オススメ武道・武術本の紹介です

サーチする:  
Amazon.co.jp のロゴ

剣禅一如 禅 -自分が変わり世界が変わる-  立花 大敬 潮文社(H20.9.15)
「剣禅一如」の考察から読んだ著書。著者は武道はしないが以下のように座禅での悟りに至る過程をP.73〜記載している。
「もう身体のどこにも無理や無駄がなく、完全にリラックスしたという実感がありました。まるで筋肉や内蔵が、まっすく地球の中心に向かって落下していくような感じがしたのです。そう気付いた途端、今度は心のほうもストンと落ちてしまって、もはや見当たらなくなってしまいました。(身心脱落)」
「身心をすっかり落としてカラッポになる。そして、何かのイメージをそのカラッポの中に入力してやるのです。たとえば空手の型をイメージして一瞬間、それを身体にインプットすれば、あとは何も考えなくても、体がおのづと動作して、その型をつくってゆきます。(脱落身心)」

無我と無私 -禅の考え方に学ぶ-  オイゲン・ヘリゲル著 藤原正彦監訳 ランダムハウス講談社(H20.9.15)
ドイツ人である著者が阿波研造師範に弓道の指導を受ける中で会得した境地に到るまでを記した本。
筆者は弓を引くのが重くて腕が震えてしまうのであるが、阿波師範は力の問題ではなく、呼吸法が出来れば弓も引けるようになるとアドバイスする。
「息を吸い込んだら腹壁がふくらむようにゆっくりと息を押し下げ、そこでしばらく止めなさい。それから息をゆっくりと、出来るだけ一様に吐くのです。少し間を置いて、もう一度一気に息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。これをリズミカルに繰り返すうちに、次第に呼吸が安定してきます。」
筆者が呼吸法を身につけて、次の課題は矢の「離れ」だった。引き絞った弓の張力に耐えられなくなった時に弦を放していたが、阿波師範が無心になる事が一番大切だとアドバイスする。
「何をしなければいけないか、どのようにやればよいか、などと考えてはいけません。射というものは、無心にならなければ、流れるように出来ないのです。」「引き絞った弓の弦は、差し出されたものを幼児が握るように、握らなければなりません。指を離す時も震動は起きません。何故だかわかりますか。子供は考えないからです。別の物をつかむ為に、それまで握っていたものを離すのです。意識してそうするのではなく、目的もなく、これからあれへと転々として行きます」「正しく射るには無為自然でなければなりませんぞ。的に当てる為正しい矢の離れを修得しようと躍起になるほど、ますます離れはうまくいかず、当たらなくなるでしょう。」「離れについて考えるのをやめなさい」「どこにでもある竹の葉が、どうしたらよいか教えてくれます。雪の重みで葉は下へ下へと押し下げられます。葉が動いたわけではないのに突然雪は滑り落ちます。射が落ちてくるまで、弓をいっぱいに引き絞って待てばよいのです。」
「(やがてうまく射る矢が出てきたのをみて)悪い射を嘆いてはいけないと、とうにわかっているはずです。これからは良い射にも喜ばないようにしなさい。一喜一憂するのはやめなさい。それらを超越して平静な気持ちでいられるようにするのです。そしてあなたでなく他の者が良い射をしたかのように喜ぶのです。」

空手 惣角流浪 今野敏  集英社 (H20.2.20)
合気道の元となった大東流合気柔術の武田惣角を主役とした小説。
琉球手(空手)の平安型をつくった糸洲安恒や柔道を創始した嘉納治五郎との対決シーンなどが描かれている(本当に対決した事はあるんですかね?)。
私の気に入ったシーンを3つ。
保科近悳から柔術の指導を受ける惣角。
剣を自在に扱う為に柄を握ってしまわず、小指をしっかりと締め、人差し指は緩めておくのがコツであり、柔術でも相手を抑える時は同じ抑え方をしなければいけない、ただ相手は剣や鍬のようなモノではなく動くので、膝行が必要である事を伝授するシーン。
空手の松村宗棍に気を合わせる指導を受ける惣角。
人間は押されれば咄嗟に引きたくなり、引かれれば押したくなる。それを利用して瞬時に押しと引きを入れ換える。それによって相手は動けなくなる。
近づく宗棍に攻撃を加えようとする瞬間にそれをひょいと抑えると、攻撃はおろか、押すことも引く事も出来なくなる。中国では小鳥を手に乗せて飛び立とうとする瞬間に手をすっと下げると蹴れないので飛びたてないような稽古をする。
更にその奥義を嘉納治五郎へ伝授する惣角。
絶対に引いてはいけない。引くのではなく相手を引き込むのだ。相手が何かしようと力を入れた瞬間を抑える。相手が力を入れようとしたところを脱力してその力を奪う。
治五郎が力任せに投げようとした瞬間、惣角が全身の力を抜いた。治五郎は力が入らなくなり、何かにつまづいたように前のめりになり、小手返しを極められた。
治五郎は「崩し」を悟る。相手が攻撃してくる瞬間には重心は移動している=崩れているのだ。相手が動かない時は体制が充分だから技がかからない。崩しをかけないとダメだ。


