カリブ諸国年表

(ジャマイカ、ベリーズ、小アンチル諸島の国々)

 

2005年9月  旧英領カリブ その2 (小アンチル諸島およびギアナ三国)は別の年表としました。

2006年11月 ジャマイカと小アンチル諸島を分けるのは不便です。また海賊関係の事項は、民衆の抵抗を主要な対象とする年表の眼目と外れており、煩雑です。このため年表の編成をギアナ三国、海賊、そしてカリブ諸国(残りのジャマイカ・ベリーズ・小アンチル諸島)の三つに改めました。

 

1494年

5.04 コロンブス,ジャマイカ中央北岸にある St.Ann's Bay付近に上陸.「ハマイカ」は、タイノ語のXaymaca(サイマカ)に由来し、「森と水の国」という意味。

1500

1503 コロンブスは4度目の航海で再びジャマイカに上陸し、船の修理を行う間の1年間をオーチョ・リオス近郊で過ごす。

1509 サントドミンゴのフアン・デ・エスキベルがジャマイカに上陸.島をサンティアゴと命名。最初の植民地は北岸サント・アン地区のセビリア・ヌエバ.

17 スペインはジャマイカに最初の黒人奴隷を移入。

30 ジャマイカ島セビリア・ヌエバのスペイン人,南部平野に転居し,あらたにサント・ハゴ・デ・ラ・ベガ(現スパニッシュ・タウン)の町を建設.各地にサトウキビのプランテーションが作られる。

38 ジャマイカの首都、セビリア・ヌエバからヴィラ・デ・ラ・ヴェガに移転。

40 ジャマイカ島,コロンブス家に与えられる.コロンブス家はまったく投資をしないまま放置.

50年頃 6万の人口を数えたジャマイカのアラワク先住民が絶滅.

97 アンソニー・シャーリー,ハマイカ唯一の港ラ・ビリャ・デ・サント・ハゴ・デ・ラ・ベーガを占拠するが,40日後には放棄.

 

1600

00 ほとんど無人の島となったエスパニョーラ島に,フランス人を始め各国の流れ者が侵入.食人種カリブ族が人肉を干すのと同じ方法で乾燥牛肉を作り販売した.カリブ族が干し人肉をブカンと呼んだことから,かれらはブカニエ(英語でバカニア)と呼ばれることになる.彼ら自身は掠奪者を意味するオランダ語源のフィリバスターと称していた.ときに徒党を組んでスペイン戦を攻撃するなど海賊行為を働くようになる.

00頃 バルバドスのスペイン人によりラム酒が作り出される。

09 英国人200人がグレナダに入植.カリブ族との戦いに敗れ退散.

19 イギリス海賊ウォーレス,木材伐採のための丸太小屋をベリーズ海岸にたてる.

20 英国,小アンティル諸島アンティグアなどに植民.

1624年

1.28 ブラジル植民に失敗した英国人トマス・ウォーナ,小アンティル諸島のセント・キッツ(セント・クリストファー)島に植民開始.フランス人との共同作戦でカリブ族の抵抗を撃破し,タバコの栽培に成功する.

27.2.20 バルバドス島をイギリス人ヘンリ・パウエルが占領.タバコ栽培のため植民開始.

28 イギリス,ネーヴィス島を占拠.

29 スペイン,セント・キッツを襲撃し,イギリス人を排除.まもなくイギリスが奪回.

31 イギリス人がサンタ・カタリナ島(現コロンビア領プロビデンシア島)に上陸.タバコと綿の栽培を開始.

32 英国,バルバドス・ネーヴィスに続きアンティグア島を確保.

34 オランダ,ベネズエラ沖合いのキュラソー(クラサオ)島を占拠.カリブ進出の戦略拠点とする.

34 コロンブス家の所領ハマイカ,本国との関係が途絶.

1635年

35 フランス,マルティニクとグアドループへの植民開始.マルティニクのフォル・ド・フランスに総督を配置.

35 イギリス,ヴァージン諸島を占領.

1636年

36 オランダ,クラサオ島に隣接するアルーバ島,ボナイレ島などを占拠.

36 オランダ人,砂糖キビをブラジルからバルバドスに持ち込む.イギリス人入植者は綿,インディゴ,生姜,タバコなどを栽培.

38 イギリス船の船員,難破してベリース(現ベリーズ・シティー)に漂着.その後黒人を連れログウッド(染料原料)の伐り出しを始める.

1640年

40 グアドループ島,マルティニク島でカリブ族先住民の反乱.

40 砂糖生産,ブラジルから英領バルバドスにもたらされる.バルバドスにおいて,最初の本格的な砂糖プランテーションの開始.その後の50年間,バルバドスは世界最大の砂糖生産地となる.

40 英国でクロムウェルらによる清教徒革命.

41.5 カルタヘナのスペイン軍,2千名を動員してプロビデンシア島のイギリス人を駆逐.イギリス人はバハマ諸島のひとつをニュープロビデンスとして新たに植民.

42 イギリス海賊ウィリアム・ジャクスン,ジャマイカ島唯一の町サインティアゴ・デ・ラ・ベガを襲撃.

46 イギリス,バハマ諸島を占領.

49 クロムウェルによるピューリタン革命成立.

50 フランス人富豪モンシュール・ドゥ・パルクが第二次のグレナダ入植を組織.

52 イギリス・オランダが海上覇権をめぐり第一次英蘭戦争.3年間にわたる.

1654年

54 オランダ人 Rock Braziliano 、ポルトガル人バルトロメオらがハマイカのポート・ロイヤルに入る。このあとポート・ロイヤルは海賊天国となる。

54 マルティニク知事のデュ・パルケ,カリブ族の抵抗の拠点となっていたサンバンサン島に討伐隊を送る.グアドループの地主シャルル・ウェルはグレナダを占拠し,カリブ人を皆殺しにする.カリブ族は,マルティニク島,サンルシア島を一時制圧するなど果敢に反撃.

54 ブラジルのペルナンブコを追放されたオランダ人,バルバドス島に移転.砂糖プランテーションを建設.

1655年

1 クロムウエル,新大陸の先住民をスペインの圧制から救うという「西方計画」を発動.ウィリアム・ペン提督とヴィネイブル(Venables)将軍の率いる大海軍遠征隊をカリブに派遣.

4 バルバドスに結集した38隻,8千の大軍が,サント・ドミンゴ制圧を目指す.上陸地点を間違えた部隊は戦闘の前に消耗し,サントドミンゴに達しないまま撤退.

5.10 サントドミンゴ攻略に失敗したイギリス軍,キングストン港のパッセージ・フォートに上陸.首都ラ・ベガ(スパニッシュタウン)に向け進軍.

5.11 ラ・ベガのスペイン人,イギリス軍に降伏.島から追放される.多くはキューバに逃れるが,スペイン人の一部は北部・西部の海岸地帯で抵抗を続ける.奴隷は農場を脱出し,山岳部にマルーン共同体を形成.

10月 セドグィック(Sedgwicke)将軍がジャマイカ駐留軍司令官として赴任.その後黄熱病とマラリアで将軍を含む兵員の3/4が病死.これに代わりブレイン(Brayne)将軍が派遣される.ブレインはスペインの反撃に備え,キングストンの守りを固める.

56 ブレイン将軍も病死.これに代わりエドワード・ドイリー(D'Oyley)将軍が赴任.

56 スペインの反攻に備え、キングストン港を囲む砂州の一角に,ポート・ロイアルが建設され首都となる。まもなく海賊の一大基地となる.

57 ドン・クリストバル・アルナルド・デ・イサッシ(Ysassi)最後のジャマイカ知事に任命される.彼の率いるスペイン人部隊が北部海岸地帯で活動を活発化.支援部隊も,二度にわたりキューバから上陸.

57 ドイリー将軍,キングストンから船でジャマイカ北岸に上陸.オチョ・リオスの闘いでイサッシ軍を撃破.

58 ジャマイカの私掠船モルガン船長,パナマを一時占領.

58 ジャマイカ駐留のミングス提督、(Christopher Myngs)南米北岸のTolu,Cumano, Puerto Caballos、Coroを次々に襲撃。

58 ドイリー将軍,ふたたび北部のスペイン軍を攻撃.イサッシ軍部隊はリオ・ヌエボの闘いで壊滅.黒人奴隷の一隊を引き連れ,山中に退却.その後,ルボロ・デ・ボラスの率いるマルーン部隊とともにゲリラ闘争を継続.

1660年

60 ドイリー,マルーン最大の部隊長ルボロ・デ・ボラスと停戦合意.ボラスに「黒人の知事,黒人連隊大佐」の称号を与え,自治を保障する.配下のマルーンは完全な市民権と30エーカーの土地が与えられる.その後も多くの逃亡奴隷は和平協定を拒否し,抵抗を続ける.

60 ボラス,イサッシと離反しイギリス軍につく.ボラスの攻撃を受けたイサッシは抵抗を断念.カヌーでキューバに逃れる.

60 フランス人,マルティニクに残存するカリブ人殲滅作戦を開始.結局,抵抗を押さえることができず,和平を結ぶ.カリブ族はドミニカ島,サンバンサン島での居住を認められる.

61 英本国,ジャマイカの本格的な開発を決定。ドイリーをジャマイカ総督に任命.植民地議会の創設を求める.

