき鳥』も素晴らしい。 『アメリカ女性』は現代のシリアスなBLM 的なテーマを扱った小説もありましたが、全く記憶にない。唯一ローリー・ムーアの『作家になる方法』だけが面白かった記憶がうっすらと残っている。 メルヴィルの『白鯨』は難しい。例えば大昔に読んだ第三書館の『ザ・賢治』。童話や詩等は比較的読みやすいが、農薬等の専門用語だらけの文章には全く歯がたたない。あまりに作家にリアルで近すぎる固有名詞は読者には遠いのだ。2021年の元日から読み始めたピンチョンの『重力の虹』にも専門用語が多く使われている。物理学からロケット工学までありとあらゆる専門用語のオンパレード。N.ホーンビーの『ハイ・フィデリティ』にはロックやソウルのアーティストの名前が多数。分かる人には面白い。けれどそれ以外の人には辛いだろう。『白鯨』はクジラや捕鯨船のパーツが多数。当時はネット等ないのだから、クジラの名前を云われてもピンと来ない人だらけではなかったのか?『バートルビ』は光文社の新訳で読んでいたのだがもう一度読んだ。新訳のほうが面白さが伝わった。 『京都ぎらい』は前半の愚痴の部分が面白かった。京都人を名乗る資格があるのは、上京中京下京に大昔から住んでいる人だけだとか。それ以外は差別的にあつかわれていた。みたいな。ある京都出身のプロレスラーが京都に凱旋したさい、京都人を名乗ったとたんに会場から「宇治のくせに、京都というな」とやじられたり。後半は急に歴史的なアプローチで学術的になって(京都学派なのだから仕方ないのだろうけれど)少しも頭に入らなかった。 ジェイムズ『肖像』。物語の視点を何処に置くか。完全に第三者ってのが楽だろう。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばぁさんがいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばぁさんは川に洗濯を〜」。第三者は神の視点に変換可能だと思う。作家でも構わない。この『肖像』の冒頭部分は登場人物の視点からなのだが、複数いるので視点が移動し続けるのだ。目眩をおこすよ。ややこしいのは冒頭だけで後は普通に読めます。四日市時代英国留学経験のある女の子と観に行ったのが『ノッティングヒルの恋人』なのだが、最後二人とも泣いていたな。何故こんなことを叩いているかというと、ハムステッドヒース(?)で映画のロケをしているJ.ロバーツの元へH.グランツが尋ねるシーンがあるのだけど、ひょっとしてその映画は『肖像』なのではないかと思ったのだ。とすると内容的にもアメリカからやって来た女性が英国貴族(映画では庶民だけど)を引っ掻きまわすという内容とリンクしているのだ。当時は『ローマの休日』が良く引き合いにだされていて、現在もそうなのだが。誰1人指摘している人が居ないので叩いておきます。 ウオー『ブライヅヘッド』は悲しく重い小説。主人公は画家として成功するのにたいしてオックスフォードで仲良くなった友人はアルコールで身を滅ぼす。しかしその主人公も戦争の影響を受ける。つまり救いのない小説なのだ。グリーン『事件の核心』もやはり救いのない小説。両作家ともカトリック作家らしい。 『細雪』を読むのはは三度目だと思う。蛍狩りのシーンがイメージとして強すぎるのだが実は、岐阜の大垣でのエピソードだったりすることは忘れていたりする。そして主要な舞台が神戸の三宮や元町辺り。京都や渋谷も舞台にはなっているのだが基本は神戸なのだ。そして冒頭。ゆっくりじっくり読まないと実は複雑な構造で書かれている。視点が何処にあるのか、かなり凝っていて分かりづらい。ジェイムズと同じように目眩起こすよ。神戸という街柄、お隣に外国人家庭が住んでいたり、そして結末があんなんだっけと記憶力の衰えに愕然としました。『鍵』はかなりやばい小説。日記の盗み読み。今で云えばスマホってとこだ。良いことなんてないのは誰もが知っているのにね。舞台は京都市左京区。 哲学史的にあるいは教科書的にデカルトの代表作といえば『方法序説』と相場が決まっています。『情念論』推しだった時期ももありましたが、読み直してみるとやはり『省察』が最もラジカルで面白かった。どの深さまで疑えるのかを規定するのが哲学だという認識論。疑っている我と延長する物体。これ以上疑えないと。良い所まで行けたのに時代的な制約である神の存在を無前提に肯定してしまったこと。そして自我と物体という二元論をどう統一するのかという新たな問題を積み残したこと。デカルト以降の哲学がその問題を解決しようとするのが近代哲学史の歩みとなります。 学部生の卒論では『デカルト的省察』そして修士論文では『危機書』をテーマにしたのだけど、全く箸にも棒にもひかからない論文になってしまった。