ハイチ年表 第二部

米海兵隊の占領  デュバリエ独裁の時代  デュバリエ王朝の崩壊 アリスティド政権(第一次)の成立と崩壊

1992年  1993年  1994年  ハイチ年表第一部  ハイチ年表第三部

  

1902年

5.12 北部でフィルミン(Joseph Antenor Firmin)の反乱が起こる.ハイチ内戦が激化.シモン・サム,ポルトープランスの大衆蜂起を前に大統領を辞任.ボアスロン・カナルが3度目の大統領に就任.

7.26 ドイツ軍艦,ハイチの反乱に関連して干渉.

8.04 反乱軍,執行評議会を結成.フィルミンが議長に就任.

9.06 ドイツ艦隊,北岸のモレ・セントニコラスに石炭ステーションを貸与するよう要求.ドイツの砲艦パンサー,ゴナイーヴの港内に侵入.ハイチ艦クレタ・ピエルロ号の拿捕を試みる.Hamilton Killick提督は艦の明け渡しを拒否.自らの体にハイチ国旗を巻きつけ,艦に火を放つ.

10.15 フィルミンに代わりPierre Nord Alexisが「執行委員長」に就任.反乱軍の指揮をとる.

12.17 ノル・アレクシの反乱軍,内戦に勝利.大統領に就任.

02年 ドイツの度重なるハイチ干渉の情報を受けたウィルソン大統領は,ハイチ占領計画の検討を指示.

1908年

1.15 Gumau将軍、ゴナイーヴとサンマルクで反政府の反乱。3日後に鎮圧される。

11.19 アントワーヌ・シモン(Francois C. Antoine "A.T."Simon)将軍、オーケイス(Aux Cayes)で反乱開始。

オーケイス: Aux Cayesはハイチ南西部の町。ここで作られたラム酒は米国人水夫のあいだで最高と評価され、「OK」と呼ばれた。これがAll Rightsを示すO.K.の語源となったといわれる。

12.02 北部軍閥の領袖ロザルボ・ボボの指揮する反乱軍,ポルトー・プランスを占領.アレクシ政権崩壊.公共秩序委員会(ボアスロン・カナル議長)が権力を掌握.

12.20 アントワーヌ・シモンが議会選挙を経て大統領に就任.米国はシモン政権をただちに承認。

09年 米国,ハイチ進出を本格化.国立銀行を米国資本中心に再編.

10年 ドイツ,2百人ほどの入植者を通じて急速に影響力を拡大.国際貿易の8割を支配.ポルトープランスの路面電車,北部の鉄道の開発にも関与.債権確保のため国立銀行を通じて関税の管轄権を狙う.

1911年

7.20 Firman将軍、シモン政権に対する反乱を開始。

7.21 米国、戦艦Petrol と Peoria号をハイチに派遣。ポルトープランス付近をけん制。

7.24 Jean-Jacques Dessalines Michelとルコント(Cincinnatus Leconte)将軍が反乱を開始.ルコントが革命最高指導者となる.

8.03 アントワーヌ・シモン政権は崩壊.

8.14 ルコント(Leconte, Cincinnatus)が大統領に就任.ルコントは親米派の実業家で,ギョーム・サム将軍のカイライとされる.

1912年

8.07 大統領官邸に仕掛けられた爆弾が爆発。ルコント大統領はじめ300人が死亡.

8.12 オーギュスト(Jean Antoine Tancrede Auguste)が後継大統領となる.三人の有力者が三年にわたり大統領の座を争う.

1913年

5.03 オーギュスト大統領が病死.

5.12 ミシェル・オレステ(Michel Oreste Lafontant)が選挙までの暫定大統領となる.

1914年

1.27 オレステが大統領居座りを図る。北部でダビルマル・テオドールが蜂起。これを見たオレステは辞任.

1.29 オレステ辞任を受け、英・仏・独が軍を派遣。秩序維持に当たる。アンドリュー・ドラム大尉の率いる米海兵隊がポルトープランスに上陸。

2.08 初の文民候補による大統領選挙が行われる.ムラートのエマヌエル・オレステ(Emmanuel Oreste Zamor)が当選.

7 国営カリビアン鉄道会社の債務焦げつきと,反政府ゲリラ活動への対処のため財政困窮し対外負債払えず.政府はあらたにフランスからの借款を受入れようとするが,最大の債権者ナショナル・シティ・バンクは強硬に反対.米政府は同銀行の求めに応じ戦艦マチアスを派遣.海兵隊は,仏・独がハイチの関税支配を主張するなか国庫保有金の半分を強奪し,ニューヨークに「保管」.

10.29 サモール大統領,国民の抗議の中,クーデターにより退陣.最初に選挙で選ばれた文民大統領は,わずか9ヶ月で退陣.

11.07 テオドール(Joseph Davilmar Theodore)が大統領となる.テオドールの息子は後にハイチ共産党書記長となる.

 

1915年 米海兵隊の上陸

2.22 ビルブルン・ギヨーム・サム将軍(Jean Vilbrun Guillaume Sam)がテオドール政権を打倒。テオドールは4ヶ月足らずで大統領を辞任.その後政情不安が続き,4年間に7人の大統領が交代.

3.04 ハイチ政界の黒幕ギヨーム・サム将軍,自ら大統領に就任.

3.22 ギョーム・サムに対抗して北部反米派のロサルボ・ボボが反乱.

4.25 ボボの部隊がカパイシアンを奪取。

6.19 政府軍、カパイシアンを奪還。

7.09 ジョージ・バン・オルデン大尉の率いる米海兵隊が、政府軍を支持してカパイシアンに上陸。

1915年7月

7.27 サム大統領,ポルトープランスの監獄に収容された政治囚167(173?)名を一挙に処刑.ポルトープランスは反対派の抗議で暴動状態となる.サム大統領はフランス大使館に逃げ込む.

7.28 群衆はフランス大使館に逃げ込んだサムを見つけだし,文字どおりの八つ裂きにし,死体を掲げて市内をパレードする.革命委員会が成立.

7.28 北部の実力者ロサルボ・ボボがふたたび立ち上がる.

7.28 ボボの親独的傾向を嫌う米国は,ウィリアム・ケイパートン(Caperton)提督に「財産保護と秩序維持」を命じる.ポルトープランス沖に停泊中の米艦ジェイソン号,300人からなる海兵隊第一陣を上陸させ,市内の治安にあたる.

1915年8月

8.02 米政府,ハイチの直接支配に乗り出す.ケイパートンに議会を押さえるよう指示.無頼な兵士集団の反撃に対しては海兵隊をもって粉砕するよう指示.

8.02 海兵隊2000名が上陸し、ただちに戒厳令を公布.

8.12 ケイパートンが最初の弁務官に就任.大統領選施行の意向を表明.ボボの出馬を禁止.議会はムラートのフィリップ・スードル・ダルティギュナーヴ(Philippe Sudre Dartiguenave)上院議長を新大統領に指名.

8.16 ケイパートン,国務省の指示にもとづきハイチの税関を統制下におく.6週以内に行政上の機関をすべて制御.

8.21 ケイパートン,ダルティギュナーヴ大統領にせまり,「財政,経済開発,治安に関する条約」の締結を迫る.

1915年9月

9.02 海兵隊,ハイチ全土を占領.フランス軍を駆逐.全土に戒厳令を公布。

9.16 ダルティギュナーヴ,「財政,経済開発,治安に関する条約」に署名.米国はハイチに対する「保護国としての権限」を取得.米軍の占領が合法化される.以後19年間,税関は米軍の直接管理となり債務を天引きされる.

条約の柱 ①米国大統領はハイチの後見人となり,大統領候補を指名する.ハイチ議会はこれを承認する.②米国大統領は関税管理を全面的に委ねられ,徴収・受領・配分にあたる.③関税収入はまず税関諸費用,次いで債務の返済に優先して支払われる.

9月 「ハイチ政府は米国の指導を受けて,都市と農村に効率的な警察機構を遅滞なく創設する義務を負う」とする「条約」に基づき,「警察軍」が育成されることとなる.憲兵隊(ジャンダルムリ)を米軍将校の指導下に組織し制度化.米政府はこれを追認.

9月 ロサルボ・ボボを支持する民族派は,ジョルジュ・シルバインを中心に愛国者同盟を組織.アルティボニートと北部地帯で武装蜂起.第一次カコ戦争が始まる.

11.17 バトラー将軍のひきいる米海兵隊,シルバインのこもる北部山岳地帯のフォート・リビエルを攻略.第一次カコ戦争終了.ハイチ人20万人がキューバなどへ逃亡.

11 ハイチ議会,「財政,経済開発,治安に関する条約」を批准.ケイパートンは「もし議会が条約を批准しなければ,我が政府は望ましい結果が出るまでハイチへの統制を続けるだろう」と脅迫.

1916年

4月 ケイパートンに代わりウォラー(Littleton Waller Tazewell Waller)が第二代弁務官に就任.

16年 「米=ハイチ平和・友好条約」締結.前年の「財政,経済開発,治安に関する条約」を全面化したもの.ドミニカの関税協定がそのままもちこまれる.通貨業務も財政顧問である米国銀行の手に移管.この間に可耕地の3分の1を米系企業が取得.ナショナル鉄道会社はポルトー・プランス=カプアイティアン間の鉄道の敷設権を獲得.

平和・友好条約の骨子 ①米大統領の指名する関税総監が関税収入を監督.②ハイチ政府は米大統領の承認なしに,関税収入に影響する政策決定を出来ない.③ハイチの財産を第3国列強へ譲渡,貸与することを禁止.

1917年

1.01 ラッセル(John Henry Russell, Jr.)が第三代弁務官に就任.短い空白を置いて1930年11月まで15年にわたり,ハイチの事実上の支配者として君臨.

6.19 米国,F.D.ルーズベルト海軍次官補の起案になる「新憲法」をハイチ制憲議会に提示.この憲法には旧憲法の外国人土地所有の禁止条項の撤廃がもりこまれていた.制憲議会はこの憲法の受け入れを拒否.米海兵隊司令官はダルティギュナーヴに命じハイチ議会を解散.議会はそのまま30年まで召集されず.

10月 北部国境附近の山岳地帯の農民,米軍道路建設のための強制労働(コルベー)復活に抗議し,農民3千人が各地で蜂起.

1918年

18年初め ボボを支持するシャルルマーニュ・ペラルト将軍,脱獄に成功。北部に潜伏し勢力を拡大。

6.18 米国による20年間の占領を合法化する押しつけ憲法が,国民投票にかけられ成立する(反対768,賛成98,225票).選挙のすべてを海兵隊が管理.ただし国民投票といっても投票率は5%以下.一方で「行政・司法においてはフランス語を使用しなければならない」と抵抗を示す.

10.18 北部に革命政府を樹立.「侵略者を海から突き落とせ,祖国を解放せよ」を合言葉に起ち上がる(第2次カコ戦争).副官にはMirebalaisの前警察署長ベノイト・バトラビーユが就任.

18年 米国からの輸入額は占領前の4百万ドルから1500万ドルに増大.

1919年

3 米国はあらたに海兵隊旅団を派遣.空と陸からゲリラ掃討作戦を展開.解放軍は2万から4万に達し,警察隊を圧倒する.一時首都ポルトー・プランスを攻撃するほどの勢い.

10.30 米海兵隊,ペラルテの本拠地を急襲.ペラルトは虐殺され,遺体は板戸に逆さ十字に釘付けされ,晒しものとなる.副官ベノイト・バトラビーユが指揮を引き継ぎ,農民の抵抗はさらに半年続く.

1920年

4.04 バトラビユは,不退転の決意を示すため,海兵隊員捕虜を殺しその肉を食べたとされる.

5.19 ペラルテに続きバトラビユも戦死.千5百名(5千名? 1万3千名?)の犠牲を出した第二次カコ戦争終結.三次にわたる内乱を通じて2百万のハイチ人のうち30万人がドミニカ,キューバに亡命.

1922年

2.11 ラッセル高等弁務官,米政府のハイチ特使(Envoys Extraordinary and Ministers Plenipotentiary)に任命され,30年まで引き続きハイチの行政監督にあたる.

4.10 米国,ダルティグナーブに代え,ルイ・ボルノを候補者として選挙実施.大統領に据える.

5.15 ルイ・ボルノ(Eustache Antoine Francois Joseph Louis Borno)が大統領に就任.

22年 フランスに対する賠償金の最後の支払いが完了.100年間の支払い総額は六千万フランにおよぶ.

1926年

4.12 ボルノー、国家評議会により大統領に再選される。

26 ジャン・プリス=マルス,ジャック・ルマンら知識人グループ,「ネグリスモ(土着主義)」誌を創刊.米国占領に抗議し独自の文化の建設を訴える.エメ・セゼール(マルティニク)やサンゴール(セネガル)などネグリチュード運動の先駆となる.

28 プリス=マルス,「爺さまはこんな風に話したとさ」を発表.ハイチ人の九割に共通するクレオール語とブードゥー教を再評価.フランス的規準に盲従する「黒い肌のフランス人」を批判.アフリカイズムを訴え反米ナショナリズムを鼓舞.

1929年

1.21 ハイチとドミニカとの国境確定.

4.21 ルイ・ボルノの任期終了.米政府はロイを暫定大統領にたてる.

1929年10月

10月末 ダミアンで中央農科大学の学生が,奨学金の切り下げに抗議してストライキ.医科大学と法科大学の学生もこれに同調.これを機に全国の学校で学生が立ち上がる.学生ストは5週間続き,米国とルイ・ボルノ政権に対する闘争もりあがる.ラッセル高等弁務官は,扇動的政治家と赤色学生によるサボタージュと攻撃するが,最終的に奨学金の増額を余儀なくされる.

10 世界大恐慌勃発,砂糖暴落.LA全体の輸出額は,年50億から15億ドルへ減少.キューバ,ドミニカ在住のハイチ人数十万人が本国へ強制送還される.

11月中旬 ボルノ大統領,第三期目への立候補を断念すると発表.新聞は政府批判を強め,労働者はゼネストの準備に入る.

1929年12月 ルカイエの虐殺

12.02 ラッセル,ボルノが大統領選挙の候補者とならないことを確認したと発表.

12.03 ラッセル,国務省あての書簡.①ハイチの政治家と実業家はストに同調しつつあり,②海兵隊の補助となるハイチ人部隊の忠誠には疑問があり,米国人の生命を守るためには500人の海兵隊を追加派遣する必要があるとする.

12.04午前 ポルトー・プランスの税関労働者が無期限ストに突入.これに呼応した群集が税関前に集結.警官隊と衝突.さらに支援出動した海兵隊へも投石をはじめる.

12.04 海兵隊師団のR. M. カッツ司令官,警察隊の忠誠はますます疑わしいものとなり,海兵隊が自ら戦略拠点を確保する必要があるとし,重火器の大量供給を要請.

