明治30年東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の八王子市上恩方町)生まれ。大正5年東京府立青山師範学校を卒業、東京都北豊島郡日暮里町の小学校に奉職。後に日本大学高等師範部国漢科に学ぶ。

日暮里の教職時代から、児童の情操教育のために童話・童謡の執筆を始め、童話 ・童謡雑誌「金の船」(のちに『金の星』と改題)で活躍中の童謡作家・野口雨情に傾倒、雨紅のペンネームを使うようになった。

大正12年、本城千代子と結婚。同年文化楽社から刊行された『文化楽譜あたらしい童謡その1』に「夕焼小焼」ほかの童謡が掲載された。この譜面は震災に遭い、そのほとんどを焼失。わずかに残った十数部により「夕焼小焼」が歌い広げられていったという。

現在、上恩方町には「夕焼け小焼け」にちなんだ「夕焼け小焼け文化農園」 が作られ、園内に中村雨紅記念コーナがあります。また、中村雨紅の墓は、陣場街道、夕焼け小焼け文化農園温室のそば(農園の外)に「高井家之奥津城(おくつき=墓の事)」と書かれたひっそりとたたずんでいます。なお、高井家となっているのは,雨紅の本名が高井 宮吉であるためです。

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「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の・・・」その後に草川信先生が曲をつけ、人々の心に響きわたりました。

<七沢元湯玉川館の碑>

厚木実科高等女学校に赴任された雨紅先生は、七沢が故郷・恩方に似ているので、よく足をお運びになりました。住まいの厚木から夕焼けを見つけると「いま 夕焼けがきれいだろ」と電話をなさいました。片道30分はかかってお迎えに行くと、奥様とご一緒に外でお待ちになっています。

七沢に到着の頃にはすでに夕焼けはない。こういうことが何度かありました。しかし夕焼けの日は恩方に思いを馳せる最良の日であるに違いありませんでした。

ある日「夕焼け小焼けの碑が終生の地となる神奈川にはないんだよ。」とおっしゃる先生のまなざしに、第二の故郷 七沢に・・・との重心のような澄んだ想いを感じとることができました。

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童謡「夕焼け小焼け」の作詞者、中村雨紅氏は昭和2年より現在の厚木市泉町に在住し、神奈川県立厚木東高等学校で教師を務勤め、厚木市立厚木小学校校歌や厚木ちぐさ幼稚園園歌など多くの歌を残し、昭和47年厚木県立病院で永い眠りに就きました。

オノヅカは雨紅氏の生誕100周年を記念して、紅に染まる陽をバターケーキで、夕焼けに向かって飛ぶからすをピーナッツ甘納豆で描きました。