■ imitation




 ねぇ、約束してね?

 絶対に無理はしないって。

 不自由な体をベッドに起こして、真摯な瞳で言った彼女の言葉を、私は不思議な気持ちで聞いていた。
『どうして、そんな事を言うの?』

 貴方は、一人じゃないんだから。

『勿論だよ。姉さんがいるじゃないか』
 私がそう言うと、彼女は困ったように瞳を閉ざした。ゆるりと頭を左右に振る。
『ぼくは姉さん以外何もいらない。姉さんさえ側にいてくれれば良いんだ』
 それは正直な気持ちだったのだけれど、不意に彼女は寂しそうな笑みを浮かべた。細い指先が確かめるように私の頬を撫でていく。

――― 幸せになってね。

『姉さん?』

 それは、彼女と永遠に別れてしまう少し前の話。

 今まで、記憶の底に仕舞っていた出来事。

 喪ったものを、取り戻すというのはどういう事なのか。
 その時私は、本当の意味では理解していなかったのだろう。



「わざわざお越し下さらなくても、もう少しで執務室のほうに伺いましたのに」
「いや。たまには実際に研究成果を見たかったからな」
 天導天使の研究室にふらりと訪れた上級天使は、そう言いながら彼女が差し出した資料を受け取る。
 軽く眉を寄せながら資料を読む上級天使はいつもと変わった様子は見られない。
 しかし、天導天使はそんな彼から感じる違和感がどうしても拭えない。

 ――― どうしたのかしら……? ―――

「……天導?」
「あ……申し訳ありません」
 いつの間にか、じっと上級天使を見つめていたらしい。声を掛けられて我に返った天導天使は、慌てて研究者としてではなく彼の秘書としての準備を始める。
「人工感覚球の件はうまくいっているようだな」
「ええ……もう少しでより安定したものが完成しそうです」
「そうか……」
 そのまま暫く目を通していたが、天導天使の身支度が終わるのを見計らって共に外に出た。
 研究棟の廊下を、二人は細かな打ち合わせをしながら足早に歩いていく。
「これからの予定ですが……」
「わざわざ言わなくてもいい。どうせ頭の固い老人連中のご機嫌を取るだけだろう」
「上級天使……」
 吐息とともに吐き出された天導天使の声は、僅かに咎めるような響きを含んでいた。
「今の定例会議とはそのようなものだ。それはお前も分かっているだろう?」
「このような場所で言われる事ではありません。少し慎まれますよう」
「どうせ誰も聞いてはいない」
 確かに周りには人影も見当たらない。そして今のマルクトでは上級天使を陥れる事を画策する者は皆無に等しいが、それでも用心するに越した事は無い筈だ。
 ふう、と途方に暮れたように天導天使がため息をついた。
 やはり、少し今日の彼はおかしい。まるで……
「……何を焦っておられるのですか?」
 意外なその言葉に、上級天使の歩みが止まる。ゆっくりと振り返って、すぐ側にある天導天使の顔を覗き込んだ。
「何故、そう思う?」
 静かな問いかけとは裏腹の激しい眼光にも全く臆する事無く、天導天使は真っ直ぐにその紅い瞳を見返した。
「それは貴方自身が一番良く分かっていらっしゃる筈ですわ」
 硝子張りの廊下で暫く二人は無言で睨み合う。
 先に視線を逸らしたのは上級天使のほうだった。
 一瞬、まるで叱られた子供のような表情を浮かべた後、逃げるように彼は窓の外に視線を彷徨わせる。
 そして、彷徨っていた視線が不意に何かを見つけたようにある一点で止まった。

 中庭に一人の青年が佇んでいるのだ。

――― 誰だ……? ―――

 年齢は自分と同じ位だろうか?夜の闇を溶かしたような藍色の髪が以外に目を惹く。
 しかし、その青年がどの階級に属しているのかは上級天使には分からなかった。
 教団内の人間はその階級に関わらず、必ずシンボルマークの入った制服を着ている筈なのだが、その青年が着ているものは外の世界でごくありふれたシャツにズボンという軽装だった。

――― 教団の人間ではないのだろうか? ―――

 一瞬考えて、すぐにその考えを否定する。入り口には常に警備天使が常駐しているし、『神を護り、支える』事を教義としているマルクトは教団員以外の人間を過剰に排斥する傾向がある。
 何にせよ一般人がこんな施設の奥深くに入り込める筈が無いのだ。
 そして、何と言っても身に付けている衣服以上に彼を異端に見せているのは、その周りに無数に集まる鳥の群れ。
 青年が何かをしている訳でも無いのに、鳥達は彼と会話をするように、守るように彼を取り囲んでいる。
 そのあまりに現実離れした光景に思わず見惚れつつも、確認の為に上級天使は口を開く。
「……天導」
「何でしょう?」
「ここは、一般人の立ち入りは禁止されているのではなかったのか?」
「一般人……ですか?」
 天導天使も訝しげに外を見る。上級天使の視線の先を暫く見つめ、彼女はやがて合点がいったようにああ、と言葉を発した。
「彼は教団の人間です」
「誰だ?見ない顔だが……」
「コリエル12号です」