62 ドイリーに代わる総督としてウィンザー卿が着任.ジャマイカ生まれのイギリス人を英国自由市民とみなす王室声明をもたらす.この時点でジャマイカ居留民は4205人.

62 ジャマイカのミングス提督,サンチアゴ・デ・クーバを占領し略奪.ついでカンペチェ湾のサンフランシスコを占領し略奪.

63 英総督の要請を受けたルボロ・デ・サルス,和平合意を拒否した他のマルーンの鎮圧に乗り出す.フアン・デ・セラスのマルーン・ゲリラ,ベルメハレス高原で待伏せ攻撃によりサルスを殺害.

1664年

64 バルバドスの農園主トーマス・モディフォード卿,ジャマイカ知事に任命される.アフリカから大量の黒人奴隷を導入し,砂糖・カカオの栽培に乗り出す.

64 三年にわたる第2次英蘭戦争開始.モディフォードは海賊に私掠免許を与え,島の守備にあたらせ,軍への取り込みを計る.トルトゥーガ島の海賊モルガン,叔父のエドワード・モルガンを頼りジャマイカにわたる.エドワードはのちに副総督となる.

64 ジャマイカ初の議会が開催.20人の議員が45の法律を制定.

64 フランス,西インド会社を設立.カリブへの本格的進出に乗り出す.

1665年

65 ニューアムステルダム,イギリス軍の攻撃の前に降服.ニューヨークと改称.

1666年

66年 英国とオランダが大西洋上で4日間にわたる海戦。ミングス提督が戦死。

66 スペインとフランスとのあいだに植民地戦争.小アンティルの原住民カリブ族はフランスの側に立ち参戦.

1667年

67 第2次英蘭戦争終結,ブレーダ条約締結.オランダ,戦争中に占領した英領スリナムを,ニュー・アムステルダムとの交換で蘭領とする.

1670年

8 マドリード条約締結.イギリスのジャマイカ領有が認められる代わりに,海賊行為が禁止される.ジャマイカ総督はこの合意を無視し私掠活動を継続.

70 フランス,マルチニクを占領.

70 英西間にジオドルフィン条約(マドリード条約)締結.イギリス,スペインより正式にジャマイカを獲得.ベリ−ズ河河口地帯の租借権を獲得.このあとカリブの海賊は次第に下火となる。

73 この年,ジャマイカの人口は17,272人に達する.

73 フランス艦隊,キュラソー島のオランダ軍を攻撃するも撃退される.

74 フランス,グレナダの領有を宣言.

75 オランダ領となったスリナムからジャマイカに1,200人が移民.砂糖植え付けを開始.

1676年

5月 フランス領ギアナのカイエンヌをオランダ艦隊が攻撃し,占拠.

12月 フランス軍,カイエンヌを奪回.さらにトバコ占拠を目指す.一時トバコを占領するが,恒久的確保には失敗.

84 (ジャ)マルーン(逃亡黒人)による反乱開始.以後55年間にわたり断続的に衝突が続く.

89 アウグスブルク同盟戦争開始.英仏の覇権争いが始まる.

90 ジャマイカのクラレンドン県チャペルトンで黒人奴隷の反乱が発生.首謀者は処刑されるが,残党は山に逃げ込む.

92.6.07 正午前,ポート・ロイヤルを大地震が襲う.三回の揺れの後,町の大半が海底に沈む.ポート・ロワイアル,大地震により崩壊.その後津波が襲来し,二千名が犠牲となる 以後,海賊の活動は終焉を迎える.

92 イギリスはヴィラ・デ・ラ・ヴェガをスパニッシュ・タウンに改名し、首都として再建。

1694年

5 ドゥ・カッセ提督の率いるフランス艦隊がジャマイカを攻撃.北部/東部の海岸を襲撃し,50の砂糖農場、50の農園を破壊.黒人奴隷1,300人を連れ去る.

7.19 フランス軍1,500人がクラレンドン県のカーライル湾に上陸.奴隷を含む農民200人が反撃.三日後,農民の抵抗闘争にさらに数百名が加わり,フランス軍を駆逐.

96 この年,ジャマイカ在住の黒人奴隷は47,365人.

99 スコットランド人入植者,ダリエンにカレドニアの町を建設.

 

1700

01.9 スペイン王位継承戦争が始まる.

02 キングストンを基地とするイギリス艦隊.コロンビア沖合いでドゥ・カッセの艦隊と海戦.5日間の激戦の後,英軍司令官ベンボウ提督が負傷.部下はそのまま撤退.ベンボウはまもなく死亡.撤退を命じた司令官代理は処刑される.

04 ポート・ロイヤルで大火災.地震を免れた家屋もすべて壊滅.その後町は放棄される.海賊は本拠地をバハマに移す。

13 ユトレヒト条約が締結される.このあと英仏両国は海賊に対する取締りを強化.

16 バルバドスで黒人奴隷の反乱.

21 ジャマイカにコーヒーが移植される.

23 仏領マルティニク島にコーヒー移植成功,以後LA全体にひろがる.

24 ジャマイカで黒人奴隷の反乱が盛んになる.島の北西岸ではクジョエ(Cudjoe)とジョニー,アコンポンの兄弟のゲリラが猛威を振るう.北部の多くの栽培者は砂糖農園を放棄.他にカフェエ(Cuffee),カオ(Quao)に率いられる集団.北東部では女呪術師(Obeah)ナニーの集団.

29 エドワード・トレローニー(Trelawany),ジャマイカ知事に就任.マルーン部落の掃討作戦を策定.ニューヨーク・ニュージャージーの総司令官兼知事のロバート・ハンターが派遣され指揮をとる.

30 第一次マルーン戦争開始.西部山地のトレローニー(リーワード)タウンでは,クジョーを指導者に抵抗を続ける.ほかに東部ブルーマウンテン山地のナニー(ウィンドワード)タウンは,キャプテン・カオ(Quao:アシャンティ名),クイーン・ナニー(オベアー教の呪術師),パーキンソンらが活動.

30 ヨーロッパで砂糖ブームが起こる.これにあわせハイチとジャマイカを中心に砂糖の生産が急速に拡大.ジャマイカのプランテーションは急速に発展.これに伴い黒人奴隷の輸入も急増.

32 モラビア派,カリブの英語圏で布教開始.腐敗した国教会にかわり黒人のあいだに影響力を広げる.

34 ナニー・タウン,英国軍の攻撃により壊滅.逃亡奴隷の多くは絶壁から身投げ自殺する.トレローニ・タウンは引き続き抵抗.さらにジブラルタルから英二個連隊が派遣される.ニカラグアのモスキート族,猟犬ブラッドハウンドも導入される.

35 400人の民兵と200人の水夫からなる掃討部隊,マルーンの新たな拠点を攻撃.マルーンは部隊を待ち伏せ攻撃し撃退.この戦闘でイギリス人部隊に20人の死者と多数の負傷者を出す.ハンターは5年間にわたるマルーン戦争に勝利できないまま死亡.

38 トレローニ総督,トレローニ・タウンの制圧を断念.マルーンに2500エーカーの土地を承認し,事実上の独立を許す.マルーンは逃亡奴隷狩に協力すること,海外からの侵略があったときは総督府に協力することを約束.

39 第一次マルーン戦争終結.マルーンは講和条約(Leeward and Windward Treaties)を結んで土地600ヘクタールと自治を保障される.

46 ジャマイカで,再び黒人奴隷の反乱が発生.総督府は参加者全員を処刑.

1750年

50 英国船に積み込まれた黒人奴隷350人が,グアドループ島付近で反乱.船を乗っ取り脱出を図るも,軍により捕獲される.

56 イギリスとフランスとのあいだで7年戦争開始.

59 ベリーゼのブラックリバー,英国人入植者が3706人を数える.

60 アンティリャスからガイアナへのイギリス人の入植が進む.デメララ地方ではオランダ人をしのぐまでに増加.

60 (ジャ)元コロマンティ族首長の経歴をもつタキー(Tacky)のひきいる反乱.反乱参加者は3万に達する.ポート・マリアを占領し武器を手に入れ,捕らえた白人を皆殺しにする.イギリス軍との戦闘で400人が死亡.捕らえられた600人は英領ホンジュラスへ追放される.

62.2.05 イギリス軍艦隊が,マルティニクのフランス軍拠点を奪う.さらにフランス領のグレナダを占領.

62 ベリース地方,ログウッドにかわりマホガニー林業を中心とするイギリス人の入植開始.

1763年

2 パリ条約締結.7年戦争終結.イギリスはハバナをスペインに,小アンティル諸島のグアドループ,マルティニク,セントルシアをフランスに返還.代りにフロリダとドミニカ,グレナダ,セントヴィンセント(サンヴァンサン)などを獲得.

63 パリの条約締結.英国はホンジュラス湾周囲の要塞を放棄することで合意.しかし材木の伐採はひき続き認められる.

63 ウィリアム・バーナビー,ベリーズ移民のための法律集を作成.長年にわたり,ベリーズにおける統治基準,公判の基準となる.

63 イギリス軍,カリブ族や逃亡奴隷の聖域となっていたセントヴィンセント島を占領.

64年 ジャマイカなどの英領カリブで深刻な不況.当局は奴隷貿易の強化により乗り切りを図る.これに抗議する黒人奴隷の反乱が相次ぐ.この年,ジャマイカの人口は166,454人.うち140,454は奴隷であった.

