Favourite / Trash


あらたなコンテンツです。折角長時間をかけて叩いたテキストを一年くらいでそれほどの未練もなく消去してしまうのはもったいないと、周囲の人たちから指摘され残しておくべきだと忠告されました。「お気に入りのゴミ」の誕生です。たまたまテキストのフォルダーに残っていた文章を選び並べ替え写真を撮り直しました。本に関しては偶然の繋がりや重なりがかなりの頻度で起こるのですがそのままにしてあります。ご了承下さい。加筆訂正はほとんどしておりません。順番はアルファベット順。そして個人名はファミリーネームで統一しています。 2011年に叩いた項目を移動させただけです。あしからす。

A-E A Tribe Called Quest Paul Auster Beastie BoysThe Beatles Alan Bennett Joruge Luis Borges Malcolm Bradbury
江國香織

F-J David Holmes 保坂和志 James Joyce

K-O Jhumpa Lahiri David Lodge 丸谷才一 Steven Millhauser 村上春樹

P-T Parliament PerfumeThe Pharcyde Primal Scream 桜庭一樹 J.D Salinger 高橋源一郎

U-Z Kurt Vonnegut 綿矢りさVince Watson
A Tribe Called Quest - The Low End Theory _ LP _ 91_ Hip-Hop
大好きな Jazz ( We've Got ) やマイルス黄金カルテットに参加していた Ron Carter が生ベースを弾く Verses From The Abstract や M. Riperton / Baby , This Love I Have 使いのCheck The Rhime 等名曲多数収録の問答無用の大名盤。よく分からんのが部屋にある再発盤は14曲収録なのに対してこのレコードは12曲ということ。UK 盤だからそうなのか元々そうだったのか。そして僅かに曲順も違う。インナースリーブに写る3人は皆若く穏やかそうで Hip-Hop に付きまとう暴力的なイメージが微塵もない。
ポール・オースター ガラスの街 新潮社 柴田元幸訳 09年(85)
ポール・オースターを知ったのはいつなのだろう。そして最初に読んだのはどれだったのだろう。詩集以外は殆ど読んでいる大好きな作家なのにまったく記憶にない。『シティー・オブ・グラス』というタイトルの角川文庫訳は既に読んでいるのだが訳者が柴田さんではない。それが残念だった。で今回新訳として柴田訳で読める。NY 三部作(『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)の最初の作品。この作品の凄さはどこにあるのだろう。まずミステリーとして「読者は何ひとつ見逃してはならない」ことを強要する点。次は登場人物のキャラクターだ。命が狙われていることに脅えている依頼者の長い独白中の「僕は毎日新しいのです」は離人症の患者に特有なものだ。(卒論で扱ったテーマを補完するため読んだ『自明性の喪失』にそんな記述があったはず)そしてびっくりしたのは今年読んだ『ティンプクトゥ』で壊れた詩人が語ったのと同じ台詞をこの依頼者にも語らせていることです。「神( GOD )を逆さにしたら犬( DOG )になります」。依頼者が脅えているターゲット(実の父)を見張り尾行し接近し彼が目論んでいる企てを聞きだす中こんな発言がある。「私たちの言葉はもはや世界に対応していません」「傘から布を引きちぎっても、傘は依然として傘か?」ーハイデッカーの『存在と時間』で物と道具の違いを検証した箇所を思い出さずにはいられない。そして本当のポール・オースターが登場する。彼はセルバンデスの『ドンキホーテ』論を書いていて「誰があの本の作者か、というのが一番主要な点です」そして本当の著者が登場します。ターゲットを見失った探偵役の作家クインは依頼主を四六時中見張る。「持ち場を離れるのは気が進まなかった。自分がいないあいだに何かが起きるかもしれないと思うと居ても立ってもいられす、」ーデビット・ヒュームの懐疑論を実践するなんて行為はあきらかに狂気の沙汰だ。そして彼が観察したことを書き付けていた赤いノートをポール・オースターから預かった『私』はこの作品をノンフィクションとして纏めた。「赤いノートの最後のセンテンスはこうである。「赤いノートにもう書くところがなくなったらどうなるのだろう?」」 偶然の出来事に巻き込まれ謎とともに話が進むのは(僕が知っている限り)カフカから始まって村上春樹や三崎亜記『となり町戦争』へと脈々と受け継がれている。ある意味伊坂幸太郎の『コインロッカー』も同じか。本当に素晴らしい作品です。


ポール・オースター ティンブグトゥ 新潮社  柴田元幸訳 06年 (99)
前作『ミスター・ヴァーティゴ』で僕の求めている方向とはかなり違って来たなとかなりがっかりしていたのだけどこれはほんと素晴しい快心作。典型的なドロップアウトを辿って来た詩人ウィリーとその番犬ミスター・ボーンズのお話。始め手にした時はお涙頂戴物かもなと不安だったのですが悪い予感はみごとに外れました。dog を逆さに綴ると神ということに気付いた、いちゃっている詩人はこう結論付ける。
真実はだな、友よ、犬は字が読めるんだよ。じゃなきゃ何で郵便局の扉にあんな掲示がかかってる?犬立ち入禁止 ただし盲導犬は除く。わかるかい、俺の言っていること?盲導犬を連れてる人間は目が見えない、だからその人間は掲示を読めるわけないだろ?で人間が読めないんだったら、ほかに誰がいる?
Beastie Boys - Paul's Boutique _ LP _ 89 _ Rock
ロック、ソウル、ファンク、ヒップホップは言わずもがなカントリーまでサンプルネタにぶちこんだオールドスクール感満載のかっこいいレコード。部屋には既に再発二枚組と再発じゃないけれどオリジナルじゃない二枚の Paul's Boutique があるけれどこれは 8-Panel Gatefold ジャケの正真正銘のオリジナル。店主は「昔は高かったんだけどね」と。セールスが振るわなかったためなんだけど。インナーの魚のイラスト入りの小さなフォントの膨大な文字群一体なんだと思って目をこらすと曲名無しのライムだった。


Beastie Boys - Shadrach _ 12" _ 89 _ Rock / Hip-Hop
アルバム Paul's Boutique からのシングルカット。部屋には四日市で買った収録曲は同じでジャケ違いのものがあるのだけどどうもブートみたいで。Sly & The Family Stone / Loose Booty (アルバム「Small Talk』 収録)使いのShadrach は本当かっこいい。Young-Holt Unlimted / Soulful Strut 使いの曲も収録されていたりして多彩なサンプリング使いで楽しめます。仕掛人は Dust Brothers 。ちなみに Side II のクレジットとレコードの曲順が違っていていて Car Thief . Some Dumb Cop ~ Your Sister's Def。

Beastie Boys - Check Your Head _ 2LP_ 92_ Rock / Hip-Hop
部屋には98年の再発があるんだけど買い直し。処分決定。昔はGratitude が大好きだったのだけど。Finger Lickin' Good ではボブ・ディランがいきなりカットインされるし。Time For Livin' はスライのハードコアカバー。それこそ一枚目の印象が強すぎて二枚目は殆ど記憶になかったのだけどあらためて聴くと新鮮で。Pow とか In 3's って本当に演奏しているんだろうか?上手いんだよね。裏ジャケはスライの『暴動』にオマージュを捧げているのかな。P Funk のGeorge Clinton の写真やひょっとするとニ代目DJ だった Doctor Dre ? と思われる写真も彼の上に張り付けられてます。
The Beatles - Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band _LP_67_Rock
中学時代。父と祖父とで滋賀県の土地の草刈りに出かける車中でこのカセットを聴いていた時。ジョージの Within You Without You が流れると無口な祖父が「これビートルズか?」と尋ねた。Being For The Benefit Of Mr. Kite ! のぐるぐるまわるテープコラージュ。Lovely Rita のドラムのフィルインをきっかけに間奏のピアノソロへなだれ込む瞬間。そして A Day In The Life のポールがジョンへバトンを戻す緩衝地帯。宇宙へ落ちていく。テレ朝 95年大晦日録画。ストーンズのメンバーの姿と仮装したオーケストラの指揮をとるポール。シャボン玉を飛ばすサイケな女性。あれはなんのために撮られたフィルムだったんんだろう。Mono Original 。


The Beatles - Magical Mystery Tour - 2x7"_67_ Rock
元々は二枚組のシングルとして発表。現在は当時のシングルを足してアメリカ編集盤としてリリースされたものが正規盤となっています。曲順も違います。好きなのはポールの Magical Mystery Tour とジョンの I Am The Walrus 。ポールが作る8ビートはこの時期カラフルで素晴らしい。一方ジョンはシュールな歌詞(言葉のサラダ?)をのせた混沌のサイケ。酷評だったシュールな映画はテレビ?ビートルズ復活祭?で観ているのだけど筋は全く覚えてない。ちなみにレコードには apple presents とのクレジット。既に67年には構想があったということですかね。


The Beatles - Lady Madonna / The Inner Light _ 68_ 7"_ Rock
英国では68年3月15日発売。日本盤ジャケットは67年のものだよな。とにかくLady Madonna の格好良さでしょう。8ビートのロックンロールをいとも簡単に調理し披露。ポールらしい小粋な名曲。ブラスも声ブラスも最高です。B 面のジョージの曲は未だインドシンドロームを患っている。Lady Madonna の PV は多分中学時代京都会館へ足繁く通った「ビートルズ復活祭」で初めて見たのだけど多分セッション中や録音中の彼らの姿を編集して適当にでっちあげたものでしょう。そしてこの撮影のついでに録音したのが名曲 Hey Bulldog 。すごいよな。だからジョージが Gibson SG を演奏しジョンとポールがコーラスを取ったり(多分最後の方の犬の遠吠え)するのでしょう。多分この当時のシングルは日本盤もモノラル。

The Beatles - Hey Jude / Revolution _ 68_ 7" _ Rock
本国では68年8月26日。日本盤ジャケットこれまた67年。A B 面とも最高のシングル。かすかな記憶なんだけど中学時代 AM ラジオで鈴木ひろみつ(元モップス)が DJ を勤めるビートルズの番組で皆から集めたリクエストをトップ10方式で発表していて1位が Hey Jude だった。ちなみにジョージのWhile My Guitar Gently Weeps もランクインしてたな。そしてNHK の「600こちら情報局」でこの2曲のPVを初めて見る。高校に入学できたらエレキを買ってもらう約束を両親としていて Revolution でジョージの弾くレスポールがかっこ良くて合格するずっと前からこれに決めた。そしてHey Jude の映像も魔法にかけられたような時間だった。95年の大晦日テレ朝であったビートルズアンソロジーのビデオは何度見ても飽きない(といっても見てる部分は65年のシェアスタジアムから68年の終わりまでなんだけど)そこにはしっかりHey Jude / Revolution の PV も収録されいます。どうもTV 番組用に撮影されたようで司会者を困らせる4人が最高です。4人がジャムると一応音は出てるんだよ。でも映像では演奏は録音されたものを使いボーカルとコーラスが生だと後で知った。本当なのかな?
時代は前後します。大学時代に友人たち(多分バンドを組んでいた連れもいたはず)とカラオケディスコなるところ(大昔そんな場所があったんだよ)に試験後行った時、のりで Hey Jude を歌ったんだけど今のような個室じゃないから知らない人たちも沢山いて最後の世界で一番有名なリレインで大合唱になったんだよ。歌いながら感動してしまって泣きそうだった。皆さんに「どうもありがとうございました」とお礼を言ったことを思い出した。若い世代の人たちは教科書で習うそうです。古典ですね。
ところでこの曲には因縁があるそうでなにかの本で読んだのだけど当初ジョージはスライドギターを入れたがっていたけれどポールが却下。だからジョージは PV でもベース弾いてる(格好をしています)。そして気のせいなのかもしれないのだけどジョージのソロシングル My Sweet Road のカップリング Isn't It A Pity の終わり近く良〜く耳を澄まして聴くとかすかに Hey Jude のリフレインらしいコーラスが!音の壁氏フィル・スペクターのミキシングで分かりずらくなってるけれど。でもこの曲のスライドギターはめっちゃ良いし。江戸の敵を長崎で討った?でももしHey Jude にスライドギターが入っていたらどうなってたんだろうな。いい結果を生んだんだろうか?歴史に If はないと言うことでご勘弁を。やはりモノラル。


The Beatles - The Beatles _2LP_68_Rock
小学校6年生だった。ピンクレディーがデビューと同時に一躍人気ものになった。そんな世間とは関係なく数人のビートルズ好きの同級生がいた。同級生とどの曲が良いかなんて話題があったのを記憶している。僕は家にあったシングル盤や4曲入りのコンパクト盤等を聴き漁っていたのだが直ぐに終わってしまうのにもの足りず父に何かアルバムのカセットがないかと尋ね手渡されたのが90分テープぎっしり詰まった『ホワイトアルバム』。小学生に分かるはずがないこのテープを毎晩聴くのが日課になる。唯一耳馴染みだったのは NHK の「みんなのうた」でフォーリーブスが歌っていた「オブラディ・オブラダ」くらいか。そんな努力のおかげか?好きになった曲もできた。「バンガロービル」と「ハピネス」。何故覚えているかといえば遠足のバスの中で友達とでたらめ英語で歌ったから。「ヘルタースケルター」は逆に恐怖を覚える曲だった。
中学生になるとギター少年になりクラプトンがリードギターを弾く「ホワイル・マイ・ギター」を雑誌「ヤングギター」で練習した。
そして実際にアルバムを買ったのは大学生(たぶん四回生)。銀閣寺にあったレコ屋のバーゲンでこのアルバムとスライの『暴動』を買った。高校、大学とビートルズから離れていた耳には驚きの連続だったし新鮮だった。『The Complete Beatles Recordong sessions 』(90年シンコーミュージック)を読み何故これ程ばらけた内容のアルバムになったのか理解できたけれどそれまでは不思議と違和感なく各曲のクオリティーの高さにばかり驚いた。全部シングルにできるやん、と。そのレコードはドイツプレスで盤も白色。Direct Metal Mastering というシールが貼られている。傷だらけになるまで再びはまる。
2009年ロンドンのポートベローマーケットでたまたま見つけた『ホワイトアルバム』。背表紙には Stereo PCS 7067~68 Mono PMC 7067-68 と並記してありレーベルには PMC のクレジットどっちなんだ?。店主はステレオと言い張る。どちらにせよ英国盤は持ってない。値段を訊ね 50£と15£を聴き間違い「高い」という反応にわざわざ10+5と指で教えてくれた。迷った挙げ句購入。 部屋で聴くとなんとオリジナルモノ盤。これまで一番聴いたであろうレコードだから最初の数秒で分かった。歌詞が裏に印刷されている大きなポスターと4人のポートレイト写真は誰かの部屋に貼られ色褪せゴミ箱へ捨てられ入っておらず盤質もそれほど良くない(特にジョージの「ホワイル・マイ・ギター」の始まりから数秒溝が削られていて再生できない)けれどこの安さだ。日本で買えば5桁かな?例の通し番号は0104050。The Beatles のクレジットは真直ぐじゃなく右側が上がっている。上からレコードを出し入れするタイプで内側には折り返しのあるゲートフォールド。
部屋に『ホワイトアルバム』が4セットあった時がある。加えて好きになった二人の女の子にプレゼントしたこともある。合計6セットか。
ところでオリジナルモノ盤で聴かないと意味がないと断言する人が多いのだけど。本当にマストなんだろうか。ステレオで聴きまくった経験上どうしてもそちらに慣れている。モノで聴くと違和感がまず先にくる。 例えば映画。劇場公開版とディレクターズカット版。どちらが正規なのか。僕は前者を選ぶ。ここは無駄とばっさり。観客を考えてのことだと思う。 モノに皆がこだわるのはそのミキシングの現場にジョンやポールが居合わせ卓をいじったこともあったからだろう。ディレクターズカット版なのだ。こうしたいと思う意志は自由だけど全て上手くいくとは限らない。客観的に他者の耳の方が本質をつくミキシングが可能ではないのか? 黄昏れた曲が多い気がするこのアルバム。66年67年の実験モード期から原点回帰しながらも螺旋状に高みに上り詰めたソングライティング。

