■ 影は唄う




「……あれだけ言ったのに、何で駄目なのかなぁ……」
 僕が2日振りに部屋に帰ってくると、薄々予想していた通り兄さんの姿は無かった。
 溜め息をつきながら部屋を見渡すと、ベッドの上には脱ぎ散らかした服が散らばっている。

 ちゃんとした服を着て出かけたんだ……それならとりあえず一安心だけど。
 無理がきかない体の癖に、兄さんはそういう所無頓着だから凄く心配なんだよね。

 散らかった服を片付けながら、どうしたものかと考える。
 まあ、うるさ方に見つかって謹慎を貰うっていうヘマもそうそうしないと思うし、放っておいても大丈夫だと思うんだけど……
 一応僕達はこの部屋から出てはいけない事になっているけれど、ごく一部の人間を除いて、実際には僕達の行動に制限をつける人は居ない。

 ただ、少し引っかかる事もある。
 数日前に新しい上級天使候補が教団にやってきたらしく、多少警備が厳しくなっているのだ。
 警備天使達は融通が利かないから、見つかると多少ややこしい事になりかねない。

 暫く考えていたが、僕はやっぱり兄さんを探しに行く事にした。
 1人で悶々と考え込んでいるのは精神衛生上良くないし。

 そう自分を納得させると、上着を掴んで、僕は部屋を抜け出した。




 兄さんが通りそうな所を選びつつ歩いて行くと、棟の境目に差し掛かった時、風に乗って微かに話し声が聞こえてきた。

「――― 勝手に部屋を抜け出したりしないようにお願い致します」

 一瞬どきりとした。これは、上級天使秘書の声だ。
 教団内で一番、僕達の存在を快く思っていない人物。
 まさか、兄さん、あの人に見つかっちゃった!?

「……わかりました」
 しかし、その次に聞こえてきたのは、今まで聞いた事が無い少年の声だった。

 誰……?

 建物の影から注意深く頭を覗かせると、立ち去ろうとする金色の髪が視界を掠めた。

 そういえば、今度の上級天使候補は、僕等と同じ位の金髪の子だって聞いたっけ。
 あの人なのかな?

 不意に金の髪が後ろを振り返る。予想もしていなかった紅い瞳が僕の目に飛び込んできた。
 澄んだその色は綺麗と言っても差し支え無いものだったけれど、僕は何故か射られたようにその場に立ち竦む。

 ――― 紅い……血の色だ ―――

 瞬間、時間が間延びしたような感覚があって、視界が一変する。
 僕は突然何も無い真っ暗な空間の中に放り出されていた。




 暗闇の中、ひそやかな、女の人の声がする。
『……あのひとは、世界を壊すよ……』


 ――― あなたは、誰? ―――


 唐突に、目の前に人影が現れた。
 大きな翼を背負った紅い瞳の青年がひた、と冷たい視線を向けてくる。
『………ダァバール融合の事を考えているのか?』
 息が詰まる。何か言わなければと思うのだが、上手く言葉が出て来ない。
『そんな……事…は……』
 やっとの事で言葉を搾り出し、かぶりを振ると、彼は微かに笑ったようだった。
『まあ、良いだろう……今は騙されておいてやるさ』
 冷笑を湛えてそう言い放ち、去っていく彼の姿をなすすべもなく『僕』は見送るしかなかった。

 見つめる先で痩せた白い背中が不意にぼやけ、また新しい映像が目の前に展開される。

『やめて!引き離さないで!!』
 『僕』を抱きしめている漆黒の髪の女性が上擦った声を上げるのが、どこか遠くの出来事のように聞こえる。
『何を言う……まさか、これが本来あるべき姿とは言うまいな』

 彼の偽物の筈の翼が羽ばたくように大きく翻る。
『やめて!このままでは、世界が壊れてしまう!…私達を引き離さないで!!』
 彼女の必死の制止の声をものともせず、無慈悲に白刃が振り下ろされる。