そう云えば口述試問でぼろぼろになって悲しくなって泣きながら友人I に電話して夜に会いに来てくれたことを今思い出した。。前者では大風呂敷を広げすぎて全く纏まりのないものになり(それ以前に「誤字脱字が多すぎる」と指摘されてしまう始末)、修士時代は研究者には全く不向きであることがわかり、全く大学には通わず遊びまわっていたのだ。その結果どうでも良い論文を提出してお茶を濁してしまった。読み直してみてよくこんな難しいものをと改めて思う。身の丈を知るべきだった。しかし「デカルト的省察」は良く読み込んだのだろうか、不思議と議論について行けた。現象学の入門書としても最適だと思う。「志向性」「ノエシス/ノエマ」「判断中止」「エポケー」等のキーワードが、哲学史をきっちりと辿りながら深めていくのだ。大陸合理論と英国経験論を読み直し、現象学という思想を展開させて行く。そしてここにも他者問題という積み残しが生じるのだ。ラジカルに疑って行くと独我論に陥る。ではどうして他者が存在するといえるのか。そこの記述が弱いとされているのだ。デカルトの時代なら神を出せば片付くが現代ではそうも行かぬ。纏めてフッサールを読んだのだけど『幾何学』にはフランスのポストモダンの思想家デリタの序がついているのだが、これがとても重箱の隅をつつく系で難解。批評的な本を読むのはとても難しい。本文より序の方が数倍長い。駄目だ。 大学入学時、日本ではニューアカといって浅田彰や中沢新一が時代の寵児だった。そんな彼等が盛んに紹介したのがフランス現代思想。デリタの『声と現象』を読んで全く歯が立たなかった記憶がある。しっくり来たのはロラン・バルトただ一人だった。そして今回再びデリタに挑戦したのだが、やはり無理だった。ルソーを批判的に読み込みながら先ずは言語の起源についての論述。音声言語(パロール)と文字言語(エクリチュール)のどちらが先立つのか。当然音声でしょ?と思うのだがそう簡単に片付けられないみたいだ。そしてこの本の読みにくさは他にもある。概念装置も特殊だし、本そのものの問題なのだけど、本文があり、原注があり、訳注がある。そして訳注のついた原注すら沢山ある。その度に中断されるので大変だ。僕には全く歯がたたない思想書なんだけどこんな記述があった。ルソーの『社会契約論』での記述なのだが「首都を認めないことである。つまり政府を各都市に交互に設置し、国家の会議を順番に開くということである。」そして原注があってそこに訳注がついてくるのだが、「首都のまわりは活気に満ちているが、そこから遠ざかれば遠ざかるほどすべては荒涼としてくる。首都からはたえずペストがばらまかれ、ついには国家を徐々におかして破壊してしまうのだ」。現代の言葉なら地方分権なのだろうか。世界各国がコロナに苦しんでいるのも首都に全てを集中させすぎた結果だと読める。 デリタに比べたら未だなんとか食いついて行く気力があるのだけれど、やはり難しい。『文化が永続することを前提として創造される時代は終わった』(P138) 『次々と流行を追いかけねばらないような事態を前提としており、(中略)文化を記号の体系としてとらえ、それらの組み合わせで遊ぼうとするのである。「ベートーヴェン、最高さ!」という具合だ。』(P150)『消費とは組み合わせ遊びへの熱中のことであって、情熱とは両立しえないのである。』(P160)そしてそんな消費行動を煽っているのが広告なのだ。『「ひと味ちがうビール」(何と較べて?)』(P185)予言的な言葉であるがゆえに、そして本当かどうか検証不可能で信じるしかないから神話なのだ。オードリーの二人が生CM で椅子を破壊した行為。笑いが止まらないのは禁忌をおかしたからなのかも知れない。動画はオードリー椅子で検索を。 書籍の裏表紙を見て貰いたい。二段バーコードの下にISBN から始まる文字列がある。(大昔の書籍や雑誌にはない。ムックは例外)C から始まる4桁の数字がある。始めの二つはサイズ。後の二つはカテゴリー(ジャンル)を意味する。作者と出版社と版元でたしか決めているんじゃなかったかな。70番台は趣味実用書。『「英国音楽」と』と『ブルー・ノート』は両者とも C0073 である。そして前者は恵文社で取り寄せ、後者は寺町の三月書房で自由価格本(新品)で安く買った。『英国』はネオアコ〜ギターポップを日本に根付かせた幻のミニコミだそうです。そんな中からやがてオリーブ少女達に大人気になるフリパーズも登場する。入り口はとても広いところからスタートするのだけれど、途中から全く知らないアーティストや個人名が続出してついて行けなくなった。あまりにも身内話過ぎるのだ。まぁ「スモール・サークル・オブ・フレンズ」を標榜するのだから排他的にならざるを得ないのだけど。