Revolution 9 について。元々は Revolution が長くなり過ぎてばっさり切られた上にいろんなテープコラージュを乗っけたそうなのだが。ひょっとして途中で一瞬ギターとベースだけが同じ音で鳴ってる部分があるのだけどそれは名残か?突き抜けた感じがいいんだよ。実験とか前衛とかアバン・ギャルドとか現代音楽だとか色々言われているけれど無邪気な遊びと考えればいいと思う。深い意味なんてない。

本日2011年6月15日(水)聴き直して心に何かを残した5曲。(順不同)
Dear Prudence やはり好きだわ。ドノバンから教わったスリーフィンガーを駆使したジョンのギター。そしてどたばたしたポールのドラムに(リンゴは一時脱退していた)連動する形で盛り上がりを見せるエンディング。
Martha My Dear ポールらしい小粋でポップな曲。シャッフルのリズムから元に戻っての管楽器が本当にカラフルで場面転換の鮮やかさが際立つ。
Rocky Racoon これまたポールの懐古的な曲なんだけど途中のラグタイムっぽいスキャットの部分。そしてほんの数小節だけのコーラス。入る場所も構成音も完璧。
Long Long Long ジョージの曲。最も黄昏感を感じさせる曲。途中のピアノの部分が特に。
Cry Bany Cry ジョンの曲。昔から大好きな曲。コード進行も単純。演奏もシンプル。そやのに。

The Beatles - Abbey Road _ LP_ 69 _ Rock
ある晴れた日。父がステレオでこれをかけていた時、妹は Come Together が「一番好き」と言い僕は Maxwell's Silver Hammer だと言った。妹の方が正しい耳を持っていたんだな。中学時代バンドごっこをしていた時無謀にもB 面のメドレーのコピーをしようと言い出した友達と果敢に挑戦。できっこない。今最も口ずさむのは Oh! Daring とMean Mr. Mustard から She Came In Through The Bathroom Window 。特に Polythene Pam のギターソロから音階が降りてきて She Came ~ になだれ込む部分はいつ聴いても素晴らしい。
アラン・ベネット やんごとなき読者 白水社 市川恵里訳 09年(07年)
とても面白い小説だったので一日で読んでしまいました。 帯のコピーはこうです。「英国女王エリザベス二世、読書にハマる。おかげで公務はうわの空、側近たちは大あわて」 ある日女王が犬を連れて散歩していると移動式の図書館と遭遇。そこから物語は意外な展開を始める。そこにノーマンという若者がいて物怖じせず彼女に本を薦めするのだ。その理由は年をとりすぎている一人の老婦人に違いないし彼が最初に勤めていたのが老人ホームだったから。そして彼女の読書熱は高まっていく。「一冊の本は別の本へとつながり、次々に扉が開かれていくのに、読みたいだけ本を読むには時間がたりないことである」そこでだんだん公務がおろそかになっていく。そんな彼女に側近たちは良い顔をしない。そしてノーマンに矛先が向かう。女王が公務でロンドンからいなくなるのに乗じてノーマンを厄介払いするのだ。その先は「イースト・アングリア大学」ーすばらしい英文科があって、そのうえ創作コースもある。ーイアン・マーキュアン、カズオ・イシグロを輩出。『超哲学者マンソンジュ氏』の著者マルカム・ブラッドベリが教鞭を勤める大学!とはいうものの女王自身もノーマンを超えたのではないかと内心思っていた。彼は女王にその本はまだ早過ぎると助言する程彼女の読書熱は案内人をもはや必要としていなかった。「たとえばべケットとナボコフは長いあいだ彼女から遠ざけていたし、フィリップ・ロスにはだんだんと触れさせた」また繋がった!高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』にもロスという名前が出ていた。余談ですがロスの『素晴らしいアメリカ野球』は最高におもろくて『優雅で感傷的な日本野球』の源泉の一つです。
80歳の誕生日。女王はお茶会を催しスピーチをします。プルーストを引き合いにだしこう語ります。「語り手のマルセルは、たいしたことのなかった人生をふりかえって、小説を書くことで人生を取り戻そうと決意します―それがまさにこの小説なのです。そしてその過程で、記憶と追想の秘密を解き明かしてゆくのです」そして大決断を発表するのですがその言い回しがとてもしゃれていて素敵なのです。それはこの引用から導かれた語り口調のようです。「E.M. フォースターだと思うけれど、こんな言葉があります。『真実を残らず語りなさい、ただし斜めに語りなさい。成功は回り道にある』―それともエミリー・ディキンスンだったかしら?」最後の言葉はあえて書かずに置いておきます。ぜひ手にとってたしかめてみてください。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 砂の本 集英社 篠田一士訳 80年(75)Jorge Luis Borges (1899-1986)
13の短篇からなる素晴らしい本でした。 まずしょっぱなからの奇妙な偶然の一致から叩きたい。現在職場で読んでいるのはセルバンデスの『ドン・キホーテ』なのですがその書名が登場。先日売り場でかわいい女子学生が訊いてきた。「これの続きはいつ出ますか?」指差す先にあったのが亀山先生の新訳『悪霊 1』(光文社古典新訳文庫)。10 月の新刊リストには予定がなく『カラマーゾフ』の奥付で確かめてみると2ヶ月スパン。その旨を伝える。ドストエフスキーについて少しお喋りし「ドストエフスキーが好きならこれお勧め」と棚から抜いたのはカミユの「シーシュポス」。「読書案内としても最高ですよ。カフカやジッドも読みたくなる」。その女の子はカフカも好きだそうで一緒に買っていってくれました。「シーシュポス」はそういう風に手売りやポップを付けてかなりの数を売っています。
「フィヨールド・ドストエフスキーの『憑かれた人びと』、というか、ぼくの感じでは『悪霊です』」と、彼はいささか得意気に答えた。
「よく覚えていないな。どんなものだい?」そう言うがはやいか、この質問は冒涜だったと感じた。
「ロシアの巨匠です。」と彼は断言した。「スラブ人の魂の迷路を、誰よりも深く探索したんですよ」(『他者』)
彼とぼくは同一人物なのです。ドッペルゲンガー譚です。
第二の偶然の一致。「わたしはロンドンに到着した。(中略)大英博物館の裏の安宿に泊まって」。 去年も今年も泊まるホテルはまさしく大英博物館近くのラッセル・スクエアにある。そう今年もロンドンへ脱出だぁ!この文章が収められているのは『会議』なのだけどこんな文章に胸が痛くなった。 「優柔不断のせいか、不精のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせとに折り合ってゆくので精一杯だ」
そしてこの短編集の中で最も面白かったのはものすごく短い SF 的な『疲れた男のユートピア』。 「われわれは、学校で懐疑と忘却術を教えられる。とりわけ、個人的、ならびに地方的なものを忘れる術です。われわれは、連続的な時間のなかにいきています。しかし、『永遠の相の下に』生きようとしているのです」(『永遠の相の下に』は古今東西最も美しいと勝手に思っているスピノザの『エチカ』を締めくくる概念です。)
「大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです」(書店員としても読者としても耳が痛い) 「あのなかにはガス室があります。なんでも、アードルフ・ヒトラーとかいう名の博愛主義者が発明したんだそうですよ」
ボルヘスはアルゼンチン生まれ。ヨーロッパ(ジュネーブ〜マドリッド)へ渡り帰国。図書館館長を勤めた経歴からもわかるようにすごい博学。
マルカム・ブラドベリー 超哲学者マンソンジュ氏 平凡社 柴田元幸訳 91年(87年)
ちょうど僕が文学部哲学科に入学した頃日本ではニューアカデミズムという思潮が大ブームだった。京都人文研の浅田彰は『構造と力』『逃走論』で東京外大の中沢新一は『チベットのモーツァルト』で時代の寵児扱いされていた。彼らはその当時のフランスの思想家たちを紹介しポストモダンとして広めた。僕は自称『カミュの徒』だったのでフランス語を勉強したかったのだが大学の専門(講読)科目が英語とドイツ語ばかりだったのでドイツ語をとるしかなかったのだ。それゆえポストモダン思想に翻弄されることは最小限ですんだ。大学の教授達もだんまりを決め込み嵐の過ぎ去るのを待っていたのかもしれない。「○○以降は学問としては認められない」というアカデミズム特有の歴史観があるのかもしれない。とはいえやはり同時代のものも読まねばとデリダ、バルト、ドゥルーズなどを齧ったけれどさっぱり理解できなかった。今や部屋にあるのはロラン・バルト『恋愛のエクリチュール・断章』のみ。これは本当に素晴らしい本です。残りは全て古本屋行き。そんな時代に学生でその辺りの事情に詳しい人には最高で笑える本がこの『超哲学者マンソンジュ氏』です。非常に巧みに作り上げられた小説です。バルトの教えを受けデリダのディコンストラクション(脱構築)を実践した哲学者『マンソンジュ』の生涯を描いた伝記(小説)です。ソシュールの記号論から始まったとされる構造主義から順当に話は進められます。バルトの有名なキャッチコピー『作者の死』―絶対的な作者(こう読まねばならないとするいわば専制者)など存在しない。作者というのは資本主義が要請したものでしかない。書店が本を売りやすくするための記号。それを実践するためにマンソンジュはたった一冊の『文化行為としての性交』と云う本を発表してこつ然と姿を消す。そしてその著作にかんしても謎だらけなのだ。発行部数が少ない。そして困ったことに現存するテクストの中身が一冊一冊異なっているのだ。短いもので三十九ページ長いもので百十五ページ。内容的にもそれぞれの一冊がそれ自身に先行もしくは後発するヴァージョンの内容をたえず論駁しているのである!(笑い)それはデリダの脱構築をよりラジカルに実践したものだと。でもこんな文章があるのです。「事実、長いあいだ人々は、マンソンジュは存在しないと考えてきた―大方どこかの冗談好きのジャーナリストか、三文文士か、あるいはややこしいことを考えるのが好きな理論家かが、自分の都合ででっち上げた虚構の人物だろうと。だがこれもひとえに、マンソンジュの自己隠蔽がいかに巧妙であったかの証しにほかならない」この本の著者マルカム・ブラドベリはイギリスの作家・評論家・(最近うちの本屋で何故か良く売れている)カズオ・イシグロが学んだイースト・アングリア大学教授。ここから話はややこしくなるのだ。イースト・アングリア大学でかつて副総長であったフランク・シスルスウェイト教授からの手紙が掲載されている。「親愛なるマルカム、アンリ・マンソンジュに関する君の文章、とても楽しく読みました。小生も彼のことはよく覚えています」で始まり「彼がいなかったら、構造主義は違ったものになっていたはずだから」で終わる手紙なのだ。え?本当にいたの?悪のりにつきあっているの?そもそもこのシスルウィエト教授ているの?そしてとどめがパリ大学物語構造論教授ミシェル・タルデュのまえがき/あとがき。疑いの矛先はこの作者ブラドベリ自身に向けられているのだ。「私自身、彼が勤務するイースト・アングリア大学のキャンパスの壁に、こんな落書きを目撃している『神とマルカム・ブラドベリの違いは何か?神はあまねく遍在し、マルカム・ブラドベリはこの大学を除きあまねく遍在する』」シスルウェイト教授に対するの同じ疑問がここにも生じる。 もしマンソンジュが実在する人物だとしても「作者の死」を実践するために彼は姿をくらましているのだし もし彼が架空の人物なのだとしたら二人のこの手紙とまえがき/あとがきはナンセンスなものだということになる。どちらにしても巧妙に罠にはまったなという読後感です。
江國香織 間宮兄弟 小学館 04年
まずは他人さまにはどうでもいい話から。 さて今年のロンドン旅行へはなにを持っていこうかなと積み上げてある本のタイトルを眺めていた。 百万遍での古書祭りでなにか手ごろな本が見つかるとも限らないしかといって未読の本は何故か気が進まない。そんな理由から既読の保坂和志『カンバセイション・ピース』がいいかなと。文庫だしページ数も妥当だし内容も濃さ以外は覚えてないから。
読書好きの間宮兄弟が本を読んでいるところ。「目下、明信の読んでいる本は丸谷才一の『輝く日の宮』、徹信の読んでいる本は保坂和志の『カンバセイション・ピース』だ」まただ。 そして目を積み上げられた本の方向に移すとこっち向きに丸谷才一『ロンドンで本を読む』があった。 先月の読書からまた繋がりだしてんな。嘘じゃないから信じてね。
小説として身につまされる文章が多く笑ったり切なくなったりの連続で二日で読み終わった。 最近の僕の中のつぼはこういう類いの文章だ。 「いったん始めると二人とも徹夜してしまうばかりか、仕事にさえ行きたくなくなる始末なので、兄弟のあいだではジグソーパズルというものを、『おもしろ地獄』と呼びならわしている」 そして先ほどの読書の箇所では。 「二人はそれを朝から晩まで持ち歩き、自室でも居間でもベランダでもトイレでも、思い思いの姿勢で読んでいる。掃除も洗濯もしない。夕食も、外食か出前をとる、こういう休日の過ごし方を、兄弟は『読書日』と呼んでいる」 森見さんにもあった気がするし、なんといっても最近では有吉でしょ。あだ名付けは楽しいし笑える。
映画化されている兄弟は佐々木蔵之介と塚地ってピッタリのような気がするし。豪華キャストも気になる。さすがにDVDプレイヤー(ブルーレイ?)を買う潮時かな。再生だけできればいいのだから安くて済む?
David Holmes - Gritty Shaker _ 12" _ 97 _ Breakbeats
当時は Trip- Hop 扱いされていたアルバム Lets Get Killed からのシングル。ひょっとしたら先行シングルかも。それほど思い入れある曲じゃなく殆ど印象のなかったのだけど試聴させてもらい Richard Fearless Remix が素晴らしかったので購入。Richard Fearless はやはりブレイクビーツ系のユニット Death In Vegas の中心人物。トランペットがフューチャーされている。そしてRed Snapper Remix は彼らならではの生ドラムンベースを楽しめる。


