チリ年表 その3 

人民連合圧殺の時代

 

1973年9月

9月11日

午前6時 チリ海軍が反乱を起こし,バルパライソの町を制圧.市長を逮捕.モンテーロ司令官を監禁し,メリノが反乱を指揮.

米軍の動き: 米国空軍将校の操縦する米国のWB-575飛行機-空挺通信管理システムの中核が,チリ上空を巡航.さらにチリ国境に近いメンドサ(アルゼンチン)の米国空軍基地には,アメリカの偵察機と戦闘機が緊急出動態勢に入る.

午前7時 空軍部隊がサンチアゴの工業地帯を制圧。活動家の一斉逮捕を開始する。上空をホーカー・ハンター戦闘機が周回。

午前7時30分 アジェンデと政府幹部,バルパライソの不穏な動きに対処するため,大統領官邸を出て宮殿に集結.

午前7時35分 セプルベダ国家警察隊長官が大統領執務室で状況を報告。

午前7時55分 アジェンデ、執務室からラジオ・コルポラシオンを通じて第一回目の放送。「海軍の一部が反乱を起こした。サンチアゴにおい て軍の異常な動きはない。とくに労働者の皆さん、職場に就き、工場に行き、平静を保ち、注意深く行動してください。そして共和国大統領の呼びかけと指示に 従ってください」

午前8時 国防省が陸軍により占拠される。国防次官のバレンズエラ陸軍大佐は入庁を拒否される。

8時20分 国家警察隊サンチャゴ部隊のパラダ司令官が、セプルベダに背きクーデター側に就く。

8時30分 地主層の放送局ラジオ・アグリクルトゥラ、「4軍軍事評議会」による声明を流す。「共和国大統領はその官邸を軍ならびに国家警察隊に即刻引き渡さなければならない。これに従わない場合、陸と空から攻撃される」と述べる。

8時55分 大統領宮殿の防護にあたっていた戦車をふくむ国家警察軍部隊が撤退を開始する。セプルベダをふくむ本部付将校50名は孤立する。

9時 反乱部隊の少佐二人がモネダ宮殿に入り,アジェンデに辞任と国外退去を求める.アジェンデは要求を拒否し,大統領宮殿の防衛体制を編成.非戦闘員の退去を指示.

9時05分 アジェンデ,ラジオ・コルポラシオンを通じて4回目の演説。このあとこの放送局は爆撃され、ラジオ・ポルタレスの放送塔は吹き飛ばされる。

この瞬間、私達の上を飛行機が飛んでいる。彼らは私達を攻撃するかも知れない。あなた方に知ってほしいと思う。この国への義務として私達がここにいることを
私は人民の命に基づき、自由で民主的な選挙により与えられた責務にもとづき、そして両親の命令に基づき、この任務を遂行するであろう。
…今は厳しく困難な瞬間である。我々は押しつぶされるかもしれない。しかし明日は人民のもの、労働者のものである。
…私は祖国にとって尊い原理を守るため私の命を贖う。
…人民は警戒しなければならない。挑発に乗せられたり、大量虐殺を許したりしてはならない。しかし自らを守り、自らの成果を防衛し、自らの権利を防衛しなければならない。

9時20分 アジェンデ,共産党系のマガジャネス(マゼラン)放送を通じて最後の演説。国民にたいする最後のよびかけとなる.この時点でクーデターの主犯は海軍のメリーノと警察軍のメンドサと考えられていた。

最後の演説の骨子
いま空軍がラジオプルタレスとラジオ・コルポラシオンの放送塔を爆撃しました。これが,あなたがたに語りかけられる最後の機会だと思います.
…ただわたしが労働者諸君に言えることは,わたしは辞任しないということだ.歴史的危機状況 に際して,わたしはわたしの生命をもって人民の忠誠に報いよう.わたしは告げたい.多くのチリの人々の誇り高い良心に,われわれが差し出した種子は決して芽をつみ取られることはない,とわたしは確信していると.
彼らは武力でもってわれわれを屈伏させるだろう.だが,武力をもっても,犯罪的行為をもっても,社会的進歩をおしとどめることはできない.歴史はわれわれのものであり,歴史は人民が作るものである.
祖国の労働者たちに感謝します.法を重んじ,ことばを守り,正義を願う心の伝達者に過ぎない一人の人間に,あなたがたが与えてくれた忠誠に対して.
… マガジャネス放送はわたしの声をあなたがたに伝えていないかもしれない.が,あなたがたはわたしに耳を傾けてくれているだろう.これがわたしの最後のことばです.わたしが犠牲となることは決して無駄ではないと信じている.すくなくともそれは卑劣,不実,背信を告発するひとつの道徳的教訓となるであろう.われわれは,あなたがたとともにいる.
…労働者たちよ.わたしはチリを,チリの運命を信じている.背信がのさばる苦くうらがなしいこの「時」を,別の人々が乗り越えてくれるだろう.よりよい社会の建設のために,解放された人間が生きる場所に,ふたたび大きなポプラ並木の道が開かれるのは,そう遅いことで はない.そのことを理解し,我々に続いてほしい.…チリ万歳!人民万歳!労働者たち万歳!

09:35 CUT,すべての職場を占拠するようよびかける.軍は家にとどまり静粛にするよう放送.

10:00 モネダ宮前に反乱軍の戦車出現.戦闘配置につく.

10:30 軍部,11時より爆撃を開始すると通告。アジェンデに対し降服をもとめる.アジェンデの指令にもとづき,大統領府護衛の兵士の動員を解除する。

11:15 軍事評議会,布令第一号を発表.「重大極まる社会的道徳的危機」「政府が混乱を抑制できないでいること」「ますます多くの准軍事 集団が訓練され,これによりチリ国民が内戦に巻き込まれる恐れのあること」をクーデターの理由として上げる.同時に労働者の権利と既得権の尊重をうたう.

11:30 軍事評議会,軍令第一号=布令第三号=戒厳令を宣言.

11時半 セプルベダ国家警察軍司令官、将兵の離脱を確認した後、モネダ宮殿を離れる。あとに50人の民間人が残留。大統領のボディーガード約15人、警察官6人が武器を持ち抵抗。

11時半 サンチャゴ作戦を指揮するパエサ将軍、「モネダにいるもの、とくにアジェンデについてどのような痕跡も残すな。虫けらの世に絶滅しろ。目標を空と陸から破壊しろ」と命令。

11時半 人民連合の政治委員会、「抵抗を行うな。労働者は職場を出て帰宅せよ」との決議を流す。

11:52 空軍ホウカー戦闘機,モネダ宮に対する爆撃を開始.20分間に20発のロケット弾が打ち込まれる.宮殿前に陣取る戦車も砲撃を開始.アジェンデは降服命令を拒否.

12:15 マガジャネス放送,「あらゆる抵抗の企ては粉砕されるだろう」と声明.

12:30 大統領私邸も爆撃を受ける.

12:45 モネダ宮殿は炎に包まれる。パラシオス将軍の指揮する突撃部隊が突入体勢に入る.

14:00 共産党本部に強制捜査.銃撃戦となる.数十名の勤務員が連行される.

14:10 アジェンデ,「降服の用意がある」とし,5分間の停戦を要求するが,軍はこれを拒否.(最近の再調査によりアジェンデは銃弾を頭に打ち込み自殺したことが確認された。時刻はこの直後であろう)

14:30 モネダ宮,軍により制圧.フローレスら閣僚は降伏を申し出る.ピノチェトは国外退去といつわり,政権幹部を飛行機に載せ,途中で突き落とすよう指示.

14:30 軍事評議会,命令第10号を発表.16時までに国防相に出頭するべき人物の名簿を発表.アルタミラーノ,アルメイダ,コルバラ ン,チョンチョル,エンリケス,ファイボビッチ,フィゲロア,ゴドイ,ガレトン,レテリエルら50人がふくまれる.同時に国家の解放を祝い小旗で街を飾る よう要求.

22:00 4司令官による記者会見.ピノチェトが4軍を代表し民間の補佐による軍事政府の樹立,議会の閉鎖,裁判所および立法監査院の尊重,キューバとの国交断絶を宣言.

22:45 軍事評議会,明日の外出禁止,営業停止を指示.

11日 その後の3ヶ月で1,213人が当局の手により死亡,あるいは行方不明となる.国際アムネスティの調べでは,4万人が虐殺,10万人が逮捕,拷問.100万人が国外へ逃れる.

9月12日

12日 軍民評議会,正式に発足.ピノチェト陸軍総司令官が議長に.軍人10名,民間人4名からなる内閣を組織.内相兼国防相にはキリ民党 系のボニージャ,外相にはウェルタ提督,サンチアゴ担当相にはアジェンデ派のブラディ将軍が就任(形式的に).議会の無期限停止,政党活動の「休止」を宣 言.ビクーニャ・マッケンナ,セリジョスなどで散発的な抵抗続く.国家警察軍准士官学校は,全部隊をあげクーデターに抵抗.二日半後に完全制圧される.

12日 立憲令を公布.海軍軍監長のロドルフォ・ビオ提督が起草.「引き裂かれたチリの統一と正義,立憲的枠組みを回復するため」,四軍司令官からなるフンタを創設すると宣言.

12日 サンチアゴ国立スタジアムおよびチリ・スタジアムが政治犯のための臨時収容所となる.国際赤十字の推計によれば最大時7,000の政治犯が収容.その他地方ではピサグア,チャカブコ,ドウソン島などに収容所が作られ,長期にわたり政治犯を収容.

12日  ピノチェトに直属する秘密の弾圧専門機関DINA(国家情報局)創設.局長にピノチェトの右腕コントレラス将軍が就任.拷問部隊の基地であるテハス・ベルデスの司令官を兼任.ネルーダ詩集,ゴーリキ,カフカの本が焚書処分を受ける.

12日 キューバ人民はアジェンデ虐殺に抗議し,この日から3日間喪に服す.パリで十万人のクーデター抗議集会が開かれる.アルゼンチン下院,コロンビアの上院は非難決議を採択.コスタリカの国会においても全員の一致でクーデター非難を決議する.

12日 メソジスト教会,軍事評議会に手紙を送り,クーデターの野蛮な行動を非難.

9月13日

13日 国民党,キリ民党は軍事評議会支持の声明を発表.しかしキリ民党左派のラドロ・トミッチらはこの事態を公然と拒否.軍事評議会は議会を解散し,ピノチェトを大統領に任命.

13日 評議会,司法の独立を尊重すると声明.最高裁長官エンリケ・ウルティア・マンサノは,クーデターを支持するとの声明を発表.