73 (ジャ)マルーンによる大規模な反乱起こる.イギリスはニカラグア大西洋岸のモスキート族を動員してこれを弾圧.

1781年

4.29 フランスがドバコを占領する.

11.26 米国の独立戦争と関係してフランス・スペイン・オランダと英国との戦争が始まる.

1782年

2.13 ド・グラース提督の率いる仏艦隊6千人,英領セント・クリストファーを占領.小アンティル諸島のほとんどが,フランス軍の手に落ちる.

4.12 フランス艦隊がジャマイカ占領を狙い出動.スペイン軍と合流するためハイチに向かう.ジョージ・ロドニー提督の率いるジャマイカの英艦隊は,グアドループ沖のレサント(Le Saints)諸島にこれを迎え撃つ.フランス軍は6千の兵力のうち3千を失うという惨敗.この後再びイギリスがカリブの制海権を確保.

84年 ジャマイカをハリケーンが襲う.黒人奴隷15千人が死亡.

84 バージニア生まれの解放奴隷ライル,ジャマイカにわたり布教開始,独立戦争の息吹きを伝える.黒人のエチオピアン・バプテスト教会運動が広がる.

86 ロンドン条約締結.イギリスはスペインのベリーセに対する領有権を承認.実際は依然として占拠を続ける.

89.8 マルティニクで黒人奴隷の反乱.指導者は「全ニグロ人民」を代表して「国王はすでにわれわれの解放を命じられた.そのことをわれわれは十分承知している.従って仮にも我々の解放を妨害するものがあるとすれば,われわれは当植民地に火を放ち,これを血の海と化す用意がある」と洞喝.

90.6.09 マルティニクの黒人反乱,フランス人入植者との内戦に発展.

89 イギリスの奴隷制廃止論者ウィルバーフォース,英下院で奴隷貿易の廃止を目指すロビー活動を開始.

91年 この年ジャマイカでは,767ヶ所のサトウキビ農園で14万人の黒人奴隷が働く.

94 マルティニク,奴隷制維持をはかる王党派と組んだイギリス軍により占領される.グアドループでは共和派がムラート,解放奴隷の支持を受け王党派を制圧.

95 第二次マルーン戦争開始.トレローニーのマルーン自治体,人口の増加に伴いさらに多くの土地を要求.ジャマイカ当局はマルーンへの弾圧強化で応える.5千の掃討部隊が組織され,ブラッドハウンド犬も大量に輸入される.逃亡奴隷一人あたりに10ポンドの報償金がかけられる.数ヶ月後に,戦いはマルーンの全面敗北に終わり,捕らえられた人々はノヴァスコシアに売り飛ばされる.

96 仏西同盟成立,スペインはイギリスに対し宣戦布告.英海軍,全てのスペイン植民地を海上封鎖.トリニダード島を占拠.

97.2 西仏合同艦隊,サンビセンテ岬沖の海戦でイギリス艦隊に大敗.

98 グアテマラ総督軍,ベリーセのイギリス人植民地を攻撃.イギリスはこれを破り英領ホンデュラスとして自治権獲得.その後,森林伐採を目的とし,ホンジュラス,ニカラグアの大西洋岸に進出.

 

1800

05年 トラファルガー沖海戦.スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い.新大陸との交易にも支障をきたすようになる.

06 英国,奴隷制度を廃止.海外植民地においてはその後も続行される.

08.3.01 英国,奴隷貿易を廃止.ジャマイカへの黒人奴隷の輸入が禁止される.度重なるマルーンたちの反乱が背景となったとされる。この時点で島内の黒人奴隷は319,351人に達する.

08 ジャマイカ・フォート・オーガスタの第二西インド連隊で兵士の反乱.反乱参加者のほとんどは黒人.

09 キングストンの奴隷の陰謀が発覚.当局によれば奴隷たちは町を焼き尽くし,白人住民を皆殺しにする計画だったという.

1810年

12.03 イギリス軍が,フランス領のグアドループを占領.

14 パリ条約.トリニダード・トバコ,セントルシアがイギリス領に.グアドループとマルティニク島が正式にフランス領となる.サント・ドミンゴのスペイン帰属が決定.ガイアナ(エセキボ、デメララ、ベルビセ)は英国に帰属することとなる.フランスは海外領土における奴隷貿易の廃止を受諾.

14 スペイン,イギリスのべリースへの植民を認知.独立は認めず.その後植民者は木材をもとめてホンデュラスからニカラグアへと南下.

16 バルバドスで黒人奴隷の反乱.

17 フランス議会,奴隷貿易廃止法を可決.奴隷制度はマルティニク,グアドループなどで残存.

19 ジャ:前年のハリケーンの際に逃亡した黒人奴隷が各地で農場を襲撃.当局の追討作戦で多くが捕らえられ処刑される.

22 マルティニクで黒人奴隷の反乱.その後も十年にわたり小規模な反乱が頻発.

24 ジャマイカで黒人奴隷の反乱.

1830年 奴隷制廃止運動の高揚

30 奴隷制廃止協会,漸進的廃止の方針を破棄し,即時全面解放を支持する立場に転換.

31.12.24 (ジャ)モンテゴ・ベイでサミュエル・シャープの率いる黒人の反乱。「クリスマス反乱」と呼ばれ、サミュエルがバプテスト教会の黒人牧師だったことから「バプテスト戦争」とも呼ばれる.闘争は4ヶ月にわたる.1万(一説に5万)の黒人が参加し,24年反乱を大きく越える規模に発展,30ヶ所の農園が襲撃を受ける.

31 セント・ジェームスで黒人奴隷の反乱,瞬く間に全土に拡大.英本土でもジャマイカ農園主に対する非難が強まる.

1832年

5.23 サミュエル・シャープ,当局により処刑される.処刑場となったモンテゴ・ベイのチャールズ広場は,のちにサム・シャープ広場と改称される.その後も2年にわたり抵抗が続くが,500人の犠牲者を出し終結.バプテスト教会は,黒人蜂起を教唆・援助したとの疑いで迫害される.

32 マルグレーヴ伯が知事に就く.現地議会に奴隷の待遇改善を求めるが,議会は拒否.

32 キングストンのエドワード・ジョーダン,でっち上げの罪で死刑を求刑される(のちに減刑).ジョーダンは白に近いカラードで自由市民.「ウォッチマン」紙を発行し,一貫して自由を訴えていた.

1833年

5 英国植民地省,下院に奴隷制廃止法案を提出.奴隷所持者への要請がすべて拒否されたため,英本国が支配権を発揮しなければならなくなったと説明.本国政府は奴隷主への補償金として二千万ポンドを準備.その30%がジャマイカに渡る.

8.28 奴隷制廃止法,下院で可決される.大英帝国が支配するすべての土地で,今後6年間の間に奴隷制度を廃止するよう求める.また6歳以下の子供の即時解放が定められる.

33 奴隷制度に代わるものとして年季奉公システムが導入される.旧奴隷は4〜6年間旧主人の下で契約奉公人として働くことを義務づけられる.奉公人は奴隷と同じように殴られたり虐待を受けたりする.

34.8.01 イギリス,全植民地での黒人奴隷制を廃止.英議会は年季奉公制度の早期終結と奴隷制の完全廃止に踏み切る.

35 イギリス軍,ベリーズの入植地へ進出.グアテマラへの干渉開始.

35年 奴隷制に代わる契約労働者としてポルトガル人が導入される。この内約千人が熱帯病で死亡。

1838年

8.01 奴隷制の残滓である契約奉公人制度が最終的に廃止される.ビクトリア女王は,奴隷解放のシンボルとして称えられる.スパニッシュタウンでは,鎖や手錠を詰め込んだ棺が,町を行進したあと墓地に埋められる.

42 ジャマイカ全国農業協会が設立される.

43 第一次契約労動が完了。多くのインド人はそのままインドに戻る。英国政府は不評のため契約労動システムを凍結。本国の管理の下でのみ、インド、ポルトガル(主にマデイラ)、中国からの移民労動を許可。

44.1 パリの労働者,国民議会に奴隷制の即時廃止を要求.

45 キングストンとエンゼルスの間に最初の鉄道が開業する.

45 さとうきび農園へのインド人クーリーの移入始まる.80年間に25万人が流入.

1848年

3 二月革命後のフランス,自領植民地での奴隷制を完全廃止.

7.02 デンマーク領バージン諸島で奴隷の反乱.バドゥーを指導者とする反乱軍は,奴隷解放の要求が容れられなければ町を焼くと脅迫.総督はバージン諸島に住む人はすべて自由であると宣言.9月にはデンマーク政府もこれを承認.続いてオランダ領でも奴隷制が廃止される.

52 イギリス,砂糖保護関税を廃止.ヨーロッパでの甜菜糖生産の拡大や,キューバとの競争に敗れ,英領西インド諸島は衰退.

52 (ジャ)インドからの移民が持ち込んだコレラが流行.3万人以上が死亡.

59 (ベ)イギリス,グアテマラに対しベリーズにおける主権を認めさせる.交換条件としてグアテマラ・シティーからカリブ海岸までの鉄道建設,ベイ諸島の返還を認める.

59 ジャマイカの二つの地域で小規模な黒人暴動が発生.

