ドミニカ(サント・ドミンゴ)年表

(1518まではLA全体の年表に一括)

海賊の時代  ハイチによる占領  ハイチとスペインからの独立  ウーローの独裁

米軍による占領の時代  トルヒージョ独裁の時代  ボッシュ政権の成立と崩壊

ドミニカ内戦

ドミニカの国名について
ドミニカ関係では,国名の表現が極めて錯綜しています.現在の正式国名はレプブリカ・ドミニカーナ=ドミニカ共和国.英語ではDominican Republicです.
最初にコロンブスが発見したときは小さなスペイン(エスパニョーラ)と名づけられました.やがて島の東南にサント・ドミンゴの町が作られ,この町の名が同時に国名となりました.街の名を国の名にしてしまうのは,良くあることです.
200年後に島の東半分がフランス領になると,今のドミニカはサントドミンゴ,フランス領はサンドマングとなります.さらに100年経つとフランス領サンドマングはフランスから独立し,ハイチと改称します.
ここからがややこしいのですが,本国同士の協定でドミニカは一時フランス領となります(1795年のバーゼル条約).しかしそこに住んでいる白人のほとんどがスペイン系のため,スペインが施政権を保持します.フランスから独立したハイチは,サントドミンゴを含むエスパニョーラ島全体の領有権を主張し,実際にも占領します.つまりドミニカはフランス・スペイン・ハイチの三つの国の支配を同時に受けていたことになります.
イギリスの執拗な干渉もあり,面倒が見切れなくなったフランスは,サントドミンゴをスペインに返還.しかしそれは名目のみで,実態としてはハイチの占領が続きます.そこで島のスペイン系住民が反乱を起こし,ハイチとスペインからの独立を達成します.これが1844年のことです.
ドミニカは一時,スペインの支配下に戻りますが,また独立戦争をやって,1865年に二回目の独立を達成します.このときはじめて,自らの国をドミニカ共和国と名づけたのです.
この年表では,国名を正確に表現する必要があるときは,エスパニョーラあるいはサントドミンゴと記載し,それ以外のときはドミニカと表現することにします.
なおドミニカという国はもうひとつあります.小アンチル諸島のひとつドミニカ連邦(ドミニカ国とも言われる),Commonwealth of Dominica です.面積751平方キロ,人口7万5000人というミニミニ国家です.国の名前が同じという以外はまったく無関係です.サントドミンゴやサンチアゴ,サンフランシスコなど,本来町の名前というより町の守護聖人の名前です.ラテンアメリカには掃いて捨てるほどあります.

 

海賊の時代

1500

19 エスパニョーラ島サンフアン・デ・ラ・マグアナのカシーケ,エンリキーニョ,スペイン人の暴虐に抗議し反乱.バオルコ山中にこもり,製糖所の掠奪やプランテーションの襲撃など,14年間にわたり抵抗を続ける.

22 サント・ドミンゴで最初の黒人逃亡奴隷による反乱.多数の黒人逃亡奴隷がエンリケと行動をともにする.

31 イギリス人清教徒,プロビデンス島に入植.農耕の傍らスペイン船の掠奪行為を重ねる.

31 ドミニコ会,サント・ドミンゴにLA最初の大学,サント・トマス・デ・アキノ大学設立.現在のサントドミンゴ自治大学にあたる.

33 アナカオナの息子ヘンリ,奴隷とされ妻を凌辱される.黒人奴隷とともに脱走し,バホルコ山地を基地(バランケ)とし抵抗.スペインとの条約により「独立」を承認させる.抵抗は十年におよび,先住民による最後の抵抗となる.

43 フロータス制成立.年2回決められた時期に護衛艦に守られた船団を組むことが義務づけられる.

45 ヒスパニオラ島で逃亡奴隷の反乱発生.リーダーはDiego De Campo.

50 この頃,エスパニョーラ島のタイノ族絶滅.

50 ディエゴ・デ・カンポの一族,植民地政府と和平協定.新たな逃亡奴隷の返還と引き換えに集団の存在を保証させる.しかし協定にもかかわらず,逃亡奴隷はさらに増加.

56 アロンソ・デ・フェウン総督,サントドミンゴを囲む城壁の建設.大聖堂も建てられる.

60 この頃エスパニョーラのスペイン人は千人.他プエルトリコに200,キューバに240人.

70 ヒスパニョーラの砂糖産業,ブラジルなどの新興国に押され壊滅.これに代わり干し肉・皮革などの牧畜が主要産業となる.

 

1600

05 スペイン,密貿易を防ぐためエスパニョーラの15の町をすべて放棄.すべての住民をサントドミンゴ周辺に集める.

55 7千のイギリス軍,エスパニョーラ島を攻撃するも失敗.ジャマイカに転戦し占拠.

60 スペイン軍,トルトゥーガ島の住民を襲撃.婦女子をふくむみな殺し作戦を展開.残党はフランスの西インド会社の私兵団(海賊)となりスペイン船を襲撃.エスパニョーラ島の西部(現ハイチ)を占拠,

64 ルイ14世,エスパニョーラ島西部(サンドマング)に対する領有権を主張.コルベール蔵相,フランス西インド会社を設立.砂糖生産の拡大をはかる.

91 エスパニョーラ島全域にわたり,71年に続く大規模な黒人反乱発生.

97.9 Rystwik(リュウイック/ライスウェイク)条約締結.スペインはエスパニョーラ島西半をフランスに割譲.サン・ドマング(ハイチ)となる.サンドマング会社が統治.フランスの支配を嫌うスペイン人はキューバに移住.条約に基づき,各国政府は海賊に対する取り締まりを強化.すべての港から海賊を締め出したため,以後海賊は急速に衰退.

 

1700

39 イギリス,スペインにさらなる屈服を要求し戦争開始(ジェンキンスの耳戦争).カルタヘナとサンチアゴ・デ・キューバを攻略.ポルトベーロもヴァーノン元帥の艦隊に占領される.スペインはパナマ・ルートの利用を断念しマゼラン海峡まで船隊を回遊させる.パナマのアウディエンシアはヌエバグラナダに帰属することとなる.

56 イギリス対西仏連合の間で7年戦争開始.

61 イギリス軍,サントドミンゴを占領.

62 英海軍,ハバナを攻略.

63.2.10 パリ条約締結.7年戦争終結.イギリスはハバナをスペインに,小アンティル諸島のグアドループ,マルティニク,セントルシアをフランスに返還.代りにフロリダとドミニカ,グレナダ,セントヴィンセントなどを獲得.

77 エスパニョーラ島の西仏境界線確定.

79 西仏,アメリカ独立戦争に介入.北米独立軍支援の仏領西インド諸島部隊,ジョージア植民地に上陸.ハイチの黒人兵,フランス軍の前面で活躍.帰国後,独立運動の主流と成る.

92.8 スペイン,ハイチ内乱を好機とみてサント・ドミンゴよりハイチ領内に侵入.

1795年

7.22 スペイン本国がフランスに敗れる.スペインはバーゼル条約によりフランスのエスパニョーラ島東部支配を承認し,サンドマング干渉を終了.

8 トゥーサンが東部進撃によりサントドミンゴ全土を制圧.王党派のフランス人はトリニダードに亡命.ジャン・フランソワはスペインへ,ビアッソウはフロリダへ亡命.部下の多くはトゥーサン軍に参加.トゥーサンは准将に昇格.トゥーサンの平定後もフランス本国の意を受けたスペイン軍はサントドミンゴに駐留.

96 仏西同盟成立,スペインはイギリスに対し宣戦布告.英海軍,全てのスペイン植民地を海上封鎖.トリニダード島を占拠.フランスがオランダを占領したため,オランダに代り全ギアナを領有.

ハイチによる占領

1800

00.9 トゥーサン,ロウムを通じてサントドミンゴ駐留のスペイン軍に施政権返還を求める.条約締結後も,サント・ドミンゴを実効支配していたスペイン総督ドン・ホアキン・ガルシア・イ・モレノは,黒人国家への施政権返還を拒否し抵抗の構え.トゥーサンは,ガルシアに同調の動きを見せたロウムを,「フランスへの不誠実」を理由に逮捕,1年近くにわたり収監.

01.1.26 トゥーサン,サントドミンゴに進撃.たちまちの内に全土を制圧.イスパニョーラ総督を宣言.奴隷制度を廃止し,黒人奴隷を解放.

02 フランス軍がサントドミンゴをふくめエスパニョーラ全島を制圧.白人支配と奴隷制度を復活.

03 フランス,ハイチから撤退.サントドミンゴにはわずかの守備隊を残す.

04.1.01 ハイチがフランスより独立.バーゼル条約以来フランスの統治下にあったサントドミンゴも,フランスからの独立を宣言.実態は依然としてフランスの保護下に.

1805年

2 2万5千のハイチ軍,フランス軍の介入に応戦し,サント・ドミンゴに侵入.フランス守備隊を打ち破り北部一帯を制圧.白人植民者多数を殺害.白人のほとんどがキューバに亡命.

5 デサリーヌ軍,サントドミンゴに迫るが,仏海軍接近の報告を受け撤退.

08 ハイチの内紛と弱体化を見たサントドミンゴの旧地主達,フランスの保護の下に帰島を開始.

1809年

6 イギリスの支援を受けたサントドミンゴのスペイン系クリオージョ,フランス軍に叛旗をひるがえす.

7 英艦隊,サマナを占領.サントドミンゴの港を封鎖.フランスは支配継続を断念し撤退.クリオージョ共和派はいったん独立共和国を宣言するが,まもなくハイチの脅威を受けスペイン帰属を求める.

09 サントドミンゴ,ふたたびスペインの保護下に入る.しかし統治の実体はなし.サントドミンゴの白人たちはEspana Boba(馬鹿なスペイン)と呼ばれる.

14年 ナポレオンの敗北に伴いパリ条約締結.イギリスの了解を受けたスペインはサント・ドミンゴの共和派を打ち破り支配を再確立.