それに較べて『ブルー・ノート』は以前読んだものの改訂版だ。前のは誕生日プレゼントで『ほんレコ』の H君に。こちらはよりマニアックなのだけど、面白いし役立つ。オリジナル盤かどうかの見分け方(住所や番地やその他多数あるのだ。)。作者が『ブルー・ノート』のレコードを全てコレクションしようと決意してからの悪戦苦闘も楽しい。コレクターは次の言葉から逃げられない。「ここで手にいれなければ2度とお目にかかれない」。怖い。この改訂版は2009年に出版されただが、90年代以降のは全く触れられていない。確かにN.ジョーンズはジャズじゃないもんね。でもクラブジャズ系がブルー・ノートからリリースされているのだけど、やはりジャズじゃないのかな。 初ベケットは2018年の4月6日から29日までの『モロイ』だ。頭が痛くなった記憶以外ないのだけれど、こんなメモが残っていた。「癌で死にかかった患者が歯医者に診てもらわなければならないときに感じるような不安」。このテキストは喩えだけれど、僕の場合事実だったから笑ってしまった。虫歯が痛み出して仕方なかったのだ。岐阜出身の歯科助手さんと朝ドラ『半分、あおい』の岐阜弁の話をしていたことも思い出した。もうすぐ3年になるということか。未だ歯医者通い終わらず。そんな『モロイ』に比べたら未だなんとなく分かる様な気がする。ポッツォが激怒して言い放つ言葉がなんだか胸に刺さった。それは時間についての言及だ。「いいかげんにやめてもらおう、時間のことをなんだかんだ言うのは。(中略)ある日、生まれた。ある日、死ぬだろう。同じある日、同じある時、それではいかんのかね?」 叡電の線路脇に無人の古書店がある。一部を除き全て100円。代金は郵便受けに入れる。たまぁに良書が紛れている。そんな中から発見した。フィッツジェラルドはまぁまぁ読んでいるのだけれど、作品数も多分多くて全体を掴み切れてない。村上春樹による「フィッツジェラルド体験」がまず冒頭にある。これが愛情溢れた内容で素晴らしい。『氷の宮殿』は多分2度目。アメリカの北と南との間に根深く残る問題を具体的な内容で表現している。そういった問題は英国のスコットランドでもあるらしいし、イギリスの北部と南部でもある(映画『ロック、スットック〜』でもあった。)日本じゃ東と西になるのかもしれない。小品だったけれど『失われた三時間』が面白かった。飛行機に乗って故郷へ向かい12歳に会ったきりの女性に「古い友人です」と電話をかけるのだ。角田光代に同窓会でのまぬけな出来事を書いた小説あったのを思い出した。 |
「最近全く更新されてないやん」と指摘されたけど、、一冊の本も読んでないわけじゃない。
きたやまおさむ『ビートルズ』講談社現代新書 87年 ? 湯山玲子『クラブカルチャー!』毎日新聞社 05年 5/25~27 柴崎友香『きょうのできごと』河出文庫 04年 8/1~2 中山康樹『超ビートルズ入門』音楽之友社 02年 8/12 アイザック・アシモフ『宇宙の小石』創元推理文庫 72年 8/31~9/8 ロバート・A・ハインライン『夏への扉』ハヤカワ文庫 79年 9/9~15 レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』創元推理文庫 68年 9/16~10/4 フィリップ・K・ディック『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』ハヤカワ文庫 84年 10/5~15 フィリップ・K・ディック『逆まわりの世界』ハヤカワ文庫 83年 10/16~28 フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』ハヤカワ文庫 03年 10/30~11/12 フィリップ・K・ディック『ニックとグリマング』筑摩書房 91年 11/16~20 カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』早川書房 84年 11/21~28 円成塔『後藤さんのこと』早川書房 10年 12/1~15 河合隼雄+谷川俊太郎『魂にメスはいらない』朝日出版社 79年 12/16~22 根本順吉+新田次郎『病める地球、ガイアの思想』朝日出版社 80年 12/23~31 大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く』朝日出版社 82年 1/1~7 保坂和志+湯浅学『音楽談義』ele-king books 14年 1/7~9 佐々木敦『ニッポンの音楽』講談社現代新書 14年 1/7~11 河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波書店 82年 1/12~28 江原由美子『生活世界の社会学』勁草書房 85年 1/30~2/12 とまぁこんな具合に読書してたんですよ。