1860年

60 奴隷解放後,白人地主の多くが国外に出たため,ジャマイカ議会の2/3が黒人によって占められるようになる.有色人指導者のジョージ・ウィリアム・ゴードンらが議員に選出される.ゴードンはカラードの農園主でバプティスト.「有色商人・自由人」協会の議長を務める.

62.8 (ジャ)ゴードン議員、植民地相あてにエドワード・ジョン・エアー総督弾劾の手紙をおくる。これに対する議会聴聞会が開催.

62 ベリーズ,英植民地と正式に宣言される.

64 ベリーズ,英領内自治国となる.

1865年 モラント湾の反乱

65年 ジャマイカの黒人農民,政府保有の土地の耕作権を請願するが,拒否される.セント・アン,セント・トマス教会区の黒人はこれに抗議し暴動.背景には2年連続の旱魃による貧困とエア総督や国教会の不正.

10.7 (ジャ)モラント・ベイの黒人下層階級,拘留されている仲間の釈放を要求してデモ.首謀者はポール・ボーグル.民兵の発砲をきっかけに暴動となる.暴徒は教区会議を開催中のモラント・ベイ裁判所に放火.教区長ほか18人の白人が死亡.

10.08 モランド・ベイ,騒乱状態となる.自警団との衝突で22人の白人将校などが殺される.ジャマイカ知事エドワード・ジョン・エアは戒厳令を発し,「反乱を起こした黒人は白人プランターにとって脅威であり,抹殺すべきである」と訴える.

10.12 エアー総督は戒厳令を公布,マルーンの助けを借りながら拷問や弾圧により450人を殺傷,千以上の家屋が焼打ちにあう.ポール・ゴーグルを裁判にかけ処刑.

10月 ジョージ・ウィリアム・ゴードン,反乱を扇動したとして捕らえられる.キングストンからモラント・ベイに移送され,軍法会議の上処刑される.

66.1 モラント・ベイの真相究明のため,本国から調査団がわたる.エア知事は解任され,調査団長のヘンリー・ストークスが暫定知事となる.

66 黒人の反抗に危機感を感じたイギリス本国議会は,現地政府の行き過ぎを認め,エアを召還.植民地議会を廃止し本国植民相の直轄下におくこととなる.

66 ジョン・ピーター・グラントがジャマイカ総督に就任.立法審議会,枢密院を設置し,島を14の区に再編成するなどの改革.インフラ整備に力を注ぐ.

69 (ベ)イギリス,ベリーズに監督官を派遣,英領ホンデュラスを宣言.

 

1870年

70 英領ホンジュラスの議会,自ら解散.

70年 ジャマイカ,サトウキビ栽培からバナナへの転換を図る.この結果大量の黒人労働者が失業.アメリカ(46千),パナマ(45千),コスタリカ(33千),キューバ(22千)などへ流出.

71 ジャマイカの人口,この年50万人を越す.

76 バルバドスでヘネシー総督の暴政に対し,黒人弁護士コンラッド・リーヴスを指導者とする反乱.黒人多数が死傷,410人が逮捕.

90 マルティニクとグアドループ,海外県として本国と同様の扱いをもとめる決議を本国議会に提出する.

97 トリニダード労働者協会設立.インド系労働者を中核に組織を拡大.

 

1900

02.05.08 マルティニク島のモンプレー火山が大噴火を起こし,2万8000人が死亡.

03 「ジャマイカ全書」の刊行が始まる.カリブ在住黒人の独自のアイデンティティーを探る文学運動.

04 トリニダード島で本格的な石油採掘開始.

07.1.14 キングストンを中心に大地震.続いて火災が発生.8百人が死亡.

1910年

14 第一次大戦始まる.欧州戦線に召集された黒人が,帰国後黒人運動の中核となる.

14.8 イギリスで黒人運動に目覚めたマーカス・ガーヴィー,キングストンで万国黒人地位向上協会(UNIA)を設立.アフリカ帰還運動を提唱.

17 ガーヴィー,ニューヨークでUNIA支部を結成.

18 ジャガン,ジョージタウンでインド人運転手の息子として生まれる.苦学してクイーンズ・カレッジを卒業したあと,米国に渡り歯科医の免許を取得.

19.6 ガーヴィーはUNIA本部をニューヨークに移し本格的な普及活動を展開.全米に30の支部を設立,会員数は2百万人(自称)に達する.

1920年

20.4 ジャマイカの新興宗教ベドワード派にひきいられた労働条件改善をもとめるデモ.当局の弾圧により685人が逮捕,208人が重労働の刑に.

25.2 ガーヴィー,郵便詐欺事件でアトランタ刑務所に収監.UNIAの運動も終焉.

27 ガーヴィー,ジャマイカへ追放される.キングストンで人民政治党を結成し,市議会に議席を得る.法廷侮辱罪で逮捕・投獄された後英国へ去る.

30 エチオピアのラス・タファリ,皇帝に即位しハイレ・セラシエを名乗る.これを機にガーヴィーの影響を受け,ジャマイカをバビロンと見,神の国エチオピアへの帰還を訴えるラスタファリ運動がベドワード派に代わり黒人下層に影響力を拡大.奇矯な髪型は,マリファナなどの反社会的行動とあいまって恐怖編み(ドレッド)の名で呼ばれる.

32 ドミニカで西インド諸島会議開催.連邦化構想と全議員を民選とする立法議会構想を基礎とする憲章が起草される.トリニダードのアンドリュー・シプリアーニらが指導.普選制度の採用について意見の一致を見ず,採択に失敗.

34 シプリアーニらトリニダード労働党結成.社会主義を標榜する.

34 マルティニク出身の黒人アイメ・セゼール,セネガル出身のサンゴールらとともに「正当防衛」誌をパリで創刊.ネグリチュード運動を展開.

35 英領バルバドスでも労働争議が頻発.労働者の立場に立つ弁護士グラントリー・アダムズが影響力を広げる.

37.6 トリニダードで「大英帝国労働者・市民自治党」の指導する石油労働者のストが暴動に発展.ユライア・バトラーが指導.闘争のなかで油田労働者組合が結成,これに続いて砂糖,船員,鉄道などの労働者が組合を組織.独立運動の主要な柱となる.これを基礎に西インド諸島民族主義党が成立.

37 (ジャ)ブスタマンテ,ジャマイカ労働者・技術者同盟の執行委員に就任.雄弁により頭角を現す。1884年生まれなので、この時点ですでに53歳。

ウィリアム・アレキサンダー・バスタマンテ: 父はアイルランド人で母はジャマイカ人。養子に出されスペインで成長。軍役を終えた後各地を放浪。32年にジャマイカに戻り、米系貿易会社の支配人となった。

38 (ジャ)土地分与を要求する反乱.当局は入植のための土地創出に50万ポンドを支出することを決める.実際には執行されず.港湾労働者もストを打ち抜く.ブスタマンテはブスタマンテ産業労働組合(BITU)を結成.砂糖産業を始めとする農業従事者と港湾労働者の支持を得て,つぎつぎにストを組織.英当局はバスタメンテを1年にわたり拘留。

38.9.18 ブスタマンテの従兄弟で弁護士のノーマン・マンレイ,独立をめざす人民国民党(PNP)を結成.

39 マルティニク出身の黒人作家エメ・セゼール(共産党員),パリで「祖国復帰ノート」を発表.黒人の解放を目指しフランス文化への同化を拒否.ネグリチュード運動のピークを形成.スペイン語圏ではキューバの黒人詩人ニコラス・ギリェンが活発な創作活動.

40.6 パリ,ナチスにより占領される.マルティニクの海軍提督はヴィシー政権支持の態度を明らかにする.

41年 ブスタマンテ、民衆扇動家として逮捕され、1年間にわたり収監される.

1942年

1 ドイツ軍,カリブ海で輸送船に対するUボート攻撃を開始.米国はシーレーン防衛のため,グアドループ・マルティニクへの圧力を強める.

6 マーカス・ガーヴィー,ロンドンで客死.

1943年

6月 グアドループ・マルティニクが自由フランス軍の支配下に入る.

7.08 ぶすたまんてら、ジャマイカ普通選挙実施を翌年に控え,BITUの運動を基盤としてジャマイカ労働党(JLP)結成.右翼もふくむ保守的な政党となる.

43年 これに対抗してマンレイ派は砂糖産業従事者を基盤とする全国労働者組合(NWU)を中核に,民衆国民党(PNP)を結成.社会主義を長期的視野において自治権の拡大を目指す.

44年 ジャマイカ初の総選挙.労働党が国内保守派をひきつけ、人民全国党に圧勝.

44 グアドループ共産党,フランス共産党の支部として発足.58年に独立党となる.

45 (ガ)英領ギアナ労働組合会議(BGTUC)の提唱により,英領カリブ諸国の運動を包括するカリビアン労働会議を結成.政治組織として政治問題協議会を創設.ジャガンらが指導にあたる.イギリス連邦内で単一の独立国家を形成することを目指す.

46 グアドループ,マルティニク,フレンチ・ギアナの仏領西インド諸国,フランス海外県となる.普通選挙制実施.共産党員のエメ・セゼールが,マルティニクの首都フォー・ド・フランスの市長および本国議会の下院議員に当選.

46 バルバドスで初の総選挙.バルバドス労働者連合がバルバドス労働党(BLP)を結成し勝利.グラントリー・アダムスが首相に就任.

