相模川、中津川の鮎は、厚木地方の名産として昔から有名であり、江戸時代の相模川でとれる鮎は幕府献上に使われていました。

中津川の鮎は最上鮎として漁師が一部の鮎を運上金替として知行主に差し出したものと、幕府へ差し出したものとがあったようです。

ウルカは鮎の腸(はらわた)で夕方網打ちでとれた鮎を、船の中ではらわたを取り土焼きの小がめに入れていました。

昔は、本流も、支流も自然のままの流れであり、鮎、その他川魚が網や梁(やな)でたくさん取れました。

江戸時代から明治初年にかけて、厚木から江戸青山へ通じる青山街道を、鮎をかつぎ人夫が、歌いながら走っていったと言われています。

相模川、中津川で夕方までにとれた鮎を集め、厚木の鮎問屋で鮎のはらわたをとり鮎篭又は江戸篭という篭に入れ天秤にかけて、人夫の肩に揺られて江戸に送られました。

夕方から夜通し走り、長津田で一休み、多摩川を渡って三軒茶屋で、江戸の人夫と肩をかえ、共に日本橋の川魚問屋に入り、江戸っ子の食膳を喜ばせました。

鮎かつぎ人夫が歌ったという「鮎かつぎ唄」があります。

相模大橋付近(大正末期) 相模大橋付近(昭和初期)

 相模大橋付近(昭和初期)

 

鮎は瀬に住む、蝶は木にとまる

人は情けの下に住む

オババどこいく三升樽ぶらさげて

嫁の在所へ孫だきに

ああ来た留場は近いぞ休みはそこだぞ

相模小橋 通称もぐり橋(昭和41年)

才戸橋(昭和44年頃)

神奈川名産100選にも選ばれている鮎最中≠ヘ厚木はもとより近隣都市の和菓子屋では皆、それぞれの個性を打ち出したオリジナル鮎最中を製造しています。

神奈川県央部を流れる相模川は古くは「鮎河」と呼ばれていました。

今も支流に「小鮎川」があるのはその名残であり、川から鮎が湧いて出るといわれるくらい鮎が沢山取れ、江戸時代徳川将軍への「献上アユ」としても珍重されました。

また、渡辺崋山や伊藤博文も相模川の鮎を賞味したと記録に残っています。

このような相模川の鮎を地元名産のピーナッツを餡に仕立て最中に作りました。

焦がし最中がピーナッツ100%餡入り。

白い最中が白餡ベースのピーナッツ餡入り。

8本入り化粧箱入りよりございます。