重松 清

 

日曜日の夕刊
ありそうだけど、本当はない「日曜日の夕刊」というタイトルに惹かれて手にした、短編集。
何ごとも細々、チマチマとした「チマ男」とおおざっぱでガサツな「ガサ子」の恋愛模様を描いた『チマ男とガサ子』。これ読んでるとここまで酷くはないけど、あたし自身は「ガサ子」に違いない…と、改めて気づいて、そこから更に作者の術中に見事にはまったことに気づいて、思わず苦笑いしてしまう…。これを読んだ人はおそらく全員、そういう作業をしたのではないのかな?(笑)。作者の人間観察の鋭さと優しさに感心。12編ある短編の中で『さかあがりの神様』『後藤を待ちながら』『卒業ホームラン』が子を持つ親として、特に印象に残った作品です。『さかあがりの神様』は今のウチの状況が重なってしまい、涙が止まりませんでした。
なにかと物騒で心がとげとげしくなりがちな今、この本を読んでホロリとすることを思い出してほしい…そう思う1冊です。ちなみにカバーには「おとぎ話」と説明されてますが、わたしには「絵のない、大人のための童話」に思えました…。これも「日曜日の夕刊」に負けない変な日本語ですねぇ(笑)。

 

 

疾走
地方のある沿岸地域に住むシュウジは両親と兄の4人家族。どこにでもある、平凡な一家だったが中学時代は優等生だった兄・シュウイチが高校に入り転落、やがて起こした事件により一家は離散。わずか15歳のシュウジは過酷な運命を背負うことになる…。シュウジの行く先にはもう絶望しかないのか…。
とにかくキツイ話だった。重松清はこれが2作目なのだが、数多い重松ファンの皆さんの影響もあって、重松清といえばハートウォーミングでホロリとさせられる作品を書く人…というイメージがあったのだが、この「疾走」ではそのイメージを一掃させられる。身内が起こした事件により、残された家族がたどる運命はこれほどまでに過酷で悲惨なものなのか、ということに改めて慄然とさせられる。これは他人事ではない。いつ自分が「父」か「母」か「シュウジ」になるか。あるいは「シュウイチ」になるのか…。そのときにたどる道はこれしかないのだろうか。とにかく救いがないのだ。そんなシュウジにも同級生のエリと聖書が心のよりどころとして存在するのだが、地獄から救いあげてくれる「手」にはならない。「からっぽな目」が見る未来には「地獄」しか見えない。「からっぽな目」という「暗い穴」に自分から堕ちていく…。どうすればシュウジを救うことが出来るのか。現在、事件被害者の家族が「救い」の声を上げ始めた。しかし、事件を起こした側の家族は「救い」を求めてはいけないのか。罪を憎んで人を憎まず…なんて所詮は絵空事でしかないのだろうか。「赤犬」の家族は「赤犬」でなければいけないのか。何故「父」「母」はわずか15歳の「シュウジ」を守ってやれなかったのか。怒りとも憤りとも違う、悲しみでコーティングされた名前のつけられない感情が胸の中で濁流となって渦巻いている。…そんな思いをする覚悟のある人は読んでください。本当は全ての「にんげん」が読まなければならないのだろうが、あまりにもキツイ。つらい。ラストにほんの少しだけ「希望」が見えるかもしれない…。
途中、何度か聖書の一部が出てくるのだが、難しくて読み飛ばしてしまった。理解したいのだが、何かを背負ったものだけがわかるものなのかもしれない。ならば、理解できなくてもいい…。

 

 

定年ゴジラ
東京近郊のニュータウン「くぬぎ台」に住む山崎さんがこの度、定年を迎えた。この街が開発されて30年。人生も家族も街もこれからどうあるべきか、山崎さんは定年仲間の「町内会長」「野村さん」「藤田さん」と共に奮闘する。「定年オヤジ」たちへ贈る応援歌のような作品。
定年を迎え、すっかり老け込んだり、「濡れ落ち葉」になるオヤジが多い中、この4人は萎えそうになりながらも仲間達に支えられ、時に支えながら、前を向いて歩こうとする。その姿に「がんばれ!」と声をかけずにはいられなくなる。本当は父にかけるべき言葉なんだろうけど、身内…特に娘から父にはなかなか言えない言葉だったりするから、代わりに山崎さんたちに受け止めてもらいましょう(苦笑)。
一方、作中で「ニュータウンはふるさととなり得るのか?」と議論するシーンがあるのだが、こちらも興味深かった。地方から都会へ出て、そこに居を構える人たち全てが抱える悩みや思いを山崎さんたちが代弁してくれてると思います。そして「結局は人も街も心意気次第だよ」と言ってる声が聞こえてくるような気がします。
重松さんらしい?ハートウォーミングな作品でした。