■ 砂礫の王国8
それから散り散りになっていた教団の生き残りを統率し、小さいながらもかつての機能と同じものを再構築させたのは上級天使の手腕だろう。 しかし、それと引き換えに彼が失ったものは多い。 上級天使が纏っていた白いケープを脱ぐと、その下の長衣の背中に鮮やかな赤い染みが広がっていた。 「血が……」 「ああ、また駄目か……最近少し酷くてな」 ため息交じりに白い長衣を脱ぎ去ると、上級天使の上半身は包帯で覆われていた。 血の滲んだ包帯を取り去ると、華奢な背中に未だ血が滲む痛々しい二つの傷跡が現れた。 まるで翼をもがれた痕のように、姉の背中に現れた翼のように。あの日から癒えない背中の傷は、少しずつではあるが上級天使の体力を奪っていく。 「聖痕(スティグマ)……ですか」 「そんな仰々しい名前で呼ぶな。鬱陶しいだけで何の役にも立たん」 僅かに苦笑を浮かべ、上級天使は背後の青年を振り返った。 「…済まないが、新しい包帯を巻いてくれるか?流石に背中は見えなくてな」 上級天使に言われるまま、血で塗れた背中を拭き清め、新しい包帯を巻いて行くのだが、 執務室で感じた不安の通り、背後から見た彼は以前と比べてもあまりにも細くなっていた。 「……ちゃんと食べていましたか?」 思わずそんな言葉が出てしまい、触れている背中から、微かに笑う気配が伝わった。 「お前まで天導のような事を言う」 上級天使がわざわざゆったりした着衣にケープまで羽織っているのには、身体の線を見せないようにというちゃんとした理由がある。 それでも、毎日顔を合わせている彼女にすら気付かれているという事は、気のせいでは無く相当細くなってしまっているのだろう。 苛立ちからか、包帯の巻き方が少しきつくなったようで、上級天使から短い非難の声が上がった。 「……彼女にまで余計な心配をかけないで下さい。後で点滴の手配をしますよ」 「結構だ。食事なら摂っている」 「錠剤で栄養素を満たす事を食事とは言いません」 きつめに響いた青年の声に、上級天使は反論して来なかった。 という事は、おそらくここの所の食生活は、青年が危惧していた通りのものだったのだろう。 「……もう少し自分の体の事を考えて下さいませんか?」 背後から緩く抱きしめられた上級天使の肩に、温かい重みが加わった。 「おい……」 「本当の真相に近づけるのは、もう僕と貴方しか居ない。どちらが欠けても駄目なんですよ?」 言い聞かせる言葉に、上級天使の動きが止まる。 「お願いですから……」 ぼんやり回された手を見ていた上級天使の唇に、微かな微笑みが浮かぶ。 「……少なくとも、あの二人に会うまでは死なないと決めているよ」 「上……」 「こんな厄介事だけをこちらに押し付けるのは、ずるいと思わないか?」 背後でふふ、と笑う気配がした。 「……そうですね。不肖の弟同士、文句のひとつも言ってやらないといけませんね」 「……そうだろう?」 「だから、私は大丈夫だ」 まだ。と続く一言は、その口から出る事は無かった。 「お前達兄弟は、昔、私の事を良く『カナリアのようだ』と言っていたが……今の私は正に籠の鳥だな」 自重気味に呟いて、上級天使は自分を後ろから支えてくれている青年に体重を掛ける。 「どうしました?いきなり」 「今、少し思い出した。昔良く言っていただろう?」 「兄さんは、凄く気に入ってましたからね……その呼び方」 言いながら、青年は背中の傷に障らないよう、寄り掛かる体を抱え直した。 その壊れ物を扱うような手付きに、上級天使はゆるりと笑う。 出来る事なら今すぐにでも神殿に赴いて、姉の存在を確かめたいのに。 焦る気持ちとは裏腹に、塞がらない傷のせいで自分はここから動く事も出来ない。 こんな傷を抱えていては、もう教団という籠を出ては生きられないだろう。 でも、本当は自分の命などどうでも良いのだ。 もう一度あの場所に戻って、姉と親友の真意を確かめさえすれば。 それだけで、本当は…… 不意にあの時突き付けられた白刃を思い出す。 儀礼用で殺傷能力が無い筈の刃は、しかしあの時確実に自分を傷付けた。 あの時、彼はどんな顔をしていたのだろう…… いっそ、あの時殺してくれれば、ここまで苦しむ事も無かったろうに。 「……どこか具合でも?」 思考の海に沈んでいた上級天使を、静かな青年の声が現実に引き戻す。 「大丈夫だ」 「そう言われるのでしたら、たまには少し休んで下さい。今、眠そうでしたよ」 苦笑交じりに言われて、子供のように頭を撫でられる。その声に急に眠気を覚えて、上級天使は楽な体制になると、青年の懐に顔を埋めた。 「では、少し……眠る」 「僕は枕じゃありませんよ」 「お前など…この位しか役に立たない……だろう」 上級天使の語尾は掠れ、言い終わった時には既に眠りの中だった。 |
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