これといったテーマもなく読んだ日々。7月1日から9月6日。

あまりにも沢山の本が所狭しと積まれている。とにかく読み続けなければこの惨状を克服することができないのは自明で、まず朝食の準備を終えた後、以前は仮眠を取っていたのを止めて時間を確保。そして朝食後BS で『あぐり』と『モネ』が始まるまでの時間。そして夕飯ご入浴前と入浴後。あくまでも調子が良い場合だけどひたすら活字。レコードだったりTV の時間も必要だ。

スピノザ『知性改善論』岩波文庫 畠中尚志訳
奥付は昭和44年第七刷り。初版は昭和6年。装丁も字体も古いままで読みにくい。表紙のタイトルも右から左に並んでいる。感覚がいかに人を欺くかという箇所にこんなたとえが記述されている。「若し人が例へばたった一つの恋愛劇しか読まなかったとすれば、その人は同種の他の多くのものを読まぬ限りに於いて最もよく之を記憶するであろう、何故ならその場合その物語だけが想像のなかにはたらくからである。これに反して、もし同種の多くのものが存在すればすべてが同時に想像され且つ容易に混同される」。音楽も同様であることは言うまでもない。例えばモーツァルト。主題は区別できるがそれ以外となると僕は自信ない。

スピノザ『エチカ(上下)』岩波文庫 畠中尚志訳
大学時代同級生で読書会で取り組んだもののあまりにも解らず止めてしまった記憶がある。そして個人的に中公の『世界の名著』で読み直したのだった。当時は何となく理解した気がしていたのだけど、やはり頭が固くなっているんだな。スピノザはデカルトを批判的に読むという立ち位置なのだけど、こういう風に哲学史は進んで行くわけで、そこが細かく繊細な論理だから余計に手こずる。唯一メモしたのがこの記述。「第三部 感情の起源および本性について 定理 51 異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺戟されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺戟されることができる」。僕なりに理解しているフッサールの現象学はまさにここに問題提起したのだと思う。誰も客観的で同一の世界を観たり理解したり人間はいないのに逆にそういった世界がまずあって、ばらばらの個人が違った見方をしているとされる。どうしてそういう世界観が要請されたのか?スピノザは神がこの世界を創造したということを時代的な制約もあって、無批判に導入。しかしフッサールはそれは幾何学という神とは違う別の理念から帰結したと、結論づけた。

アイリアノス『ギリシア奇談集』岩波文庫 松平千秋・中務哲郎訳
「プラトンがアクラガス人の贅沢な暮らしぶりを笑った話」にはこんな記述がある。「アクラガスの連中は家造りは、まるで永久に生きられるつもりでいるようだし、食事の仕方はまるで明日死ねばならぬかのようだ」哲学が認識論など細分化する以前はこういった身の処し方についてうだうだ語り合っていたのだ。コロナ禍の現在にはこんな言葉はどうだろう。「プラトンは、希望とは目覚めている人間の見る夢だといった。」そしてアリステッィポスの言葉にはこんなのがある。「現在のみがわれわれのものであり、過去も未来もそうではない。過去は既に滅びたものであり、未来は果たしてそうなるか不明だから」。

『世界短編名作選 イタリア編』新日本出版社 監修 蔵原惟人
アルベルト・モラヴィア『病人の冬』は二人の少年がサナトリウムで繰り広げる感情のもつれ合いを描いた小説でとても胸が痛くなる。チェーザレ・パヴェーゼ『闖入者』は刑務所内での二人のドラマ。このアンソロジー中これが一番良かった。ということで古書店に集英社のパヴェーゼを買い求めた。女流作家ナターリア・ギンズブルグ「彼と私」は冒頭から素晴らしい。「彼は暑がり屋で、私は寒がり屋である」若干の変化を加えながらこの調子で物語は進む。ミニマルな小品。そしてイタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』は少年が主人公。シリアスな状況が淡々と描かれていて、それがいかにもカルヴィーノらしい。

『世界短編名作選 フランス編 1』新日本出版社 監修 蔵原惟人
オノレ・ド・バルザック『知られざる傑作』は息が詰まる程濃密で圧倒的な小品。アルフォンス・ドーデ『最後の授業』ではこんな文章。「フランス語は世界じゅうで一番美しい、一番明晰な、一番しっかりした言語であること、ある国民が奴隷の境遇におちても、その国語をしっかり保持していく限り牢獄の鍵を握っているようなもの」。ギイ・ド・モーパッサン『脂肪のかたまり』は戦時下同じ乗り合い馬車に乗車することになった、様々な身分の様々な組み合わせにおこる化学変化をおもしろおかしく描いた小説。キーパーソンが娼婦なのだ。彼女を説得するためにあの手この手を使うやり取りが最高です。

ロバート・A ・ハインライン『夏への扉 新訳版』早川書房 小尾芙佐訳
定番の福島正実は以前読んでいますがあまり内容を覚えてなく、偶然に新訳版を見つけたので読み直しました。復讐心に燃え、苛つきの激しい主人公が活躍するタイムトラベルものの古典SF となっています。「タイムトラベルが普及したら、この回帰的状況をあらわすために、英語の文法は新たな時制をくわえなければならないだろう」「『荒仕上げをするは人間、最後の仕上げをするは神』とハムレットは宣う。一つの文章のなかに自由意志と運命が語られている、その両者とも真実である。ほんものの世界はひとつしかない、ひとつの過去とひとつの未来」哲学的な考察だ。スピノザを思い出した。

『黒人学・入門』別冊宝島EX にはこんなサブタイトルが付されている。「黒いキリスト教からNBA まで。ブラック・カルチャーの素顔を知る決定版」。映画や音楽やスポーツ等が検討されながら、黒人の問題を取りあげたこのムックは非常に示唆に富む。この本が出版されたのは1993年。Hip-Hop が商業ベースにのり前年にはスパイク・リーの『マルコムX』が公開。そこに時代が流れ込むように編纂されています。特に納得したのが「黒人文化は常に白人によって『搾取』や『盗作』を繰り返されてきた。」例えばビートルズ、ストーンズ、ツェペリン等みんなベースにあるのはブルースだったりする。どうしてビートルズは『ラバーソウル』などと自虐的なアルバムタイトルをつけたのか?元々黒人の音楽だったデトロイトテクノが英国で流行ったのか。肉薄したアーティストも存在するけれど、黒人からみれば剽窃に過ぎなかったのだろう。じゃぁビースティーズはどうなのって話になるけれど、ここで何かしらの答えは持ってません。そしてマイケル・ジョーダンをアイコンして使いながらこんな結論に至る。「黒人にとって、自分たちの才能や文化のなかで唯一白人社会に『搾取』や『盗作』『横取り』されないと確信できるもの、それは肉体の技術である」。ショッキングなのは『イエス黒人説』についての記述でした。アフリカのエジプト出身のイエスは黒人だったと問題提起した研究者も存在したらしい。じゃぁ何故みんなイエスが白人のように刷り込まれたかと言えば、ルネッサンス期ダ・ビンチが『最後の晩餐』でイエスと十二使徒をヨーロッパ人の容姿で描いたのがそもそもの始まりだと。出来すぎたタイミングでRoots のドラマーQuestlove 監督作品の映画『サマー・オブ・ソウル』が日本でも封切りされた。時は1969年。ウッドストックと同時期だ。登場アーティストが豪華だし、ニーナ・シモン、マヘリア・ジャックソンそしてスライ・アンド・ザ・ファミリーストーン。ノンフィクション作品であるし愛情もって編集に携わったに違いないクエストラブ。是非観たい。

高橋哲雄『アイルランド歴史紀行』ちくまライブラリー
「ノーベル文学賞の受賞者数をみても、人口五百万にみたぬ小国というのに、イェイツ、ショー、ベケットと三人を数える。現代文学への衝撃度においては彼ら異常に大きな存在であるジョイスを加え、かつそれを人口五千万のイギリスの受賞者七人と比べると、そのアンバランスな、といってよい存在の大きさに見当がつく」。じゃぁそんなにアイルランドは自由な国かといえば、答えは否だ。カトリックの検閲だ。「アイルランドの現代作家では、ジョイス、エドナ・オブライアン、ショーン・オケイシー、ブレンダン・ビーアンの主要作品や、ショーの『神を求める黒人娘』などが出版を禁止された。海外作家ではジョン・ドス・パソス『ある若者の冒険』、ダフネ・デュ・モーリア『二度と若くはなれない』、ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリー』、『八月の光』、アナトール・フランス『仮装役者物語』、グレアム・グリーン『事態の核心』、『情事の終わり』、アーネスト・ヘミングウエイ『陽はまた昇る』、『誰がために鐘はなる』、トマス・マン『聖なる軍人』、ジョージ・オーウェル『一九八四年』、J.D.サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』、ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』、『エデンの東』などが、やはり出版を禁止された。」そんな不自由な言論界だからこそ、検閲をかいくぐろうとする努力があったのかもしれない。

『改訂版 詳説日本史 B』山川出版
高校時代にははたしてどこまで学んだのか覚えていないし、予備校時代はピンポイントで良く入試に出題される過去問を勉強したに過ぎない。ということで全て読んでみた。やはり歴史はいろんな意味で興味深い。近現代こそ先に学ばねばいけないとも思った。コロナ対応を巡って良く後手後手と批判されている。しかしこの本を読んで今に始まったことじゃないやんと痛切に思った。今まで何か問題が起きるたびに後になって対応するという事実の繰り返しなのだ。珍しく先手を打ったのは例えば1941年の12月8日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃。しかしその後の経緯をみれば先手が必ずしも良い結果を招いたわけじゃない。 しかし今の政治家と昔の政治家の違いがよく分かるのは『総辞職』というキーワードだ。今でも『総辞職』が現憲法下で可能なのかどうかは解らないけれど昔の総理は総辞職という責任の取り方を選んでいる。潔かったのだろう。例えばまた、この本の最後は「2011年3月11日の東日本大震災における東京電力福島第一原子力発電所の事故などによって、原子力発電の安全性に対する信頼がゆらぎ、再生可能エネルギーを推進するなど、エネルギー政策そのものが問い直されている」という記述があるのだけれど、既に10年経っても遅々としてこの問題は解決されていない。全てがこの調子だ。2018年発行。

1935年英国生まれのデイヴィッド・ロッジと1931年アメリカ生まれのドナルド・バーセルミを読む。

デイヴィッド・ロッジ『交換教授』(白水社 高儀 進訳)6月13日〜6月22日

帯の宣伝文はこうです。「大学紛争の時代を背景に、ポストを交換した英米の二人の大学教授が異国で演ずる哀しくも滑稽な人間喜劇。二つの文学賞に輝くコミック・ノヴェルの傑作」。その宣伝文に嘘偽りはありません。僕の世界に住んでいる人物への言及。パスカル、アレサ、ヴィトゲンシュタインやカミュ、『ホワイト・アルバム』収録の "Why don't we do it in the road?" 。楽しくにたにたしながら読み進むのだけど、それだけでは当然済む小説ではない。『小説の技法』でも対比された小説と映画の違いが最後に述べられている。「小説家は、終わりの近いことを物語る残り少ないページをごまかすことはできないんだ」対して「そして、予告もなしに、何も解決されぬまま、何も説明されぬまま、なんの決着もつけらられぬまま、監督が選んだ時点で、映画は、すっと、、、、終わることができる。」これに関しては当時の映画論だろう。最近はみんな結末を求めたがる。最初の劇場版の『エヴァ』のラストが不評だったのも、作っている文法がそもそも違っていたからかもしれないな。最近の映画は結論あるもの。

ドナルド・バーセルミ『雪白姫』(白水社 柳瀬尚紀訳)6月22日〜6月26日

帯文「アメリカ文壇の鬼才が倦怠と不安の現代に生きる雪白姫とその恋人たちに贈る荒唐無稽のスーパー前衛ファンタジー」。すらすら読めるのに全く理解できない小説でした。そんな中にあってもくすっと笑える文章はあるんだな。「充満空間ですら漏れることがあるのです。充満空間ですら、憚りながら、穴があくのです」。散々使われた五輪ワード『バブル』のことが頭を過る過る。「作者をほめちぎって定価の表示されている外側の部分だ。ぼくらはがらくたのふんだんに詰まっている本が好きだ。つまりまるごと関連があるわけではないもの(いや実際、まるきり関連がないもの)として現れながらも、注意ぶかく見つめると、何がどうなっているかという一種の『感覚』をもたらしうる物質だ。この『感覚』は行間を読むことによっては得られなく(その白い空間には何ものもないからだ」、行そのものを読むことによって得られる・・・行を見つめ、そうして厳密には満足感ではない気分に到達する、満足感など望みすぎというもので、行を読み終えた、行を『完了した』という気分に到達すのだ』。これがポストモダン小説なんだろう。

ドナルド・バーセルミ『帰れ、カリガリ博士』(国書刊行会 志村正雄訳)6月26日〜7月1日

この作品は1964年に発行されたバーセルミ最初の単行本らしいのだが、それぞれの作品はひと作品を除き様々な媒体に発表されたものらしい。『教えてくれないか』はこう始まる。「ヒューバートはチャールズとアイリーンにクリスマスプレゼントとしてすばらし赤ん坊を与えた。赤ん坊は男の子で名前はポールでであった。チャールズとアイリーンは長年にわたって赤ん坊ができなかったので大喜びであった。」そしてここからどんどん複雑さを増した人間関係が即物的に書かれていきます。小品なのに目眩を起こします。『ぼくとマンディブル先生』は笑えます。子供の作品よろしく日記形式で進みます。冒頭はこう。「ミス・マンディブルはぼくと寝たいんだが躊躇している。なぜならぼく、公式には子どもだから。ぼくは、記録によれば、ミス・マンディブルの机の上の成績簿によれば、校長室の、カード・インデックスによれば、十一歳。」しかし本当は三十五歳。そして学校に通っている。「しかし、こんな小さな椅子に坐って、机に股をきゅうくつに押さえつけつけながら、」分数を習っている。ずっとこんな調子です。「バレーボールのチームに入れと言われた。僕は断る。身長を利用して不当に得をするのはイヤだ」。 『マリー、マリー、しっかりつかまって』がリアリスティックに読めるのは日にちや時間や場所が具体的だからなのだろう。 そしてほぼ会話文で進行する『マージン』は微妙に会話がズレているように思える。ベケット?
こういう風に短篇集を読むと引き出しの多い作家であることに改めて驚きました。

小説についての本を纏めて読む。

保坂和志『書きあぐねているひとのための小説入門』草思社 5/24-5/27
辻邦生『小説への序章』河出書房新社 5/28-6/5
デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』白水社 柴田元幸・斎藤兆史訳 6/6-6/12

保坂とロッジは再読です。まず保坂。ゴダールの『映画史』を読むきっかけになったのは保坂だという記憶はあったのだけど、かなりの数の著作を読んでいたので、どの本だったのかまるで覚えておらず、部屋に偶々あった買い戻しの本を選んでみたらやはりこの『書きあぐね』でした。『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンドとの会話のシーンで尺的にカットせざるを得なかった為にベルモントの発言を全カットしてしまったというゴダールの証言から、保坂はさらに大胆にカットし、読者がぼんやり読まないように、読みにくくしたのだそうです。もう一カ所のゴダールについての言及は「シーンというのはショットの積み重ねであり、それによってつくり出された”流れ”のことだ。大事なのはその流れであって、一つひとつのショットの切れ味ではない」。つまり細かいディテールに拘るのではなくトータルで掴むという帰結なのだろう。あくまでもこの本はこれから小説を書こうと考えている人のためのより実践的(実用的ではありません)な本と云えるのでしょう。

辻邦生は非常に理解し辛い本でした。小説の成立史を踏まえながらの哲学的アプローチと云えば良いのでしょうか。「第5章 プルーストと全体性への視点」が圧巻でした。「誕生と死との間にとざされた人間の有限的な時間の肯定をさしているということでもあり、過去から未来へ川のように流出する時間ではなく、主体のうちに重層し、蓄積してゆく時間ということができる」「第6章 小説空間の意識」ではこんな記述がある。小説といえども伝達に過ぎないと限定した上で、「ある出来事を目撃したとすれば、伝達主体間では、いつ、どこで、何が、どのように、誰に対して、起こったかを認知し合えば、それで伝達の役割は果たされたことになる」。ピンチョンの『重力』を読んで特に思ったのはポストモダン小説はそこをあえて無視するゆえの、分かりにくさではないのか。そして保坂と同様に「第7章 ディケンズと映像」では映画についての言及があり、ゴダールの『映画史』でも名前が挙がった、「映画の創世記の二人の巨匠ーD・W・グリフィスとエイゼンシュテインとが、ディケンズからその詩的な刺戟と、映像言語の新しい可能性を学んでいる点は興味深い」。「『書く行為』を、既存の現実の描写、もしくは、事実の報告という役割に限定し、言葉を、この伝達手段と見なす結果となる。すくなくとも外界が先在し、それを言語が写してゆくという関係が、自明のものと感じられる意識の地平がそこに開かれる結果となったのである」これは英国経験論的な言及でしょう。「ディケンズから多くを学んだプルーストが、その微分化する感覚的世界を照応し結合する手段として、印象主義的なメタフォールを自在に駆使したのもにも比較しうる。プルーストの場合もメタフォールは疑いない感覚的な体験のうえに構成されたある超越的な領域を啓示しているのである」メタフォールというのは「ある事物を表すのに、それと深い関係のある事物で置き換える法」ということだそうです。よくわからないな。文学の中でも特に詩で良く使われる手法ですよね。そして「第8章 終末論の構図」でモーリス・ブランショの引用がある。「トーマス・マン、プルースト、ジョイスはそれぞれ別々の道をたどりながら、すべての真の物語がわれわれを導いてくれるこの無意識的記憶の時間の神秘を見いだしていったのである」。未だかつてマンを読んだことがないので手に取らねばならないな。何でもマンの代表作「『魔の山』の冒頭において物語の時制は過去時制であると書いているが、あらゆる事象を過去的なものとなし、未来までも過去に属せしめる主体とは、あらゆる未来にさきがけて未来である主体、つまり最終末に立つ主体に他ならない」この結論が次に読んだロッジと反響する部分があったのだ。

名古屋の友人 M 氏とのメールのやり取りの中でジョージ・オーウエル『パリ・ロンドン放浪記』『動物農場』に続いて現在『1984』を読んでいますと、あった。そんな折『小説の技巧』の「29 未来を想像する」で取り上げられているのが奇しくも『1984』だった。「未来についての小説のほとんどが過去形で語られるのは、一見矛盾しているように見えて、実はそれなりの理由によるものである」。「過去形は物語にとって『自然』な時制なのだ。現在形ですら、何となくしっくりとこない。なぜなら、何か書かれているということは、論理的にそれがすでに起こっていることを前提としているからである」。哲学は未来を語らない。普遍性を求めるから時制に制約される必要がない。時間そのものをも定義する学問ですからね。別の項目「8 名前」 では自作品に加えてポール・オースター『シティー・オヴ・グラス』が取り上げられていて興味深く読んだ。「構造主義の基本的発想のひとつに『記号の恣意性』ということがある。つまり、言葉と、言葉が指し示すものとのあいだには、何の必然性・実存的結びつきもないという考え方である」。これはソシュールの記号論。「この問題に関して、固有名詞というものは、奇妙で興味深い位置をしめている。ファーストネームというのはたいがい、何らかの意図をこめてつけられる。両親は何かしかの楽しい、あるいは希望的な連想をこめて、われわれに名前をつける(我々がその名にふさわしく育つか否かはまた別問題だが)。」 最近のキラキラネーム(もう下火?)はポストモダンの影響下にある現象なのかな。

