海賊年表
(英・仏・蘭の海上覇権争いの歴史)
これまで海賊に関する事項は英仏領カリブ海諸国の年表に組み込んできましたが、カリブ海諸国の年表が充実するに従い、目障りになって来ました。小アンチル諸島とジャマイカの年表を分けてしまったのも、英領カリブ諸国の全体の動きが分かりにくくなり、むしろ不便です。そこで下記のごとく再編成したいと思います。
(1) ジャマイカおよび英領小アンチル諸国、ベリーズ、および仏領小アンチル諸国(これはとりあえず)
(2) ギアナ三国
(3) 海賊年表そして、これまでの国別・地域別年表とは別建てで、「事項別年表」のグループをまとめ、ここに海賊年表を移します。なお海賊の侵攻を受けた地域のそれぞれの年表にも、必要な事項は併記したいと思います。
1500年代(16世紀)
1530 ユグノー(Huguenot)教徒海族の活躍
37 フランス人海賊,逃亡奴隷と組んでハバナを襲撃.教会や行政府を破壊,町を焼き払う.エルナンド・デ・ソト総督,船団が安全に運行できるよう,一連の要塞の建設を開始.
初期の海賊: ホーキンスやドレイクなどイギリス人が有名だが、件数においてはフランス人海賊が圧倒的に多い。フランス国内で弾圧されたユグノー教徒がカリブに進出し、新たな植民地をもとめ各地でスペイン人植民地を襲撃した。
39 エルナンド・デ・ソトがフロリダに上陸。アメリカ内陸部を探検。
43 フロータス制成立.海賊の出没に対抗するため,年2回決められた時期に護衛艦に守られた船団を組むことが義務づけられる.ハバナがフロータスの集合地に指定(一説に61年).
44 フランスのユグノー教徒海賊がカルタヘナを占領・略奪。
44 ボアスのひきいるフランス人海賊がハバナを襲撃.撃退される.
46 ロベ・バール(Rover-Baal)の率いるユグノー教徒集団がハバナとバラコアを襲撃.資金はボルドーのユダヤ人銀行家が提供.
54 フランス人海賊フランソア・ルクレールの率いるユグノー海賊、サンチアゴを襲撃.30日間にわたり占領する。ルクレールは 「片足のルクレール」(Peg-Leg Leclerc)と呼ばれた。
55.7.10 ジフロリダを根拠地とするフランス人海賊ャック・ソワール(Soir,スペイン語読みではジャック・デ・ソレス),第三回目のハバナ襲撃.ハバナを一時占領し略奪.スペインはハバナの城壁を強化する一方,フロリダをキューバ総督の管轄とし,フランス人海賊の駆逐に乗り出す.
65 ペドロ・デ・メネンデス・デ・アビリェスの率いるスペイン軍部隊、フロリダのサン・オーグスティンのフランス植民地を壊滅に追い込む。
62.10 ジョン・ホーキンス,シエラレオネで武器と交換に奴隷を獲得(一説では黒人奴隷を乗せたポルトガル船を略奪).黒人奴隷3百人をサント・ドミンゴ総督に売込むことに成功.
64.10 ホーキンス,エリザベス女王の後援を受け2回目の奴隷貿易に出発.南米北岸で奴隷の売込みに成功.翌年9月に帰港.
65 ジョン・ホーキンス,フロリダで入手したタバコを英国に紹介.
66 ホーキンスが禁足を受けたため,部下のロベルが奴隷貿易を代行.この航海にフランシス・ドレイクも同行.ドレイクは最初,キューバ西端のカボ・デ・サンアントニオを拠点とし,沖合を航行する船に水や卵を売りつける商売をしていた.
67.10 ホーキンス,第3回目の航海開始.ドレイクも参加.サンタマルタとの黒人奴隷貿易に成功.スペインは植民地に対しホーキンスとの取り引きを禁止.
1568年 ホーキンスの冒険
4 ホーキンス,コロンビア北岸のリオ・アチャを攻略し,奴隷貿易を強制.
9.16 ホーキンスのイギリス船,サン・ホアン・デ・ウルーア(ベラクルス)港を占拠.
9.23 ホーキンスの艦隊,たまたま入港したスペイン艦隊により壊滅.ホーキンスはミニオン号で脱出に成功し,乗員の半数をメキシコに残しイギリスに帰還.残された乗員のうちイングラムはフロリダを経由してノバスコシアに達し帰国に成功.