21.11.30 スペイン政府の下で副知事をつとめるホセ・ヌニェス・デ・カセレス,スペインからの独立と「ハイチ・スペイン人共和国」の樹立を宣言.グラン・コロンビアへの加入を求める.これを機に独立派と王党派の内乱状態となる.

22.1 ハイチのボワイエ,内乱状態となったドミニカに侵入し首都サントドミンゴを制圧.スペイン系クリオージョの自治を保障することで,エスパニョーラ島全土を統合.その後20年間にわたり独裁を敷く.この時点でドミニカの人口は12万人.一方のハイチは50万人.

25 ハイチ政府の許可を得て,東部のサマナ及びサン・ペドロ・デ・マコリス両地域に,米国から黒人奴隷が入植.子孫の一部の間で今でも英語が話されているという.

33 サントドミンゴの名家出身のフアン・パブロ・ドゥアルテ,7年にわたるヨーロッパ留学より帰国.当時20歳の彼は仲間を集め,ハイチからの独立を説く.

35 ドゥアルテら,独立を目指す「ラ・トリニタリア」運動を開始.ハイチの自由派とも密かに連絡をとる.

38 ラ・トリニタリアがハイチ当局により摘発される.ドゥアルテを中心とする残党は,あらたに「ラテンアメリカ・フィラントロピカ」を結成し,反ハイチの宣伝を続ける.

1843年

ボアイェ政権崩壊.シャルル・リヴィエルーエラルがハイチ大統領に就任.ドミニカのハイチ人自由党員とドミニカ人を弾圧.ドゥアルテは国外に脱出,蜂起への支援を求め,ベネズエラ,コロンビアを歴訪.

12 フランシスコ・デル・ロサリオ・サンチェス,ラモン・メジャらドミニカ人独立派グループ,秘密が漏れたことから早期の蜂起を決定.ドゥアルテに速やかな帰国を求める.

1844年 サントドミンゴ独立

1 ドゥアルテ,カラカスからの帰国途中に疫病にかかり,キュラソーでの療養を余儀なくされる.独立派は,ドゥアルテ不在のまま反乱を開始する.

1 パリの労働者,国民議会に奴隷制の即時廃止を要求.

2.27 独立派,首都で蜂起.首都のオサマ(Ozama)要塞を奇襲により攻略.ハイチ軍は算を乱して逃走.後にドミニカの独立記念日となる.

3.02 ハイチ軍,サントドミンゴより潰走.ラモン・メジャを議長とする臨時政府評議会成立.防衛軍司令官にはペドロ・サンタナがつく.ドミニカ共和国を宣言.エラール,ドミニカ反攻を試みるが,ドミニカ側の強い抵抗にあい断念.

3.14 病い癒えたドゥアルテがサントドミンゴに帰還.「自由の使徒」と称され住民の歓呼に迎えられる.

5 ドゥアルテはいったん軍司令官となるが,能力の欠如を悟り辞任.北部農業地帯のシバオ県知事となる.議会は軍司令官にホセマリア・インベルト将軍を任命.

7.01 Mellaら,ドゥアルテに共和国大統領への就任を要請.ドゥアルテは自由選挙を行うことを前提として就任を受諾.

7.12 自由選挙に反対するサンタナ,サントドミンゴを占拠.ドミニカ共和国の支配者となることを宣言.まずメジャが,ついでドゥアルテ,サンチェスが投獄され,国外追放となる.

10.27 憲法制定会議は,ハイチ,米国をモデルとする憲法を起草.権力の分離,議会による政府のチェックが取り入れられる.サンタナは,「戦時中は大統領に無制約の権限を与える」とする第210条を議会に強要し,憲法を骨抜きにする.

1845年 

サントドミンゴ,ドミニカ共和国を結成.ペドロ・サンタナ将軍が初代大統領に就任する.常備軍をまかなうため,紙幣を乱発.経済システムは崩壊.縁故人事により,軍・政府は腐敗.ハイチとの抗争に備え合衆国に併合の希望を申し出るが,米上院の批准拒否により流産.

12月 ハイチ,陸上および海上からドミニカ再占領を図るが断念.サンタナは反対者を処刑し独裁色を強めることで独立を守り抜く.

47 ファウスティン・スールークがハイチ大統領となる.スールークは黒人の軍人で,当初は競合する派閥の間にあって代役的存在と見られていた.しかし権謀術数を用いて軍指導部を掌握.秘密警察を強化して政敵を次々に除去し,絶対権力を手に入れる.

1848年

2 サンタナ,経済状況の悪化により退陣を迫られる.エル・セイボの牧場に引きこもる.

8 前政権の閣僚からなる国務長官会議,マニュエル・ヒメネス軍事相担当大臣を次期大統領に選出.ヒメネスは大統領としての情熱にも適性にも欠ける人物といわれる.

1849年

4 スウルウク,第一回目のドミニカ侵攻.サンタナは,兵を率いLas Carrerasでハイチ軍を迎え撃ち,これを撃退.

5.30 サンタナ,サントドミンゴに入る.ヒメネス派との小競り合いのあと,全権を掌握.

7.05 議会,サンタナの依頼を受けサンチアゴ・エスパイジャ(Espaillat)を大統領に選出.しかし,サンタナのカイライとなることを嫌ったエスパイジャは就任を固辞.

8.18 第二回目の投票が行われ,国会議長のバエズが大統領に選出される.バエズは,保護を求めてフランスおよび米国と交渉.両国はサマナ湾と半島を軍港あるいは商業港として利用することに興味を示す.

8 スールーク,ハイチ二番目の皇帝(Faustin I.)となる.

50 スウルウク,二回目の侵攻を試みるがさらに惨めな失敗に終わる.

50年 英国とドミニカ,通商条約に調印.

51年 英国が仲介となり,ドミニカ共和国とハイチとの間の平和条約.

52 イギリスの干渉により,米国の保護を離れさらにふたたびスペイン領に.

55.11 ハイチ,三度目のドミニカ侵攻.米国との併合交渉が進むドミニカに対し,スールークは奴隷制度復活の危機感を抱く.ペドロ・サンタナ将軍が反抗を組織する.この闘いにはマキシモ・ゴメスも参加.サントメの闘いでドミニカ側が勝利し,ハイチ軍は引き上げる.

56.1 ドミニカ軍,相次ぐ勝利.ハイチ軍を駆逐する.同年内に第4回目の侵攻作戦も行われるが失敗.

59 ドミニカ侵攻軍の指揮官を勤めたファーブル・ニコラス・ジェフラール,反乱を起こしスールーク皇帝の退位を強制.

1861年 スペイン併合と再独立

3.17 サンタナ将軍を指導者とする保守派,ハイチの侵略に対抗するため,みずからスペインに併合を申し出る.サンタナはサントドミンゴ総督に任命される.当時スペインは,レオポルド・オドンネル将軍を指導者とする自由同盟政権が支配していた.オドンネルは,米国が南北戦争に入った間隙を突き中南米への再進出を狙う.

5 スペイン軍,ドミニカに上陸.最初の反乱が起こるがただちに鎮圧される.

6 バエス派の将軍サンチェス,反スペイン蜂起を開始.北部の民族主義者はハイチと和解し協力してスペインと戦う姿勢.スペインはハイチに対し砲艦外交を展開.サンタナは策略によりサンチェスをとらえ,銃殺刑に処す.その後,スペイン軍司令官として祖国の反乱者と向き合うことを迫られる.

62.1 サンタナ,抗議の嵐のなか総督を辞任.ますます強まるペニンスラール優位や,本国の大司教による教会税の押しつけ,高関税による自由貿易の制限,スペイン軍による収奪,重税,インフレなどが反感を呼ぶ.

1863年

2 北部で大規模な反乱.いったんスペイン軍に鎮圧されるが,その後もゲリラ戦が続き戒厳令が公布される.

9.14 反乱軍,北部のサンチアゴに臨時政府を樹立.ホセ・アントニオ・サルセド・ラミレス将軍を政府代表に指名.独立憲章は「領土回復戦争」を謳う.臨時政府はサンタナを非難し国民に対する反抗の罪で死刑を宣告.

1864年

1 スペイン政府はサンタナを総督に復帰させ,事態の収拾を図る.臨時政府はサンタナを非難し,彼に死刑を宣告.

6.14 サンタナ,謎の死を遂げる.自殺説もある.

1865年

2.27 臨時政府,全国大会を開催.サルセド将軍を更迭,北部出身のペドロ・アントニオ・ピメンテル・チャモロ将軍を大統領に選出.新憲法を制定する.チャモロは共和国回復のあとバエスを大統領に復帰させると言明.

3.3 スペイン女王,サントドミンゴ併合を無効とする法案を承認.傭兵を主体とするスペイン軍に黄熱病がひろがり,米国の圧力もあって撤退を余儀なくされる.

5.05 サント・ドミンゴ,スペインから独立しドミニカ共和国を創設.

7.1 ドミニカでは商人や封建的大地主を主体とする南部と自営農主体の北部が対立.北部は国民解放党(青色党),南部は赤色党を結成.ピメンタル将軍の失脚後,混乱状態が続く.数に優る南部はバエスの復権を画策.

12.8 かつての独裁者ブエナベントゥーラ・バエス,帰国しふたたび大統領に就任.米国との併合計画を推進するが,米上院の拒否にあい流産.

68 ブエナベントゥーラ・バエス大統領,またもや財政難とハイチに対する恐怖から,グラント大統領に米国への併合を提案する.

69.9.4 米特使オービル・バブコック将軍,サントドミンゴに上陸しバエス大統領と会見.併合条約締結に向けての合意をとる.

12 ドミニカ政府の要請を受けたグラント大統領,併合案への合意を議会に迫る.

71 米議会調査団,フレデリック・ダグラスら3名からなる調査団を派遣.「ドミニカが独立を回復するには,適当な準備期間をおいて米国の一つの州となる以外にない.…そうでなければ,荒廃したまま救いもなく放置され,いずれどこかの国(具体的にはドイツ)の植民地となるであろう」と,米国への併合を訴える.この報告は上院の賛同をえられず流産に終わる.

