天童 荒太

 

家族狩り(文庫版)
<幻世の祈り、遭難者の夢、贈られた手、巡礼者たち、まだ遠い光> ★★★★
高校美術教師の巣藤はまるで抽象画を思わせる自画像を描いていた芳沢亜衣のことが何故か気にかかっていた。児童相談センター職員の游子はアル中の父から虐待を受ける少女、玲子に心を痛めていた。刑事の馬見原は仕事を通じて知り合った冬島母子と後ろ髪を惹かれる思いをしながらも別れる決意をしていた…。3人は亜衣が起こした傷害事件をきっかけに出会い、それは悲劇と衝撃を目の当たりにするほんの序章にすぎなかった。
はじめに…「家族狩り」単行本版を読まれた方、単行本版と文庫版両方を読まれた方とは感想は大きく異なるであろうということをあらかじめお断りしておきます。
「家族」…一番身近で一番小さな社会。誰もが家族によって救われ、時に傷つけられ、あるときは自らが傷つけている。巣藤も游子も、そして馬見原もそうだ。「家族」という言葉を「他人」に置き換えれば当たり前のことでも、家族に対しては当たり前だと思うことこそが罪…と、決め付けてないだろうか。家族だから無償の愛を要求し、それに応えようとする。家族だから無償の愛を押し付け、応えさせようとする。…でも要求したり、押し付ける時点で「無償の愛」ではなくなることに気づいていないのだ。でもそのことを真に気づかせるのは決して他人であってはならない。ましてや「生命」と引き換えに気づかせることなど、許されることではない。人は神ではない。誤った道を歩くこともあるだろう。しかし、その誤った道の先にも光はあるはずだし、正しいと思える道を歩いていても光はなかなか見えてこない。だから今、道をさまよっている「家族」にもやがてはその光が見えてくることを信じて欲しいし、祈りたい…。
「彼が死ねば、悲しむだけでなく、自分のせいだと罪悪感を抱え、自責の念のなかで日々を暮らす人がいる。死なずにいるのに、この理由だけでも十分に思えた」(本文より)…家族とともに生きるということはこういうことなのかもしれない。
物語は希望も見えるが、決してハッピーエンドではない。なぜならこの先の物語を作ることを「また明日」と読者にゆだねているからだ。出来ればハッピーエンドにしたい…という思いで、本を閉じた人が多いだろう。