12 フランドルに向かっていたスペイン船,フランス海賊に追われプリマスに入港.イギリスはサ・ホアン・デ・ウルア事件の報復として,フランドルへの軍資金20万ポンドもろとも没収.
70 ホーキンスの航海に参加したドレイク,みずから船団をひきいカリブ海の諸都市に対する攻撃を開始.ドレイクは,最初キューバ西端のカボ・デ・サンアントニオを拠点とし,沖合を航行する船に水や卵を売りつける商売をしていた.
71 ドレイク,アクラ近くのポート・フェザント(孔雀港)に秘密基地をもうけ攻撃をさらに強化.
1572年 ドレイクのパナマ襲撃
5 ドレイク,二隻の船に73人の部下をのせプリマス港を出発.フェザントでノンブレ・デ・ディオス襲撃の準備に入る.
7.29 ドレイク,パナマへの第一回攻撃.ノンブレ・ディオスを奇襲.一時町を占拠,10万ペソを掠奪.追手の前にドレイクは負傷し逃走.この間何回かカルタヘナの町を襲撃.
8 ドレイク,カルタヘナの街を襲撃.南米北岸を荒らしながら東進,キュラソーに達する.その後ノンブレ・デ・ディオスとカルタヘナとを結ぶ連絡船を相手に海賊行為を繰り返す.
12 ドレイクの一行に伝染病流行.28人が死亡,戦力は20名以下に減少.
1573年
2 ドレイクら18名,パナマのリコンチョロン南東部にあったシマロンの住む二つの町を訪問.シマロンの町について「町は清潔で,人々は礼儀正しい.服装は美しく体にフィットしている」と感銘を受ける.ドレークはシマロンの協力を得て「王道」の要衝クルセスに達し財宝の奪取を試みるが失敗.
3 ドレイク,ノンブレ・ディオス近郊で輸送隊を待ち伏せし,財宝の強奪に成功.
8.09 ドレイク,南米北岸での掠奪行為を終えいったん帰国.この後もシマロンによる地峡地区での山賊行為が続く.
74 ユグノー教徒のキューバ襲撃,78年にかけて続く.トリニダー,バラコア,レメディオス,バヤモの町が襲われる.
76 イギリス人海賊ジョン・オクスナム,パナマ地峡を越え,真珠諸島を攻撃.ペルーから送られてきた財宝を略奪.やがて捕らえられ処刑される.スペイン王室財務省は,パナマ地峡でのマルーン弾圧のため,1万ダカットを支出.
77 エリザベス女王、カリブ海での私略船に財政支援を与える。
77 ホーキンス,英海軍主計長官に就任.海軍増強に力を注ぐ.
1577年:ドレイクの世界一周
77.11 ドレイク,世界一周に出発.いったん嵐のため引き返し,翌月ふたたびプリマスを出港.
1578年
9 ドレイク,マゼラン海峡を越える.
12 ドレイク,バルパライソ(チリ)の港を襲撃.
1579年
2.6 ドレイク,ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃.
2.15 ドレイク,アリカに続きカリャオを襲撃.停泊中のサン・クリストバル号を掠奪.
3.1 ドレイク,エクアドルのサンフランシスコ岬沖合で財宝を満載したカカフェゴ号を捕獲.
4 ドレイク,グアテマラの港町グアタルコを襲撃.
6.17 ドレイク,サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣言.
11 ドレイク,北米を離れ太平洋を横断.モルッカ諸島に到着.
79 パナマのスペイン軍とシマロンとの間で和平協定.ノンブレ・デ・ディオスの近くに二つの黒人自治地区を作ることで合意.この後シマロンの輸送隊攻撃は減少.
1580年
9.26 ドレイク,3年にわたる世界一周を終え帰還.英国の国庫収入を上回る60万ポンドを持ち帰り財政建て直しに貢献.
82 海賊リチャード,マンサニージョを襲撃.4年後に再び現れたところを捕らえられ殺される.ドレイク船長ハバナに出現.本格的な攻撃を仕掛けないまま引き揚げる.
85.9.14 ドレイク,エリザベス女王などの出資を受け29隻の船団を編成.カリブ襲撃をめざし出港.