12.05 闘争が全国に拡大.カパイシアンでは千名のデモに警官隊が対応できず,海兵隊が出動.南部のルカイエ地方では,ジャクメル,プティゴアブ,レオガーヌ,ルカイエなどの町では,経済苦境に抗議する数千の農民が米軍駐屯地を取り囲む.ハイチ=アメリカ砂糖会社の権益が危機に瀕する.

12.05 ラッセル高等弁務官,戒厳令を公布.新聞の10日間発行停止措置.ハイチ警備軍を創設.ハイチ警察軍の独立性を解き,海兵隊の直接指揮下に組みこむ.司令官に黒人のデモステネス・ペトラス・カリスト大佐をあてる.

12.05 スティムソン国務長官,ラッセルあてに電文.戒厳令を撤回し,紛争地域への増援部隊派遣をやめ,米国人市民を引き揚げるようもとめる.

12.05 ハイチ米当局の要請に応じ,海兵隊増援部隊がノーフォークを出発.ただし実戦への参加の条件は厳しく制限される.

12.06 ラッセル高等弁務官,国際赤色分子が反乱を煽っているとし,海兵隊とハイチ警備軍をルカイエなど南部各地に出動させる.

12.06 ル・カイエ近郊マルシャテル(Marchaterre)では,前日逮捕された農民の解放をもとめる1500人が,町に進出してきた海兵隊駐屯部隊20名と対峙.海兵隊の発砲により死者24名負傷者51名を出す.

12月 ニューヨークタイムズ,「ハイチの赤色分子と結託した共産党員500人が,ニューヨーク市警と激突した」と報道.パリでは米国の集団虐殺を非難する報道が支配的.国際連盟への提訴を訴える論調も出現.イギリスの新聞は,直接の発端は些細なことでも,背後に米国の長期占領に対するハイチ国民の憤激があると指摘.

1930年

2 フーバー大統領,内外の批判に答えフォーブズ調査団を派遣.W.カメロン・フォーブズは前フィリピン弁務官.国内は使節団訪問を機にふたたびストが発生するなど騒然となる.

5.15 ルイ・ボルノの任期が終了.Louis Eugene Royが暫定大統領に就任.

11.16 15年にわたりハイチに君臨したヘンリー・ラッセル将軍が引退.

ヘンリー・ラッセルの更迭: ハイチ暴動事件の調査に当たったフォーブス調査団は,占領下でのハイチの経済状況改善を賞賛する一方,政府機関や警察隊からハイチ人が排斥されている現状を批判.「ハイチに混乱をもたらした原因は依然残されている.貧困,無知,そして自由な政府の伝統の欠如がそれである.一言で言って,ハイチは占領前に比べ少しも改善されていない」と述べる.これを契機にフーバー大統領はラッセル更迭とハイチ撤退を決意.

11.18 ジョセフ・ヴァンサン(Stenio Joseph Vincent)が大統領に就任.ヴァンサンは元弁護士,外交官で国民党党首.反米・ハイチ民族主義をかかげ米国軍撤退を要求してきた経歴を持つ.

33.8.07 ハイチの独立に関する条約が調印される.アメリカ政府,ハイチに対して1年後の米軍撤退を約束.

1934年

7.05 ルーズベルト,現役大統領として初めてハイチ(Cap Haitien)を訪問.善隣外交を宣伝.バンサン大統領と会談し1カ月後に海兵隊を撤退させることで合意.

8.06 ハイチ警察の米国による監督制度廃止.警察のハイチ化を進めることとなる.ジャック・ルマンらハイチ共産党創設.ただちに弾圧を受ける.

ジャック・ルマン: 1907年、首都のムラート系大地主の家に生まれ、ヨーロッパに留学し、マルクス主義に触れる。ハイチの貧困問題を人種問題ではなく階級問題として捉え、黒人労働者が「アフリカの記憶」を超克し、白人労働者とも連帯して戦うよう訴える。

8.14 海兵隊員の最後の部隊がハイチを撤退.最後の弁務官ノーマン・アーマーが辞任.米国による占領統治が正式に終了.中央銀行は引き続き米輸出入銀行の統制の下に残される.

10.01 ドミニカの海兵隊,引き揚げ開始.

1935年

6.02 ヴァンサン,大統領の権限を大幅に強化する新憲法を強行採決.国民投票で批准される。大統領任期が41年までの6年間延長される.41年の大統領選挙は国民の直接投票によって行われることも決まる.

36 新憲法下に大統領選,ヴァンサンがふたたび大統領に.反対勢力を弾圧し検閲制を実施.身内の商人と軍人が私腹を肥やす.

1937年

10 (ド)米国系砂糖きび農場で,ハイチからの出稼ぎ労働者によるスト発生.これをきっかけにトルヒーヨは婦女子をふくむハイチ人みな殺し作戦を指示.国境の「みな殺し川」以東に住むハイチ人1.5~2万人(一説に5万人)を虐殺.ハイチとの関係断絶.作戦終了後もなお6万人のハイチ人が居住.政府は企業主にハイチ人雇用を強制.

38 「黒人主義」(noirisme)を先導する『グリオ』(西アフリカの口頭伝承者という意味のフランス語)誌が創刊される.黒人医師F.デュバリエも同人の一人として参加.ノワリスムはネグリスモをハイチ風に矮小化・卑俗化したもので,ムラートを排撃し,黒人唯一主義をうたうもの.

39 デュバリエ,混血系の富商の娘で看護婦だったシモーヌと結婚.ポピュリスト系の「労農運動」党を離れ,上昇志向に乗る.

1941年

1月 ヴァンサン,三選目を狙うが米国の強硬な態度の前に断念.ムラート出身のエリ・レスコー(Elie Lescot)がトルヒーヨの秘密援助を背景に進出。

4.15 レスコー、議会の信任を得て大統領に当選.

5.15 レスコが大統領に就任.みずから国軍最高司令官の兼務を宣言.急進派の懐柔をはかりつつ体制のムラート化を進める.ルマンは追放を解かれ帰国した後メキシコ大使として転出.

12.08 ハイチ,日本・ドイツ・イタリアに宣戦布告.反対派を弾圧,検閲制を実施するなど独裁姿勢を強める.反ブードゥーキャンペーンを展開.「ノワリスト」グループはレスコの独裁的傾向に抗議.

41年 ジャック・ルマン、支配層による「迷信撲滅運動」に反対し、民俗信仰を擁護するたたかいを展開。

44 反レスコ行動高揚.社会救済委員会が先頭に立つ.闘いの中で元共産党員を中心に人民社会党結成.ブラウダー主義者はこれとは別に共産党を再建.ダニエル・フィニョール(Pierre Eustache Daniel Fignole)らは労農運動(MOP)を創設.フィニョールは下層階級出身の高校の数学教師(一説にハイチ大学教授)で,ポピュリスト的傾向を持ち,煽動家とも評価される.

45.12 再選をはかるレスコ,憲法を修正.反対派の新聞ラルーシュ(蜂の巣)社を閉鎖し編集長(共産党員)を逮捕.人民社会党(共産党)の指導する学生の抗議ストは,公務員,教員,商店主も参加するゼネストに発展.紛争に対し軍は中立的立場を堅持.

1946年  進歩派のエスティメ政権

1.10 ポルトープランスで反レスコー派のデモ。政府軍の攻撃により数人が死亡。米軍占領以後,レスコに至るまで,支配層をムラートが占めたことに対する,黒人層の反発が背景にあったとされる.

1.11 大統領警護隊長のポール・ユジェーヌ・マグロワール少佐らが反乱を開始。米国大使館,左翼に寛容な態度をとるレスコに対する不快感を表明.直後にレスコは辞任の意を表明.

1.12 フランク・ラボー大佐(Franck Lavaud)を議長とし,アントワヌ・レベル少佐の3人からなる軍執行委員会が権力を掌握.人民社会党を含む左翼政党が合法活動を許される.ブラウダー派「共産党」は自主解散.

5.12 国民議会選挙.共産党からはフェリックス・ドルレアン・フスト・コンスタンなどが当選.カリスト前司令官も労働者農民運動(MOP)の候補として立起し,当選をかちとる.

8.16 議会,国軍監視下に大統領選挙.2回にわたる決選投票の末,北部農民と都市中間層の支持を受けた中道左派のデュマルセ・エスティメ(Estime, Dumarsais)が,フィニョールを破り当選.エスティメ(46歳)は黒人の教師出身で,ヴァンサン政権時代に議員,閣僚を務めた.

11 新憲法発効.エスティメは所得税導入,最低賃金引き上げ,労組組織化の奨励,社会福祉制度の整備,中央銀行の国有化,教育制度刷新などを実行.フランソワ・デュバリエは労働・公共保健長官を歴任.アフリカ黒人の伝統を賛美する文化人として評価されていた.

46 ルマンの「水を制する者たち」発表(ルマンは44年死去).自立的農業発展の展望を国民に指し示す.外国人の土地所有に反対し,農民の協同組合結成が奨励される.

46 デュバリエとドニ,『ハイチ史を通してみた階級問題』を発表.混血エリートの伝統的優越性は経済的理由によるよりも民族的,人種的な現象であり,黒人系中間階級は自らの権利を主張し,混血の手にあるヘゲモニーを打破すべきであると主張.ムラートとの対立を煽る.

47.3 エスティメ,軍の最高実力者ラボーを少将に昇格.米国の軍事援助をとりつけるなど,軍部の懐柔に力を注ぐ.

48.2.11 エスティメ,人民社会党を非合法化。これにより米国の非難をそらす一方,労組・学生組織との友好関係を結ぶことにより地位の確保をはかる.フィニョールも入閣,エスティメ政権と結びつきながら労農運動(MOP)を拡大.ポルトープランスのスラムを根城に勢力を拡大.

49 ポルトープランスで万国博覧会が開催される.

1950年  マグロワールの軍事独裁

4 エスティメ,再選を禁じた憲法を改正し,大統領選挙での再選を図る.ポール・マグロワールら軍部の黒人エリートと結びついたムラート支配層は,エスティメ追い落としを図る.左右両派の挟撃を受けたエスティメ政権,ゼネストにより危機に.

5.10 ラボー少将,マグロワール大佐により辞任を迫られたエスティメ大統領,ジャマイカに亡命.マグロワールら三人の軍人による暫定軍事評議会が成立。

5.11 黒人エリート層とムラート層による政府評議会が成立.

10.8 軍事評議会,直接投票による大統領選を実施すると発表.マグロワールはフンタを辞し「労農運動」を結成。出馬に備える.旧エスティメ派からはフェネロン・アルフォンスが出馬。

12.06 マグロワールが99%の得票で大統領に当選.社会調和を掲げるが,実際はムラート上層部と結託し腐敗した独裁政権.この選挙から女性をふくむ直接公選制度が実施される.

51.1.1 マグロワール,人民社会党と労働者農民運動の活動を禁止.フィニョールら指導者を投獄.

53.12 ムラート支配層の一部が,「社会調和」を説く軍部(黒人層)に対し反乱.

53年 日本とハイチ,国交を樹立.ハイチはアメリカのエキゾチックな観光地として発展.トルーマン・カポーティ,アーヴィング・ベルリン,ノエル・カワードらが長期滞在.

1954年

1.09 ダニエル・フィニョールに率いられたMORが反乱。171人が逮捕される。

1.10 独立150周年式典.コーヒー景気に支えられ,未曾有の好況を呈する.市街地の再開発,道路・大規模ダム・公園・聖堂の建設などが続く.

4.16 マグロワール大統領、ダニエル・フィニョールら反乱参加者への大赦。

5 アセール(Hazel)台風に対する国際援助を支配層が着服し国際問題となる.マグロワール大統領,MORなど反対派の抗議行動を制圧.5人の代表からなる評議会に移行.ジョセフ・ネムール・ピエル・ルイ裁判長が評議会を代表する.

 

デュバリエ独裁の時代

1956年

12.06 マグロワール,憲法を改正し再選を図る.政治家,労組活動家などがマグロワール退陣をもとめ街頭行動.

12.07 ポルトープランスで爆弾テロが発生。マグロワールは戒厳令を発し国会を解散.

12.12 抗議のゼネストが市街戦に発展する中で,アントニオ・ケブロー将軍(Antonio Thrasybule Kebreau)による軍事クーデター.マグロワールはジャマイカに亡命.

12.15 ピエール・ルイ(Joseph Nemours Pierre-Louis)が暫定大統領に就任.アントニオ・ケブロー将軍,評議会を代表し翌年に選挙をおこなうと宣言.

1957年

2.03 ピエール・ルイが大統領を辞任。軍事評議会の選挙サボと居座り策動に対する抗議行動続く.

2.07 大統領選挙が実施できないまま,シルヴァイン(Franck Sylvain)が後継暫定大統領に就任.MORは独自の政党として社会民主党を結成.フィニョールが委員長に就任.労働者・市民層の圧倒的な支持を獲得.エスティメ政権の閣僚だったフランソワ・デュバリエは黒人運動「グリオ」を組織.軍部黒人層と結託しながら勢力を伸張.

3.30 シルバイン大統領、国民議会の解散を通告。

4.01 政府の無能ぶりに業を煮やしたカンターブ(Leon Cantave)参謀長が自ら政権を掌握.政府執行評議会を創設する.議長にLeonce M. Bernard.その後も日替わりで暫定大統領が交代.

5.18 警察、ポルトープランスでデモ参加者に発砲。二人が死亡。

5.20 カンターブ参謀長,自ら創設した政府執行評議会を解散し二度目の政権掌握.

5.26 あいつぐゼネストに業を煮やした軍事評議会は,フィニョールMOP委員長(43歳)の大統領就任を受け入れ,事態の解決を図る.フィニョールはハイチ新憲法公布.二院制を敷き大統領再選を禁止.

6.14 ケブロー将軍,クーデターによりフィニョールを追放.自ら軍事評議会議長に就任.これに抗議する民衆に対し,軍は苛酷な弾圧で臨み支持者千名を虐殺.フィニョールは米国に亡命.マグロワール追放後,1年間で5つの臨時政府と7人の大統領があいついで交代,50人以上が殺されるなど混乱.

9.22 国会議員選.ムラートの実業家で寡頭制の代表ルイ・デ・ジョワイエ上院議員と,反共中道派の黒人フランソワ・デュバリエの対決となる.選挙ではエスティメ「革命」の継承を唱え,黒人中間層と地方農民を味方につけたデュバリエが,上院の全議席,下院議席の2/3をしめるなど大勝利.キューバのプリオ・ソカラス前大統領とも結び勢力を伸張.

10.1 国連総会.安保理非常任理事国にパナマが選出.

10.22 デュバリエが大統領に就任.当初は国民のための福祉政策を推進し,医師の資格を持つことから「パパ・ドック」と親しまれる.

