中村天風(運命を拓く)
形が、つまり目の前にあるというのは、宇宙本体の力がまだ籠っているからである。
その力が抜けてしまえば、形を現象界から消して根源要素に還元しなければならない。
人間の死というのもそういうことなのである。
心の運用を良くしたり悪くしたりすることによって、人間の人生は良くもなり悪くもなる。
人間の心で行う思考は、人生の一切を創る。
心というものは、万物を産み出す宇宙本体の有する無限の力を自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様である。
人生の一切は、健康であろうと、運命であろうと、肉体も、心も、また環境もすべてが人の心によって創られている。
霊魂が現象界に命を活動させるために、その活動を表現する道具として肉体と心が与えられている。
心の行う思考は、すべて個人の命の原動力となっている霊魂を通じて、その霊の本源たる”宇宙霊”に通じている。 しかもこの”宇宙霊”は一切の万物を想像するエネルギーの本質である。
この世のすべてのものというものは、動物、植物、鉱物の三つに分けられるが、これらは万物創造の根元であり、絶大な力を持つ「霊妙」な気がこの一切を作る根拠をなしている。
この「霊妙」な気が空気を作り、そして空気の中にある酸素、窒素などが我々の肉体生命の新陳代謝を行うために命の火を燃やしているのである。
霊妙な万物創造の力ある気と、その気の持つ幽玄微妙な霊智とは、人間の心の態度で、これを受け入れる分量が非常に相違してくる。
所詮、人生は心一つの置き所。 人間の心で行う思い方、考え方が人生の一切を良くも悪くもする。 およそ心で行う思考ぐらい人生に対して重大な影響をもつものはない。
折りあるごとに心を感覚の世界から遠く離して、感覚の世界を作ったおおもとの宇宙の真実相の世界に心を預け入れ、静かな気持ちになること。
「蒔いた種のとおり花が咲く」善因善果、悪因悪果の法則、心が何かを思ったり、考えたりするとただちに宇宙霊がその心の状態のとおりに働き出す。
この世界に存在する進化と向上が、宇宙の根本主体の意思であり、人間は進化と向上に順応するために生まれてきた。
自分というものは、ひとりでいるのではない。 全智全能の力を持つ宇宙霊に常に包まれている。 つまり自己というものを無限大に考えてよい。 真理は足もとにある。
実在意識が直接に行った動作は、そのいかなることも問わず、それを数多く繰り返していると、いつかその動作が今度は潜在意識の支配で行われるようになる。
人生というものは、言葉で哲学化され、科学化されている。 すなわち、言葉は人生を左右する力がある。
自我の中に造物主の無限我が入っているということを夢にも忘れてはいけない。
この造物主と自分の生命との結び目を堅固に確保することである。
自己の無自覚、神経過敏の心、この二つが人生をくだらない、価値のない、哀れなものにしている。
腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばよい。
心がいつまでも長くひっかかっているのを執着という。
宇宙には因果律という法則が巌として存在している。 まず、心を積極的にすることに注意深くし、終始自分の心を監督していかねばならない。 もう一つは常に心の中に感謝と歓喜の感情を持たせるよう心がけることで、宿命は自然に統制される。
卑劣な気持ち、弱い心持ち、憎み、嫉み、悔みの気持ちや、また、怒り、悲しみ、怖れという心持ちや言葉は、その人々の血液に毒素を生じ、生理的な不調和をきたす。
感謝と歓喜の感情は、宇宙の創造作用と合流する神聖なもの。 それは我々の運命や健康や成功などを建築し、または成就してくれる、造物主の力の流れを命の中へ導きいれる筧のようなものである。
人間の生命の本来の目的は「創造」の生活である。 進化と向上を現実化するために人間にこの本来の目的が与えられている。
自分が欲望から離れて何かを考えた時に、また、その考えたことを実行したときに成功する。 自己向上は自他の幸福のためにするんだ、という広い意味を忘れてはいけない。
理解というのはただわかったというだけであり、自覚というのは本当に自分の魂に受け入れたこと。 自覚というのは結局、その雑念妄念を払い除けて自分の知識の中に受け納めたものでなければならない。
宇宙霊の心には「真」「善」「美」以外にはない。
常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな良い影響を与えるけれども、反対に怒ったり、怖れたり、悲しんだりする消極的な感情や情念は実に悪い影響をもってくる。 中でも恐怖というものは一番恐ろしいほどの印象力をもっている。
結局、やたらと物事を恐怖観念で考えるのは、宇宙霊と人間との関係を強く信ずるという信念が欠けているからである。
尊厳なる宇宙の神霊と一致するには第一に必要なことは心の安定を失ってはならないこと。 一番戒めるべきものは恐怖観念である。
病のとき、心配するほど回復は遅い。 また不運のとき、悲観すればするほど良くない事実が現実にくる。悲観したり、心配したりすると、その心配や悲観が人生に苦い形で現実の姿を現わしてくるように、宇宙真理ができている。
ああなったらいいなあという念願を、それが既に成就してしまったときの気持ちや姿を心に描く。 人間の心の中に絶えず描かれている思い方、考え方から組み立てられている「想像」というものは「人類進歩の源泉」であり、「想像」がやがては「理想」という立派なものを心の中に形作るということが真理なのだ。
我々人類の心というものは宇宙の霊が溶かした宇宙エネルギーの流れを受け、それを形あるものに造る鋳型と同一のものである。 だから我々は自己の欲する事物を一定した形に積極的に描かねばならない。
信念強く、その希望が「実現する!」と断定したときは、その事柄は霊の世界においてはもはや実在となっている。 花や実をもたせる種子と同様に…。