弔 辞

小○君、いやダンちゃん、そしてOssy!
私が君の霊前に立って、まさかこの弔辞を読もうとは夢にも思いませんでした。
今もって信じられない気持ちです。

そう云えばここしばらく私たちの掲示板への君の書き込みがなく、少々気にはしていました。
しかし、これまでもよくこんなことがあり、風邪を引いて調子が悪かったとか、週の初めは調子が悪いんだ、とかいってひょっこりいつもの調子で現れていたため、この度もその程度だろうと思っていました。兎に角これまでも何回も発病しては立ち直り、精神的にも肉体的にも君の生命力にはつくづく感心していましたし、また信じてもいました。それがこんなことになるとは!
何故もっと早く声掛けしなかったんだろうと悔やまれてなりません。
この冬だったか、山形新聞に掲載されていた君の俳句に
  「 着膨れて 見えなきものに 立ち向かう 」
この句に接したとき、君の生に対する前向きなひた向きさに身震いするほどの凄まじさを感じたのを覚えています。私たちには想像もできない苦痛に立ち向かっていたんだろうとおもいました。そして「おお、やってるな、頑張れよ」と陰ながら声援を送っていたんです。しかし、その君はもう二度と私たちの前に姿を現さないのでしょうか。

振り返れば、君との最初の出会いは昭和12年、小学校の1年のときでした。津谷小学校から転校してきたとき、挨拶が終わって私の隣の席が当てられました。席に座るとすぐ君は鉄兜をかぶった兵隊さんの絵をさらさらと描き、挨拶代わりだったのでしょうか、人懐っこく「はい」と私に渡してくれたのを覚えています。

それから高校卒業まで一緒に過ごしましたが、その後は私は仕事も違う方向に進んだ関係から仕事上の付き合いもなく過ごしてきました。しかし、2年に1回のクラス会では会っていましたし、年賀状のやり取りもやっていましたが、とくにこれといった付き合いはありませんでした。

それが、お互いの近況や日常の事柄、趣味等々について頻繁にやり取りをするようになったのは、平成11年に私が送った年賀状の写真を見て、君が返事を送ってくれたのが切っ掛けでした。
 最初は、やり取りの媒体はハガキや封書の郵送でしたが、インターネットをやるようになってからは、郵送からメールに変わり、さらに小学校当時の同級生5人を交えた共通の「かがやき掲示板」に変わって現在まで続いてきました。昨日、この5年弱に亘る膨大なやり取りの記録を一部読み返してみました。その時々のことが鮮明に思い浮かびその頃に戻って君と会話している自分に気がつき、ハッとしました。

Ossy!  君はもういなかったんだな、と。

これはもう とてもたまらない!

その最初の頃の君からいただいたハガキや封書の数は76通ありました。
返事には返事を書き、そのまた返事を繰り返す、そんなやり取りで続いていきました。メールや掲示板の過去ログの数はとても数えきれませんでした。

こうして振り返って改めて思うことは、博識に裏付けられた君の話題の豊富さ、そして趣味の良さときらりと光るセンスの良さでした。音楽のこと、写真や絵のこと、郷土史のこと、宗教のこと、そのほか、お陰さまでいろんなことを学びそして教えられました。
これからは話題をリードしてくれる君のいない掲示板になってしまいましたが、残されたわれら4人でやはり続けていこうと思っています。同時に私のホームページにある君専用のエリア、即ち
「Ossyの部屋」も、君が生きてきた証として残しておきます。どうぞ暖かく見守ってやってください。

今、こうして君の霊前に立って写真をみつめ、改めて思うことは、存分に精一杯生きた充実した見事な人生だったと、つくづく思います。まだまだいろんな想いが錯綜し、去りがたい気持ちと同時にどうしても君はもういないという現実を信じたくない気持ちでいっぱいです。
しかし、やはりお別れしなければなりません。

どうぞ、安らかに眠ってください。

これまでの厚い友情に感謝しつつ、お別れとします。

平成16年8月11日
 
      
 Naccaより