David Holmes - Don't Die Just Yet _ 12" _ 97 _ Breakbeats
初めて買った彼のシングルがこれ。名古屋のタワレコだった。キャプションにセルジュ・ゲンズブールのカバーって書いてあってそれだけをたよりに買ったのだけど良くて。あまりに聴き過ぎて盤質が酷くなったので買い直した。安かったし。180円!そんなに人気落ちてんだとか思いつつ。部屋で聴くとなんだか違う。え?なにこれ?全く分からん。ジャケットは同じ。でも溝は4トラック分ある。クレジットは3トラックなのに。何か違いはと探す。無音の溝に刻まれた文字が違った。部屋にあったのは 569- 289-1 で今回のは gobx pro 6 。つまりプロモってこと?で部屋にはもう一種類ロンドンでくず同然で買った多分箱ものだった Stop Arresting Artists Three のシングルがあってそこに収録されているのがこの曲のリミックスバージョン4トラック。それを引っ張り出して聴き比べる。
A1 Don't Chant Just Yet . Holmes & Goldsworthy Remix A2 The Holiday Girl . Arab Strap Remix
B1 Max 404 Remix Edit
であることが判明。ただ サックスのうなりを上げる B2 が不明。 ちなみにこの曲のサンプルネタは Serge Gainsbourg / Melody (71年発表のアルバム Histoire De Melody Nelson )。オリジナルバージョンは Lets Get Killed に収録。
保坂和志 もうひとつの季節 中公文庫 02年(99年)
『もうひとつの季節』は『季節の記憶』の続編です。続けて読むにこしたことはありませんが順不同でも登場人物のキャラクターが軽く触れられているので大丈夫の気がします。くいちゃんのパパがまだ小さかった頃に撮られた写真から話は人間にとっての本質的な問題へと深化します。その写真には一歳くらいで四つん這いのパパと兄弟の様な大きさの猫が写っている。くいちゃん(5歳)がその写真に疑問をはさむ。「猫はどうしたの?」「じゃぁ、赤ちゃんも死んじゃったんだ」「赤ちゃんはパパになったんだよ」その即物的な答えに反省し考え込むパパ。そして息子の疑問は「赤ちゃんがパパになったのなら、猫は何になったのか」ということだったと思い当たる。「何でも屋」を営む松井さんはお隣さん同士の付き合いがあり毎晩夕飯をともにするほどの深い付き合いだ。松井さんがこんな話を始める。「『松井君?って』言われて振り返っtら、女子高生が立ってるんだ」「―と、思ったらその横にお母さんがいた。で、もう一度女子高生を見たら『あ、高階さんか』って、わかったんだ。不思議な気分だったなあ。高階さんはすっかりオバさんで高階さんじゃなくて、高階さんの娘が高階さんじゃないのに高階さんそのままになってるんだから。だいたい娘もお母さんも高階さんじゃないんだもんな」僕と美沙ちゃん(松井さんの妹)は口をそろえて「意味がわからない」と言うと「結婚したんだから、高階さんはもう高階さんじゃなくて、別の名字になっているじゃないか」「仲良かったの?」と尋ねる息子。「本人だけだったら思い出せなかったかもしれないけど、娘が高校のときの高階さんと本当に似てるんだ。しかも高校ニ年のときに今日とそっくり同じことがあったんだよ。俺がバイクの調子がおかしいんで、しゃがみこんで調べてたら、高階さんがお母さんと二人で通りかかって、『松井君?』って、声かけてきたんだよ。そんなこと二十七年間一度も思い出したことなかったけど、」『世界』『時間』『死』がどういう関係にあるのかが物語の後半に会話されます。それはまるでソクラテスの対話篇を読んでいる気がします。そして本当の最後は大切な登場人物である律儀な猫『茶々丸』にまつわる話が始まります。迷い猫『ちゃちゃ』が現れた日の直ぐ前に行方不明になった猫を探しているという張り紙を美沙ちゃんとくいちゃんと僕が散歩の途中で見てしまうのです。さてどうなる?


保坂和志 カンバセイション・ピース 新潮文庫 03年(00年)
ロンドン旅行へ持参し多分飛行機の中でまたまた繋がったことから。ヤフーニュースでビートルズの所謂赤盤青盤がリマスターされ発売されたと知った。そしてこの小説中にその赤盤 Beatles / 1962 - 1966 についての文章が登場しビートルズについての主人公が幼かった頃の記憶が蘇る文章が続く。既読なのにすっかり内容を忘れていたので少し驚きつつ今回のロンドン旅行はビートルズのレコードも上手く見つけられるんじゃないかと思った。
一体いつ読んだのかはっきりと思い出せないが多分2000年代真ん中あたりだろうか。最初読んだ時は濃い小説だなぁと。哲学的でとりわけ認識論なテーマだったせいだろう。日常生活が丹念に追われ、劇的なことが起きない。あまりにも理解できなかったのでその後彼の小説はもちろん文学論や哲学的エッセイなどかなり読んだ。そしてこの小説を読み直してみると何がこの小説の軸になっているのかわかったような気がした。それはこの世界を成り立たせている仕組みを解明するため出発点として日常を描くことにあるんじゃないか。例えば次のような文章を少し長いですが引用します。「私が雲を見るとき、見るは雲によってもたらせれていて、見る私もまた雲によってもたらせれている。私が見なくても雲はあり、私がいなくても雲はあり、そして私が見なくても見るはある。私が雲を見るという関係の中で、私が雲よりも見るよりも遅れて最後にやってきて最初に消えていくものではあるけれど、雲によってもたらされた見るをしている私はそれでもやっぱり特別な何かであり、それは私だから私にとって特別だということではなくて、雲や空や木が見るをもたらす送り先として自覚するものとして特別ななにかなのだはないか」(P408)「『神が見てくれている』と人間が思ったときの神が去っても、空欄が残っていてそれがやっぱり見ているということにはならないのか」(P415)。哲学史でいうと英国経験論を意識していると思います。知覚=存在という経験論を突き詰めると確実な知など存在しないということになりそれではまずいと考えたのがバークレーで「神が見ている」ということでなんとか逃げきろうとしたのです。それは学問的に卑怯だと考えたヒュームはついに確実な知など存在しないという懐疑論にまで突き抜けてしまいました。例えば外出している間に誰かが忍び込んで部屋の家具等を移動させてまた元の位置に戻したとする。外出先から戻りやはり部屋が一番落ち着くなぁとは思っった人が部屋の同一性を疑う可能性は皆無です。(曖昧な記憶なのでまちがっているかな。でも余りにも突き抜け過ぎていて笑った記憶だけがあります)。そしてプルーストを連想させるジクザクした記憶という装置を多用しながら話は進んだり戻ったりしながら現在を描く。だから始まりも終わりもない。時間が経過するだけ。事件らしい事件もなく外出するのは野球観戦で横浜球場に通う程度。あとはずっと部屋で猫の相手をしたり家を間借させている人たちとの会話がメインです。そして会話を積み重ねながら本質へたどり着こうとする。村上春樹に批判的なスタンスを貫いているのが納得の内容です。


保坂和志 明け方の猫 講談社 01年
夢の中で猫になった主人公のお話。といっても保坂さんだからメルヘンじゃありません。猫にとって世界はどんな風に現れるかという哲学的小説。あえて誤解を恐れずいってみればフッサールの現象学というよりカントの認識論に基づいているような気がします。そこに身体論を持ち込んでいるのが注目です。人間は視覚と聴覚から主に世界を組み立てるのに対して猫は嗅覚と聴覚と触覚を使って世界を組み立てる。どちらの世界がより豊かなのかという疑問にたいする答えが猫の方だと結論付けていることに注目したい。
ジェイムズ・ジョイス ダブリナーズ 新潮文庫 柳瀬尚紀訳 09年(14年)James Joyce (1882-1941)
まずは思い出話から。大学の般教の英語の授業で K 先生に習った『ダブリナーズ』を通じてジョイスを知ったのが15年前。大学四回生初めてバイトをした本屋さんで入荷したばかりの河出書房新社版『ユリシーズ』(丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳)を購入し悪戦苦闘。古本屋さんで『若き日の芸術家の肖像』『ダブリンの人々』『亡命者』などを収めた筑摩世界文学大系67 『ジョイス I 』を購入。初めて『ダブリナーズ』全体を読む。そして91年柳瀬訳『フィネガンズ』が大事件として登場。挫折そして処分。04年集英社版宮田恭子・編訳『抄訳フィネガンズ・ウェイク』を購入。そして河出書房新社版を再購入。先日の古書祭りで集英社版『ユリシーズ』を購入。
訳者解説によると「従来の邦題は『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリン人』『ダブリンの人々』などとされてきたが、訳者はあえて『ダブリナーズ』と改題してこの新訳を世に問うことにした」 「Londoner や Parisian が本のタイトルになっている」のに、「ダブリンを世界に提示した作家はいない」という手紙が残されているのだそうです。昔から何故かずっと英語タイトルでそれぞれ『ポートレイト』とか『ダブリナーズ』とか読んでいたので僕はあまり違和感を感じませんが、発表当時は不思議なニュアンスがあったのかもしれません。
筑摩書房版を読んだ時は『二人の伊達男』が面白いと思ったのですが今回の新訳を読んでみてかなり好みが変わっているのに気付きました。淡々とした美しさを持つ『エヴリン』。そして数多くの登場人物が産み出すごちゃごちゃした混乱からラストへと突き抜ける『死せるものたち』の美しさ。『ダブリナーズ』全体を読んでみてわかったこと。「ダブリンは実に狭い街だ。誰もが他人の余計なことまで知っている」(『下宿屋』)「だめだ。読めやしない。なにもできない。子供の泣きわめき声が鼓膜をつんざく。だめだ、だめだ!これじゃ終身刑の囚人だ」(『小さな雲』)「自分の人生も孤独なものとなっていき、ついには自分もまた、死んで、存在しなくなって、一つの思い出となる―もし思い出してくれる者がいるなら」(『痛ましい事故』)それだけがが理由じゃないんだろうけど「いつまでも面倒見られねえぞって言ったさな。自分で仕事見つけにゃだめだって。だけど、仕事見つけりゃなおさら悪い。全部飲んじまうってば」(『委員会室の蔦の日』)男が水代わりに酒を飲んでいる話が多い。


ジョイス 若い芸術家の肖像 講談社文庫 丸谷才一訳 79年(16)
以前筑摩世界文学大系67ジョイスの海老池俊訳で読んだ時にはピンと来ませんでした。歳月が過ぎそれなりにジョイスを読む基礎体力が付き読み直すととても興味深い内容が描かれていました。
政治的で宗教的であることが幼い時から要求されるアイルランドの状況の下主人公スティーヴンはカトリック系の学校へ進学します。そこで行われている不合理がいかに人を抑圧しているか。それはまるで恐怖政治であるかの様です。これでもかというくらい罪と地獄の恐ろしさとを叩き込めば人は罪の意識に苛まれおびえるのは当然でしょう。そして第三章から第四章まで延々と説教が続き読み手にまで息苦しさが増大するなかそこから解放される瞬間が訪れます。その瞬間本当に救われた気がしました。ジョイスがその後どうして宗教にたいして冒涜的な作品ばかりを手掛けるようになったのかここに理由があるような気がします。 「―信仰を失った、と言ったんだぜ、とスティーヴンは答えた。自分に対する尊敬を失ったわけじゃない。論理的で整然としている不条理を捨てて、非論理的で乱雑な不条理に就いたって、そんなこと、解放になんかなるものか」
政治的な文章にはこんなのがあります。「―ぼくの祖先たちは自分たちの国語を捨てて別の国語を身につけた、とスティーヴンが言った。彼らはたった一握りの外国人にやすやすと服従してしまった」この文章を読んでアーヴィン・ウェルシュの『トレスポ』を思い出した。アイルランドもスコットランドも英国に牛耳られた歴史ですから。
ところで『肖像』を読んでいて気付いたのは沢山の人物が登場するのですが必ずといえるかどうか怪しいですがまず誰だか知らない人がその場に現れその人を知る誰かが呼びかける時に初めてその人の名前が分かるという方法をとっていることです。原文がそうなのかわかりませんが。リアリズムなのでしょうか。
この主人公スティーヴンはその後『ユリシーズ』の副主人公として再び登場します。恒例の繋がり。冒頭を飾るのはオウィデイウス『変形譚』。

職場ではジョイス『フェネガンズ』II に突入。大便と小便を混ぜ合わせて作った消えないインクの箇所も無事通過。心に余裕がある時は宮田恭子さんの抄訳を部屋で繰っています。理解するのは無理だけど、でも幾ページに一度なんとなく分かった気になる箇所がでてくると嬉しい。先日はブレンダ・マドクス『ジェイムズ・ジョイスの妻となった女 ノーラ』(集英社文庫)のフィネガンズの箇所を拾い読みしていた。ノーラはそれを「あなたが書いているあのごった煮」と言い放っていたり。精神を病んだ娘ルーチアをチューリッヒの診療所へ転院させるのだがそこのスタッフにあのユングがいたり。そこで一つの永遠の疑問に答えを出す。ジョイス自身が分裂病だったのではないか?あまりに奇矯な『フィネガンズ・ウェイク』の言語は、まさに「言葉のサラダ」―分裂病患者がつくりだす新しい言葉や私的言語を意味する術語―ではないのか。しかしユングの答えはノーだった。ジョイスと娘は、川底へむかって、一方は潜っていき、もう一方は沈んでいく人間同士なのだ。(P 449)そしてこの作品が生まれるのに尽力したのは(というのもジョイスはほぼ視力を失っていたのだ)ノーラやジョルジオ(長男)という家族だけではなくあのべケットも一役かっている。厄介なゲラを校正するという気も遠くなる作業。それもただ働き。