2021 年元日からピンチョンを手始に2冊ものの長編に挑む。



トマス・ピンチョン『重力の虹』国書刊行会 越川芳明他訳 元日から2月15日。

  冒頭の数ページに及ぶ<主な登場人物>で迷子になること必至だと諦めました。5W1H を正しく使わないと悪文になると作文で習ったような記憶があるのだが、この小説は年代(第二次大戦を挟む前後)や場所(ロンドンだけ?)等ある程度しるされているのだけれど、なにせ登場人物が多すぎる。彼等はスパイ活動に従事していたり実は二重スパイだったり、ロケットを開発していたり(そこにはロケット工学などの理論が展開される)。

知っていることと理解することは当然違う。バップの天才のチャーリー・パーカーも広島もビートルズファンにはそれなりに知られている4人組のフール(聴いたこともレコード自体見たこともありません)等の固有名詞は知っているかそうでないかで事足りる。普通の小説は問題や事件等何かが起きる。そしてその後数ページ後に実はこうだったのだと答え合わせがある。ロラン・バルトは扉を開ければ数ページ先でその扉は閉められると、たしか指摘していた記憶がある。しかしこの小説は伏線が多過ぎて答え合わせができない。つまり因果関係が全く掴めないのだ。

戸田恵梨香主演のドラマ『SPEC』を思い出させる数々のスペックホルーダ(特殊能力保持者)も多数登場する。つまりSF 的な要素も持ち合わせている。日本のSF 作家円城塔を読んだ時の目眩を思い出しました。そしてあっちこっちで物語が始まっていくのだが、収束に向かっているのかどうかが分からない。しかし唯一ロケット工場の技師フランツとその娘イルゼのシーンは素晴らしく美しい。殆ど何処を読んでいるのか分からないままラスト近くこんな会話がかわされる。「”ヒントぐらい”は残しておかないと、と思っています。かれらから希望を奪っちゃいかんでしょう」。これは読者に向けたメッセージと受け取るのは深読みすぐるだろうか。この小説を読んでいる時に頭に浮かんだのはヴィトゲンシュタイン『論考』のテーゼ。「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」。これってひょっとしたらハイデガーの『存在と時間』で頻出する存在論的/存在的という用語に重なる部分があるのかも知れないな。ものは知っている知らないーつまりマークシート的な問題。しかし理解するーは記述式問題。そんなことが脳裏をよぎっては消え去った。

T. ピンチョン『V.』国書刊行会 三宅卓雄他訳 2月17日から3月12日。

以前読んだのは新訳か改訂訳だったのかな?表紙が違っているし、今回のは<ゴシック叢書>シリーズの中の1タイトルとして出版されたもの。以前読んだ時は涙流しながら腹を抱えて笑ったページ(大量に売りに出されて予想以上に大きくなりすぎたワニを皆が下水に流したため異常にNY の下水で繁殖してしまった件。でか過ぎて美術館から盗むことが出来なかった絵画の描写)があったのだけれど、今回それほど大笑いという訳にはいかなかった。。その日の体調もあるだろうし、訳が少し変更されているのかも知れない。読書は不確定要素が多すぎる。でも『重力』に比べたら未だ物語りとして読める。ルーニーは『珍妙レコード』の重役なのだが、彼は婦人便所にテープレコーダーを持ち込んだりするのだ。そんな愛すべき登場人物多数。しかしこんな記述もある。「『状況』というものはある特定の時点でそれと関わり合った人々の心の中に存在するだけなのだ」。そして次の会話に愕然とする。「世界とは、その場に起こることのすべてである」ーつまりヴィトゲンシュタインのテーゼなのだ。前回読んだ時に無意識に刷り込まれたので『重力』を読んでる際に浮かんで来たのかどうか謎なのだ。それも二度に渡り引用され『論理哲学論考』というタイトルまで登場する。偶然なのか必然なのか少し恐怖を感じた。そしてこんな文章にも胸を掴まれた。「固有名詞と文学的アリュージョンと、それに批評用語とか哲学用語がある並べ方でつないであるといったしろものなのだ。手持ちの積木をどう並べるかで、気が利いているか、バカに分かれる。他の人間については、どう反応するかで『わかる仲間』と『わからない部外者』に分かれる。だが積木の数は限られているのだ」。これはラジカルな問題だ。SNS のコメントを含めたありとあらゆる表現に付きまとう。気をつけねばならないな。

バース『酔いどれ草の仲買人』集英社 野崎孝訳 3月13日から5月6日。

時代は17世紀。舞台は英国からアメリカ。つまり入植時代。とにかく長い物語だ。それにはちゃんと理由があって物語を巡る側面があるからだ。ルーツを書き記した物語を探し求める旅行記なのだが、そこにはやはり海賊等の多数の人間が登場する。そしてその時代には指紋認証はおろか写真すらないのだ。なりすましが横行するので主人公以外誰が誰かさっぱりわからなくなるのだ。味方だと思っていた人が裏切ったり、当然逆である場合もある。退屈な長話は退屈なままでみたいなリアリズムの側面もある。ダンテの『神曲』や特にセルバンデスの『ドン・キホーテ』等の冒険潭を思い出しました。登場人物が異常に多かったことと物語を生き直す物語だったからだ。そんな作品群のパロディーとも読める。こんなアフォリズムもでてきそうでしょ?「正義は盲目だからな」「すべてがくるくるとよく変わる上に、実に複雑に入り組んでおるわ!」この一行が要約なのかも知れない。混乱したまま物語は終わるのかと読み進んでいくと、最後に裁判が開かれてある程度整理され全体が見通せるようになる。「やがてトマス卿が口を開くと、本件は各種の主張や申し立てが常になく錯雑紛糾をきわめておるからして、始めは審問会の形式によって審理を行い、係争点が明確になり次第、正式の裁判に移行するものである旨を宣告した」そして最終章は読者への釈明で次の文章で始まる「この長大な物語において作者は…」。頭がぱんぱんになりくらくらする小説でした。

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール映画史』筑摩書房 奥村昭夫訳 5月6日から5月21日。

映画とは縁遠い生活を今までずっと送って来た。多分100タイトルも見てないと思う。わざわざお金を払ってまで見に行った映画は数少ないし TV で放映される定番の映画で好きなものならまぁ見るかという感じだ。『ダイハード』『ホームアローン』『オーシャンズ』。アニメなら『サマーウォーズ』『ナウシカ』『カリオストロ』『トトロ』くらいなものだ。若かりし日々にゴダールの映画をレンタルで見たのは『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』(いつからかこのタイトルに変わっていた。昔は違っていたはずなのだが)そして『マクベスという名の女』で全く理解できなくなり見るのを止めた。ストーンズ絡みのも途中まで見たかも知れない。じゃぁ何故この本を読むことになったかといえば、かつてハマった保坂和志の著作でここには小説を書くヒントとなる記述が多数あると記されていたからです。ゴダールはおろかその他の映画を観た経験がなくても、学生さん相手のとても示唆に富む講義録です。

「ひとは自分が見たものを言葉で表すことはできません。見るということと見たものを言葉に表すということとの間にはなんの関係もないのです」「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものだろうか、それとも、自分自身のなかに戻るのを助けるものだろうか?」「人々は自分の目を、見ることためではなく、読むためにつかうようになるのです」「重要なのは、その吹き替えのできがいいかどうかということです」「吹き替えは、子供に大人のしゃべり方をさせたりします」この最後の2文で思い出すのは TV でよく見るユニセフの CM です。あのムサテカという難民になった少女が発言する言葉が気になるのです。『虐殺、拷問、虐待』と彼女は発言にたいして字幕がでるのですが、違和感を感じざるを得ません。意味的状況的にはそのようなことを発言しているはずですが、果たしてそんな言葉を少女が本当に知って使っているのか? CM 的効果を狙ってより強烈なインパクトある言葉を大人達が勝手に意訳しただけなのではないかと思っています。もし意訳なら相当悪質だと思いました。大好きなバラエティー番組の『絶力タイムス』ならなんら問題はないのですが。これはシリアスな CM なのです。

2020年を振り返る前に2019年はこんな書籍を入浴後に一時間程。



マルセル・プルースト『失われた時を求めて』新潮社。元日から9月20日。
ジョン・バース『金曜日の本』筑摩書房 志村正雄訳 9月21日から10月9日。
CJ トーマス『コルトレーンの生涯』スイングジャーナル社 武市好古訳 10月10日から10月19日。
ナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』講談社文庫 木島治訳 10月21日から10月27日。
『カフカ短篇集』岩波文庫 池内紀訳 10月28日から11月3日。
カフカ『変身』白水Uブック 池内紀訳 11月4日から11月7日。
ブコウスキー『パルプ』ちくま文庫 柴田元幸訳 11月8日から11月14日。
レーモン・クノー『地下鉄のザジ』中公文庫 生田耕作訳 11月15日から11月20日。
  北山修『人形遊び』中央公論社 11月21日から11月25日。
『1枚のレコード』監修・扇谷正造 PHP研究所 11月25日から12月1日。
岡俊雄『レコードの世界史』音楽之友社 12月2日から12月8日。
保坂和志『プレーンソング/草の上の朝食』講談社文庫 12月9日から12月23日。
高橋源一郎『ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫』講談社文庫。12月24日から12月28日。

日にち不明
マーク C クリフトリー『ジャズのスタイルブック』スイングジャーナル社 本多俊夫訳。
山口弘滋 『ジャズ・ヴォーカル決定盤』音楽之友社。
出谷啓『レコードの上手な買い方』音楽之友社。
金聖響+玉木正之『ベートーヴェンの交響曲』講談社現代新書。
これら以外にも音楽関連の書籍があったかもしれない。というのもプルーストの余り時間で軽く読んでいたから。

 プルーストは書店員時代に集英社文庫版の抄訳3冊を読んだ経験があるが、やはり全てを読まないと話にならないと考えていた。河原町丸太町の古本屋で箱入り7冊ものを安価で見つけたのが2018年の11月末で2019年の元日から読むことが決定。 2018年の8月に高校の同窓会があり、国語のS 先生と文学について話していた時に「来年はプルーストを読む計画です」と、話すと「マスイ君には『源氏』を読んでもらいたい」と云われた。2020年は『源氏』に決まった。死ぬまでに読まないとあかんなと両者について思った。ということでここでは単純な比較を。浅い読み方であるのは許してもらいたい。プルーストは貴族、『源氏』は宮廷という両者ともハイクラスの人達がテーマ。両者とも植物の名前が頻出する。登場人物の多さに加えて結婚や出世によって名前が変わる。当然迷子になる結果になる。絵画や音楽、文学等についての会話がふんだんに盛り込まれる。フランスにはワグネリアンが多かったのだろうか。政治やゴシップも同様に盛り込まれる。現在のコンプライアンスという基準からは問題が多すぎるので映画でも当然TVドラマでも制作が無理だろうこと。前者では同性愛やSM 等、Velvet Undergroud 的な世界観。後者は権力を背景にした強姦や誘拐等。そして両者とも現在の言葉で云う『マウンティングの取り合い』が非常に多い。「誰それが行くなら私は行かない」そんなことばかりなのだ。そして最も根本的なテーマは母親との距離という気がする。プルーストの冒頭では幼年時の病弱な主人公(どことなく『エヴァ』のシンジを想起させる)がベッドで母親がやって来るのをずっと待っている。そして光源氏は死に別れた母親の姿をずっと求めて女性遍歴を辿る。プルーストは1871年から1922年までの生涯だったので、第一次世界大戦の描写があったり電話があったり車があったりすることが、意外だった。(戦禍などどこ吹く風非常事態なのに彼等は社交をやめない。昔も今も変わらないということか)。祖母が逝く件は悲しい。そして迷子になって路頭に迷いながらも最後まで読み進めると視界がぱっと広がるのだ。その瞬間を味わうためには、耐えねばならない。

 ジョン・バースの本で記憶に残っているのは、『千夜一夜物語』の詳細な分析だけ。ジョイスやプルースト、カフカの名前も出たかもしれない。リアルタイムでは意外にもジャズミュージシャンのアイラー?シェップ?どちらかが登場していた記憶もある。書籍は読み終わると纏めて処分するから手許にない。

 『コルトレーンの生涯』はずっと歯痛に苦しみながらも彼がいかに努力家であるかということと、様々な人の影響を受けやすいかということが述べられていた。特に最近再評価されている Yusef Lateef に薦められた本をちゃんと読むんだよ。あと記憶に残っているのは来日公演でのフリージャズ的な内容に対する作家の筒井康隆の酷評。

 『ジャズ・カントリー』は素晴らしい小説でした。白人が黒人に混じってジャズを演奏する意義。いたたまれない青春群像小説です。作者の N.ヘントフはジャズ評論家でレコードジャケットの裏面に良く文章が掲載されています。

 『カフカ短篇集』『変身』。前者は『父のきがかり』以外全く覚えてない。実は『変身』は初めて読んだ。大学時代第2外国語がドイツ語だったので、これくらいの薄さなら原文でと思いながらずっと放置していた。悲喜劇っていうのかな。面白すぎる。

 ブコウスキーはふざけた探偵小説。誰からなんの依頼があったのかも覚えていない。たしかワケありの依頼者(人間だっけ?)だったはず。その依頼者からピンチに助けられたりするのがおもしろい。。

 『地下鉄のザジ』は再読。大学生の頃映画を見て面白くて直に文庫を買い求めたが(たしか寺町二条の残念ながら2020年休業してしまった三月書房だったはず。)当時はシュールな映画の方が面白かった。今思うと映画Home Alone 的?今回読み直してドタバタの原作がやはり良いという結論。

 北山修は京都が誇る元フォークルのオリジナルメンバーで当時は府医大の学生だった。フォークル解散後は作詞を手がけたりしていたが、後にロンドンへ留学。そこで精神医学を勉強し直し最終的には学会のお偉いさんになったそうです。前半のビートルズ論は読んでいて面白かったのですが後半は良く理解できませんでした。

 『1枚のレコード』は様々な方が書いた音楽というかレコードにまつわるエッセイを集めた本です。大概がクラッシクばかりなのですが、評論家の犬飼智子さんだけがロックを取り上げていて興味深い。上がっているアーティスト。It's a Beautiful Day デヴィッド・ボウィー 、ピンクフロイド、キング・クリムゾン、エリック・クラプトン、イイノ等。『1枚のレコード』なのにこんなに?「本はムードでも読むけれど、やはり考えるために読む割合が高いのに、レコード、つまり音楽は、はっきり、その時の気分で聴くものだからだ」

 『レコードの歴史』はどういう変遷を経て丸いレコードが発達して来たかを纏めた本です。エジソンが絡んでいたエピソードだったり、レコード会社が吸収合併を繰り広げながら現在に至ったかなど、あまりに詳細過ぎて全く覚えていません。お金になると踏んだ世界各国のレコード会社が熾烈な競争を繰り返すそんなノンフィクションです。若干ビートルズの記述もありましたが、殆どはクラッシック音楽にページがさかれていました。

 保坂和志は既読の小説なのですが、合本を見つけたので購入。当然両者とも猫が登場します。やはり登場人物が全員面白い。特にダフ屋絡みの辺りが最高です。主人公が巻き込まれ系の小説です。

 高橋源一郎は読書中心のエッセイです。確かに読んで面白かったはずなのにジョギングしながらの読書以外全く記憶に残っていません。エッセイってそんなものなのだろうか。

 『ジャズのスタイルブック』はジャズの歴史を辿るノンフィクション。どちらかといえば、学理寄り。Be-Bop やら Mode やらお勉強になります。そしてその理論を身につけるには「これを聴け」的なリストも掲載されていたような。ちなみに作者の子供はサックスプレイヤーの俊之。

 『ジャズ・ヴォーカル決定盤』には沢山のアーティストが紹介されているのですが、釈然としないのは R.フラックをジャズ・ヴォーカルにいれるかどうかを散々難癖つけているにもかかわらず、Pointer Sisters にはなんの躊躇もなく取り上げていること。彼女達は人脈から考えてソウルでしょうし、R.フラックにしてもやはりいくらバックにジャズメンを起用しようがソウルです。まぁそんなカテゴリーなんてどうでも良いのだけど。こういったガイド本はほどほどに参考にしたほうが宜しいようです。

 『レコードの上手な買い方』は役に立つ実用書でした。ここ数年で一番買っているレコードがクラッシックなのでどう整理しようか迷っていたのだけど、時代順や国別に分けるのは断念して結局作曲家のアルファベット順に落ち着いた。しかし問題がない訳ではなく、ベートーヴェンの『運命』はシューベルトの『未完成』と一緒になっているレコードが非常に多い。仕方なく指揮者で分けるしかない。あとソリストはソリスト。等々。クラッシック音楽中心ですが、「世界のレーベル」は勉強になりました。例えば Kinks で有名な PYE は国粋主義的傾向があるとか。なるほどね、キンクスは英国に根付いた音楽性なのも頷ける。この殺し文句になんど殺されたことだろう。『「レコードは見つけたときに買え」、とうのが、コレクションにおける鉄則だ』

 『ベートーヴェンの交響曲』はそのタイトル通り、9のシンフォニーを指揮者の金聖響さん(女優のミムラさんの元夫)が語り尽くす素晴らしい新書です。素晴らしいエピソード( G.グールドが7番について世界で最初のディスコ・ミュージックと評したとか)大指揮者時代とよばれる巨匠達が沢山居た時代に比べて、今は最悪だと述べる評論家があまりにも多過ぎるのは、ある意味権威主義的なんじゃないかとか。そういうクラッシック愛好家多過ぎますね。聴く前から「話にならん」と、切り捨ててしまっている愛好家。もったいないと思うのは僕だけでしょうか。じっくりこの本を読みながらレコードを聴きたいな。