沖縄武道空手の極意  新垣 清  福昌堂 (H15.6.13)
首里手と那覇手のそれぞれの極意がわかりやすく述べてある。
ガマク、筋を抜くといった沖縄空手の用語の解説から、ナイファンチの型の深い意味から極意の解説へととてもわかりやすい。仮想重心とスキージャンプのような体の使い方が居つかぬ空手を体現するコツとなる。型の奥深さを考えさせられる本だ。

武道空手への招待  摩文仁賢榮 三交社 (H15.6.8)
糸東流空手の宗家の著書。著者の父 賢和流祖は沖縄より空手を伝えた。
沖縄の空手はその昔、「手(ティー)」と言われ沖縄の中でもエリアによって首里手、那覇手、泊手とそれぞれで発展してきた。賢和氏は転勤がで多かった為、各エリアの「手」の型を学ぶ機会に恵まれた。これら空手の本流の武術的強さを持っている「型」が、現在は明治以降の体育化で型競技と組手競技という競技化する中でそちらにそちらに価値がおかれてしまった為、失伝の危機となってしまっており、それを教えれる人間もひとにぎりとなっている事を訴える。
空手は歴史的には薩摩藩の支配下で非武装化された沖縄で独自に発展してきた素手の武道であり、鹿児島の次元流剣法の一撃必殺の思想が色濃く残った為、巻藁の鍛錬が産まれた。
型の解釈やムチミ、倒木(倒地)法など空手の本流の話が読める。
また柳生宗矩や山岡鉄舟の話など武道的悟りの境地についての内容も長い空手人生の中から感じた事を読む事が出来る名著。空手をやって長い方にオススメの玄人好みの本だ。

実戦!ケンカ空手家列伝 巨鯨修著 福昌堂
最近、空手の型の意味を考えると空手の歴史というかルーツが気になってきて読んだ本です。
空手は昔は「唐手」という字で沖縄で行われていた武道であり、その以前は手(ティー)と沖縄なまりで呼ばれていたそうだ。それを船越(富名腰)義珍先生が日本に伝えた際に、より日本的に「空手」としたのがルーツだ。空手はやはり歴史的には沖縄の文化や歴史との関係が深く避けては通れないものがある。この本は日本に空手を広めた人の強かった話が書いてある肩のこらない本だった。空手をやらない人にはつまらない本かもしれないが、自分の稽古している空手は本場の沖縄で行われていた手(ティー)とは随分違ってしまっているんだと感じ、温故知新ではないが、空手が日本に広めようとする苦心等を知る上で興味深く読めた。

空手道入門  江上 茂著  講談社 (H16.8.31)
日本空手発祥の船越義珍先生の祖師とする松濤會の本部松濤館長であった江上先生の技術本です。
伝統空手というイメージとは随分かけ離れ、基本・型などで脱力しきった柔らかい動きが沢山紹介されていました。
青木宏之先生の"新体道"の源流というのがビンビン伝わってきました。
後からホームページなどで知ったのですが、江上先生が無駄な力を排除した上で、力の「集中」と「貫通力」の理念を取り入れたのは、
合気道開祖の植芝盛平の甥にあたり"親和体道"の創始者である井上方軒先生との交流からだそうです。
船越義珍先生の頃の空手を随分柔らかくしたイメージですね。

この本の中で柔軟体操のページに書いてあった内容が心に残りました。
人間の体は本来、柔らかいものであり、柔軟をするにはまず心をゆったりとした気分にして緊張を解き、少々痛くても力まず、
呼吸を止めず、というのがコツで、体の硬化は老化、呼吸の停止は死であるのに対し、体の軟化による健康、深い呼吸による生を
説いています。
そして掲載されているモデルの方の柔らかそうな姿には、「この人の突き蹴りは重いだろうな」と本当に感じさせられました。

あと面白かったのが、前蹴りを以前は足の指先を拳のように折り曲げて、足の親指の第一関節を当てていたそうです。
中足で蹴るのが当たり前の我々にはとても信じられません。

江上先生、カッコイイですね。↑
でも、私が稽古にこの服装で行ったら怒られそう。
いつかこの格好で稽古しても怒られないレベルの男になりたい!