1947年

47 ジャマイカのモンテゴ・ベイで,各植民地の代表とイギリス植民地省による会議が開催される.2年後に英領カリブ諸国の連合を結成する計画で合意.

49 英領ホンジュラスで自治権拡大を目指す人民委員会が結成される.ジョージ・プライスが議長に就任.

50 (ベ)人民委員会を母体として人民統一党(PUP)創立.イギリスからの独立と普通選挙の実施を要求.

50 エリック・マシュー・ゲイリー,グレナダ熟練労働者・知的労働者組合を結成.グレナダで初のゼネストを成功させる.

1951年

2.22 グレナダ総督,ゲイリーを国外追放.島民の抗議が暴動化し,総督はゲイリーの帰国を認める.帰国したゲイリーはグレナダ人民党を結成.農業労働者や公益事業労働者が結集.

10 グレナダ総選挙.人民党が71%を獲得.8議席の「議会」のうち6議席を占める.ゲイリーも閣僚のポストをあたえられたが,欠席が多く資格を剥奪される.

53 ジャマイカ,憲法改正により立法選挙.ブスタマンテが勝利し首相(Chief of Ministers)に就任.

1954年

3 ジャマイカ警察,人民教育協会とジャマイカ労働組合連盟の本部を捜索.

9 グレナダ選挙.人民党を改組したグレナダ統一労働党が7議席を獲得.ゲイリーはこのあと数年間音信不通となる.

54年 英領ホンジュラス(現ベリーセ)の議会選挙で,ジョージ・プライスの率いる人民統一党 (PUP) が勝利.

1955年

1 ジャマイカ総選挙.人民全国党が勝利.ノーマン・マンリーが政権に就く.英国はバスタメンテをナイトに叙するなどの干渉。

55 エチオピアのハイレ・セラシエ,新大陸から移住した黒人のため土地を分与することを決定.

1956年

1 E.ウィリアムズ,全国人民運動(PNM)を結成.人種間対立を乗り越える国民統一の立場を打ち出す.

9 トリニダード・トバコ総選挙.全国人民運動(PNM)が勝利.エリック・ウィリアムズが首相に就任.

56 マルティニクの黒人運動指導者エメ・セゼール,フランス共産党を離れ進歩党を創設.自治権拡大の方向を目指す.

57.11.11 ジャマイカ,完全な自治領に移行.

1958年

1.03 バハマ,英領ホンデュラスと英領ギアナを除く10の旧英領植民地が参加して,西インド連邦結成.連邦制における中央政府の権限を巡り論争.強力な中央政府の建設に反対するジャマイカが分離.

西インド連邦参加国
ジャマイカ,ドリニダード=トバコ,バルバドス,グレナダ,セントクリストファー=ネイヴィス,アンティグア=バーブーダ,セントルシア,セントヴィンセント=グレナディーン,ドミニカ,モントセラート

2.23 西インド連邦の連合議会選挙.首相にバルバドスのグラントリー・アダムスが就任.ジャマイカのマンリー,バスタマンテ,トリニダードのエリック・ウィリアムスなど有力者は選挙に立起せず.

58 マルティニクの国民的指導者セゼール,共産党を離れ進歩党(PPM)を結成.

1959年

4 バスタマンテの民主労働党が,マンリーの人民全国党(連邦労働党)に勝利.政権を奪回.

7.28 憲法改正に伴い,再び総選挙.人民全国党が再度政権を獲得.ノーマン・マンリーが首相に就任.

60 ヘンリー父子に率いられたラスタファリの一部,ゲリラを結成し山中にこもるが,まもなく摘発される.

59 マルティニクの首都フォー・ド・フランスで,進歩党,共産党などにより,アルジェリアからの亡命官僚のおしつけに反対する大規模なデモ.軍の弾圧により数十人が死亡.

1961年

9 (ジャ)ジャマイカで野党の労働党のイニシアチブで,西インド諸島連邦からの脱退を問う住民投票.離脱賛成票が圧倒的多数を占める.

61 グレナダで再び統一労働党が勝利.ゲイリーが首相(Chief Minister)に就任.公費流用,権力乱用に加え個人的奇行が重なったことから,英国政府はゲイリーを公職から追放し内閣を解散.

61 ベリーズ市,ハリケーン「八ティー」により壊滅.50マイル内陸のベルモパンに新首都が建設されることとなる.

1962年

4.10 (ジャ)国民投票後最初の選挙.ブスタマンテ労働党(JLP)政権が,国民投票に勝利した勢いを生かし勝利.その後2期10年にわたり政権を維持し親英親米路線をとる.バスタメンテ政権は公共事業と農地改革を柱とする五カ年計画を発足させる。60年代を通じて外国資本による工業化やボーキサイト鉱開発により6%の経済成長を持続.

8.06 ジャマイカ(6日)とトリニダード・トバコ(31日)が,西インド諸島連合より脱退しイギリス連邦内で独立.これにより西インド諸島連合は解体.

8.31 人民民族運動(PNM)のエリック・ウィリアムスが、首相として政府を組織。

 

1963年

7.31 グアテマラのペラルタ大統領,英国がベリーズを不当に占拠していると抗議,対英断交.

 

1964年

64年 英領ホンデュラス,イギリス連邦の一員として自治権獲得.人民統一党(PUP)のジョージ・プライスが政権につく.プライスはさらに完全独立を目指す。

65年 グアダルーペ共産党議長のアンリ・バングー,ポアンタピトル市長に選出.

66.11.07 ドリニダードで議会選挙。ウィリアムス与党の国民民族運動が36議席中24を獲得。野党の民主労働党は12議席を占める。

66年11.30 バルバドスも西インド諸島連邦から分離.その後すべての諸島が分離独立する.

1967年

2.12 ジャマイカ総選挙。JLPが引き続き過半数を獲得。ドナルド・サングスターが首相に就任するがまもなく死亡。これに代わりヒュー・シーラーが首相に就任。

67 エリク・ゲイリー,イギリス自治領グレナダの首相に就任.当初民族主義的路線をとるが,その後腐敗し反政府勢力への弾圧を強化.権力維持にグレナダ防衛軍,警察,私設ギャング団『マングース』を動員.唯一の野党グレナダ国民党(ハーバート・ブレイズ議長)は,有産階級を代表する党で国民の支持を得られず.

67年 バスタメンテ、病気のため政治の第一線を引退。この時点で84歳。二年後にはライバルのノーマン・マンリーも病気引退。

1968年

1 リオス・モント,ベリーズにたいしトレド地方の割譲を要求.プライス首相はこの要求を拒否すると同時に,グアテマラへの軍事援助を行う米国を非難.

2 (ベ)プライスら,親米的姿勢を改め,第3世界との協調をはかる.ショーマン,ムサらは破産したPACを離れPUPに潜入.

5.01 旧英連邦諸国(コモンウェルス)を中心に12ヶ国が参加してカリブ海自由貿易連合(CARIFTA)発足.カリブ地域の関税を撤廃し,地域内経済の発展をめざす.本部をガイアナのジョージタウンにおく.中米共同市場,ベリーズの加盟申請を却下.米国はベリーズが将来グアテマラの監督下に入ることを示唆する(ウェブスター提案).

10.15 アフリカ史の講義を通じて民衆文化の発展につとめたウォルター・ロドニー西インド大学教授(ガイアナ人),ジャマイカ政府当局より国外追放処分を受ける.学生の抗議デモに下層黒人大衆が加わり,外国系会社を襲撃.キングストン市は騒乱状態となる.背景に貧富の差拡大と都市における失業率の増加.

10 (ベ)PAC,統一黒人進歩協会(UBAD)と統一し革命行動運動(RAM)を結成.

1969年

2 ノーマン・マンリー,人民全国党の党首を辞任.息子のマイケルが後継者となる.ノーマンは半年後に病死.

5 (ベ)英国留学中にファノンやゲバラの理論に影響を受けたショーマンとムサ,帰国し人民行動運動(PAC)を結成.

1970年

4.21 トリニダード・トバコで、黒人と一部インド系住民が暴動を開始。カーニバルにまぎれチャグアナの米軍基地を襲撃。ブラック・ムスリム運動は、ウィリアムス首相ら一部黒人エリート勢力の権力独裁と,外国資本の経済侵略に反対

4.22 政府軍兵士400人が反乱を開始。3日間で4人が死亡。政府は非常事態を宣言し、政治活動を全面禁止。

4.22 米海軍は艦艇6隻、海兵隊2千人、英軍は艦艇2隻を配備し沖合いを封鎖。

4.23 米政府、ウィリアムス政権を支持し、武器・弾薬などの支援物資を緊急空輸。

4.25 米軍の支援を受けたトリニダード政府軍、反乱部隊の鎮圧に成功。反乱部隊の残党は、トリニダード島北部の森林地帯で民族統一自由闘争団を結成,ゲリラ活動を続ける.

5 英国から帰国した弁護士モーリス・ビショップ,都市住民を対象にグループ「フォーラム」を結成.やがて共同体推進運動「コミュニティーの努力の前進を目指す運動」(MACE)に発展改組.都市下層労働者の組織にとりくむ.同じく英国帰りのマルクス主義者バーナード・コードは「市民の利害に関する委員会」を組織.

9 ルサカで開かれた非同盟諸国首脳会議に,ジャマイカ,ガイアナ,トリニダード・トバコの旧英領3ヵ国が参加.