2020年の前半は『源氏』に費やし、後半は哲学思想書に費やす。

紫式部『源氏物語』円地文子訳 新潮文庫 元日から4月30日
角田文衛+中村真一郎『おもしろく源氏を読む』朝日出版社 5月1日から5月6日
丸谷才一『輝く日の宮』講談社 5月7日から5月17日
森見登美彦『ぐるぐる問答』小学館 5月17日から5月20日
村上春樹『象の消滅 短篇選集』新潮社 5月21日から5月28日
干刈あがた 斎藤英治『80年代アメリカ女性作家短編選』5月29日から6月4日
筑摩世界文学大系36メルヴィル『白鯨』『書記バートルビ』6月5日から6月28日
井上章一『京都ぎらい』朝日新書 6月29日から6月30日
筑摩世界文学大系49ジェイムズ『ある婦人の肖像』『ディジー・ミラー』『ねじの回転』6月30日から7月28日
筑摩世界文学大系79ウォー/グリーン『ブライヅヘッドふたたび』7月28日から8月8日『事件の核心』8月8日から16日
現代日本文学大系31谷崎潤一郎集(二)『細雪』『鍵』『陰影礼讃』筑摩書房 8月17日から9月11日
世界大思想全集デカルト『方法序説』『省察』『哲学の原理』『情念論』河出書房新社 9月11日から9月23日
世界の名著51ブレンターノ/フッサール『厳密な学としての哲学』『デカルト的省察』9月23日から10月5日
E.フッサール『ヨーロッパ緒学の危機と超越論的現象学』中央公論社 細谷恒夫・木田元訳 10月5日から10月18日
エドムント・フッサール『ブリタニカ草稿』せりか書房 田原八郎編訳 10月18日から10月22日
エドムント・フッサール 『幾何学の起源』ジャック・デリダ序説 青土社 田島節夫/矢島忠夫/鈴木修一訳10月23日から11月1日
ジャック・デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』現代思潮社 足立和浩訳 11月2日から12月4日
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店 今村仁司 塚原史訳 12月5日から12月15日
小出亜佐子『ミニコミ「英国音楽」とあのころの話 1986-1991』ディスクユニオン 12月15日から12月19日
小川隆夫『改訂版 ブルーノート・コレクターズ・ガイド』河出書房新社 12月19日から12月22日
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』白水社 安堂信也 高橋康也訳 12月22日から12月24日
『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』中央口論社 村上春樹訳 12月25日から12月29日

 2002年2月8日。場所京大農学部近所の進々堂。友人 Mさんと妹さんとその彼氏と僕。薄暗い店内でお茶。その日京都駅で待ち合わせバスで移動し哲学の道へ。ソルボンヌの学生さんが谷崎のお墓参りをしたいとのリクエストに応えた形だ。徒歩が続いたので休憩中。「死ぬまでにプルーストを読まないとあかんなって思ってる」「学校の授業で読んだ」と日本語専攻の彼は達者だ。「そうなんや」フランス人にとってのプルーストと日本人にとっての『源氏』は教科書的だということが、云いたい訳。 『若紫』をほんの触りだけ古典の授業で読んだはずだ。全体を読んだ。政争に巻き込まれて須磨に流される場面はとても悲しい。しかし様々な行事や儀礼が多過ぎてかなり読むのがしんどい。そして登場人物の多さ。しかし当時の人はこれがすらすら迷子になることなく読めたのだろうか。だとしたら現代人の読む力は確実に衰えている。どうでも良いことしか記憶に残っていない。既に宮中では猫が飼われていたとか(笑)。現代のコンプラ的には多いに問題ありの箇所があったり。(ルッキズムや誘拐強姦等)。しかし扱っている題材はプルーストより広い。ごくごく普通に生霊が存在していたりするのだ。流石にプルーストはオカルトまでは描いていない(はず)。当時のあらゆる事象を取り込んだ物語です。部屋には村山リウ訳があるのでまた挑戦してみるつもりです。テレビじゃ流石にドラマ化できないよなって思っていたら NNK で『いいね光源氏くん』が読み終わりそうな良いタイミングで始まった。千葉雄大ー光源氏 桐山蓮ー中将 そして伊藤沙莉!コンプラ的に問題のある箇所を上手く避けて制作されたドラマでした。

 『おもしろく「源氏」』を100円で見つけて読んだのはプルーストについての言及があったからだ。英国にかつて「ブルームズ・グループ」というのがあって(京都で云えば京都学派?)そこにはケインズやフォースターそして再評価著しい(らしい)ウルフなんかが名前を連ねる。そこでプルーストやジョイスといったモダニズム文学が盛んに読まれたらしい。そのグループの中に『源氏物語』を訳したアーサー・ウエイリーがいた。たしか『源氏物語』を読む素地を作ったのはプルーストが紹介されていたからだと、『ロンドンで本を読む』に記述があった記憶がある。もう少し突っ込んだ分析を期待していたのだがそれほどでもありませんでした。ただ読んで良かった点もあって。当時紙というのは高級品でそう容易く手に入るものではなかったらしいが、藤原道長といういわばパトロンが紫式部にはいて好きなだけ紙が使えたというような記述があった。なるほどね。

 『輝く日の宮』は再読です。源氏物語の成立史や奥の細道についての洞察を含む現代が舞台の小説です。果たして源氏物語は冒頭から順番に書かれ発表されたのかなどとても勉強になりました。学会での大混乱の場面は何度読んでも面白い。

 森見さんの本は対談集です。ある時期一部の人のアイコンになった現在京都在住らしい本上まなみ(デビュー作『太陽の塔』でちゃりんこに『まなみ号』と名付けるくらい好きだったのだろう)や京都出身の綿矢りさ、京大出身作家の万城目さん(『鴨川ホルモー』『プリンセストヨトミ』)等の対談を所収。

 『象の消滅』も再読。ロンドン旅行に携帯したはずだ。アメリカで編纂されたものを再編纂しなおしたもの。訳し直したんだっけな?『パン屋再襲撃』や『象の消滅』がやはり面白いし、最初に発表されて後に長編化された『ねじまき鳥』も素晴らしい。

 『アメリカ女性』は現代のシリアスなBLM 的なテーマを扱った小説もありましたが、全く記憶にない。唯一ローリー・ムーアの『作家になる方法』だけが面白かった記憶がうっすらと残っている。

 メルヴィルの『白鯨』は難しい。例えば大昔に読んだ第三書館の『ザ・賢治』。童話や詩等は比較的読みやすいが、農薬等の専門用語だらけの文章には全く歯がたたない。あまりに作家にリアルで近すぎる固有名詞は読者には遠いのだ。2021年の元日から読み始めたピンチョンの『重力の虹』にも専門用語が多く使われている。物理学からロケット工学までありとあらゆる専門用語のオンパレード。N.ホーンビーの『ハイ・フィデリティ』にはロックやソウルのアーティストの名前が多数。分かる人には面白い。けれどそれ以外の人には辛いだろう。『白鯨』はクジラや捕鯨船のパーツが多数。当時はネット等ないのだから、クジラの名前を云われてもピンと来ない人だらけではなかったのか?『バートルビ』は光文社の新訳で読んでいたのだがもう一度読んだ。新訳のほうが面白さが伝わった。

 『京都ぎらい』は前半の愚痴の部分が面白かった。京都人を名乗る資格があるのは、上京中京下京に大昔から住んでいる人だけだとか。それ以外は差別的にあつかわれていた。みたいな。ある京都出身のプロレスラーが京都に凱旋したさい、京都人を名乗ったとたんに会場から「宇治のくせに、京都というな」とやじられたり。後半は急に歴史的なアプローチで学術的になって(京都学派なのだから仕方ないのだろうけれど)少しも頭に入らなかった。

 ジェイムズ『肖像』。物語の視点を何処に置くか。完全に第三者ってのが楽だろう。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばぁさんがいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばぁさんは川に洗濯を〜」。第三者は神の視点に変換可能だと思う。作家でも構わない。この『肖像』の冒頭部分は登場人物の視点からなのだが、複数いるので視点が移動し続けるのだ。目眩をおこすよ。ややこしいのは冒頭だけで後は普通に読めます。四日市時代英国留学経験のある女の子と観に行ったのが『ノッティングヒルの恋人』なのだが、最後二人とも泣いていたな。何故こんなことを叩いているかというと、ハムステッドヒース(?)で映画のロケをしているJ.ロバーツの元へH.グランツが尋ねるシーンがあるのだけど、ひょっとしてその映画は『肖像』なのではないかと思ったのだ。とすると内容的にもアメリカからやって来た女性が英国貴族(映画では庶民だけど)を引っ掻きまわすという内容とリンクしているのだ。当時は『ローマの休日』が良く引き合いにだされていて、現在もそうなのだが。誰1人指摘している人が居ないので叩いておきます。

 ウオー『ブライヅヘッド』は悲しく重い小説。主人公は画家として成功するのにたいしてオックスフォードで仲良くなった友人はアルコールで身を滅ぼす。しかしその主人公も戦争の影響を受ける。つまり救いのない小説なのだ。グリーン『事件の核心』もやはり救いのない小説。両作家ともカトリック作家らしい。

 『細雪』を読むのはは三度目だと思う。蛍狩りのシーンがイメージとして強すぎるのだが実は、岐阜の大垣でのエピソードだったりすることは忘れていたりする。そして主要な舞台が神戸の三宮や元町辺り。京都や渋谷も舞台にはなっているのだが基本は神戸なのだ。そして冒頭。ゆっくりじっくり読まないと実は複雑な構造で書かれている。視点が何処にあるのか、かなり凝っていて分かりづらい。ジェイムズと同じように目眩起こすよ。神戸という街柄、お隣に外国人家庭が住んでいたり、そして結末があんなんだっけと記憶力の衰えに愕然としました。『鍵』はかなりやばい小説。日記の盗み読み。今で云えばスマホってとこだ。良いことなんてないのは誰もが知っているのにね。舞台は京都市左京区。


 哲学史的にあるいは教科書的にデカルトの代表作といえば『方法序説』と相場が決まっています。『情念論』推しだった時期ももありましたが、読み直してみるとやはり『省察』が最もラジカルで面白かった。どの深さまで疑えるのかを規定するのが哲学だという認識論。疑っている我と延長する物体。これ以上疑えないと。良い所まで行けたのに時代的な制約である神の存在を無前提に肯定してしまったこと。そして自我と物体という二元論をどう統一するのかという新たな問題を積み残したこと。デカルト以降の哲学がその問題を解決しようとするのが近代哲学史の歩みとなります。

 学部生の卒論では『デカルト的省察』そして修士論文では『危機書』をテーマにしたのだけど、全く箸にも棒にもひかからない論文になってしまった。そう云えば口述試問でぼろぼろになって悲しくなって泣きながら友人I に電話して夜に会いに来てくれたことを今思い出した。。前者では大風呂敷を広げすぎて全く纏まりのないものになり(それ以前に「誤字脱字が多すぎる」と指摘されてしまう始末)、修士時代は研究者には全く不向きであることがわかり、全く大学には通わず遊びまわっていたのだ。その結果どうでも良い論文を提出してお茶を濁してしまった。読み直してみてよくこんな難しいものをと改めて思う。身の丈を知るべきだった。しかし「デカルト的省察」は良く読み込んだのだろうか、不思議と議論について行けた。現象学の入門書としても最適だと思う。「志向性」「ノエシス/ノエマ」「判断中止」「エポケー」等のキーワードが、哲学史をきっちりと辿りながら深めていくのだ。大陸合理論と英国経験論を読み直し、現象学という思想を展開させて行く。そしてここにも他者問題という積み残しが生じるのだ。ラジカルに疑って行くと独我論に陥る。ではどうして他者が存在するといえるのか。そこの記述が弱いとされているのだ。デカルトの時代なら神を出せば片付くが現代ではそうも行かぬ。纏めてフッサールを読んだのだけど『幾何学』にはフランスのポストモダンの思想家デリタの序がついているのだが、これがとても重箱の隅をつつく系で難解。批評的な本を読むのはとても難しい。本文より序の方が数倍長い。駄目だ。

 大学入学時、日本ではニューアカといって浅田彰や中沢新一が時代の寵児だった。そんな彼等が盛んに紹介したのがフランス現代思想。デリタの『声と現象』を読んで全く歯が立たなかった記憶がある。しっくり来たのはロラン・バルトただ一人だった。そして今回再びデリタに挑戦したのだが、やはり無理だった。ルソーを批判的に読み込みながら先ずは言語の起源についての論述。音声言語(パロール)と文字言語(エクリチュール)のどちらが先立つのか。当然音声でしょ?と思うのだがそう簡単に片付けられないみたいだ。そしてこの本の読みにくさは他にもある。概念装置も特殊だし、本そのものの問題なのだけど、本文があり、原注があり、訳注がある。そして訳注のついた原注すら沢山ある。その度に中断されるので大変だ。僕には全く歯がたたない思想書なんだけどこんな記述があった。ルソーの『社会契約論』での記述なのだが「首都を認めないことである。つまり政府を各都市に交互に設置し、国家の会議を順番に開くということである。」そして原注があってそこに訳注がついてくるのだが、「首都のまわりは活気に満ちているが、そこから遠ざかれば遠ざかるほどすべては荒涼としてくる。首都からはたえずペストがばらまかれ、ついには国家を徐々におかして破壊してしまうのだ」。現代の言葉なら地方分権なのだろうか。世界各国がコロナに苦しんでいるのも首都に全てを集中させすぎた結果だと読める。

デリタに比べたら未だなんとか食いついて行く気力があるのだけれど、やはり難しい。『文化が永続することを前提として創造される時代は終わった』(P138) 『次々と流行を追いかけねばらないような事態を前提としており、(中略)文化を記号の体系としてとらえ、それらの組み合わせで遊ぼうとするのである。「ベートーヴェン、最高さ!」という具合だ。』(P150)『消費とは組み合わせ遊びへの熱中のことであって、情熱とは両立しえないのである。』(P160)そしてそんな消費行動を煽っているのが広告なのだ。『「ひと味ちがうビール」(何と較べて?)』(P185)予言的な言葉であるがゆえに、そして本当かどうか検証不可能で信じるしかないから神話なのだ。オードリーの二人が生CM で椅子を破壊した行為。笑いが止まらないのは禁忌をおかしたからなのかも知れない。動画はオードリー椅子で検索を。


 書籍の裏表紙を見て貰いたい。二段バーコードの下にISBN から始まる文字列がある。(大昔の書籍や雑誌にはない。ムックは例外)C から始まる4桁の数字がある。始めの二つはサイズ。後の二つはカテゴリー(ジャンル)を意味する。作者と出版社と版元でたしか決めているんじゃなかったかな。70番台は趣味実用書。『「英国音楽」と』と『ブルー・ノート』は両者とも C0073 である。そして前者は恵文社で取り寄せ、後者は寺町の三月書房で自由価格本(新品)で安く買った。『英国』はネオアコ〜ギターポップを日本に根付かせた幻のミニコミだそうです。そんな中からやがてオリーブ少女達に大人気になるフリパーズも登場する。入り口はとても広いところからスタートするのだけれど、途中から全く知らないアーティストや個人名が続出してついて行けなくなった。あまりにも身内話過ぎるのだ。まぁ「スモール・サークル・オブ・フレンズ」を標榜するのだから排他的にならざるを得ないのだけど。それに較べて『ブルー・ノート』は以前読んだものの改訂版だ。前のは誕生日プレゼントで『ほんレコ』の H君に。こちらはよりマニアックなのだけど、面白いし役立つ。オリジナル盤かどうかの見分け方(住所や番地やその他多数あるのだ。)。作者が『ブルー・ノート』のレコードを全てコレクションしようと決意してからの悪戦苦闘も楽しい。コレクターは次の言葉から逃げられない。「ここで手にいれなければ2度とお目にかかれない」。怖い。この改訂版は2009年に出版されただが、90年代以降のは全く触れられていない。確かにN.ジョーンズはジャズじゃないもんね。でもクラブジャズ系がブルー・ノートからリリースされているのだけど、やはりジャズじゃないのかな。


 初ベケットは2018年の4月6日から29日までの『モロイ』だ。頭が痛くなった記憶以外ないのだけれど、こんなメモが残っていた。「癌で死にかかった患者が歯医者に診てもらわなければならないときに感じるような不安」。このテキストは喩えだけれど、僕の場合事実だったから笑ってしまった。虫歯が痛み出して仕方なかったのだ。岐阜出身の歯科助手さんと朝ドラ『半分、あおい』の岐阜弁の話をしていたことも思い出した。もうすぐ3年になるということか。未だ歯医者通い終わらず。そんな『モロイ』に比べたら未だなんとなく分かる様な気がする。ポッツォが激怒して言い放つ言葉がなんだか胸に刺さった。それは時間についての言及だ。「いいかげんにやめてもらおう、時間のことをなんだかんだ言うのは。(中略)ある日、生まれた。ある日、死ぬだろう。同じある日、同じある時、それではいかんのかね?」

 叡電の線路脇に無人の古書店がある。一部を除き全て100円。代金は郵便受けに入れる。たまぁに良書が紛れている。そんな中から発見した。フィッツジェラルドはまぁまぁ読んでいるのだけれど、作品数も多分多くて全体を掴み切れてない。村上春樹による「フィッツジェラルド体験」がまず冒頭にある。これが愛情溢れた内容で素晴らしい。『氷の宮殿』は多分2度目。アメリカの北と南との間に根深く残る問題を具体的な内容で表現している。そういった問題は英国のスコットランドでもあるらしいし、イギリスの北部と南部でもある(映画『ロック、スットック〜』でもあった。)日本じゃ東と西になるのかもしれない。小品だったけれど『失われた三時間』が面白かった。飛行機に乗って故郷へ向かい12歳に会ったきりの女性に「古い友人です」と電話をかけるのだ。角田光代に同窓会でのまぬけな出来事を書いた小説あったのを思い出した。
「最近全く更新されてないやん」と指摘されたけど、、一冊の本も読んでないわけじゃない。

きたやまおさむ『ビートルズ』講談社現代新書 87年 ?
湯山玲子『クラブカルチャー!』毎日新聞社 05年 5/25~27
柴崎友香『きょうのできごと』河出文庫 04年 8/1~2
中山康樹『超ビートルズ入門』音楽之友社 02年 8/12
アイザック・アシモフ『宇宙の小石』創元推理文庫 72年 8/31~9/8
ロバート・A・ハインライン『夏への扉』ハヤカワ文庫 79年 9/9~15
レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』創元推理文庫 68年 9/16~10/4
フィリップ・K・ディック『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』ハヤカワ文庫 84年 10/5~15
フィリップ・K・ディック『逆まわりの世界』ハヤカワ文庫 83年 10/16~28
フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』ハヤカワ文庫 03年 10/30~11/12
フィリップ・K・ディック『ニックとグリマング』筑摩書房 91年 11/16~20
カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』早川書房 84年 11/21~28
円成塔『後藤さんのこと』早川書房 10年 12/1~15
河合隼雄+谷川俊太郎『魂にメスはいらない』朝日出版社 79年 12/16~22
根本順吉+新田次郎『病める地球、ガイアの思想』朝日出版社 80年 12/23~31
大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く』朝日出版社 82年 1/1~7
保坂和志+湯浅学『音楽談義』ele-king books 14年 1/7~9
佐々木敦『ニッポンの音楽』講談社現代新書 14年 1/7~11
河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波書店 82年 1/12~28
江原由美子『生活世界の社会学』勁草書房 85年 1/30~2/12

とまぁこんな具合に読書してたんですよ。午前中はもっぱらレコードを聴く時間にあててたし。入浴後頭が冴えている時間、TV を見るのを少し控えて時間を作り読書に費やしていたのです。ちなみに発行年の後の日付が読んでいた期間です。仕事が昼休憩を挟む場合にはランチ場所でも読書です。

きたやまさんの本は再読で、学生時代読んでいたく感銘を覚えたのですが、今回はそれほどでもありませんでしたな。そして湯山さんの本はたいしたことないと思いました。野田努の本が余りにも凄すぎたのだと思います。柴崎さんは四日市へ行った際のお伴にしました。これは面白かったです。なんでも10年後の彼等の様子が書かれた続編が出版されたようです。是非読んでみたい。中山さんのは下鴨神社の古本祭りで購入してその日の内に読んでしまいました。大変面白かったです。『アンソロジー』から聴き始めた人達にそれは順序が違うとアドバイス。先ずは『パストマスターズ2』から始めて最後は『アビーロード』で閉めるとご親切にも指導されてます。他にも「オノヨーコ」の取り扱い方等、難問にも挑戦されているのに笑ってしまいました。この本が余りにも面白かったので浜松の友人にプレゼントしました。