13日 評議会,カトリック教会の聖職者150人に対し国外退去を求める.常設主教委員会が声明を発表.反対派の人権を尊重すること,改革は 穏やかに行われるべきこと,労働者階級の利益を常に念頭におくべきこと,速やかに立憲政治に復帰すべきことを主張.評議会はこの声明に強く反発.

9月14日

14日 法令27号により国会を解散.「評議会の改革案を速やかに実行するため」,職員は直ちに持ち場を離れるようもとめられる.

14日 外相発言によれば,チリは「非同盟にとどまる」.ソ連共産党中央委員会は軍事クーデターを非難.

14日 バルパライソの教会活動家ミゲル・ウッドワード,「レブ」号に連れ込まれ,拷問の末虐殺.ほか軍政時代に6人の聖職者が虐殺された.うち3人はスペイン国籍.

9月15日

15日 高級公務員の殆どが更迭.のちに誠実と和解委員会の発表した報告によれば,市長6人,知事4人,市会議員16人,国会議員2人が殺害もしくは行方不明となる.ほかに人民連合幹部31人,地域組織指導者140人,政府高級幹部30人が殺害される.

15日 プラッツ将軍,アルゼンチンに亡命.

15日 サンチアゴ上訴審,逮捕された人民連合幹部に対する保護令状の発行を求める,ベルナルド・レイトン(キリ民党)の提訴を棄却.以後,人権保護の訴えをことごとく棄却する.

9月16日

16日 ポブラシオンに対する一斉摘発.アジェンデ夫人,メキシコへ亡命.

16日 サンチアゴ・スタジアムに収容されていたビクトル・ハラ,拷問の末虐殺される.

9月17日

17日 評議会,内務省に秘匿されていたとされる「Z計画」を公表.人民連合が対抗クーデターのため大量の武器収集と要人暗殺を企てていたとする.

17日 チリ労働総連合(CUT),非合法化される.

17日 各行政機関で業務再開.チリ解放愛国戦線がブエノスアイレスで結成される.トラック業者はこの日ストを解除.キューバ政府の提訴により国連緊急安保理が開かれ,キューバ代表は米国とチリ反動派の共謀によるクーデターを非難する.

9月18日

18日 ローマで人民連合指導者13人が「チリ人民支援アピール」を発表し,諸国人民のチリ支援を訴える.

18日 手をへし折られたビクトル・ハラの虐殺遺体,夫人により国立競技場外側の死体安置所で発見される.

18日 南部のオソルノで自警団により13名が殺害される.かれらは地方警察により逮捕されたあと自警団に引き渡された.生存者の証言によれ ば,彼らはピルマイケン川にかかる橋の上に並ばされた後,至近距離で射殺されたという.社会党員でエントレラゴス市長のブランカ・エステル・バルデラスは 難を逃れ,この後数年間にわたり逃亡生活.

18日 スペイン人司祭ホアン・アルシナ,警察軍に殴打された後連行される.後に彼の死体がマポチョ河畔で発見される.背中には10発の弾丸 が撃ち込まれていた.アルシナはサンチアゴ市内のサンフアン・デ・ディオス病院事務長を勤める一方,カトリック労働者運動(MOAC)の一員として活動し ていた.アルシナに先立ちバルパライソ,イキケでも二人の僧職者が暗殺されている.

18日  ロス・アンヘレス近郊の町ラハとサン・ロセンドで製紙工場の労組活動家ら19人が軍隊に連行された後行方不明となる.

9月19日

19日 軍事評議会筋によれば,五大鉱山の国有化は白紙還元になる予定と報道される.

21日 軍事評議会は左翼政党を非合法化する.イタリアではクーデターに抗議して短時間のゼネストに百万の労働者が参加.

9月22日

22日 ソ連政府,チリと断交.他の社会主義国もこれに続いて国交断絶.軍事評議会は地方議会をも解散させる.

22日 軍事評議会,国内戦争状態を宣言.司法権は軍事法廷に移り,戦時軍法規定が法律に優先.

23日 イスラ・ネグラで静養中のパブロ・ネルーダ,心臓発作を起こす.軍は救急車の出動要請を無視し,彼の死に至るまで放置.

ウィキペディアによれば、病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。

23日 軍の部隊,市内サン・ボルハの民間アパートを襲撃.数十名を逮捕した後「扇動的な」本を集め燃やす.

9月24日

24日 米国政府は軍事政権を公式承認.

24日 パイネのエル・エスコリアル農園で,労働者18人がサン・ベルナルド歩兵連隊の部隊によって連行された後,行方不明となる.数年後に無名墓地から射殺された遺体が発見される.

25日 パブロ・ネルーダの葬儀を機に,チリ国内では初の反政府デモがおこなわれる.

9月26日

26日  軍事政府,前政府のメンバーの居所について情報を提供したものに50万エスクードの賞金を与えると発表.

26日 西欧20ヵ国共産党代表はストックホルムに会し,チリ人民連帯決議を採択.

27日 労働組合と全政党の活動が禁止される.政令12,13号で労働者中央連合(CUT)は非合法化される.指導者200人以上が逮捕さ れ,うち16人が殺害される.鉱山労連の指導者は全員逮捕.13単組の執行部が解散される.金属労連,繊維労連,公務員共闘にも同様の弾圧.

27日 空軍に所属する部隊がシルバ大司教の私邸を襲撃.この他にも教会関係者の逮捕,拷問,貧困地域の教会にたいする襲撃が相次ぐ.

28日 コルバラン,サンチアゴ市内で軍事評議会により逮捕.各国共産党,民主的諸団体は,コルバランの救援声明を続々と発表.軍事政権は大学の自治を廃止し,チリ大学の学長,学部長を罷免.軍事政権は銅山国有化補償交渉を米国の産銅会社とのあいだで再開する意志を表明.

30日 軍事評議会はアジェンデ政権下で約束されていた,十月からの賃金引上げを凍結.米週刊誌「ニュースウィーク」は,クーデター後サンチ アゴにおける軍事政権の労働者殺害は,二千八百人にのぼると報道.ヘルシンキで「チリ人民連帯国際会議」が開かれ,40ヵ国の代表が参加.

9月 クーデター直前に逮捕された「祖国と自由」書記長ティエメ,トラック所有者同盟会長レオン・ビラリンや国民党指導者と「最後の日」までストを続けることで合意があったと自白.

9月 米国人青年ジャーナリスト,チャールス・ホーマン,行方不明となる.「ミッシング」のモデルとなる.99年の解禁文書で,CIAが軍情報部に『好まらしからざる人物』として情報を流していた事実が明らかになる.

73年10月

2日 日本政府,軍事政権を承認.中国もピノチェトを承認,以後4年間に2億ドルの借款供与.

3日 コルバランの予審尋問始まる.国連総会で社会主義諸国は,軍事評議会のコルバラン処遇について緊急発言.

5日 「エルシグロ」,地下から再刊.

5日 ピノチェト,アントファガスタなど北部五都市に「死のキャラバン」部隊を派遣.セリヒオ・アレジャーノ将軍の率いる部隊は5日間で72人の政治囚に死刑の判決,ただちに処刑.

6日  カトリック教会と福音ルーテル教会,メソジスト教会,長老派教会,ユダヤ教会の組織した「チリ平和のための共同委員会」,人権擁護と 被迫害者の生活援助のための活動を開始.エンリケス大司教は「彼らは私をアカ坊主と呼び始めるだろう」と発言.Vicaria de la  Solidaridad の前身となる.

10日 中国はUP政府任命の中国大使アルマンド・ウリベの信任を取消し,反革命軍事政権を実質的に承認する処置をとる.

10.10 軍のパトロール部隊,南部ビジャリカ近くの村リキーネでマプーチェ族を含む15人の農民を逮捕.トルテン川にかかるビジャリカ橋のたもとで殺害する.

11日 チリ共産党の人民へのアピール「統一を!」が,サンチアゴ市内で非公然に発表される.「軍事反乱は諸制度を清算し,法治国家に終止符を打った」と声明.法治国家の再建を当面の課題として提起.

13日 国際人権連盟,国際カトリック法律家運動,国際民主法律家協会などの代表団,チリの人権状況について報告.「拷問と虐待が広くおこなわれている」と報告.

13日 軍事評議会,政令77号を布告.「新政府はチリからマルクス主義を根絶する使命をおびている」と宣言.左翼政党と組織を非合法化.

17日 軍事評議会,法令8号を公布.政令77号の適応範囲をすべての政党に拡大.その資産を接収.

17日 アルマンド・ウリベ駐中国大使は北京を離れるにあたって「私は中国駐在大使の地位から辞任していない.中国を去るのは私自身の意志に よるものではない」と表明.PCC,「中国共産党は世界革命運動,民主運動の道を踏み外し,あらゆる国際主義的義務よりも自己の利益を優先させ,帝国主義 の策動を助けていることを,みずから証明した」と非難.

17日 政治活動の全面禁止,議会の廃止を決める法制定.選挙人名簿を破棄.

26日 モスクワで開かれた「平和勢力世界大会」に,グラディス・マリン共産党政治局員の,サンチアゴからのメッセージが届けられる.

27日 軍事政権は戒厳状態をさらに8ヵ月延長

30日 軍事評議会,「白書」を発表.9月19日の陸軍記念日を期して人民連合がクーデターをおこなう予定だったという「Z計画」なるものをでっちあげる.

10月 59%に及ぶ平価切下げを断行

10月 新憲法起草委員会発足.会長に保守党政権時代の法相オルトゥーサルが就任.

10月 カトリック,プロテスタント,ギリシャ正教,ユダヤ教の教会は共同で「チリにおける平和のための協力委員会(COPACH)」を設立.政治囚,失業者とその家族への援助にあたる.

73年11月

1日 アムネスティ,1週間にわたりチリの人権状況を視察.国立競技場に収容された政治犯に対し広範囲に拷問がおこなわれたことを確認.また 拷問にブラジル人専門家が立ち合っていたことを指摘.拷問は,火を押しつける,電気ショック,性的暴行,排泄物を食べることの強制,凍った水中へ投げ込ま れ,日光のもとで裸で長時間立ち続けさせるなどの直接的なものから,処刑や拷問への立会い,飲料や食物の禁止,騒音による睡眠の妨害など多岐にわたる.

5日 フンタ,チリ人および外国人の国外追放を制度化.

23日 政府はアジェンデ政権下で接収された88の企業を私的所有にもどすことを決定.

29日 共産党書記長コルバランはドーソン島に流刑される.