ジェイムズ・ジョイス フィネガンズ・ウェイク I II 河出書房新社 柳瀬尚紀訳 91年(39)
輝ける帰還 井上ひさし
わたしは三人の翻訳家を知っていた。三人とも『フェイネガンズ・ウェイク』を日本語に移そうと志し、この言語の巨大な森へ、ことばの大迷路へ、ヨーロッパ数千年の全歴史を一夜の夢に圧縮した複雑怪奇な回路へ、分け入って行った。それから十年、一人はことばの重みに圧し潰されて神経を病み、一人は迷路の罠にかかって消息を絶った。だが柳瀬尚紀さんだけは、その恐ろしい森から、危険きわまりない迷路から、錯綜した夢の回路から、豊かな獲物をぶらさげて無事に帰還した(小冊子より)
以前ロンドンでキング先生とお会いした際父の通訳で「ジョイスが好きです『ユリシーズ』や『フィネガンズ』も読みました」と伝えてもらったのですが先生は「Finnegans ? Unreadable !」と仰られたのが聞き取れました。英語圏の作家ですらそうなのです。何故わからんのかと考えた結果は身も蓋もない答えですが 5W 1H がないからだと思います。何時何処で誰が何をどの様にが抜け落ちているのです。夢だから当然か。 でも僕はかなり日常と地繋がりの夢を見ます。見知らぬ人はまず出てこない(有名人だったり職場の人だったりします)のです。言葉もノーマルなままです。しかし『フィネガンズ』は造語の嵐。当てこすりや下ネタなどがいきなりカットインしてきます。唯一わかった気になったのは次の引用。
初メニ創リ手ニシテ大イナル始祖ハ、命ヲ興ヘル萬能ノ大地ニ向ッテ恥ラヒモ謝リモナシニ雨具ヲ引キ上ゲテ同様ニ袴ヲ外シ、生マレタ儘ノ尻ヲ剥キ出シ、接近シテ行クヤ、ススリ泣キト呻キヲ漏ラシツツ、己ノ片手ノ中ニ排出シ(高度に散文的に言ふなら、片手に糞、失禮、)然ル後ニ、黒キ獣ノ重荷ヲ降ロシテ、喇叭ノ音モ高ラカニ、彼ガ己ノ粛清ト称スル糞便ヲ曾テ誉レアリシ嘆キノ器ノ中ニ安置シテ、同ジ場所ニ雨雫流及ビ豪雨樽ノ双子兄弟ノ刷新ノモオト愉シゲニ甘美ニ排尿シ、次ノ如ク始マル聖歌、我ガ舌ハ滑ラカニ書記スル筆ナリ、ヲ大声デ吟ジ(小便したり、と言ふ彼はしょげ返り、責任免除を請ふ、)最後ニ神聖ナルおりおんノユパリト混ジリタル汚糞ヲ、調理シ、寒気ニ晒シ、彼ハ己ノ為ニ払拭不能液ヲコシラヘタノデアッタ(オライアンの払拭不能インクである。)
言葉は分かりやすいでしょ?では何を言わんとしたのか?宮田恭子さんの抄訳の解説にはアリストテレスが芸術の目的をカタルシスという排泄を意味する言葉で論じたとある。たんなるスカトロではないということなのだけどはたして学者じゃない読者にそこまで要求する必要があるのか疑問です。お下劣さを単純に笑えばいいのじゃない?
ではここからは柳瀬訳のパズルを読み解いている最中笑ったパラグラフと『やり過ぎじゃないの』訳を抜き取ります。
家ー付き寝具だの、ワイルドなショオだの、粋人ぶったスっターン狂は、もう引っ込めろ!(P 256) (イエイツ、ワイルド、ショオ、スイフトはアイルランド生まれの作家。他にもこのパラグラフに作家名が組み込まれているようです)
ドア放。(P 333)だじゃれだよね。
大江に健筆を振るって三国一の郎子と呼ばれ、筒口を市井の康和に隆起せんと思ったものの(P 231)
森毅な遠山渓谷に神在りが無倍 ..... 貸馬車馭者さん、みんなおいでよ、河出庶望を支援してね(P 284) ヤナセーカクの尚奇先生!(P 303)筒井康隆と森毅は小冊子にコメントを寄せています。森及び遠山は数学者。河出書房新社はこの本を発行している出版社。柳瀬は訳者。
日清征粉の桶狭間においてはもうけの肯福 (P 312)
おのおのの小町にはおのおのの小マッチのきらめきがあり、おのおのの小マッチはおのおのにこまっちゃくれ、おのおのの小野小町はおのおのに手練手管を心得て(P 330)
原文にはないはずですよね。
ではかなり不穏な文章。 神ちゃまがいわれまちゅた、人よあれ!すると人が在りまちゅた。ほほほほ、オーモちろいこと!神ちゃまがいわれまちゅた、アダムよ在れ!するとアダムが在りまちゅた。はははは!(P 212) 他にも沢山あるのですが割愛。官能小説として読めそうな文章が多し。

ジェイムズ・ジョイス フィネガンズ・ウエイク III IV 河出書房新社 柳瀬尚紀訳 93年
とうとうパズルのように入り組んだフィネガンズ読み終わりました。一冊目に比べて大した厚さじゃなかったのですがかなり辛い読書でした。頭の疲労度はかなりのものでした。 『ユリシーズ』と安くプルーストの『失われた時を求めて』入手して読めば(抄訳じゃなく全訳)読書にこわいものはないはずです。エベレスト登頂を目指せば他の登山なんて軽いもんだろうという理屈です。
では名訳或は迷訳を抜き書きします。()内は読み方。
1(気風デイ見済)...... デイビッド合羽布衣流者(きっぷディケンズみ....かっぱふいるもの)
2 馬連タ韻の高走りの源逸ろう君だよ(バレンタインのたかはしりのげんいちろうぎみだよ)
3 果ら谷行人師(からたにこうじんし)
4 おお美空よファレて雲雀鳴く(おおミソラよファレてひばりなく)
5 金丸の金丸儲けを.....黒佐川 (かねまるのかねまるもうけ.... くろさがわ)
6 虎皮様騙が逆語歩きするときは(コヒサマダマシがさかごあるきすつときは)
7 尾蟠査公の奥方らしく、徐々に学位かくくも文芸の光栄選ル姫様として、しかしわしの危惧するに、その同じ名のあわれなおなごよ、見破るにせよ雅舞るにせよ、あんたは見当違いをしておる(おわだまさこうのおくがたらしく、じょじょにがくいかしくもぶんげいのこうエイエルビイさまとして、しかしわしのきぐするに、そのおなじなのあわれなおなごよ、みやぶるにせよみやぶるにせよ、あんたはけんとうちがいをしておる)
8 涅澄マス十字架を背負わされて。.... 酒飲み罷るまで!(クリスマスじゅうじかをせをわされて。... しゅのみまかるまで!)
9 大澤ぎも正佳かなとオファリ和やかになっちゃうでしょ。(おおさわぎもまさよしかなとオファリなごやかになっちゃうでしょ)
1チャールズ・ディケンズ『デビッド・コパフィールド』
2高橋源一郎は作家。小冊子に寄稿。競馬好きだから「馬連」=うまれんとなっているのでしょう。
3柄谷行人は文藝評論家。小冊子に寄稿。
4美空ひばりは昭和の大歌手。音が挟み込まれてます。
5この翻訳が出版された当時日本では佐川急便からのヤミ献金で金丸窮地へ。
6逆さに読むとシマダマサヒコ。作家。
7と8は危険!ちなみにカタカナ「エイエルビイ」はこの作品全体の主人公の一人ALP アナ・リヴィア・プルーラベル。旦那はHCE ハンフリー・チムデン・イアウィッカー。二人は居酒屋を営む。
9大澤正佳はジョイスを含むアイルランド文学の学者。そのあとの「オファリなごやか」は尾張名古屋なのだけどどういう関係があるのかわかりません。

それにしてもほんとにいまはいついつ時頃なのだ?然らばなん度時にわれらが生きておるかかを空間に詳述せよ。然り?(柳瀬訳) だが本当に今はいつの頃か。いかなる空間に何度われわれは生きているのか、詳細に説明せよ。よろしいか?(宮田訳) 前回の『フィネガンズ』で5W1H のWho とWhere が曖昧で全体が良く見通せないと叩きましたがここでは芝居という体裁で記述されているのでこのような表現が登場するのだそうです。
わしらはいったいどこに?して、空間の名においていつあたりに?わからない。見言ないもの。あなたもそうじゃないこと。
そしてこのあとカメラワークを意味する単語が登場します。「クローズアップ」「フィルム続行」「転換場面」そしてそこで演じられているのは子供を気にしながらのALP とHCE の夜の営み。そしてそれを記述しているのがベッドの柱になりすました四人の福音記者を思わせる老人だそうです。たしかに不埒。

詩的な美しい表現でラストを迎える。それは『ダブリナーズ』の『死せるものたち』を思い出させる。がちゃがちゃした混乱から突き抜けた静寂へ。
鴎が一羽。鴎たちが。とおくの声。やってくる、とおくからおとうさんが!ここで終わり。ではわたしたちを。フィン成ーれ、また!取って。あなたのやさしいくちづけを、わたしのわたしの思いでに!幾千の果てまでも。くちび。の鍵を。わたしの与!ずーっとおわりのいとしいえんえん(柳瀬訳)
鴎が一羽。鴎が数羽。遠い父の呼び声。行きます。父さん!これで最後。それからわたしたち。最後よ(フィン)ふたたび(アゲイン)!抱いて!あなたにそっと口づけを。水辺の思い出と未来のために!あなたとともに千年ののちまでも。ルプス。鍵を。さあ。行く手を独り最後に愛されて彼方へ(宮田訳)
ジュンパ・ラヒリ その名にちなんで 新潮社 小川高義訳 04年(03年)
帯にはこう記されています。『停電の夜に』から4年。ふかぶかと胸にしみる待望の初長編!
ゴーゴリーと名付けられた子どもが大人になって自立するまでの成長記録といえばそれだけのお話なんだけれど帯に偽り無しの素晴らしさでした。でここからはあくまでもこちら側に寄せ過ぎの感想。最近は本を読み終える度にキーボードを叩く。『ねじまき鳥』で『ホワイトアルバム』のことを自分勝手に叩いた。そしてこの小説を読んでいる最中ゴーゴリーが14度目の誕生日余りの来客者の多さに居心地わるく自分の部屋で聴くのが『ホワイトアルバム』の第三面(Birthday から始まる)なのだ。そう云えばインドからアメリカに渡って来た両親が使った飛行機はBOAC (British Overseas Airways Corporation )なのだがその単語はBack In The USSR で使われている(余談だが68年父が英国ウエールズに留学した時に使ったのも同じ飛行機会社)。ゴーゴリーが彼女のモウシュミと出かけたディナーパーティーで赤ん坊の名前をつける話題が出た時に調子にのって「ジョンとかポール」と発言する人もいる。そしてとうとう「プルーデンスなんてどう?」て発言まで飛び出す。(Dear Prudence もハワイトアルバムに収録。大好きな曲です )。それまで黙っていたゴーゴリ―はこう断言して場をしらけさせる。「完璧な名前なんてない。およそ人間は十八歳以上で改名の自由があるべきだと思う。それまでは代名詞みたいなものでいい」そして物語が終盤へ向かう頃彼はCD で『アビーロード』のかつてレコードだとB 面だった所まで飛ばして聴き始める。(Here Comes The Sun からだ)ゆるやかに大団円を迎える(The End . Her Majesty)。『ホワイトアルバム』がインドから戻った四人がバラバラに録音したレコードなら『アビーロード』は最早解散は避けられないという状況故にかえって四人の結束力を高めて作られたレコードなのは有名な話です。だから異常に完成度は高い。この小説も最後は一致団結してやるべきことを済ませ個人に戻って行きます。増々余談。この本を読み終えた後当然アビーロード聴き直しました。やはり完璧。『ゴールデンスランバーズ』を聴くと泣いてしまいます(伊坂幸太郎の小説は何故この曲をタイトルに使ったのかな。読んでないので知りません)。
デヴィッド・ロッジ 大英博物館が倒れる 白水社 高儀進訳 92年(65年)
「子持ちの大学院生アダムは、今日もおんぼろスクーターに乗って大英博物館の閲覧室に出かけたが、次々と珍無類の事件に捲き込まれていく。性の悩みの悲喜劇を描く、ロッジ会心の出世作」(帯より) では恒例の繋がり重なりから。主人公が住んでいるのがバタシー発電所付近。ブライトンからロンドンへ戻る時に写真におさめる。交通渋滞でバイクが進まない原因を作ったのがビートルズ。
基本テーマはローマンカソリック故の避妊の問題です。(今回ロンドンで買ったモンティー・パイソンのレコードに大胆にも茶化した Every Sperm Is Sacred が収録されています)。偶然会った薬局で知り合いの神父は声を張り上げてこういうのです。「避妊は神から与えられた生命を殺すにほかならず、そのための忌わしき品を売る者は、麻薬患者に阿片を売る者と同罪なり!」
時々妄想に走るアダムは既に3人の子持ち。そしてまた?という危機が。彼は論文を書き上げるため閲覧室に毎日でかけているけれどいつ書き終わるのかメドがたってない。朝出かける前に嫁バーバラにパンツをきくと全て洗濯されている始末。仕方なく嫁のを履いて出かける(結果的には救ってくれるのですが)。おませな長女クレアがとどめを刺す。「服装倒錯者って頭が弱いんで女の人の服を着たがる気の毒な男の人だってお母さんが言ったわ」ドアを閉めようとすると中からクレアがバーバラに大英博物館にはほかにも服装倒錯者がいるのかどうか訊いている。大爆笑でした。
さてこの小説は様々な英国文学を緩用したり引用しながら進んでいきます。「人間の排泄作用はジョイスその他」(これは『フィネガンス』でしょう)そしてエピローグはバーバラの独白で『ユリシーズ』の手法と同じく句読点なし。漢字混じりから徐々に減り最後は完全にひらがなだけ。眠りに落ちていく様子なのでしょうか。
丸谷才一 輝く日の宮 講談社 03年
ジョイス等の翻訳家としてのイメージが強い丸谷さんですがいやぁ最高に面白かったです。上半期TOP3 に入りそうです。そもそもこれを買ったのは江國香織『間宮兄弟』に登場したり何故か職場で問い合わせがあったりしたからなのですがサービス満点の小説でした。『源氏物語』に『輝く日の宮』という巻があったという言い伝えがあってそれを検証するという側面が大半を占めているのでいわば学術書みたいな感じです。そこから連想したのはエーコの『薔薇の名前』、ブラッドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』やボルヘスだったり。だから『源氏物語』をしっかりと読んでいればより楽しめたはずです。でもそれはそれ充分楽しめたのです。
学者を父に持つ長女安佐子は順当に学者になります。そのやりとりだけでも楽しめるし学者社会の閉塞性も楽しめるていになってます。『芭蕉はなぜ東北へ行ったのか』では新説を披露しそれにたいして定説をたてに論駁しようとするじいさん教授。その定説はどこに書いてあるのか、と訊ねる安佐子。場内ざわつく。
『日本の幽霊シンポジウム』。司会者は安佐子には絶対源氏のことは語らせるなと注意されていたのだけど(というのもそこには「源氏学者」が出席)やはり大先生が話をふってしまい大混乱。とうとうクライマックスの源氏物語の成立史を発表せざるをえなくなる。源氏学者篤子は黙っちゃいない。中学時代に書いた「極左の大学生との恋愛小説」をネタにされ論文じゃなく独創的な小説を書けば良いと。(実はこの小説が原因で盗聴までされる)。安佐子はしごくまっとうな反論する。「小説にはかならずモデルがある、モデルがなければ書けるはずがないといふ素朴な、リアリズム的偏見による思ひ込みで、ずいぶん迷惑しました」。
では軽い繋がりを。ホーソーンが登場。(読んでませんが)。ヘンリー・ジェイムズがホーソーン論で述べたのを要約すると「アメリカには過去がない」。「現在は過去によってしつこく追ひかけられてゐるし、虚構は現実をあくどく塗ってゐる」(安佐子自身の私生活も『源氏物語』に倣う形でパラレルに進む)「すべてすぐれた典籍が崇められ、讃へられつづけるためには、大きく謎をしつらへて、世々の学者たちをいつまでも騒がせなければなりません。惑はせなければならない」(ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ』のことも念頭にあったのかな?)この小説のエッセンスじゃないかと思いました。
スティーヴン・ミルハウザー 三つの小さな王国 白水社 柴田元幸訳 98年(93)
素晴らしい!人に薦めたくなったり内容を話したくなるくらいの大傑作です。
三つの中編から構成されている悲劇ですが通底しているテーマは芸術と生活の関係性。一つ目は手描きと一人(つまり分業じゃない)にこだわるアニメーターの話。かれが最期に手掛けるのは『月の裏側への旅』というタイトルの膨大なドローイングからなる作品。Pink Floyd - The Dark Side Of Moon を連想せざるを得ませんでした。そしてエンディングはやはりPink Floyd - Wish You Were Here 。67年のデビュー時リーダーだった Syd Barrett はアメリカで質の悪い LSD が原因で頭が吹っ飛ぶ。TV映像で観た彼は口パクもせずじーっとカメラを見つめているだけだった。他のメンバーは困り果てた感じで口パクを代行していた。 そんな彼を失ったメンバーが作り上げたのが上の2枚のアルバム。
二つ目のテーマは物語論。だれが話者なのか。事実なのか。虚構なのか。不思議なのはまったく難解じゃない文章なのにどうしてなにも言葉が浮かばないのかという問題。「厳格さと明確さこそ美徳であり、ありえないものそれ自体ですら精緻に描き出されてしまう工芸にあって、何かが失われてしまっている危険はないだろうか?」このあたりに答えがありそうだ。最後は展覧会のカタログという体裁をとっている。自画像を描いている時期の記述に『進行中の作品』という語が使われている。ジョイスが『フィネガンズ』の正式なタイトルを発表するまでそう呼ばれていた。そして自画像は Self- Portrait 。『若き芸術家の肖像』も略されてポートレイトと呼ばれる。たんなる偶然か? アニメーターの話も画家の話も架空のもののはずなのにひょっとして実在するモデルがいるんじゃないかと思ってしまう程リアルです。ぼくは興奮冷めやらぬ筆跡でレシートの裏に(読みながらメモを取っている)こう書いた。Art のこちら側とあちら側と中間の狂気。(「中間」はよくないな。「芸術そのものの」かな)。