さてここからは出版社からも判断できますがもっぱら SF を読んでいました。アシモフから円城さんまでです。未読の本棚から拾い集めて読みました。一挙にこれほどの量を読んでしまうとどんな内容だったのか殆ど覚えてないのですが、それでも面白かった本は記憶に残っていて、それはそれで良い本だったのだろうということも可能じゃないのでしょうか。以前はメモをとりながら活字を追い一冊読んでは何かを書きという作業だったのだけど、それだと必ず読書のテンションが落ちてしまうから、とにかく読む作業に徹した結果がこの有様です。何かいい方法があったら教えてほしいです。アシモフはタイムトラベルものでかなり面白かった。ブラッドベリはやはり他のSF 作家と一線を画してます。この短編集に入っている『長雨』の救いようのなさは壮絶だと思いました。希望を打ち砕く地獄でした。
ディックは全て夢中になった。だから殆ど覚えてない。どの本だったか覚えてないけれど、読んでいて堤さんの『ケイゾク』?押井さんの『うる星やつら2』?に影響大だなぁって思った。しかし『ニックとグリマング』はめっちゃはっきり覚えてます。児童書だからか?イラスト入りだからか?特にウーブは愛すべきキャラです。手持ちのカードでしか会話できないなんて。なんとなくトトロっぽい。

ヴォネガットは最高でした。ヘタクソなイラストも最高だし、こんな調子で始められたら最高にならないわけがない。「これは、孤独で、やせぎすで、かなり年をくったふたりの白人が、ある臨終近い惑星の上で出会う物語である。そのひとりは SF 作家で、キルゴア・トラウトという。彼は当時まったく無名で、自分の人生はおしまいだと思っていた。それはまちがいだった。この出会いがもとで、彼は史上もっとも敬愛された人間となる。トラウトと出会う相手は、自動車の販売業者である。ポンティアックのディーラーで、名前をドウェイン・フーヴァーという。ドウェイン・フーヴァーは、発狂の一歩手前にあった」。 円城さんは頭をひねる作風で有名ですが、この短編集の中の『The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire』がばかばかしくておかしくて最高でした。例えばこんな文章。「20:今年の銀河帝国は発売後十五分で売り切れた。」「81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて適わないので、ペットボトルを並べてみる」。断章とも違うナンセンスな箇条書きがこの調子で99まで並びます。他の短篇は全く歯が立たんかった。

ひとまず SF集中攻撃を終え次に手をつけたのがお勉強本って括りで河合さんから坂本教授まで。このシリーズは Lecture Books というシリーズで対談集なんですね。河合+谷川は『ユング心理学講義』。箱庭療法などの紹介もなるほどねぇと思ったし、ジョイスの娘の話等も興味深かったのですが、二人のLSD 体験!(当時は違法じゃなかったのです!) などもおおらかに語られています。続いては『汎気候学講義』。かつての隅田川が凍り付いたというエピソードや電力の話等今こそ読まんとあかん内容が詰まってます。でも一番驚いたのがこの箇所。「現に最近、信州の御嶽山が爆発しましたね」(この本は35年前なんですよ!)「御嶽山が爆発したときに、なにも観測してないから分からない、と火山学者は言ったのですけど、とんでもない話で、これは過去の記録がない、たとえば二千年ぶりで爆発したという意味ですね」。2014年9月27日に爆発して多数の犠牲者が出た記憶が残っていたので驚いたのです。

最後は『哲学講義』。いやぁ素晴らしい本でした。坂本教授の知性と大森東大先生の知性。上手くかみ合ってます。流石だな。特に冒頭のステレオ/モノラルの話。モノって二つのスピーカーから同音量の同じ音がなっていて迫力あるサウンドになるのです。ビートルズがシングルのモノラルに拘ったのはラジオから流れた時に迫力あるサウンドが得られるためだと読んだ事があるのですが、現在のステレオ装置で聴くと真ん中から聴こえます。そこで教授はこんな質問を大先生にぶつけるのです。猟師が森に入った時に偶然二匹のオオカミが同時に同じ音量で同じ音程で吠えたとすると、真ん中にオオカミが居ると思うのは錯覚なのでしょうか?と。凄いです。その他時間論等本当に興味深いトピック目白押し。哲学も音楽も好きな方にはお薦めです。

続く二冊は久々の新刊です。先ず保坂+湯浅の『音楽談義』。少し上の世代の音楽にまつわるうだ話。読後直ぐ父に貸し、現在『ほんレコ』H 君の手許にあるのだけど、はっきり覚えているのがオーディオ=オカルト説と、何と言ってもAKB = P-Funk 説。特に後者には爆笑です。その断定の訳は?それぞれのチーム間でメンバーが重なってるから!ってだけ。笑った。確かにパーラメントとファンカデリックもメンバー重なっているけど。てことは G.クリントンは秋元ってことなんかな。

続いて僕と同い年の佐々木さんの本は、お薦め。保坂湯浅も同い年らしいから、話がどんどん展開するのだけど、佐々木さんの本はすらすら読める。J -Pop 誕生以前と以後を緻密に追ってます。おそらく『はっぴいえんど』は後追い学習だと思うのですが(違ってたら済みません)YMO~渋谷系+小室系〜中田ヤスタカってな具合に話が進行。殆ど全てハマってるものな(笑)。まぁ最近ハマっている中島みゆきについての言及はいっさいなかったけれど。この歴史本のキーワードはずばりリスナー型ミュージシャンってことでしょう。でもこれは日本に限った話じゃない気がするんだよね。ロックとかポップって外部を取り込んで発展して来た音楽だって思う。ビートルズもビースティーズもニューオーダーもプライマルも皆そう。黒人音楽は少し微妙だけどルーツという外部を取り込んだり、白人マーケットを狙ったり(モータウン)、レコードそのものを取り込んだり(ヒップホップ)。そう意味でいうと現在のポップミュージックが弱体化しているように思えるのは取り入れるべき外部が既にないからという構造自体に由来するんじゃないのかな。ちなみにNHK Eテレで放送されていた宮沢さんの『サブカル史』とかなりの確率でリンクしてて余計に面白かったです。はっぴいえんどや荒井由美/YMO/がリンクしてたし、90年代第一発目宮沢さんが持参したタンテでかけたのがプライマルのローデット!佐々木さんの本でもフリパーズの章でプライマルが紹介されてたんだよね。若い人がこの本読んだらどう感じるんだろうな。

1月2日。NHK Eテレで『100分de日本人論』という番組が放送され、そこで精神科医の斎藤環さんが取り上げたのが河合隼雄『中空構造日本の深層』という本でした。その内容が良かったと、父に話していると、書棚から探して持って来てくれたのが『昔話と日本人の心』でした。かなりのページ数の本だった故、ゆっくりと時間をかけて読みました。西洋と日本との昔話を対比させながら、日本人の意識の構造を浮かび上がらせる手法がとられています。僕の手には負えない分析が展開されていて、こうだと要約することは不可能ですが、素晴らしい本でした。

そして最後。これはかなり前に買った本です。タイトルと中身を見て100円で買ったのです。フッサール後期の重要キーワード『生活世界』を修士論文に選んだ経緯もあったし、中をめくった時に『エスノメソドロジー』という新しい社会学の概念も登場していて、学部生か院生の時代そのガーフィンケルの著作を読んですごく面白かった記憶があったものですから、買ったのです。ただしこの本はかなり学術的で難しい。学生時代なら、それなりに理解しようと努力しながら、読んだと思いますが、なんせもう50過ぎですからね、そんな根気ありません。ただ昔とった杵柄というか、フッサールについての言及はそれなりに理解できたような気がします。たまにはこういった背伸び読書もしないと、脳が衰えるでしょ?以上でとりあえず終わり。さて次は何処をひっぱりだして読みましょうか。

Favourite Trash Book

A-G Paul Auster | Julian Barnes | Donald Barthelme | Alan Bennett | Jorge Luis Borges | Malcolm Bradbury
H-N James Joyce | David Lodge | Uladimir Nabokov
O-U Richard Powers |J.D.Salinger |
V-Z Kurt Vonnegut | Ludwig Wittgenstein
ポール・オースター 『ガラスの街』 新潮社 柴田元幸訳 09年(85)
ポール・オースターを知ったのはいつなのだろう。そして最初に読んだのはどれだったのだろう。詩集以外は殆ど読んでいる大好きな作家なのにまったく記憶にない。『シティー・オブ・グラス』というタイトルの角川文庫訳は既に読んでいるのだが訳者が柴田さんではない。それが残念だった。で今回新訳として柴田訳で読める。NY 三部作(『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)の最初の作品。この作品の凄さはどこにあるのだろう。まずミステリーとして「読者は何ひとつ見逃してはならない」ことを強要する点。次は登場人物のキャラクターだ。命が狙われていることに脅えている依頼者の長い独白中の「僕は毎日新しいのです」は離人症の患者に特有なものだ。(卒論で扱ったテーマを補完するため読んだ『自明性の喪失』にそんな記述があったはず)そしてびっくりしたのは今年読んだ『ティンプクトゥ』で壊れた詩人が語ったのと同じ台詞をこの依頼者にも語らせていることです。「神( GOD )を逆さにしたら犬( DOG )になります」。依頼者が脅えているターゲット(実の父)を見張り尾行し接近し彼が目論んでいる企てを聞きだす中こんな発言がある。「私たちの言葉はもはや世界に対応していません」「傘から布を引きちぎっても、傘は依然として傘か?」ーハイデッカーの『存在と時間』で物と道具の違いを検証した箇所を思い出さずにはいられない。そして本当のポール・オースターが登場する。彼はセルバンデスの『ドンキホーテ』論を書いていて「誰があの本の作者か、というのが一番主要な点です」そして本当の著者が登場します。ターゲットを見失った探偵役の作家クインは依頼主を四六時中見張る。「持ち場を離れるのは気が進まなかった。自分がいないあいだに何かが起きるかもしれないと思うと居ても立ってもいられす、」ーデビット・ヒュームの懐疑論を実践するなんて行為はあきらかに狂気の沙汰だ。そして彼が観察したことを書き付けていた赤いノートをポール・オースターから預かった『私』はこの作品をノンフィクションとして纏めた。「赤いノートの最後のセンテンスはこうである。「赤いノートにもう書くところがなくなったらどうなるのだろう?」」 偶然の出来事に巻き込まれ謎とともに話が進むのは(僕が知っている限り)カフカから始まって村上春樹や三崎亜記『となり町戦争』へと脈々と受け継がれている。ある意味伊坂幸太郎の『コインロッカー』も同じか。本当に素晴らしい作品です。

ポール・オースター 『ティンブグトゥ』 新潮社  柴田元幸訳 06年 (99)
前作『ミスター・ヴァーティゴ』で僕の求めている方向とはかなり違って来たなとかなりがっかりしていたのだけどこれはほんと素晴しい快心作。典型的なドロップアウトを辿って来た詩人ウィリーとその番犬ミスター・ボーンズのお話。始め手にした時はお涙頂戴物かもなと不安だったのですが悪い予感はみごとに外れました。dog を逆さに綴ると神ということに気付いた、いちゃっている詩人はこう結論付ける。
真実はだな、友よ、犬は字が読めるんだよ。じゃなきゃ何で郵便局の扉にあんな掲示がかかってる?犬立ち入禁止 ただし盲導犬は除く。わかるかい、俺の言っていること?盲導犬を連れてる人間は目が見えない、だからその人間は掲示を読めるわけないだろ?で人間が読めないんだったら、ほかに誰がいる?

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』新潮社 柴田元幸訳 12年(06年)
素晴らしい作品でした。魅力的な登場人物(口を閉ざした小さな女の子)。魅力的な舞台(稀少本を扱う古書店)そこに無数のはらはらする展開が待っていれば無敵でしょう。文学上の数々のエピソード。それはヴィトゲンシュタインであり、カフカであり、ジョイスであったり。単に僕の読書傾向がそちらへ向かっているってだけなのですが。あるいは世界中のトレンドなのかもしれないな。『自分はタクシー運転手になる運命だと考えながら育つ人間はいない』。心に染みた。泣きそうだった。2012年に角田光代が最も感動した作品が P. オースターの新作で書評も書いたと講演会で発言していたけれど、ひょっとしてこの作品?
ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』白水社 斎藤昌三訳 89年(84年)
先に読んだのが下の『歴史』で後から四日市でこの『鸚鵡』を読んだ。当時は単純に面白がって読んでいたけれど、再び読むと凄い手法をさりげなく使って書かれているのに気づいた。少しは深く読むことを会得したってことなんだろう。フロベールにまつわる蘊蓄小説って「てい」なのだが(だからバルトも引用されてます)、フロベールに主人公は人生を重ね合わせ、投影しつつ、謎解き小説の醍醐味をも持たせる。フロベールを読んだことがなくても十分に楽しめる内容です。2章の年譜の2つ目など何年にフロベールの近しい人が死んだかっていうだけ!不謹慎だけど次から次へと死亡記事ばかりだと笑ってしまうよ。こんな文章に身につまされるのは僕だけじゃないはず。「一冊の本に対して自分の抱く感想意見などすべて、専門の批評家によってすでに書かれ、さらに詳しく述べられていることの単なる繰りかえしにすぎないとしたら、読書になんの意味があるのだろう?」ここにこうして感想文を書いて更新したり、遡ること卒論で同じ様なことを卒論の前書きに書いたのを思い出したんだよね。大学の偉い先生に今更何を語れって言うの?みたいな。読みやすいけれど深い小説。