75.1.20 ドミニカとハイチ,国交関係を樹立.平和友好条約を締結.

1878年 青色党と赤色党の闘い

6 バエス大統領退陣.イグナシオ・M・ゴンサレス・サンティンが後任となるが,9月には辞任.その後の4年間で7人の指導者が入れ替わるなど混乱が続く.

79.2.27 赤色党(保守党)のセサレオ・ギジェルモ・バスタルドが大統領に就任.青色党(自由党)のルペレスはバスタルドに反対し,プエルト・プラタで反乱開始.

10 ルペレス,暫定大統領を宣言.バスタルドを追い込める.

12.6 バスタルド退陣.ルペレスがプエルト・プラタ在住のまま臨時大統領に就任.

80.9 大統領選実施.ルペレスにかわりMerioが大統領に就任.実権は依然ルペレスが掌握.ルペレスの副官ウリセス・ウーローが内相として入閣,事実上政府を取り仕切る.ウーローは黒人で,ハイチ人の父とサント・トマス出身の母のあいだに私生児として生まれる.

1882年  ウーロー独裁時代の開始

9.1 ウーローがドミニカ大統領に就任.バエス派残党の反乱計画に対し憲法を一時停止.

84.9.1 青色党総裁として影響力を保持するルペラスは,セグンド・インベルトを次期大統領候補に推薦.これに対しウーローはフランシスコ・グレゴリオ・ビジーニ(Billini)を後継に推す.ボス交渉の結果ビジーニが大統領に就任.

85.5.16 ビジーニ,ウーローに対して独自色を打ち出そうとする.ウーローはビジーニがバスタルドと組んでルペラスに対抗しようとしているとデマを流し,ビジーニを失脚させる.後任にアレハンドロ・ヲス・イ・ヒル副大統領.国軍総司令官となったウーローは,反乱を計画したバスタルドを包囲し自殺に追い込む.

86 大統領選.ルペラスの支持を受けたウーローがふたたび大統領となる.対立候補カシミロ・デ・モヤ,選挙の不正に抗議して武装蜂起を図るも失敗.

88 大統領選.ウーローの独裁傾向に危機感を強める野党勢力は,ルペラスを対立候補に担ぎ出す.ウーローはルペラス勢力に厳しい弾圧.内戦を恐れるルペラスは,蜂起の訴えを退け,立起を断念しプエルトリコに亡命.

89 みたび大統領となったウーロー,サマン山脈の貸与など米国への働きかけを強める.ヨーロッパ列強と結んだ青色党リベラル派は,米国への接近に反対.

91 米国とのあいだに互恵協定締結.両国の産品26品目について関税を廃止.米国はサントドミンゴ開発会社を通じて圧倒的な影響力を確保.

93 米資本のサントドミンゴ改良会社(Santo Domingo Improvement Company)、関税収益の管理をゆだねられる。

97 ウーロー,海外列強から多額の借款を受け,そのほとんどを私物化.国庫は破産状態となり,政府は紙幣を乱発し信用を失う.

98 プエルトリコ亡命中のルペラス派青年,オラシオ・バスケス・ラハラ〔Lajara〕を中心に青年革命評議会を結成.これとは別にフェデリコ・ベラスケス,ラモン・カセレス・バスケスらも反乱を計画.密かにシバオに潜入し地下組織を結成.

99.7.26 カセレス,モカの町を通過中のウーローを狙撃.致命傷を与えた後人混みにまぎれ逃走に成功.その後政治情勢の混乱が続く.ドイツを先頭とするヨーロッパ諸国に対し3千万ドルの債務が蓄積,事実上の破産状態におちいる.西欧列強は債務取り立ての手段として税関の差し押さえをはかる.

9 権力闘争の末革命派が権力を掌握.バスケスが臨時政府のトップを握る.

11.15 自由・直接選挙の下に大統領選実施.フアン・イシドロ・ヒメネス・ペレイラが大統領に当選.オラシオ・バスケスが副大統領となる。ヒメネス政権に対し,フランスを先頭とする欧州列強はユーロー時代の債務返還を迫る.ヒメネスは債務返還のため関税収入の4割をあてることとする.

 

1900

01 列強の干渉に怒る民族主義者がシバオを中心に反乱.政府軍司令官となったバスケスが鎮圧するが,今度はバスケス派(オラシスタ)とヒメネス派(ヒメニスタ)とのあいだに矛盾が広がる.

01年 サントドミンゴ改良会社の関税管轄権が破棄される。会社は米国務省に善処を依頼する。

1902年

4.26 バスケス副大統領,「革命」を宣言.実際は民衆の支持はなく,たんなるクーデター.

5.02 バスケスの反乱が成功。ヒメネスは国外亡命.

1903年

3.23 バスケスに反対するヒメニスタの反乱が各地で発生.米政府はバスケス支持に回る。

3.30 米艦がドミニカに派遣される。リチャード・マコンネル大尉の率いる海兵隊部隊25人がサントドミンゴとプエルトプラタを防衛。

4.21 米軍はバスケス支持を撤回。海兵隊部隊がドミニカより撤退。

4.23 バスケスも放逐され,ヒメニスタで元大統領のアレハンドロ・ウォス・イ・ヒル(Woss y Gil)将軍が権力を掌握.

6.20 ウォス・イ・ヒル、議会で無競争で大統領に選出される。8月1日に大統領に就任。ドミニカ外相、ドイツの誘いに応え、領海の中立化とサマナ、マンサニージョの自由港化を提起。米国はこれに抗議。

10 ベルギーが音頭をとり、米仏との共同で、ドミニカ関税への干渉行動を企画。ドミニカの債務支払いを確実にするためと主張。

11.24 ヒル,オラシスタと内通したとして放逐される.

12.06 同じヒメニスタのカルロス・F・モラレス・ラングアスコ将軍が権力を掌握.臨時政府を樹立した上で,自らが候補となり大統領選を行う.副大統領候補にはオラシスタのラモン・カセレス.

03年 政府と米国務省、関税管轄権の放棄に関する議定書に調印。サントドミンゴ改良会社は450万ドルの補償を与えられることになる。この議定書は米議会には提出されず。

1904年

1.01 権力基盤の脆弱なモラレスは、米国の援助強化を求める。

1.02 米海兵隊300名が政府を支持してサントドミンゴとプエルト・プラタに配備される。

2.11 海兵隊が撤退。

3月 政府軍、ヒメニスタによる反乱を鎮圧。

5月 ルーズベルト大統領、米国は米州の国家が悪政を続けるならば、これに対し干渉する義務があると主張。ハーグの国際司法裁判所が、ベネズエラのカストロ政権に対する欧州債権国の権利を守るため、介入することができると裁定したことに対する反応。モンロー主義を拡大解釈したもので、ルーズベルト・コロラリーと呼ばれる。

6.19 米国の支援を受けたモラレスが大統領に就任。モラレスに対するオラシスタの反乱は不成功に終わる.新政府,米国とサントドミンゴ改善会社の株買い取り交渉開始.

6月 政府とオラシスタ、ヒメニスタの和平合意が成立。

7 ドミニカ,対外債務の返済不能となる.ドイツを先頭とする欧州列強,ドミニカ税関の占拠に向け動く.米国はドイツの動きを強く非難.

7月 仲裁決定(どこの?)。米国は個人的債権を確保するためドミニカの税関を差し押さえることが可能となる。米政府は3200万ドルを税関から確保し、これをフランス。ベルギー、スペイン、ドイツ、イタリアからの債務の返済に充てることとなる。

12 ルーズベルト大統領,年次教書で「モンロー主義を堅持する合衆国は,みずからは望まなくとも,西半球の諸国の失政に対しては国際警察力として行動せざるをえない」と宣言する(ルーズベルト・コロラリー).これは直接にはドミニカ併合を示唆し,ドイツを牽制する狙い.

1905年

2.07 米=ドミニカ行政協定締結.米国,ドミニカの財政困難につけこみ税関管理行政協定を押しつける.融資を斡旋する見返りにドミニカ税関を米政府の「総徴収官」の管理下におくこととなる。税関収入の55%を債務の返済に充てること、ドミニカ税関吏には米海軍の派遣する米国人が就任することが義務付けられる.

当時のラテンアメリカ諸国には「所得税」の概念はなく(あったとしても徴税能力はなく),輸出入関税が唯一確実な国庫収入だった.米国が関税管理を引き受ければ,欧州列強も債権が保証され,米国もドミニカを統制でき,ドミニカ政府も債務取立から逃れられることになる.一見「三方一両損」の大岡裁きだが,浮かばれないのはドミニカ人民である.ぐうたら親父の作った借金のカタに,知らぬ間に苦界に身売りされてしまった娘と同じだ.

3.31 セオドア・ルーズベルト大統領,ドミニカとの暫定協定により「総徴収官」を任命.財政管理権をにぎった結果,関税収入の55%を債務支払に取り上げ,45%を国家予算に振り向けるなどドル外交のひな型となる.

12.29 対外交渉を一手に引き受けたカセレスが政府内の実権を掌握.モラレスは逆クーデターを試みるも失敗し亡命.カセレスが臨時大統領に就任.

1906年

1月 前大統領モラレスの支持者は、サンチァゴとプエルト・プラタで反乱。

1907年

1月 モラレス支持者がサンチアゴとプエルトプラタで反乱。

2.08 カセレスが大統領に就任.サント・ドミンゴでドミニカ関税条約調印.米国はニューヨークの銀行を通じ,あらたに44万ドルの借款を与える見返りに,関税管理権を50年間にわたり獲得.財政問題に関する内政干渉が正当化される.(1)米大統領が関税総監を任命,ドミニカ債務の返還までいっさいの関税を統制.(2)ドミニカ政府は債務返済完了まで公債を発行できない.事業に支障をきたす状況が生じた場合には軍事干渉を行う権利も盛り込まれる.