11.20 トリニダードで非常事態が解除される。

1971年

3月 ドリニダードで反乱に加わった政府軍兵士9人に有罪判決。

5.24 トリニダード総選挙。民主労働党ボイコットにより人民民族運動が36議席を独占。

1972年

2.29 (ジャ)総選挙.首都キングストンで25%に達する失業者や社会不正に対する怒りを背景に、民衆国民党(PNP)が勝利.マイケル・マンリーが首相に就任。ラスタファリ運動も民衆国民党を支持.

10 ビショップら,地主による土地不法占拠反対闘争に勝利.ゲイリーは選挙を停止.街頭デモも禁止するなど,さらに抑圧姿勢を強める.

10 ビショップ派とコード派がが合同して人民議会運動(MAP)を結成.ゲイリー政権との対決姿勢を明確にする.さらに議会制度を廃止して「参加民主主義」と「人民議会」の創設を目指す.この構想はタンザニアのニエレレ大統領の提示した「ウジャマー」をモデルとする.

12 ガイアナ,ジャマイカ,トリニダード・トバコ,バルバドスの旧英領4ヵ国,キューバ,中国との国交樹立.

 

1973年

3 グレナダのMAP,農村部で活動を進めていた「人民の福祉と教育と解放のための共同の努力」(JEWEL:Joint Efforts for Welfare,Education and Liberation )と合同.新宝石運動(NJM)を結成.ゲイリーの退陣を公然と要求.都市貧困層,中間層に加えゲイリーの地盤である農民の組織化を図る.

5 ウィリアムズのイニシアチブでカリブ自由貿易連合を解消.カリブ共同体(CARICOM)の創設で合意.

5月 ジャマイカ新政府,教育の無償化を発表.労働者,女性・児童の保護を目指す法律を矢継ぎ早に制定.

6.27 政府,ボーキサイトの採掘料を8%引き上げると発表.外国企業の規制に乗り出す.

6 英領ホンデュラス,公式にベリーズと改称.グアテマラの抵抗により独立は遅れる.

11 英国,ビショップらの反対を押しきり,選挙をおこなわないままでグレナダの独立を承認.結果としてゲイリー独裁を容認.ビショップは1万人を動員して抗議行動を展開.

11月 政府,ジャマイカの新たな政治理念として「民主的社会主義」を掲げると宣言.「非資本主義・非マルクス主義的な発展」を目指す.国際的には非同盟路線をとりプエルトリコの独立や南アのANC支持を表明.ジャマイカ労働者党(共産党)は民族国民党支持を打ち出す.国内富裕層とワシントンはこの道を拒絶.

73年 トリニダード・トバコのゲリラ,三つの警察署を襲撃.警官8人が死亡.

1974年

1.21 「血の月曜日」事件.新ジュエル運動のデモに警官隊が弾圧.参加者一人が殺される.

2 グレナダ,英連邦内で独立。グレナダ統一労働党のエリック・ゲイリーが首相に就任.ゲイリー首相は全政党の指導者を一斉逮捕.この時ビショップの父親が殺害される.さらにゲイリーは秘密警察を組織し独裁体制を敷く.黒魔術の信仰者であり,国連総会でバーミューダ三角や空とぶ円盤について演説するなど,奇矯な行動を続ける.

7 ガイアナ,スリナムであいついでボーキサイト採掘の多国籍企業レイノルズ社を国有化.背景にオイル・ショックによる経済的苦境.ジャマイカでも五大アルミ企業の51%を国有化しようとするが企業の抵抗にあい挫折.米国はマンレーの民族主義的傾向に強い警戒感.

1975年

10 国連総会,ベリーズが単独で国家を建設することを圧倒的多数で可決.グアテマラ右翼の大立物サンドバル「グアテマラ人の命にかけてもベリーズの独立を許さない」と発言.

75年 (ベ)ディーン・リンド,人民統一党と対決する保守派組織,統一民主党(UDP)を設立.

 

1976年

1.06 キングストンで暴動。民間人4人と政府警官4人が死亡。

3.13 中南米・カリブ海地域砂糖輸出国機構が設立される.23ヵ国が参加する.

5.21 キングストンで反政府派の暴動。10人が死亡。

6.19 政府が非常事態を宣言。これまでの半年で160人が暴動に関連して死亡。

8.01 トリニダード・トバゴ,新憲法制定.英連邦にはとどまるが,大統領を国家元首とする共和制に移行.エリス・クラークが大統領に就任.インド系住民はウィリアムズを離れ「統一国民運動」に結集.ウィリアムスは権力的姿勢を強める.

9.13 トリニダード総選挙。野党の「統一労働戦線」(ULF)が10議席を獲得。

9 (ジャ)国会選挙を前に,CIAのチリ型方式によるマンリー政権の転覆策動強まる.各地で両派の衝突.当局は非常事態を宣言し500人を拘束.

11.23 ジャマイカ議会、混乱の中で解散される。

12 (ジャ)総選挙,人民国家党(PNP)が下院60議席中47議席を獲得。CIAの転覆策動を抑え圧勝.JLPは13議席に留まる。マンリーは「資本主義体制下で国民の生活水準を改善することは困難である」とし,非同盟・親社会主義・親カストロの立場を明らかにする.マンリー首相,キューバを公式訪問.

76年 グレナダ議会選挙.NJMはブレイズのひきいるグレナダ国民党,資本家層を代表する人民連合党と「人民同盟」を形成.ビショップが代表に選ばれる.15議席中6議席を獲得するが,激しい攻撃の前に多数派獲得はならず.

 

1977年

2 ジャマイカ政府,カイザー・ボーキサイト社,レイノルド・ジャマイカ社を部分買収.

3.08 ジャマイカ地方選挙。PNPは総選挙を上回る得票で、全269議席中237議席を勝ち取る圧勝。

6.05 ジャマイカ、1年にわたった非常事態を解除。この1年で200人あまりが死亡。

6 グレナダで第7回OAS総会開催.バンス国務長官,人権が守られない国へは援助を凍結すると演説.グアテマラ,エルサルバドルはこれに反発し,自ら援助を拒否.

8.06 ジャマイカのバスタマンテ,94歳で死亡.

10.18 カストロ,ジャマイカを答礼訪問.空港からキングストンまでの街路を市民が埋め尽くし歓迎.

10 国連総会でベリーセの独立が承認される.賛成126対反対4,13カ国が棄権.

1978年

78年 ゲイリー,チリの技術援助を受け秘密警察を強化.NJMへのテロ攻撃のなかで人民同盟崩壊.ビショップは合法活動を断念し「人民革命軍」を結成,非合法活動に入る.武装闘争の準備を開始.

1979年

2.22 セントルシアが独立.

3.13 米国訪問中のゲーリー,NJM指導者の一斉逮捕を指令.人民革命軍,40名の武装集団により決起.腐敗した政権を打倒し人民革命政府を樹立.新政権はカリブ諸国連邦内にとどまると発表.

3.14 人民革命政府が発足。ただちにキューバ承認を発表.

3.15 米国家安全保障会議,英国と東カリブ諸国を支持し,選挙の早期実施を求めることを決定.新政府の援助要請には応じることを決める.

3.20 ジャマイカのマイケル・マンリー首相、新政権に対する支持を表明。バルバドス、ガイアナも新政権を承認。

3.22 英国、カナダ、米国が相次いで新政権を承認。

3.25 新政権,「グレナダ革命宣言」を発表し74年憲法を停止.新憲法制定まで全権を掌握した人民革命政府が政権を担当すると発表.「人民法」が公布される.ビショップは英国型議会政治を否定,住民の直接参加形態を模索.

3.28 新政府,米国平和部隊の派遣を拒否.

4.14 人民革命政府首相に就任したビショップ,「キューバとの関係回復を妨害している」と米国を非難.

4 ビショップ,ゲーリーの反抗に備え英,米,加に軍事援助を要請するが拒否される.グレナダ,キューバからの武器援助を受け入れ.米国はキューバとの関係強化に対し疑念を表明.

5 米国,グレナダを除く東カリブ海諸国への援助を強化.

7.11 キューバ、新政権を支持。軍事援助、軍事顧問の派遣に同意。

9 NJM中央委員会開催.ただちに社会主義を目指さず,社会主義を志向しつつも,当面は人民主義的・民族主義的路線をとることを決定.混合経済を模索し,国有化をゲーリーや部下の資産と電力・電話・銀行などの基幹産業に限定.土地改革も微温的なものにとどめる.委員長にビショップを選出.

10 米政府,「ソ連軍部隊がグレナダに派遣されている」と発表.

10.15 グレナダ政府、クーデターの計画を摘発したと発表。11月3日にも別のクーデター計画についての発表。

11 ベリーズ総選挙.劣勢の予想を覆しプライスの現政権が,リンドのひきいるUDPをやぶり勝利.

79年 (ジャ)マンレーの路線に反感を抱く米国,資本の引き上げ,IMF資金援助や民間銀行貸し付けの停止,ボーキサイト価格の操作などで圧力.GDPは16%低下,失業率は32%(40%?)に増加,物価は320%に.さらに砂糖生産量の激減,輸入商品の高騰が襲う.引き締め政策に反対する群衆がCIAの支援を受け各地で暴動.750人の死者を出す.国内にテロがあれくるい観光収入も減少する.史上最大の洪水,経済困難に拍車.