夜の姉妹団 とびきりの現代英米小説14 篇 朝日新聞社 柴田元幸編訳 98 年
「ミルハウザー最高やん」と興奮さめやらぬままあとがきの著作リストを読んでいるとかつて読んだものがあった。「もう処分してしまったかな」と高く積まれた本の中発見。再読決定。他にレベッカ・ブラウンやドナルド・バーセルミも収録。「理解に色濃く染まり、説明と洞察と愛情が鬱陶しくみなぎる世界にあって、物言わぬ姉妹団の団員たちは、定義を逃れることを欲し、神秘的で不可解なままでありたいと願っている」という文章はウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の有名な定義「語ることのできないもの、これについては沈黙しねければならぬ」を思い出さずにはいられませんでした。 レベッカ・ゴールドスタイン『シャボン玉の幾何学と叶わぬ恋』は三人の個性的な母娘の関係を描いたもの。クローイが娘フィービーに人形を与える。「クローイの企てはいささかうまく行きすぎた。フィービーはクローイの演技にすかっり夢中になってしまい、それ以後二度と一人で人形を手に取ろうはしなくなった。クローイに頼んで、自分の代わりに人形遊びをしてもらうのである」演目はギリシャ神話!古典学の学者故。笑った。ジェームズ・パーディー『いつかそのうち』も悲しい展開なのに笑わざるをえない。主人公は刑務所出所後よくしてもらった家主を探し求めるのだが刑務所内で囚人仲間に殴られた後遺症で「二十年の全人生で起きた何もかも思い出せるのに、家主の名前だけは思い出せなくなってしまっていたのだ」「名前のわからない人間を探すほど難しいことはない」ゲイだった家主に会えるんじゃないかとポルノ映画へ足繁く通った。だがお金が底をつく。「本格的な絶食生活に入った。いまにして思えばこれが大きな間違いだったかもしれない。だけど大きな間違いの連続から成る人生のなかで、ひとつの間違いが何だというのだ」そして最後どうなった?悲しいけど笑えます。ルイ・ド・ベルニエール『ラベル』は幼少期からの収集癖がこうじて主人公が集め出したのはキャットフードのラベル。妻に出て行かれた。「私は家事の経験がまったくゼロだったのだ。結局、妻にお金を払って、週に一度掃除に来てもらう破目になった」「コレクションが世界的な規模に広がった時点で、私の経済状態も危機に陥った」そしてクビ。「パンは鋸を使わねば切れなかった」何日も前の古いパンを買わざるをえなかったのだ。しかし起死回生の逆転劇が始まるのだ。ウィル・セルフ『北ロンドン死者の書』は死んで葬式も済んだ母を街中でばったり見つける話。説明を請う息子に母はこういう。「人は死ぬと、ロンドンの別の場所で暮らすのよ」「おかしなことにね、知り合いの死者に会う人はほとんどいないみたいなのよ。この都会がどれだけ大きくて人が多いか、よくわかるよね」翌日母は会社に電話をかけてくる。主人公が思った最後のパラグラフがものすごく上手い。
村上春樹 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 新潮社 85年
ボブ・ディランによる(?)変なイラストがあしらわれている「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」の版画の一部と思われるものがあしらわれている「世界の終わり」がパラレルに進行します。 ピンク色の表紙には何かの(右脳と左脳?)浮かし彫り。そして目次の前頁に「世界の終わり」の地図。そして箱入り。 外から見た特徴です。
「何かが、何かの力が、僕のこの世界に送り込んでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ」(P 155)村上春樹の小説はずっとこの状況のようです。それはカフカから受け継いだものだと思う。そして村上春樹とほぼ同時期にデビューしたポール・オースター。そして伊坂幸太郎や三崎亜紀へと受け継がれる。
「人は自らの欠点を正すことはできないのだ。人の性向というものはおよそ二十五までに決まってしまい、そのあとはどれだけ努力したところでその本質を変更することはできない」(P 231)科学的なのか経験論的なのか判らない断定は人を困惑させる。僕は完全に手遅れだから。でも例えば三歳だったらどうなの?とか疑問を生みもする。この頁で主人公はツルゲーネフやスタンダールを読んでいる。そしてドストエフスキーやトルストイにも思いを馳せる。良書の水先案内人としての側面も村上作品に共通する特徴だ。良い書き手である前に良い読み手である。
「理解することのできない言葉が囁かれていた。そしてそれは突然浮かびあがり、突然また闇の底へと沈みこんでいった。ひとつの断片と次の断片のあいだには共通点らしきものは何もなかった。それはまるで放送局から放送局へと素早くラジオのダイアルをまわしていくような作業だった」(P 262)ちょうどこの時期職場ではジョイスの『フィネガンズ』を読んでいたのですがまさに僕が陥っていた状況でした。そして実際ラジオでの競馬中継のような描写があったものですからメモを取りました。
ある意味 mad scientist の博士はフロイトやユングの名前を例に出しながら自発性について見解を述べた箇所でこんなことを語ります。「形而上学というものは所詮記号的世間話にすぎんです」(P 393)。こういった断定は村上作品の一つの特徴としてよく登場します。そしてかなり進んだ頁でも「細かく言えばあんだが足を右に出すか左に出すかで世界は変わってしまう」(P 429)つまり身体論です。 小説全体の要点となるような主人公の長い独白がある。「かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。(中略)『緑色革命』だって読んだし、『イージー・ライダー』なんて三回も観た。しかしそれでも私は舵の曲がったボートみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?私にはわからなかった。絶望なのかもしれない。ツルゲーネフなら幻滅と呼ぶかもしれない。ドストエフスキーなら地獄と呼ぶかもしれない。サマセット・モームなら現実と呼ぶかもしれない。しかし誰がどんな名前で呼ぼうと、それは私自身なのだ」(P 522~523)さらに先で「ぐるぐるとまわっていつも同じところにたどりつくのだ。それはまるでメリー・ゴーランドの馬に乗ってデッド・ヒートをやっているようなものなのだ。誰も抜かないし、誰にも抜かれないし、同じところにしかたどりつかない」(P 560~561)こういった断定は大学生時代夢中に読んだセリーヌの『夜の果ての旅』を思い出させる。
 ところで単なる偶然だと思うのですが、ヴィム・ヴェンダース監督の傑作ロードムービー『夢の涯てまでも』の原題は Until The End Of The World といいます。スト―リーは全く違いますが邦題を付けた人間の頭にはこの小説のことが少なからずあったような気がするのですがどうでしょうか。

村上春樹 ねじまき鳥クロニクル 新潮社 94年95年
昨年ロンドン旅行に持参して読んだ『象の消滅』短篇選集1980ー1991に収められていた『ねじまき鳥と火曜日の女たち』を発展させた長編作品。3月2日から10日まで夢中になって読んだのですが話が非常に錯綜していてこういう作品だと一言では片づけられません。そこで気付いたことだけを叩きます。 奥付を見ていて気付いたことなのですが発行年月日に曜日まで記されていることです。他の書物で見た記憶がありません。第1部泥棒かささぎ編と第2部予言する鳥編は1994年4月12日 火曜日 第3部鳥刺し男編は1995年8月25日 金曜日。新潮社の営業さんも知らなかったのですがその後判明。 ―『ねじまき鳥と火曜日の女たち』(「新潮」1986年1月号)という短篇を元に書き上げたのが『ねじまき鳥クロニクル』です。第1部「泥棒かささぎ編」と第2部「予言する鳥編」は「新潮一九九二年十月号〜九三年八月号」に十回連載されたものに、加筆され1994年4月12日火曜日に単行本化。 第3部「鳥刺し男編」は書き下ろし。但し十章の「動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」は「新潮」(一九九四一二月号)に短篇小説として掲載されたもの。単行本としては1995年8月25日金曜日発行。―つまり「火曜日の女たち」からだと思うのです。 ではここからはあくまでも僕の頭を通過した記号。『罪と罰』『ライ麦畑』『木のぼり男爵』そして何故だかBeatles - Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey というタイトルと次の歌詞。 The deeper you go the higher you fly . The higher you fly the deeper you go. Your inside is out and your outside is in . Your outside is in and your inside is out . 可能性は限りなくゼロに近いのですが村上さんの頭の中にこのフレーズが万が一あったとしたらこの小説全体のバラバラ感はインドから戻ったジョン、ポール、ジョージ、リンゴの四人がそれぞれ書きためていた作品を持ち寄った『ホワイトアルバム』に通じる混乱した感じを連想させます。強引過ぎますかね。


村上春樹 スプートニクの恋人 講談社 99年
話はすみれとミュウの披露宴での出会いから始まる。ケルアックの『オン・ザ・ロード』がきっかけだ。 すみれは作家をめざしピアニストへの道を断念したミュウは貿易会社を父から引き継いでいる。小学校の先生の「ぼく」は背景に引っ込んでいる。が後半ある出来事のために前面に出て来ざるをえなくなる。 村上春樹の小説の特徴である様々な固有名詞やサディスティックなエピソードそして上でも叩いた「逝って(行って)しまったもの」と「残されたもの」など慣れてしまえばとても読みやすい作品です。 気になった固有名詞を挙げると『若き芸術家の肖像』ージェームズ・ジョイス。KLM 航空ー最近ロンドンへ行くのに利用しているアムステルダムの航空会社。意味在る偶然の一致もあった。大ヒット映画『踊る大捜査線』の第三弾に合わせてテレビで放送していた深津絵里の役名はすみれさん。そして最近文庫化されたポール・オースターのタイトル『ティンブクトゥ』ー架空の地名だとばかり思ってましたがアフリカの地名だそうです。心に突き刺さった文章を引用します。「どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか」「本や音楽がぼくの一番大事な友だちになった」つまり穴埋めをしてくれる存在ということだろう。N. ホーンビィ『ハイ・フィデリティー』にポップ・ミュージックを聴くから惨じめなのかそれとも惨じめだからポップ・ミュージックを聴くのかみたいな記述があったような気がします。補完関係にあるのでしょう。まさに僕の現状をついた表現です。この小説の続きがあるのなら読んでみたい。ところで単なる読み違いだと思うのですがギリシャが後半の舞台になるからだけではないと思うのですが「ぼく」の役割はソクラテスを連想させる。相手が真理に近付くための産婆術を請け負っているような気がしました。


村上春樹 海辺のカフカ 新潮社 02年
たった五日間で時間を作っては夢中で読みきった素晴らしい長編小説でした。タイトルから爽やかなイメージを持っていたのですがとんでもない悪夢や、官能的でサディスティックな章が突如現れます。フロイトやユングの心理学等の概念装置とともに古事記や源氏物語などをサンプリングしながら重層的にこの作品は進みます。様々な人がそれについては既に言及しているはずですので僕自身が気付いたことを記しておきます。(これも誰かが言及している可能性は大きいのですが)。中野区から家出してきたカフカ少年の持ち物の中に MD プレイヤーがあります。三枚のディスクの内の一枚が Radiohead / Kid A です。僕が彼らのアルバムの中で数多く聴いた大好きなアルバムです。内省的でエレクトロニカを大胆に取り入れたアルバムなのですが、その一曲目のタイトルが Everything In Its Right Place なのです。「あらゆるものを正しい場所へ」。まさにこの小説のモティーフのような気がするのは穿った見方過ぎでしょうか。