7.31 米国,サントドミンゴから撤兵するとともに税関管理権を還付.米議会は最後までこの協定を批准せず。

11月 サンチャゴで制憲議会が開かれる。

1908年

4.01 制憲議会、新憲法を承認。

5.30 新憲法による議会選挙を経て、ラモン・カセレスが大統領に選出される。

7.01 ラモン・カセレスが大統領に就任。

09 米国,借款の返済をめぐりドミニカに干渉.エヒードの「整理」,農業機械の輸入を免税とする法律などを押しつける.米国系砂糖会社の進出により,国内の経済は持ち直す.

1911年

11.19 サントドミンゴの町を通行中のカセレス大統領,ルイス・テヘラらの手にかかり暗殺される.アルフレード・ビクトリア大佐が実権を掌握。暗殺犯30人あまりを処刑。

12.06 議会、カセレスの後任にエラディオ・ビクトリア副大統領を選出.

1912年

2.27 エラディオ・ビクトリア、大統領に就任。

6.05 反シバオを中心とする北部のヒメニスタが反乱.

9.04 ヒメニスタの反乱が拡大。内戦状態となる.国家財政はふたたび危機に.米海兵隊が出動し海上待機.

9.24 タフト大統領はサントドミンゴに使節団を派遣.両派の調停にあたる.海兵隊750名がサントドミンゴ上陸.

11.26 ビクトリア大統領は,アドルフォ・ノエル・ボバディーリャ大司教の説得を受け入れ辞任.

11.30 ビクトリアの後継選出が難航。ノエル大司教が自ら臨時大統領の座につく.

1913年

3.31 ノエル,オラシスタとヒメニスタとの調停に失敗し辞任.

4.14 ホセ・ボルダス・バルデスが議会により暫定大統領に選出されるが,両派対立は依然続く.

9.01 前大統領オラシオ・バスケス、「フェロカリルの革命」(Revolucion del Ferrocarril)を率いる。米国が直接調停に乗り出した結果,オラシオ派は停戦に合意.大統領選を行うための制憲議会に参加.

12.15 制憲議会の選挙が行なわれる。米国は、ヒュー・ギブソン、J. H.スタブラー、F.A.スターリングら29人の監視人員を派遣。

米軍による占領の時代

1914年

3.30 デシデリオ・アリアス、ラ・ヴェガとサンチァゴで反乱を開始。

6.15 制憲議会、米国の監視下に大統領選.ボルダスが無競争でふたたび大統領に選ばれる.

6.26 オラシオ,ヒメネス両派はこの結果を不満として武装行動を再開.プエルト・プラタの爆撃を開始。米国は大統領を選ばない限り武力干渉すると警告.米艦を派遣する。

7月 海兵隊がサントドミンゴに上陸。政府の防衛にあたる。

8.06 米国の調停で、政府と反乱軍代表が停戦合意に署名。米政府はハイチ駐留の海兵隊をプエルト・プラタとサント・ドミンゴの両市に送る.

8.27 ウィルソン大統領の強要により,ボルダスは大統領就任を断念.米国の圧力の下でラモン・バエス・マチャドが臨時大統領に選出される.

9.08 ウィルソン大統領自身が起草した事態収拾計画にもとづき,米国政府の直接監督下に大統領選挙が行なわれることとなる。

10.25 米軍の監視のもとに大統領選を実施.ヒメネスが大統領に復帰.関税収入はすべて米軍政当局が管理し,政府の運営と占領行政に必要な費用を支出する.

12.04 ヒメネスが大統領に就任。軍事相にはシバオ地区の有力者デシデリオ・アリアスが就任.さまざまな大物を政府部内に迎え入れたが,かえって混乱を増す結果となる.

1916年

4.15 議会内にカルバハル政権に対する弾劾の動きが強まる.デシデリオ・アリアス前軍事相はカルバハル退陣を要求しシバオで蜂起,内戦状態となる.

5.02 内戦はアリアス有利に展開.首都近郊に迫る.米軍部隊280人が、「米市民保護のため」サントドミンゴに配備される。

5.07 アリアスが軍と議会の実権を掌握.ヒメネスは政府の統制が不可能となり辞任.

5.13 ウィリアム・ケイパートン提督,アリアスに政界からの引退とサントドミンゴからの撤退を指示.サントドミンゴに対し警告の艦砲射撃.ケイパートンはハイチを占領した海兵隊の司令官だったが、アリアスの親独的傾向を嫌いドミニカに介入したといわれる。

5.16 ナップ海軍大佐(退役少将)指揮下の海兵隊、ケイパートンの命を受けサントドミンゴに上陸.分遣隊を送りシバオも制圧.ドミニカ占領を開始.約2ヶ月のあいだに約3000名が配備され、実効支配を確立.

7.25 フランシスコ・エンリケス・カラバハルが議会により暫定大統領に選出される。米軍はカラバハルを名目上の大統領にすえ、事実上の親政開始.出版,放送は検閲制となり,大衆演説も制限される.アリアスは大統領の座を断念。政界の黒幕として君臨することになる.

10.24 サントドミンゴで米軍部隊とドミニカ人が衝突。2日間にわたる戦闘で米兵2人、ドミニカ人3人が死亡。

11月 米軍,さらなる権限の委譲を求めカルバハル大統領との交渉。カラバハルの抵抗にあい不調に終わる。

11.29 ハリーS.ナップ海軍大佐,ドミニカ共和国における米国軍事政府の樹立を宣言。みずから初代軍政官に就任.以後8年間軍政下におき戒厳令をしく.これによりドミニカの国家主権は消失する.この事件以降「砲艦外交」の名が流布する.

内閣の要職には現役の米海軍将校がすわる.国家財政が再建され,経済成長が再開.地方をつなぐ道路も作られるなど,一定の進歩.しかし多くの海軍士官が政権の中枢を占め,ドミニカ人は権力から疏外される.

12.08 軍政府、エンリケス・カルバハル大統領の政府および議会を解散。国軍および准軍事組織を解体し三百万挺の武器を押収.国軍に代わりドミニカ国家警備隊が創設される.海兵隊下士官が将校となって指揮・訓練にあたる.

1917年

1.10 サンペドロ・デ・マコレス,エル・セイボなどのドミニカ東部地区で,地主と武装農民,米軍進駐に反対して武装抵抗を開始.ガビジェーロ〔gavilleros〕の反乱と呼ばれる.指導者にビセンテ・エバンゲリスタ.ゲリラ戦で海兵隊を悩ませる.

7.04 エバンヘリスタと200名のゲリラ兵が、エル・セイボで米軍に降伏。

7.06 米軍、エバンヘリスタが「逃亡を図った」ため射殺。(よくある話です)

17 米国,デンマーク領バージン諸島を2千5百万ドルで買収.

1918年

7月 ガビジェーロの反乱を受け継ぎ,ふたたび東部地方で米軍に対する反乱が開始。ラモン・バティア、ブリート・バティア、マルティン・ペグエロらが指導。米軍は国警隊を投入し,戦略村作戦をとるなど制圧に努めたが,抵抗は5年半におよぶ.

8.13 マンチャドの近くで、米国部隊が待ち伏せ攻撃を受ける。4人の米国兵が死亡。

18年 トルヒージョ,国家警察に参加.占領軍に取り入り異例の昇進を重ねる.

1919年

2.25 トーマス・スノーデン提督がドミニカ軍政官に任命される。

20年2月 ファビオ・フィアジョとアメリコ・ルーゴ、ドミニカ国民連合 (Union Nacional Dominicana)を結成。

20 軍政府,土地登記法を制定.共有地を「整理」し砂糖生産業者の大土地所有に道を開く.このほか砂糖産業のためのインフラ整備に力を注ぐ.

1921年

3 ウォーレンG・ハーディングが大統領に就任.ハイチ,ドミニカ共和国の占領を停止する方向を打ち出す.米軍管理下での大統領選挙実施,250万ドルの新規援助と,米軍将校による国家警備隊の創設を内容とする.

6 高等弁務官サムナー・ウェルズ,ドミニカ撤退の提案.2千5百万ドルの借款,国家警備隊のための軍事顧問,米管理下での選挙などを提案.

1922年

5.08 ドミニカ人ゲリラ140人が次々に降伏。ラモン・バティアとブリート・バティアのゲリラ部隊が投降。13日には最後まで抵抗を続けたマルティン・ペグエロ、Vascaで米軍部隊に投降。6年余りの抵抗闘争で140人の米兵士を含む約1,000人が死亡。

10.21 暫定政府が成立.高等弁務官サムナー・ウェルズ,フアン・バウティスタ・ビシニ・ブルゴスを臨時大統領に指名.移譲事務にあたる.

1924年

3.15 海兵隊の監視下に制憲議会選挙実施.オラシオ・バスケスの率いる連合党が過半数を占める.制憲議会では,オラシオ・バスケスがフランシスコ・J・ペイナードを破り大統領に返り咲く.

6.13 ドミニカ新憲法が発効。

7.13 オラシオ・バスケス,大統領に就任.政権成立を待って海兵隊撤退開始.当初バスケスは公民権を尊重する姿勢を示す.輸出の増大と借款による資金の増大は,空前の好況をもたらし,国と首都の近代化が一気に進む.このときラファエル・トルヒーヨは少佐に昇進.

9.18 米駐留軍、撤退を完了。

27 バスケス,4年の任期を6年に延長するとともに,再選禁止条項を削除することに成功.好況を背景に経済を再建しポピュリスト政治を実施.

28 トルヒーヨ,陸軍参謀総長に昇進.軍内最高実力者の地位を確立.

1929年

1.21 ハイチとドミニカとの国境確定.