1958年

3 デュバリエ,進歩的政策を打出すが突然転換.すべての反対派をマグロワールの手先と非難.デジョワイエは国外亡命.

5.02 デュバリエ、非常事態を宣言。議会を解散,キューバ人を追放し猛烈な暗黒政治をひく.

7.28 デジョワイエに雇われたマイアミのならずもの8名,「モリーC」号に乗り込みポルトー・プランスに侵入.一時大統領官邸を占拠するが,全員射殺される.

7.29 デュヴァリエに対するクーデター計画が発覚.一斉弾圧が行われる.デュバリエは全権を掌中にする独裁者となる.

10.26 最高裁、クーデターを図った三人に対し死刑を宣告。

12 デュバリエ,参謀本部スタッフ全員を更迭し腹心に換える.大統領警護隊を軍エリートとして養成.さらに大統領直属の秘密警察を育成.3千人の私服警察と5千人の警察隊を私物化.

58年 デュバリエ・ビル建設の名目で寄付を強要.これを拒否した英国大使は国外退去を命じられる.結局ビルは建たず,寄付金はデュバリエ一家の懐に入る.(G.グリーンの「喜劇役者」を見よ)

58年 米海兵隊,ハイチで5年間にわたり軍の訓練にあたる.

1959年

5 デュバリエ,糖尿病に心筋梗塞を併発,危篤状態に陥る.米海軍はグアンタナモの医療チームを機密理にハイチに派遣.30日間にわたる集中治療により救命する.

8.13 ハイチ人民社会党の流れを汲む国民合意党 (Parti pour l'Entente Nationale-PEP)が再建.地下活動を開始.アルジェリアFLN出身のキューバ軍ゲリラ教官エンリケ・フェンテス,30名の兵を率いて上陸,ゲリラ戦を開始.

9.03 米州機構平和委員会、ハイチに実情調査団を派遣。

59 デジョワイエ元上院議員らによる反デュバリエ闘争もりあがる.デュバリエは,デジョワイエ派国会議員数十名の銃殺でこれに応える.

1960年

8月 共産党員作家J・S・アレクシ,ハイチ左翼を代表してモスクワの81カ国共産党会議に出席.その後キューバにわたりハイチ進攻の機をうかがう.

11.22 ポルトープランスで学生の反デュバリエ行動。デュバリエは戒厳令を公布。教会が学生のストライキを援助したとしポアリエ大司教と2人の司教を国外追放.バチカンはデュバリエを破門.

1961年

1.14 デュバリエ、戒厳令を解除。学生スト長期化し反デュバリエ運動激化.

4.07 デュバリエ,憲法を改正.大統領再選を可能にし,二院制を廃止.

4 作家のアレクシ,反政府ゲリラに参加.ボートでMole St Nicholasに上陸し反政府蜂起を試みる.Tontons Macoutesによって捕らえられ,町の広場で拷問されてから殺されたという.

5.01 大統領選.デュバリエが自称132万票対ゼロ票で当選.デュバリエ,ただちにすべての新聞社を閉鎖.

1962年

62 デュバリエ,秘密警察にくわえ,都市の黒人貧困層・地方地主の傭兵などを国民安全自警団(VSN)として改組.民衆弾圧と指導者暗殺を専門とする.民衆からはトントン・マクートと呼ばれ恐れられる.VSNの兵力は軍の2倍に達する.彼の統治下で3万人が政治的理由により殺害されたという.

トントン・マクート(tonton makouts) ハイチに伝わるアフリカ系のお伽話に出てくる意地悪なお化けおじさん.背中に袋を背負い,寝ている子供をさらっていく.

62 ハイチ政権の腐敗や抑圧政策に反発したケネディ,大部分の軍事・技術援助を停止.

1963年

4.16 バルボーを指導者としたハイチ陸軍士官らが反乱.デュバリエの子供を誘拐しようと計画.未然に発覚し,ペションビルのドミニカ代表部に逃げ込む.

4.26 大統領警護隊はドミニカ大使館に強制的に侵入し,犯人を逮捕.この作戦で数人が死亡。

4.29 ハイチとドミニカ共和国,外交関係断絶.ドミニカは軍を国境に配置し侵入の構えを見せる.しかしボッシュの急進的姿勢に警戒感を抱くドミニカ軍部が行動を渋ったため,侵攻計画は不発に終わる.

4.29 ケネディ,ハイチ援助計画を停止(2年後のドミニカ紛争時にジョンソンにより解除).軍事援助を停止。

5.06 反政府ゲリラ,デュバリエの親衛隊を襲撃,45人を射殺.政府は戒厳令を公布.米国はデュバリエ退陣を要求し海上からハイチを圧迫.ハイチは国連安保理にドミニカ共和国による干渉問題を提訴.安保理は問題処理をOASにゆだねる.

5.08 OAS特別理事会,ハイチ・ドミニカ共和国紛争で事実調査委員団に引き続き,調停委員団派遣を決定.

5.17 米国、ハイチとの国交を破棄。デュバリエは憲法停止,米国大使および海兵隊を追放.米国はいっさいの財政援助を停止.

6 ハイチ人民統一党(共産党),人民抵抗委員会全国連盟,民族解放人民党が民族解放民主統一戦線を結成.「国内に存在する現政権を革命的に打倒し,民族民主人民政権を樹立する」ことを基本的任務に掲げる.

7.13 政府軍は、Cazeauの近くでハイチ民主勢力委員会(Comite des Forces Democratiques Haitiennes:CFDH)の幹部10人を殺害。

7.15 CFDHの部隊、ペチオンビルとケンスコフ(Kenscoff)で政府軍と衝突。65人の死者を出し壊滅する。

8.05 カンターヴ(Cantave)を司令官とする反デュバリエ派ゲリラ,ハイチ北部に上陸し蜂起を試みるも失敗.

8.06 ハイチ政府、外国勢力の干渉に関して米州機構に提訴。

8.06 米国艦隊が2週間にわたりハイチ近海に動員される。

8.15 ドミニカ国境から反乱軍部隊が侵入。まもなく政府軍により壊滅。

8.22 ハイチ議会、デュヴァリエ大統領に非常大権を与える。

1964年

4.01 デュバリエ,憲法を修正し終身大統領を宣言.独裁体制確立.国旗を変更.従来の国旗は,三色旗から白い部分を削除した図柄.青は黒人,赤は混血を象徴する.デュバリエは黒と赤に変え,黒を赤の上に持ちあげる.C.R.ジェームズはこれを「低俗な人種主義」として強く批判.

64 ウィリアム・レガラ将軍のひきいる軍,数百名を「共産主義者」の疑いで虐殺(ジェレミーの虐殺).

67 デュバリエ,ハイチ統一共産党を弾圧.テオドルら国内幹部が海外亡命.テオドルの祖父ダビルマル・テオドールは20世紀はじめ大統領を務めた.

68.5.20 亡命者部隊が侵入を試みる。5人が殺害され、失敗に終わる。ハイチ政府は反乱部隊を支援したとして米国を非難。

69.4 民主統一党(PUDA)と人民協調党(PEP),武装闘争によるデュバリエ打倒をめざしハイチ共産主義者統一党(PUCH)を結成.ジャック・ルマンの教えを継ぐルネ・テオドルが指導.政府の弾圧により中央委員はひとりを除きすべて虐殺される.

1970年

4.24 海軍の一部による反乱起こる.デュバリエ,米国に支援を要請,これを鎮圧する.首謀者9名が処刑される。デュバリエ政権による反政府派の処刑者は2千名にのぼる。

1971年

1.22 デュバリエ,息子の「ベビー・ドック」ジャン・クロード・デュバリエを後継者に指名.当時18歳。

2.22 国民投票で,大統領の適格年齢を40歳から18歳に引き下げる憲法修正が成立.賛成239万票,反対ゼロ.

4.21 デュバリエ、ポルトープランスで死す.ジャン・クロードが19才で大統領に就任.実際の政務はプレイボーイのジャン・クロードに代わり母親シモーヌが勤める.米国,ハイチへの援助を再開.「第二の台湾」を目指し,農業から軽工業生産品輸出への経済振興策を打ち出す.積極的な経済政策により一時経済は回復に向かうが,石油ショックで破局.

72 中央高原の町アンシェ郊外のパパエで,ジャン・バチスト・シャバンヌが中心となり農民組織を結成.のちにパパエ農民運動(MPP)に発展.多くの共同体グループを組織.

73.1.23 クリントン・エヴェレット・ノックス米国大使,三人組の誘拐犯に捕らえられる.誘拐犯はハイチ政府にFort Dimanche監獄の政治犯31人の解放,7万ドルの身代金,脱出に必要な飛行機の手配を要求.政府は12人の解放に応じる.飛行機は夕方6時,メキシコに向け飛び立つ.http://www.fordi9.com/Pages/AffaireKnox.html

73年 米国、ハイチに対する経済制裁を解除。

73 農民運動全国組織テト・コレ(TET KOLE TI PEYIZAN)結成.

74 チャグアラマス条約締結.カリコム発足.共同関税を設け,IMF,EECなどの援助のもとに経済開発を進める.

75.1 LA経済機構(SELA)設立,キューバも含めた統合実現.OAS理事会も対キューバ交流について「行動の自由」を認める.

76 パパエ農民運動,地方自治官の不当な税徴収に抗議する行動.自治官の追放に成功し,全国に名を知られるようになる.

76 カーター大統領,人権外交を展開.経済援助と引き換えに人権問題での改善を迫る.ハイチ政府は新聞などの言論,労働組合・政党の活動への弾圧を緩める.

1978年

4 デュバリエ,国内外の反対運動に対抗してジャン・クロード国民委員会を結成.ジャン クロード主義を宣言.パパ・ドックの「政治革命」に対して「経済革命」を目標に掲げ,米国などから援助や投資を引き出して近代化・工業化を図る.

8.16 米州人権委員会(IAHRC)、ハイチに調査団を派遣。

1979年

3 ハバナで第7回非同盟諸国首脳会議開催.

5 米国,人権抑圧を理由に対ハイチ援助をうちきり.

7.05 シルビオ・クロードら、キリ民党(Parti Democratique Chretien d'Haiti - PDCH)を創設。

79年 国外で共産党大会.テオドルが書記長に就任.

1980年

5 ジャン・クロード,ムラートの財閥の出身ミシェル・ベネットと結婚.パパ・ドック時代の「黒人主義」のスローガンを実質的に放棄.黒人層の精神的支柱であった母親のシモーヌは,ミシェルの不興を買い国外に放逐される.これを機に黒人旧支配層との紐帯が薄れ,若手ムラート官僚層の影響か強まる.

ミシェルの父エルネストは,悪徳商人として獄につながれたこともある人物.ジャーナリストでもあり、「ジャン・クロード主義」、「愛の政治」などの政治スローガンは彼の手になると言われる。
ミシェルは浪費家で,ニューヨークで一日で1億円の買い物をしたという.結婚式に3百万ドルをかけたことも,これまでの支持層である黒人層の反感を買う.

11.28 キリスト教社会党,キリ民党など中道政党を含む反政府勢力が,「ハイチ人権同盟」を結成.政府はこれに対して大規模な弾圧.キリ民党委員長シルビオ・クロードは5年間に8回逮捕され拷問を受ける.ハイチ・インテルも襲撃を受け,ジャン・ドミニクはベネズエラ大使館に逃げ込む.この頃から脱出がブームとなる.数万の人々がボートに乗って米国やバハマに脱出.

80年 ベベ・ドック,低賃金維持に基づく対米従属的な工業成長(カリブの中の台湾化)をめざす.経済の開放と資本自由化により,米国化の傾向が加速される.

「経済革命」の帰結
エリート層が富裕化した反面,米国からの「援助」や輸入による安価な食糧が流入し,小農によるトウモロコシや米・キビ類の自立的生産基盤を掘り崩す.
一方で,企業進出による雇用創出効果は限定され,首都ポルトー・プランスへの人口集中とスラム化を促す.この時点で労働人口の8割が失業.一人当たり国民総生産は380ドル.乳幼児死亡率は133%,平均寿命は55歳にとどまる.文盲率は85%に達する.ドミニカではサトウキビ刈りのハイチ人が1人3.3ドルで取引されているとの報告もある。

1981年

8 昨年逮捕された野党指導者のうち6名に対する裁判.22名に対し懲役15年の判決.

81年 チレグリズ(Ti-legliz)と呼ばれる協同組合運動が拡大.全国で2千を越える.チレグリズは小さな教会という意味で,キリスト教基礎共同体を核とする協同組合づくりと識字運動.

81年 IMF,ハイチ財務省に2200万ドルの信用供与.その2日後に,IMF監視団はデュヴァリエが,このうちの2000万ドルを個人的な利用のため引き出したことを確認.

81年 ドミニカ共和国でアフリカ豚熱が流行.米国やカナダからの圧力により,ハイチのすべての豚が屠殺される.これに代わり米国産の白豚が導入されるが,飼料や施設の点で相当額の投資が必要なため,小農を苦しめる.

1982年

12 ハイチ宗教家会議のシンポジウム,ハイチの現状を「分裂,不正義,悲惨,飢え,不安,失業,農民のための土地不足,家族の離反,不十分な教育制度」と規定.デュバリエ体制の犠牲となった人々こそキリストを代表すると主張.

1983年

1.09 反乱部隊が侵入。政府軍4人、反乱部隊8人が死亡。

3 ヨハネ・パウロ2世,ハイチを訪問.「この国では何かが変わらなければならない」と,ハイチの現状を厳しく批判する.

4.07 トゥーサンの没後180年を記念して、遺骨がハイチに返還される。

8 カリブ開発構想を具体化した「カリブ地域経済再建法」,米議会で承認される.

カリブ地域経済再建法: 中米およびカリブ地域の27ヵ国に特恵待遇を適用.受益国からの米国輸出に対し12年間にわたり関税免除.同地域の生産品の米国市場参入を容易にし,輸出志向型経済の発展をうながすとともにカリブ海をとりまく事実上のドルブロック形成をめざす.現実の援助はジャマイカとドミニカに集中.その後の経過では実効はほとんど上がらず,共産主義国家は対象からはづれるなど,たんなるニカラグア,キューバいじめに終わる.

83 カトリック司祭のジャン=マリー・ヴァンサン,ハイチ北西部のジャンラベルでテタンサム(Tet Ansanm)と呼ばれる自助組織を結成.テタンサムとはクレオール語で「頭を集める」という意味.NGOの協力を受け識字・保健・農業技術の面で成果を重ね,一万人を数える組織に成長.

83年 米国疾病管理センター(CDC),エイズの危険なグループとして「4H」を挙げる.すなわちhomosexuals(ホモ),heroin addicts(ヘロイン), hemophiliacs(血友病), Haitians(ハイチ人).米国は厳しい反ハイチの出入国管理政策を適用.ハイチの観光業界は致命的な被害を受ける.