Parliament - Mothership Connection _ LP _ 75 _ Funk
部屋の再発は幾度も聴いた。でもこれはオリジナル(この病魔はほんと恐い)。何が凄いってその当時は気にもしなかったけれど Brecker Brothers が参加している。同一人物かどうか怪しいけれど Handcuffs のクレジットにJ. Mclaughlin の名前。マイルスやトニー・ウィリアムスのグループにいたジャズギタリスト。架空のラジオ局が何かを伝える冒頭の曲から昔大好きだったブリブリいってるラストまで勇気をくれる全七曲。Give Up The Funk のドラムが所々置きにいっているように聴こえるのは8つめのハイハットを抜いて頭で合わせているからか?その証拠にフィルインが入っていると繋がって聴こえる。
Perfume - Game _ CD_ 08_ J-Pop
完璧!降参です。ヒット曲「ポリリズム」がかすむくらい他の曲も素晴らしい。「Game」 の中低音のバースト具合。スピーカーが飛びそうです。切ない歌詞の「Baby cruising Love」泣きたくなる「マカロニ」圧倒的な「 Butterfly」 。フィルターを通したロボ声だから分かりにくいけれどメロディーはユーミンっぽいんじゃない?だからレトロフューチャーな感じがするのかもしれない。渋谷系から秋葉系まで取り込んだこのクオリティーであればヨーロッパ(特にパリ)やロンドンでライブすればかならず成功でしょう。ちなみにリンクを貼っている miko さんは広島出身なんだけどお母さまの友達の娘があーちゃんだそうです。
The Pharcyde ― Bizarre Ride II _2LP _92 _Hip-Hop
四日市に住んでいた頃。足繁くレコードを買いに名古屋に出かけた。バナナ栄店でたしか店長は S 氏で「今流れているのかっこいいですね。誰ですか?」と訊ねこのレコードを知った。たしかアナログは売り切れていて再入荷後連絡してもらった記憶がある。10年前だ。01年 FM で西海岸アンダーグランドヒップホップの特集を組んだ時このアルバムから Soul Flower (Remix)と Return Of The B-Boy を選んだ。そして月日は流れ NHK のTR で(司会の一人は本上まなみ嬢)リップスライムがゲストだった時音楽的ルーツとして取り上げられたのがこのレコードだった。メンバー全員が文句を付けない好きなものだったらしい。たしかに彼らの「雑念エンタテイメント」とSoul Flower とは 相通じる音楽性がある。DJ FUMIYA は番組内でカラーレコードをスピンした。へえそんなレコードあるんだ。って思っていた。そしてオリジナルが見開きで色付きだということをかなり後で知った。。そしてオリジナル探し地獄へ。4000円で発見。決して安くないけど大好きレコードだから。ところが。見開きじゃないし青と黄色だし何故か曲順が違っていてReturn Of The B-Boy が D 面頭に来ている。オリジナルじゃないの? Hip-Hop にも好きな曲は沢山あるけれどアルバム通じて飽きないレコードTop 5に確実に入るレコードです。名古屋で最初に買ったのはEU プレスで思いっきりリリース表示が2000年になっている。それがなんだか嫌で。オリジナルとEU 盤見ていて気付いたのだけどジャケットのデザインが大幅に違っていた。何故?とにかく開放感溢れるアルバム。全曲好き。ジャジーでディープな On The DL . 憂いに満ちソウルフルなPassing Me By .そしてとにかくかっこいい Return Of The B-Boy !
Primal Scream - If They Move , Kill 'em _12"_98_ Rock_CRE284T
A1 If They Move Kill 'em - My Bloody Valentine Arkestra A2 Darklands
B1 12" Disco Mix B2 Badlands
前作Vanishing Point に収録されていたそれほど印象に残ってなかった曲をマイブラの Kevin Shields がミックスしたシングル。名古屋のバナナ栄店で壁に飾ってあるのを手にとり「サイケデリックの極北」みたいなキャプションに釣られてそれほど期待もせずに聴くと凄くてさ。ほぼ毎日ヘッドホンで聴きまくる。とにかく音の洪水!こんな凄いのがシングルのみだなんてもったいないなぁとか思っていた。しかしこれが起爆剤となりXTRMNTR の方向性が決まった記念すべきシングル。アルバムには MVB ARKESTRA If They Move Kill 'em と曲名を入れ替えて収録。A2 はギターの逆回転などをほどこしたジザメリのカバー。B1はオリジナルバージョンを整理されたポストパンク風にしたもの。B 2 はA1 のダブバージョン。
このシングルは Sam Peckinpah(「荒野のガンマン」や「ワイルドバンチ」を撮った映画監督)John Coltrane(ジャズ。サックス奏者)Ian Curtis (ジョイ・ディビジョンのボーカル)Rosa Ruxemburg(政治理論家にして革命家)に捧げられています。
プライマルのシングルの無音の溝の部分にはメッセージが刻まれていて例えばCome together には You might say I'm dreamer John Lennon But I'm not the only one John Lennon 、と『 Imagine』 の歌詞。 このシングルは意味がよくわからないのだけど A 面はRehab B面はIs For Quitters

Primal Scream - Swastika Eyes _ 12" _ 99_ Rock_ CRE326T
A swastika eyes chemical brothers mix
B swastika eyes spectre mix
本当の意味での先行シングル。出た当時は少しがっかりしていたんだよ。なんでこんなディスコみたいな曲なんって。もっとぶっ壊れていて欲しかったんだよな多分。改めて聴くとまぁまぁ酷くはないけどめっちゃ素晴らしいと言うわけでもない。ケミカルとは彼らがまだダスト・ブラザーズと名乗っていた頃にjailbird のリミックスを担当した94年以来コンスタントに絡む。B面のミックスを担当しているJags Kooner は Andrew Weatherall とともにSabres Of Paradise を組んでいたメンバー。 例の溝文字。A - Usual rubbish ? B- It'll Rot Your Boots

Primal Scream - Swastika Eyes _ 12"_ 99_ Rock _ SW2
A swastika eyes spectre mix
B swastika eyes david holmes mix swastika eyes david holmes instrumental
彼らのディコグラフィーを眺めていてプロモとしてのみ存在しているのを知り探していたシングル。なんせ大好きなデビッド・ホルムスですからね。見つけたのはロンドンノッティングヒルの Music & Goods Exchange でたった2£。かなり人気が落ちてから発見したんだと思う。 A 面は既発表と同じだと思っていたのだけど若干ミキシングが違っているような気がする。 そして B 面!流石だよ。後のエレクトロクラッシュを準備するような音造りがされています。 溝文字は上に同じ。

Primal Scream - Xtrmntr _ 2LP_ 00_ Rock_ CRELP239
RO か bounce で得た事前情報で今度の新作にマイブラの Kevin Shields が参加していると知り否が応でも期待は膨らんでいた。そしてとうとう手にいれたのは四日市のレコ屋。ちょうどその頃は FM でDJ をやっていてそのアルバム内容の凄まじさに一人テンションが上がり2000年7月一ヶ月間4回を費やしてプライマルの特集を組んだほどの入れこみようだった。世間ではどういう評価なのか知らないけれど(たぶんいまだに『スクリーマデリカ』が上なんだろう)とにかくぶっ壊れた感じが素晴らしい。若い時はやんちゃで大人になるとまるくなるのが普通。でもプライマルは若い時はポップで大人になれば尖り出す。人に説明す時にはスピッツでデビューしてミッシェルガンになるバンドという風にしている。ではここではシングル以外の曲を軽く紹介。
Exterminator 打ち込みポストパンクファンク!コード感を殆ど感じないのは中庸部分を全部カットしているからか?produce - brendan lynch ーYoung Disciples の1st やPall Weller を手掛けた。
Pills 不穏当な気配を醸し出す似非Hip-Hop 。mix - dan the automator ーKool Keith とかつてDr Octagon を組んでいた(といっても聴いてない)。
Blood Money とにかくかっこいい!(60年代インパルス系?)ジャズやスパイ映画のサントラの要素をぶちこんだドラムンベース的ブレイクビーツ。この曲には沢山の人が絡んでいます。 brendan lynch , adrian sherwoodー ON - U レーベルでパンクとレゲエを繋げたプロデューサー(といってもこれまた聴いてない)ー前作Vanishing Point のダブ盤 Echo Deck を制作。additional production - david holmes テクノからスタートしブレイクビーツを経て今は?最も有名な仕事は映画 Oceans のサントラ?program - tim goldworthy ex UNKLE ! そして2000年代初頭ハイプだったディスコパンクなるムーブメントを広めたDFAレーベルを設立。
keep your dreams 唯一のオセンチ路線。なくてもいい感じがしたりするんだけどあまりにバキバキばかりだとなぁという配慮から収録されたのかも。
insect royalty これまた不穏な所を狙ったHip-Hop 。2曲は要らないな。
shoot speed / kill light これまた最高の曲。曲名はVelvet みたいだけど曲調は Stones ? 特に後半のインスト部分はJampin' Jack Flash みたい。produce - kevin shields ーマイブラ。ギターbernard sumner ーニュー・オーダー!

といった感じでとにかくその時代のクラブ系音楽の断面を切り取り、ロック人脈とともに料理したアルバムです。だからこんなにも様々な人たちが大集合するのです。これくらいばらけていないとロックじゃない感じがするのは『ホワイトアルバム』が僕にとってのロックの理想型だからかな。 インナーの Thanks to にクレジットされている名前の一人は liam howlett ー Prodigy のリーダー。 レコード無音部分の溝のクレジット
A-Free Staal Ram B- An Innocent Man C- Self Defence D- Is No Offence 意味がよく分からないのは A 面だな。どう見てもそうとしか読めないんだよ。

Primal Scream - Kill All Hippies _ 12"_ 00_ Rock_ CRE332T
A1 kill all hippies A2 the revenge of the hammond connection
B exterminator ( massive attack remix )
そしてアルバムからのシングルカット第一段!来たぁって感じ。バキバキエレクトロ二ックファンクな A1。ファズで歪ませたベースといいバキバキの打ち込みといい、とち狂った感じの上にボビーのへなちょこファルセットボイスが乗っかる。drum programing keith tenniswood (andrew weatherall とtwo lone swordsmen を組む)。多分冒頭の歌詞は you count the money , I got the soul 。you はhippies で殺さんとあかんと告発してるんでしょう。A2 はオルガンをヒューチャ―したジャズファンク。アメリカ南部志向です。
そして B 面。低音をより増強して凶暴になったリミックス。素晴らしい!流石だよ。 カーティス・メーフィールドに捧げらており例の溝文字も A -Curtis Mayfield B -Movin' On Up (彼の1st に収録されている大ヒット曲。以前ナイナイサイズの OP で使われてました)だからファルセットで歌ってるんだな。

Primal Scream - Accelerator _ 12" _ 00 _ Rock _ CRE333T
A1 accelerator A2 i'm 5 years ahead of my time
B when the kingdom comes
このシングルで Creation Records は15年にも渡る幕をおろす!
A1 はとにかくノイジーでぶっ壊れたロック。かっこ良すぎ。ボビーのボーカルも負けちゃいない。何かを通してんだろうな。ファズとか。mix はマイブラの kevin shields 。ひょっとしたらノイジーなギターも彼が演奏しているのかもね。my bloody valentine の大傑作 Isn't Anything の時代に舞い戻った感じが素晴らしい。やっぱりこうでないと。(僕の中ではそれほど Loveless は重要じゃない)。
A2 は60's garage band Third Bardo のカバーらしいけれど元曲を知らんので判断つきかねる。ベースはmarco nelson ーex young disciples !
B はもろWho をネタに使った曲。イントロは I Can't Explain だし。だからかギターソロはPaul Weller が12弦のリッケンバッカーを弾きまくる。ケヴィン・シールズはフィードバックノイズを担当。とにかくかっこいい本当の最後の一曲。溝文字はレーベル閉鎖などの諸事情から余裕がなかったのか刻まれず。
桜庭一樹 書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記 東京創元社 08年
朝日新聞の書評で読んで知っていたのだけどすっごい読書量です。なんでも年間400冊とか。たぶん読むスピードも速いのでしょう。無職じゃなくって作家さんなのですからどういう読み方をすれば400冊という信じられない数に到達するのやら。よくいますよね、薄いのとか児童書とかコミックとかカウントする読書人。あるいは松岡さんのような目次を大切に読んで大切と思われるところまでは斜め読みとか。はたしてそれが読書なのかどうか個人的には疑問です。そんな人たちに対して桜庭さんは小説が主なターゲット。たしかに短篇も含まれてましたが分厚いのが多い気がします。読み飛ばすことは不可能でしょ?
今回の軽い繋がり。現在職場ではボルヘスを読んでいるのですがたまたま『伝奇集』の『バベルの図書館』の途中で紐しおりをいれていた日にこの本を買って読みだしているとその部分のことが注釈として登場。なんでも角川文庫大人気シリーズの『GOSICK』の元ネタだと筆者自ら告白。なんとなく子供向きの小説だと軽く見ていたのですがそんな毒をもった小説だったんですね。桜庭さんがこれだけ小説を読んでいるのだから繋がりがあって当たり前なのですがたとえば未だ読んでないけれど部屋にあるスティーヴン・ミルハウザーの『マーティン・ドレスラーの夢』とかすこし愉しみなんだな。 この本を買ったか本当の理由はたまたま開いたページの『渋松対談Z』が目が止まったから。今でも連載しているのかどうか知らないけれど RO の名物連載でおもろいのです。たしか単行本も何冊かもってたな。あとどこかに川原泉の『本日のお言葉』(白泉社)もあった。 ちなみにこの本は2冊目で一作目を探し中。
J.D. サリンジャー ナイン・ストーリーズ 新潮文庫 野崎孝訳 74年(53年)
「ベージュ色のギャバジンのダブルの背広(わたしがとても得意に思っていた奴)にネーヴィー・ブルーのフラノのワイシャツ、真っ黄色のコットンのネクタイに茶と白のコンビの靴、それに(実はボビーの物でわたしには少々小さすぎる)パナマ帽をかぶり」これは村上春樹が書いたのじゃありません。
『ナイン・ストリーズ』はサリンジャーが発表した二十九編の短篇から九編を選び発表順に纏めた短篇集だそうです。読み終えた後に残ったのはなんだかとても後味悪いものばかりだなぁという感想です。あえてそういう短篇ばかりを書いていたのかあるいは選んだのかはわかりませんがけっして「おしゃれアイテム」じゃありません。「バナナフィッシュにうってつけの日」と「テディ」という不穏なタイプの短篇がしっかりと残りの七編を挟み込んでいるのもその理由ですが他の短篇もあえて神経を逆なでするような内容なのです。それは酔っ払いや女の相手の存在を全く考慮しない会話だったりするのです。
そんななかで唯一救われたのが「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」です。ここではちゃんと人らしい交流が描かれていて―それは少女エズミと若い軍人さんクレーとの会話で場所はロンドンの喫茶店。少女は会話を切り出す。「アメリカの人は、お茶を、軽蔑なさると思ってましたわ」その少女が次々とくり出す子供とは思えない発言に若い軍人さんも大人の対応を見せる。そして少女はフランス語でお別れを言って去っていく。しかしまた不快な人間関係に戻され個人の時間と自由とがはく奪される。ふと目に止まったのはエズミからのお手紙。彼女はクレーが物書きであることを知って「汚辱的で感動的な作品」を書いて送って下さいとリクエストしていた。自分の住所を知らせるため少女の方からよこされた手紙。それから6年後彼女から結婚式の招待状がイギリスからアメリカへ届く。都合悪く行けないのだけど。