トルヒージョ独裁の時代

1930年

2.23 バスケス,5月に予定された大統領選で,再選を禁止した憲法の規定を破り,さらなる居座りを狙う.これに抗議するサンチアゴの指導者ラファエル・エストレージャ・ウレーナは革命を宣言し兵を挙げる.エストレージャとの緒戦に敗れたトルヒーヨ将軍は,兵営に篭り中立を宣言.

3.02 手兵を失ったバスケスは辞任を表明し海外に亡命.エストレージャが臨時大統領を宣言.

5。16 エストレージャとの協定に基づき大統領選に立起したトルヒージョ,あらゆる不正を行い「95%の得票をかち取り」選挙に勝利,軍は選挙管理委員会や反対派に暴力の脅迫.

8.16 トルヒージョ,第一期目の大統領に就任.議会と共同し「トルヒージョ時代」の実現を宣言.ドミニカ党を結成.以後31年間にわたり独裁制をしく.この間全耕地の1/3を横領,砂糖工場,コーヒー,ビール,タバコ産業を一手に独占.資産は10億ドルにのぼる.

1934年

6.09 多くの政敵を亡命、国外追放に追い込んだトルヒージョ、独裁色の強い新憲法を憲法制定会議に承認させる。

10.1 ハイチとドミニカの海兵隊,引き揚げ開始.3日間で撤退完了.

1937年

37年 ハイチ政府が国内に潜伏したドミニカ諜報員を逮捕・処刑.両国は国交断絶.

10 米国系砂糖きび農場で,ハイチからの出稼ぎ労働者によるスト発生.これをきっかけにトルヒーヨは婦女子をふくむハイチ人みな殺し作戦を指示.1万5千の兵が,国境の「みな殺し川」以東に住むハイチ人1.5〜2万人(一説に5万人)を虐殺.作戦終了後もなお6万人のハイチ人が居住.政府は企業主にハイチ人雇用を強制.

12 ハイチで若手将校のクーデター計画,失敗に終わる.ヴァンサンは黒幕カリストを解任し国外追放.さらに国軍将校のほぼすべてを更迭し身内で固める.クーデター計画はトルヒージョの支援を受けていたといわれる.

1938年

1月 ルーズベルト大統領とハル国務長官,ドミニカとハイチの賠償交渉の仲介となる.75万ドルの賠償金を支払うことで合意.その後,両政府の交渉で50万ドルにまで引き下げられる.

5.17 トルヒージョ,二期8年の大統領任期を終了し,いったん退陣.ハシント・ペイナルドを自らのカイライ後継者にすえる.

39 トルヒージョ独裁を嫌う亡命者達がドミニカ革命党を結成.フアン・ボッシュらが活動を続ける.

39 サント・ドミンゴ,トルヒーヨ市と改称.

1940年

3月 ペイナルド大統領が病死したため、トロンコソ副大統領が昇格。実態は変わりなし。

9.24 トルヒーヨ,外債の完全償還に成功.米国はドミニカの関税管理を解く.ドミニカ議会はトルヒーヨを「財政上の独立回復者」と表彰.

42.5.18 トルヒーリョ,二度目の大統領に就任.52年までの二期10年間の任期を勤める(任期が5年となる).

42.11 ドミニカ共産党(PCD)結成.トルヒージョは共産党の活動を事実上容認.

43 反ドミニカ発言をくり返すレスコに怒ったトルヒージョは過去の資金援助を自ら暴露.

47.5.16 トルヒージョ,みたび大統領に就任.折からの冷戦政策を受け,共産党を非合法化.

48.5.09 コスタリカ、ドミニカとの外交関係を断絶。

49.7 コスタリカやキューバの支援を受けたトルヒーヨ打倒をめざす亡命者の侵攻計画.カストロらキューバ学生もこの遠征に加わる.

1950年

3 汎米同盟理事会の調査委員会,ドミニカに対する制裁勧告.

5.16 トルヒーヨ,OAS勧告を受け退陣の意向を表明.

52 トルヒージョ,10年に及ぶ第二期大統領の任期を満了.後任には弟のエクトル・ビエンベニード・トルヒージョ・モリーナが就任.副大統領は腹心のホアキン・バラグェール・リカルド.

55 トルヒーヨ,国家予算の3分の1を費やして「自由世界の平和と友愛国際博覧会」を開催.

56 ニューヨークのコロンビア大学講師ヘスス・ガリンデス,トルヒーヨの悪行を公にした本を発行.秘密警察の手によりニューヨーク地下鉄内で誘拐され消息不明となる.ガリンデスは元サント・ドミンゴ大学教授でトルヒーヨの弾圧を逃れ米国に亡命していた.

56 日本人千人が,トルヒーヨとの契約によりドミニカ入植.その後ほとんどが開拓に失敗し離れる.

57 エクトル・トルヒージョが二期目の大統領に就任.

1958年

1.23 ベネズエラの独裁者ヒメネス,ドミニカ共和国へ亡命.

11 アイクの特使ポーリー,ドミ ニカを訪問.トルヒーヨと会見し退陣を迫るが,トルヒーヨは拒否.

1959年

1.01 キューバの独裁者バチスタ,ドミニカへ亡命.

3 エクトル・トルヒージョ,大統領の任期を満了.前副大統領のホアキン・バラゲールが大統領に就任.権力は依然トルヒーヨの下に集中.トルヒーヨ,カリブ海諸国のもとめに応じていつでも派遣できる「反共特殊部隊」構想を公表.カストロはこれに対抗し「我が国こそLAの革命の源泉であり,トルヒーヨ打倒のために義勇軍を募れば,誰一人キューバの島にとどまろうとするものはいないだろう」と発言.

6.12 ベネズエラ,ドミニカ共和国と外交関係を断絶.

6.14 亡命ドミニカ人・ゲリラの乗ったベネズエラ国籍C・46機(一説にDC4),キューバを出発.ドミニカ軍機を偽装しトルヒーヨの別荘所在地コンスタンサの飛行場に強行着陸.56人が空港での交戦後山中に入り武力抵抗.2日後に敗北し全員逮捕.

6.18 キューバを出発したゲリラの舟艇部隊約250名(一説に140人),北部海岸のマイモン,エステロオンドに上陸する.政府軍は1ヶ月の掃討作戦後キューバ人2人をふくむ5名の捕虜を残して殲滅.ゲリラ作戦は失敗におわる.

6.26 キューバ,ドミニカ共和国と外交断絶.

7月 反トルヒージョ派、ふたたびキューバからドミニカへ侵入するが敗北。

1960年

1.1 オエレス・イ・サンチェス大司教,トルヒーヨ独裁を非難する声明を発表.教会と政府の対立は決定的となる.

1.21 トルヒーヨ暗殺計画発覚.調査により米総領事ヘンリー・ディアボンの関与があきらかとなる.トルヒーヨは反対派に対し大弾圧.

2.05 ベネズエラ、ドミニカ共和国を「人権に対する野蛮な侵害」で、米州機構に告発。OAS理事会はこの訴えをとりあげ、4つの加盟国代表からなる実情調査団を派遣。

6.08 OAS総会, ドミニカ共和国が市民の権利を侵害したとする実情調査団の報告を受け、トルヒーヨ非難決議を採択.

6.24 ベネズエラのカラカスにおける観兵式の際,路上におかれた自動車が爆発.ベタンクールは負傷,随行員二人が死亡.OAS総会で「人権侵害」を非難されたトルヒーヨが,報復のため旧ペレス派の支援を行ったことが判明.

7.01 ドミニカ議会、エクトル・トルヒージョ・モリナ大統領の要請を受け非常事態宣言を採決。

8.02 トルヒージョ・モリナ大統領が辞任。ホアキン・バラゲール副大統領が大統領に昇格。

8.20 サンホセでOAS外相会議.トルヒーヨがベネズエラ大統領ベタンクール暗殺未遂事件の黒幕であったことが暴露される.OASはドミニカとの外交制裁(国交断絶)と軍事制裁(武器輸出禁止)を決議.

8.25 米国,ドミニカの砂糖輸入割り当てを削減するとともに,サントドミンゴの大使館を領事館に格下げ.アイクはNSCの特殊グループに,トルヒージョ追放作戦の策定を指示.

8.26 アメリカ,ドミニカ共和国と外交断絶.トルヒーヨ,米国の措置に抗議しラジオ演説.「カストロ政権を擁護しソ連との接触を開始する」と発言.ラジオはアメリカ系通信を排除,タス通信一点ばりとなる.

9 米国,海兵隊4千人を派遣,その圧力下にバラグェールを辞任に追い込む.大統領の任期を終えたばかりの弟エクトルがふたたび大統領に就任,トルヒーヨはさらに軍事力増強をおこなうとともに秘密警察を通じて統制を強化.

ボッシュ政権の成立と崩壊

1961年

1.04 OAS外相会議、ドミニカに対する経済制裁の発動を決議。米国,ドミニカに対し経済制裁発動.

3.12 カトリック教会のトーマス・ライリー司教、政府を「脅迫および迫害行為」で訴える。

4.07 第二のキューバを恐れるCIA,トルヒーリョ暗殺を指示.暗殺部隊にマシンガンをおくる.事前に計画を知ったケネディは中止を指示するが現地はこれに従わず.

5.30 トルヒーヨ,サンクリストバルの妾宅から出発.海岸沿いの高速道路をトルヒーヨ市にむかう途中,側近フアン・トマス・ディアス将軍のひきいる将兵7名に襲撃される.ディアスは車を停車させた上,27発の銃弾を全身に撃ち込む.この時点で彼の資産は耕地150万エーカー,労働者総数6万を雇用する各種工場,総額5億ドルに達する.

5.30 米艦隊がドミニカ沖合いに出動。10日間にわたり威圧的遊弋を繰り返す。

6.02 米政府、ドミニカの警察による人権虐待の報告の問題を米州機構に提訴。OASはパナマのアウグスト・ギジェルモ・アランゴを団長とする5人の実情調査団を現地に派遣する。

6.02 独裁者の息子でドミニカ軍参謀長のラファエル・トルヒージョ准将が事態を押さえる。

7.02 ドミニカ共和国内閣総辞職.エクトルに替わり,ふたたびバラゲールが大統領に就任.トルヒーヨに忠実なバラゲールは「トルヒーヨの未亡人」と称される.エクトルは辞任後も軍の支援を受け実権を掌握する.