11月 サンチャゴのイタリア大使館内に、外壁越しに死体が投げ込まれる。遺体はMIR幹部のルミ・ビデラ(女性)のもの。ビデラはDINAによりビジャ・グリマルディ監獄で殺害された。

73年12月

7日 亡命者組織機関紙「民主チリ」,元内相ホセ・トアが流刑先のドーソン島で死亡と発表.

10日 フンタ,国益に背く海外亡命者の市民権を剥奪することを発表.

25日 CUT全国指導部会議は軍事評議会の「人民裁判」を糾弾.

12月 グラディス・マリン、党の指示を受け、オランダ大使館に駆け込み亡命を申請。夫のホルヘ・ムニョスは国内指導部の一員として残留。彼女自身は最後まで国内残留を主張したという。9ヶ月間、大使館内で待機した後、国際世論の圧力の下に亡命を勝ちとる。

12月 対米債務返済と国有化された米資産の補償で合意成立.

12.18 民社党塚本調査団がチリ訪問.ピノチェトとも会談。帰国後、クーデターは「天の声」であったと報告.

 

1974年

74年1月

4日 軍事政権は米国のダウ・ケミカル社に対し,同社の国有化された資産を返還.

7日 MIR指導者ミゲル・アンヘル・サンドバル・ロドリゲス、DINAにより逮捕され、そのまま行方不明となる。

1月 軍政長期化の方向が前面に.キリ民党は軍政批判を開始.すべての出版物について検閲制導入

1月 アルタミラーノ社会党書記長は追及を逃れ,軍事評議会とのあらたな闘争のためにキューバに到着.

1月 製パン労働者のストライキ.

74年2月

20日 ピノチェトは「非常体制」(政党・団体活動の禁止)を5年間継続する旨を言明.

22日 法令第326号公布.外貨でチリに資本をもちこむものは,その資本を自由に再輸出できることとなる.

2月 シカゴ調査委員会,サンチアゴ北方のテハス・ベルデスの特別工作部隊のキャンプで残虐な拷問がおこなわれていることを暴露.

2月 軍事政権、キリ民党機関紙「ラプレンサ」を発刊停止処分に.

2月 MIRの提唱でパリで革命派合同評議会開催.アルゼンチンのERP,ウルグアイのツパマロス,ボリビアのELNなどカストロ派ゲリラ組織が参加.後にLA・ゲリラ組織の統轄機関となり,ゲバラの義弟でキューバ情報将校のフェルナンド・ルイス・アルバレスが指導.

2月 国連人権委員会,チリ軍事政権に対し人権侵害を止めるよう求める.

74年3月

11日 国家再建方針として「チリ政府の諸原則」を発表.その政治思想が「西欧キリスト教文明」に基づくものであること,その支配的な統治ス タイルを守り抜くこと,評議会の統治はその目標が達成されるまで持続されること,民主主義を尊重する諸個人の権利は尊重されること,を声明する.議会制民 主主義を否定し,長期軍事独裁の方向をしめす.

11日 地下のCUT指導部は,反革命から半年の時点で失業者がチリの全労働人口の20%にあたる50万人以上に達したと発表.また物価も 同時期に2倍から15倍の上昇を示した.生産能力は4分の1に低下.キリ民党のエイルウィン議長,軍事評議会による「力の利用」を非難して政治制度的現状 を批判.

15日 ブラジリアでガイゼル新大統領の就任式.これに出席したピノチェト,ボリビアのバンセル,ウルグアイのボルダベリ大統領,ガイゼル・ブラジル新大統領が会談.軍事ブロック結成を協議.

17日 ホセ・トア・ゴンザレス,サンチアゴ市内の病院で毒物を体内に注射され死亡.ついでアルベルト・バチェレト空将(元分配・流通相)も「病死」の発表.ホセ・トアの葬儀が銃剣下のサンチアゴ市内でおこなわれ,インタナショナルの合唱が禁止された.

22日 チリ軍事政権犯罪調査国際委員会第1回会議がヘルシンキで開かれ,アジェンデ夫人の他,カルロス・アルタミラーノ,ボロディア・ティテルボイムなどが参加.

23日 イギリス,ロールスロイス社の労働者はチリ軍事政権に抗議して,チリ空軍用航空機エンジンの修理を拒否.

25日 パリで対チリ債権国会議が開かれ,米国など13ヵ国が参加.返済延期に関するチリ軍事政権の要請を承認.

27日 イギリス労働党政府は,チリ軍事政権への不同意表明としてチリへの経済・軍事援助を全面的に停止する決定.

30日 チリの軍事法廷は二人の愛国者(フアン・バサイ,ベナト・ベルニク氏)に死刑を宣告.

3月 米系銅山の補償について対米合意成立

3月 MIR,銀行襲撃を試みるが失敗.アジトを発見され,銃撃戦の末エンリケスら幹部全員が射殺.後継にアンドレ・パスカルが就任.

74年4月

1日 新外資法制定,外国資本の流入,流出を完全自由化.銀行民営化にともない,旧独占は完全復活.軍事政権はUP政府が国有化した企業120社を旧所有者に返還し,他の40社についても近日中に返還を予定と発表.

1日 チリ最高裁は,軍当局者に未成年者の逮捕・投獄の権限をあたえた.

9日 軍事政権の憲法起草委員長エンリケ・オルツザルは,新憲法下では左翼政党は禁止されると言明.

13日 CUTは軍事政権によって作られた「チリ労働総同盟」を非難して,それがファシストにより作られた反労働者的組織であることを暴露.

4.14 第4回閣僚会議,シカゴ大学経済学教授セルヒオ・デ・カストロを経済相に,マネタリストのホルヘ・カウアスを大蔵相に指名.自由市場経済へ向け方向転換.

18日 軍事政権は,UP政府を支持した空軍将校ら64人に対する裁判を開始.

22日 コルビーCIA長官「62年から70年まで,アジェンデ当選阻止のために1千万ドル以上の資金を投下した.これは40人委員会のCIAに対する許可に基づく」と上院情報委員会で証言.

4.24 カトリック教会,「チリの和解」と題する文書を発表,国民和解に向けての必要条件を提示.立憲政治への復帰,基本的人権と政治的自由の無条件尊重を強調.政府が責任を持って貧困と失業問題を解決するよう要請.

25日 チリ・カトリック教会の司教28人は,軍事政権の政治囚に対する拷問と人権蹂躙を非難する覚書をラウル・シルバ・エンリケス枢機卿に 提出.サンチアゴ州内の8ヶ所の拘置所を始め,17ヶ所で17の異なった方法によりすくなくとも百回以上の拷問がおこなわれ,うち16人が拷問のため死亡 したことを明らかにする.エンリケスは「尋問中におこなわれた肉体的,精神的な拷問」を非難する声明.

27日 サンフェルナンド市の軍事法廷は,社会党員5人に死刑を宣告.48時間以内に執行.

27日 イギリスの合同機械工労組の年次総会は,チリ軍事政権への軍艦引き渡しに反対決議を採択.

30日 メーデーの前日,サンチアゴ市内で地下活動中のUPグループによって闘争強化をよびかけるビラが撒かれる.このアピールによれば「当 面するファッショ敵軍事独裁の打倒とともに「われわれの目標は,9月11日に崩壊した民主政府のたんなる復活ではなく,人民戦線の経験の機械的な繰り返し でもない」と主張.

74年5月

6日 軍事政権,コルバランらドーソン島流刑中の指導者をサンチアゴ市内に移動.

14日 軍事政権,パブロ・ネルーダの遺体を不明の場所に移動.

25日 軍事評議会,キリ民党所有の放送局を接収の予定と発表.

5月 布令第41号,商店の買いだめ・売り惜しみを禁止.小売商連合会は「現在の状態が今年末以降も続くならば,もう一度たたかわねばならなくなる」と表明.

74年6月

6日 アジェンデ政府を支持した空軍兵士と民間人64名に対する裁判開始.

6日 チリ経済相,物価高騰が続いていることを認める.

11日 ピノチェト,国家最高元首に就任.

13日 軍事政権は公務員十万人を75年末までに解雇することを発表.

14日 評議会,軍の秘密警察として国家情報局(DINA)を創設,マヌエル・コントレーラス将軍が長官に就任.国内における誘拐・拷問センターとして機能する一方,海外における暗殺活動も展開.

17日 政府,政令527号を公布.立法機能と統治機能を分離し,すべての統治権限をピノチェト国家評議会議長に集中すると宣言.また法令130号を公布.既存の選挙管理委員会には重大な不正疑惑があり,これを解散して新たな選挙システムを創設すると発表.

22日 国家情報局(DINA)が創設され,チリ市民の反軍事政権活動の調査にあたっていることが判明.

28日 チリ軍事政権の犯罪調査委員会の緊急委員会が開かれ,UPの指導者に対する裁判がおこなわれれば,同委員会はチリの実体を暴露し,国際人民裁判を組織すると発表.

28日 軍事法廷はクーデターに反対した容疑の33人に対して終身刑,禁固刑を判決.

6月 チリ,ILOを脱退.ILOはこれを非難する声明.

6月 フンタ,非常事態令の公布基準を改悪.「外国の攻撃あるいは国内争乱」を「外国の攻撃あるいは国内争乱の怖れ」とする.

74年7月

1日 世界労連は9月にチリ連帯の世界労働組合会議をリスボンで開催すると発表.

11日 外国投資家規約発効.国家が投資のおこなわれた時点での諸条件の維持を保障することとなる.ANCOM諸国からカルタヘナ協約違反を指摘されるが無視.

12日 ピノチェトは内閣を改造.第二次内閣は軍人14人,民間3人で構成.

20日 MIRの活動家ルイス・グアハルド・サモラーノとセルヒオ・トルメン・メンデス、DINAにより逮捕される。ビリャ・グリマルディで目撃されたあと行方不明。二人の後を継いだホセ・ラミレス・ロサレスも、1週間後に逮捕される。

23日 ティテルボイム政治局員ベルリンで声明.この前の週だけでも千五百人が逮捕され,その多くが銃殺され,拷問を受けていると述べる.

28日 ニューヨーク・タイムス,チリには依然として6千人の政治囚が拘留されていると報道.

30日 軍事法廷,4人の死刑を含め61人に有罪の判決.民間人10人,軍人51人.

7月 国有企業の民間売却すすむ.UP政権末期に480社あった国有企業の半数が売却.フレイ時代のものもふくめすべての協同組合農場が旧地 主へ返還.チュキカマタ,エルサルバドル銅山に対し2億5千万ドルを支払うことでアナコンダ社とのあいだに協定成立.翌月にはエルテニエンテ銅山について ケネコット社とのあいだに協定.

74年8月

8.23 常務主教委員会,「戒厳令を解き,クーデター以来,未決のまま囚われている政治犯に恩赦を与える」ようピノチェトに要請.