J.D. サリンジャー フラニーとゾーイー 新潮文庫 野崎孝訳 76年(55, 57年)
本当に最高でした。でもこの作品をより楽しむためには『ナイン・ストーリーズ』を読んでいたほうが良いかな。というのは冒頭の『バナナフィッシュにうってつけの日』でこめかみを打ち抜いて自殺するシーモアから始まるグラース家の末っ子二人がフラニーとゾーイーなのです。女子大生フラニーは彼氏に折角会いに来たにもかかわらずとにかく全てに咬みつき台無しにしてしまう。彼女はおそらくなにも食べてなかったせいで気を失う。心配する彼氏をよそに彼女はある一冊の宗教本で得た行動を実践しながら『フラニー』は終わる。
そして『ゾーイー』が続くのですがよく分からない始まり方なんだな。書いているのが次男で世捨て人のような(電話なし!)大学の非常勤講師バディーなのです。読みながら戸惑っているうちにフラニーが倒れた数日後、役者ゾーイーが一方的に母に向かって喋りまくる。言葉の洪水に笑ってしまいます。フラニーはずっとチーズバーガーとコークで暮らしていた、と母が言うとゾーイーは「あんたは、単純率直かつ頑固一徹に探りを入れて、新約聖書全体に流れていながらこれまで気づかれなかった主調音を探りあてたんだよ。なるほど、食い物が間違っていたのか!キリストはチーズバーガーとコークで生きてたんだ。おそらくキリストは一般大衆にも―」そしてゾーイーはフラ二ーの寝ている場所へ行きエゴという問題にとらわれたフラ二ー(かつて長男シーモアのものだった一冊の宗教本のせいで同じ道を選んでしまうんじゃないかと心配し真剣で的確な言葉を紡ぎながら)「この宇宙は神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最後的決定権をもってるんだ」
電話をかけてきたのは次男バディーの振りをしたゾーイー。聞き手に徹し優しい言葉を紡ぐ。途中でばれるけれどね。
恒例の繋がり。またまたディケンズが訳注というかたちで登場。

J.D.サリンンジャー 大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章― 新潮文庫 野崎孝・井上謙治訳 80年(63年)
『ナインストーリーズ』に所収されている『バナナフィッシュにうってつけの日』で新婚旅行先で謎の自殺を遂げてしまうシーモアのお話2篇です。 いやぁ最高ですよ。特に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』!あまりにも滑稽でバカ笑いすることひっきりなし。シーモアは結婚式の当日いきなり失踪。グラース家から出席したのは次男のバディー。向かっ腹を立てているミュリエル側の親戚一同のハイヤーにバディーは何の因果か同乗させられてしまうんだな。こりゃやばいと自分の正体がばれないようにしてるんだけどその中の介添夫人が最初から知ってたんだと。しかも最悪なことにハイヤーはパレードのために立ち往生。遅々としてすすまない。針のむしろが続く。そんな同乗者の中に小柄な老人がいるんだけど最高で。 「お耳もお口もだめなの―つんぼで唖でいらっしゃるの!ミュリエルのお父様のおじさんですわ!」 車を諦め電話と涼しさを求めて『シュラフツ』(ところで何屋さん?)歩くものの模様替えのため閉まっていてしかたなくグラーク家のアパートへ向かうのでした。
そしてもう一つの『シーモア―序章―』ですが大学講師で作家の次男バディーがシーモアについて語るのですが。。。脱線につぐ脱線。いきなり独り言がカットインしたり(だめだ、だめだ、わたしはもう筆が止まらない。今の「状態」では、どうやらわたしは、もはや詩人としての兄の立場を主張しているだけではないようだ)
シーモアの韻文についての言及についてかなり長い引用になってしまうことを許してもらいたいのだが。(これは桝井の謝罪。) 「わたしは幼い頃から三十代をかなり過ぎるまで、一日に少なくとも二十万語は読んでいたし、しばしば四十万語近くということもあったのである。四十歳になって、はっきり言えることは、ほとんど書物への飢えを感じなくなり、若い淑女や私自身の作文に目を通す必要がないときは、だいたいにおいて身内から来る辛辣なはがきや種苗のカタログや野鳥観察者の会報(いろいろあるが)や、わたしが一年の半分を仏教寺院で過ごし、残る半分を精神病院で過ごすというデマをどこかで聞いてきた昔からの読者がよこす痛烈な「お未見舞」しか読まないことにしている。しかし、読書をしない人間の誇りは―あるいはその点について言えば、本の消費を非常に切りつめた人間の誇りは―ある種のたいへんな多読家の誇りよりも嫌味なものだということを、わたしも充分心得ているし、それだからわたしはそもそも初めから持っているなにがしかの文学的自負を失うまいとしてきたのだ(これは本気で言っているつもりだ)。その中で一番はっきりしている自負は、詩人なり散文作家なりが、直接経験から、あるいは二番、あるいは十番せんじの経験から書いているのか、あるいは自分ではまったくの独創と思いたいものを読者に押しつけようとしているのか、いつもわたしには見分けられるということである」
全てこんなとっちらかった感じに終始するんだよ。 「シーモアについての文章を書き終えるにあたって―どんなつたない文章にもせよ、また絶えずシーモアと一緒に主人公になりたがるわたしのエゴが、随所に顔を出すとは言え―何が善で、何が真実かを意識しないわけにはいかない」 だからこれは序章なんだし「一晩のうちにこれだけ書けばもう充分だ。わたしはすっかり疲れた」みたいな独白がいきなりカットインする日記ですらある。シーモアの周囲を固めつつ実像に迫ろうなんて気はさらさらないようです。
高橋源一郎 ぼくがしまうま語をしゃべった頃 新潮文庫 85年
サブカルチャー(マンガ、アイドル)からハイカルチャー(現代文学、現代詩)まで鮮やかに分析した評論が集められています。時代的にちょうどぼくが大学生だった頃のものが多かったので懐かしく様々なことを思い出しながら読みました。しかし谷川俊太郎や吉本隆明との対談はよくわかりませんでした。一番笑えたのは『言葉に餓えていた』です。高橋さんが(学生運動だったと思う)留置所に入っていた時の話です。言葉の禁断症状に見舞われる。同情した看守がもってきたのは歯痛剤『今治水』の空ビン。皆でそのラベルを回し読みし、朗読し、暗記までしてしまう。拘置所へ移管後。読書をモノラルからステレオに。友人が差し入れてくれる政治機関紙をちぎりポルノグラフの間に挟み込み読む。それに飽きると同じくらいの厚さの文庫を二冊用意し背表紙を破り、糊付を剥がし、全てのページをばらした後、一ページづつ交互に重ね合わせ第三の小説『暗夜回帰線』を創りあげて(暗夜行路と南回帰線の合本)二つの独立した物語を同時に書かねばならなかった作者の意図を探りながら読む。最後は本を三冊用意し全頁を分解し、独房にバラまく。目を閉じあらかじめ決めた枚数だけ拾い上げトランプのように入念にシャッフルし読む。いっちゃってるでしょ?この文庫を読んでいて思ったのだけど文体というか雰囲気を継承しているのが森見さんのような気がします。『ぼくと「動物園」の深い関係』でのこんな文章。ぼくもはじめはまともな高校生だったのに、いつのまにか「動物園」狂(フリーク)になっていたのさ。一度「動物園」狂になったものは、なかなか治らない。ぼくと同じ頃「動物園」狂になった、高校の友人はそれを「死に至る病」と読んでいる。ところで素晴らしい評論を読むと対象作品を読みたくなります。それは岩館真理子『エンジェル』、そうです少女マンガです。


高橋源一郎 文学がこんなにわかっていいかしら 福武書店 89年
大昔読んでいるはずなのですが内容はまったく忘れていました。雑誌『海燕』に書いた書評を中心に集めた本です。太宰の「トカトントン」からカルヴィーノ、ゲーム「ドラクエIII」や少女マンガ雑誌までが対象になっています。 では恒例の偶然の一致から。「ろって対中日戦ヲ見テイルヨウナ気ガシテクル」ちょうどこの時期日本シリーズで同カードが行われていた。この文章はアメリカのメジャーリーグの取材旅行での一節なのですがそこで出会った選手のロッカールームの上にフォークナーのペイパーバックが置いてあったことから話が始まり最近では誰が面白いかと高橋さんが訊ねると「ぽーる・おーすたーガイインジャナイカト答エタ」「『ガラスの街』ノぽーる・おーすたー?」「いえす」「アレハトテモ変ワッタみすてりーダッタネ。マルデぶらんしょガ書イタはーどぼいるどダナ」「オレハソノぶらんしょッテイウヤツノハ読ンダコトガナイガ、おーすたーハイイゾ、『開かない部屋』ハ読ンダカ?」「イヤ、未ダ読ンデナイヨ」「コレモ面白イナ」「読ンデミルヨ。確カニおーすたーニハふぉーくなーニ通ジルトコロガアルカラナ...」(わざとこんな書き方になっています)。ひょっとしてオースターを知ったのはこの書評でかもしれないなと思ったので引用しました。『開かない部屋』はその後柴田さんの訳で『鍵のかかった部屋』となったものなのでしょう。 ところでこの書評集では糸井重里氏(樋口かなこの旦那)の作品が高評価されているのですが特に頁をさいているのが『家族解散』という小説なのです。それでふと頭をよぎったのが『ホームレス中学生』でのお父さんの発言です。麒麟田村裕の父が家の前で家族に向かって宣言したのが『解散』という言葉。この小説が書かれる前に既にこんな単語を選ぶなんてすごいと思いました。 そして切実だったのは『「内輪」の言葉を喋る者は誰か』という富岡多恵子さんから批判された『優雅で感傷的な日本野球』にたいする弁明です。新聞や政治そして文学までもが「内輪」の言葉で語られている。固有名詞が頻出する村上春樹の作品はどうなのか考えてしまいました。「知っているー知らない」がその作品にはどれほど重要なのか?「知らなくてもいい」のなら使う必要はないはず。「知っていなくちゃだめなのか」だとするとそれこそ「内輪」の言葉じゃないのか。そんなことを考えてしまいました。
ちなみに装丁、挿画を担当されているのは松苗あけみ先生。妹が買っていた『ぶーけ』で『純クレ』や『HUSH !』を読んでいました。ここでちょっと自慢話。『HUSH !』連載当時全プレがあって「先生に応援メッセージを」みたいなのがあって僕も書いたのです。RO が出し始めた「Cut」という雑誌での松苗先生の連載も楽しみにしています、みたいなのを。すると何ヶ月後だったか思い出せませんが松苗先生が風邪で倒れられて一度連載が飛んだのです。ただ一頁くらいのもので炬燵(布団だったかも)で先生が皆さんから頂いたファンレターに励まされています、みたいな文章の中に「『Cut』の連載にコメント下さった方どうもありがとうございます。最近ではどんな音楽がいいのかまた教えて下さい」ってあったのです。『方』は僕やろって。女性に『方』は使わんやろ。って。有頂天でした。残念ながらその『ぶーけ』も手許になくどうしようもないのですが。『ナイトスクープ』にでも頼んでみますか。


高橋源一郎 文学じゃないかもしれない症候群 朝日新聞社 92年
これも大昔読んでいますがいやぁ面白い。書評を集めた本なのですが90年春夏コレクションについてのレポートがあったりもします。まず「名作はつらいよ」で大笑い。分類方法が面白いのです。現役の名作と引退した名作。前者は太宰。後者は田山花袋の「蒲団」。知っているけれど読んだことのない作品。そしてその両者の間に「干されている名作」があってセルバンデスの『ドン・キホーテ』。僕も読みましたがそれはあくまでもダイジェスト版。原作はすごい長さで冗漫だそうです。―『ドン・キホーテ』は世界一の有名人なのに、ほとんど誰も実物を見ていないことになる―
『「有害」コミック問題を考える』というのが収録されています。「貧しい漫画が多過ぎる」と朝日新聞が90年九月四日社説を発表。高橋さんの反論は極めて明確です。―文化は「クズ」の集積そのものである。もし「表現の自由」というものがあるとするなら、それは「クズである自由」なのだ―
他方「方法が貧しい」という意味では。サドのポルノグラフィーを例に上げ―もともと「ユートピア文学」の一種であるとされている(中略)「有害」コミックの大半はサドの確信もない、お手軽な、無限に薄められたポルノグラフィーにすぎない。だが、人はどんなに薄められていても、その「毒」を嗅ぎわけることができる―
そして最後に「青少年に与える悪影響」についてこう記しています。―「有害」コミックそのものよりその規制を叫ぶ連中の有形無形の抑圧の方が遥かに「性的非行」の原因となる可能性が高いということだけは断言できる―昨年東京都が可決した条例に今回は出版社側も対抗していますね。
その他ジョイスの『フィネガン』や太宰の『親友交歓』などが取り上げれています。装画および漫画は前作に続き松苗あけみ。


高橋源一郎 文学王 ブロンズ新社 93年
これも大昔読んだ本です。雑誌や新聞などに発表した書評をまとめたものです。 漱石の『明暗』から『サラダ記念日』そして『ひょっこりひょうたん島』そしてジュリアン・バーンズまで幅広く取り上げられています。
たぶんこの本を読んだかすかな記憶がすこし残っていてその後の読書傾向が決まったのかもしれないなと今思います。何故って殆どは今尚読んでいない作家が多数を締めるにもかかわらずここ数年読んだ作家がかなりの数に上るからです。漱石然り一葉然りカルヴィーノ然りロス然り。
でもこの本をかつて読んで直ぐに飛びついた作家もいます。クンデラとジュリアン・バーンズです。前者は『存在の耐えられない軽さ』しか読んでいませんが後者はかなりの冊数を読む程好きな作家ですからね。特にクンデラの『小説の技術』に関する分析はとてもためになりました。クンデラはそこで近代の創始者にデカルトとならんでセルバンデスの名を出す。『忘れられた存在』を探究する試み。最早存在していなかった武士道精神のことでしょうか。
―リチャードソンによって『人間の内面』が問題となりはじめました。バルザックは歴史的存在たらざるをえない人間を描き、フロベールは『日常』という未知の大陸を踏査し、トルストイは行動の非合理性を探究しました。それから小説は『時間』にもその触手を伸ばしました。プルーストは『失われた過去』を、ジョイスは『うつろいやすい現在』を、マンは遥か遠い過去から我々の現在をあやつる神話的過去をそのテーマとしたのです―
そしてそこに実存主義的な分析を取り入れるのです。つまり―実存が本質に先行するするのみならず、実存するそばから本質を再定義しつづけるのである―鮮やかだし気になる作家ばかりです。
『こういうのをサーヴィス満点の純文学というんだろう』ではジュリアン・バーンズの『10.5 章から成る世界の歴史』(現在では『10 1/2 章で書かれた世界の歴史』)を取り上げる。高橋さんは原書で読まれたのでそうなっています。
そして最後は『ナボコフの手紙』。ヒチコックとのやり取り(映画『引き裂かれたカーテン』にそのアイデアは使われる)そしてキューブリックからの要請のもと『ロリータ』の脚本を手掛ける。
そんなこんなの盛りだくさんの書評集です。