7.15 反トルヒージョ派を糾合した全国市民連合(Union Civica Nacional - UCN)が結成される。

8.06 バラゲール、民主化と多党選挙を公約。OASに選挙への援助を要請。OASはただちに技術協力使節団の派遣を決定。

9 サント・ドミンゴで反政府暴動.その後各地に拡大.

10.16 シウダ・トルヒージョなどの都市でデモ参加者と警察の衝突が1週間にわたり続く。この事件で4人が死亡。

11 反バラゲール闘争もりあがる.国外の反トルヒーヨ組織ドミニカ解放運動(OLM)は反政府運動の開始を呼びかける.国内でもドミニカ人民運動(MPD),全国人民同盟(UCN)などが活動開始.

11.18 ラファエル・トルヒーヨ、軍司令官を辞任.バラゲール大統領が軍隊の統制権を握る。

11.19 トルヒーヨ一族は米国の指令により強制的にバーミューダ亡命,その後スペインへ移住.米軍は艦船14隻を海岸線に配備し2週間にわたり威圧的遊弋。

11.20 バラゲールは非常事態を宣言.首都名をサント・ドミンゴにもどす.2万人殺人の元凶であるアベス・ガルシア秘密警察長官を「追放」.ガルシアは参事官として東京へ赴任.

12.04 サントドミンゴ市内で、バラゲール大統領とUCN代表ビリアト・アルベルト・フィアジョとの交渉。暫定国家評議会を創設することで合意。

1962年

1.01 7人のメンバーからなる暫定国家評議会が設置される。

1.04 OAS理事会,ドミニカ制裁の解除を議決.キューバは棄権.

1.06 米国はバラゲールとの間で国交を正常化し砂糖割り当てを復活する.

1.16 旧トルヒーヨ派によるクーデター.国家評議会は軍事政権により転覆される。サントドミンゴでは政府軍がデモ参加者に発砲。4人が死亡。

1.17 トルヒーヨ派の国家評議会が成立。議長にボガエルト就任.

1.18 軍内親米派による反クーデターが成功.新たな国家評議会の議長には中道右派のラファエル・ボネリ元副大統領が就任。結果的には進歩派の進出を恐れる米国の思う壺。

2.21 国家評議会,12月の大統領選挙を公約.ラファエル・ボネリが臨時大統領に就任.同時にそれまでの間非常事態を続けると宣言.トルヒーヨの弟エクトル,亡命先より帰国,旧体制復活を策す.米国は艦隊を領海内に進入させこれらの反対勢力を威圧.

3.08 米国とドミニカ共和国が軍事援助協定に調印.

12月 大統領選.亡命先のコスタリカから帰国した革命党(PRD)党首グスマン・フアン・ボッシュとバラゲールとの争いになる.ボッシュはケネディ大統領の熱烈な支持者として「進歩のための同盟」を推進.左派勢力やカストロ派は,選挙前に国外追放となり選挙戦に参加できず.

12.20 ボッシュは反トルヒーヨ勢力を結集し,6割の得票を得て新大統領に.国会議員選挙でも、上院で23/27議席、下院で52/74議席を獲得するなど圧勝。

12.28 パルマ・ソールにおいて3日間にわたる暴動。政府軍の弾圧により30人が死亡。

1963年

2.27 ボッシュ,大統領に就任.外相にガルシア・ゴドイ.

4.29 ハイチ軍士官,デュバリエの息子を誘拐・殺害しようとして失敗.ペチオンビルのドミニカ代表部に逃げ込む.ほかに関係者500人が,各国大使館に避難.ハイチの大統領警護隊はドミニカ代表部に侵入し,関係者22人を連行.ケネディ,ハイチ援助計画を停止(2年後のドミニカ紛争時にジョンソンにより解除).

4.29 フアン・ボッシュ,「ボッシュ憲法」とよばれる進歩的憲法を公布,文民による軍部の統制,共産党など左翼政党の合法化,対キューバ融和政策をとる.また独裁者の資産の国有化,高所得者への増税,私有財産の規制,労働者の保護,大土地所有の禁止,農地改革法制定,ヨーロッパ資本の誘致,教育と宗教の分離等の改革プログラムに着手.

5 ドミニカは国交を断絶し,国境地帯に軍を配置.しかしボッシュの急進的姿勢に警戒感を抱くドミニカ軍部が行動を渋ったため,侵攻計画は不発に終わる.

5.06 ハイチ,国連安保理にドミニカの武力干渉を提訴.

5.08 国連安保理開催.問題処理をOASに委ねる.OAS特別理事会,ハイチ・ドミニカ共和国紛争で事実調査委員団に引き続き,調停委員団派遣を決定.米州機構は各国大使館の亡命希望者の安全な移動を保障させ,ドミニカも臨戦態勢を解く.

8.05 ハイチ亡命者の武装集団,ドミニカからハイチ北部に侵入.2日後にハイチ軍により撃退される.

9 ハイチ・ドミニカ国境で,両軍が砲撃を応酬.OASの介入およびハリケーン来襲のため,戦闘は中断される.

9.20 農地改革に踏みこんだボッシュ政権に対し,軍部のクーデター計画.未然に発覚し未遂に終わる.

9.25 空軍司令官エリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン大佐によるクーデター成功.農地改革を嫌う地方地主の圧力によるもの.ボッシュは逮捕された後プエルトリコに追放.

9.26 「革命評議会」は保守派実業家ドナルド・レイド・カブラルを首班にすえ三頭政府を組織.ボッシュ憲法の廃止,国会解散,左派政党の非合法化を断行.ボッシュ路線はすべて反故とされる.米国はドミニカと断交.その後エミリオ・デ・ロス・サントスが大統領に就任.

9.27 米国は、ドミニカ共和国に対し外交制裁、経済制裁、軍事制裁を課す。ベネズエラも外交断絶措置を取る。

11.01 英国、フランス、西ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの西欧諸国が相次いで軍事政権を承認。ホンジュラスも承認に踏み切る。

11.02 日本,ドミニカ共和国新政権を承認.

11.22 ケネディ暗殺

11 「6.14運動」,ふたたび武装蜂起.その後も武装路線をとり,カーマニョ蜂起後は主力部隊となる.

12.14 ジョンソン政権,軍事政権に対する政策を転換.ドミニカとホンジュラスの軍事政権を承認.ドミニカに対する経済援助を開始する。

12 各地で民族主義者の武装反乱勃発.「ヘルマナス・ミラバル」「グレゴリオ・ルベロン」「ホアン・デ・ディオス・ベンチュラノチモ」「エンリケ・ヒメネス・モヤ」の4ゲリラ組織からなる最高革命司令部,軍政打倒をめざす声明を発表.

64 経済悪化.財政赤字を抱える政府は窮乏政策を押しつける.タクシー労働者4千名が反動法に抗議しスト.精糖労働者もゼネストをうつ.サント・ドミンゴではデモ隊と警察が衝突をくりかえす.

 

1965年 ドミニカ内戦

65年4月

4.24 perredeistas(PRDのメンバー)とConstitutionalists(1963の憲法支持者),ボッシュ復帰を訴え街頭デモ。そのあと国家宮殿に押しかけ実力占拠.

4.24 フランシスコ・カアマニョ・デノ大佐(Caamano Deno)ら陸軍将校がこれに呼応して反乱.2,700の兵士が出動し、サント・ドミンゴの陸軍本部、放送局などを制圧.6.14運動はこれを積極的に支持し市民を組織.

4.25 サン・イシドロ基地のエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン将軍を先頭とする海軍,空軍を中心とした反革命派は巻き返しの行動開始.彼ら自身をローヤリストと呼ぶ.

4.25 カーマニョ軍はカブラルを逮捕,ホセ・ラファエル・モリナ・ウレナがボッシュ帰国までの臨時大統領となる.

4.25 米国の招請によりOAS理事会召集,停戦要請決議を採択.

4.26 ウェッシン,サン・イシドロでインベルト将軍を大統領とする臨時再建政府を樹立.鎮圧作戦をこころみるが失敗.モリナ臨時大統領はウェッシン罷免を宣告.米国に軍事援助を要請する。

4.26 市民武装を恐れたジョンソンは,「Constitutionalistsは共産主義」と判断,反革命派の支持を決定.「米国市民の声明を保護し,停戦の準備を進めるため」軍の投入を決定.

4.26 臨時政府と反乱軍,反革命派の首都包囲を前に市民への武器引渡しを決定.

4.27 米国カリブ師団が空母ボクサーを旗艦に,艦艇6隻に千5百の海兵隊をのせサント・ドミンゴに接近.

4.27 臨時政府は市民への武器引渡し開始.市民3千〜1万人に武器が渡される.蜂起軍,サント・ドミンゴ市内の防衛にほぼ成功.ウェッシン将軍,サン・イシドロ基地から首都爆撃の命令.ノースカロライナのフォート・ブラッグで空挺部隊が出動体制に.

4.28 海兵隊,ドミニカに到着.同夜に米人保護の口実で海兵隊50名をヘリコプターにのせ,サント・ドミンゴ市内のホテル・エンバハドールの競技場に上陸させる.

4.29 ジョンソン,ドミニカ共産化阻止のため軍事介入すると発表.ただちに第32空挺部隊が降下,プエルト・アイナには海兵隊千7百名が上陸.以後半月のあいだに3万5千名に増強,蜂起部隊と直接対決.メキシコ,チリ,ベネズエラは米国に対し正式に抗議.

4.30 アメリカ州機構外相会議,アルゼンチンのリカルド・コロンボを議長とし、アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、グアテマラ、パナマによる“good offices commission”を創設する。

4.30 OASの調停によりいったん停戦合意.事実上蜂起の勝利の展望はなくなる.

65年5月

5.01 ソ連,ドミニカ共和国問題で国連安保理開催を要求.

