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江戸期の矢倉沢往還(現在の国道246号沿いの道)は、赤坂御門を起点とし、鶴間、国分を経て駿河へと抜ける街道であるが、この街道で相模川をわたるために設けられていたのが厚木の渡しであった。
明治の中頃まで厚木と海老名の両村で経営されていたこの渡しも、明治28年(1895年)には民営に移管され、渡船会社が設立されるに至った。
その後、厚木町と海老名村はこの渡船会社から権利を回収し、明治41年10月26日、相模橋を開通させたのである。
明治43年、この相模橋は秋の豪雨によって中央部が流失してしまった。
そこで、復旧工事として鋼のプラットトラスが架けられることとなったが、この工事が完成したのは大正2年2月26日であった。
橋長246メートル、幅員5.2メートルで、橋面と高欄は木造であった(大正8年、鉄筋コンクリートに改造)。
こりが今日の相模大橋の前進である。
現代の相模大橋は当時よりやや下流に架けられ、相模橋撤去後の河原に潜水橋が架けられている。
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【渡辺崋山 わたなべかざん 1793〜1841
江戸後期の蘭学者・画家。名は定静(さだやす)、通称は登(のぼり)、崋山は号。三河国田原藩士の長男として江戸藩邸に生まれ、金子金陵・谷文晁らに絵画、佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)らに儒学をまなぶ。父が病身のため、まずしい少年時代をすごした。藩士としての崋山は、1832年(天保3)に年寄役(家老)兼海防掛、36年に江戸留守居役を歴任するなど、1万2000石の小藩ながら重臣として活躍した。年寄役時代に本格的な蘭学研究をはじめ、シーボルト門下の高野長英・小関三英らと交流して尚歯(しょうし)会を結成し、西洋事情をまなんだ。
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1837年のモリソン号事件では幕府の鎖国政策を批判し、「慎機論」をあらわして異国船打払令の無謀さを説いた。これは完成されず未公開のものだったが、幕府目付の鳥居耀蔵(ようぞう)の陰謀により39年の蛮社の獄でとらえられ、国元で蟄居(ちっきょ)処分となった。41年に江戸で門弟が崋山の生活をたすけるためにひらいた画会が不謹慎であるとあやまってつたえられ、藩主に迷惑がかかるのをおそれて自殺した。画家としては、遠近法など西洋画の手法をとりいれたことで有名。代表作には、肖像画の「鷹見泉石像」、庶民生活をえがいた「一掃百態」、天保の飢饉をテーマにした「荒歳流民救恤(きゅうじゅつ)図」などがある。】
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天保二年矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は『厚木六勝図』を残していますが『仮屋の喚渡』は厚木の渡し場を描いたものです。
当時の渡し場は上流の小倉と河口の須賀を結ぶ中継地として厚木の豪商たちが米、布、薪などを積んで下り、帰りは他国で生活用品などを仕入れて登りました。
舟を操る印半天姿の船頭は粋なものでした。
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川風にふくらむ帆を、ピーナッツ入りサブレーで仕上げてみました。
六枚入り箱詰めより御進物がございます。
写真は18枚入り