8 ピノチェト,クーデターは73年はじめに計画され,当初は5月決行予定であったと発言.

8 OAS人権委員会,いまなお政治犯に対する拷問がおこなわれているとする報告書をチリ政府あてに提出.

74年9月

9 コルビーCIA長官,キッシンジャーNSC責任者の承認下に8百万ドルの暴力資金を提供したと米下院で証言.

9.16 レイトン,フエンテアルバらキリ民党指導者,クーデターに対する断固たる非難を表明.

9.27 プラッツ将軍夫妻,ブエノスアイレスでDINAの爆弾テロにより死亡.

9.19 フォード米大統領,議会指導者9人にチリでのCIA秘密活動を説明.

9.30 ルイス元空相,チリ大学総長に就任.全大学の学長に軍人が就任.反人民連合の旗手ベーニンゲルは抗議声明を発表し辞任.国立工科大 学,チリ大学社会経済研究センター(テオトニオ・ドスサントス所長)は閉鎖されチリ大学教育学部(エルナン・ラミレス学部長)はほとんどの学生が放校処分 を受ける.

9 福音ルーテル教会トップのヘルムート・フレンツ司教,教会内保守派により追放される.彼はそれまでに5000人の国外亡命にあたり身元引受人となった.

9月 法令640号.非常事態の基準が再改悪され,「潜在的な脅威」に対しても適用されることになる.これにより非常事態は事実上永遠に持続可能となる.また,組織された反抗でなく,組織を企てただけでも非常事態関連法の対象となる.

74年10月

10.5 国内潜伏中のMIR書記長ミゲル・エンリケス・エスピノサ,DINAにより隠れ家を包囲され銃撃戦の末射殺される.共産党はロドリゴ・ロハス政治局員の名で彼の死を哀悼.75年2月までにMIR幹部11名が殺害もしくは行方不明となる.

10.05 フレイ時代の副大統領ベルナルド・レイトン,国内帰還を禁止される.彼は国内活動を禁止されたキリ民党のシンボル的存在となっていた.

10.11 外相イスマエル・ウェルタ提督,ワシントンで記者会見.米国の諸権益との交渉開始を表明.

74年11月

11.05 MIR幹部ルミ・ビデラの首なし死体がイタリア大使館に投げ込まれる.その後さらに恐怖作戦が強化される.

11.6 国連総会,90対8でチリにおける大規模な人権侵害を非難する決議を採択.以後毎年のように決議をくりかえす.

11.28 平和委員会,131人の行方不明者に対し人身保護令状を求める.

11.29 MIRの活動家で、「チリ・フィルム」に属する映画製作者のホルヘ・ムレル・シルヴァ、DINAに連行され、そのまま行方不明となる。

11月 シルバ・エンリケス枢機卿,軍の干渉に抗議し,カトリック大学名誉総長の職を辞す.

74年12月

12.13 軍事評議会,賠償問題協議のためのチリ代表に国民党政権時代の蔵相フリオ・フィリッピを任命.

12.17 ピノチェト,国家最高元首の称号を廃し共和国大統領となる.

12 チリ共産党,「人民連合よりもはるかに広範で,例外なしに独裁制を終わらせることに賛成しているすべての政治的,宗教的,軍事的諸組織と個人の連合を作り上げる」方針を提起.

12 ILO視察団報告.「多くの労組指導者が殺された.裁判抜きのこともあった.拷問の結果死んだものもいた」

 

1975年

2.19 DINAに逮捕されたMIR幹部4人が国営テレビに出演.MIRの敗北を認めるとともに武装闘争の停止を訴える.

75年3月

3.04 内相兼国防相で、キリ民党系のボニジャ将軍、ヘリコプターの墜落事故により死亡。

3.25  ミルトン・フリードマン,チリを訪問.軍事政権の経済閣僚を激励・指導,フンタは対ドル価格を最初8%,次いで15%切り下げ.一部の商品で価格統制を撤廃.

3 チリに対する再融資を協議するためのパリ・クラブ債権国会議,イギリス,イタリアなどの不参加により流会となる.

3 チリ最高裁長官,行方不明者は地下に潜行したか,海外に亡命したものと思われると発表.平和委員会による人身保護の訴えを却下.

75年4月

4.1 ヘルムート・フレンツらの手により「キリスト教会,社会援助基金」を設立.政治囚と・その家族を中心に人権侵害の犠牲者に対し法的,心理的援助を与える.国連難民問題高等弁務官と世界教会評議会が支援.

4 シカゴ学派の代表S・デ・カストロ,経済相に就任.A.バルドンが中央銀行副総裁に就任.財政支出の25%削減を中心とする「ショック政 策」発表,「劣悪企業」のきりすてに乗り出す.牛乳,自由販売制に移行,二大企業の独占となり価格が40%上昇する一方,生産者価格は22%ダウン.増大 する失業者に対し,政府は一時的措置として最低雇用計画(PEM)を実施.

6 キリ民党,非合法化.ピノチェト「選挙は永遠におこなわれないだろう」と声明.労組指導者,非合法下に労組再建を開始.その後公務員労組などを再建.

75年7月

7.11 ハイメ・ロボタム・ブラボら二人の社会党員学生の死体が、ブエノスアイレスの近郊で発見される。

7.15 アルゼンチンの雑誌「LEA」,ハイメ・ロボタム・ブラボらをふくめ60人に上るチリ人行方不明者のリストを発表.リストの出元は不明だが、軍がリークしたものと思われる。

7.17 「LEA」に続きブラジルの雑誌「O Dia」が59名の行方不明者リストを発表.

7.23  チリのメディア,行方不明者はMIRの内紛によるもので,その大半はすでに国外に脱出したと報道.その後の調査では,これら119名はチリ軍部と軍事独裁諸国情報部との共同作戦「コロンボ作戦」の犠牲者で,現在もなお行方不明のままとなっている.これらのうちの多くは、75年1月に ビリャ・グリマルディで、「生きた状態」で収容されているのが目撃されている。

7.24 キッシンジャー,上院で証言.アジェンデ当選を阻止するため,当時あらゆる手段をとるよう指示したことを明らかにする.NYタイムズ,アジェンデの大統領就任の際,ニクソンが「政権成立阻止に全力をあげるよう」指示したと報道.

7.31 プチュカビのメリンカ収容所で政治囚95人がハンガースト.行方不明の119名はDINAにより拷問,殺害されたと表明.

7 ベルリンでUP6政党による合同会議,綱領的文書「UPとチリ人民の課題」を発表.「UPよりも政治的,社会的,思想的にはるかに広範な同盟」を形成することを呼びかける.

7 軍事評議会,国連人権委員会調査団の入国を拒否.

7 長老派教会の主流派,軍事政権支持を表明.

8.01 国営テレビ,テレビ漫画シリーズ「マファルダ」の放映を中止.漫画の作家キノ(アルゼンチン)の批判的,破壊的傾向に視聴者の非難が集中したためと説明.

9.1 反共集団コマンド・コンフントが結成される.旧「自由と祖国」のほか空軍情報機関SIFA,海軍,カラビネーロの将校が参加.空軍情 報部長のエドガルド・セバジョス・ホーネス大佐が指導.共産党幹部を次々と連行.多くがそのまま行方不明に.レッティグ報告によれば少なくとも30人の失 踪はコンフントの仕業.

75年10月

10.3 政府,ヨーロッパ外遊中のフレンツに対し帰国を拒否.

10.6  ベルナルド・レイトンと妻のアナ・フレスノ,亡命先のローマで暗殺者に襲われる.レイトンは重傷を負うが逃れる.レイトンはフレ イ大統領時代に副大統領を勤めたキリ民党の幹部で左翼との対話路線を主張.DINAのイニシアチブにより南米軍事政権間で「コンドル作戦」展開.レテリエ ル暗殺,レイグトン襲撃などをてがけたほか,国外亡命中の有力政治家暗殺を共同して進める.

10.08 平和委員会の元副議長エルムート・フレンツ,入国を禁止される.

75年11月

11.27  平和委員会(COPACH)に対して解散命令.二年間に一万件以上の政治犯にかかわる.

11月 サンチアゴにて第一回国際情報機関作業会議。アルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ、ボリビア、チリの軍情報部の最高責 任者による極秘会談.DINA長官のマヌエル・コントレラス大佐が議長を務める.「コンドル作戦」というコードネームをもつ南米6か国間の情報調整・安全 保障システムの創設で合意.ブエノスアイレスにある「オルレッティ自動車会社」を秘密収容所とし,各国軍部の誘拐と移送とを企画・調整.またブエノスアイ レスの「軍部機械整備学校」を情報センターとし,各国の軍情報関係者が常駐することとなる. 

11月 ピノチェット,スペインのフランコ総統の葬儀に出席.イタリア司法当局の資料によれば,ピノチェトはスペインのフランコ派細胞・ポ ルトガル軍情報部・イタリアのネオファシスト集団などと接触.チリでの訓練や免責を条件として,多国籍テロリズムのネットワークへの参加を打診.国際白色 テロ組織の形成に向けて動く.

75年12月

12.7 ピノチェト,ラウル・シルバ・エンリケス枢機卿あてに書簡.「平和委員会は市民の平和を脅かすマルクス・レーニン主義者の隠れみのになっている」と非難し解散を求める.

12.17 カルロス・サンチェス・コルネホ,空軍情報組織コマンド・コンフントにより拘留された後,行方不明となる.

12.30 イギリス人女医が,チリ警察の拷問を告発.

12 評議会,「事実を歪める報道,公衆を惑わせる報道」があれば最大6日間の発行停止を命じると発表.報道人組合やメディア関係組織はこの声明に抗議.

75 ボニージャ国務相,不可解なヘリコプター墜落事故で死亡.空軍出身のボニージャは,労働対策を担当.ピノチェトのスト権,団結権否定の 路線に反対していたといわれる.このあとキリ民党系の空軍の軍事評議会におけるヘゲモニーは低落し,ピノチェトの手に権力が集中していく.

 

1976年

76年1月

1.04 「サンデー・タイムズ」誌によれば,チリ軍事評議会メンバーの古参将軍10人がピノチェト大統領に辞任を要求.

1.05 カトリック教会,解散したCOPACHにかわり,大司教直属の人権組織 Vicaria de la Solidaridad (ビカリア連帯司祭) を 正式に結成.被抑圧者に法的,経済的,技術的,精神的援助を与えることを目的とする.食事の無料提供などの活動をひきつぐ.そのほか失業者のための作業所 や,職業紹介所の設置に乗り出す.最も重要な功績は独裁政権下の人権侵害の事例を掘り起こし,その家族に法律面での援助を与えたこと.