5.02 ジョンソン,「西半球に第二の共産政権が生まれるのをゆるすことはできず,ゆるさないだろう」と演説.みずからジョンソン・ドクトリンと名付ける.

5.03 ジョンソン演説を受けた国連安保理,16回にわたる激論の末、OASによるドミニカ派兵を容認.

5.03 OAS理事会、ソロッコ(援助)作戦を決定。対立の影響を受ける市民50万人に人道主義的援助を提供するため30人の人員を派遣するというもの。国際赤十字、CARE、世界教会サービスなどがメンバー組織となる。

5.04 議会の多数,フランシスコ・カーマニョを臨時大統領に指名.

5.05 “OAS good offices commission”の調停により、蜂起軍と政府軍とのあいだに停戦協定.米国軍はこれを無視し制圧作戦続行.1万人がサント・ドミンゴ市内に集結し,シウダード・ヌエバの蜂起軍に対する包囲完了.

5.06 米国は米州外相会議を招集し,インベルト政権支持を迫る。OAS外相会議,米国に追随し「秩序回復と共産主義排除」のため米州平和軍の派遣を決定.メキシコ,ウルグアイ,ペルー,チリ,エクアドルは反対に回る.

米州平和軍(IAPF): 総勢12,770人の人員から構成される。うち米国が11,000、残りをブラジル千2百,ホンデュラス250,コスタリカ22名、ニカラグア164、エルサル3、パラグアイ178などが占める。総指揮官にはブラジルのウーゴ・パナスコ・アルビン将軍.

5.06 ドゴール仏大統領,外国軍のドミニカ共和国撤退を要求.

5.07 軍部,カーマニョ政府に対抗し,インベルト軍民政府を樹立.

5.13 カーマニョ,OAS調停委の連立政権構想を拒否.両派が戦闘を再開。米軍は蜂起軍拠点への爆撃開始.

5.13 国連安保理,ドミニカ問題で討議.ソ連とフランスはカアマニョ派の参加を要求.

5.14 国連安保理,ドミニカへの国連代表の派遣を決定.ベネズエラのホセ・アントニオ・マヨブレを国連事務総長特使として派遣する。ブラジル、カナダ、エクアドル、インドの軍事顧問がマヨブレを防衛することとなる。

5.16 米軍総攻撃開始するが,国際的糾弾を浴び中断.拠点への補給路を遮断.

5.17 国連安保理開催.事務総長を現地に派遣し,調査および紛争解決にあたらせることを決定.OASは米州特別委員会,アドホック委員会,米州人権委員会を派遣することで国連に対抗.

5.18 安保理決議を受けたウ・タント国連事務総長,ドミニカ即時完全停戦のアピール.

5.22 国連安保理,停戦恒久化を求めるフランス案を採択.

5.25 OAS,米州平和軍の派遣を決定.国連は安保理の承認を経ないこの決定に対し批判的立場をとる.さらにメキシコは,決議後も「カルデナス原則」を挙げ不参加を決定.

5 カーマニョ派は旧市内に立てこもり激しく抵抗.

65年6月

6.02 OAS外相会議,中立的な“good offices commission”を廃止。これに代わり「ドミニカ共和国調停委員会」の現地派遣を決定.調停委員会の構成メンバーは米国、ブラジル、エルサルバドル。委員長は米国のエルズワース・バンカー。

6.3 米軍「撤退」.これに代わりOAS「平和軍」が進駐.実態はなんら変化なし.

6.5 米軍占領下のサント・ドミンゴで,カーマニョ支持の1万5千人集会

6.15 OAS「平和軍」と蜂起軍とのあいだに戦闘開始.「平和軍」は,蜂起軍支配区に10時間にわたる猛爆.市内に犠牲者の遺体散乱.蜂起軍は戦闘力を失う.国連安保理は「平和軍」を戦争当事者と認定.拡大代表団を派遣し監視と調停に乗り出す.

6.18 とする米州機構調停委員会,6項目の和平調停案を提示.両派の参加による8月末の選挙までの暫定政府を樹立すること,カーマニョ派軍人の権利を保護することを柱とする

6.23 カーマニョ派,OAS調停案に同意.

7月 地方での武装闘争拡大.

8.30 軍部もOAS調停案の受け入れに同意する.

8.31 OAS調停委員会の立会いの下、両派が和平調停案に署名。総選挙を目指し、「6.14運動」をはじめ46の政党,団体が統一戦線結成.

9.03 カーマニョ,OAS調停委に応じ休戦.

9.05 ボッシュ政権の外相をつとめたエクトル・ガルシア・ゴドイを首班とする暫定政府樹立.選挙を翌年6月実施すると発表.人民の武装解除などを決める.米軍撤退については触れず.米国はただちにこれを承認,2千万ドルの援助を開始.

9.12 ボッシュ前大統領,帰国の意志を表明.

9.25 ボッシュの帰国を歓迎する5万人の集会,米軍撤退を要求.

10.16 右派軍,6.14運動本部を襲撃。5人が犠牲となる。

12.19 右派軍,サンチァゴ・デ・ロス・カバリェロでカーマニョを襲撃.28人が殺される。全国各地で抗議のデモが5日間にわたり続く。軍の弾圧により10人が犠牲となる。

 

1966年

1 ゴドイ,カーマニョや右派のリベラ国防相を「国外勤務」とする.リベラはいすわりをはかり,クーデター工作するが未遂に終る.

2.13 米軍,学生デモに機銃掃射.ドミニカ全土でゼネスト状態.4日間にわたる市街戦.武装人民による米兵狙撃あいつぐ.19人が死亡。

6.01 銃剣下の大統領選,地方部の支持を背景に「トルヒージョの未亡人」の異名をとるホアキン・パラゲール(改革党)がボッシュを破り勝利.米軍7千の居座りを公認.

6.24 OAS、選挙が自由で公平だったと報告。平和軍の解散と介入終結を宣言.この一年間に首都サント・ドミンゴだけで4千の死者を出す.

7.01 米軍撤退完了.この干渉戦争で米兵48人が死亡。その後も2千名の米軍が「技術協力」のため残留.

9.20 「平和軍」,完全撤退.この後バラゲールは3期12年間大統領を務め,米国からの援助と投資により工業化を進め,「ドミニカの奇蹟」と呼ばれる経済成長を実現するが,貧富の差は著しく拡大.

1968年

2 陸軍,学生運動の高揚に対し,サント・ドミンゴ大学を接収.バラゲールは「社会平和」を宣言するが,その私兵集団「ラ・バンダ」はサントドミンゴの貧民街でボッシュ派の活動家数千名を殺害.(この数字は複数の文献で確認されてはいない)

1970年

3 ドミニカ人民運動(MPD),米駐在武官を誘拐.政治犯20名の釈放をかちとる.

5.16 バラゲール再選.ボッシュ派のドミニカ革命党は選挙をボイコット。反対派に対し,死の分隊(ラ・バンダ)により34時間に一人の割合で暗殺がおこなわれる.(政府よりの文書では選挙関連の犠牲者は45人とされている)

71.1.30 軍の一部が反バラゲールの反乱を起こすが鎮圧される。

72.1.12 サントドミンゴの近郊で左翼ゲリラ(MPD?)と警察軍が衝突。警官8人とゲリラ4人が死亡。

1973年

2.04 アスア県で10名ほどのゲリラが活動。政府軍2千が3日間にわたる作戦を展開し、これを包囲殲滅。3人の政府兵士とゲリラ1人が死亡。

2.07 バラゲール大統領、非常事態を宣言。

2.16 カアマニョら,キューバを発しサント・ドミンゴ西方110キロのアスヤ県カラコリートス海岸に上陸,ゲリラ戦開始.政府は非常事態宣言.2週間後に特殊部隊の捜索により壊滅,カアマニョは殺害される.この後の弾圧で推定千5百人が逮捕される.

73年 PRD,グスマンら中道派が主流を握る.ボッシュを先頭とする民族左派は離党し,ドミニカ解放党(Partido de la Liberacion Dominicana)を結成.より急進的で反米親キューバ路線を明確にする.

1974年

5.16 バラゲール大統領3選.棄権・白票が60%に達する.バラゲール陣営は得票率90%で圧勝したと報告。

74 チャグアラマス条約締結.カリコム発足.共同関税を設け,IMF,EECなどの援助のもとに経済開発を進める.

1975年

1 LA経済機構(SELA)設立,キューバも含めた統合実現.OAS理事会も対キューバ交流について「行動の自由」を認める.

3月 反政府派ジャーナリストのオルランド・マルティネス,軍部により暗殺される.

5.10 ヒメネス国防相と陸海空三軍司令官,伝統的な大統領支持を撤回して辞任.

77.11.09 バラゲール大統領,共産党合法化法案に署名.共産党は度重なる弾圧の前にすでに壊滅。

1978年

2.19 エスペランサで左翼活動家2人が殺害される。

3.26 ロス・トリニタリオスの指導者ギジェルモ・ルビロサ・フェルミンが、警察によってサンペドロ・デ・マコリスで殺害される。

5.16 大統領選.PRDのシルベストル・アントニオ・グスマン・フェルナンデス候補は,推定70%の得票で優勢に戦いを進める.

5.17 早朝.軍部はPRD政権成立阻止のためクーデターを決行.部隊が出動し選管を占拠,開票作業を中止させ,投票箱を押収する.カーターは軍艦を派遣しバラゲールを威嚇.

5.26 米国の圧力のもとにバラゲールは開票妨害を断念.開票再開.

5.31 国民が不況に苦しむなかで登場した,アントニオ・グスマンの当選が確定.グスマンはサンチアゴ地方の裕福な牧場主で革命党(PRD)穏健派の指導者.