1586年 ドレイクのカリブ襲撃
1.1 ドレイク,サントドミンゴを襲撃.シマロンの協力を得て奪取に成功。
2.11 サント・ドミンゴを出発したドレイク,カルタヘナを襲撃.攻略に成功し掠奪を繰り返す.ドレイクは引き続きハバナ攻略を試みるが果たせず.荒廃したサント・ドミンゴに代り,ハバナがスペイン軍の海上防衛の拠点となる.
3月 ドレイク、フロリダのサント・アウグスティンを占領。ドレイク一行が持ち込んだチフスがフロリダ原住民のあいだに大流行.人口は激減する.
7.28 ドレイク,収穫のないままポーツマス帰港.英西両国間の緊張は極度に達する.
1587年
2 キャベンディッシュ,太平洋に入りペルー各地の港を攻撃.アカプルコ沖でマニラ航路の船をだ捕したあと世界一周に成功.
2 エリザベス女王暗殺計画発覚.エリザベスは前スコットランド女王メアリ・スチュアートを処刑.英西関係は断絶.
4.19 ドレイクのひきいるイギリス艦隊,スペイン艦隊の根拠地カディスを急襲.集結中の無敵艦隊に甚大な被害.
6 ドレイク,アゾレス沖合でインドからの帰還途中にあったスペイン船サンフェリペ号を急襲.12万ポンド相当の財宝を奪取し帰国.
1588年 無敵艦隊の敗北
7.12 130隻,三万人からなる無敵艦隊,スペイン北西のラ・コルニャを出港.
7.21 無敵艦隊,10日間にわたりイギリスとの死闘を繰り広げるが惨敗.以後欧州ではイギリスの優位確立.
89 ドレイク,140隻,1万人からなる艦隊をひきいスペイン追撃.ラ・コルニャを占拠したあとリスボンを攻撃.攻略に失敗し兵の半数を失う.
1595年 ドレイク,最後の攻撃
8.29 ドレイク,世界一周,無敵艦隊との対決のあとさらにカリブ攻撃を再開.27隻の船に2千5百の乗員をのせプリマスを出港.副官にはかつての上司ホーキンスがあたるが,戦略策定で対立を繰り返す.
11.12 ドレイク,手始めにカナリア諸島を襲うが敗退。プエルトリコのサンフアン攻撃は厚い防御に阻まれ失敗.その後スペイン軍の追撃にあい敗北.
12 ドレイク艦隊,サンタマルタを襲撃.その後ノンブレ・デ・ディオスを掠奪し焼きつくす.攻撃を前もって知ったスペイン人は市外へ避難ずみで成果上がらず.バスカービル大将の指揮する750名の陸戦隊が,ノンブレ・ディオスからパナマに向かう.悪路に阻まれパナマに達することなく5日後に撤退.ドレークが期待していたシマロンの協力は得られず.
96.1.28 ドレイク,ポルト・ベリョで風待ち中,赤痢で死亡.エリザベス女王はドレイクを騎士に叙す.
97 アンソニー・シャーリー,ハマイカ唯一の港ラ・ビリャ・デ・サント・ハゴ・デ・ラ・ベーガを占拠するが,40日後には放棄.
1600年代(17世紀)
1600 バッカニアの登場
00 ほとんど無人の島となったエスパニョーラ島に,フランス人を始め各国の流れ者が侵入.食人種カリブ族が人肉を干すのと同じ方法で乾燥牛肉を作り販売した.カリブ族が干し人肉をブカンと呼んだことから,かれらはブカニエ(英語でバカニア)と呼ばれることになる.彼ら自身は掠奪者を意味するオランダ語源のフィリバスターと称していた(以上の記載に関してはさまざまな異説あり).ときに徒党を組んでスペイン戦を攻撃するなど海賊行為を働くようになる.
00頃 バルバドスのスペイン人によりラム酒が作り出される。
04 海賊ヒルベルト・ヒローン,サンチアゴ,ヤラ,マンサニージョの町を略奪.最後に黒人サルバドル・ゴロモンに捕らえられ殺害.
19 イギリス海賊ウォーレス,木材伐採のための丸太小屋をベリーズ海岸にたてる.
22 オランダの商人,ブリトンのサンチアゴ襲撃に出資.ブリトンは手兵800を率いサンチアゴを略奪.