1.05 米州人権委員会,チリにおける人権侵害を非難.メルクリオ紙は報告の詳細を報道.

1.09 立憲法1号,国家防衛評議会の設立を布告.前・元大統領その他16人のメンバーが指名される.権限は大統領の諮問する審議会にとど まる.国民党のアレッサンドリが議長に就任.他にビデラ元大統領、キリ民党右派のフアン・デ・ディオス・カルモナ上院議員、鉱山労組議長のギジェルモ・メ ディーナ、元最高裁長官のエンリケ・ウルティアなど。フレイは評議会への参加を拒否.反政府の立場に転換.

1月 75年度の経済成長率は30年代初頭以来の17%,工業生産は35%のマイナスとなる.公務員の解雇と不況により失業率は16%に達するが,インフレは収束せず.軍部は「ベルトを締めよう」というキャンペーンをはり,スチュワーデス政治の異名をとる.

3.08 ピノチェト,反対派を排除した内閣改造.

3.11 ニクソン元米大統領,チリのアジェンデ政権阻止をCIAに指示したと語る.

4 「グルポ10」,時間外労働の強制禁止と五割の割増を要求.警察は「国家の安全を乱すもの」として指導者を逮捕.

5.1 労組活動家,メーデーの公認と経済政策の変更を要求して行動.

5月初め カジェ・コンフェレンシア作戦が実行される。地下に潜行していたチリ共産党中央委員会の全メンバーをふくむグループがいっせいに 逮捕された。共産党副書記長のビクトル・ディアス・ロペスを初め、マリオ・サモラーノ・ドノソ、レーニン・ディアス・シルバ、マルセロ・コンチャ・バスク ナン、セサル・セルダ・クエバス、ホルヘ・ムニョス(グラディス・マリンの夫)らがそのまま行方不明となる。

4 メキシコでUP在外指導者会議.反ファッショ統一戦線綱領を採択.

76年6月

6.07 ピノチェト大統領,政治犯60人を釈放すると発表.

6 サンチアゴでOAS総会,軍事政権の人権侵害と政治囚迫害を非難する決議.チリ以外のすべての国が賛成.キッシンジャーも「人権抑圧」を指摘.チリは反対できず棄権に回る.

6 ジュネーブのILO評議会,労働法を国際法の線で遵守するよう,軍事政権に要請.

76年7月

7.16 スペイン外交官でサンチアゴのECLAに勤務していたカルメロ・ソリア,失踪後2日目に死体となって発見される.DINAのムルチェン(Mulchen)旅団による犯行であることが明らかになるが,彼らは恩赦法を適用される.

7.30 E.ケネディ上院議員,ピノチェトが政権にとどまる限りチリへの軍事援助を停止するとの法案(Kennedy amendment)を提出し,採択される.チリ右翼はケネディを国家の敵と非難.

7.30 非政府系の雑誌「アプシ」創刊.その後次第に反政府色を強める.

7月 出版・印刷関係の共産党員にいっせい弾圧。ギジェルモ・マルティネス・キホン、オスカル・ラモス兄弟、ファン・アウレリオ・ビジャロエル・サラテらが逮捕され、その後行方不明となる。

76年8月

8.06 フンタ,弁護士のハイメ・カスティージョとエウヘニオ・ベラスコを国外追放.チリに於ける人権侵害の報告を発表したため.最高裁はこの措置を是認.

8.09 共産党中央委員で人民連合の物資供給・物価統制委員会議長をつとめたマルタ・ウガルテ・ロマン,DINAにより誘拐虐殺.翌月四肢を拷問で折られた死体がバルパライソ近郊Los Molles村の海岸に漂着.

8.11 共産党の中央委員で元国会議員ヴィセンテ・アテンシオ・コルテス、DINAに逮捕され、そのまま行方不明となる。

8 ワシントン亡命中のオルランド・レテリエル,ピノチェトの「自由主義」経済の実態を暴露.レテリエルは人民連合政府で外相,駐米大使を歴任した。クーデター後一時捕らえられたが,脱出に成功.ワシントンの政治学研究所に勤め,軍政批判を続けていた.

8 エクアドルのリオバンバでラテンアメリカ司教会議.会議に出席しようとした聖職者17名が,エクアドル当局により一斉逮捕.

76年9月

9.10 チリ政府,レテリエルのチリ市民権を剥奪.

9.11 クーデター三周年を記念して新憲法草案を部分的に公表.第一章、国家評議会。第二章、制度の基礎。第三章、国民の権利と義務。第4章、非常事態。

9.13 立憲令4号「基本的人権と義務」公布.非常事態令改正.政府権力のおよぶ範囲が限定される.政府批判と政党結成は禁止のまま.

9.23 レテリエル,ワシントン市内で車爆弾により殺害される.同乗していた協力者で米国人ロニー・モフィットも死亡.カーター政権はDINAによる犯行と判断.軍事・経済援助を停止,大使をひきあげる.

10 外国資本と関税ににたいする見解の違いから,アンデス共同市場(ANCOM)より脱退

10 シルバ・エンリケス大司教,チリ司教会議の決定を受け「チリはナチス型独裁国」となり「85%の国民が軍事政権に反対」と声明.

76年11月

11.03 控訴審第五小法廷,75年11月にDINAにより逮捕されたカルロス・コントレーラスのケースについて,初めて人身保護の訴えを受理.

11.11 アルゼンチン軍事政権のビデラ大統領がチリ訪問.ピノチェト大統領と経済協力拡大で共同声明.

11.17 評議会,クーデター以来捕らえられていた政治囚304人を釈放すると発表.198名に対する国外追放令も解除.トレス・アラモス からは男性115,女性19名,プチュンカビからは168名.うち18名はそのまま国外追放.ルイス・コルバランとホルヘ・モンテスは引き続き拘禁され る.

11.29 共産党残党に対する第二次弾圧開始.13人の幹部が逮捕される.年末までに共産党中央委員は一掃される.

12 国連総会,チリ政治囚の救済を圧倒的多数で決議.

12.17 国連総会決議に押され政府はコルバラン共産党書記長を釈放.コルバラン書記長,スイスのチューリッヒ空港でソ連に引き渡される. コルバランはモスクワ亡命.

12 共産党国内最高指導者のフェルナン・オルティス,サンチアゴ市内の街頭で逮捕,そのまま行方不明となる.

 

1977年

1.18 キリ民党の持つ主要局バルマセダ放送,無期限に放送停止となる.

2月 軍令107号,新規発行の雑誌・書籍などの許可基準を改悪.完全な事前検閲制となる.

3.09 アメリカのタイソン国連次席代表,国連人権委員会でチリのアジェンデ政権転覆への米介入を認め遺憾の意を表明.カーター米大統領はこれを否定し,タイソンを召還.

3.12 法令第三号が発表される.引き続き全政党に対する活動休止が強制されることとなる.

3 レテリエル暗殺事件を調査する米国司法当局,DINA長官コントレーラス将軍の身柄引渡しを要求.ピノチェトはDINAを解散し,代りに国家中央情報局(CNI)を創設.戒厳令は解除されるが,非常事態は引続き施行

4 ピノチェト,政府転覆策動を理由に,キリスト教民主党以下全ての政党の解散と政治活動の禁止,資産没収を決定.

5.25 モンデール米副大統領,フレイ元チリ大統領と会談.

6.14 行方不明者の家族,サンチアゴのECLA本部で失踪者問題に抗議するハンスト開始.軍政に対する最初の公然とした抗議行動.

7.9 ピノチェト,セロ・チャカリージャスで演説.81年1月1日をもって「新民主主義」へ移行する長期民政移管計画(チャカリージャス声 明)を発表.軍事支配は85年まで延長されることとなる.立憲システムと議会の創設が発表されるが,議会の2/3は評議会の指名によるとし,85年まで評 議会を存続させることを明らかにする.

7 政府,鉱山を「民営化」,米国資本に売却する.関税率一律10%まで引下げ.「新外資法」公布.為替自由化によりIMF8条国に移行.その後四年間,年平均8%の経済成長を達成,「チリの奇跡」と自称する.

8.13 レテリエル事件の後国際的非難を受けたDINAが解散され,国家中央情報局(CNI)に改組.DINA幹部のほとんどはCNIに横滑り.内務省ではなく国防省が主導権をにぎる.

8 人民連合とMIR,ベルリンにおいて共同宣言を発表.

10 バルパライソとサン・アントニオでコーディナドーラに指導された労働者のデモ.

11.10 CNI,サンチアゴ市内サンミゲルで爆発物により二人の極左派が死亡したと発表.

11.11 ピノチェト,1978年末までに新憲法の起草を終えるよう指示.

11 エルテニエンテ銅山で労働者の非合法の抗議集会.

11 永野日商会頭を団長とする財界使節団,チリ訪問.急速に関係強化.

12.5 国連総会,チリ政府による継続的かつ不名誉な人権侵害を非難する決議を採択.米国もこの決議に賛成.

12月 ピノチェト,チリの尊厳を守るための「国民コンサルテーション」を提案.国連の非難決議を拒否すること,チリの尊厳を守る大統領の努力を支持することを求める.陸軍を除く三軍司令官は投票に反対の意思を表明.

12 政府,五大銅山とならぶ埋蔵量を持つといわれるディスプータ・デ・ロス・コンデス銅山をエクソン社へ売却.

12 バーガー織物工場で労働者の不法闘争.

 

反撃開始の時代

1978年

78年1月

1.04 ピノチェト「国民的相談」を実施.投票の結果75%が支持,20%が不支持,無効票が5%.ピノチェトは,投票結果を政府に対す る信任の証とする.アメリカズ・ウォッチは投票が公平さの保障なしに行われたこと,選挙人名簿がクーデターにより破棄されていたこと,戒厳令の下市民的自 由がきびしく制限され,暴虐と恐怖が支配する中で行われたことから,その有効性を疑問視.

1.10 キリ民党幹部14人,昨年11月16日に秘密の会合を持ったとして北部に国内追放(レレガシオン)される.

1 当局,共産党,社会党,MIRの共同のアジトを摘発と発表.

78年3月

3.01 フアン・ウィリアムス・ローズとアレハンドロ・ロメラル・ハラの写真がチリ新聞を飾る.二人はレテリエル殺害事件に関係したとさ れる.ウィリアム・ロースは本名マイケル・タウンリー.米国人で「祖国と自由」のメンバー.ロメラルの正体は陸軍大尉アルマンド・フェルナンデス・ラリオ ス.彼は75年からDINAに所属,アレジャーノ・スタークの腹心だった.米国はタウンリーの旅券偽造容疑を捜査するためユージン・プロッパー司法長官を チリへ派遣すると発表.