ジュリアン・バーンズ『10 1/2 章で書かれた世界の歴史』白水社 丹治愛+丹治敏衛訳 91年(89年)
読書に辛抱は必要か?この問い自体がおかしい。辛抱の必要な読書もあれば、そうでない読書もある。これは前者。高濃度なのだ。それでも辛抱強く読んでいると、間違いなく、くっすと笑える文章に出会える。この本の存在を知ったのは高橋源一郎の書評でその当時は未だ翻訳もされておらず、後に翻訳されたのを手にした。多分この本を読むのは3度目で最初に読んだのは彦根時代。ってことは20年前だ。いや、本当に素晴らしい。けったいなタイトルだけど、どうして『歴史』なのか。「物語は形を変えて語られ、調整を加えられ、現代風に改訂されてきたのだ」。はたまたこんな文章にどきりとしないか?「放射能の濃度はベクレルと呼ばれる単位で測定されるの」。原発事故の物語。多用されている語は「繫がり」。日本と違って否定的なニュアンスで。最後の10章『夢』は昔読んだ時は桂枝雀の『えんま茶漬け』を思い出して馬鹿笑いしたのだけど、今読むと怖さを感じる。とにかくボリュームあるし、濃いから毎日少しずつTV を観るのを最小限に抑えて読んだ。そういう類いの小説です。一日一章とかは多分無理。少なくとも社会人には。
ドナルド・バーセルミ『哀しみ』彩流社 山崎勉訳 98年(70年)
バーセルミはおもろい。おもしろいじゃなくて。僕にとって「おもろい」は最高の褒め言葉なのだ。馬鹿ばかしく、くだらない。しかし笑いが溢れている。思わず、顔の筋肉が緩んでしまう。知性に裏付けられているから読んでいて飽きがこないし、展開が読めない。全16編が、『哀しみ』というタイトルの中でそれぞれに違った輝きを放ってます。こりゃえらい作家に出会ってしまったもんだ。別の作品も読んでみたいと、強く思った。
アラン・ベネット 『やんごとなき読者』 白水社 市川恵里訳 09年(07年)
とても面白い小説だったので一日で読んでしまいました。 帯のコピーはこうです。「英国女王エリザベス二世、読書にハマる。おかげで公務はうわの空、側近たちは大あわて」 ある日女王が犬を連れて散歩していると移動式の図書館と遭遇。そこから物語は意外な展開を始める。そこにノーマンという若者がいて物怖じせず彼女に本を薦めするのだ。その理由は年をとりすぎている一人の老婦人に違いないし彼が最初に勤めていたのが老人ホームだったから。そして彼女の読書熱は高まっていく。「一冊の本は別の本へとつながり、次々に扉が開かれていくのに、読みたいだけ本を読むには時間がたりないことである」そこでだんだん公務がおろそかになっていく。そんな彼女に側近たちは良い顔をしない。そしてノーマンに矛先が向かう。女王が公務でロンドンからいなくなるのに乗じてノーマンを厄介払いするのだ。その先は「イースト・アングリア大学」ーすばらしい英文科があって、そのうえ創作コースもある。ーイアン・マーキュアン、カズオ・イシグロを輩出。『超哲学者マンソンジュ氏』の著者マルカム・ブラッドベリが教鞭を勤める大学!とはいうものの女王自身もノーマンを超えたのではないかと内心思っていた。彼は女王にその本はまだ早過ぎると助言する程彼女の読書熱は案内人をもはや必要としていなかった。「たとえばべケットとナボコフは長いあいだ彼女から遠ざけていたし、フィリップ・ロスにはだんだんと触れさせた」また繋がった!高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』にもロスという名前が出ていた。余談ですがロスの『素晴らしいアメリカ野球』は最高におもろくて『優雅で感傷的な日本野球』の源泉の一つです。
80歳の誕生日。女王はお茶会を催しスピーチをします。プルーストを引き合いにだしこう語ります。「語り手のマルセルは、たいしたことのなかった人生をふりかえって、小説を書くことで人生を取り戻そうと決意します―それがまさにこの小説なのです。そしてその過程で、記憶と追想の秘密を解き明かしてゆくのです」そして大決断を発表するのですがその言い回しがとてもしゃれていて素敵なのです。それはこの引用から導かれた語り口調のようです。「E.M. フォースターだと思うけれど、こんな言葉があります。『真実を残らず語りなさい、ただし斜めに語りなさい。成功は回り道にある』―それともエミリー・ディキンスンだったかしら?」最後の言葉はあえて書かずに置いておきます。ぜひ手にとってたしかめてみてください。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『砂の本』 集英社 篠田一士訳 80年(75)Jorge Luis Borges (1899-1986)
13の短篇からなる素晴らしい本でした。 まずしょっぱなからの奇妙な偶然の一致から叩きたい。現在職場で読んでいるのはセルバンデスの『ドン・キホーテ』なのですがその書名が登場。先日売り場でかわいい女子学生が訊いてきた。「これの続きはいつ出ますか?」指差す先にあったのが亀山先生の新訳『悪霊 1』(光文社古典新訳文庫)。10 月の新刊リストには予定がなく『カラマーゾフ』の奥付で確かめてみると2ヶ月スパン。その旨を伝える。ドストエフスキーについて少しお喋りし「ドストエフスキーが好きならこれお勧め」と棚から抜いたのはカミユの「シーシュポス」。「読書案内としても最高ですよ。カフカやジッドも読みたくなる」。その女の子はカフカも好きだそうで一緒に買っていってくれました。「シーシュポス」はそういう風に手売りやポップを付けてかなりの数を売っています。
「フィヨールド・ドストエフスキーの『憑かれた人びと』、というか、ぼくの感じでは『悪霊です』」と、彼はいささか得意気に答えた。
「よく覚えていないな。どんなものだい?」そう言うがはやいか、この質問は冒涜だったと感じた。
「ロシアの巨匠です。」と彼は断言した。「スラブ人の魂の迷路を、誰よりも深く探索したんですよ」(『他者』)
彼とぼくは同一人物なのです。ドッペルゲンガー譚です。
第二の偶然の一致。「わたしはロンドンに到着した。(中略)大英博物館の裏の安宿に泊まって」。 去年も今年も泊まるホテルはまさしく大英博物館近くのラッセル・スクエアにある。そう今年もロンドンへ脱出だぁ!この文章が収められているのは『会議』なのだけどこんな文章に胸が痛くなった。 「優柔不断のせいか、不精のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせとに折り合ってゆくので精一杯だ」
そしてこの短編集の中で最も面白かったのはものすごく短い SF 的な『疲れた男のユートピア』。 「われわれは、学校で懐疑と忘却術を教えられる。とりわけ、個人的、ならびに地方的なものを忘れる術です。われわれは、連続的な時間のなかにいきています。しかし、『永遠の相の下に』生きようとしているのです」(『永遠の相の下に』は古今東西最も美しいと勝手に思っているスピノザの『エチカ』を締めくくる概念です。)
「大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです」(書店員としても読者としても耳が痛い) 「あのなかにはガス室があります。なんでも、アードルフ・ヒトラーとかいう名の博愛主義者が発明したんだそうですよ」
ボルヘスはアルゼンチン生まれ。ヨーロッパ(ジュネーブ~マドリッド)へ渡り帰国。図書館館長を勤めた経歴からもわかるようにすごい博学。
マルカム・ブラドベリー 『超哲学者マンソンジュ氏』 平凡社 柴田元幸訳 91年(87年)
ちょうど僕が文学部哲学科に入学した頃日本ではニューアカデミズムという思潮が大ブームだった。京都人文研の浅田彰は『構造と力』『逃走論』で東京外大の中沢新一は『チベットのモーツァルト』で時代の寵児扱いされていた。彼らはその当時のフランスの思想家たちを紹介しポストモダンとして広めた。僕は自称『カミュの徒』だったのでフランス語を勉強したかったのだが大学の専門(講読)科目が英語とドイツ語ばかりだったのでドイツ語をとるしかなかったのだ。それゆえポストモダン思想に翻弄されることは最小限ですんだ。大学の教授達もだんまりを決め込み嵐の過ぎ去るのを待っていたのかもしれない。「○○以降は学問としては認められない」というアカデミズム特有の歴史観があるのかもしれない。とはいえやはり同時代のものも読まねばとデリダ、バルト、ドゥルーズなどを齧ったけれどさっぱり理解できなかった。今や部屋にあるのはロラン・バルト『恋愛のエクリチュール・断章』のみ。これは本当に素晴らしい本です。残りは全て古本屋行き。そんな時代に学生でその辺りの事情に詳しい人には最高で笑える本がこの『超哲学者マンソンジュ氏』です。非常に巧みに作り上げられた小説です。バルトの教えを受けデリダのディコンストラクション(脱構築)を実践した哲学者『マンソンジュ』の生涯を描いた伝記(小説)です。ソシュールの記号論から始まったとされる構造主義から順当に話は進められます。バルトの有名なキャッチコピー『作者の死』―絶対的な作者(こう読まねばならないとするいわば専制者)など存在しない。作者というのは資本主義が要請したものでしかない。書店が本を売りやすくするための記号。それを実践するためにマンソンジュはたった一冊の『文化行為としての性交』と云う本を発表してこつ然と姿を消す。そしてその著作にかんしても謎だらけなのだ。発行部数が少ない。そして困ったことに現存するテクストの中身が一冊一冊異なっているのだ。短いもので三十九ページ長いもので百十五ページ。内容的にもそれぞれの一冊がそれ自身に先行もしくは後発するヴァージョンの内容をたえず論駁しているのである!(笑い)それはデリダの脱構築をよりラジカルに実践したものだと。でもこんな文章があるのです。「事実、長いあいだ人々は、マンソンジュは存在しないと考えてきた―大方どこかの冗談好きのジャーナリストか、三文文士か、あるいはややこしいことを考えるのが好きな理論家かが、自分の都合ででっち上げた虚構の人物だろうと。だがこれもひとえに、マンソンジュの自己隠蔽がいかに巧妙であったかの証しにほかならない」この本の著者マルカム・ブラドベリはイギリスの作家・評論家・(最近うちの本屋で何故か良く売れている)カズオ・イシグロが学んだイースト・アングリア大学教授。ここから話はややこしくなるのだ。イースト・アングリア大学でかつて副総長であったフランク・シスルスウェイト教授からの手紙が掲載されている。「親愛なるマルカム、アンリ・マンソンジュに関する君の文章、とても楽しく読みました。小生も彼のことはよく覚えています」で始まり「彼がいなかったら、構造主義は違ったものになっていたはずだから」で終わる手紙なのだ。え?本当にいたの?悪のりにつきあっているの?そもそもこのシスルウィエト教授ているの?そしてとどめがパリ大学物語構造論教授ミシェル・タルデュのまえがき/あとがき。疑いの矛先はこの作者ブラドベリ自身に向けられているのだ。「私自身、彼が勤務するイースト・アングリア大学のキャンパスの壁に、こんな落書きを目撃している『神とマルカム・ブラドベリの違いは何か?神はあまねく遍在し、マルカム・ブラドベリはこの大学を除きあまねく遍在する』」シスルウェイト教授に対するの同じ疑問がここにも生じる。 もしマンソンジュが実在する人物だとしても「作者の死」を実践するために彼は姿をくらましているのだし もし彼が架空の人物なのだとしたら二人のこの手紙とまえがき/あとがきはナンセンスなものだということになる。どちらにしても巧妙に罠にはまったなという読後感です。
ジェイムズ・ジョイス 『ダブリナーズ』 新潮文庫 柳瀬尚紀訳 09年(14年)James Joyce (1882-1941)
まずは思い出話から。大学の般教の英語の授業で K 先生に習った『ダブリナーズ』を通じてジョイスを知ったのが15年前。大学四回生初めてバイトをした本屋さんで入荷したばかりの河出書房新社版『ユリシーズ』(丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳)を購入し悪戦苦闘。古本屋さんで『若き日の芸術家の肖像』『ダブリンの人々』『亡命者』などを収めた筑摩世界文学大系67 『ジョイス I 』を購入。初めて『ダブリナーズ』全体を読む。そして91年柳瀬訳『フィネガンズ』が大事件として登場。挫折そして処分。04年集英社版宮田恭子・編訳『抄訳フィネガンズ・ウェイク』を購入。そして河出書房新社版を再購入。先日の古書祭りで集英社版『ユリシーズ』を購入。
訳者解説によると「従来の邦題は『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリン人』『ダブリンの人々』などとされてきたが、訳者はあえて『ダブリナーズ』と改題してこの新訳を世に問うことにした」 「Londoner や Parisian が本のタイトルになっている」のに、「ダブリンを世界に提示した作家はいない」という手紙が残されているのだそうです。昔から何故かずっと英語タイトルでそれぞれ『ポートレイト』とか『ダブリナーズ』とか読んでいたので僕はあまり違和感を感じませんが、発表当時は不思議なニュアンスがあったのかもしれません。


筑摩書房版を読んだ時は『二人の伊達男』が面白いと思ったのですが今回の新訳を読んでみてかなり好みが変わっているのに気付きました。淡々とした美しさを持つ『エヴリン』。そして数多くの登場人物が産み出すごちゃごちゃした混乱からラストへと突き抜ける『死せるものたち』の美しさ。『ダブリナーズ』全体を読んでみてわかったこと。「ダブリンは実に狭い街だ。誰もが他人の余計なことまで知っている」(『下宿屋』)「だめだ。読めやしない。なにもできない。子供の泣きわめき声が鼓膜をつんざく。だめだ、だめだ!これじゃ終身刑の囚人だ」(『小さな雲』)「自分の人生も孤独なものとなっていき、ついには自分もまた、死んで、存在しなくなって、一つの思い出となる―もし思い出してくれる者がいるなら」(『痛ましい事故』)それだけがが理由じゃないんだろうけど「いつまでも面倒見られねえぞって言ったさな。自分で仕事見つけにゃだめだって。だけど、仕事見つけりゃなおさら悪い。全部飲んじまうってば」(『委員会室の蔦の日』)男が水代わりに酒を飲んでいる話が多い。

ジョイス 『若い芸術家の肖像』 講談社文庫 丸谷才一訳 79年(16)
以前筑摩世界文学大系67ジョイスの海老池俊訳で読んだ時にはピンと来ませんでした。歳月が過ぎそれなりにジョイスを読む基礎体力が付き読み直すととても興味深い内容が描かれていました。
政治的で宗教的であることが幼い時から要求されるアイルランドの状況の下主人公スティーヴンはカトリック系の学校へ進学します。そこで行われている不合理がいかに人を抑圧しているか。それはまるで恐怖政治であるかの様です。これでもかというくらい罪と地獄の恐ろしさとを叩き込めば人は罪の意識に苛まれおびえるのは当然でしょう。そして第三章から第四章まで延々と説教が続き読み手にまで息苦しさが増大するなかそこから解放される瞬間が訪れます。その瞬間本当に救われた気がしました。ジョイスがその後どうして宗教にたいして冒涜的な作品ばかりを手掛けるようになったのかここに理由があるような気がします。 「―信仰を失った、と言ったんだぜ、とスティーヴンは答えた。自分に対する尊敬を失ったわけじゃない。論理的で整然としている不条理を捨てて、非論理的で乱雑な不条理に就いたって、そんなこと、解放になんかなるものか」
政治的な文章にはこんなのがあります。「―ぼくの祖先たちは自分たちの国語を捨てて別の国語を身につけた、とスティーヴンが言った。彼らはたった一握りの外国人にやすやすと服従してしまった」この文章を読んでアーヴィン・ウェルシュの『トレスポ』を思い出した。アイルランドもスコットランドも英国に牛耳られた歴史ですから。
ところで『肖像』を読んでいて気付いたのは沢山の人物が登場するのですが必ずといえるかどうか怪しいですがまず誰だか知らない人がその場に現れその人を知る誰かが呼びかける時に初めてその人の名前が分かるという方法をとっていることです。原文がそうなのかわかりませんが。リアリズムなのでしょうか。
この主人公スティーヴンはその後『ユリシーズ』の副主人公として再び登場します。恒例の繋がり。冒頭を飾るのはオウィデイウス『変形譚』。

ジェイムズ・ジョイス 『ユリシーズ I II III』 集英社 丸谷才一・永川玲二・高松雄一 訳 96年97年(1914- 1921)

河出書房版の『ユリーズ』を手にとったのは大学四回生。河原町通りにあったふたば書房でバイトをしていた時に再発された。悪戦苦闘しながらなんとか読破。そしておそらくもう一度かなり歳をとってから読んだような気がしているのだが記憶違いかもしれない。この新訳はみやこめっせの古本市で購入した。 訳者3人は変わらないがそれでもかなりまだ読みやすくなっています。というのも各挿話の前に要約と解説が記述してあるのです。だからまだ自分が何をどこを読んでいるのか理解する手段になるのです。 読み出したのは2011年の6 月で読み終わったのは12月初頭。途中諸般の理由による長いブランクのためにこれほど時間がかかってしまいました。現在は集英社文庫に4冊もので入っています。 各挿話について語るすべも才能も生憎持ち合わせていないので(そういうのは研究者に任せれば良いと思います)気になったことをざっくり書きます。

文学史的には意識の流れ文学の系統。ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を下敷きに1904年6月16日ダブリンのたった一日を濃密に描いた小説。部屋にある原書では933頁に及ぶ。

丸谷才一編著の『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス 01年)からまずはこの書物の困難さを理解してもらいましょう。
英語を解する出版社あるいは印刷業者は数あるにしても、危険を冒してまでこれを本の形にしようと申し出る物は皆無であった。いや、かろうじて二人いた。パリで書店を経営するアメリカ女性(「シェイクスピア書店」シルヴィア・ビーチ)とディジョンに住むフランス語しか解しない印刷業者(モーリス・ダランチエール)」かくして二十世紀のおそらくは最高の傑作刊行はこの二人にゆだねられ、本書について発禁処置がとられた地域を除く世界各地に届けられることになったのである。英語を全く知らない印刷業者であるから万やむを得ずとはいうものの、『ユリシーズ』初版は誤植に富んでいる—「著者自身のテクストからの離脱箇所五千有余」とガーブラー氏は言う—それに加えて、英語圏の印刷業者たちによる改訂版なるものにしてもそれまでの誤植を除く一方で新たな誤植を生み出しているわけで、「現存する『ユリシーズ』本はいずれも平均して一頁に少なくとも七箇所の誤りがある」とのことだ。(アントニー・バージェス 大澤正佳人訳)
三巻目の帯にはアントニー・バージェスの言葉。『ユリシーズ』は持っているべき本、いっしょに暮すべき本だ。借りて読むのはいけない。
二巻目の帯にはヘミングウェイの言葉。『ユリシーズ』の力がすべてを変えぼくたちは制約から解放された。 じゃぁなにから解放されたんだろう。どんな制約から? いろんな疑問を挙げながら考えてみたい。

□どうしてこんなに登場人物が多いんだ?
大学生の時に読んだギリシャ神話や旧約聖書には沢山の人物が登場したのだけどその時味わった目眩に似たものを感じる。市井の人たちを主人公にした神話を書こうとする結果?ダブリンの一日を一応二人の主人公(22歳の文学志望の青年スティーヴンと新聞社の広告とりである38歳のユダヤ人ブルーム)を中心に出会った人たちを全て書き漏らさないように努めたんじゃないか?それを複数視点で描写。そりゃ邪魔くさいわな。
□勘違いも間違いも当然?
一人一人がちゃんとした真実に裏付けされた知識ばかりをもっているわけじゃないのは当然。ジョイス自身の勘違いもあるかもしれないしこいつは阿呆だから間違いさせてやれとジョイスが描写した人物もいるだろう。解放されたのはそういう客観的に真な事実を書かなくてはだめだというリアリズムなのかもしれない。例えば伊坂幸太郎の小説の最後に記してある参考文献とは真逆という方法。
□性的だったり人権的なモラルからの解放。
とにかく下ネタのめじろ押し。駄目でしょう、13挿話ナウシカアなど。帯にはこう要約されてます。 「少女は花火の下でスカートの奥を紳士に見せ、彼はそれを見ながら手淫する。これはナボコフ絶賛の章」 そして少女は足が悪かったりするのだ。他にも数えきれないくらいあった(SM まがいのポルノグラフィーも)。市井の人々の生活を描くにはあらゆることが行われ存在してているのだから書かなくちゃ駄目なんでしょう。
□妄想や幻覚も逐一書く。
男が子供を産んだり(昔読んだ時には全く理解不能でした)頭の中を通り過ぎた考えを余す所なく書く。件の少女も妄想に捕われていた。森見登美彦もジョイスがいなければ作家じゃなかった?
□文学論と無数の引用と下敷きサンプリングとパロディー
シェークスピア『ハムレット』が論じられる9挿話スキュレとカリュプディス。作品の中で別の作品を語ると言うのは今でこそ村上春樹等でお馴染みの手法だけど当時はそれぞれ独立したジャンルだったのかもしれない。『オデュッセイア』を下敷きにしていることは既に叩きましたが14挿話太陽神の牛では古代英語から現代の話し言葉まで使われているそうです。それを日本語に訳すため例えばデフォーは西鶴にディケンズは菊池寛に訳されているそうです。大変だ。しかし有効なんだろうか。そして教義問答風の17挿話イタケはばかばかしくておもしろい。
□(時間と)場所
10挿話さまよう岩々 19の断章からなっているそうで市内各所の市民が描かれる。ここでは俯瞰っぽい視点から綴られているのだけど面白かった。それまでは二人の中心人物がそれぞれ別々にほぼ同時進行?で物語が進行するのだけどここでは多数の市民。映画なら最初は大きなスクリーンに二つが並列されているだけなのにこの挿話ではどんどん増えていき数えきれない程小さな画面に分割されるだれるだろう。あるいは地図にミニチュアの人形を使って動かすとか将棋盤(向こうならチェス盤?)を使って再現してみるとか。しかし巧妙にジョイスのことだからトレースできないようになっていたりして。
□文法規則からの解放
最終章『ペネロペイア』からはアポストロフィーもカンマも消えた。原文はこんな感じ。

Yes because he never did a thing like that before as ask to get his breakfast in bed with a couple of eggs since the City Arms hotel when he used to be pretending to be laid up with a sick voice doing his highness to make himself interesting to that old faggot Mrs Riordan that he thought he had a great leg of and she never left us farthing all for massers for herself and her soul greatest miser ever was actually afraid to lay out 4d for her methylated spirit ...

さてこの文章は幾つの意味を持つ文章に分けれるでしょう?

河出書房版訳では
 そうよだってあさのしょくじをたまごをふたつつけてベッドのなかでたべたいなんてかれがいったことはシティーアームズホテルにいたころからずっといっぺんだってなかったことなんだもんあのころころかれはいつもびょうにんみたいなこえをだしてびょうきでひきこもってるみたいなふりをしててていしゅかんぱくであのしわくちゃのミセスリオーダンのおきにいりになろうとしてじぶんではずいぶんとりいってるともりだったのにあのばばあときたらみんなじぶんとじぶんのたましいのめいふくをいのるミサのためにきふしてあたしたちにはびたいちもんのこさないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4シリングつかうのにだってびくびくして.....

集英社版では多少読みやすくなって
 Yes朝の食じを卵を2つつけてベッドの中で食べたいなんて言ったことずっとなかったものシティーアームズホテルを引きはらってからは1ぺんだってあのころあの人は亭しゅ関しろでいつも病人みたいな声を出して病きで引きこもってるみたいなふりをしていっしょうけんめいあのしわくちゃなミセスリオーダンの気を引こうとして自ぶんではずいぶん取り入ってるつもりだったのにあのばばあと来たらみんな自ぶんと自ぶんのたましいのめいふくを祈るみさのため寄ふしてあたしたちにはなんにも残さないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4ペンスつかうのだってびくびくもので....

引用した原文が正しい所までとどいているのかどうかすらも怪しいけれどお赦しを。
spirit が二つの意味で使われているのに気付いた。今思い出したんだけどイーグルスの『ホテルカリフォルニア』の有名な歌詞にそういう用法あった。We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine . 酒と魂。よく使われる用法なんだろう。あとたしか Dog とGod もあったはずだ。ポール・オースターの『ガラスの街』 と『ティンプグトゥ』で見かけたからよく使う言い回しなんだろう。
□どうしてこんなに固有名詞だらけなのか?
とにかく多い。地名や実在した居酒屋、その当時実際にいた人物や歴史上の人物。流行歌など固有名詞のオンパレード。村上春樹(音楽や文学作品)や森見登美彦(京都ローカルな地名)やニック・ホーンビィ(音楽)等など皆ジョイスのおかげ?