午前中はもっぱらレコードを聴く時間にあててたし。入浴後頭が冴えている時間、TV を見るのを少し控えて時間を作り読書に費やしていたのです。ちなみに発行年の後の日付が読んでいた期間です。仕事が昼休憩を挟む場合にはランチ場所でも読書です。 きたやまさんの本は再読で、学生時代読んでいたく感銘を覚えたのですが、今回はそれほどでもありませんでしたな。そして湯山さんの本はたいしたことないと思いました。野田努の本が余りにも凄すぎたのだと思います。柴崎さんは四日市へ行った際のお伴にしました。これは面白かったです。なんでも10年後の彼等の様子が書かれた続編が出版されたようです。是非読んでみたい。中山さんのは下鴨神社の古本祭りで購入してその日の内に読んでしまいました。大変面白かったです。『アンソロジー』から聴き始めた人達にそれは順序が違うとアドバイス。先ずは『パストマスターズ2』から始めて最後は『アビーロード』で閉めるとご親切にも指導されてます。他にも「オノヨーコ」の取り扱い方等、難問にも挑戦されているのに笑ってしまいました。この本が余りにも面白かったので浜松の友人にプレゼントしました。 さてここからは出版社からも判断できますがもっぱら SF を読んでいました。アシモフから円城さんまでです。未読の本棚から拾い集めて読みました。一挙にこれほどの量を読んでしまうとどんな内容だったのか殆ど覚えてないのですが、それでも面白かった本は記憶に残っていて、それはそれで良い本だったのだろうということも可能じゃないのでしょうか。以前はメモをとりながら活字を追い一冊読んでは何かを書きという作業だったのだけど、それだと必ず読書のテンションが落ちてしまうから、とにかく読む作業に徹した結果がこの有様です。何かいい方法があったら教えてほしいです。アシモフはタイムトラベルものでかなり面白かった。ブラッドベリはやはり他のSF 作家と一線を画してます。この短編集に入っている『長雨』の救いようのなさは壮絶だと思いました。希望を打ち砕く地獄でした。 ディックは全て夢中になった。だから殆ど覚えてない。どの本だったか覚えてないけれど、読んでいて堤さんの『ケイゾク』?押井さんの『うる星やつら2』?に影響大だなぁって思った。しかし『ニックとグリマング』はめっちゃはっきり覚えてます。児童書だからか?イラスト入りだからか?特にウーブは愛すべきキャラです。手持ちのカードでしか会話できないなんて。なんとなくトトロっぽい。 ヴォネガットは最高でした。ヘタクソなイラストも最高だし、こんな調子で始められたら最高にならないわけがない。「これは、孤独で、やせぎすで、かなり年をくったふたりの白人が、ある臨終近い惑星の上で出会う物語である。そのひとりは SF 作家で、キルゴア・トラウトという。彼は当時まったく無名で、自分の人生はおしまいだと思っていた。それはまちがいだった。この出会いがもとで、彼は史上もっとも敬愛された人間となる。トラウトと出会う相手は、自動車の販売業者である。ポンティアックのディーラーで、名前をドウェイン・フーヴァーという。ドウェイン・フーヴァーは、発狂の一歩手前にあった」。 円城さんは頭をひねる作風で有名ですが、この短編集の中の『The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire』がばかばかしくておかしくて最高でした。例えばこんな文章。「20:今年の銀河帝国は発売後十五分で売り切れた。」「81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて適わないので、ペットボトルを並べてみる」。断章とも違うナンセンスな箇条書きがこの調子で99まで並びます。他の短篇は全く歯が立たんかった。 ひとまず SF集中攻撃を終え次に手をつけたのがお勉強本って括りで河合さんから坂本教授まで。このシリーズは Lecture Books というシリーズで対談集なんですね。河合+谷川は『ユング心理学講義』。箱庭療法などの紹介もなるほどねぇと思ったし、ジョイスの娘の話等も興味深かったのですが、二人のLSD 体験!(当時は違法じゃなかったのです!) などもおおらかに語られています。続いては『汎気候学講義』。かつての隅田川が凍り付いたというエピソードや電力の話等今こそ読まんとあかん内容が詰まってます。でも一番驚いたのがこの箇所。「現に最近、信州の御嶽山が爆発しましたね」(この本は35年前なんですよ!)