3.10 国民投票で「信任」を得た軍事政権,好況局面を背景に戒厳令解除.非常事態・国内争乱危険状態宣言は継続.

3.31 夜間外出令も解除される。

3月 外為法修正.折からの先進諸国の不況により20億ドルにのぼる外資が流入.これにより金融・商業資本を主体に経済は約2年間にわたり 「奇跡の復活」を遂げるが,資金は生産的投資に回らず外国製品の輸入にあてられたため,国内産業の倒産と高失業,低賃金に拍車.のちに対外債務の桎梏とし てのしかかる.

78年4月

4.8 マイケル・タウンリー,チリを国外追放される.マヌエル・コントレーラス将軍はDINA在任中の責任を問われ,陸軍を退役.

4.19 新恩赦法が公布され,1万8,000人以上の大量恩赦が発表される.クーデターから78年3月10日までの戒厳令下に罪を犯したす べての人物に対して適応される.5日前に就任したセルヒオ・フェルナンデス内相は,「国民的和解の始まり」と声明.後に「人権犯罪恩赦法」と糾弾されるよ うになる.

78年5月

5.1 軍政下初のメーデー集会開催.

5.22 失踪者の家族,カトリック教会内において17日間にわたるハンストを開始.公安の連行以来,行方不明になった犠牲者の居場所を明ら かにするよう要求.フェルナンデス内相,「この国は戦争状態にあったし今もそうだ.どんな戦争でも人は行方不明になるし,その行方を聞く人も,それに答え る人もいない」

6 全国労働者調整委員会(コーディナドーラ=CNS)公然活動を開始,キリ民党系労働団体を中心とする.キリ民党系法律家を中心とする憲法研究グループも結成.

78年7月

7月初め グスタボ・レイ空軍総司令官(キリ民党寄り)、国民投票に反対し,イタリア紙とのインタビューで「ピノチェトの大統領昇格は,三 軍および警察軍による4頭体制を崩すものであり反対である」とし,政権の全体主義的傾向を非難.「思想は法律で捨て去ることは出来ない」とし,左翼政党の 合法的存在を支持すると語った.米国の支持を期待したものと思われる.

7.08  ワシントン・ポスト,ピノチェト自身がレテリエル殺害事件に関与と報道.

7.24 レイ司令官,評議会から追放される.評議会はレイを「9月11日運動の成果を無にしようとした」と非難.

7.25 レイの後任に保健相のフェルナンド・マッテイ将軍.ピノチェトは新たに24人委員会を設置.レイの解任に抗議し、空軍将軍21名のうち19名が辞任。

78年8月

8.01 ワシントン連邦大陪審,レテリエル事件の判決.キューバ系米国人ノボ兄弟,アルビン・ロスらに有罪を宣告.またマイケル・バーノ ンほか3人のチリ情報局員を事件の主犯とする.レテリエル事件の関係者としてマヌエル・コントレーラス長官,ペドロ・エスピノサ作戦部長,フェルナンデ ス・ラリオスの身柄引き渡しを要求.チリ政府は犯人引き渡しを拒否.

8 チュキカマタ銅山で労働者1万人がストライキ,ピノチェトは戒厳令を公布してこれを弾圧.これを機に全国労働組合調整委員会(CNC)結成.

8 新憲法起草委員会,憲法草案を答申.アレッサンドリを議長とする国家評議会の審議にうつる.

9 ビカリア,公安権力に逮捕された後失踪した613のケースを報告.この報告は1年にわたる調査の後エンリケス枢機卿に提出された.

78年10月

10.19 軍事評議会,550の労組を傘下におく7つの産別労働連合にたいし解散命令.

10 国家評議会,「新憲法」草案を発表,起草委員会の案を根本的に拒否,代表制民主政治を制度的に否定.

78年11月

11.09 教会の常設監査委員会,人権と失踪者問題に関してきびしい調子の声明を発表.「失踪者はその前にかならず政府情報機関に捕らえられているが,政府は徹底的な調査を避けている.残念ながら失踪者のほとんどは超法的措置により殺害されていると断ぜざるを得ない」

11.22 ヴィカリア,当局の圧力をはねのけ人権問題国際会議を開催.

11.26 米州労働者機構(ORIT),チリへの輸出関連労務のボイコットを承認.7つの労組連合への解散命令に抗議したもの.

11.30 サンチアゴ南方50キロのタラガンテ(ロンケン?)の石灰石鉱山跡から行方不明者15人の遺体が発見される.政府ははじめ,昔の インディオの骨と主張.これに対しビカリアは,クーデター以来殺された人を隠すために不法に埋葬されたものと発表.8人の警官が裁判にかけられるが,まも なく恩赦を受ける.

78年12月

12.10 国連人権賞がビカリアに贈られる.エンリケス大司教がニューヨークに赴きワルトハイム事務総長より賞を受け取る.席上エンリケスはビカリア理事長Cristi疣 Prechtの辞任を要求.プレヒトによればビカリアの活動を不快に思う政府筋の圧力によるもの.

12.10 基礎共同体を結集しチリ人権委員会が創立される.委員会は失業,ホームレス,貧弱な家屋,医療の欠如,栄養不良も同様に人権問題であると指摘.

12.19 ホルヘ・ウールトン司教とビカリア弁護士のホルヘ・モリーナ,クエスタ・バリガで行方不明者2人の遺体が発見されたと発表.法医 学研究所の検死官クラウディオ・モリーナ, 死体はいったん埋葬された後掘り起こされ,さらに「冒涜を加えられた」と証言.その後,ともに撃たれながら奇 跡的に生き延びた証人が現われる.証言によれば,彼をふくむ7人がクーデター直後クラカウ警察署に連行され,その後クエスタ・バリガの小屋に連れて行かれ たあと撃たれたという.

12 フレイ時代の農地改革法最終的に廃止される.接収された農場の2/3,農地の1/4が旧地主に返還される.

78年 グラディス・マリン,スペイン人 "イサ" に変装してチリに潜入.その後2年間,当局の手を逃れ地下活動継続.この間キューバやソ連にも出入国をくり返す.

78年 MIRのミゲル・エンリケス,亡命先のキューバからチリ国内に潜入.国内に残留していたアンドレ・パスカル・アジェンデとともに組織の再建に乗り出す.

 

1979年

1.02 新労働法が発効.ネオリベラリズム政策の下,労使交渉権が制限され,最低賃金が切り下げられる.

4 反テロリズム法制定,反体制思想を持つことを禁止,国民に密告を義務づける.労働計画(労働法)公布.労組の団交権,スト権はきびしく制限される.

4 政府,コンデス銅山に続きロス・ペランブレス銅山をアナコンダ社に売却.

5.1 メーデーで労働者が無許可デモ.365人が当局に逮捕される.

6.20 「ホイ」誌,2ヶ月の発禁処分.アルメイダおよびアルタミラーノとのインタビュー記事が政党宣伝を禁じた政令に違反したため.

6 為替率,1ドル39ペソに固定化.関税を10%に固定.

8 園田外相,チリを公式訪問.ピノチェトを国賓として日本に招待,経済進出に乗り出す.以後3年間で貿易高は2倍強に増加.

8 全国労組連絡会議(CNS),労働権擁護コマンドを結成.新労働法による影響への対抗手段を検討開始.

10 最高裁,コントレーラス,エスピノサ,ラリオスら軍将校に対する米国の引き渡し要請を拒否.

10.02 ジュンベル(Yumbel)のサンチアゴ中央墓地で19人の身元不明の遺体が発見される.その後の調査で彼らは73年9月18日にカラビネーロに連行されたラハとサンロセンドの活動家であることが明らかになる.その他各地の墓地で秘密処刑者数百の遺体発見.

79 チリ最大のウアバチト製鉄所で,クーデタ後初のストライキ.

79 社会党,二派に分裂.アルメイダ元外相派は武装闘争を認め,共産党との共闘を優先.アルタミラーノ書記長派は,中道勢力との連合を重視.この分裂でUPは解体.

79 キューバに亡命したアンドレス・パスカル,MIR機関紙「エル・レベルデ」を創刊.MIR国内派指導者のエルナン・アグイロ,「ブルジョア趣味の贅沢な暮し」を理由にパスカルを批判.

79 チリ大学学生自治会選挙で,共産党系学生が当選.

79 地下の共産党の指導のもとに,ポブラドーレス首都圏連絡会議結成.

 

1980年

3.7 国際婦人デー.デモ参加者118人が逮捕される.

3.21 フィリピンの独裁者マルコス,安全上の問題からピノチェトの公式訪問を拒否.予定を繰り上げて帰国したピノチェトはエルナン・クビージョス外相を解任.

3.22 フィリピン,ピノチェト大統領の同国訪問を断わる.ピノチェトはマルコスとの会見をセットしたエルマン・クビジョス外相を解任.

3.23 国際婦人でーのデモで逮捕された女性のうち,5人が国内追放処分を受ける.

5.01 メーデーに3千人が結集.

7.09 コンセプシオンの軍事法廷で開かれたラハ&サンロセンド(チリ南部の町)の虐殺事件公判,結審.カラビネーロス兵士15人は78年恩赦法の適用を受け放免される.73年に起きたこの事件で,19人が殺され,ひそかに埋められる.

7.15 前陸軍情報学校長ロジャー・ベルガラ大佐,車で通勤途中を射殺される.人民抵抗民兵隊(MIRの武装組織)が犯行声明.

7.23 ベルガラ大佐殺害への報復として14人が誘拐される.準軍事組織「殉教者の報復部隊」(コベマ)の犯行.拷問の上全員が釈放されるがエドワルド・ハラはまもなく死亡.

7 サンチアゴ市内で貧困者による土地占拠闘争始まる.当局の弾圧によりほとんどが敗北.

8.10 ビノチェト,9月11日に新憲法の批准のための国民投票を行うと発表.

8.11 政府,捜査当局がコベマ(Covema)に関係していたことを認める.刑事警察総監のエルネスト・バエサ将軍が辞任するが,当事者への処分なし.

8.12 軍事評議会,国家評議会の憲法草案をさらに大幅改正し可決.最終草案として公表.憲法草案の提案は権力内部における闘争がピノチェトの完勝に終わったことを意味する.