ハイチのエイズ感染率は4~6%とされる.地方では13%に達する.約30万人がエイズに感染している.またハイチは結核感染率においても南北アメリカで最高となっている.
人口1万人あたり医師は1.2人,看護婦は1.3人,歯科医は0.04人に過ぎず,しかもそのほとんどが都市に集中している.ハイチ人の4割は医療の機会を完全に阻まれている.乳幼児死亡率は80パーミリ,平均寿命は49.6歳にとどまる.

1984年

5 米国からの援助食糧の不当配分が原因となって暴動発生.弾圧により40人が虐殺.

84年 Jean-Rabeauで土地をもとめる農民のデモ.農民200人以上が虐殺される.

84年 ローマ法王の発言を受け,ハイチ司教会議が識字運動への取り組みを決定.各地で若手カトリック神父たちがチ・コミノテ・レグリズ(小教会基礎共同体)を結成.農民や労働者の組織に乗り出す.

1985年

1月 アリスティド神父,モントリオールでの聖職を辞し帰国.ポルトープランス市内のスラム街に配置され,教会基礎共同体運動に飛び込む.「小さなティド神父」と呼ばれ住民の信頼をかちとる.

アリスティドは1953年,南部ポーサルーの生まれ.ポルトー・プランス,カパイシアンのサレジオ会で学んだあと,ドミニカで聖職叙任.さらにカナダ,ギリシャ,イスラエル,イタリアで学ぶ.

2 青年6万がポルトープランス市街をデモ.「われわれは身を屈して生きるよりも死を選ぶ」「われわれこそ教会であり,教会はわれわれのものだ」と叫びながらデモ行進.軍隊の発砲により4人が死亡.

7.22 国民投票.99.98%の支持によりデュバリエの終身大統領制を再確認.

9 司祭に叙せられたアリスティド神父,ミサで説教,「ロバだけが働き,馬は日向で跳ね回っているような体制」を批判.

アリスティドが配されたのは,首都のサンジャンボスコ教区の聖ヨゼフ教会.この教区は首都を取り巻くスラムのひとつラサリーヌ街を含んでいる.有名なシテ・ソレイユとは別のスラム.

10 ゴナイーブで食糧配給を求める民衆のデモ,暴動に発展.食糧倉庫が略奪にあう.その後3カ月のあいだに暴動はカプ・アイチアンなど北部全体に波及.ゴナイーブのキリスト者グループ(ティ・レグリ),独裁者と結びついた教会上層部を非難.指導者ジャン・タトゥーンは91年にはフラップの指導者となり,数々の虐殺事件を指揮.

11.27 ゴナイーヴで学生デモに軍の発砲.学生4人が死亡.これに抗議する行動がたちまち全国に拡大.大規模なデモンストレーションが2ヶ月にわたり続く.アメリカ,フランスもデュバリエ独裁政権に圧力.

12 デュバリエの腹心であるアンリ・ナンフィ陸軍司令官(Henri Namphy)と,ウィリアムズ・レガラ大佐を中心にクーデターの陰謀を開始.

85年 米国疾病管理センター(CDC),関係者の激しい抗議を受け「4H」からハイチを外す.

 

1986年 デュバリエ政治の崩壊

86年1月

1 南部でも反政府の蜂起が発生.Les Cayesを中心に拡大.ジャン・クロードは食料価格の1割引き下げを約束する一方,蜂起に対しては徹底的な弾圧で望む.ハイチ政情不安を受け,レーガンはデュバリエに圧力.エドワルド・セアガ首相を代表に米国との交渉.

1.29 米国は「大統領国外逃亡,軍民政権樹立」と発表.デュバリエ,米国の圧力の前にいったんハイチ退去を承諾する.

1.30 居座りをたくらむデュバリエ,全土に30日間の非常事態宣言を布告.放送局,国際空港閉鎖.全国各地で自然発生的な暴動.首都ポルトー・プランスでも街頭行動が激しくなる.

1.31 米政府,ハイチ援助を凍結すると発表.発表の直後ポルトープランスは暴動状態となる.ナンフィとレガラはデュバリエに退去勧告.米政府はデュバリエなき親米政権発足による延命を計る.

86年2月

2.07 ミシェル夫人の遊蕩ぶりに国軍からも愛想を尽かされたデュバリエ一族,米軍機でマイアミに亡命.その後フランスに亡命.25年にわたるデュバリエ独裁政治は終焉.

デュバリエ独裁の29年間に2万ないし5万人が政府の手で殺害された.5人に一人が海外での亡命生活を余儀なくされる.

2.08 政府国家評議会 (Conseil National du Gouvernement - CNG) 発足.アンリ・ナンフィ将軍を議長とし,レガラと三人の民間人から構成される.

2.09 政府国家評議会,閣僚19人からなる新内閣発表.政治犯全員の釈放と一院制の国会解散を決定.トントン・マクートを解散.

2.18 米政府,デュバリエ前ハイチ大統領の亡命受入れを拒否.

3.19 ポルトープランスで民主化を要求するデモに弾圧。10人が死亡。

86年4月

4.15 スイス政府,デュバリエ前大統領がスイスの銀行に所有する全資産を凍結したと発表.

4.26 ポルトープランスで,軍主導の統治に反対する約1万人のデモ.軍の発砲により6人が死亡.

5 ジャンラベルのテタンサン農民組合員,地域の有力者リュカス家に対して奪われた土地690ヘクタールの返還を求める.リュカス側は農民を共産主義者と呼び対立.ルカスは村を焼打ちし農民16人を虐殺することでこれに応える.

86年6月

6.5 反政府デモ,全国的規模に拡大.各地で軍と衝突する中でナンフィ国家閣僚評議会議長は「無政府状態にある」とする緊急声明を発表.

6.08 ナンフィ暫定政権,制憲議会選挙を1年以内に実施すると発表.

6.10 閣僚の罷免を求めるゼネスト発生.

9 シテ・ソレイユの識字運動,アルファ計画の指導者シャルロット・ジャックリーン,警察・軍により自宅から連行され,行方不明となる.

86年10月

10.08 欧州共同体(EC)、490万ドルの経済援助を提供。

10.19 制憲議会選挙.

11.17 ポルトープランスでデモ隊と政府軍が衝突。2人の死者を出す。

86年 共産党のテオドル書記長,ハイチに戻る.「民族再建運動」(MNR)創立し,青年や都市貧困層のあいだに支持を拡大.カトリック系の大衆組織と主導権を争う.

86年 マグロワール元大統領,亡命先のニューヨークから30年ぶりに帰国.

 

1987年

1 民主主義運動の全国大会に三百の民衆組織を代表する千名が結集し,3日間にわたる会議開催.コナコム(のちの57人委員会の母体),FNCの結成へとすすむ.

2.03 世界銀行からの新規融資が決定。

3.29 新憲法,国民投票で99.81%の「圧倒的」支持.デュバリエ派の排除,大統領の任期を一期限りとする,地方分権を促進することなどが謳われる.クレオール語とブードゥー教が公認される.大統領選に向け,選挙管理委員会設置.

3月 ポルトープランスの貧民街ラ・サリーヌで,民衆組織代表900人を結集し,全国人民議会(APN)の結成総会.

6.29 57人委員会の指導下に,ナンフィ退陣をもとめ7日間にわたるゼネスト決行.スト期間中に23人が死亡.

6月 小教会共同体が組織した草の根組織テットアンサンム(頭を寄せ合って),デュバリエ追放後に急速に勢力を拡大.ジャン・マリー・バンサン神父が指導し,北部地方を中心に加盟者数は1万人を超える.デュバリエ時代に強奪された農地の回復を求め闘争を展開.ルーカス一家ら大地主たちは,農民に対し脅迫,家屋の焼き討ち,強制立ち退きなどで弾圧.

7.02 ナンフィ議長,選挙布告を撤回.8月に予定されていた地方選挙の中止を決定.「トントン・マクート」,ナンフィの庇護の下に公然活動再開.その後の三ケ月で数百人が犠牲に(流血の夏).57人委員会は国民協調戦線(FNC)に改組し,地下に潜る.

1987年7月 ジャンラベルの虐殺

7.04 選挙中止に抗議する大規模なゼネスト.政情混乱の状態に.

7.24 グアンタナモ基地と向かいあう北西部のジャンラベル村で,農民団体テタンサンム2千5百名がデモ.地主側の雇った暴力団の待ち伏せテロにあい,女性や子供を含む百名(一説に8百ないし千名)が死亡.

7.28 ジャンラベルの大地主の一人,国営テレビに出演し「我々は千人以上の共産主義者を抹殺した」と犯行を認める.

7.29 ポルトープランスでジャンラベルの虐殺に抗議するデモ。暴力集団の襲撃を受け、8人が死亡。

7.30 7つの放送局がトントンマクートにより同時攻撃を受ける.精力的に事件の全貌解明と当事者の逮捕を訴えるアリスティドに対し死の脅迫.

1987年8月

8.02 ハイチ民主解放運動(HDLM)の指導者Louis Eugene Athis、Leoganeで暗殺される。

8.20 アリスティドの記者会見.「ハイチは自転車であり,それに乗っているのは青年である.権力者は右へ曲がれというが,それは悪い道で我々の死につながっている.我々は腐敗した権力の命令を拒否して,左へ進むだろう.我々の真の誠意と揺るぎなき信念を持って社会主義ハイチを目指すだろう.ただ社会主義のハイチでだけ,人々は食うことができ,正義を見出すことができ,人々は自由に生き,その命が尊重されるだろう」

8.23 アリスティドとジャン・マリー・バンサン神父ら,ポンソンドゥ(Pont-Sonde)でジャンラベル事件の追悼式に参加.ポンソンドゥは中部海岸地帯の町でトントンマクートの拠点.アリスティド,5千の聴衆を前に演説.「われわれは食料と公正を実現するため,歴史を左に展開する駆動輪である.わたしが死んだらあなたがたは進むのをやめるだろうか?」 アリスティドは壇上で狙撃されるが,奇跡的に難を逃れる.

8.23夜 ポンソンドゥからポルトー・プランスへ車で逃亡中のアリスティド,サンマルクとFreycineauでパラミリタリーの検問にかかるが,荷物の下に隠れ死をまぬがれる.その後さらに12回にわたる暗殺の企て.

8月 アリスティド,カパイシアンで説教.「87年憲法は市民に武装する権利を与えた.ルカ書には,剣なきものは宝石を売ってでも求めよ,と書いてある.軍のウージに対抗するのにマチェーテや石棒では足りない.しかしなにもなしで向かうよりは良い」と述べる.

8 シテ・ソレイユでティレグリの活動を広げたアリスティド神父,教会上層部とバチカンとの結託によりローマ転勤を迫られる.この陰謀に抗議し,若手神父がポルトー・プランスのノートルダム聖堂にたてこもる.占拠行動に加わった学生たちがアリスティドの現職復帰とジャンラベル事件の真相解明を要求しハンガー・スト.政府は活動家司祭に対し弾圧.

シテ・ソレイユ(太陽の街)
ポルトー・プランス北部近郊のスラム街.父デュバリエの時代に建設が始まり,彼の妻の名をとり,シテ・シモンと呼ばれていた.デュバリエ失脚後,反政府運動を展開したラジオ・ソレイユにちなんで,シテ・ソレイユと改称された.人口は20万人,首都人口の20%に当たる.失業率は8割に及ぶ.

1987年10月

10.13 キリスト教民主連合党の大統領候補イベス・ボレル,大統領官邸前で記者会見中に警察官に射殺される.他にも一人の大統領候補が暗殺.

1987年11月  大統領選挙の中止

11.3 軍部,選挙に対する本格的な干渉を開始.各地で投票所の焼打ち,選挙人登録の妨害作戦を展開.

11.29 軍に守られた武装集団が投票所を襲う.大統領候補者2人をふくむ50人がテロで死亡.30年ぶりの大統領選は中止においこまれる.

12.01 米国,対ハイチ軍事・財政援助の停止を発表.マスコミ,民主党はOAS軍の進攻を要求.

12.09 軍事評議会,テロで中止となった選挙を1月17日に実施すると発表.民主派は軍の陰謀に抗議し,選挙をボイコット.

87年 パパエ農民運動(MPP)を母体に全国農民運動パパエ会議(MPNKP)が結成される.アリスティド当選時には組合員数10万を数えるまでに成長.

87年 ビクター・ベノイトら民主運動全国会議を創設.クーデター後は合法野党として軍政に側面から協力した.

 

1988年

1.02 フランスもハイチにたいする経済制裁を発動。

1.17 40隻の米艦船,2千4百人の海兵隊が上陸体制を固めるなかで大統領選実施.進歩的民主主義運動全国会議(Rassemblement des Democrates Nationaux Progressistes:RDNP)のレスリー・マニガ教授(Leslie-Francois Manigat),大統領に「当選」.有力候補はすべてボイコット.投票率は5%にも達せず.

1月 アリスティド,National Catholic Reporterとのインタビュー.「選挙は真の解決ではない.それは米帝国主義を満足させるために,大衆を制御するために,権力を握っているものがとる道である.真の解決は革命である.私の役割は,説教をして人々を組織することである。大切なことは,活発に非暴力を行使することである.畳の上で死のうと思わないことである」

2.07 マニガが大統領就任.「民政復帰」が実現.初代首相にはセレスティン(Martial Celestin)が就任.

2月 首都の防衛を担当するカザン・デサリーヌ部隊(約800名)のジャン・クロード・ポール司令官が,市民弾圧と白色テロを通じて実権を握るようになる.ポール大佐は,コロンビアの麻薬カルテルと手を握り,ハイチを密輸中継基地に提供.部隊のほかに元トントン・マクート隊員を集め,「アタシェ」として組織.

3月 マイアミ連邦裁,麻薬密輸の容疑でポール大佐の起訴を決定.米国政府は,ハイチ政府にポール大佐の引渡しを要求.

5月 マニガ大統領,サン・マルク港における密輸と汚職の摘発に乗り出す.駐屯部隊のエルンスト・ラビ司令官は住民3千人をデモに組織して抵抗.司令官のポストを追われる.まもなくナンフィ政権により現職復帰.

1988年6月 ナンフィのクーデター

6.17 米国の意を受けたマニガ,11月事件の黒幕で,麻薬コネクションの元締めであるポール大佐を含む軍人事を拒否.同時にナンフィ前国家評議会議長を参謀長から解任.

6.19 ナンフィは,逆にマニガをクーデターにより放逐.ポルトーフランスの国家宮殿を制圧,全権を掌握.

6.20 ナンフィ前国軍司令官,大統領就任宣言.国会を解散,新内閣を発表.首相職は廃止される.選挙を無期限延期,憲法停止を宣言.ハイチ労働者独立センターを閉鎖し指導者を逮捕.全国で1万4千の労働者が首切り.