11月18日寺町の10tで保坂和志の講演会があり質疑応答でそのことを尋ねてみた。「保坂さんの『カンバセイション・ピース』にビートルズの赤盤のことが書かれていたのですが固有名詞を使う際に何か考えておられることはありますか?たとえばジョイスの『ユリシーズ』にはいきなり居酒屋の名前が登場したりするわけですが読者はそこを知らなくて小説を理解したことにならないのですか?」(僕の念頭には当然村上春樹のことがあった)保坂の答えにかなりがっかりした。「あるからしかたがないんじゃない?」 保坂によれば「ジョイスは自分は偉大な作家で後に研究者がちまなこになってその人物や場所を特定するに違いないと考えていた節がある。」「京都に『10t』という古本とレコードを扱うお店があって、じゃなくていきなり『10t』と使う方が面白いと思う」と付言されていました。
1固有名詞を使うのは読者を限定するため(なのか?)
2作品中の全ての固有名詞を知っているのは作者だけ(じゃないのか?)
3その登場人物の世界観を手早く表す方法
4最初から読者ははじき出されている(のか?)
5固有名詞なしでも作品が成り立つのなら固有名詞は不要(なんじゃないか?)
6読者を限定するつもりがないのなら固有名詞なしでもいい(んじゃないか?)
7読者が知っていようがいるまいが作品が楽しめるのなら使わなくてもいい(ということにならないか?)
とりあえず頭の中を整理するために思い浮かんだことを書いた。 3と2 から結論付けられそうなのは 1かな。4は1の前に位置すべきか?そして5は6の否定?6と7は同じ意味?
確かに登場人物には名前という固有名詞が使われるがそれは任意の記号で良い。実在する固有名詞のことを問題にしているのです。ハルキストは作品が発表されるたびに使われた固有名詞を体験する会を開くらしい。ニック・ホーンビィも音楽ネタ満載だったりするのだけど知っていれば余計に笑えるのは確かなんだけど。例えば彼のサッカーのプレミアリーグを扱った『ぼくのプレミア・ライフ』は完全にアウトでした。あるいは1653年にロンドンで刊行されたアイザック・ウォルトン『釣魚大全』は魚の生態や釣り方を描いた本で全くアウト。そして極めつけは宮沢賢治。鉱石の名前頻出。具体的であればあるほど遠すぎて理解できない。そんなことを考える契機となった作品が僕にとっての『ユリシーズ』です。

長いブランクがあったにもかかわらずこんなに長文になってしまった。一冊読み終わるたびに何かを書いていたらどれほどの文字数になったのかこわい。保坂がよく書く「読書は読んでいる時だけの体験だ」というのはこの小説を読んでいる時に良く頭をよぎった

ジェイムズ・ジョイス 『フィネガンズ・ウェイク』 I II 河出書房新社 柳瀬尚紀訳 91年(39)
「輝ける帰還 井上ひさし
わたしは三人の翻訳家を知っていた。三人とも『フェイネガンズ・ウェイク』を日本語に移そうと志し、この言語の巨大な森へ、ことばの大迷路へ、ヨーロッパ数千年の全歴史を一夜の夢に圧縮した複雑怪奇な回路へ、分け入って行った。それから十年、一人はことばの重みに圧し潰されて神経を病み、一人は迷路の罠にかかって消息を絶った。だが柳瀬尚紀さんだけは、その恐ろしい森から、危険きわまりない迷路から、錯綜した夢の回路から、豊かな獲物をぶらさげて無事に帰還した」(小冊子より)
以前ロンドンでキング先生とお会いした際父の通訳で「ジョイスが好きです『ユリシーズ』や『フィネガンズ』も読みました」と伝えてもらったのですが先生は「Finnegans ? Unreadable !」と仰られたのが聞き取れました。英語圏の作家ですらそうなのです。何故わからんのかと考えた結果は身も蓋もない答えですが 5W 1H がないからだと思います。何時何処で誰が何をどの様にが抜け落ちているのです。夢だから当然か。 でも僕はかなり日常と地繋がりの夢を見ます。見知らぬ人はまず出てこない(有名人だったり職場の人だったりします)のです。言葉もノーマルなままです。しかし『フィネガンズ』は造語の嵐。当てこすりや下ネタなどがいきなりカットインしてきます。唯一わかった気になったのは次の引用。
初メニ創リ手ニシテ大イナル始祖ハ、命ヲ興ヘル萬能ノ大地ニ向ッテ恥ラヒモ謝リモナシニ雨具ヲ引キ上ゲテ同様ニ袴ヲ外シ、生マレタ儘ノ尻ヲ剥キ出シ、接近シテ行クヤ、ススリ泣キト呻キヲ漏ラシツツ、己ノ片手ノ中ニ排出シ(高度に散文的に言ふなら、片手に糞、失禮、)然ル後ニ、黒キ獣ノ重荷ヲ降ロシテ、喇叭ノ音モ高ラカニ、彼ガ己ノ粛清ト称スル糞便ヲ曾テ誉レアリシ嘆キノ器ノ中ニ安置シテ、同ジ場所ニ雨雫流及ビ豪雨樽ノ双子兄弟ノ刷新ノモオト愉シゲニ甘美ニ排尿シ、次ノ如ク始マル聖歌、我ガ舌ハ滑ラカニ書記スル筆ナリ、ヲ大声デ吟ジ(小便したり、と言ふ彼はしょげ返り、責任免除を請ふ、)最後ニ神聖ナルおりおんノユパリト混ジリタル汚糞ヲ、調理シ、寒気ニ晒シ、彼ハ己ノ為ニ払拭不能液ヲコシラヘタノデアッタ(オライアンの払拭不能インクである。)
言葉は分かりやすいでしょ?では何を言わんとしたのか?宮田恭子さんの抄訳の解説にはアリストテレスが芸術の目的をカタルシスという排泄を意味する言葉で論じたとある。たんなるスカトロではないということなのだけどはたして学者じゃない読者にそこまで要求する必要があるのか疑問です。お下劣さを単純に笑えばいいのじゃない?
ではここからは柳瀬訳のパズルを読み解いている最中笑ったパラグラフと『やり過ぎじゃないの』訳を抜き取ります。
家ー付き寝具だの、ワイルドなショオだの、粋人ぶったスっターン狂は、もう引っ込めろ!(P 256) (イエイツ、ワイルド、ショオ、スイフトはアイルランド生まれの作家。他にもこのパラグラフに作家名が組み込まれているようです)
ドア放。(P 333)だじゃれだよね。
大江に健筆を振るって三国一の郎子と呼ばれ、筒口を市井の康和に隆起せんと思ったものの(P 231)
森毅な遠山渓谷に神在りが無倍 ..... 貸馬車馭者さん、みんなおいでよ、河出庶望を支援してね(P 284) ヤナセーカクの尚奇先生!(P 303)筒井康隆と森毅は小冊子にコメントを寄せています。森及び遠山は数学者。河出書房新社はこの本を発行している出版社。柳瀬は訳者。
日清征粉の桶狭間においてはもうけの肯福 (P 312)
おのおのの小町にはおのおのの小マッチのきらめきがあり、おのおのの小マッチはおのおのにこまっちゃくれ、おのおのの小野小町はおのおのに手練手管を心得て(P 330)
原文にはないはずですよね。
ではかなり不穏な文章。 神ちゃまがいわれまちゅた、人よあれ!すると人が在りまちゅた。ほほほほ、オーモちろいこと!神ちゃまがいわれまちゅた、アダムよ在れ!するとアダムが在りまちゅた。はははは!(P 212) 他にも沢山あるのですが割愛。官能小説として読めそうな文章が多し。

職場ではジョイス『フェネガンズ』II に突入。大便と小便を混ぜ合わせて作った消えないインクの箇所も無事通過。心に余裕がある時は宮田恭子さんの抄訳を部屋で繰っています。理解するのは無理だけど、でも幾ページに一度なんとなく分かった気になる箇所がでてくると嬉しい。先日はブレンダ・マドクス『ジェイムズ・ジョイスの妻となった女 ノーラ』(集英社文庫)のフィネガンズの箇所を拾い読みしていた。ノーラはそれを「あなたが書いているあのごった煮」と言い放っていたり。精神を病んだ娘ルーチアをチューリッヒの診療所へ転院させるのだがそこのスタッフにあのユングがいたり。そこで一つの永遠の疑問に答えを出す。ジョイス自身が分裂病だったのではないか?あまりに奇矯な『フィネガンズ・ウェイク』の言語は、まさに「言葉のサラダ」―分裂病患者がつくりだす新しい言葉や私的言語を意味する術語―ではないのか。しかしユングの答えはノーだった。ジョイスと娘は、川底へむかって、一方は潜っていき、もう一方は沈んでいく人間同士なのだ。(P 449)そしてこの作品が生まれるのに尽力したのは(というのもジョイスはほぼ視力を失っていたのだ)ノーラやジョルジオ(長男)という家族だけではなくあのべケットも一役かっている。厄介なゲラを校正するという気も遠くなる作業。それもただ働き。

ジェイムズ・ジョイス 『フィネガンズ・ウエイク III IV』 河出書房新社 柳瀬尚紀訳 93年
とうとうパズルのように入り組んだフィネガンズ読み終わりました。一冊目に比べて大した厚さじゃなかったのですがかなり辛い読書でした。頭の疲労度はかなりのものでした。 『ユリシーズ』と安くプルーストの『失われた時を求めて』入手して読めば(抄訳じゃなく全訳)読書にこわいものはないはずです。エベレスト登頂を目指せば他の登山なんて軽いもんだろうという理屈です。
では名訳或は迷訳を抜き書きします。()内は読み方。
1(気風デイ見済)...... デイビッド合羽布衣流者(きっぷディケンズみ....かっぱふいるもの)
2 馬連タ韻の高走りの源逸ろう君だよ(バレンタインのたかはしりのげんいちろうぎみだよ)
3 果ら谷行人師(からたにこうじんし)
4 おお美空よファレて雲雀鳴く(おおミソラよファレてひばりなく)
5 金丸の金丸儲けを.....黒佐川 (かねまるのかねまるもうけ.... くろさがわ)
6 虎皮様騙が逆語歩きするときは(コヒサマダマシがさかごあるきすつときは)
7 尾蟠査公の奥方らしく、徐々に学位かくくも文芸の光栄選ル姫様として、しかしわしの危惧するに、その同じ名のあわれなおなごよ、見破るにせよ雅舞るにせよ、あんたは見当違いをしておる(おわだまさこうのおくがたらしく、じょじょにがくいかしくもぶんげいのこうエイエルビイさまとして、しかしわしのきぐするに、そのおなじなのあわれなおなごよ、みやぶるにせよみやぶるにせよ、あんたはけんとうちがいをしておる)
8 涅澄マス十字架を背負わされて。.... 酒飲み罷るまで!(クリスマスじゅうじかをせをわされて。... しゅのみまかるまで!)
9 大澤ぎも正佳かなとオファリ和やかになっちゃうでしょ。(おおさわぎもまさよしかなとオファリなごやかになっちゃうでしょ)
1チャールズ・ディケンズ『デビッド・コパフィールド』
2高橋源一郎は作家。小冊子に寄稿。競馬好きだから「馬連」=うまれんとなっているのでしょう。
3柄谷行人は文藝評論家。小冊子に寄稿。
4美空ひばりは昭和の大歌手。音が挟み込まれてます。
5この翻訳が出版された当時日本では佐川急便からのヤミ献金で金丸窮地へ。
6逆さに読むとシマダマサヒコ。作家。
7と8は危険!ちなみにカタカナ「エイエルビイ」はこの作品全体の主人公の一人ALP アナ・リヴィア・プルーラベル。旦那はHCE ハンフリー・チムデン・イアウィッカー。二人は居酒屋を営む。
9大澤正佳はジョイスを含むアイルランド文学の学者。そのあとの「オファリなごやか」は尾張名古屋なのだけどどういう関係があるのかわかりません。

それにしてもほんとにいまはいついつ時頃なのだ?然らばなん度時にわれらが生きておるかかを空間に詳述せよ。然り?(柳瀬訳) だが本当に今はいつの頃か。いかなる空間に何度われわれは生きているのか、詳細に説明せよ。よろしいか?(宮田訳) 前回の『フィネガンズ』で5W1H のWho とWhere が曖昧で全体が良く見通せないと叩きましたがここでは芝居という体裁で記述されているのでこのような表現が登場するのだそうです。
わしらはいったいどこに?して、空間の名においていつあたりに?わからない。見言ないもの。あなたもそうじゃないこと。
そしてこのあとカメラワークを意味する単語が登場します。「クローズアップ」「フィルム続行」「転換場面」そしてそこで演じられているのは子供を気にしながらのALP とHCE の夜の営み。そしてそれを記述しているのがベッドの柱になりすました四人の福音記者を思わせる老人だそうです。たしかに不埒。

詩的な美しい表現でラストを迎える。それは『ダブリナーズ』の『死せるものたち』を思い出させる。がちゃがちゃした混乱から突き抜けた静寂へ。
鴎が一羽。鴎たちが。とおくの声。やってくる、とおくからおとうさんが!ここで終わり。ではわたしたちを。フィン成ーれ、また!取って。あなたのやさしいくちづけを、わたしのわたしの思いでに!幾千の果てまでも。くちび。の鍵を。わたしの与!ずーっとおわりのいとしいえんえん(柳瀬訳)
鴎が一羽。鴎が数羽。遠い父の呼び声。行きます。父さん!これで最後。それからわたしたち。最後よ(フィン)ふたたび(アゲイン)!抱いて!あなたにそっと口づけを。水辺の思い出と未来のために!あなたとともに千年ののちまでも。ルプス。鍵を。さあ。行く手を独り最後に愛されて彼方へ(宮田訳)

O.S.T. Finnegans Wake _ LP _ 68
思い出せないくらい昔に名古屋のバナナで買ったサントラ。映画化しようなんて無謀すぎやしないか?T. ギリアムくらいしか出来んだろう。父が保管していたのだがこの夏に業者に大処分する寸前に抜き取った。しっかりと冒頭の「riverrun , past Eve And Adam's」から終わりの「A way a lone a last a loved a long the」まで、当然全文じゃないけど台詞が印刷されたライナー付き。ちなみに最後の the は最初の riverun に繋がっていて円環をなしてるそうな。怖くて未聴。当然映画もまだ観てない。DVD になっているのだろうか。そもそもビデオがあったのかどうかも怪しいな。
デヴィッド・ロッジ 『大英博物館が倒れる』 白水社 高儀進訳 92年(65年)
「子持ちの大学院生アダムは、今日もおんぼろスクーターに乗って大英博物館の閲覧室に出かけたが、次々と珍無類の事件に捲き込まれていく。性の悩みの悲喜劇を描く、ロッジ会心の出世作」(帯より) では恒例の繋がり重なりから。主人公が住んでいるのがバタシー発電所付近。ブライトンからロンドンへ戻る時に写真におさめる。交通渋滞でバイクが進まない原因を作ったのがビートルズ。
基本テーマはローマンカソリック故の避妊の問題です。(今回ロンドンで買ったモンティー・パイソンのレコードに大胆にも茶化した Every Sperm Is Sacred が収録されています)。偶然会った薬局で知り合いの神父は声を張り上げてこういうのです。「避妊は神から与えられた生命を殺すにほかならず、そのための忌わしき品を売る者は、麻薬患者に阿片を売る者と同罪なり!」
時々妄想に走るアダムは既に3人の子持ち。そしてまた?という危機が。彼は論文を書き上げるため閲覧室に毎日でかけているけれどいつ書き終わるのかメドがたってない。朝出かける前に嫁バーバラにパンツをきくと全て洗濯されている始末。仕方なく嫁のを履いて出かける(結果的には救ってくれるのですが)。おませな長女クレアがとどめを刺す。「服装倒錯者って頭が弱いんで女の人の服を着たがる気の毒な男の人だってお母さんが言ったわ」ドアを閉めようとすると中からクレアがバーバラに大英博物館にはほかにも服装倒錯者がいるのかどうか訊いている。大爆笑でした。
さてこの小説は様々な英国文学を緩用したり引用しながら進んでいきます。「人間の排泄作用はジョイスその他」(これは『フィネガンス』でしょう)そしてエピローグはバーバラの独白で『ユリシーズ』の手法と同じく句読点なし。漢字混じりから徐々に減り最後は完全にひらがなだけ。眠りに落ちていく様子なのでしょうか。

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』白水社 柴田元幸・斎藤兆史訳 97年(92年)
帯に書かれたこんな文章「ジェイン・オースティンからポール・オースターまで、古今の傑作を素材に小説味読の50のポイントを鮮やかに解明する。英米文学科学生にとっても座右の書」。そして大きいフォントで「小説愛好家・作家志望者必読!」手に取るよね。好きな作家D.ロッジだし。柴田元幸と斎藤斎藤兆史訳ってのは後に気づいた。ジョイス『ユリシーズ』サリンジャー『ライ麦畑』バース『びっくりハウス』あと数篇以外は、読んだことのない小説ばかりだが、コンパクトに引用されているし、項目も興味をそそる。しかしだな、へ〜こういう風に文学は読むんだと、その時は思うけれど、時間が経つと忘れてしまうんだよね(それはバルトの場合にも当てはまる)。しかし、頭に残る有益さもあって、こういう本を読むと当然、気になる作家と出会ったりするのだ。今回僕の頭のリストに追加されたのは、マーティン・エイミス!是非とも読みたい。そしてバーセルミ『帰れ、カリガリ博士』も読みたいな。立ち位置としては故丸谷才一に近いこの本。とっても刺激的だし、いろんな作家にも触れられる絶好の文学入門書だとも云えます。英米文学専攻学生だけの本にしておくのは、とってももったいない。ところでもし日本文学だけでこんな小説入門って可能なのだろうか?そりゃ古典は大丈夫だろうけど、現役作家の作品だったりすると、とたんに版権がどうのって問題が邪魔するんだろうな。いやあったか?あの高校の現国副読本(読まずに処分してしまったな)にはたしか、高橋源一郎の小説が!