22 イギリス人海賊のハバナ襲撃.その後23,38年の三回にわたり大規模な攻撃があるが,攻略には失敗.ハバナの堅固さの前にモルガン船長も襲撃を断念したという.
25 イギリス人やフランス人の海賊(バッカニア)がエスパニョーラ島北岸のトルトゥーガ島に定着.
28.9.08 ピート・ヘイン(Piet Pieterszoon Hein)提督の率いる,31隻のオランダ私掠船艦隊,金銀を満載したスペインのフロータ船団をマタンサス沖で襲撃.30隻を丸ごとだ捕する.1千2百万ペソ=1500万グルデン相当の黄金を略奪.この後,十年間に800隻・67千人が私掠船となってカリブ海を荒らしまわる.
28 イギリス,ネーヴィス島を占拠.
29 スペイン,セント・キッツを襲撃し,イギリス人を排除.まもなくイギリスが奪回.
30 この頃,フランス人海賊の一部が,セントキッツからエスパニョーラ島西部に移る.野生動物を捕獲し,燻製にして近くを通過する船団に売って生計を立てる.現地語で燻製をブーカネと読んだことから,彼らはブカネアと呼ばれるようになる.
35 フランス人海賊ピエール・ルグラン,スペイン船を拿捕.
35 スペイン,サントドミンゴ北部から対岸のトルトゥガ島に逃げたバッカニアを掃討.逮捕者全員を処刑する.海賊バルトロメ・ポルトゲス,カボ・デ・サンアントニオ沖合でスペイン船の襲撃に成功.後に捕らえられるが脱獄に成功.
36 ニカラグアのカリブ海岸ぞいのサンタ・カタリーナ島に,イギリス人の入植開始.プロビデンス(現コロンビア領プロビデンシア島)と名づける.
38 スペイン,トルチュー島を占拠.
39 フランス,エスパニョーラ島沖のトルトゥーガ島を奪回.
40 各地で海賊が襲撃を繰り返す.英国人はアンティグア,プロビデンスを,オランダ人はキュラソーを,ユグノーはグアダルーペ,グレナダ,マルティニク,セントルシアを攻撃.
42.12 ウィリアム・ジャクソン、マラカイボを占領。
43.4 ウィリアム・ジャクソン、サンチアゴ・デ・ラ・ベガ(ハマイカ)を占領。続いてホンジュラスに向かい、トルヒージョを占領。
49 クロムウェルによるピューリタン革命成立.
52 イギリス・オランダが海上覇権をめぐり第一次英蘭戦争.3年間にわたる.このころからトルトゥーガ島のフランス人海賊がエスパニョーラ島西部に移動.
52 英国の清教徒海賊,キューバ中部のレメディオス襲撃.住民は町を放棄し、内陸部のサンタクララに新たに町を建設。
54 フランス人海賊フランソワ・ロロノア、仏領トルトゥーガの知事公認の下にスペイン船への攻撃を開始。ピナル・デル・リオ(キューバ)のデ・ロス・カヨス襲撃の際はハバナから来たフリゲート船を掠奪し,乗員100人をみな殺しにする.
どうも良くわかりませんが、コロンビア百科事典ではロロネーと同一人物だとされています。確かにそうある名前ではなさそうです。しかしフランソアは30年生まれで50年に西インドに渡り、54年には海賊行為を働いたとしててサントドミンゴから放逐されています。ブラジリャノとも「親交」があったようです。ロロネーは60年代に入ってからの活動が目立ちます。もう少し調べてみます。
54 キングストン湾を囲むように突き出した砂嘴の上に海賊の聖域ポートロイヤルが形成される。オランダ人ロケ・ブラジリャノ 、ポルトガル人バルトロメオらがハマイカのキングストンに入る。
ロケ・ブラジリャノ: Groningen生まれ。本名は不詳。ハマイカに来る前はバイアで海賊を行っていたためブラジリャノと名づけられる。スペイン人を生きながら焼き殺すのが趣味の怖い人。71年に行方不明となる。
54 スペイン軍,トルトゥーガ島を占領,フランス人海賊を駆逐.残党はエスパニョーラ島西部に逃げ込む.
55 クロムウエル,新大陸の先住民をスペインの圧制から救うという「西方計画」を発動.大海軍遠征隊をカリブに派遣.ハマイカを制圧し、イギリスの進出拠点とする。
55 英国人海賊グランド,サンクティ・スピリトゥスを襲撃.