7.29 ナンフィの指導下にある死の部隊,首都において一晩で10人を暗殺.

1988年9月 

9.04 38口径ピストルをもつ男が,サンジュアン・ボスコ教会でミサ中のアリスティドを狙い侵入.支持者に取り押さえられる.

9.06 武装集団がサンジュアン・ボスコ教会を襲撃.3時間にわたり銃撃と投石を繰り返す.大規模な襲撃の予告をして解散.

9月11日 ジョン・ボスコ教会の虐殺

朝9時前 刀や銃で武装した数百人の集団,Grand Rue通りを下ってジョンボスコ教会へ行進.主力は市役所のトラックで運ばれる.ナンフィの指示を受けたポルトープランス市長フランク・ロマン(Franck Romain)による犯行といわれる.ロマンは元トントン・マクート幹部.軍と警察もアリスティド逮捕を目的として出動.

朝9時 集団が教会への投石を開始.アリスティドは朝のミサを続行.軍と警察はジョンボスコ教会を包囲したまま,暴力集団の投石を数時間にわたり見守る.

朝10時 暴力集団,機関銃による銃撃の後,正門から教会に入り,扉を破壊しミサの式場に突入.妊婦の腹が突き刺されるなど,礼拝中の信者ら50名が殺され77名が負傷する.防衛隊は蹴散らされる.一部は近くのスタンドからガソリンを持ちこみ建物に火をつける.

朝10時 アリスティドと護衛は,聖具室から中庭を通って住居棟まで避難.ひそかに回された車でペションビルの学校へ避難.

昼 軍と警察が教会の居住棟に入り捜索.目標だった武器倉庫は見つからず.

夜 暴力集団の幹部がテレビに出演.彼らの行為を自慢した後,「戦闘は始まったばかりだ.アリスティドには終止符が打たれなければならない.アリスティドがミサを行う教会はどこでも,死体の山だけが列席することになるだろう.アリスティドは好きなところに隠れていろ.我々が必ず見つけ出して,必要な任務を果たすだろう」 フランク・ロマン市長は,「アリスティドは正当にも懲らしめられた.風に向かって種撒くものは,嵐を収穫することになる」と述べる.

9.17 大統領警備隊の下士官・兵士(チ・ソルダ)がクーデターを決行.国家宮殿でナンフィを拉致,空港からドミニカ行きの飛行機に載せ追放.オメ市長はドミニカ大使館に逃亡.チ・ソルダ,ラジオで「軍と政府内部の腐敗一掃」を訴える.

9.17 首謀者のジョゼフ・エブルー軍曹は元首の座を辞退.このため大統領警護室長プロスペル・アブリル准将(Prosper Avril)に,元首就任を依頼.アブリルは軍幹部としてデュバリエ親子時代に財政を担当してきた.

9.18 アブリル,要請を受け大統領に就任.チ・ソルダはアブリル新政権に4項目の要求.(1)デュバリエ派将校,官僚の追放.(2)デュバリエ派の公職禁止(291条)をふくむ87年憲法の完全実施.(3)新選挙の告示.(4)警察と軍の分離.

9.20 アブリル,ナンフィ派の陸軍司令官など高級将校57人を更迭.

9,23 アブリル大統領,「今後2年半は選挙なし」と言明.民政移管の公約を破り,野党弾圧を強める.

9.25 ハイチ司教会議,アリスティドに対しカナダへの異動をもとめる.これに抗議する民衆はペションビルに向け「祖国清掃」行進を開始.アリスティド,「ナンフィは失脚した.いつか,我々は一緒に手をとって歩く。落胆するな。しかし今はこれ以上話せない」との談話を発表.

9.28 ハイチ司教会議,民衆の抗議を前に,アリスティドに対するカナダへの異動命令を一次停止.

1988年10月  アブリルの実権掌握

10.01 クーデター支持と民主化を要求する市民デモ.正規軍(カザン・デサリーヌ部隊)の弾圧により失敗に終わる.

10.05 ポール大佐,現役引退を発表.あくまでも引渡しを要求する米国政府は,87年11月以来の財政援助凍結を解除せず.

10.10 ハイチ司教会議の要請を受けたローマのサレジオ会本部,アリスティドに国外退去を命令.

10.15 アブリル,クーデターを企てたとしてチ・ソルダ左派のパトリック・ボシャール軍曹を逮捕.14人の兵士も同時に捕らえられる.

10.16 アリスティド,ソレーユ・ラジオを通じて録音テープを流す.

演説の要旨 セントジョン・ボスコの犠牲者は愛で浸されている.彼らはイエスのように倒れた ―祖国を解放するために.民衆の意志は,神の意志である.我々が彼のはるかなる所に達したとき,我々は革命と呼ぶにふさわしいものを手に入れる.
じっと待っているだけでは,将軍が変わっても何も変わらない.我々は金持ち連中の食卓をひっくり返す.我々が歓迎され,そこに座り食べることができないなら.我々はテーブルにつきたい,つくことができる,そしてつくことになるだろう.イエスの御名において

10.17 民衆1万がアリスティドの国外退去を阻止する街頭行動.空港への道を封鎖.アリスティドを支持する聖職者は大聖堂でハンガーストライキ.司教会議は決定を撤回.

11.05 麻薬取引の関与疑惑で起訴されていたジャン・ポール大佐,昼食のあと間もなく「心臓麻痺」で死亡.口ふさぎのため毒殺されたとみられる.

ハイチ軍と麻薬疑惑
米上院外交問題委員会は,87年に麻薬・テロリズム及び国際作戦小委員会(委員長ジョン・ケリー上院議員)を開設.主にニカラグアにおけるCIAと麻薬貿易の関係について調査.とくに武装ゲリラへの資金提供と,そのためにドラッグ・マネーをロンダリングしている疑惑を解明.この過程でハイチ軍指導者のドラッグへの関与が明らかとなり,マイアミ連邦地裁からジャン・ポール中佐が起訴される.

11.12 アブリルの義兄,市内の路上で銃殺体となって発見される.ポール大佐派の復讐と考えられる.

12.08 アリスティドの異動に失敗したサレジオ修道会,アリスティドを破門する決定.

アリスティド破門状の骨子
①憎しみと暴力を煽る政治的発言.教会の教えと真っ向から対決し階級闘争を賛美.②聖体拝領や聖礼典を政治的に利用することで,典礼を冒涜.③聖職者をハイチ不安定化の主役とさせ,絶え間なく教会共同体の統一を混乱.

12.12 ポール大佐は毒殺されたとする検死結果が公表される.

12.15 サレジオ修道会から追放されたアリスティド,ポルトープランスのPaco地区のLafanmi Selavi(一説にLa Saline)で,説教壇のない聖職者として活動を再開.

12.31 アブリル,ポルトープランス市長フランク・ロマンに対しドミニカへの出国を命じる.

 

1989年

3.13 アブリル大統領,制限付で87年憲法を復活.

4.02 軍内反アブリル派のクーデター,失敗に終わる.軍の一部はさらに抵抗を継続.

4.4 大統領官邸周辺で激しい銃撃戦展開.

4.05 アブリル,非常事態宣言と夜間外出禁止令,新聞・放送に対する検閲を実施.

4.08 反乱軍,激しい銃撃戦の末投降.

4月 アリスティド,ソレーユ放送のインタビューに出演.「良いことがひとつある.私が生き残っているということだ.すべての権力者と立ち向かう一人の人間がいるということだ.来るべき選挙で軍による安全保障を期待することはできない.今日なすべきことは我々自身の防衛隊を組織し,民衆に正義を提供することだ」と語る.

8月 米国、ハイチ経済制裁を解除。

 

1990年 アリスティドの大統領当選

1.06 軍大佐暗殺事件.アブリルはこの事件を機に戒厳令を布告.反体制派の弾圧開始.

1.29 アブリル,戒厳令解除を発表.

2 アブリル,台湾より帰国後,野党への大弾圧開始.

1990年3月 アブリルの退陣

3.05 南部の町プティゴウヴで反政府デモ.軍の発砲により11歳の少女が死亡.

3.06 少女射殺に抗議する市民は,軍の弾圧に屈せずストライキを打つ.学校・商店は休業,3千人をこす抗議のデモが通りを満たす.少女射殺事件を機に反政府デモ,各地で暴動に発展.

3.09 アブリル,アルビン・アダムス米大使との会談のあと辞意を表明.IMFの指導による経済政策の失敗と民心離反のため.

3.12 アブリル,米軍機によりマイアミに亡命.

3.12 ヘラルド・アブラム陸軍司令官(Herard Abraham)が暫定首班となり,民間人評議会への権力委譲を表明.

3.13 エルサ・パスカル・トルイヨ(Ertha Pascal-Trouillot)最高裁判事(女性)が臨時大統領に就任.「12月6日の総選挙」を発表.OASと国連が12月選挙の支援に出動.

3.23 ポルトープランスでデモに政府軍の弾圧。17人が死亡。

4月 ダン・クエール副大統領がハイチを訪問.軍リーダーに対し「これ以上どんなクーデターも認められない」と通告.

7月 デュバリエ時代の内務相兼国防相だったロジェ・ラ・フォンタン,追放令を無視して帰国.政府は警察にラフォンタン逮捕を命じるが,警察は指令を無視.

8月 元世銀職員のマルク・バザンが大統領選に立起.カンディダ・アメリカン(アメリカ製候補)と呼ばれる.

10 ラ・フォンタン,大統領選出馬を表明.トントン・マクートをバックに「国民和解のための連合」を結成し,大統領選への干渉をはかる.常任選挙諮問会(CEP),「出生届の不備により」選挙登録を無効と判定.

10.10 国連総会は監視団(United Nations Observer Mission to Verify the Electoral Process in Haiti: ONUVEH)を派遣することを決定。選挙班は43の国193人の選挙オブザーバーより構成され、保安班は6カ国64人のオブザーバー、行政班は26人から構成される。

10.18 アリスティド,大統領選への立候補を表明.中道左派の連合組織「民主主義と変化のための国民戦線」(FNCD)を選挙団体とする.民衆の選挙登録が一気に増加.

10.31 選挙登録の締め切り.有権者の9割に達する.

11月 アリスティドへの支持が高まる.「一人きりでは私たちは弱い.一緒になれば私たちは強い.もっと一緒になれば,私たちはラヴァラス(怒涛)である」を合言葉とする.

1990年12月  アリスティドの大統領当選

12.05 ペションビルのアリスティド派集会で手榴弾爆発.子供を含む8人が死亡,80人以上が重軽傷.トントンマクートはアリスティド当選阻止のため爆弾テロを繰り返し,数十人の死者を出す.

12.16 国連,OASの監視の下で総選挙.アリスティドが67.5%の支持を獲得.米国の支援を受けたマルク・バザンは14.2%にとどまる.ロジェ・ラフォンタンは選管により立候補を拒否される.

12月 米大使アルビン・アダムス,アリスティド当選を喜ぶ民衆に対し,クレオールのことわざを引いて「ダンスの後の太鼓は重い」と,あてこすりの警告.

12月 アリスティドの当選阻止に動いた共産党と「民族再建運動」(MNR),壊滅的な打撃を受け,大衆的基盤を失う.この後中間政党との連合に生き残りをかける.

 

1991年

1.01 独立記念日のミサ.ウォルフ・リゴンデ大司教はアリスティドを過激派と呼び,「ハイチは独裁主義になるだろう」とし,クーデターを賛美する発言.

1.06 トントンマクートの指導者ロジェ・フォンタンによるクーデター.大統領官邸を襲撃し,トゥルイヨ暫定大統領を人質に立てこもる.国営テレビで自ら暫定的な大統領であると宣言.「身の毛のよだつような茶番劇は終わりである.ハイチの民衆は共産主義の独裁に耐える必要はない.軍や警察も我々を支援している.平和的な政権交代が行われるだろう」と述べる.

1.06 クーデターに抗議する数百万の民衆が,国家宮殿を取り囲む.アブラハム陸軍参謀長は米国の強い非難を受けて,クーデター反対の意志を表明.

1.07 政府軍が宮殿を奪回.トルイリョを解放.16名を逮捕.数千の民衆が街頭に出,道路を封鎖.トントン・マクートの本部を襲い,隊員をリンチにかける.さらにリゴンデ大司教の宿舎を破壊.この事件で少なくとも75人が死亡.150人が負傷.

1.27 Lafontantが刑務所から逃げたといううわさが広がる.激怒した民衆は2つの警察署を襲撃するなど暴動.ポルトー・プランス市内で17人が死亡.

2.07 アリスティド,大統領に就任.「私たちは第二の独立を勝ち取るために200年を要した.私たちはいま力を込めて”民主主義か死か”と叫ばなければならない」

2.19 アリスティド,ルネ・プレバル(Rene Garcia Preval)を首相に指名.外務,大蔵,情報の3閣僚に女性を任命.国際機関は総額五億ドルの支援を約束.

ルネ・プレバル: 中流階級出身の農業経済学者.63年にデュバリエにより国外追放された後ベルギーの大学を卒業.1975年から国立鉱物資源(INAREM)研究所に勤務.社会運動に活発に関わる.

2.22 ONUVEHが解散。

2月 アリスティド,ハイチ軍の再編成を発表.セドラス中将を最高司令官に指名する

4.04 ハイチ警察当局,1月のクーデター未遂事件関与の容疑で前暫定大統領エルサ・パスカル・トルイヨ女史を逮捕.

5.18 アリスティド,法相,検察長官人事を発表.軍政時代の抑圧・腐敗の追及に乗り出す.国連の援助で国際犯罪調査訓練援助計画(ICITAP)が開始される.

1991年9月 セドラらによるクーデター

9.25 アリスティド大統領が,国連総会で演説.

9.29 ラウル・セドラ軍司令官(Raoul Cedras)らによるクーデター.大統領官邸でアリスティドを逮捕.軍参謀本部にはCIA要員と米軍情報将校が詰め直接指揮したという.のちにコンスタンはCIA支局長Kambourianがその場に居合わせたと証言.

9.29 クーデター部隊,ラジオ局を占拠して報道管制.スラム街を襲撃し民衆を虐殺.人権団体の調査では1週間の間に1,500名以上が虐殺される.国連は即座にクーデターを非難し,アリスティドの早期政権復帰を要求.ブッシュも軍を非難する声明.しかし人権侵害を理由に,アリスティドの政権復帰には消極的な態度をとる.

9.30 セドラのほか軍参謀長フィリップ・ビアンビ准将,警察長官ミシェル・フランソア中佐からなる軍事評議会が発足.バチカン政庁が,ただちに新政権を承認.EU諸国はハイチへの経済援助を停止.OASは決議1080(サンチァゴ決議)を採択.アリスティドの復帰を要請するとともに,全加盟国にハイチ経済制裁を求める.