「御嶽山が爆発したときに、なにも観測してないから分からない、と火山学者は言ったのですけど、とんでもない話で、これは過去の記録がない、たとえば二千年ぶりで爆発したという意味ですね」。2014年9月27日に爆発して多数の犠牲者が出た記憶が残っていたので驚いたのです。 最後は『哲学講義』。いやぁ素晴らしい本でした。坂本教授の知性と大森東大先生の知性。上手くかみ合ってます。流石だな。特に冒頭のステレオ/モノラルの話。モノって二つのスピーカーから同音量の同じ音がなっていて迫力あるサウンドになるのです。ビートルズがシングルのモノラルに拘ったのはラジオから流れた時に迫力あるサウンドが得られるためだと読んだ事があるのですが、現在のステレオ装置で聴くと真ん中から聴こえます。そこで教授はこんな質問を大先生にぶつけるのです。猟師が森に入った時に偶然二匹のオオカミが同時に同じ音量で同じ音程で吠えたとすると、真ん中にオオカミが居ると思うのは錯覚なのでしょうか?と。凄いです。その他時間論等本当に興味深いトピック目白押し。哲学も音楽も好きな方にはお薦めです。 続く二冊は久々の新刊です。先ず保坂+湯浅の『音楽談義』。少し上の世代の音楽にまつわるうだ話。読後直ぐ父に貸し、現在『ほんレコ』H 君の手許にあるのだけど、はっきり覚えているのがオーディオ=オカルト説と、何と言ってもAKB = P-Funk 説。特に後者には爆笑です。その断定の訳は?それぞれのチーム間でメンバーが重なってるから!ってだけ。笑った。確かにパーラメントとファンカデリックもメンバー重なっているけど。てことは G.クリントンは秋元ってことなんかな。 続いて僕と同い年の佐々木さんの本は、お薦め。保坂湯浅も同い年らしいから、話がどんどん展開するのだけど、佐々木さんの本はすらすら読める。J -Pop 誕生以前と以後を緻密に追ってます。おそらく『はっぴいえんど』は後追い学習だと思うのですが(違ってたら済みません)YMO~渋谷系+小室系〜中田ヤスタカってな具合に話が進行。殆ど全てハマってるものな(笑)。まぁ最近ハマっている中島みゆきについての言及はいっさいなかったけれど。この歴史本のキーワードはずばりリスナー型ミュージシャンってことでしょう。でもこれは日本に限った話じゃない気がするんだよね。ロックとかポップって外部を取り込んで発展して来た音楽だって思う。ビートルズもビースティーズもニューオーダーもプライマルも皆そう。黒人音楽は少し微妙だけどルーツという外部を取り込んだり、白人マーケットを狙ったり(モータウン)、レコードそのものを取り込んだり(ヒップホップ)。そう意味でいうと現在のポップミュージックが弱体化しているように思えるのは取り入れるべき外部が既にないからという構造自体に由来するんじゃないのかな。ちなみにNHK Eテレで放送されていた宮沢さんの『サブカル史』とかなりの確率でリンクしてて余計に面白かったです。はっぴいえんどや荒井由美/YMO/がリンクしてたし、90年代第一発目宮沢さんが持参したタンテでかけたのがプライマルのローデット!佐々木さんの本でもフリパーズの章でプライマルが紹介されてたんだよね。若い人がこの本読んだらどう感じるんだろうな。 1月2日。NHK Eテレで『100分de日本人論』という番組が放送され、そこで精神科医の斎藤環さんが取り上げたのが河合隼雄『中空構造日本の深層』という本でした。その内容が良かったと、父に話していると、書棚から探して持って来てくれたのが『昔話と日本人の心』でした。かなりのページ数の本だった故、ゆっくりと時間をかけて読みました。西洋と日本との昔話を対比させながら、日本人の意識の構造を浮かび上がらせる手法がとられています。僕の手には負えない分析が展開されていて、こうだと要約することは不可能ですが、素晴らしい本でした。 そして最後。これはかなり前に買った本です。タイトルと中身を見て100円で買ったのです。フッサール後期の重要キーワード『生活世界』を修士論文に選んだ経緯もあったし、中をめくった時に『エスノメソドロジー』という新しい社会学の概念も登場していて、学部生か院生の時代そのガーフィンケルの著作を読んですごく面白かった記憶があったものですから、買ったのです。ただしこの本はかなり学術的で難しい。学生時代なら、それなりに理解しようと努力しながら、読んだと思いますが、なんせもう50過ぎですからね、そんな根気ありません。ただ昔とった杵柄というか、フッサールについての言及はそれなりに理解できたような気がします。たまにはこういった背伸び読書もしないと、脳が衰えるでしょ?以上でとりあえず終わり。さて次は何処をひっぱりだして読みましょうか。 |