79年 ジャマイカ労働党,労働者党(共産党)との混同を避けるため,社会民主党と改称.

 

1980年

1.08 キングストンでふたたび反政府派の暴動。警官3人を含む7人が死亡。

2 カーター,キューバ承認など親共的姿勢を理由に,グレナダの新大使デッシマ・ウィリアムスの承認を拒否.

3 ジャマイカの対外債務が1億86百万ドルに達する.IMFとの借款をめぐる交渉,最終的に決裂.国内経済は最悪の事態を迎える.

4 共和党の大統領候補レーガン,「カリブ海が共産主義者の湖になろうとしている.これに対し米国は動くことを恐れる巨人のようになっている」と演説.

5.30 キングストンで暴動が発生。警察では対応できず、政府軍が出動。

6.19 グレナダの首都セントジョージでビショップ暗殺未遂。この事件で3人が死亡。

6.24 ジャマイカ軍部によるクーデター計画が発覚.当局は将校24人,文民三人を拘束.

7.19 (ベ)プライス首相,ニカラグア革命1周年記念集会に出席.国内野党は一斉に反発.

7月 ジャマイカ当局,この半年で223人が政治的理由で暗殺されたと発表.

8 ベリーズ・シティー,ハリケーンによる被害甚大.首都をベルモパンに移転.

10.30 (ジャ)市街戦が展開される中での総選挙.労働党(JLP)が圧勝し政権を奪取.PNPは9議席に留まる。混乱の中で,CIAのたくらみによるテロがあいつぎ750人が殺される.マンリー支持をつらぬいたレゲエ歌手ボブ・マーレイも狙撃される.

10月 国連総会,ベリーゼ独立を139対0で採択.これまでグアテマラを支持して来た米国も,独立支持に回る.グアテマラは裁決そのものを拒否して退場.

11.07 ジャマイカ労働党のエドワード・シアガ(Seaga)が首相に就任.

11.07 グレナダのソテュール(Sauteurs)で、政府保安要員と反乱グループが衝突。28日にも同様の事件があり、あわせて7人が死亡。

11.18 キューバ,グレナダの飛行場建設を援助すると発表.

1981年

3.29 トリニダード・トバゴのウィリアムズ首相急死.「人民全国運動」の副党首ジョージ・チェンバースが首相就任.その後石油価格の低迷から財政悪化.

3 ジャマイカ労働党,地方選挙でも圧勝.

3 ベリーズ,グアテマラ,イギリスの三者会談.独立について基本的合意に達する.しかしその後グアテマラは国境問題を理由に独立反対に回る.

5.11 ジャマイカ民主化のため奮闘したロバート・ネスタ・マーレイ(ボブ・マーレイ),マイアミで病死.

9.13 ベリーズ独立.国連総会でベリーズの独立を承認するという異例の方法で,グアテマラの抵抗を押しきる.独立にからんでイギリスは国境問題解決までひきつづき軍を駐留させる方針を示したため,グアテマラと国交断絶にいたる.国連には加盟するが,国境問題の解決まではOASへの加盟は留保される.ニカラグアなども独立を支持.

10.30 シアガ政権,キューバとの国交を断絶.大使の国外退去をもとめる通告.多くの進歩派が一時亡命を余儀なくされる.

11.01 アンティグア・バーブーダが独立.

11.09 トリニダード総選挙でPNMが引き続き勝利。統一労働戦線は8議席に後退。

81 米国の肝いりで東カリブ海諸国機構(OECO)結成.グレナダ包囲網を形成.

1982年

7.27 グレナダとソ連、経済援助協定に調印。

9月 ビショップ,「党の発展路線」と題して演説.グレナダ革命を反帝,民族民主的性格のものと規定.

1983年

3 レーガン,グレナダがキューバ゙の援助のもとにポアン・サリーヌ(Point Selines)航空基地と海軍基地を建設していると発表.米国のシーレーンの安全を脅かすものとして非難.

3 米国が支援した亡命グレナダ人によるクーデターの陰謀発覚.

6 ビショップ,米国の干渉を激しく非難.「我々は大国の前にひれ伏すことなく,真の独立,非同盟,民族自決の道を歩む」と宣言.

7 NJM党大会.ビショップ派と,バーナード・コード(Bernard Coard)副首相派が激しく対立.コード派は「非常時には非常体制が必要」とし,政府の再編,中央委員会の団結を基礎とするNJMのボルシェビキ化,強力な指導の貫徹を唱える。対米配慮を重視するビショップは,これを拒否.大衆参加と現実的政策を主張する。

8 米議会、レーガンのカリブ開発構想を具体化した「カリブ地域経済再建法」を承認.中米およびカリブ地域の27ヵ国に特恵待遇を適用.受益国からの米国輸出に対し12年間にわたり関税免除.同地域の生産品の米国市場参入を容易にし,輸出志向型経済の発展をうながすとともにカリブ海をとりまく事実上のドルブロック形成をめざす.現実の援助はジャマイカとドミニカに集中.その後の経過では実効はほとんど上がらず,共産主義国家は対象から外れるなど,たんなるニカラグア,キューバいじめに終わる.

9.19 セントクリストファーネビスがイギリスから独立.

9 NJM中央委員会.ビショップはいったんコードとの共同指導体制を受け入れる.

83年10月 グレナダのクーデター

10 東欧諸国訪問から帰ったビショップ,コードとの共同指導体制を拒否.

10.13 グレナダのフォート・ルパートでバーナード・コード副首相ら極左集団によるクーデター.人民革命軍総司令官ハドソン・オースチン,革命軍事評議会の設置を発表.ビショップほか3閣僚を自宅監禁.ビショップの仲間も「コード暗殺を企てた」として逮捕される.

10.19 ビショップ支持者は抗議のデモを展開しいったん救出に成功.コードはいったんビショップを釈放したあと,デモ隊に無差別発砲.ビショップをふくむ百名近くがその場で射殺される.オースチンを議長とする16人が軍事革命評議会(RMC)を設置.

10.20 キューバ,ビショップの死は正当化できないとし、オースチンらの行動を厳しく非難する声明.グレナダ政府からの支援要請を拒否.

10.20 米政府、グレナダにおけるクーデターを非難する声明。

10.21 東カリブ海諸国機構(OECS)総会,米国のグレナダ侵攻を「要請」.OECS加盟国はバルバドス,アンティグア・バーブーダ,ドミニカ,セントルシア,セントビンセント,グレナディーンの6カ国.

10.23 米特使,バルバドスでドミニカのメリー・ユージニア・チャールス首相,バルバドスのトム・アダムス首相,ジャマイカのシアガと会見.これらの国はいずれも同日、グレナダのクーデターを非難する声明。

10.24 自宅幽閉中のグレナダ総督スクーン,OCESあての親書でグレナダの秩序再確立を要請.

10.24 「緊急の激怒」作戦開始.米軍5,500人がバルバドスに上陸し前進基地を設営.カリブ諸国6カ国から300人が参加し「多国籍軍」を形成。

「緊急の激怒」作戦: 在留米人保護を口実とするグレナダ上陸作戦。ベイルートの爆弾テロで多数の海兵隊員が死んだことによる政府の失点をカバーするための政治的作戦といわれる.空母アメリカ,インデペンデンスが参加,2千の海兵隊と陸軍レンジャー部隊が上陸。のちに国防筋が発表したところによれば,実際には6千名を越えていたといわれる。米軍に加えジャマイカおよび東カリブ海諸国機構の兵士,警官300名が参加。カリブ諸国軍は直接戦闘には参加せず.囚人とキューバ人の保護,およびセント・ジョージなどの都市警備にあたる.

10.25 米上陸部隊がグレナダ島のポアン・サリーヌなど数カ所に上陸.

10.27 ベリーズもビショップ首相殺害を非難する声明。

10.28 OECSの組織したカリブ平和維持軍(CPF)がグレナダに配備される。司令官はジャマイカのデルロイ・オームスビー大佐。ジャマイカから450人、ドミニカ、アンティグア・バーブーダあわせて50人の軍兵士、さらに米非軍事要員300人など。

83年11月

11.01 「緊急の激怒」作戦が終了。人口11万人の小国を4時間で制圧する計画は,PRAとキューバ人の激しい抵抗で6日間にまで遅れ,侵攻軍にも19名の犠牲者を出す.キューバ軍784人の内24名が戦死,59人が負傷.精神病院への無差別攻撃により数十名の患者が死亡.投降する兵士まで無差別に射殺し犠牲者は千名を越える.(米側公式発表ではグレナダ兵85名を含む約200人)

11.01 米軍に救出されたスクーン総督が現職に復帰。グレナダ暫定政府の樹立と非常事態を宣言。

11.09 スクーン総督の下に9人の委員からなる暫定諮問評議会が創設される。議長にはニコラス・ブライスワイテ(Braithwaite)が就任。リビア人17人,北朝鮮15人,ソ連人49人,ブルガリア人3人が祖国に送還される.

11.23 550人からなる市民警察軍が創設される。米政府は警察官の訓練援助に同意。

11 「民主主義のための国家基金」米議会を通過.カリブ諸国に対する国家転覆策動への援助を公然化.

12.15 米軍戦闘部隊が撤退。教練,警察,医療,補給部隊が残留.

12.15 ジャマイカ総選挙.PNPがボイコットしたことから,JLPが全議席を獲得.