1991年10月 民主勢力への大弾圧

10.01 アリスティド,フランス大使の尽力で解放される.大使館に亡命したあと,ベネズエラ政府の飛行機でカラカスに向かう.その後,ニューヨークに向かう.

10.01 国内潜伏中のプレバル首相,「閣僚会議が権力を掌握する」と宣言,国民に抵抗をよびかける.米国,ECはハイチへの援助停止を発表.

10.03 OAS緊急外相会議,クーデターを非難し制裁決議を全会一致で採択.ベーカー国務長官は「アリスティド政権を守るために集団的に行動することは,ハイチの民主主義のためにも西半球の正義のためにも避けられない」と発言.ベネズエラ,ホンデュラスなど一部の国は多国籍軍の派遣を主張.米国は海兵隊をグアンタナモ基地に移動,米人救出に備える.

10.03 アリスティド当選の主役を果たした市民団体「ラバラス」,民主主義の敵とのたたかいをよびかける文書を発表.予定した集会は軍の弾圧により開けず,幹部は地下活動入り.この間の戦闘で50人が死亡.さらにその後の弾圧で2千人以上が殺害.セドラの下に正規軍7千,フランソワ長官指揮下のポルトプランス警察軍千5百,この他アタシェとよばれる私服の武装戦力が首都に6千,全国では数万人.

10.04 ソアレス事務局長を団長とするOAS代表団,ハイチを訪問するも空港で入国拒否にあう.その後も空港での交渉を続けるが,3日後には決裂.

10.06 ベネズエラのペレス大統領,OASの交渉が成功しなければハイチヘの集団的な軍事介入もやむなしと発言.

10.07 軍部,ハイチ国民議会を包囲.ジュスティス・ヌレット最高裁判事(Joseph C. Nerette)への大統領代行指名を強制.

10.07 マーリン・フィッツウォーター大統領報道官,「アリスティドが政権に返り咲くならばハイチはどう変わるのか,ほかの可能性はないのか」と語り,アリスティド復帰以外の選択肢も考慮に入れることを示唆.

10.08 OAS,交渉決裂を受けハイチに禁輸措置を科す.

10.11 ネレット暫定大統領,無党派の人権活動家ジャンジャック・オノラ(Jean-Jacques Honorat)を新首相に指名.

10.11 国連総会,全会一致でハイチ制裁とアリスティド大統領の即時復帰を決議.

10.23 労組,農民団体,学生など40団体のよびかけでクーデターに反対するゼネスト.

10月 バチカンは,軍事政権を認める唯一の「国家」となる.

11 デュバリエ一族の”トト”・エマヌエル・コンスタンは米軍DIAとエージェント契約.情報将校の指導下に軍部と組んで妄動.この時すでにコンスタンはCIAと契約を結んでいた.

 

1992年

1.31 国外亡命ハイチ人および海上で拾われたハイチ人の合計が一万四千に達する.クーデター以降,38,000人のハイチ人が米国に亡命.そのうち95%は本国に強制送還される.

2.01 ブッシュ政権,政治亡命者に該当しないボートピープルを,本国へ強制送還し始める.

2.24 OASとアリスティド大統領・ハイチ議会のあいだでワシントン協約が署名される.民主主義復活とアリスティド復権のための条件を引き下げ.アリスティドはプレバル首相を他の妥協候補と取り替えることに同意.当初米国はMNRのテオドル(共産党元書記長)を念頭に置く.これによりハイチ軍部はアリスティド大統領の復帰受入れを表明.

2月 ブッシュ政権,一方的に禁輸を緩和し,アメリカ組立工場がハイチで操業を再開することを許可.

4.01 ハイチ最高裁,ワシントン・プロトコルを無効であると宣告.

4.01 米州機構,ハイチの新決定に対抗し,経済制裁の拡大・強化を決議.

5.09 軍と議会指導部が新たな国民一致政府をつくることで合意.経済制裁を受けるなどで国際的に孤立している現状を打開するため.MNRはこれを機に政権入りをうかがう.テオドルは軍との妥協を図るが,軍はこれを認めず.会議中のテオドルを襲い護衛を射殺.

5.17 OAS外相会議,ハイチ暫定政権に対する経済制裁を強化する決議を採択.

5.24 ブッシュ米大統領,米国沿岸警備隊に対し行政命令.公海上のハイチ難民への亡命者保護適用を停止.理由のいかんを問わず,直接本国へ送還するよう命じる.軍事クーデター以来米国へ脱出をはかった難民は3万4,000人に達する.

5.26 富裕層出身でアリスティドを支持して来たジョージ・イズメリが,白昼街頭で射殺される.兄のアントワンは民主派のスポークスマンとして軍政派非難を続けてきた.アントワンは「私たちは痛みと感情を乗り越え,ある人々がこの国を巨大な牢獄と墓地に変えようとしていることを理解しなくてはなりません」と訴える.

6.02 ネレット暫定大統領,新首相に中道右派のマルク・ルイ・バザン元蔵相(前大統領候補)を指名.バザンはハイチにおける米国の利益代表の役割を果たしていた.

6.19 ANDPのマルク・バザン(Marc Bazin),首相兼大統領代行に就任.

7.29 ニューヨーク米連邦高裁,ハイチ難民に対する米政府の措置の是非を問う裁判.ハイチ難民の直接送還を命じた米政府の行政命令に対し,一審の判決を破棄して,違法とする判決.

9.30 クーデターの記念日.国中の人々が大小の集会に出席,民主化を求める.軍は違法な逮捕を繰り返し,市民を虐殺することで反応.

11.24 国連総会、暫定軍事政権による人権虐待を非難する決議。

12.11 ガリ国連事務総長、アルゼンチンのダンテ・カプートを国連特別代表として指名。翌年1月にはOASもカプートを特別代表に指名。

92年 この年,ウォルマートは26億8100万ドル,ディズニーが11億ドルの利益をあげる.これらの企業の労働者は1年完全雇用でも312ドルに満たなかった.最低賃金の増大に対するアリスティドの支持は、彼を倒すための良い十分な理由であった.

 

1993年

1.14 クリントン次期米大統領が記者会見.ブッシュ政権のハイチ難民対策を当面の間踏襲し,難民は洋上で拘束し強制送還すると表明,選挙公約を事実上撤回.

1.17 ダンテ・カプト国連/OAS事務総長特使(アルゼンチン元外相),ハイチを訪問.ハイチ軍部が民主体制復活に向けた国際監視国の受け入れ要求に応じたと発表.

1.18 軍部がでっち上げ選挙.ハイチの民衆は完全ボイコットで応じる.

1.19 セドラ軍司令官,ダンテ特使の発言を否定.

1月 コンスタン,クリントンの大統領就任を祝う大使館の祝宴に公式招待される.

2.09 ダンテ特使,軍事政権が国際人権監視団の受け入れに同意したと発表.ダンテは①軍事評議会が引退し「コンセンサス」政府を形成する,②この「コンセンサス」政府がアリスティド復帰の道筋を決めるという二段階案を示す.

2.09 国連とOAS、共同国際民間使節団(MICIVIH)を結成。45カ国260人の人権オブザーバーと、100人のスタッフ人員から構成される。専務理事にはトリニダードトバゴのコリン・グランダーソンが指名される。

2.14 OASと米国の国際市民監視団約40人が首都ポルトーフランスに到着.ハイチ国内で人権侵害の実情を調査.

2.17 カリブ海のゴブナ海峡で,2000人ほどが乗船していたフェリーが転覆.285人が救助されたが少なくとも800人が死亡.

3.16 クリントン米大統領,ホワイトハウスを訪れたアリステッド大統領と会談.ハイチの民主主義回復のため努力すると表明.

4.15 フラップがポルトープランス大聖堂を襲撃.フェリー災害の被災者を追悼するミサに乱入し,国連/OASオブザーバーの目の前でウィリー・ロメルス司教らを暴行.

4月 セドラ,ダンテ・カプート国連/米州機構特使の提案を,最終的に拒絶する.

1993年6月 国連安保理の制裁決議

6.04 米政府,ハイチのクーデター支持者に対する制裁を発表.

6.08 バザン大統領代行(首相兼務)が辞任を発表.アリスティドが国外亡命のままハイチ大統領に復帰.アメリカは,新政権樹立に向けクーデター・リーダーと交渉するよう,大統領アリスティドへの圧力を強める.

6.16 国連安保理,「民政復帰への圧力をかけるため」対ハイチ石油・武器禁輸と在外資産凍結を全会一致で決議.1週間後に発効.

6.27 OASと国連の調停により,ニューヨークのガバナーズ島でアリスティドとセドゥラの間接会談実現.アリスティド亡命政権の全権大使で全国人民議会事務局長のベン・デュプイ,セドゥラとの交渉は米国によってしかけられた罠であると警告.

1993年7月 ガバナーズ合意

7.02 米国の圧力を受けたセドラは,アリスティドの10月30日までの大統領復帰とセドゥラら軍幹部の10月15日までの辞任.クーデター指導者の恩赦,国連の監督による軍と警察の分離など10項目で合意(ガバナーズ・アイランド合意).UNは経済封鎖を解除.

7.03 米政府,調停に署名しない限り亡命政権の正統性を認めないとの最後通告.抵抗を続けたアリスティド派も協定に合意.

7 エマニュエル・コンスタン,国防情報局(DIA)のパトリック・コリンズ大佐の指示に基づき手勢を集め,「ハイチの進歩と発展のための戦線」(FRAPH)を結成.

エマニュエル・コンスタン(トト)は,95年にCBS放送の「60ミニッツ」に出演.FRAPHは,「米国防衛情報局(DIA)とCIAの奨励と財政支援のもとで」創設された.アリスティド運動と対抗し情報活動を行うことを目的としていた.CIAは彼に月約700ドルを払っていたなどと証言.

1993年8月

8.20 アリスティド,マイアミで新政府建設構想を討議.ハイチの国内資本家,外国人投資家,世銀役員などが参加.資本家との協調により,国際社会からの孤立化を解消し,軍を孤立させることが狙い.

8.25 アリスティド,新首相に印刷会社社長のロベル・マルバル(Robert Malval)を指名.事実上,米政府と国連に押しつけられた人事.これによりガバナーズ・アイランド合意に基づく「合意の政府」が成立.

8.27 ハイチ下院,ロベル・マルバルの首相就任を了承.国連安保理もマルバル新首相を承認.民主化プロセスが進んでいるとして,ハイチの経済制裁を停止すると決議.

8.31 国連安保理,ハイチの国土復興援助のため30人程度の先遣隊を派遣するとの決議.

8月 ヘルムズ上院議員を先頭とする共和党タカ派,反アリスティドのキャンペーンを開始.CIAは下院の秘密聴聞会で,アリスティドは精神障害者と報告.

1993年9月

9.02 マルバル首相,政治勢力のバランスを考慮した民政内閣を組閣.法相には人権派のギ・マラリが就任.

9.08 91年の選挙で選出されたポルトープランス市長,エヴァンズ・ポールが初の登庁.およそ1,000のデモに向け兵士と民兵が発砲する.少なくとも4人が殺され,20人以上が負傷.

9.11 アリスティド派の著名な財界人アントワン・イスメリ(Izmery),サンジャンボスコ教会虐殺事件の追悼ミサに出席.教会に押し入ったアタシェにより路上に引きずり出され,国連/OAS人権オブザーバーの面前で射殺される.翌日までに、このほか12人の活動家が殺される。

9.23 国連安保理,先遣隊に続き国連ハイチ派遣団(UNMIH)派遣を決議.警察の訓練や軍の近代化などの「平和維持活動」にあたることとなる.

9月 ニューヨークタイムズ,米当局者の発言として,軍事政権指導者たちはCIAの給与を受けていると報道.これに続きUSAトゥデーは,CIAに指導されたアリスティド暗殺計画が存在したことを明らかにする.

1993年10月

10.01 ガバナース合意による民政復帰の期限を2週後に控え,国連ハイチ派遣団の第一陣が,米艦ハーラン・カウンティー号に乗り組み,ポルトー・プランスに向かう.軍と警察の訓練と専門職化を任務とし,米国の非戦闘要員200名と,カナダ派遣団25名から構成.

10.06 米兵18人がソマリアで殺され,車で死体を引きずられる.

10.10 米艦ハーラン・カウンティー号,ポルトープランス沖合いに達する.フラップのコンスタンは,ラジオで全ての「愛国的なハイチ人民」に,埠頭での大規模デモに参加するよう求める.

10月11日 ハーラン・カウンティー号事件

10.11午前 米艦ハーラン・カウンティー号がポルトープランスに到着.FLAPHの戦闘員数十人が,出迎えの米大使館員を取り囲み,車を焼くなどの盲動.これを撮影しようとした米テレビ局チームは当局により捕らえられる.

10.11昼 アメリカ大使館,ハーラン・カウンティに対し米国に戻るよう命令.CIAは「ソマリアの繰り返しになる可能性がある」とクリントンに勧告.ハーラン・カウンティはいったん沖合いに出て待機.

10.11午後 国連,ハイチ軍に対し国連警察1267名の上陸への協力を要請.セドラは,国連の意向を拒否.FLAPHとの直接の関係を否定しつつも,上陸を阻止したフラップを愛国者とたたえる.拘留された米マスコミ関係者は,マイアミに強制送還される.

10.12 クリントン,ハーラン・カウンティー号に帰還命令.ハーラン・カウンティー号は上陸せずそのまま引き揚げる.

後にコンスタンが明らかにしたとことによれば,このデモはハイチ大使館付きのCIA支局長ジョン・カンブリアンの打った芝居だった.「事件」はすべてはったりであり,ワシントンがハイチ介入を取りやめるための口実に使われた.トトは「これを機に,フラプはハイチ国内で全能・無敵となった」と述べる.

10.13 セドラ・ハイチ軍司令官,司令官辞任に関して恩赦の拡大の新条件を要求.ガヴァナーズ・アイランド協定を拒否する態度に出る.

10.13 国連安保理,UNMIHの任務遂行を保障しない限り,対ハイチ経済制裁を再開すると決議.クリントンは態度を硬化,ハイチ海上封鎖に踏み切る.

10.14 人権派のギ・マラリ法相,登庁途中に武装した2人組に待ち伏せ攻撃を受ける.マラリのほか護衛と運転手も銃撃され死亡.内閣閣僚は一斉に潜伏.国連と米州機構の人権委員会は,この2ヶ月で100人以上が暗殺されたと発表.

この日の早朝,フラプのJodel Chamblain, Emmanuel Constant, Gabrie Douzableが,未確認のCIA将校とマラリー暗殺計画を打ち合わせした.2週間後に「憲法上の権利のためのセンター」がこのときのCIA情報メモを入手し,発表.CIAがマラリー暗殺に関与していたことが明らかになる.