1656 ポート・ロワイヤル、海賊の黄金時代
58 ジャマイカの私掠船モルガン船長,パナマを一時占領.モルガンはバルバドスからトルトゥーガ島に渡り、海賊となる。その後叔父のエドワード・モルガンを頼りジャマイカにわたる.エドワードはのちに副総督となる.
58.2 クリストファー・ミングス(Myngs)がジャマイカ駐留英海軍の提督に就任。
58 ミングス提督、スペインとの海戦に勝利した後、コロンビア北岸のトル、サンタマリアを攻撃。
59年 ミングス提督、ベネズエラ北岸を襲撃。クマナ、コロ、プエルト・カベージョを略奪。
59 西仏間,戦争状態となる.フランス政府,ジェレミ・デュ・ロセをサンドマング総督に任命.ロセはトルチュー島をスペインから奪回.
60年 エドワード・ドイリ総督、ミングスが違法な海賊行為を働き、獲物を着服したとして告発。ミングスは逮捕され英国に送還される。
60 スペイン軍,トルトゥーガ島の住民を襲撃.婦女子をふくむみな殺し作戦を展開.残党はフランスの西インド会社の私兵団(海賊)となりスペイン船を襲撃.エスパニョーラ島の西部(現ハイチ)を占拠,
60 ピレネー条約締結.西仏戦争終結.トルチュー島住民の海賊行為は止まらず.
1662年
62 ドイリーに代わる総督としてウィンザー卿が着任.ジャマイカ生まれのイギリス人を英国自由市民とみなす王室声明をもたらす.この時点でジャマイカ居留民は4205人.
8月 新政府、再びミングスをジャマイカに派遣。ミングスはスペインの弱体化を図るため、海賊の積極的利用を図る。新任のウィンザー総督も、この構想を支持。
10.01 海賊を主力とするミングスの艦隊、12隻に1300人を乗せ、ポート・ロイヤルを出航。サンティアゴ・デ・クーバに向かう。
10.17 英国人海賊グランドを先頭とする侵攻部隊がサンチアゴ東方に上陸開始。サンチアゴの守備隊はほとんど戦わずに潰走。
10.18 グランドの部隊、サンチアゴに入り、略奪行為を展開.
62 モルガン、私掠船の船長資格を獲得。海賊商売に本格的に乗り出す。
1663年
2月 ミングス提督、14隻1400人からなる最大の海賊艦隊を編成、ホンジュラスのサンフランシスコ・デ・カンペチェを攻略。この作戦にはヘンリー・モーガンとエイブラハム・ブローベルトも参加。
4月 スペイン政府からの度重なる講義を受けた英国王チャールズ二世、ミングスの極悪ぶりをみて、モディフォード次期総督に親書を送り、以後の海賊の出撃を禁止させる。
64 バルバドスの農園主トーマス・モディフォード卿,ジャマイカ知事に任命される.アフリカから大量の黒人奴隷を導入し,砂糖・カカオの栽培に乗り出す.
1664年
64年 カンペチェ攻撃時の傷が悪化したミングス、本国へ帰還。
64 三年にわたる第2次英蘭戦争開始.モディフォードは海賊に私掠免許を与え,島の守備にあたらせ,軍への取り込みを計る.
64 ジャマイカの私掠船隊,ホンジュラスのカンペチェを襲撃し略奪.
64 フランス,西インド会社を設立.カリブへの本格的進出に乗り出す.
65 フランス,トルトゥガ島にドジェロンを総督として派遣.島を要塞化する一方,サントドミンゴ東北部に進出.スペイン軍に闘いを挑む.
1666年
3 サール(海賊ジョン・デービス)、エドワード・モーガン大佐(ヘンリー・モーガンの叔父)が企画したオランダ領西インド諸島への遠征隊を率いる。9隻の船と650人の兵士が参加する。
66 海賊モルガン船長,マンスフィールドら,9隻の船と460人の兵をひきいメキシコ,ホンデュラスを襲撃.ニカラグアのサンフアン川を遡上しグラナダ(当時人口3,500)を攻撃.
66 海賊マンスヴェルトとモルガン,モディフォード総督の命を受け,サンタ・カタリナ島(現コロンビア領プロビデンシア島)を占拠.まもなくスペインにより奪回される.さらに翌年にかけてキューバ,マラカイボ,ジブラルタルをつぎつぎに攻撃.