1984年

1 米国に亡命していたかつての独裁者ゲーリー,グレナダ帰国.

12.03 グレナダで「選挙」,親米3政党の合同した新国民党によるハーバート・ブレースかいらい政権成立.旧ビショップ派はモーリス・ビショップ愛国運動(MBPM)を結成し選挙に臨むが,5%の得票で惨敗.政権成立を受け米国政府は300万ドルの緊急援助.

12 ベリーズ総選挙.親米保守の統一民主党(UDP)が勝利.マヌエル・エスキベルが首相に就任.

1985年

6月11日 米軍がグレナダ撤退を完了.米軍の指導下に編成された警察軍が、その後の治安維持に当たる.

9.20 「カリブ平和維持軍」、米軍に続き撤退を完了。

1986年

12 ジャマイカで地方議会選挙.野党が選挙をボイコットしたため,PNCはセントトーマス以外のすべての議席を独占.

12.4 グレナダ最高裁,クーデターの指導者オースチンら14名に死刑を宣告.

12.15 トリニダード・トバコ総選挙.黒人系の民主行動会議(DAC)、インド人系の統一労働戦線(ULF)、国家再建機構(ULF)、タピア・ハウス運動(THM)が連合し「国家再建全国連合」(NAR)を結成。アフリカ系住民とインド系住民の融和を訴える。選挙の結果、NAR が全36議席中33議席を獲得する圧勝。

12月 アーサー・ロビンソン政権成立.IMFの指導を受け経済構造調整に乗り出す.独立以来24年間続いた国家人民運動(PNM)政権はいったん終了。

1987年

87年 グレナダで新国民党議員のうち5人が党を離れ、「全国民主会議」(National Democratic Congress)を形成。

1988年

8月 ジャマイカで労働、国民両党が来るべき選挙期間中の暴動を避けることで合意。しかし実際にはこの年だけで約1千人が衝突の犠牲となる。

88年 IMF路線を受け入れるトリニダード・トバコのロビンソン政権に対し、与党の中でも批判が高まる。インド系住民を基盤とする旧ULFの閣僚三人が更迭され、さらに党籍を剥奪される。パンディ前外相らはあらたに統一国民会議(UNC)を結成.ロビンソン政権は一気に弱体化.

1989年

2.09 (ジャ)総選挙で「人民第一主義」を掲げる民衆国民党が勝利.選挙期間中に13人が暴力により死亡。

2.16 マイケル・マンリーが政権に復活,キューバとの国交回復を表明する.市場経済を尊重すると宣言.IMFのコンディショニングに苦しみ,内政では保守派との妥協を強める.為替管理法は廃止され,自由変動相場制に移行.

4.30 トリニダードでインド系のバスデオ・パンデイらが「全国連合会議」(UNC)を結成。

8月 グレナダのブレイズ(Blaize)首相ら、新国民党(NNP)を離党しあらたに国民党(TNP)を結成。

9.04 PUPがベリーズの選挙に勝利。ジョージ・プライスは再び首相になる。

12月 グレナダのブレース首相が死去.ベン・ジョーンズが首相を継ぐ。

1990年

3月 グレナダ総選挙。全国民主会議(NDC)が15議席中7議席を獲得。ニコラス・ブラスウェイト委員長が連立政権を組織し首相に就任。

7.27 トリニダード・トバコで,アブ・バクルを指導者とする黒人ムスリム原理主義集団「ムスリム会議」(Jamaat-al Muslimeen)による政府転覆未遂事件発生.首都ポート・オブ・スペインの警察本部に爆弾を積んだ自動車を突入させると同時に,国会議事堂とテレビ局に立てこもる.ロビンソン首相以下7人の閣僚は,国会議事堂に人質として監禁される.

7.28 トリニダード・トバコ政府,非常事態を宣言.

7.30 カリコム首脳会議、トリニダード政府を支持し反乱を非難。300人の合同部隊(バルバドス、ジャマイカ、セントヴィンセント、アンティグア‐バルブダよりなる)をトリニダードに派遣する。

8.03 トリニダード・トバコのクーデター,失敗に終わる.反乱グループ全員が投降.騒ぎに乗じた市民の掠奪・暴動などで25人が死亡.

1991年

9.11 グアテマラは、ベリーズを承認。外交関係を結ぶ。

12.16 トリニダード・トバコで総選挙.人民全国運動(PNM)が21議席を獲得し、ふたたび政権に就く。NARは2議席と惨敗。UNCは13議席を確保する。パトリック・マニングが首相に就任.黒人優位の政権運営にインド系の不満が高まる.

1992年

3.15 マイケル・マンリー,PNP総裁と首相の座を辞任.パーシバル・パターソン(P.J.Patterson)副首相が後継者となる.

7月 Jamaat-al Muslimeenの反乱参加者114人が恩赦を与えられ出獄。(ひょっとしてPNMのやらせ?)

93.3.30 ジャマイカ総選挙。PNPが52対8議席で圧勝.シアガの率いる労働党は選挙違反があったと抗議。

93年 ベリーズ選挙でUDPが勝つ。エスキベルは再び首相になる。

1995年

6.20 グレナダ総選挙。新国民党が議席の過半数を獲得。キース・ミッチェル委員長が首相に就任。

8 トリニダード・トバコで下院議長更迭問題を巡って、国家非常事態が宣言される。

10.29 ジャマイカで新たな野党として民族民主運動(NDM)が創設される。ブルース・ゴールディングが党首につく。

11.06 トリニダード・トバコで総選挙.人民全国運動(PNM)とインド系の統一国民会議(UNC)の勢力が、ともに17議席を獲得.

11.09 UNCが国家再建同盟(NAR)の支持を得て政権を獲得.インド系のバスデオ・パンディが首相に就任.NARのロビンソン前首相はこれと引き換えに大統領のポストを獲得。NARのトバコ島派はこの人事に強く反発。

97.12.18 ジャマイカ総選挙.選挙諮問委員会(EAC)は、国際的な監視を要請。この結果、民衆国民党が引き続き勝利.パターソンが首相の座にとどまる.JLPは10議席に留まる。

1998年

8.27 ベリーズ国会選挙。付加価値税などの緊縮財政政策に対し国民の不満が集中。野党PUPが圧勝する.元外相のアシド・ムサが首相に就任.

1998年

1.18 グレナダ総選挙。新国民党が圧勝。キース・ミッチェル首相が再任される。

2000年

12.11 国際監視団の監視の下にドリニダード・トバコ総選挙が行われる。インド系住民を基盤とするUNCが単独過半数の19議席を獲得。引き続きバンディ首相が政権を握る。

2001年

4.18 与党幹部のウィリアム・ハガートら三人がキングストン市内で暗殺される。ふたたび両派の暴力的衝突が始まる。

5月 PNPとJLPの支持者が、数回にわたりキングストン西部で大規模な衝突。両派合わせて37人が死亡。

5.27 グアダルーペで,奴隷解放記念日に営業を続ける店に抗議行動.この事件で労働総同盟議長のミシェル・マダサミが逮捕される.

7.09 ふたたび両派の衝突。警官3名、政府軍兵士1名をふくむ28人が死亡。パターソン首相は軍兵士3千名を動員し、暴動鎮圧に当たらせる。

6.03 グアダルーペでガソリンスタンドとタンク車の労働者が10日間のストライキ.石油労働者組合の委員長で,独立派の労働総同盟議長でもあるミシェル・マダサミの逮捕に抗議するもの.

12.12 トリニダード・トバコで政権成立後1年でふたたび総選挙。与党UNCと野党PNMが同数の18議席を獲得。ロビンソン大統領は、PNMのマニング党首を首相に指名。

2002年

2.22 バスデオ・パンディはマニング政権の承認を拒否。市民的抵抗を呼びかける。UNCは強硬な抗議行動を展開し、議会は機能麻痺に陥る。

10.16 ジャマイカ総選挙。国民党は34議席に後退、一方労働党は26議席を獲得し、僅差に迫る。

10.08 両派がカリコムの調停を受け入れ、トリニダード・トバコでみたび総選挙。PNMが20議席を獲得して勝利。あらためてマニングが首相に就任。

2003年

 

03年 ベリーズのアシド・ムサ、任期5年の2期目となる首相に就任。人口の14%に達する中米難民のコントロールが課題となる。

 2004年

3.29 ジャマイカでパターソン首相のアリスティド受け入れに対する世論調査.アメリカの自発的出国報道については信用するものが17%,追い出されたと見るものが50%.33%がパターソン首相を支持し,アリスティド受け入れを道徳的義務と感じる.いっぽうで26%が米国の圧力を恐れ,アリスティドの出国を望む.

3.29 カリコム,Gerard Latortueを首相とする暫定政権を承認しないことで合意.国連総会がアリスティドの主張について調査するよう求める.しかしハイチを地域統合運動のパートナーとして重視すると強調.

2005年

4.20 若者がベリーズ市の商店を略奪。1名の死者が出る。軍が市街をパトロールしている。

4.21 電話会社労働者がストを開始。このため、ベリーズと他国との通信が不可能になっている。

4.21 野党民主同盟党のダグラス・シン党首は早急に選挙を行うべきと要求。ムサは騒ぎは野党の責任だとし、「選挙をすれば野党が負けることを知っているので、暴力と破壊行為に走っている」とラジオで言明。