デイヴィッド・ロッジ 考える・・・ 白水社 高儀進訳 01年
脳科学者が勤める大学の人文科学部に講師としてやってくる女性作家がそれぞれの立場で意識という問題を見つめ直す物語です。脳科学者の専門用語や女性作家が心酔する H.ウィリアムスの引用が多用されます。しかしそれはあくまでも物語を進めるための道具でしかありません。普通の不倫小説として読めばいいのではないかと思います。しかしそれだけではあんまりなので、少し考えたことを叩くつもりです。
脳科学者が携帯しているのは IC レコーダーです。これからのことを決意や予定したり、現在を把握したり、過去を思い出したりするさいに、必ず発語してその独り言を録音しているのです。一方女性作家は文学者だけあって、日記という古典的なメディアを使って、過去を記述するのです。両者は絶えず場所も時間的にも隔たっているのがポイントです。それに加えてある出来事で両者はそれぞれどのようにその事態を把捉したか。その差異も生じます。故にこの物語は時間軸も前後に行きつ戻りつしながら進みます。「その日記とIC レコーダーを交換しよう」と脳科学者が言い出しますが、さすがに作家は断ります。当然です。しかしラストの辺りで脳科学者は盗み見して大変な事実を知ってしまいます。さしずめ今なら携帯や PC のメールでしょう。倫理的に良いことがないのは当然。そして都合の良いことばかりを知る訳でもないのだから、どっちにしろアウトな訳です。

ところで全く関係ないのですが、始まってすぐのところで、脳科学者はアヒルとウサギの絵のことを喋っているのですが、それは英国らしく、ケンブリッジで教鞭をとっていた、L.ウィトゲンシュタイン『哲学探究』からの引用だと思います。デカルトをおちょくったような言明もしばしば登場します。 一方作家は生真面目に H. ウィリアムス『鳩の翼』からの冒頭の一節だけの引用するのですが、これが全く理解不能!意識の流れ文学と呼ばれているそうですが、機会があれば挑戦してみたい。大変面白かったのは脳科学者からヒントを得て、生徒たちに『蝙蝠であるのはどんなふうか?』という課題を、文体模写を使って書かせます。読んだことのある作家は A.ウエルシュだけでしたが、秀逸で、笑いました。ベケット風もなかなかのもの。こういう課題を与えられて生徒たちが創作を学んでいくのはフィクションなのでしょうか。角田光代や綿矢りさが学んだ早稲田でも同じような授業があるのでしょうか。
読んでいて、正直のところ途中だれましたが、ラスト近くの怒濤の展開はこの冗長さのおかげでなのかもしれません。
ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』河出書房新社 大久保康雄訳 62年(55年)
発禁になるくらいのやばさてのが読む前の先入観。題材が題材だもんな。しかしJ.ジョイスの『ユリシーズ』だってそうだったんだし、時代とともに変わるのが価値観というものでしょう?
例えば『カラマーゾフの兄弟』。父親殺しを含めて殺人事件が沢山起きます。(そうでもなかったかな?あまりにも昔の記憶なものでお許しいただきたい)。小説内(フィクション)での出来事とはいえ、でっち上げだとは思わない。それは複数の登場人物が居て真相を探ろうとするから。例えば『冷血』。T.カポーティーがこの事件そのものをでっち上げたとは読者はだれも思いません。真相究明がモチーフとなってるから。
だがしかし!『ロリータ』は「本当に」(この言葉がくせ者だな)あったことなんだろうかと途中から思わずにはいられなくなる。全てハンバート・ハンバートの妄想なんじゃないかと、つまり頭の中での出来事。ハンバートは気が狂れているんじゃないか?そうすると『ロリータ』なんて女の子はそもそも居なかったのかも知れないというところまで懐疑の矛先が向かってしまう。
「本当に」てのは小説内でも肝心要なところでこれが疑われると小説自体が破壊される。「吾輩は猫である」という歴然とした嘘でも本当として読むわけです。そんなことはなかったって全てを否定しながら小説を読むことなんて出来やしない。嘘を承知で読み進むのです。しかしこの『ロリータ』ではその懐疑の手に落ちてしまった。そう云った意味でも相当『やばい』作品でありつづけていることは間違いありません。
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』みすず書房 柴田元幸 00年(85年)
これまた大当たり!流石柴田さん、はずれなし。後書きに「絶対誰も読まないだろうという確信の元に、小説など書くのはこれが最初で最後だと思って、とことん自由に、自分の知っていることを片っ端からつぎ込んで書いたという」。写真論、小説論、あるいは量子力学?歴史小説、伝記小説。ほんとてんこ盛りです。まぁこの作品は日本でも当時相当話題になったみたいで様々な方が様々に論評されていることと思うので何も書くことはないのですが、少し考えてみました。サラ・ベルナールやフォード等の実在する歴史上の人物が登場します。それは縦軸。そして地理上の移動。横軸です。表紙の写真はカメラの向こう側のだれを見ているのか?R. パワーズは未来に生きる貴方。つまり僕にだと。つまり時間的隔たりも空間的隔たりも無効にするのが写真なのだと、語っているように思いました。それは複製芸術としての写真に限った話じゃなくて、レコードや本といった大量生産されるもの全てに当てはまるんじゃないかとは、僕の結論。
J.D. サリンジャー 『ナイン・ストーリーズ』 新潮文庫 野崎孝訳 74年(53年)
「ベージュ色のギャバジンのダブルの背広(わたしがとても得意に思っていた奴)にネーヴィー・ブルーのフラノのワイシャツ、真っ黄色のコットンのネクタイに茶と白のコンビの靴、それに(実はボビーの物でわたしには少々小さすぎる)パナマ帽をかぶり」これは村上春樹が書いたのじゃありません。
『ナイン・ストリーズ』はサリンジャーが発表した二十九編の短篇から九編を選び発表順に纏めた短篇集だそうです。読み終えた後に残ったのはなんだかとても後味悪いものばかりだなぁという感想です。あえてそういう短篇ばかりを書いていたのかあるいは選んだのかはわかりませんがけっして「おしゃれアイテム」じゃありません。「バナナフィッシュにうってつけの日」と「テディ」という不穏なタイプの短篇がしっかりと残りの七編を挟み込んでいるのもその理由ですが他の短篇もあえて神経を逆なでするような内容なのです。それは酔っ払いや女の相手の存在を全く考慮しない会話だったりするのです。
そんななかで唯一救われたのが「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」です。ここではちゃんと人らしい交流が描かれていて―それは少女エズミと若い軍人さんクレーとの会話で場所はロンドンの喫茶店。少女は会話を切り出す。「アメリカの人は、お茶を、軽蔑なさると思ってましたわ」その少女が次々とくり出す子供とは思えない発言に若い軍人さんも大人の対応を見せる。そして少女はフランス語でお別れを言って去っていく。しかしまた不快な人間関係に戻され個人の時間と自由とがはく奪される。ふと目に止まったのはエズミからのお手紙。彼女はクレーが物書きであることを知って「汚辱的で感動的な作品」を書いて送って下さいとリクエストしていた。自分の住所を知らせるため少女の方からよこされた手紙。それから6年後彼女から結婚式の招待状がイギリスからアメリカへ届く。都合悪く行けないのだけど。

J.D. サリンジャー 『フラニーとゾーイー』 新潮文庫 野崎孝訳 76年(55, 57年)
本当に最高でした。でもこの作品をより楽しむためには『ナイン・ストーリーズ』を読んでいたほうが良いかな。というのは冒頭の『バナナフィッシュにうってつけの日』でこめかみを打ち抜いて自殺するシーモアから始まるグラース家の末っ子二人がフラニーとゾーイーなのです。女子大生フラニーは彼氏に折角会いに来たにもかかわらずとにかく全てに咬みつき台無しにしてしまう。彼女はおそらくなにも食べてなかったせいで気を失う。心配する彼氏をよそに彼女はある一冊の宗教本で得た行動を実践しながら『フラニー』は終わる。
そして『ゾーイー』が続くのですがよく分からない始まり方なんだな。書いているのが次男で世捨て人のような(電話なし!)大学の非常勤講師バディーなのです。読みながら戸惑っているうちにフラニーが倒れた数日後、役者ゾーイーが一方的に母に向かって喋りまくる。言葉の洪水に笑ってしまいます。フラニーはずっとチーズバーガーとコークで暮らしていた、と母が言うとゾーイーは「あんたは、単純率直かつ頑固一徹に探りを入れて、新約聖書全体に流れていながらこれまで気づかれなかった主調音を探りあてたんだよ。なるほど、食い物が間違っていたのか!キリストはチーズバーガーとコークで生きてたんだ。おそらくキリストは一般大衆にも―」そしてゾーイーはフラ二ーの寝ている場所へ行きエゴという問題にとらわれたフラ二ー(かつて長男シーモアのものだった一冊の宗教本のせいで同じ道を選んでしまうんじゃないかと心配し真剣で的確な言葉を紡ぎながら)「この宇宙は神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最後的決定権をもってるんだ」
電話をかけてきたのは次男バディーの振りをしたゾーイー。聞き手に徹し優しい言葉を紡ぐ。途中でばれるけれどね。
恒例の繋がり。またまたディケンズが訳注というかたちで登場。

J.D.サリンンジャー 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』 新潮文庫 野崎孝・井上謙治訳 80年(63年)
『ナインストーリーズ』に所収されている『バナナフィッシュにうってつけの日』で新婚旅行先で謎の自殺を遂げてしまうシーモアのお話2篇です。 いやぁ最高ですよ。特に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』!あまりにも滑稽でバカ笑いすることひっきりなし。シーモアは結婚式の当日いきなり失踪。グラース家から出席したのは次男のバディー。向かっ腹を立てているミュリエル側の親戚一同のハイヤーにバディーは何の因果か同乗させられてしまうんだな。こりゃやばいと自分の正体がばれないようにしてるんだけどその中の介添夫人が最初から知ってたんだと。しかも最悪なことにハイヤーはパレードのために立ち往生。遅々としてすすまない。針のむしろが続く。そんな同乗者の中に小柄な老人がいるんだけど最高で。 「お耳もお口もだめなの―つんぼで唖でいらっしゃるの!ミュリエルのお父様のおじさんですわ!」 車を諦め電話と涼しさを求めて『シュラフツ』(ところで何屋さん?)歩くものの模様替えのため閉まっていてしかたなくグラーク家のアパートへ向かうのでした。
そしてもう一つの『シーモア―序章―』ですが大学講師で作家の次男バディーがシーモアについて語るのですが。。。脱線につぐ脱線。いきなり独り言がカットインしたり(だめだ、だめだ、わたしはもう筆が止まらない。今の「状態」では、どうやらわたしは、もはや詩人としての兄の立場を主張しているだけではないようだ)
シーモアの韻文についての言及についてかなり長い引用になってしまうことを許してもらいたいのだが。(これは桝井の謝罪。) 「わたしは幼い頃から三十代をかなり過ぎるまで、一日に少なくとも二十万語は読んでいたし、しばしば四十万語近くということもあったのである。四十歳になって、はっきり言えることは、ほとんど書物への飢えを感じなくなり、若い淑女や私自身の作文に目を通す必要がないときは、だいたいにおいて身内から来る辛辣なはがきや種苗のカタログや野鳥観察者の会報(いろいろあるが)や、わたしが一年の半分を仏教寺院で過ごし、残る半分を精神病院で過ごすというデマをどこかで聞いてきた昔からの読者がよこす痛烈な「お未見舞」しか読まないことにしている。しかし、読書をしない人間の誇りは―あるいはその点について言えば、本の消費を非常に切りつめた人間の誇りは―ある種のたいへんな多読家の誇りよりも嫌味なものだということを、わたしも充分心得ているし、それだからわたしはそもそも初めから持っているなにがしかの文学的自負を失うまいとしてきたのだ(これは本気で言っているつもりだ)。その中で一番はっきりしている自負は、詩人なり散文作家なりが、直接経験から、あるいは二番、あるいは十番せんじの経験から書いているのか、あるいは自分ではまったくの独創と思いたいものを読者に押しつけようとしているのか、いつもわたしには見分けられるということである」
全てこんなとっちらかった感じに終始するんだよ。 「シーモアについての文章を書き終えるにあたって―どんなつたない文章にもせよ、また絶えずシーモアと一緒に主人公になりたがるわたしのエゴが、随所に顔を出すとは言え―何が善で、何が真実かを意識しないわけにはいかない」 だからこれは序章なんだし「一晩のうちにこれだけ書けばもう充分だ。わたしはすっかり疲れた」みたいな独白がいきなりカットインする日記ですらある。シーモアの周囲を固めつつ実像に迫ろうなんて気はさらさらないようです。
カート・ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』 サンリオ文庫 飛田茂雄訳 84年
ずっと気になっていた作家ヴォネガットを初めて手にとりました。日本初の女性(ニューウェイヴ)ロックバンド『ゼルダ』に『スローターハウス』って曲があり京都に同名の中古レコ屋がかつてあって足繁く通ってましたがそれがヴォネガットの作品だと知るのは女性月刊誌『クレア』94年2月号での室井滋『死ぬ前にもう一度見たい!100本の映画』にランクインしていたことからです。爆笑問題太田の推薦コメントを文庫の帯でよく見るようになりました。事務所の名前『タイタン』っていうのもヴォネガットのタイトルであることから好きなんだなって分かりますね。さてこの『ヴォネガット、大いに語る』というタイトルは訳としてどうなんだというコメントが以前何かの雑誌で読みましたが(センスがないにしても)内容からいって間違いじゃないのです。いろん場所へ行って講演したりインタビューに答えたりしたものを纏めたものなのです。とても気に入ったのは『ペニントン大学1970年度卒業式における演説』です。「科学的真理はわたしたちをとても幸せで安楽にしてくれるはずでした。二十一歳になったとき現実に起こったのは、アメリカがヒロシマに科学的真理を落としたということです」そしてシェークスピアから引用をしつつ議論はこういう方向に進みます。「もし政府が科学に費やしていたお金を取りもどして、占星術や手相判断に注ぎこんでくれたら、わたしたちはずっと安全になるでしょう。」「いまや迷信のうちにのみ希望があります。もしみなさんが文明の味方になりたいのなら、どうか真理に敵対し、罪のないたわごとを熱愛していただきたい」「占星術と手相術ですが、どちらも人々をいきいきさせ、可能性で満たすという点で結構なものです。それらは最上の形のコミュニズムです。だれにでも誕生日があり、ほとんどあらゆる人に手のひらがあります」そして二つの欺瞞ー科学が宗教をもはや骨董品にしてしまったという考えとあなたがた世代の人間こそこの世界を救うべきだという考えーに対してこうしめます。「年相応に陽気なばか騒ぎをおやりなさい」そして「みなさんがほんとうにこの世界を救うべきとき、みなさんが多少の力と行動の知恵とを獲得なさったとき、もはや人々がみなさんの若さをからかわなくなったとき、みなさんは社会主義的な形の政治を築くよう努力していただきたい。自由企業というやつは、老人や病人や、内気な人や貧しい人、頭の鈍い人やだれからもすかれない人に対して、あまりにもつらくあたります。こういう人たちは、自由企業のもとでは望みを遂げられないのです。彼らには、そう、たとえばネルソン・ロックフェラーがふんだんに持っているものが欠けているのです。ですから、富をこれまでよりもっと公平に分配しましょう。だれもが十分に食べられ、ちゃんと住む家を持ち、必要な医療を受けられるよう保証しましょう」もうすぐ40年を迎えようとしているメッセージですがそのまま今日でも胸に響く言説だと思います。この他にも「若者はなぜヘッセを読むのか」などを収録。この文庫はカルト的人気のサンリオ文庫ですが現在は早川文庫 SF 部門に収められ入手可。
L. ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』(法政大学出版局 坂井秀寿訳 68年)Ludwig Wittgenstein ( 1889-1951)
熱くなった頭を冷ますために窓の外を眺めるとレンガ作りの校舎に日が当たっていた。ということは大学二回生のこととなる。どうして一人で読んでいたんだろう。授業と授業の間かそれとも休講だったのか放課後だったのか、既に20年以上も経っていて記憶は不鮮明だ。そもそもどういう経緯でヴィトゲンシュタインを知ったのかも曖昧だ。おそらく大学のカリキュラムでその名前を知り全く知らない哲学者にあせりのような義務感を覚えたのだろう。全く歯がたたなかった。当然である。三回生の時に記号論理学の入門書を買い込み勉強した。その直後に読んでいたなら理解の幅も広がったに違いない。

卒業後暫くして、ちくま新書『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均 95年)を読んだのだと思う。発売と同時に買ったのだとすれば彦根の書店時代だ。電車の中で読み切り(ということは彦根〜京都移動中?)思わず「かっこいい!」と声を出してしまった。そして『色彩について』(新書館 中村昇・瀬嶋貞徳訳 97年)を(四日市か?彦根か?)読んだ(はず)。そして月日は流れちくま学芸文庫版『論考』(中平浩司訳 05年)、2010年下鴨神社の納涼古本祭りで大修館書店の全集に収められた『哲学探究』の全訳を読む。しかしその間もかなりの頻度でウィトゲンシュタインの名前に遭遇していた。それは柴田元幸『愛の見切り発車』(新潮社 97年)でありカフカの同名小品を下敷きにしたガイ・ダヴェンポートの『ブレシアの飛行機』(晶文社『紙の空から』所収 柴田元幸編訳 06年)でありジョン・L ・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』(新潮社 藤原正彦・美子訳 98年)であり高橋源一郎である。 というわけで改めて再読する。『新・読書の快楽 ブックガイド・ベスト500』(角川文庫 ぼくらはカルチャー探偵団編 89年)所収の『思想書 ベスト56 小林康夫選』にはこう記されている。「初めから一貫して読むのがよいとは限らず、気に入った命題で立ち止まって考えてみるのがいい」

『世界は、論理的空間における事実の総和である』
1 世界は、成立していることがらの全体である。
1.1 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。
1.11 世界はもろもろの事実によって規定されている。さらにそれらが事実のすべてであることによって規定されている。
1.12 なぜなら、事実の全体は、いかなることがらが成立しているかを規定し、そしてまた、いかなることがらが成立していないかということのすべてをも、規定するから。
1.13 論理的空間の中にある事実が世界である。
1.2 世界は事実へと解体する。
1.21 どのことがらも、成立することができ、あるいは成立しないことができる。そしてその余のことがらは、すべて同じままでありうる。
鋭利な刃物のような切れ味。断定が気持ちいいのだ。 ちくま学芸文庫版の付記に興味深い考察がある。
1 算数世界とは例えば2+3=5 のごとき一切である。
1.1 算数世界は式の総体であって、数の総体ではない。
1.11 算数世界は式によって規定されており、また、一切は式である、ということによって規定されている。
1.12 なぜならば、式の総体が2+3=5のごときことを規定し、またすべて+−×÷のごときことをも規定するからである。
1.13 論理の枠内に置かれた式が算数世界である。
1.2 算数世界は砕け散って2+3=5のごとき式となる。
1.21 いかなる記号系列も式か式でないかであり、残りのすべては算数世界と関わりない。
途中かなり複雑な手続き(記号論理学に言及している部分)に読むのも骨が折れるのだがこの辺りからなんとなく理解できるような論述が始まる。