66年 英国とオランダが大西洋上で4日間にわたる海戦。ミングス提督が戦死。
67年6月 サールとステッドマン大尉、二隻の小さい船と80人の兵士を引き連れ、トバゴ島(当時蘭領)に侵攻。徹底的に略奪する。これを知ったModyford知事は、これ以上の襲撃作戦を禁じる。
67 トルチュー島のフランス海賊ロロネー船長,キューバ各地を襲撃。レメディオス,プエルト・プリンシペ,バタバノの町で略奪.さらに海を渡りベネズエラのマラカイボおよびヒブラルタルを襲撃.
ロロネー(L'Olonnais): 本名はジャン・ダビド・ノー(Nau)。本国のオロネーで生まれ、マルティニクで年季奉公。その後海賊仲間に加わる。トルトゥーガ島のドジェロン知事は彼を船長に抜擢。マラカイボ略奪で勇名をはせる。最後は68年、ダリエンで座礁。先住民に捕らえられ、八つ裂きにされる。
1668年 モルガン船長の連続攻撃
2 モルガン,英政府からスペインの動向を探る密偵の使命を授かる.750名を引き連れ海岸から80キロ入ったプエルト・プリンシペ(現カマグエイ)の町を攻撃.住民を教会に閉じ込め,財産を掠奪したうえ町を焼き払う.その後カマグエイは,襲撃に備え曲がりくねった町並みを再建.カマグエイと時を前後してサンクティ・スピリトスも海賊により完全に破壊される.
5月 サールら、禁を犯しフロリダのサント・アウグスティンを攻撃し略奪。帰国したサールは逮捕され、ポート・ロイヤルに拘留される。
6.15 モルガン,9隻の船と460人の兵をひきい,ノンブレ・ディオスにかわるペルー貿易の拠点ポルト・ベリョを二週間にわたり占拠,市民を人質に身代金として金貨25万枚をせしめ,掠奪のうえ焼きつくす.
1669年
3月 モルガン,マラカイボとヒブラルタル(ベネズエラ)を襲撃.
8 マドリード条約締結.イギリスのジャマイカ領有が認められる代わりに,海賊行為が禁止される.ジャマイカ総督はこの合意を無視し私掠活動を継続.
10.24 カリブの海賊2千人がイスパニョーラ島に集結.モルガンの提案を受けパナマ襲撃で合意.モルガンを総指揮官に選び,37隻の船に乗り込み出港を開始.
12.20 モルガン,サンタ・カタリナ島を奪回.
12.24 ブラッドレー船長の率いる400名の海賊がチャグレス河口のサンロレンソ要塞の攻略に成功.
70 英西間にジオドルフィン条約(マドリード条約)締結.イギリス,スペインより正式にジャマイカを獲得.ベリ−ズ河河口地帯の租借権を獲得.このあとカリブの海賊は次第に下火となる。
1671年 海賊モルガンのパナマ襲撃
1.01 モルガンの本隊1,100名が,サンロレンソに上陸.
1.18 4百人の海賊部隊,チャグレス川河口のサンロレンソ要塞を奪取.双方併せ死者4百人を出す激戦となる.本隊が合流し,チャグレス川をさかのぼりパナマに向かう.
1.27 モルガンの部隊,パナマ市郊外に到達.
1.28 海賊部隊,パナマ攻撃を開始.5日間にわたる激戦の末,守備隊は崩壊.パナマ占領.戦闘でパナマの町は灰塵と帰す.
2.24 モルガン,3週間にわたりパナマを掠奪.175頭のロバに戦利品を積み,6百人の捕虜を連れパナマを引き揚げる.
3 モルガン,戦利品を一人占めにし,仲間を置き去りにして英国に逃げ去る.
8 マドリード条約以後も海賊を保護し続けたジャマイカ総督モディフォード,本国に召喚される.
1672年
4 モルガン,本国に召喚される.
10.31 スペイン,パナマを再建することを決定.アルフォンソ・メルカド・デ・ビリャコルタを司令官に任命.
73.1 ビリャコルタ,オールドパナマを撤退し8キロ離れた現在地に移設.
73 ヤコブ・グリリョス,キューバのヌエビタスを襲撃.
73 フランス艦隊,キュラソー島のオランダ軍を攻撃するも撃退される.