 憲法の主な柱
政治活動が認められ、二院制の議会も設置される.上院議席の9議席は政府任命議員.下院120議席はすべて直接選挙により選出される…,という「空文句」
憲法批准後88年までは移行期とされ,そのままピノチェトが大統領をつとめる.立法権も政府評議会が引き継ぐことになる.さらに88年以降についても,後継者の指名権は軍首脳に与えられ,国民には信任投票権しか認められない.
他にも,大統領の軍部・警察最高司令官任命権の制限,軍人が多数をしめ大統領よりも権限が上の「国家安全保障会議」の設置など,非民主条項がずらりと並ぶ.

8.27 フレイ元大統領,演説会で新憲法に反対する運動を提起.会場となったカウポリカン劇場は参加者であふれる.アレッサンドリ元大統領は,国家安全保障会議の規定につき,軍事評議会の横暴を批判.

9.11 独裁政権,国民投票で「憲法」制定.選挙人名簿なし,政党推薦の選挙管理人なし.不参加者は懲役または罰金刑.恐怖と不正が支配す る中で,67%が賛成,30%が反対.ピノチェトは89年まで任期8年の大統領に就任.アレッサンドリは軍事評議会に抗議し国家評議会を辞任.

10.20 キリ民党総裁アンドレス・サルディバル,滞在先のメキシコで新憲法は不当不法なものと批判.政府はサルディバルを国外追放処分.

12.20 五人の司教が,拷問執行者,それを命じたもの,それを防げる立場にいながら怠った者にたいし破門を宣告.

80 エルテニエンテ銅山で1万人の参加するストライキ

80 MIR系住民,共産党に対抗し,ポブラシオン組織連絡会議(COAPO)を結成.

80年 チリの貧困層は33%に達する。アジェンデ政権成立時の70年には17%であった。

 

1981年

2.11 国家安全評議会が創設される.新憲法にもとづく体制移行の準備機関.

2 レーガン政権,チリへの経済援助を再開.

3.11 軍部の政治介入を制度的に保障するチリ新憲法が公布..ピノチェトの大統領就任式.国会議員選挙が実施されるのは89年9月とする.

3.12 モネダ宮殿の修復が終わる.ピノチェトは宮殿内での執務を開始.

3.28 共産党指導部のコルバランとティテルボイム,新憲法により平和的民主化の道はとざされたと発言.「人民反乱運動」を提起,武装闘争をも含む反軍政闘争の方針を打ち出す.社会党アルメイダ派,急進党の前指導部,MIRなどと武装闘争の進めかたについて協議に入る.

5 カトリック教会の人権グループ「連帯の教区」の活動家医師4人が逮捕拘禁.

7.15 イングリド・オルデロック大尉,「人民抵抗民兵隊」の襲撃を逃れる.彼女は拷問用の犬を訓練していたと告発されていた.

7 労働運動指導者のマヌエル・ブストス,アラミロ・グスマン,労働者扇動の罪で6ヵ月にわたり拘禁.

8 全国労働組合連盟(CNC),非合法下に結成.「労働者の要求書」を当局へ提出.

8.11 CNCの結成を支持すると表明した元国会議員4名,「政府が容認できないほどの反抗的態度を示した」ため逮捕されアルゼンチンに追 放.=ハイメ・カスティージョ(キリ民党,元法相,チリ人権委員会会長),オルランド・カントアリアス(急進党,元鉱業相),カルロス・ブリオネス(社会 党,元内相),アルベルト・ヘレス(急進党).

9.11 軍政樹立8周年を期して,新憲法が発効する.ピノチェトは共産主義との対決を強調する演説

9.24 政府,南部バルディビアのネルトゥメでMIRと国家警察とのあいだに武装衝突が発生したと発表.銃撃戦の末7人のテロリストが殺害される.しかし目撃した記者がのちに明らかにしたところによれば死体はすべて後頭部を打ちぬかれていたという.

11 経済危機一挙に表面化.チリ最大の砂糖会社(CLAV社)倒産,関連する三つの銀行が事実上の連鎖倒産.政府は債権者に対し5億ドルに のぼる救済措置.銅国際価格は10%低下,輸出額は2割減,貿易赤字は26億ドルにのぼり,対外債務支払いは輸出額の8割にたっする.

12 キリスト教左派の活動家に対する一斉弾圧.チリ人権委員会(CCDH)事務局長イグナシオ・ヘルマン・モリーナら,逮捕され拷問を受ける.

 

1982年

1.21 国民投票に対する反対演説以来,抵抗派の象徴となっていたフレイ元大統領が,病気のため死亡.

2.27 国家公務員全国連合(ANEP)のトゥカペル・ヒメネス委員長,秘密警察により暗殺される.三人の殺し屋が彼の車に侵入し数発の弾丸を浴びせたという.

4 ガブリエル・バルデス,キリ民党委員長に選出される.

6.20 再調査によりコメバの誘拐実行犯が明らかになる.生き残りのセシリア・アルサモラ,CNI職員のエドゥアルド・カンポス・アラヤを誘拐犯の一人と証言.アルベルト・エチャバリア検事は恩赦例を適用し被疑者を解放.

6 中南米を襲った金融危機の中で固定為替レート破綻,1ドル39ペソから66ペソへ.政府はPEMに加え世帯主を対象とする失対事業「世帯主雇用計画」(POJH)を開始.道路の建設・補修を主な仕事とし,ケガと弁当は自分持ちのきびしい条件.

6 カトリック教会,「チリ再生のために」を発表.

6 MIRのパスカル書記長,ハバナで記者会見.独裁打倒のためには人民の武装が必要と発言.キューバ=ニカラグア型の方式を強調.MAPUーラウタロ派,ラウタロ青年運動と武装組織ラウタロ人民反乱軍(FRPL)を結成.

8.10 「パン,仕事,正義,自由」を求める最初のデモ行進が敢行される.32人が拘留される.

8 為替レート,フロート制に移行,対ドル70ペソに達する.経済政策の失敗と失業率の増加(1年間で12%から24%に)に抗議する「飢餓行進」始まる.

10 82年度の経済成長,マイナス14%に達する.借款は前年の1/3まで減少するいっぽう,累積対外債務は190億ドルに達する.生産労 働者数は10年前の8分の1に減少.事実上の失業者は42%に達する.ルーデルス蔵相兼経済相,チリ経済は30年以来最悪の状態にあるとしマネタリズム政 策の破綻を公式に確認.

10 反政府誌APSI,政府により閉鎖される.

10 カラマで強盗殺人を犯した元CNI職員二人が処刑される.

12.03 労組指導者マヌエル・ブストス,エクトル・クエバス,カルロス・ポルデッチが国外追放される.同日当局はサンチアゴ市内のポブラシオーネス(ラ・システルナ,ラ・フロリダ),に立ち入り捜査.反対派を一斉摘発.

12 チリの銀行の不良債権は資本準備高の8割に達しているとする公式の報告発表.あわせて中央銀行による肩代わり策を提示.

 

チリ年表  その 6

最初の反独裁のうねり

 

1983年
 

1 メキシコに端を発した中南米金融危機がチリにも波及.新興財閥を中心とするチリの5主要銀行,経営難から政府の介入下にはいる.2銀行,1金融機関は清算処分に.

1 ラパスで共産党,社会党アルメイダ派,MIRが闘争の進めかたをめぐり合同会議.会議にはアルゼンチン.ウルグアイ,ブラジル,エクアドルのゲリラ組織も同席.

2 チリに深刻な経済危機.GDPはマイナス14%に達する.軍部,シカゴボーイの代表ルーデルス蔵相兼経済相を罷免.マネタリズムの権威は一挙に崩壊.

3.16 人権防衛活動を行っていた三人の外国人神父,アイルランド人ブレンダン・フォード,デスモンド・マクギリカディ,オーストラリア人ブライアン・マクマホン,自宅を連れ出され強制送還される.

3.24 数千人が参加し「飢餓反対行進」が展開される.警官のほか金属製ナックルをはめた私服警官が多数出動.彼らは「グルカ兵」と呼ばれ恐れられた.

3 「経済非常事態宣言」を発する.その後IMFの勧告を受入れ経済再建を試みるが失敗.クーデターから10年間で貧困層は20%から40%に倍増し、失業率は4.3%から22%にも上昇。

4 キリ民党,ガブリエル・バルデスが新党首に就任.反軍政の姿勢を明確にする.

1983年5月 国民総抗議デーの開始

5.11 銅山労働者連合(CTC),キリスト教民主党のよびかけで,「国民総抗議デー」始まる.結集者は政府や反政府活動家の予想を越えて広がる.以後月1回の抗議行動が十数次にわたり定期化する.

5.12 ピノチェト大統領,軍政反対闘争と対決する姿勢を強調.政府はサンチアゴ市内を軍の制圧下に置き対抗.とくに南部の労働者地区には大量の軍隊を動員. この弾圧による死者二人(射殺),負傷者50人,逮捕者6百人.

5.21 CTCの提起で職場放棄闘争展開.この闘いのなかで,労働組合連絡委員会(CNS)など5大労働者組織が統一,労働者全国本部(CNT)を結成.

6 全国労働者指導部(CNT),創設.第二回目の抗議行動を呼びかける.

6 セゲルCTC委員長逮捕に抗議し,3銅山で一斉ストライキ.

7 キリスト教民主党のバルデス委員長,抗議行動を扇動したとして逮捕.

7 社会党・MAPU系住民,ポブラシオン運動「尊厳」を結成.キリ民党も9月にポフラドーレス運動「連帯」を結成することにより,住民運動は完全に政党系列化.

1983年8月 ADの結成

8.06 非常事態宣言が10年ぶりに解除される.キリスト教民主党党首ガブリエル・バルデスは,軍政に反対し,ピノチェトの退陣を要求する統一組織,「民主同盟」結成の意向を明らかにする.

8.10 オノフレ・ハルパが内相に就任.国民和解を謳う.

8.11 第4回国民抗議行動が展開される.陸軍はサンチアゴ市内に1万8千の兵を展開.

8.17 ピノチェト,緊縮政策を緩め,景気浮揚を狙う新政策発表.

8.22 キリスト教民主党,社会党(アルタミラーノ派),急進党,社会民主党,共和右派(国民党の一部)の5党,「民主同盟」(AD)を結 成.非常事態の解除,民政移行のための臨時政府の樹立,新憲法制定のための制憲議会の召集,ピノチェト退陣,検閲廃止,追放者・亡命者の帰国許可などを要 求.

8.30 サンチアゴ軍区司令官(知事)のカロル・ウルスア・イバニェス将軍,MIRのテロにより殺害される.ウルスアは軍情報部の幹部だった.

8 教会を仲介とした軍事政権とADとの会談.検閲の廃止,非常事態の解除,追放・亡命者の帰国については受け入れ,議会の早期開設を約束したが,他の要求は拒否したため,決裂.