神田の古書街で以前に800円で買ってきました。(ラッキー)
昭和52年の本です。

義珍の拳  今野 敏 著  集英社 (H17.7.24)
沖縄から本土へ空(唐)手を伝えた船越(富名越)義珍先生を描いた小説です。

安里安恒と糸洲安恒に空手の型を学ぶ模様が興味深く描かれています。
当時沖縄での空手は人の眼を忍び、師と弟子の二人で稽古しました。と言っても弟子がひたすら型をするといった感じです。
入門時には「空手を私闘に使わない事。修行をしている事を無闇に伝えない事」を仏前で約束します。
礼節を知らない人間には空手は絶対に教えない、というのは当然だと思います。

型の稽古模様です。
「ナイファンチは足を肩幅に開き、膝をしっかりと外側に張り出す。胸を張り、気持ちは下腹に落とす。そしていかなる時でも腰の高さを変えてはいけない。足先を真っ直ぐ前に向ける」
「波返しをしても上体は動かない」
「ムチミは鋭い速さを生み、チンクチ(伸屈?)は小さな動きでも強い力を生む」
「小さく素早く腰を振る事でムチミを使う事が出来る。突き切る瞬間に拳を握りしめ、手首に力をこめることでチンクチがかかる。チンクチがかかっていない突きは軽い」「もっと小さく鋭く腰をぶるっと振るんだ」
「ナイファンチで足腰を練り、ムチミとチンクチを学んだ次はセーサンでガマク(腰骨の上、腰椎の脇のあたり)を入れる事を学ぶ。ここを緊張させないと本当の突きの威力は出てこない」
「セーサン(那覇手)ではゆっくりした呼吸にあわせて動く部分でガマクをいれる。」
「バッサイには数多くの技が含まれており、受けと攻めが一体になっているのが特徴だ。ムチミを多く使う」
「糸洲のナイファンチはサンチンの影響で内側に足先を向け膝も内側に曲げている」
「糸洲は歩く姿がナイファンチだと言われている。背筋が伸びて常に重心が移動しない滑るように見える歩き方だ。足を上げようが横に移動しようが腰の高さは一定である。重心は常に体の中心にある。」
唐手には昭林流(首里)と昭霊流(那覇)があります。

糸洲安恒先生がそれまで閉じた世界で行われていた空手を学校の体育教育に持ち込む際、平安初段〜五段を考案しました。
それも大衆に教える型と個人指導時に教える型と分けて考えました。
船越先生は本土に空手を伝える中で、沖縄名あるいは中国名で呼ばれていた型を本土で馴染むようにナイファンチ=鉄騎、クーシャンクー=観空、セーサン=半月、ワンシュウ=燕飛、チントー=岩鶴 ピンアン=平安と和名に船越先生が改めて伝えるようにしました。
でも、現在の感覚では昔の呼び方のほうがオシャレに感じたりしますね。
ちなみに太極は船越義珍の三男の義豪先生がつくった型です。

その後、和道流、糸東流、剛柔流と空手の流派が出てくる中で船越義珍は松濤館流ではなく日本空手協会を発足させました。
日本空手協会の動きは体育教育用の型の動きが中心となり、船越義珍が沖縄で学んだ空手とかけ離れていく中で、伝統を重んじる廣西元信が松濤會として独立し、どちらにも肩入れしない立場をとられたそうです。

猿  新垣 清 著  壮神社(H17.8.12)
泊手の松茂良興作に弟子入りして手を修行しながら、巨漢大城との琉球角力、中国拳法 鄭清興、糸洲安恒の弟子屋部憲通、ボクサーとの闘いを描いた小説。
屋部憲通が焼き物の達人仲村光順のところに弟子を連れて行った際に話した会話が面白い。
「焼き物で土をこねるのは、我等が型を習得するのと同じだ・・・型の目的は身体を武道的に錬るのであって、唐手そのものでは決してない。この土をこねるのは、その土が柔らかく、どんな形にも成るために錬るのである。こねる自体が、目的ではあるまい・・・型とは土をこねるまでだ。型は実戦のひな形というのは大間違いだ。そのあとにロクロを使い、焼入れをするまでは武道ではない。」