 ――― 12号 ―――

「あれが……か」

 教団でまことしやかに流れる噂は、ここに来てそう年月の経っていない上級天使の耳にも勿論届いている。

『神に一番近い所に居た者』……と。

 マルクトの神と心を通わせ、神の意を汲み取り、言葉を代弁する者。
 コリエル12号は、そう、言われていた。
 かつてシャム双生児であった彼は、その特異な能力を教団が保持する為に、繋がっていた兄を犠牲にしてまでその命を繋がされてきた。
 しかし、兄と切り離されてからは彼は心を閉ざし、その能力もその後一度として発揮されてはいないらしい。
 処分するには不適当という理由でコリエルの地位を与えられたようだが、今は殆ど幽閉状態だという噂も聞く。
 結局、目先の利益だけを優先した結果、教団は一番の切り札を失ったという事になる。

 馬鹿馬鹿しい事だ。

「確か、創造維持との同調が一番高いのが奴だったな」
「はい……私の『もう一つ』の研究にも協力して貰っています。勿論、彼にはどのような研究かは知らせておりませんが」
「成果は?」
「手探りで模索していた時とは格段の差です。このままでいけば、あまりお待たせせずに次の段階に進めるかと……」

 ――― 神を陥れる研究に、神に近い者を利用するというのも皮肉なものだな ―――

「腐っても……という所か」
 沢山の鳥に囲まれて、穏やかな表情をしている彼を見ると、とても心を閉ざしている人間には見えないのだが……

 その時、ふ、と12号の視線がこちらを向いた。
 この距離では互いの表情など分かる筈も無いのだが、上級天使は彼がこちらを見ているという事がはっきり分かった。
 藍色と紅の双眸が一瞬交わる。
 心の奥まで見透かすような藍色の双眸に、上級天使はたじろいだ。
 視線が、外せなくなる。
 しかし、それ以上の接触を遮るように、一斉に鳥が飛び立った。
 遮られた視線の先で、上級天使は我に返る。知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出した。


 ――― 圧倒された?この私が? ―――

 それは、認めたくない現実。

 いつの間にか、背中に汗がじっとりと滲んできているのを感じながらふと横を見ると、天導天使がふんわりとした柔らかい笑みを浮かべて青年を見つめていた。
 心の中にもやもやしたものが湧き上がる。
「……天導」
「はい?」
 急に険しい顔をしてこちらを見る上級天使に、天導天使は訝しげな顔をする。
「不用意に情を移すな。あれはお前にとって研究材料でしか無い筈だ」
 硬い声でそう言った上司を、何故か彼女は痛ましげな瞳で見つめた。
「上……」
「行くぞ」
 踵を返して上級天使が歩き始める。少し遅れて天導天使もそれに続いた。
「天導」
「はい」
「次回から、12号も会議に出席させるように手配を」
「……分かりました」



 今のは、多分新しい上級天使様、だ。
 藍色の髪の青年は、遠くに見える研究棟の廊下をを足早に歩き去っていく白い姿をぼんやりと見送った。
 コリエルとはいえ、他に適当な地位が見当たらないからという理由で末席に名を連ねているだけの今の状態では、代替わりした上級天使の事も噂でしか分からない。
 定例会議に出席する事はおろか、公式の場に出る事さえ許されていない自分を多分向こうも知らないだろう。
しかし。
「向こうも、僕の事、気が付いてたみたいだったな……」
 隣に天導天使もいたようだったから、もしかすると自分が何者なのかも彼は知ってしまったのかも知れない。
 今度の上級天使は切れ者だと聞いている。
 形だけのコリエルメンバーである自分を、彼はどう思っただろう。
 かなりの距離があったのにも関わらず、何故か顔の表情まで読み取れた事に多少の違和感を感じながらも、一瞬だけ垣間見た、紅い瞳が印象的な端正な顔を思い出す。
 何かを奥に秘めた、稀有な色の瞳。
 意思の強さが、兄さんに似ているかも知れない。


 いつも眠っている顔しか見ることが出来なかった兄さん。
 だけど、僕達はいつも一緒だったし、他の人が何と言おうと相手の性格も何となく理解出来ていた。
 交代する前にチェスと一緒にいつも残してくれるメモを見ながら、僕はいつも兄さんのようになりたいと思っていたんだ。
 ふふ、と微かに青年は笑う。

――― 本当は、言葉を交わしたことも無かったのにね。 ―――

 物思いに沈み込んでいた青年を遠慮がちな鳥の声が現実に引き戻す。
 今まで周りを自由に飛んでいた鳥達が、いつのまにか立ち尽くす青年を中心にして羽を休めていた。
 甘えるように、肩に、頭に止まる彼らに苦笑する。
「ああ……ごめん。心配してくれたの?」
 そう話し掛けながら、自分もすぐ側のベンチに腰を下ろした。
 兄との記憶はずっと心の奥にしまい込んでしまっていたけれど、一度思い出してしまうと、どうしても焦がれてしまう。
 許されないと分かっていながらも、兄が眠る深淵へと身を投げ出してしまいたくなる。
 今度の上級天使はそれを許してくれるだろうか……?
「……でも、あのひとも、寂しそうだったよね」
 腕にとまった一羽の鳥にぽつりと呟いて、青年は空を振り仰ぐ。


 その空は、未だ青い。





END
発行した本で、こちらのミスで1P抜けがあったので、先に皆さんに見て貰おうと思ってUPしたものです。
本のほうでは白もげさんに挿画を描いてもらってますので、興味のある方は立ち読みでもしてやって下さい(笑)。
相変わらずうちの上様はガキですね。
04.01.12UP
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