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国名・郡名・郷名・里(村)名・字名などは行政上の分類ですがその地名の発生は住民が土着してお互いの土地を知り合うためと、お互いの家を知るために呼んだ言葉が地名となり、これを文字で書くようになったのがその始まりと言われています。
厚木の地名が文献に見えたのは南北朝の時代で、観応2年(1351)鎌倉の円覚寺の寺領となったときです。しかし、当時の文書によれば、その以前に鎌倉八幡宮の社領であったことが判明しました。
この文書によれば、すでに毛利庄厚木郷と書かれています。
厚木郷の名称は中世末期まで続き、江戸時代に入って厚木村となりました。当時の古図によれば、上厚木村、中厚木村、下厚木村に三分されていました。
村名は、明治22年の町村制実施で厚木村となるまでありましたが、江戸時代には厚木宿、厚木町と一般に呼ばれ、村内の町名も一般に上宿。天王森、中宿、下宿などと呼ばれていました。
厚木の地名の起源は明らかではありませんが、近郷の村村が何々田と水田地帯の地名をもつなかで、厚木だけは木に関係があったようです。特に古い郷名の船木田(ふなきた)とは何か関連性があり、木材の集散を意味するのではないかと考えられています。
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アツギの地名が、アイヌ語研究者の対象となったことは何を意味するか明らかではありませんが、参考のためア【相模大橋付近(大正末期)】
イヌ語を紹介します。
斎藤昌三氏説:厚木は西岸唯一の渡船集落であり、アイヌ語のアツイゲンからアツイケになり、次いでアツギに変化した。
金田一博士説:厚木は相模、中津、小鮎の諸川の合流
するところ、諸川の魚場で、アイヌ語のヤオロケシ、集まる事を意味した寄木であり、寄木が厚木に変化した。
なお、アイヌ語説とは別に、厚木宿の発祥を考える必要があります。厚木が商業地として発展し、もとは市場の施設と物流の集散であり、古くは木材の集散に始まっています。これから考えますと、アツギが集木(アツメ木)から転訛した説も成り立つようです。
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【相模大橋付近(昭和初期)】
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