からだと心を鍛える―日の里空手スクールの実践から
 宇都宮英人 (著)  海鳥社
弁護士をしながら日の里空手スクールを指導される著者。
空手の本というと大体が自伝だったり、技術書だったりするが、子供の教育という点での空手の有効性について論じた珍しい本。
道場を運営し子供を教育指導する立場で真剣に論じている。

子供は親と先生しか接する機会が少ない中で、多数の大人たちと一緒に空手をする場を設ける事はともて良い事だ。

競技でよい成績をとる事を目的とした空手ではなく、学校でいじめにあったりして心に劣等感をもった子(大人も)にとって意味のあるいろんな意味での護身空手、こちらのほうが空手の意義があると思う。

昇級試験の際に子供について「もう少しけじめをつけてほしい」と親御さんから感想があったのに対して、文章でこのように回答されたらしい。
「道場は空手を教えるところで、躾をするところではありません。小2、小3の子供が折り目正しいのも気持ち悪いでしょう。・・・」となかなか空手を教える現場ならではの話も掲載されている。

高校時代にこの空手スクールに通って社会人になった人との対談も良い。
iいじめにあって学業も手につかず、学校では居場所がなく、家庭でもどうしてもっと勉強しないんだと言われて、日々死のうかと思っていたが、空手に通いだして、日々肉体的に成長していく自分がわかり、精神的にも自信がもて、いじめもなくなり成績もあがった」という実体験が書かれています。

また、「会員が少ない時は空手のビラを新聞広告として一万部折り込んだが多いときで10件くらいの反応があった。」という話まで書いてありました。

「隠されていた空手」  桧垣源之助 著  チャンプ (H17.11)
空手最大の謎である型を解き明かした名著。
その主流である平安1〜5、ナイファンチ(鉄騎)の分解を公開した本土の空手家にとって革命的な本。
早速、ここでの分解内容を稽古に取り入れさせて頂いています。

「古伝空手の発想」  宇城憲治監修 小林信也 著  光文社新書 (H18.1.7)

「武術を活かす」  宇城憲治 合気ニュース 
小林信也というジャーナリストの方が達人の宇城憲治先生に学んだ精神と武術の凄さを具体的に書いてあり、わかりやすかったです。
統一体、身体脳を感じる実験の方法が書いてあるのですが、これも試みる事をおすすめします。
「古伝空手の発想」を読まれた後に「武術を活かす」を読むと、より理解しやすいと思います。

「古武術的ゴルフの極意」  永井延宏 著  小学館文庫 (H18.1.20)
ゴルフに黒田鉄山先生の身体理論をあてはめる技術書。
ゴルフはサッパリ私には理解出来ないが、黒田先生の理論の紹介も結構されていて、その部分がわかりやすい。
「治す空手」  山田 治義 著   (H27.8.20)
脳梗塞・サルコイドーシスという難病に空手の転掌・ナイファンチと呼吸法が効果的だったという体験談の本。
気功術の李先生の話が面白い。
「空手でも拳法でも剣道でも外形であり体である。気功は内形であり精神であり形がない。身体が小宇宙と考えると、気功術の内形は陰と陽から成っている。陰は大きくその中の陽は米粒のように小さい。陽を鍛錬して大きくしていけば気を外に発散していける。逆に陽が小さくなり亡くなる事は死だが神仏に還る事だ。陽を鍛錬するには邪念、外部の音を遮断し脊柱線を真っ直ぐにしてリラックスする。それを何回も繰り返していくと陽を鍛えれる。」
外家拳と内家拳の違いもどちらから鍛えるのかの違いという事か。

呼吸法やジョギング、エアロビなどのリズム運動によりセロトニンが多く分泌され、うつやパニック障害、摂食障害、あがり症、きれやすい子などを治療出来る。
呼吸法では呼吸にだけほんのわずかに意念を使うだけの状態、呼吸をただみつめるような意識の状態になる。これが座禅の「数息観」と似ている。「数息観」は精神を安定させて入静の状態に導く呼吸法である。