高橋源一郎 文学なんかこわくない 朝日新聞社 98年
―この本の『失楽園』の部分について。私もこの本を読んだ時、「おもしろくない」と思い、なぜこの本がベストセラーになるのか疑問でした。当時、夏目漱石とか重い文章も読んでいたせいか、文章として重みがない、きつく言えば軽すぎる作品。中身もH な描写ばかり、また、血が逆流だの皮膚がどうのだの普通の人が表現しない仕方で登場人物が会話で話す。これは、渡辺さんが医者出身だからこのような表現をして、作品を(私にとっては)変なものにしているのかなと思っていました。でも、そのような感想は、私と母ぐらいのもので、友達とかは、いい作品だといい、議論することもなく、私は変なのかと思っていました。(人がおもしろい、いい作品だというのをケチつけるのは。)だから、自分は、この本がベストセラーになるのは単にみんなが H な描写を読みたいだけで、それが反響を起こしているのだと思い、決して文章がすばらしいからではないのだと思わせていた。だから、高橋分析を読んだ時、私は『失楽園』に対してもっていたものが、すっきりしました。やっぱり文章が下手だったんだと。もう分析力はすばらしかった。高橋分析に会わなかったら、私は棚にある「失楽園」をいつまでも怪訝にみていたにちがいない―
四日市にいた頃つき合いかけた女の子はとても真面目な大学生で本を貸すたびに感想を書き添えて返してくれたのです。長い引用は原文のままです。
その他「(こんな作家でも)生きていてもいいですか」では『実篤ウィルス』の分析をおもしろくやってのける。そしてなにより素晴らしかったのは当時ベストセラーだった『教科書が教えない歴史』に対するラジカルな分析です。『はじめに』を全文書き写しそれにたいして徹底的に疑問をあげていきます。そして最後高橋さんは日本=日本語という結論を導き出します。―書いてあるのは、ニッポン、チャチャチャ。バレーボール日本代表へのシュプレヒコール、そればかり。それでは、それでは、「日本」が「日本語」があまりに可哀そうではありませんか―
その後議論がどういう形で発展したのかあるいはあったのかどうかすら知りません。


高橋源一郎 さよなら、ギャングたち 講談社文庫 85年(82年)
う〜ん難しい。どうして、と考え出したら増々深みにはまっていくポストモダン的?あるいは前衛的な小説です。それでもプロの読み手はしっかりと存在していて『群像新人長篇小説賞優秀作』品作なのです。裏表紙にはこう記されています。―人々は昔、親によってつけられた名前をもっていた。それから人々は、自分で自分の名前をつけるようになった。だが、恋人たちは違ったやり方で・・・・―
主人公男の名前は彼女からつけられた『さよなら、ギャングたち』。一方彼女の名前は『中島みゆきソング・ブック』。暗黒のアルバム『生きていてもいいですか』(大傑作!)に収録された『船を出すのなら九月』という曲名が登場。
主人公は『詩の学校』で教えているのだがそこへ通ってくる生徒はみんなおかしい。実際に授業でしていることは「教える」というよりもカウンセリングなのだ。
特に笑ったのは「全ての詩人たちの父」ヴェルギリウス(マロと呼ばれている)が授業を受けに来る件だ。彼は業務用冷蔵庫に変身してしまっている。ギリシャ詩人たちの同窓会が開かれその場をかき乱したオヴィディウス。変身譚(メタモルフォセス)の作者はアル中、被害妄想、栄養失調を患っているのだ。翌日彼は冷蔵庫ヴェルキリウスを見てとうとう頭までやられたと取り乱す。
授業を受けに来た彼の中の冷やしてあるビールを飲み話しそしてうとうとしだした主人公に冷蔵庫は訊ねる―「『冷蔵庫』という単語はギリシャ語にもラテン語にも存在しないのでね。したがって存在しない言葉と韻をふむ言葉も存在しない。ぼくは脚韻がないとだめな性分なのだ。『冷蔵庫』を他の国語で言い換えてもらいたいな」「英語ではリフリジレイターです、マロ」「それは何と韻をふむかね?」「『鰐』(アリゲーター)と韻をふみます、マロ」「ああそれはいい響きだ。うん、とってもいい」―
ジョイスの『フィネガンズ』の有名な冒頭の引用があったりして村上春樹とは全く違った手法で固有名詞や引用を多用したコラージュ作品という印象です。


高橋源一郎 ゴーストバスターズ―冒険小説― 講談社 97年
最近買った『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』(思潮社 03年)には保坂和志との対談が掲載されていてそこでこの小説について「ぼくには『ゴーズトバスターズ』という七年かけた失敗作がある」という発言が見えます。理由は「綿密に構想を立てて、それに合わせて書いていった」結果「だんだん書くことが責め苦のようになってきた」からと。高橋さんにはそうなのかもしれないけれど読者としてはかなり面白かったです。というのも今までの作品で使った登場人物が再度登場したり(ブッチ・キャシディーとサンダンス・キッド『優雅で感傷的な日本野球』やニコチャン大王と則巻千兵衛博士『ペンギン村に陽は落ちて』)詩人の A. ランボーやセルバンデス等の文学者が登場したり。
では恒例の繋がり重なり。「ほうしゃのう」「メルトダウン」―時を同じくして福島原子力発電所の1から3号機までの「メルトダウン」を東電が認めた。そして先頃新聞に投稿が採用された夏目漱石『我輩は猫である』についての言及も。丸谷才一から引き続き松尾芭蕉登場。
とはいえポストモダンな作風が売りの高橋さんですからどんな内容やねん、と訊ねられても困ってしまいます。ゴーストを追い求める物語のようなのだけどゴーストの正体は最後まで明かされず、「印刷された紙の上にじっと潜んで世界の果てまで行くことも、空中を駆ける見えない電波というものに乗ってどんな遠くへでも一瞬のうちに移動することもできるのだった」という文章から『言葉』なのかなとも思ったのだけどどうも違うみたいだし。読む前はすこしおちゃらけ系?とか思ったのだけど実際は全く違って切なくなったのが意外でした。特に III アメリカ再横断とVII ペンギン村に陽は落ちては素晴らしい。そして高橋節炸裂のVI わたしの愛したゴジラも最高でした。
カート・ヴォネガット ヴォネガット、大いに語る サンリオ文庫 飛田茂雄訳 84年
ずっと気になっていた作家ヴォネガットを初めて手にとりました。日本初の女性(ニューウェイヴ)ロックバンド『ゼルダ』に『スローターハウス』って曲があり京都に同名の中古レコ屋がかつてあって足繁く通ってましたがそれがヴォネガットの作品だと知るのは女性月刊誌『クレア』94年2月号での室井滋『死ぬ前にもう一度見たい!100本の映画』にランクインしていたことからです。爆笑問題太田の推薦コメントを文庫の帯でよく見るようになりました。事務所の名前『タイタン』っていうのもヴォネガットのタイトルであることから好きなんだなって分かりますね。さてこの『ヴォネガット、大いに語る』というタイトルは訳としてどうなんだというコメントが以前何かの雑誌で読みましたが(センスがないにしても)内容からいって間違いじゃないのです。いろん場所へ行って講演したりインタビューに答えたりしたものを纏めたものなのです。とても気に入ったのは『ペニントン大学1970年度卒業式における演説』です。「科学的真理はわたしたちをとても幸せで安楽にしてくれるはずでした。二十一歳になったとき現実に起こったのは、アメリカがヒロシマに科学的真理を落としたということです」そしてシェークスピアから引用をしつつ議論はこういう方向に進みます。「もし政府が科学に費やしていたお金を取りもどして、占星術や手相判断に注ぎこんでくれたら、わたしたちはずっと安全になるでしょう。」「いまや迷信のうちにのみ希望があります。もしみなさんが文明の味方になりたいのなら、どうか真理に敵対し、罪のないたわごとを熱愛していただきたい」「占星術と手相術ですが、どちらも人々をいきいきさせ、可能性で満たすという点で結構なものです。それらは最上の形のコミュニズムです。だれにでも誕生日があり、ほとんどあらゆる人に手のひらがあります」そして二つの欺瞞ー科学が宗教をもはや骨董品にしてしまったという考えとあなたがた世代の人間こそこの世界を救うべきだという考えーに対してこうしめます。「年相応に陽気なばか騒ぎをおやりなさい」そして「みなさんがほんとうにこの世界を救うべきとき、みなさんが多少の力と行動の知恵とを獲得なさったとき、もはや人々がみなさんの若さをからかわなくなったとき、みなさんは社会主義的な形の政治を築くよう努力していただきたい。自由企業というやつは、老人や病人や、内気な人や貧しい人、頭の鈍い人やだれからもすかれない人に対して、あまりにもつらくあたります。こういう人たちは、自由企業のもとでは望みを遂げられないのです。彼らには、そう、たとえばネルソン・ロックフェラーがふんだんに持っているものが欠けているのです。ですから、富をこれまでよりもっと公平に分配しましょう。だれもが十分に食べられ、ちゃんと住む家を持ち、必要な医療を受けられるよう保証しましょう」もうすぐ40年を迎えようとしているメッセージですがそのまま今日でも胸に響く言説だと思います。この他にも「若者はなぜヘッセを読むのか」などを収録。この文庫はカルト的人気のサンリオ文庫ですが現在は早川文庫 SF 部門に収められ入手可。
綿矢りさ インストール 河出書房新社 01年
いやぁ面白かったです。読んでいてどことなく森見登美彦を連想させる表現などがあって。でも調べてみると彼のデビュー作「太陽の塔」は03年。京都在住の人間が書くとやはり関西人の血は争えなくてどこかに笑いを入れないと気が済まぬようである。そういった点は英国作家と相通じる所があると勝手に思ってしまう。次作「蹴りたい背中」の宣伝ページに「インストール」の内容が簡単に紹介されているのでそれをそのままうつします。 女子高生と小学生が風俗チャットで一儲け。押入れのコンピューターからふたりが覗いた<オトナの世界>とは!?各紙誌絶賛の第38回文藝賞受賞作。 朝子とかずよしのこのやりとりに大爆笑です。 「ねえかずよし、スカトロって何?」(中略)「排泄物を食べることにエクスタシーを感じる性的嗜好のことですよ」(中略)「排泄物って、うんことかおしっこ?へえ!ねえかずよし、それってグルメが極まりすぎた結果なの?」 この作品を書いていた当時綿矢りさはまだ高校生でそれも京都の洛北高校と並ぶ名門紫野高校で写真をみると普通のかわいらしい高校生で。尖ったところといえばあえていうなら奥菜恵似くらいなもので。そんなことはどうでもいいな。そやのにこんな会話がでてきたからそのギャップに驚きなおかつ大笑いしたのです。どうしてもこういう同じ年頃を主人公にした小説は作家とイメージをダブらせて読んでしまいますから。それが作家自身の戦略なら選考委員もふくめてまんまとはめられたわけです。ところでこの作品は上戸彩主演で映画化されているようですがこのやりとりはどうなんだろやはりカットされているんかな?


綿矢りさ 蹴りたい背中 河出書房新社 03年
でこの作品で金原ひとみと芥川賞W受賞です。帯には史上最年少19歳との文字が躍る。前作とはうってかわりシリアスな作品です。クラスに溶け込めない女子高生長谷川と男子学生にな川との奇妙な関係が描かれているのです。かつて論理学の本で読んだのだけどある集合 Aとある集合 B があってそれに属さない要素まぁ y , z があったとしてその y と z は集合 C に含まれるか?みたいな問題があって。答えは否なんだよ。「含まれない」という術語だけでは集合にならないというわけです。だからこの小説では恋愛に発展はしない。ただかつて仲の良かった絹代は二人をつき合っているとみなすわけです。何故なら集合 A にしっかりと属しているからその内部からみると集合 C に属しているように見えて二人はつき合っていると判断する。ただ本人どうしは違いすぎる世界をみつづけているのです。特ににな川はモデルさんに夢中で彼女の雑誌等を集めている。まあいやおたくというかマニアです。ただ長谷川が以前このモデルさんから声をかけられたというところから二人の関係性が始まる。例えば両方ともそのモデルさんの大ファンだという共通の話題があればひょっとして恋愛に発展する可能性がないわけでもない。趣味が共通してたとい弱い術語ですが。この小説では一人は夢中で収集し一人は只偶然に声をかけられたというさらに弱すぎるポイントしかない。しかし三人で彼女のライブに出かけたさいに長谷川の態度は少しそれまでの様子と違うんだよ。それはこんな表現。「にな川の傷付いた顔をみたい。もっとかわいそうになれ」「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」それは単なる S 的な言い回しじゃなくて遠くを高嶺の花を理想を夢見続けているにな川に現実に降りて来て私を見て欲しいといっているように思えるんだよな。どうだろうか。


綿矢りさ 夢を与える 河出書房新社 07年
職場の文学青年 Y 君とこの本のことを喋った。それでいろいろ言われていることを知った。(当然「否」が圧倒しているのだろう)彼はたしか「やりたいことはわかるんですけどねぇ」と。でも高橋源一郎氏が書評本でどうしてだれも綿矢りさを取り上げないんだ?みたいなことを書いているのもたまたま職場で見た。実際読んだ感想。筋は今までも幾度となく書かれて来たであろうものだと思う。「こうなって、こうなって、こうなる」と順当で何かあっという展開があるわけじゃない。では何を彼女は狙ったんだろうか。本当にスランプで何も浮かばなかったんだろうか。
大学生の頃大好きだった漫画家に川原泉がいる。鹿児島から上京した彼女は都会の漫画家として疲弊が尋常じゃない生活に朽ち果てネーム(=内容のこと?)すら思い浮かばない状態に陥り「鹿児島へ帰る」といって担当者を困惑させる。ネームは担当者が考え絵だけを書くということがあったらしい。後期の作品は壊れていて切なくて読んでいて胸が痛んだ。
綿矢りさが京都を離れ東京でスランプになったとしてもだれが咎められる?くるりの曲にもyui ちゃんにも同名の曲がある。それくらい東京へいくことは一代決心なんだと思う。 一気にブレイクし美人作家だとか天才だとかメディアが持ち上げその現象を京都人らしくはすから眺め楽しんでいる。みんなが騙されるよう、騙されるようにあたかも事実のように書いた悪のり。だからスランプ云々も織込み済み。女性作家が得てしてそういう風に見られることへの違和感とか怒りとか。タイトルが『夢を与える』でしょ?結末は破滅的モードなわけで。「信頼だけは、一度離せば、もう戻ってきません」というのも自己言及と取れんこともない。『ライディーン』から『BGM』へと振り切ったYMO みたいな裏切り方を選んだのかな。
Vince Watson - Atom EP _ 12" _10 _ Techno
デトロイト・テクノをヨーロッパに普及させたベルリンのレーベル Tresor からリリース。いやぁ素晴らしい。Underground Resistance から継承されたロマンティックな音楽性を持つシングルです。両サイドとも美しい。このアーティストを全く知らなかったのでネットで調べるとスコットランドのクリエイターらしくアルバムも既に何枚も発表しているベテランだそうです。どうして今までまったくその存在を知らなかったんだろう。音楽雑誌を全く読まないからだよな。アルバムを集めたくなったアーティストの登場です。

Vince Watson - Moments In Time _ 2LP _ 02 _ Techno
カテゴリーを一応テクノにしてますがこのレコ屋では全て Tech - House のところに入ってた。この盤DJ が使っていたようで BPM を書いたシールが貼ってあってほぼ120台なんだよ。たしかにテクノよりは遅い。厳密にいうならたしかにハウスだな。でもハウス程ゴージャスじゃない。ゆえにTech - House なのかもね。 完全に夜景向けサウンド。とくにアルバムタイトル曲と Out Of The Deep 。とにかくリラックスできる洗練された音色です。