10.15 ガバナーズ・アイランド合意の最終日を迎える.セドラは合意を無視し辞任を拒否すると声明.国連は経済封鎖を再開.

10.16 国連安保理,米国による海上封鎖を全会一致で承認.米国のほか,英,仏,アルゼンチン,カナダの艦船が封鎖作戦に参加.ハイチ全船舶の停船・検査を行う.

10.18 対ハイチ経済制裁が発効.に対する石油,石油製品,武器などの全面禁輸の他,ハイチ軍幹部や警察幹部の海外資産凍結などが実施される.

10.28 アリスティド大統領,国連総会で演説.ハイチでの復権に強い意欲を示す.国連安保理は大統領復権を支持する声明を発表.アリスティドの要請した全面経済制裁については一致が得られず.

10月上旬 CIA南米担当官ブライアン・レイテル,「アリスティドの心理学的プロフィール」という報告書を議会に提出.アリスティドが精神的平衡を欠いていると議会で証言.元々はハイチ軍が反アリスティドの宣伝文書として作成し,米国に提出したもの.ジェシー・ヘルムス上院議員,「アリスティドは明らかに殺人者である.そんな男のために米兵を死なせたくない」と述べる.

11 NYタイムス,CIAが軍首脳に資金供与してきた事実を暴露.ブライアン・ラテルの作成した内部文書によれば,ハイチ軍による人権侵害の事実はなく,現在セドラは「デュバリエ以来もっとも有望な指導者グループ」と評価される.

12.06 国連総会,アリスティド大統領を支持する決議.

12.15 「合意の政府」のマルバル首相が辞任する.マルバルは辞任に際し,「旧デュバリエ派やトントンマクートを含む拡大政府を組織すべきだ」と提案.

12.22 米国など4ヵ国代表がハイチ訪問.セドラ将軍に対し,来年1月15日までに合意を守らなければ国連による経済制裁を強化と通告.米大西洋軍司令部内に,ハイチ進攻に備えた20人からなる作戦チームが結成される.

12.27早朝 ポルトープランスのスラム,シテ・ソレーユに,ガソリンを持ったフラプ民兵が次々と放火.家を飛び出す民衆を撃ち殺し,家に閉じ込め焼死させる.

12.27 シテ・ソレーユの民主派拠点ブルックリン街で二百戸が焼失.鎮火後住民50人が焼死体で,10人が射殺死体で発見.(一説に1,053軒の家が焼かれ,少なくとも70人の人々が死亡)

 

1994年  

1.14 アリスティド,マイアミ会議を召集.ハイチで民主主義の回復を進めるための手段を検討.クリントンは,軍事政権との権力分担合意を進めるよう圧力.

1.15 民政化を迫る期限が切れるが,セドゥラは警告を無視.米政府内部ではアリスティドの評価をめぐり議論が分かれ,有効な対処策を出せないままに終わる.

2.15 クリントン政権,アリスティドにより幅広い連合を形成するよう提案.議会を中心とする超党派政権を作りアリスティドが首相に就任するというもの.セドラが辞任する代わり軍部に大赦を与える条件.

94年3月

3.05 ガリ国連事務総長,国連本部にアリスティドを招き会談.実権を握る軍勢力を追放せずに,暫定的な統一政権を樹立するという新たな民政復帰案を提示.アリスティドはこの提案を拒否.米政府はアリスティド以外の人物を推挙する方向に傾く.

3月 米国内で黒人議員コーカスを中心にアリスティド擁護キャンペーンが始まる.

3月末 クリントン,セドゥラの強硬な態度に対し,アリスティド復権策をさらに積極的に推進すると表明.国防総省は慎重な姿勢を崩さず.

94年4月 ラボトー虐殺事件

4.07 アリスティド,クリントンへの親書で,81年のレーガン=デュバリエ合意を破棄するよう求める.米国当局に,「ボートピープル」を公海上で拿捕・送還する権利を与えたもの.

4月12日 米下院黒人問題調整部会,ハイチ難民への不当な扱いに抗議し,アリスティドの早期復権を求める.NGO「トランスアフリカ」のランダル・ロビンソン委員長はクリントンの全員強制送還政策に抗議し,ハンガーストライキを開始.

4月中旬 国連特使ダンテ・カプト,新たな条件をもちハイチを訪問するが,軍により入国を拒絶される.

4.18 ドレリエンが指揮する軍兵士100人とタトゥーン率いるFRAPHの約30名が,メタイエー捜索を口実に,ゴナイーブ市郊外のスラム街ラボトーに侵入.シャンブレンの指示によるもの.

4.19 夜明け前,兵士達がラボトーを襲撃.家々を掠奪し火を放ち,路上で人を撃ち,海上に逃げた住民たちを船から撃つ.犠牲者は25人から30人とされる.

4.21 アリスティド,ローレンス・ペズーロ(Pezullo)特別顧問の,ハイチ軍部との交渉姿勢に不満を表明.

4.21 マイアミで服役中のコロンビアの麻薬密売人,ガブリエル・タボアーダ,上院外交委員会で証言.80年代にコカインの密輸でフランソアと協力したと語る.

証言によれば,フランソアは自動車の貿易商と名乗り,84年にメデジンのエスコバルを訪れた.彼はコカイン密輸に加えるよう持ちかけたが,彼がハイチ警察のボスだということは後で分った.当時の独裁者アブリルもメデジンを訪れている.
その後,コカインを積んだ飛行機がハイチに飛ぶようになり,それはハイチ軍・警察により保護された.

4.22 米政府,ハイチへの全面禁輸に踏み切ると発表.同時に「実力行使も選択肢から除外されない」と声明.ペズーロは米政府の方針変更に抗議し辞任.

4.28 米国,安保理に国際的な全面禁輸を求める決議案を提出.

1994年5月  経済封鎖の強化

5.03 クリントン,「実力行使の可能性も排除しない」と表明.軍の大規模なオプションを検討中とする.

5.04 前連邦議会議員で下院黒人問題調整部会長のウィリアム・グレイ,政府のハイチ難民問題特別顧問に指名される.

5.05 国連安保理,セドラ陸軍司令官の辞任をもとめる決議.15日間の猶予を与える.拒否した際には武力行使も示唆.

5.06 国連安保理,前日に続きハイチ決議を採択.食料・医薬品など以外のすべての貿易を禁止する包括経済制裁(全面禁輸).軍と家族の海外旅行を禁止.

5.06 USACOMは,フォート・ブラッグ(ノースカロライナ)の陸軍特別作戦司令部(SOCOM)に対し,ハイチ軍部を政権から排除するための作戦計画(プラン2370)を策定するよう指示.国際開発局(AID)は,民主勢力を援助するための警官隊をあらたに結成,訓練する計画を策定開始.

5.08 アメリカ,ハイチ難民の即時無条件送還を中止,第3国で入国審査を行うこととする.さらにクリントンは,難民を保護した米艦船上でも政治亡命審査を実施すると発表.

5.08 ハイチ問題特別補佐官ローレンス・ペズーロが更迭され,元下院議員ビル・グレイが後任となる.

5.11 ハイチ軍部が擁立したジョナサン(Emile Jonassaint)最高裁判所長官(81)が暫定大統領に就任.95年2月に大統領選を実施すると発表.制裁に対しさらに抵抗の構えを見せる.

5.21 CNNとタイム誌の共同世論調査.米国民の68%が米軍のハイチ派遣に反対と発表.

5.22 国連による「人道的物資を除く全面経済制裁」が発効.国連安保理,国連軍侵攻を含むあらゆる手段を行使する旨の決議を採択.

5.25 米海軍艦船,海上封鎖を破ろうとした船舶に発砲.

94年6月

6.07 ベレンで開かれたOAS総会,禁輸措置を強化.あくまで平和的手段でハイチ正常化を目指す決議をあげる.

6.10 クリントン大統領,ハイチへの制裁強化策を発表.ハイチとのあいだの商用飛行を停止し,金融業務を全面禁止.

6.12 軍事評議会,非常事態を宣言.ハイチの米国大使館,「強硬にイデオロギー的なアリスティド派は,人権侵害をプロパガンダの道具として利用し,捏造さえしている」と報告.

6.16 米国出入国管理検査官,ジャマイカ係留中の海軍病院船で拘留中のハイチ人35人から事情聴取.

6.27 経済封鎖で苦しむハイチ人難民がふたたび急増.1日で1200名にのぼる.月末には数万人に達する.

6.29 キューバのグアンタナモ湾が、ハイチ難民のための付加的な処理センターに指定される。

6.29 国務省、ハイチ軍政と結びつく人物が所有するビザを無効とすると発表.

94年7月  米国による武力脅迫

7.02 ハイチ軍部,国内に滞在する国連・OASの合同人権監視団に国外退去を命令.

7.04 ハイチ海岸から800メートルの沖合いで,難民を乗せたボートが転覆.150人以上が命を失う.

7.05 グレー米大統領顧問,あらためてハイチ難民の米国への亡命を認めないと発表.数千人の難民がグアンタナモ基地に送りこまれる.米国はパナマに1万人の難民受入れを要請.パナマはいったん受入れを決めるが,国民の反対に合い拒否.

7.06 クリントン政権,国連高等難民事務所との合意.条件を緩和した新しい難民政策.迫害の恐れがあると表明したハイチ人は,一時的にパナマまたはカリブ海諸国での生活を認められる.

7.06 USACOMは,上陸作戦計画(プラン2380)を策定.フォート・ドラム(ニューヨーク)で第10歩兵師団(山岳部隊)による訓練を開始.フロリダでは海兵隊による強襲訓練を重ねる.

7.07 米軍,海兵隊2千人を乗せた強襲揚陸艦など4隻をハイチ沖に派遣し,軍事介入も辞さぬ構えを見せる.

7.11 軍部,米軍が上陸すれば迎え撃つと声明.国連人権監視団(MICIVIH)に対し48時間以内に国外退去するよう通告.

7.12 国連安保理,人権監視団への国外退去命令を非難する決議.クリントンは軍事介入の可能性示唆.

7.13 国連・OAS監視団の104人,空路で国外退去.米軍はハイチへの軍事介入を想定した演習を開始.強襲揚陸艦4隻を含み計14隻をハイチ沖に配備.

7.15 ガリ国連事務総長,ハイチ民主化と人道援助の促進を求める報告書を安保理に提出.米国を主体とする多国籍軍約1万5,000人の派遣を勧告する.

7.17 CNNテレビとタイム誌の世論調査.米国民の75%が単独でのハイチ軍事介入に反対.

7.19 米政府のグレイ特使,「10月までに軍部が退陣することを期待する」と述べる.

7.21 米国は国連安保理に軍事的進攻をふくむ「必要なあらゆる手段」の承認を要請.

7.26 セドラ軍事政権,新大統領を選出する選挙を11月の第1週に実施し,その後軍人は政権を離脱すると発表.国際社会はこれを信用せず.

7.30 最後の国際線旅客機がハイチを飛び立つ.全面封鎖体制が発動.

7.31 国連安保理,940号決議を採択.「アリスティドの政権復帰に必要なすべての手段の使用」を承認.ガリ勧告に基づき多国籍軍6千人の編成・派遣および多国籍軍の武力行使を容認.(棄権;中国・ブラジル)

7.31 軍事評議会,安保理決議に対し非常事態宣言を発する.

7月 ハイチ民間指導者6人が,米連邦地裁にアブリル元大統領を告訴.連邦地裁はアブリルに対し,在任中の人権侵害,拷問・虐待について個人的責任があるとし,合計41,000,000ドルの補償金を払うよう判決.

7月 OAS人権調査団,ハイチ軍政を非難する報告.「民主主義とアリスティドの復帰を求める人々を恐怖に陥れるため,子供を処刑し,女性を強姦し,聖職者を殺害している.また,他の人々への警告として切断された体の部分がそのまま残され,母親の顔が山刀で切られるところを子供たちは無理矢理見させられる」

94年8月  国連も武力行使を容認

8.01 ジョナサン暫定大統領,戒厳状態を発令し,対決姿勢を鮮明にする.米軍の侵攻に備え民兵隊の組織が始まる.米国はとりあえず軍指導者の自発的退去を期待.

8.10 キューバで大量難民発生のため,ハイチ問題は暫時凍結される.

8.26 パリでアリスティドとIMF/世銀との会談.公共事業の民営化,貿易自由化,債務の支払いなどをふくむ「構造調整計画」(パリ合意)を押しつけられる.

8.29 ジャンマリー・ヴァンサン神父,ポルトー・プランスの修道院前で暗殺される.

8.30 ガリ国連事務総長,軍事政権幹部の国外退去と平和的解決を目指す最後の説得工作,軍事政権の会談拒否で最終的に失敗.

8.31 ドミニカ国境へ多国籍軍を配置し,国境封鎖.プエルトリコでは多国籍軍が訓練を開始.

8.31 タルボット国務次官とドイッチュ国防次官,「多国籍軍がハイチに向かっている.抵抗があろうとなかろうと,軍幹部の逮捕と裁判が行われるだろう」と声明.

8月 1月からの難民は通算2万4千人に達する.

8月 沿岸警備隊,軍との共同作戦演習を開始.禁輸を犯す舟艇の取締りを強化.ハイチ北方の海上では,軍艦インチョン号に乗り組んだ,海兵隊の第24遠征部隊(MEU)2千人が上陸演習.

94年9月 米海兵隊の上陸

9.07 米統合参謀本部,クリントンに3段階からなるハイチ解放作戦を提示.ジョン・ドイッチュ国務次官は待機中の艦隊のうち先鋒となる8隻に行動開始を促す.

9.08 統合参謀本部,「民主主義防衛作戦」の計画を実行に移すようCINCUSACOMに命令.

9.10 ペリー国防長官,「民主主義防衛作戦」の執行命令に署名.全国軍事司令センター(NMCC)内の統合参謀反応チームが活動を開始.

9.10 米国防総省,ハイチ軍事介入に向けニューヨーク州フォートドラム基地の部隊に出動命令を出したと発表.

9.11 第10山岳師団フォートドラム基地を出発.鉄道でBayonne, New Jersey, と Norfolk, Virginiaに向かう.

94年9月12日

9.12 フォート・マクネア、ワシントンD.C.の国防大学で関係省庁の打ち合わせ会議.USACOMが議長を務め,統合参謀本部スタッフから事後の対処を含めた軍の作戦の詳細が説明され,各機関に期待される役割が提示される.

参謀本部の提出した進攻計画は極めてずさんで,やる気を疑わせるものだった.各方面から計画の曖昧さが指摘され,会議は立ち往生した.急遽USACOMとNSCスタッフの仲介により一連の小委員会が持たれ,細部の詰めに入る.作戦中,USACOMのスタッフは調整のため走りっぱなしだったという.

9.12 クリストファー米国務長官,軍事進攻計画発表.米軍進攻の後17ヵ国1,500人参加の多国籍軍が後続するとする.