『言語の限界』 5.6 わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。
『独我論』 「形而上学的主観」 5.621 世界と生とは一である。
5.631 思考し表象する主体なるものは存在しない。「わたくしの見いだした世界について」という表題のもとに、わたくしが一冊の書物を著したとしよう。その書物は、わたくしの肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないかについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体である。 
5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。
5.633 世界のどこに、形而上学的な主体が認められるのか。君は、眼と視野との関係とまったく同じ関係が、ここになりたつという。しかし君は、自分の眼を実際に見ているわけではない。そして視野のうちにあるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。
『帰納と自然法則』 6.363 われわれの経験と調和しうるもっとも単純な法則の存在を認めるところに、帰納の手続きなりたつ。
6.3631 しかしこの手続きは論理的な根拠にもとづくものではない。それはたんに心理的な根拠にゆらいする。最も単純な出来ごとがこれからも実際におこるだろうと予想するいわれはない。これは明らかだ。
6.36311 太陽が明日も昇るであろうことは一つの仮定である。すなわち、太陽が将来も昇かどうか、われわれは知らない。
6.37 ある事件が起こったからといって、それにともない別のある事件が起こらなければならぬ筋合いはない。必然性は論理的な必然性にかぎられる。
6.371 いわゆる自然法則は自然現象を解明するかのごとき錯覚が、今日の世界観全般の根底にある。
『世界はわたくしの意志から独立に存在する』 6.373 世界はわたくしの意志から独立している。
6.374 たとえ、われわれの望むすべてが生起したにせよ、それはいうなれば天佑にすぎない。意志と世界との間には、それを保証するいかなる論理的関係も存在しないからである。ともあれ、快適な自然の連鎖を、われわれ自身望むべくもない。
『死と不死』 6.431 同様に、死にさいしても、世界は変化せず、終熄する。
6.4311 死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように。
6.4312 人間の魂の時間的な不死、いいかえれば、魂が死後も永遠に存続するということ、これにはどんな保証もないし、それどころかこれを仮定したところで、ひとがそこに託した希望はけっして満たされない。そもそも、わたくしが永遠に生き続けることによって、謎が解けるというのか。そのとき、この永遠の生命もまた、現在の生命とひとしく、謎と化さぬか。時間・空間のうちに生きる生の謎の解決は、時間・空間のかなたに求められるのだ(げに、解かれねばならぬ問いは、自然科学のそれではない)。
『神秘的なるもの』 6.432 世界がいかにあるか、ということは、より高次の存在にとっては、全くどうでもよいことだ。神は世界の中に顕われない。
6.4321 事実はすべて問題を課するのみで、解答を与えぬ。
6.44 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ
6.45 「永遠の相のもとに」世界を直感するとは、世界をーかぎられたー全体として直感することにほかならない。かぎられた全体としての世界にいだく感情、これこそ神秘的なものだ。
6.5 いい表すすべのない答えに対しては、また、問いをいい表すすべを知らぬ。「これが謎だ」といえるものは存在しない。そもそも、ある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることも可能である。
6.51 懐疑論は論駁不可能なのではない。というより、問うことのできぬところに疑いをはさもうとするゆえに、それはまぎれもなくナンセンスなのである。なぜなら、疑いがなりたちうるのは、問いがなりたつときにかぎり、問いがなりたつのは、答えがなりたつときにかぎり、答えがなりたつのは、なにごとかを語りうるときにかぎるから。
6.52 科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたそしてもなお、人生の問題はいささかも片付かないことをわれわれは感じている。もちろんそのとき、すでにいかなる問いも残っていない。まさにこれこそが解答なのだ。
『哲学の正しい方法 『論理哲学論考』はいかに理解されねばならぬか』 哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外なにも語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。ーそして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はそのひとの意にそわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。
7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

分かったような気になる命題を引用したらこんなに長くなってしまった。これでもかなり省略したんだけど。そして引用が多くそして長くなるのは興味深い命題を引用するにはその前後の命題も引用しないと理解できないように組み立てられているのだ。文の前の小数点を含む数字はこれを表している。つまり注なのだ。無視してはいけないと分かっているのだが、夢中で読んでいるとかなりすっとばしている。そして『神秘的なるもの』を読むと保坂の世界観(文学観)にかなり影響を与えているような気がする。ただ保坂は語ろうとしているのだが。 哲学史的に『論考』のエッセンスは「言語を世界を写しとる絵画」つまり『写像理論』にあることになっている。この引用で締めくくりたい。
『映像としての命題』 4.011 一見したところ、命題はー紙に印刷されている場合などーそれがあつかう実在の映像とは思えない。しかし、楽譜も一見音楽の映像とは思われず、われわれの音標文字(アルファベット)も話し言葉の映像とは思われない。それでも、これらの記号言語は、普通の意味においても、それが表現しているものの映像であることがわかる。
4.014 レコード盤、楽想、楽譜、音波。これらすべてはたがいに、言語と世界との間に成立する、かの模写の内的関係にある。論理的な構造が、これらすべてに共通する(童話に登場する二人の若者とその二匹の馬と百合の花のように。かれらすべては、ある意味で一身同体なのだ)。
4.0141 音楽家が総譜から交響曲を引きだし、人々がレコード盤の溝から交響曲を引きだすことができるための普遍的な規則があり、さらにその最初の規則にしたがって交響曲から総譜をふたたび推測することができる、まさにこの点に、一見はなはだ異なるこれらの形象の内的類似性が存在する。そしてかの規則は、交響曲を音符の言語に投影する、投影の法則にほかならない。それは、音符の言語をレコード盤の言語に翻訳する規則なのだ。

ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン『青色本』(ちくま学芸文庫 大森荘蔵訳 10年)
帯にはこう記されている。「語の意味とは何か—もっとも読みやすいウィトゲンシュタイン」 これが「読みやすい」とされているのはケンブリッジでの講義録だという理由からなのだろうか。じゃぁ本当に理解しやすいのか?当然否だ。授業とはいえケンブリッジの学生相手だ。その学生ですら理解できずにいたようである。
「語の意味とは何か」答えは「意味はない。使い方があるだけだ」になるのだろうか。そんな風に理解していたのだが野矢茂樹の解説を見ると誤読だと。まいったな。
気になった箇所を引用してみる。 アウグスティヌスの有名な時間論を引きながら(過去はもうない。未来はまだない。現在には幅がない。だったかな?)「またなぜ人は、ただ時間に定義がないことに困惑して、「椅子」の定義がないことには困惑しないのか」「我々を困惑させているのは「時間」という語の文法なのである。ただその困惑を表現するのに、「・・・・・・とは何か」といういささか誤解を招く問を立てているのだ。この間は、すっきりしない気持ち、心のもやもやを表現しているのであって、子供がしょっ中きく「なぜ」の問に類するものである。この子供の問もまた心のもやもやの表現であって、必ずしも原因なり理由なりを尋ねているのではない」

ここでいきなり脱線。昔のテレビアニメ「一休さん」に『どしてぼうや』という、何を云っても「どうして?」と聞き一休さんも含め大人達を大変困らせるキャラクターがいた。 いつも負けてばかりいる将軍様(義満?)が一休さんを困らせるためにご家人衆を集めてこんな作戦をたてる。何をいわれても「どうして」と尋ねる。流石の一休さんも困るだろうと。 で新左衛門?さんが一休さんにその作戦をもらす。で一休さんがとった方法が最高だったのだ。
一回目「わたしが何をここでお話しするために来たのかご存じですか?」ーいや誰も知りませんー「何を話すのか全く分からない人たちに向かって話しても無駄なので帰ります」ーやられたぁ
二回目「ようやくお分かりいただいたようですね」ーはいみんな分かっていますー「全てわかっているみなさんには何もお話しすることはありません。帰らせてもらいます」ーまたやられたぁ
三回目「どうなりましたか」ー分かっている人も分かってない人もいますー「では分かっている人が分かってない人に教えてあげて下さい」

「哲学で我々は日常言語に対立する理想的言語を考察する、と言うのはいけない。そう言うと、我々が日常言語を改良できるとでも思っているようにみえるからである。日常言語はちゃんとしている」
「ここで、レコードの存在と曲(自体)の存在とを混同するのに似た誤りが犯されていはしないか。曲が存在(の場)に登場するには、或る種の(心的)レコードがなくてはならず、曲はそれから演奏されるのだ、と思いこまれていはすまいか」
「我々を取り囲む(外的)対象と我々の(内的な)個人的経験との関係を考える時、時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実が作られていると言いたくなる。(中略)こうした考えでは、我々の周囲の対象に対する確固とした保持が失われ、代わりに、人それぞれのばらばらになった多くの個人的経験だけが残るように思われる。そしてこの個人的経験自体もまた定かならず、絶えざる流動のうちにあるようにみえる。我々の言語はそのような個人的経験を描写するように作られていないようにみえる。そこで、この事態を哲学的に明らかにするには日常言語は余りに粗すぎ、それより微妙な言語が必要だ、と考えるようになる」
「通俗科学者の語るところによれば、我々の立っている床は常識には堅固に見えるが実はそうでなく、その材は殆ど真空といってよい程稀薄にちらばった微粒子からできているのがわかった、と。これは我々を面くらわせやすい。或る意味では我々はもちろん床が堅固なことを知っているし、それが堅固でないとすれば材木が腐っているからということはあるが、それが電子等からできているためだなどということではないことも知っているからである。それが電子等からできているという理由で床は堅固でないと言うのは言葉の誤用である。かりに、その微粒子が砂粒位大きくまた砂山の砂程度につまっているとしても、砂山が砂でできているという同じ意味で床が微粒子でできているならば、床は堅固ではないだろうからである。我々が面くらったのはそれを誤解してここに、ぽつぽつ微粒子が散在する画像を当てはめたためである。(それどころか、逆に)物質構造のこの画像はもともとこの堅固さという現象を説明するためのものだったのである」
「我々の知るものごとすべてを眺めて、この世界は個人的経験の上にたてられていると言えるとすると、我々の知識はその価値、信頼性、堅固さの多くを失うように思える。すべては「主観的」だと言いたくなる。或る意見を単に主観的であり、趣味の問題だと言う時のような、見下す意味で主観的だ、と」
「例えば、彼が「私の痛みだけが本当の痛みだ」と言うとすると、この文は彼以外の人間はみな痛むふりをしている、という(経験命題を)意味することもできる。また、「誰も見ていないときこの木は存在しない」とは、「その木に背を向けると、その木は消失する」という(経験的内容を)意味することもできる」
「哲学的問題には常識に依る答えはないのである。哲学者の攻撃から常識を守る道は彼らの困惑を解決してやることしかない。つまり、常識を攻撃したい誘惑から彼等を癒してやることであって、常識の見解を繰り返すことではない。哲学者は正気をなくした男ではない、誰もに見えることが見えない男ではない」
「真の私は私の体の中に住んでいるというこの考えは、「私」という語の特異な文法ならびに、この文法がひき起こしがちな誤解に結びついている。「私」(又は「私の」)という語の用法には二つの違ったものがあり、「客観としての用法」、「主観としての用法」、ともよべるものがある。第一の種類の用法の例としては、「私の腕は折れている」「私は六インチ伸びた」「私の額にはこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」、等。第二の種類の例は、「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕を上げようとする」「雨がくると私は思う」「私は歯が痛い」、等。次のように言うことで、二つのカテゴリー間の相違を示すこともできる。第一のカテゴリーの場合は特定の人間の認知が入っており、したがって誤りの可能性がある、というよりむしろ、誤りの可能性が用意されていると私は言いたい(中略)それに対して、私は歯が痛いという時には人間の認知は問題にならない。(中略)「私は歯が痛い」という言明をするとき誰かを私と間違えることが不可能なのは、誰かを私と間違えてその痛みにうめくのが不可能なのと同じである」
「「私」という語は、たとえ私が L.W であったにせよ、「L.W」と同じことを意味しないし、「今話している人」という表現と同じことを意味するものでもない。しかしそれは、「L.W」と「私」は別々のことを意味する、ということではない。ただ、この二つの語は我々の言語において異なった(働きをする)道具だ、ということだけである」
「命題、「私は痛い」と「彼が痛い」の違いは、「L.W が痛い」と「スミスが痛い」との違いではない。むしろ、うめくことと誰かがうめいていると言うこととの違いに対応するものだ」
「表現の意味はその表現を我々がどう使ってゆくかに全くかかっている。意味を、心が事物と語との間に 設定する神秘的な結合のように思わないようにしよう。また、樹木の種がその木を中に含んでいると言えば言えるように、この結合が一つの語の使用全部を含んでいると思わないようにしよう。痛みを感じ、また見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、「私は痛みを感じる」の中の「私」は或る特定の体を指示していない、ということだけである。「私」に体の或る記述を代入することはできないからである」 ということで要約にはまったくなってないが数多くの引用をさせてもらった。要する「私」という語が哲学史上いかに混乱した使い方をされてきたのか、ということがこの時期のウィトゲンシュタインの講義のテーマだったと言える。

野矢茂樹による「解説「青色本」の使い方」によると33年から34年にかけての学期行われた講義録だという。そしてややこしいのは「彼は、自分自身の『論理哲学論考』を批判し、新たな哲学を模索するのである」そして「言語を規則に従った記号操作として捉えるようになった。例えばチェスがチェスの規則に従って駒を動かすことから成るように、言語も言語規則ないし文法(ウィトゲンシュタインは言語規則をしばしば「文法」と呼ぶ)に従って記号を使用する活動だというのである」そして「言語をゲームとのアナロジーで捉えるという発想は、「言語ゲーム」という後期ウィトゲンシュタイン独特の概念へと展開していくこになる」
「例えば私は雑踏の街角に立つ。私は車が行きかう道路や立ち並ぶ店を見ている。しかし独我論的な観点に立つならば、それを見ているのはただ私だけしかない。そこにいる全ての他人たち、彼らは何も見ていない。何も聞いていない。何も感じていない。彼らの姿もその声も、ただ私の意識に映じた現象にすぎず、その現象を受けとめているのは、この私なのだ」しかし「その「私」は特定の一人物のことではない」
たまたま○○であるにすぎないのだ。それは本好きのY かもしれぬ。あるいは本等全く読まない S かもしれない。でもみんな自分のことを「わたし」というのだ。 いつものように高野の交差点にある喫茶店でうだうだ喋っている時。「誰が?」と僕が聞き「わたし」と答える S とのやり取りの際の「わたし」と「わたしの世界」とY がいう時の「わたし」は使い方が違うのだ。同じ語を使っているから混乱が生じる。独我論がいっしょくたにしてしまった誤用なのだ。それはデカルトの近代哲学から始まったのだ。 引用した微粒子の箇所を読み直してほしい。そして「日常言語はちゃんとしている」というあまりにも簡潔で当たり前の文を思い出して欲しい。保坂のことも含めいろんなことを考えながら読んだ『青色本』でした。どうでもいいことだけど古本じゃない新品の本を買ったのはものすごく希なことで(多分去年?)これと一緒に買った『もういちど読む山川世界史』は未だ読んでない。

ノーマン・マーコム他 『放浪 回想のヴィトゲンシュタイン』(法政大学出版局 藤本隆志訳 71年)
これはまぁ回想とタイトルにあるとおりケンブリッジの教え子などが書いているのだがすごく楽しんでなおかつ入門書としても良い本でした。しかしなによりけったいな人柄とエピソード満載の彼の生活が興味深かったのです。でも実際もし彼の緊張感に支配された授業を受けていたなら絶対に耐えきれず逃げ出していただろうな。 『放浪』というタイトルがまたしめすように彼の人生は転々と場所を移動し興味も変わる。当初は工学機械系。ベルリンの工業大学〜マンチェスター大学の機械科〜(多分この頃に飛行機ショーを見にいっているのだろう。そこでカフカ?あれはフィクション?)〜数学〜数学の基礎及び哲学そしてケンブリッジのラッセルの下で研究開始。1912年春。こんなことをラッセルに聞いたと言う。「先生、先生は私のことを、全くの鈍物とお考えにありませんか」「もし完全な鈍物なら、私は飛行機の操縦士になります。さもなければ、私は哲学者になりたく存じます」第一次大戦に従軍。1918年捕虜として収容。 それにしても彼が第一次大戦の際に塹壕の中で『論考』を書いていたというのはよく聞く逸話なんだけど本当なんだろうか。この評伝では多少違っていて既に『論考』のもっとも古い部分は書き上げていたそうである。そして捕虜になったときには背嚢の中に『論考』の原稿を持っていたとある。そしてラッセルのおかげで釈放されウィーンに戻り教職免許を取得へき地の小学校を転々。その間の22年には独英対訳という形で『論考』が出版。(だからヴィトゲンシュタイン(独)ウィトゲンシュタイン(英)という二つの読み方があるのだろう。そして後に英国籍を得て帰化したのも関係か?) 柴田元幸『愛の見切り発車』(新潮社)には彼のこんなエピソードが紹介されている。「ウィトゲンシュタインは十数年ぶりに研究生としてケンブリッジに戻ったが、このとき彼は四十歳で、すでに『論理哲学論考』も出版され哲学界に大きな衝撃を与えていた。ところが本人は無一文、大学にとどまる金がない。そこで、博士号があれば奨学金も取り易かろうと、『論考』を博士論文として審査することになり、かつての師ラッセルとムーアに口頭試問役がまわってきた。だが何しろ、こと哲学に関してはとうの昔に師弟関係は逆転したも同然、まっとうな試問になるわけない。『論考』の疑問点を二人が指摘すると、ウィトゲンシュタインは彼らの肩をぽんぽんと叩き、「気にしないでください。どのみちあなた方には理解できないでしょうからと」慰めた(結局、彼は博士号も奨学金も得た)。」(1929年)かっこ良すぎじゃないか? でケンブリッジで講義が始まる。それは青色本や茶色本として有名である。 いろんなエピソードを引用します。「ヴィトゲンシュタインがかつて、完全に冗談(おどけなしの)だけから成り立っていながら、しかも真面目で立派な哲学的著述が可能だ、と言っていたことである。別のときには、彼は、哲学論文には質問(答えなしの)だけしか含まれていなくてもよい、と述べている。自分自身の著述においても、かれはこの双方を広く用いた。例を挙げれば「なぜイヌは痛がっているふりをすることができないのか。イヌがあまりにも正直すぎるからなのだろうか。」」
「ある招待会でヴィトゲンシュタインは、哲学の性質にいくばくかの光明を投げかける目的で、謎々を一つ出した。それはつぎのようなものであった。一本の紐が地球の赤道のまわりにぴたりと張られていると仮定せよ。そのとき、この紐に一ヤードの長さの紐がつけ加えられたとする。もしこの紐全体がぴんと張られ、円状の形になっているとすると、それは地表どのくらいの高さになっているだろうか、というのである。そこに居た人たちは皆、答えを計算もせずに、すぐさま地表から紐までの距離は非常に微小で、目に見えないくらいだろう、と言いたくなった。しかしこれは間違いで、実際の距離はほぼ六インチになるのである。ヴィトゲンシュタインは、この種の過ちこそ哲学に起こる過ちである、と主張した。それは、写像によって欺かれるということである。この謎々の中でわれわれを欺いた写像は、つけ加えられた紐の長さと紐全体の長さを比較したことである。この写像そのものは十分に正しい。一ヤードの長さは、全体の長さから見れば、無意味なほど小さな部分であろうから。しかし、われわれは、このことに欺かれて、間違った結論を引き出したのである。これに類似したことがらが哲学の中で起こる。われわれは常時、それ自体は正しい心的写像によって欺かれているというのである」

数学は苦手なので夕飯の時に数学の得意な父に聞いた。寝る間際思い出した父は朝トリックを教えてくれた。 整理した感じだとこんなトリック。元の円周の長さをL とする。半径をR とする。X は増えた高さ(或は長さ)
L=2πR・・・・1
L+1 yard =2π(R+X)・・・2 右辺を展開し
1を2に代入すると。
2πR+1 yard =2πR+2πX
1 yard =2πX
ゆとり学習をみならって(笑い)π=3
1 yard =6X
X=1/6 yard
1 yard =36 inch なので X=6 inch これでいいのかぁ?

「表現というものは、生の流れの中でのみ意味を持つ」
「若いころには秀れた仕事をしたが、年をとってからまったく仕事のさえなかった人たちの例は、枚挙にいとまがありません」
ケンブリッジを去り(ほんとうにうんざりしていたようだ)哲学を完成させるために場所を移動しながら最後は殆ど病気勝ち。健康が優れている時に一心不乱に書きとめ再び病気に臥すといったかんじが最後まで続く。なんかジョイスとも似てるよな。そして死後『哲学探究』が公刊される。