8.16 グスマンが新大統領に就任.軍の近代化,社会正義,公共輸送機関の国有化,最低賃金の上昇などを唱えるが,土地改革の公約は果たされず.インフレが亢進し失業が増大するなど経済危機はさらに深刻化.

79年 ドミニカ労働者党が結成される.親キューバ路線を掲げる。

81.5.16 経済危機の克服をめぐり,与党革命党内部で対立激化.グスマンは政治的指導力を失い,右派のペナが実権を握る.中道左派のサルバドール・ホルヘ・ブランコが大統領選候補者に選出される.(我ながら記述が矛盾しています)

1982年

2月 レーガン,OAS総会においてカリブ開発構想(CBI)を発表.反共諸国への援助強化により,軍事独裁の民政移行と民族運動の抑えこみを狙う.

5.17 大統領選.ホルヘ・ブランコが改革党(PR)のバラゲール,解放党のボッシュを破り当選.

7.04 グスマン大統領,任期満了の直前に謎の自殺を遂げる(公式にはピストル暴発による事故死とされる).ハコボ・マハルータ・アサル副大統領が大統領に昇格.南部では農民の土地占拠,都市では労働者のゼネストがあいつぐ.

8.16 PRDのサルバドル・ホルヘ・ブランコ,大統領に就任.

83.8 カリブ開発構想を具体化した「カリブ地域経済再建法」,議会で承認.中米およびカリブ地域の27ヵ国に特恵待遇を適用.受益国からの米国輸出に対し12年間にわたり関税免除.同地域の生産品の米国市場参入を容易にし,輸出志向型経済の発展をうながすとともにカリブ海をとりまく事実上のドルブロック形成をめざす.現実の援助はジャマイカとドミニカに集中.その後の経過では実効はほとんど上がらず,共産主義国家は対象からはづれるなど,たんなるニカラグア,キューバいじめに終わる.

84.5.30 ブランコ政権,経済非常事態宣言を発し緊縮政策をしく.緊縮政策にともなう食料品の大幅値上げを不満とし,大規模な市民暴動が発生.死者55人,逮捕者は5千人にのぼる.

5 ブランコ政権,IMFの融資条件を不満とし,対外債務20億ドルの返済交渉をうちきり.

85.7.01 国会選挙.バラゲールの率いるPRが勝利.PRとキリスト教社会革命党(PRSC)が合併.キリスト教社会改革党となる.RevolucionarioからReformistaに代わるが,頭文字は同じ.

86.5.16 大統領選実施.革命党(PRD)政権,経済危機を脱出できないまま,バラゲール(キリスト教社会改革党)に敗れる.バラゲールは通算3期12年の長期政権につく.フアン・ボッシュのPLDは16%を獲得.第三政党としての地位を固める.ドミニカ共産党(PCD)の得票は5千票を下回る.ドミニカ共和国共産党(PACOREDO),社会主義ブロック(BS)は候補を立てず.

1988年

3.02 賃上げ政策めぐるストが暴動化する.人民組織全国会議はゼネストを呼びかけ.バラゲールは警察長官を更迭.

3.09 警察,48時間ゼネスト前に人民組織全国会議幹部をいっせい逮捕.

6.24 政府,国内のすべての外国為替業務を停止.

11.27 ブランコ元大統領,兵器調達汚職で起訴される.

89年 PRDより右派が分裂.ヤコブ・マルフーダを党首に独立革命党(PRI)を結成.

90.5.16 大統領選.米国の開発資金をバックにしたバラゲールが,僅差で再選を果たす.選挙不正に対する国民の怒りを背景にボッシュのPLDが力を伸ばし34%を獲得。反バラゲールの対抗戦力に成長.

1992年

10.12 コロンブスの米州到達500周年で祝賀行事開催.

92 ホルヘ・ブランコ前大統領,20年の禁固刑を宣告される.

1994年

5.17 大統領選.不正工作があったとして3ヵ月間当選者が確定できない事態となる.国会選挙では野党ドミニカ革命党(PRD)が57議席を獲得し,第1党になる.

8.05 キリスト教社会改革党(PRSC)のバラゲル大統領候補が3期連続当選(通算7期目).内外で,不正選挙との批判が強まる.バラゲールは,2年以内に再度選挙を実施すると提案.

8.14 下院議会,大統領連続再選の禁止を決めた憲法改正案を可決.バラゲールの任期を96年8月までと定め,96年5月に大統領選挙をやり直すこととなる.

1996年

5.16 大統領選第一次投票.PRDのホセ・フランシスコ・ペナ・ゴメスが優位に立つが,過半数に達せず.

6.30 大統領選決戦投票.PLDのボッシュとバラゲール,ペナの当選を阻止するため歴史的和解.全国愛国戦線を結成.バラゲール派候補を下ろし,ボッシュの後継者レオネル・フェルナンデス・レイナ当選を実現する.

1998年

5.16 国会議員選挙。PRDは下院の149中83議席を獲得。PLDは49の議席を得た。

9.22 超大型ハリケーンのジョージにより大きな被害.

98年 ドミニカの電力会社,民営化される.

1999年

1.23 サントドミンゴ市長でポピュラー歌手のジョニー・ベントゥーラ(PRD),議会ビルへ入ろうとして警察に制止される.さらに衣服を破られ銃を発射される.モンテ・プラタ市長のアントリン・バルデスも同じように入庁を阻止される.

1.24 PRDの議員,市長,議会職員が議会ビルに閉じ込められる.電気と水道は止められる.支援しようとしたラモン・アルブケルク上院議長と二人の上院議員も警官に暴行を受ける.

1.28 警察,議事堂ビルの包囲を解く.PRDとPLD=PRSCは別々に議会事務局長を選出.

2.8 ドミニカ労組,ゼネストを呼びかける.運輸,医療,教育労働者がスト入り.

3.17 サント・ドミンゴ北方のサルセド(サン・マコリ?)で,食料,医療などを求めるデモが暴動状態に発展.3人が死亡し,20人がケガ.政府は住民を煽動したとして革命党を非難.

4.5 大衆組織連合(COP),政府の政策に抗議してゼネストを呼びかけ.世論調査では政府批判が上回る.軍はサント・ドミンゴに出動し警戒体制に入る.

5.16 与党PLD(ドミニカ解放党)は,ダニロ・メディーナ大統領府長官を次期大統領候補に決定.

7.17 ドミニカ革命党(PRD),来年の大統領選にイポリト・メヒアを擁立すると決定.メヒアは「政府の公約不履行で貧困は増大するばかり」とし,人材開発や農業・教育の拡充を公約.メヒアは元農相で,農場を経営する実業家.キリスト教社会改革党(PRSC)は92歳ですでに全盲のバラゲルを大統領候補に擁立.

7.29 PRDのイポリト・メヒア,バラゲールと会談.「PRDとPRSCの間に存在した敵対関係の終結」を宣言.決選投票でのバラゲール派の支持を狙ったもの.

2000年

5.16 大統領選挙でドミニカ革命党(PRD)のイポリト・メヒアが過半数近くの票を獲得し当選.

6.04 ドミニカ移民一世126人,1956年の日本政府の募集内容と異なる苛酷な生活を強いられたとして,一人当たり1000万円〜3000万円、総額24億9000万の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こす.

8.04 ドミニカで,退役将軍ホアキン・アントニオ・ポウ・カストロら軍人三人に有罪判決.75年3月にジャーナリストのオルランド・マルティネスを暗殺した罪で,最高刑である懲役30年,罰金120万ドルを言い渡す.バラゲールや当時の軍最高幹部の責任は問われずに終わる.

8月 イポリト・メヒア政権が発足.民主化と汚職対策の強化をうたう.

 

2001年

2.13 社会保障の民営化に反対する医師のデモ行進を警官隊が襲撃.医師10人が負傷する.警官隊はドミニカ医師会本部の建物にも銃撃を加える.医師会は直ちに無期限ストを指令.会員医師1万5千のうち1万以上がストに参加.メヒア大統領も警察を非難する声明.

2.15 医師デモ隊を襲撃した警察隊の責任者が逮捕される.医師会はスト解除と政府との会談開催で合意.

6.03 ドミニカで停電が相次ぐ.サント・ドミンゴ北部の町ガウレーでは,怒った住民が1万台以上の電気メーターを破壊.

6.11 相次ぐ停電と電力料金引き上げに抗議する抗議行動が,全国に広がる.市内のロス・ミナ,ロス・トレス・ブラソスでは機動隊と衝突,暴動に発展.

6.13 ドミニカ政府,電力料金の引き上げを発表.この引き上げに伴い,電力会社に対する助成金を段階的に撤廃することとなる.

6.13 公立病院の医師が,東部の五つの県で24時間のストライキ.充分な医薬品,医療材料を要求する.また数ヶ月前に回顧された医師の再雇用を求める.ストライキは,ドミニカの医師会(AMD)によって組織された.

6.19 草の根組織,労組,運転手組合が,度重なる停電と政府の構造調整政策に反対し,ナグア,コトゥイ,ボナオでストライキを呼びかける.100人が事前拘束される.

03年 米国経済の停滞、石油高でいったん後退した景気が回復。GDPは4.1%の成長を達成。

 

2003年

5月 大手銀行が不正取引事件により破産。公的部門による赤字補填等は財政状況の悪化、国際収支上の困難、大幅な通貨安をもたらす。

6月 メヒア政権,財政赤字の削減のための増税措置を発表.公共料金も相次いで値上げ.マクロ経済の不安定化、大統領側近の汚職問題、国内大手銀行の不正取引の発覚等により失速。

11.11 ドミニカで緊縮計画と公共料金の引き上げに抗議するストライキ.軍の出動により9人が死亡.34人が負傷.当局はストライキ指導者100名以上を逮捕.

2004年

5月 大統領選挙。ドミニカ解放党(PLD)のフェルナンデス元大統領が57.1%を獲得、メヒーア現大統領を破る。

8月 フェルナンデスが大統領に就任。経済再建に向けた経済財政改革、電力問題改善、貧困対策、政治改革を公約。