74.9 モルガン,戦利品と手柄話をタネに宮廷にとりいり,ナイトの称号を受ける.英国政府はパナマ襲撃の功を讃え,モルガンを副総督に任命.海賊の取り締まりにあたらせる.
1676年
4月 モルガン,ジャマイカ島総督代行兼海軍提督として帰任.
1678年 フランス人海賊ミシェル・ド・グラモン、ホンジュラスのトルヒージョを占領。
78 スプリンガー,キューバ中部南岸のトリニダーを襲撃.
79 グラモント・コリアンダー,キューバのバラコア,トリニダー,レメディオスを襲撃.
80.1 モルガン,ジャマイカ総督代行を務める.海賊にたいしては,絞首刑をもって臨むとする布告.
80 バーソロミュ・シャープら海賊,ダリエンから地峡を横断.太平洋岸に侵入するが,成果ないまま四散.
82 キューバ中部レメディオ村の司祭,人口800の村に80万の悪魔が侵入すると託宣.悪魔にとりつかれた犠牲者を焼いた後,40人の兵士が村人に村を捨て周辺部に移住するよう命令.村を焼き払う.レメディオから逃げ出した人々は,内陸部にサンタクララの町を建設.残された村は司祭のものとなり,これを人に貸した司祭はかなりの利益を得たといわれる.
82 ド・グラモン,ベネズエラのラ・グアイラ攻略に成功.
82 ド・グラモンとオランダ人ラウレンス・デ・グラーフ,ベラクルスの攻略に成功.このあとカンペチェを占拠し焼き払う。
83.10 モルガン,あらゆる官職を罷免される.
85 フランス人海賊グラモン,カンペチェ攻略に成功.
88 ヘンリー・モルガンが死亡.ポートロイヤルに葬られる.
89 アウグスブルク同盟戦争開始.英仏の覇権争いが始まる.
89 Jean Du Casse と Baron Jean de Pointis、カルタヘナを占領。
90 スコットランド出身のウィリアム・キッド(キッド船長),ニューヨークを根城に西インドで海賊行為を展開.(有名な割にはこれといった戦果はなし)
1692年 海底に沈むポートロワイヤル
92.6.07 正午前,ポート・ロイヤルを大地震が襲う.三回の揺れの後,町の大半が海底に沈む.ポート・ロワイアル,大地震により崩壊.その後津波が襲来し,二千名が犠牲となる 以後,海賊の活動は終焉を迎える.その後もティーチ(黒ヒゲ),ロバーツ,キッドなどの海賊が活躍.
94 ドゥ・カッセ提督の率いるフランス艦隊がジャマイカを攻撃.北部/東部の海岸を襲撃し,50の砂糖農場、50の農園を破壊.黒人奴隷1,300人を連れ去る.農民の抵抗闘争によりフランス軍を駆逐.
95 キッド船長,紅海およびインド洋における東インド会社の権益保護の勅許状を受ける.
97年 フランス海軍のルイ・ドジャン提督,大型船をふくむ20隻の艦隊でカルタヘナを襲撃.サントドミンゴ総督のデュカスも海賊650名を率い参加.
97.9.20 リュウイック(ライスウェイク)条約締結.スペインはエスパニョーラ島西半をフランスに割譲.サン・ドマング(ハイチ)となる.サンドマング会社が統治.条約に基づき,各国政府は海賊に対する取り締まりを強化.すべての港から海賊を締め出したため,以後海賊は急速に衰退.
1700年代(18世紀)
01.9 スペイン王位継承戦争が始まる.英仏双方の私掠船がカリブを舞台にあい争う.
01.5.23 キッド船長,殺人罪で有罪の判決を受け,英国において絞首刑となる.死骸はテームズ河畔に晒される.その後彼の隠匿した宝の行方が話題となる.
02 キングストンを基地とするイギリス艦隊.コロンビア沖合いでドゥ・カッセの艦隊と海戦.5日間の激戦の後,英軍司令官ベンボウ提督が負傷.部下はそのまま撤退.ベンボウはまもなく死亡.撤退を命じた司令官代理は処刑される.
04 ポート・ロイヤルで大火災.地震を免れた家屋もすべて壊滅.その後町は放棄される.海賊は本拠地をバハマに移す。
13 ユトレヒト条約が締結される.このあと英仏両国は海賊に対する取締りを強化.