9.12 国防総省当局者は、「民主主義防衛作戦」に関する会議の意見の要約を開始.

9.12 空母「アメリカ」,艦載機を下ろし,陸軍兵士輸送のためのスペースを確保する作業を開始.

9.13 米空母第一陣となる「アメリカ」が米国内のノーフォーク港を出発.第18ABN部隊が乗り込む.

94年9月14日

9.14 空母「アイゼンハワー」,航空機を下ろし,あらためて第10山岳師団と師団所属のヘリを載せる.

9.14 多国籍軍司令官ヒュー・ヘンリー・シェルトン陸軍准将を乗せた,多国籍軍の旗艦Mt. Whitneyがバージニア州ノーフォーク港を出発.

94年9月15日

9.15 クリントン,テレビ演説.「セドラと彼の武装ギャングは恐怖時代を指揮した.子供たちを処刑し,女性を強姦し,神父を暗殺した」と,人道介入の必要を強調.「考えられる代替案は出し尽くした.もはや最後の手段に訴えるしかない」と述べ,ハイチの軍事政権に対し「退陣しなければ軍事介入も辞さない」との最後通告を発表する.

9.15 米政府,最後の交渉手段としてカーター元大統領,コリン・パウエル元統合参謀本部議長,サム・ナン上院議員ら3人の特使を派遣.統合参謀本部を代表してジャレッド・ベイツ陸軍少将が同行.フンタがいつどのように辞任し国外退去するか,いかに米軍がハイチ入りするかについて詰めの議論.

9.17 ポルトープランスでカーター=セドゥラ会談.①セドゥラ司令官他3名の軍事政権指導者の辞任,②米国を中心とする多国籍軍に対する全面協力,③以上を前提として経済封鎖の解除,を内容とする提案.

94年9月18日

9.18 クリントン大統領,「民主主義回復作戦」の執行命令に署名.その後,カーターと軍指導部らが,米国機動部隊の平和的な上陸を認めることで合意.

9.18 クリントン大統領,カーター=セドラ合意を受けて「ハイチ軍事政権が退陣に合意した」と発表.CINCUSACOMは攻撃部隊に帰還命令.統合参謀本部は19日の攻撃開始命令をキャンセルするメッセージを送る.

94年9月19日

9.19午前0時01分 攻撃中止の連絡不十分なまま,「民主主義回復作戦」が開始される.51機の「ブラックホーク」ヘリが空港を確保.空母アイゼンハワー搭乗の山岳師団のうち先遣隊と二個大隊が上陸.統合参謀本部はあらためて山岳師団と多国籍軍に出撃命令を下す.

9.19 C-5輸送機がポルトープランス空港に着陸.山岳師団司令官David Meade少将と多国籍軍司令官ヘンリー・シェルトン中将がハイチ上陸.首都ポルトーフランスには3,000人が入り,数千人の市民が歓迎.

9.19 セドゥラとビアンビ参謀総長は退陣の意向は明らかにしたものの,国内居残りの姿勢を示す.

9.19 カプート国連代表,国連安保理協定を無視した米国の一方的な行動(クリントンの二枚舌)に抗議し辞任.ガリ事務総長は後任にアルジェリアのLakhdar Brahimiを指名。

9.20 ポルトー・プランスで民主主義復活を叫ぶデモ.ハイチ当局により弾圧される.

94年9月21日

9.21 ヘンリー・シェルトン駐留米軍司令官,ハイチ軍司令部に暴力行為の中止を要請.治安維持を行う米軍パトロールの強化を指示.

9.21 CINCUSACOM,25日までに合計14,900人の軍勢がハイチに入ると述べる.

9.22 統合参謀本部,従軍規則を改正.現地上級指揮官に対しハイチ軍・警察の市民弾圧を防ぐために介入するよう司令.CINCUSACOMは多国籍軍に対し①米国市民および国連代表を保護する,②国際組織・ハイチ政府組織と協調する,③ハイチ軍・警察を無党派化する,④人道主義に基づく援助が円滑に進むよう援助する作戦を展開するよう指示.

9.23 米軍憲兵隊がポルトープランス市内のパトロールを開始し,ハイチ警察による市民虐待を停止させる.

94年9月24日

9.24 カパイシアンで,警察署に立ち寄った海兵隊パトロール部隊にハイチ人警官が銃を向けたことからアメリカ軍が発砲.米海軍通訳一人が傷つく.銃撃戦でハイチ人警官10人が死亡.

9.24 ゴナイーヴで民衆1万人が軍本部を包囲.米軍が強制解散させる.

9.25 シェルトンとセドラス,事件の調査のためカプアイシアンに到着.海兵隊は現地に留置される.

9.25 カパイシアン事件をきっかけに市民が立ち上がり,カパイシアン.ポルトー・プランス,ゴナイーブで警察署,軍駐屯地,フラップ党事務所が次々に焼き討ちされる.

94年9月26日

9.26 CINCUSACOM,アリスティド派が予定した9.30のクーデター3周年記念集会に備え,ポルトープランスに第82空挺師団の二個中隊を派遣.

9.26 クリントン米大統領,国連総会で演説.ハイチに対する経済制裁措置,民間航空の乗り入れ禁止と金融取引停止を一方的に解除すると発表.

9.28 クリントン演説を受けた国連安保理,アリスティド大統領が帰国したのち同国に対する制裁を解除すると決議.

9.29 市役所前の公園で,クーデター前にポルトープランス市長を務めていたポール・エバンスの復帰を祝う集会.その後クーデター以来はじめての反軍政デモとなる.フラップ党員(その実体は国家警察の警察官)がデモへ手榴弾を投げつける.これにより16人が死亡,41人が負傷.その後市内は暴動となり,商店の略奪が始まる.米軍憲兵隊は暴力・致死行為で11人の容疑者を逮捕.

9.30 ポルトープランスで,クーデター3周年を記念するアリスティド支持の集会.三万人が参加する大集会となる.フラップの発砲で5人が死亡.

94年10月 セドゥラの亡命

10.02 ハイチ多国籍軍,20,931人に達する.さらにラリー・ケリー前NY市警長官に指導された124人の国際警察監視団が到着.

10.03 ルカイエで米軍兵士が狙撃され負傷.多国籍軍はポルトープランス、ルカイエ,カパイシアンで掃討作戦を開始.ポルトーフランスで極右勢力115人を逮捕.

10.03 カパイシアンの海兵隊特殊空陸部隊は,米艦ワスプで撤退開始.

94年10月04日

10.04 マイク・サリバン大佐の率いるMP部隊千名が,全国のFRAPH事務所を急襲し多量の武器を押収.FRAPH活動家35名を逮捕.しかしほとんどがまもなく釈放.シェルトン米軍司令官は「もしセドラが退陣しなければ,われわれがそうさせる」と声明.

10.04 軍部ナンバー3のジョセフ・ミシェル・フランソワ首都警察長官,ドミニカ共和国に出国.

10.05 米大使館,地下のコンスタンが米軍に対する抵抗を中止すると連絡してきたことを,論評抜きで発表.

10.06 ハイチ議会,セドゥラらに対する恩赦法を可決.米軍はこの決議を無視.

10.10 セドラとビアンビ,辞任と国外への退去の意思を表明.

10.11 ジョナサン暫定大統領が辞任表明.マルバルが首相職に復帰.米軍が大統領官邸を制圧.

10.12 市内の警察署すべてが,民衆に襲われ廃墟と化す.

94年10月13日

10.13 セドラスとビアンビは、ドミニカ経由でパナマに亡命.

10.13 米誌「ネーション」は,CIAのコリンズ大佐がFRAPHを養成した事実を暴露.

10.15 アリスティドが帰国し大統領に復帰.これまでの3年間で3千から4千の人々が殺され,数千が拷問を受ける.亡命者は30万人にのぼる.

10.16 アリスティド,スイング米大使・ドッド上院議員と,復帰後初の大統領としての謁見.

10.18 USACOM,多国籍軍司令部に対し,6千名からなる国連平和維持軍の構成を提案.

10.18 参謀本部の再編成が実施される.高級幹部の多くが更迭され,外国大使館付き武官として転出.軍はその指導力を失う.

94年10月19日

10.19 国連当局,米軍は国連PKOが着任するまでにパラミリタリーの武装解除を完了すべきであると強調.

10.19 アリスティド,米国際開発局と1500万ドルの緊急石油援助で合意.価格は封鎖前の2倍に設定される.

10.19 3週間分の石油を積んだタンカーがポルトープランスに入港.

94年10月20日

10.20 ミラー海軍提督が国防総省での状況説明.ハイチでの米軍任務は、民間人の武装解除ではなく,市民秩序のための条件作りだと述べる.

10.20 最初の多国籍軍チームとして,バングラデシュ部隊400名がハイチ到着.

10.21 ハイチ上院,フラプを非合法化する法案を承認.

10.22 MICIVIHの人権監視員260名がハイチに戻り業務を再開。

10.24 アリスティド,新首相に米政府推薦の実業家スマーク・ミシェル(Smarck Michel)を指名.当初予定していたクローデット・ウェルレイを首相とする構想は,米国の強力な反対にあい流産.軍政時代も任期としてカウントされる.

10.24 国際犯罪捜査訓練協力計画に基づく警察の訓練が開始される.

10.25 米軍特殊部隊1200名が,全国27の市町村でパラミリタリー掃討作戦を展開.

94年10月26日

10.26 ポルトープランス市長エヴァンズ・ポールとTurneb Delpe,「変化と民主主義のための国民戦線」(FNCD)を結成.来るべき選挙に向け,すべての民主主義党派が結集するよう呼びかける.

10.26 USAID(米国際開発局),アメリカや世界銀行の対ハイチ援助総額が初年度5億5,500万ドルになったと発表.

94年10月27日

10.27 多国籍軍(JTF 190-MNF)の司令官となったミード少将がアリスティドと会見.多国籍軍の作戦計画を説明.

10.27 ハイチ行政当局,準備の遅れから12月予定の選挙を翌年一月に延期すると発表.

10.28 多国籍軍,地方警察の解体計画を開始.ハイチ軍から選抜された353人が,米加両軍の指導のもと訓練プログラムを開始.

10.29 アリスティド,行政機構と地方警察のすべての責任者を罷免.

10.30 多国籍軍,民事行政顧問団の統制を米大使館に委ねる.

94年11月

11.03 ハイチ軍北部地区司令官クローデルJosephat中佐が投降.ジョセファトは,カパイシアンでハイチ兵10人が海兵隊に殺された後,司令官を辞任.ひそかに抵抗運動を組織していたという.

11.04 ハイチ議会,アリスティドの指名したスマルク・ミシェルの首相就任を承認.新内閣は8日に成立.

11.06 クリントン大統領,ハイチ駐留米軍1万5千のうち6千を1ヶ月以内に撤退させると発表.その後もさらに兵力を斬減し,最終的には3千を国連任務のための米国派遣団として残すこととなる.

11.06 多国籍軍,ハイチ軍の解体と国家警察への再編成計画を開始.軍部隊の750人が,暫定警察部隊に再雇用される.

11.08 アリスティドによる「国民和解政府」が発足.内閣にはPANPRAとMIDHなどマルク・バザン政権に加わっていたいくつかの中間派政党も参加.

11.09 アリスティド,スイング大使とミード将軍に伴われ,厳重な警備のなかカパイシアンを訪問.国民和解を訴える.

11.15 ガリ国連事務総長,ダニエルR.シュレーダー中将(ヨーロッパ駐留米軍司令官)をハイチ国連使節団の議長に指名.後にキンザー少将に変更される.

11.17 アリスティド,バーナーディン・ポアソン准将をハイチ軍(FAd'H)最高司令官に任命.ハイチ駐留米軍は第10山岳師団から第25歩兵師団(ハワイ)に交替.

11.18 陸軍記念日.アリスティド派からは常備軍廃絶の声が上がる.

11.20 ポアソン准将,ハイチ軍の参謀幕僚そして最高司令部の再編成に着手.

11.25 民事行政顧問団,財務・教育・内務省の改革に着手.

11.26 ハイチ政府,グアンタナモ米軍基地に代表者を派遣.残留ハイチ人の引き揚げについて協議.これまですでに1万5千人が自発的に帰国.

11.27 ペリー国防長官、テロリストと不誠実な兵士を武装解除するようもとめたアリスティド大統領の要請を拒否.

11.29 ミシェル首相,12月総選挙は不可能で,その実施には少なくとも数ヶ月を要すると発表.

11.30 「経済成長と近代化のための大統領委員会」が発足.民間部門の15人の代表者,政府の8人の代表を含む.

11.30 多国籍軍,1万5千の兵器を押収したと発表.アリスティド,ハイチ軍はガンに侵されていると述べる.そして軍を切り捨てるのではなく,治癒することを望む.

94年12月

12.02 米大使館,ハイチ政府が安定度を増しつつあり,最高裁判事の新任,軍と警察の分離,軍の再編成が順調に進みつつあると報告.

12.02 多国籍軍,ポルトープランスで市街清掃作戦を展開.隠匿武器の摘発にとりかかる.

12.03 アリスティド,軍関係者を含む人権侵害の容疑者を起訴するため国民の支援を訴える.また国軍を1500人まで削減すると発表.

12.05 ワシントンで国連当局と米国政府の会談.国連側は山積する問題を処理するため,米軍の駐留延長を要請.

12.06 ミシェル首相,総額7700万ドルの「貧困と闘うための緊急計画」を発足させる.

12.07 ペリー国防長官,米軍から国連軍への完全な業務移管は,翌年3月まで遅れるだろうと述べる.

12.08 ハイチ上院,暫定選挙管理委員会が総選挙に向けて準備を開始することを承認.

12.17 ハイチ国軍将兵に対する再教育プログラムが終了.約3千人が6日間の再教育コースを終了.

12.20 アリスティド,7人からなる真実委員会(フランシス・ブカール議長)を設置すると発表.しかしその詳細は公表されず.

12.21 国軍元兵士約千名が,年金の返還をもとめて軍本部前で抗議.

12.22 スイング米大使,アリスティドと会見.裁判官要請コースの見直し,刑務所の改善など司法行政の見直しを勧告

12.23 多国籍軍によるハイチ軍要員の整理が進む.軍事独裁崩壊後の3ヶ月で7,500人から1500人に減少.

12.24 トト・コンスタンがハイチを脱出.合法的な観光ビザで米国入国.DIA(軍情報局)の手引きによるとされる.

12.26 ハイチの暫定選挙評議会が、選挙の見通し・選挙法案の概要などについて発表.

12.28 民衆が軍の廃止を要求してハイチ軍本部にデモをかける.アリスティドは自粛を呼びかける.

12.28 米国務省当局,グアンタナモに残留するハイチ人は1月5日以降強制送還すると通告.