 鈍い手応えと女性の悲鳴が重なり、溢れる白光が視界を埋め尽くした。




「あ……?」
 訪れと同じく、その映像は唐突に途切れる。
 視界の変化に対応し切れず、僕は壁に手をついた。
「何……今のは……」
 それは、白昼夢というにはあまりにもリアルで。
 今、ここにいる僕こそが幻なんじゃないかという錯覚すら覚えてしまう。
 絶望、恐怖、痛み……今の一瞬で感じた負の感情は、現実の自分の体にまで影響を及ぼしてしまう程の激しさだった。
 未だ幻視に引きずられ、胸の奥を鷲掴みにされたような痛みが走る。僕は体を支えきれずに建物の壁に背中を預けて座り込んだ。
 荒い息を吐きながら、自分の中の嵐が過ぎ去ってくれるのをただじっと待つ事しか出来ない。
 そして、やっと呼吸が落ち着いてきた頃……

「あれ?どうしてこんな所にいるの?」
 唐突に聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。
 一体どこから出てきたのかと思いつつ、ゆっくりと顔を上向けると、驚いたように目を見開いた兄さんが僕を見下ろしていた。
 探す手間が省けたと安堵しつつも、やっぱり少し恨めしく思ってしまう。
「兄さんこそ、何で、こんな所にいるの……?」
「ちょっとね。それより大丈夫?顔色が悪い」
「うん……平気」
 未だに滲んでくる冷や汗を拭って、強張ってしまっている顔で笑みを作ろうと努力する。
 上手く笑えていると、良いんだけど。
「兄さんを迎えに来たんだよ」
「もう戻る所だったよ……立てる?」
 ばつが悪そうに呟いて、兄さんは僕に手を差し伸べた。




「お前が居なかった間に、金糸雀に会ったよ」
 僕の枕元に座って、上機嫌で兄さんがそう言った。
 結局、あの後医療スタッフから『軽い過呼吸症候群』という病名を貰ってしまい、僕は念の為、一晩の絶対安静を言い渡されてしまっていた。
「カナリヤ?」
 そんな小さな小鳥がここに来るなんて珍しい。
「うん。今度会ってやってよ。きっとお前も気に入ると思うよ」
「会ってって……それって人なの?」
「そう。金色の髪と、紅い目をしたキレイな子だよ」

 ――― 金の……髪? ―――

 自分でも顔が青ざめたのがはっきり分かった。

「何……?なんかあったの?」
「ううん、何でもないよ、大丈夫」
 慌ててかぶりを振ったけれど、これで兄さんが騙されてくれるとは到底思えない。
 でも……
 あんな事、兄さんには絶対言えない。
 だって、兄さんが他の人間に興味を持つなんて滅多に無い事だもの。
 こんな不確かな事で不安にさせたり出来ないよ。


 ――― そう。あれは幾つかある未来のうちのひとつに過ぎないんだから ―――


「……また何か色々ぐるぐる考えてるな?」
 そう言って、兄さんは僕の額をこつん、と突付いた。
「もう、何も考えないで今日は寝ちゃいなさい」
「兄さ……」
「ぐっすり寝れば、嫌な事なんか忘れちゃうよ。お前はいつも考え過ぎなんだから」
 そう言って、僕を覗きこんでくる深い藍の瞳に、たとえようもない安心感を覚えた。
「うん……」
 声に促されるように僕は目を閉じる。

『そう……そのまま、忘れてしまいなよ?』


 意識の底で、兄さんが、そう、呟いた。





END
苦労性弟くんです。
どう考えても一番の貧乏クジを引いているようにしか思えません(苦笑)。
性格は小姑?

弟くんは未来視が出来ます。が、見たい時に見たいものを視る事が出来る訳ではないのでやっぱり苦労しているんでしょうね。
創造維持神との同調率は弟くんのほうが高いので、正に『神のお告げ』という所でしょうか?
あんまりあの維持ちゃんにそんな力があるとも思えないんですが……←自分で言うなってば。
こちらも誰にも言っていませんが、兄は薄々感づいているようです。

この後、弟くんは自分の視た事は兄のせいで忘れてしまいますが、その時に感じた感情だけは何となく覚えているので『SNOW』の中の独白になる訳です。
03.06.08UP
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