16 エドワード・ティーチ、商船をのっとり砲40門を備えつけ、「アン女王の復讐」号と名づける。読み書きができる熟練した航海士として、海賊仲間の信望を集める。
ティーチ(黒ひげ船長): ブリストルの生まれ。ジャマイカで栄艦隊の乗組員として王位継承戦争に参加。終戦後ニュー・プロビデンスで海賊に加わり、米国沖およびカリブ海を縄張りとする。
1718年
2月 ティーチ、ノースカロライナのバースに上陸。海賊行為を止めることを誓い、知事から恩赦を受ける。海賊略奪品を売り捌くのに成功したことから、ひそかに海賊船団を編成。ホンジュラス海岸などを荒らす。
5月 ティーチ、サウスカロライナのチャールストンを襲撃。9隻の船を略奪。金貨1500ポンドを奪い、金持ち数人を誘拐。知事から身代金を獲得する。事情を知らないバースでは大歓迎され、コミュニティの重要なメンバーになる。
9月 ティーチ、バミューダに出航。コカと砂糖を積んだフランス船を捕獲。ふたたびバースに戻る。エデン知事らは、分け前と引き換えにフランスの船を遺失物と宣言。船を燃やした後、ティーチが積み荷を保持することを認める。
18 私掠船船長のウッヅ・ロジャーズ(Woodes Rogers),初代バハマ総督に任命される.英政府はバッカニアに対する取締りを指示.カリブでの活動が困難となった海賊たちは,アフリカ・中東などに転進.
12.02 密告によりティーチの次の襲撃先がバージニア州Ocracokeだと判明する。スポッドウッド州知事は軍を送り、ティーチを殺害。その後宝の埋蔵場所を探すが見つからず。
20年 この年Charles Vane、Jack Rackham, Anne Bonny、Mary Readらの海賊が、次々に捕らえられ、絞首刑に処せられる。海賊時代の終焉。
この後は目立った海賊の活動はありませんが、英・仏・西の海上覇権争いは相変わらず続きます。他に載せようもないので、この年表に記載しておきます。考えてみれば海賊というのも、結局は、欧州列強による海上覇権争いの道具の一つともいえるでしょう。
1739年
10 ハバナでイギリス人船長ロバート・ジェンキンスが,スペイン人のファンディナ船長に捕らえられ,耳を削ぎ落とされる事件.英国議会はスペインがイギリスの密貿易業者や海賊を不当に扱っていると攻撃.
10.19 英国,スペインにさらなる屈服を要求し宣戦布告.ジェンキンスの耳戦争とよばれる.48年まで続く.エドワード・バーノン提督のひきいる56隻の軍艦,130隻の輸送艦がパナマとサンチアゴ・デ・クーバを攻略.ポルトベーロもヴァーノンの艦隊に占領される.
41 ヴァーノンはカルタヘナ攻撃を試みるが,堅い守りにあい撃退される.
41 新教徒世界の拡大を望む英国首相ウォルポール,兵5千を送りグアンタナモを攻撃.
42 トレローニー自ら兵を率い,パナマを攻撃するが敗退.
47 ハバナ近海で英国とスペインの艦隊が衝突.
54 ミング提督の率いる英艦隊,サンチアゴを襲撃,略奪.
62 スペインの王位継承をめぐり7年戦争開始.カリブの支配権奪取をねらう英国,スペインに対し宣戦布告.8月にハバナを占領。
80 ホレイショー・ネルソンの率いるジャマイカ艦隊,ニカラグアのサンフアン・デル・ノルテを攻撃.
81 米国の独立戦争と関係してフランス・スペイン・オランダと英国との戦争が始まる.
1782年
4.12 ド・グラース提督の率いる仏艦隊6千人,ジャマイカ占領を狙い出動.スペイン軍と合流するためハイチに向かう.ジョージ・ロドニー提督の率いるジャマイカの英艦隊は,グアドループ沖のレサント(Le Saints)諸島にこれを迎え撃つ.フランス軍は6千の兵力のうち3千を失うという惨敗.この後再びイギリスがカリブの制海権を確保.
1800年代(19世紀)
05年 トラファルガー沖海戦.スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い.新大陸との交易にも支障をきたすようになる.
06.2.06 ダックワース提督の率いる英艦隊,サンドミンゴの西仏艦隊を撃滅.