1983年9月 MDPの結成

9.05 オノフレ・ハルパ内相と民主同盟の第二回会談.民主同盟はピノチェトの早期退陣と移行期間の短縮,自由選挙の早期実施を主張.

9.07 MIRがサンチアゴ市内フエンテオベフナとハナケオで抗議の行動.アルトゥーロ・ビジャベラらMIR活動家5人が殺害される.

9.10 反軍政運動の高まりの中で共産党,社会党アルメイダ派,MIRの勢力が公然化.「人民民主運動」(MDP)を結成.他にMAPU労 農派(MOC),PS−CNRなどが参加.アルメイダを議長に指名.軍事政権の終結と全政治勢力の参加する暫定政権を主張.共産党は民主同盟への正式参加 を申請したが認められず.CNTを仲介としてADとMDPの間にブリッジ共闘成立.一方,軍事政権を支持する保守勢力の一部は国民党から分離,独立民主同 盟(UDI)を結成.

9 MIRのアルトゥーロ・ビリャベーリャ(エンリケス?),国内に潜入し組織再建中を官憲により摘発,射殺される.労組指導者のトゥカパル・ヒメネス・アルファロ,CNIにより暗殺される.

9.22 サンチアゴ市内のラ・グランハとラ・システルナで三万人が参加する土地占拠闘争.確保に成功し,フレイスノ大司教,エンリケス前枢機卿の名をとった二つのカンパメントが誕生.ラ・フロリダでは共同ナベ連絡会議が結成される.

1983年10月

10.02 地方遊説中のピノチェト,新憲法に対する一切の修正を拒否.民主同盟はピノチェト政権との対話を拒否すると声明.

10.10 カソリック教会,拷問者との交わりを絶つ声明を再確認.ベルナルド・ピネーロ司教の起草したチリ聖職者会議の決議を満場一致で採 択.「拷問者,その共犯者,拷問を防げる立場にいながらそうしなかったものたちは,懺悔なしに聖さん式に臨むことは出来ない」とする.

10.25 独立民主同盟(UDI)が,公認右翼政治組織として創設される.総裁には元閣僚のセルヒオ・フェルナンデス.

1983年11月 アセベドの焼身自殺

11.3 モスクワ放送,チリ国内に革命的武装組織のネットワークが組織されつつあると報道.

11.11 コンセプシオンの市民セバスチアン・アセベド(50歳),息子と娘の逮捕―失踪に抗議.「子供を返せ!」と叫んだ後,聖堂前で焼 身自殺.その模様が世界中に発信される.これを機にCNIの弾圧に抗議する「セバスチアン・アセベド拷問反対運動」(MCTSA)が結成される.キリ民 党,共産党,聖職者などはばひろい運動として発展.

11.18 「民主同盟」と「人民民主運動」の共催で大抗議集会.オヒギンス広場に50万人を結集,軍政以来最大規模の反政府集会となる.軍政はこれに対抗して1万8千の兵力を投入.

11 PEM,POJHなどの失対労働者,プダウェル,ラ・グランハ,ラ・フロリダ,ラ・システルナなど市内各区であいついでストライキ入り.当局は,サンチアゴでのPEMを廃止し.POJHの人数も削減するとの対抗措置をとる.

1983年12月 FPMRの結成

12.10 カトリック教会,拷問反対の決議.ベルナルディノ・ピネイロ司教の指揮するチリ司教会議は全員一致で決議を承認.「拷問を行っ たもの,その仲間,それを防げる立場にいながらそうしようとしなかったものは,誠実に懺悔しない限り聖体を拝領できない.公安権力とりわけCNIは根本的 な改革が絶対かつ緊急に必要である.彼らは道徳の命じるところ,国を治める正義の法の下にあるべきである」

12 AD,共産党系を排除した一連の地方集会を開催.

12.23 共産党の影響下にマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)結成.ダニエル・フェルタが指導.6百人のゲリラ兵士を組織,都市ゲリラ活動を開始.最初の軍事行動.チリ中部全域を停電させた後,犯行声明.

 

1984年

1.9 FPMR,サンチアゴで連続爆破攻撃.

1.15 住宅建設相,ピノチェト所有のマンション建設を一時中止すると発表.不正な裏取り引きが発覚したため.マンションは高級住宅街ロ クーロに位置し,接収された民間スポーツクラブ跡地に建てられ,総工費1千2百万ドルといわれる.野党は財政困難の中での豪華マンションに反発.

3.1 FPMR,サンチアゴ,バルパライソ,コンセプシオンなどで同時爆破攻撃.政府,非常事態宣言.FPMRはその後高圧線の爆破,軍人誘拐,放送局の占拠などを繰り返す.

3.20 反対派の日刊紙フォルティン・マポーチョの編集者ホルヘ・ラバンデーロが襲撃される.かれはピノチェトのマンション疑惑を暴露する予定だった.彼は車から引きずり出され,殴り殺された.彼のファイルは車から持ち去られた.

4.02 ピノチェト,蔵相,経済相を更迭.政府からマネタリスト系の閣僚を一斉追放.IMFの条件を受入れているため政策に大きな変更はなし.

5.01 軍政下初のメーデー行進が行われる.オヒギンス広場には25万人が結集.

5.05 弁護士たちがピノチェトを訴える裁判を起こす.ピノチェトの不動産取り引きをめぐる疑惑,メロコトンの隠し財産が告発される.弁護団はピノチェトが財務省から13ヘクタールの土地を60万ペソで入手したとする文書を入手,元の価格は300万ペソ以上だった.

5 サンチアゴで,元ナチ親衛隊大佐ラウフの葬儀,公然とおこなわれる.

6 チリ共産党大会,武装闘争をも含む「大衆の圧倒的動員と総蜂起の路線」を採択,FPMRを公認.グラディス・マリンが書記次長に選出。国内指導部のトップに座る。

7 政府,経済危機からの脱却をめざす「経済三カ年計画」を発表.

7.27 プタウェル区で地区連絡会議のよびかけにより商店主,タクシー運転手,学生,キリスト教共同体,政党などが加わる街ぐるみのスト決行.

1984年8月 ハルパ内相の懐柔政策

8 FPMR,バルパライソの米文化センター,サンチアゴの米企業2社を爆破.

8 民間人のハルパ,内相に就任.軍部はルーデルス前経済相を逮捕,カセレス蔵相を解任する一方,国民対話を開始するなど一定の自由化政策をとる.この間に為替レートの切り下げ,関税の35%への引き上げなど政策の手直し.

1984年9月

9.04 フランス人神父アンドレ・ジャルラン,政府に対する抗議行動中に射殺される.彼は,83年以来,ピエール・デュボア助司祭ととも にラ・ビクトリアで無認可の診療所を開設,抗議行動で負傷した人たちの治療にあたっていた.そして自宅で警官により殺された.他に市民8人と陸軍中尉1人 が抗議行動中に殺された.

9.05 政府,永久国外追放となる5千名の名簿を発表.航空会社に彼らへのチケットの販売を禁じる.

9.17 ピノチェト,全土非常事態令を90日間延長.

1984年10月

10.16 高圧線の破壊によりチリ中部全域が停電.この年五回目.

10.18 トラック運転手組合幹部でキリ民党活動家のマリオ・フェルナンデス・ロペス,CNIの拷問により死亡.

10.30 CNT,非常事態下にゼネスト決行

11.06 カトリック教会の仲介によるADと軍事政権の話合い,物別れに終わる.政府は社会的治安の確保を理由に全土に戒厳令を公布.野党系6雑誌の発刊を禁止.ハルパの政策は全て反故となる.国連人権委員会,戒厳令を非難する決議.

11 ビカリアで活動していたスペイン人神父イグナシオ・グティエレスが,国外追放処分を受ける.

12.6 FPMR,警察署に対する襲撃作戦を展開.

12 レーガン,「チリでは民主化の動きが高まっている」と発言.体制移管をうながす.

84年 マプーチェ族の人権擁護組織「マプーチェ結集」(AD-MAPU)が結成される.1,300のマプーチェ・グループが結集.反ピノ チェト行動に加わる.最初の1年で3人の活動家が暗殺される.カウティン保留地は軍・警察により占拠され,大衆集会は弾圧される.AD-MAPUとは別 に,「全土評議会」が結成される.二つの組織の中の過激派は,土地占拠など激しい闘争を展開.

 

1985年

1 憲法裁判所,MDPを違憲とする判決.

2.11 ピノチェト,ハルパ内相を更迭.内閣は総辞職.

2.28 社会党の活動家カルロス・ゴドイ・エチェゴジェン(Etchegoyen),第五管区警察署で拷問の末虐殺される.ゴドイは1年前に亡命先から帰国したところだった.

2 モトレー米国務次官補,ピノチェトと会談.民主化処置を迫る.

1985年3月 共産党員虐殺事件

3.25 軍事政権,強硬化し80年憲法の「遵守」を表明.画家で教員組合活動家のサンティアゴ・ナッティーノ,教員組合幹部のマヌエル・ゲレーロ,ビカリオの活動家ホセ・マヌエル・パラーダの三人,国家警察軍の情報機関DICOMCARにより白昼拉致.

3.29  ラファエルとエドワルドのベルガラ・トレド兄弟,サンチアゴ市内ラス・レハス・スール地区で警察軍により射殺される.二人はMIRの活動家だった.

3.30 MIR活動家パウリナ・アギレ,ベルガラ兄弟に次ぎサンチアゴ市内で射殺される.警察は銃撃戦の末と発表.

3.30 共産党員三人の喉を掻き切られた虐殺死体がサンチアゴ空港付近で発見される.犠牲者はサンチアゴ・ナッティノ(画家で教員組合活動 家,28日に何者かに誘拐されていた),マヌエル・ゲレーロ,ホセ・マヌエル・パラーダ(二人ともAGECHの幹部.29日に誘拐).この事件はcaso  degolladosと呼ばれ広範な世論の憤激を呼ぶ.最高裁もホセ・カノバス判事を特別検事に命じる.

1985年5月 ミゲル・リティンの潜入

5.2 チリ・アルゼンチン平和友好条約締結.南方3島の領土権がチリに確定.

5.14 サンチアゴで連続爆弾テロ.死者数十人に達する.

5 ミゲル・リティン,戒厳令下のチリへ潜入.

6.7 戒厳令解除.非常事態は継続.

7.16 米大使館前で爆弾が破裂.歩行者一人が死亡,4人が負傷.

1985年8月 反独裁第二のうねり

8.02 カノバス判事,戒厳令下のホセ・マヌエルら共産党員の虐殺行為に関し,カラビネロス幹部の関与を示唆.セサル・メンドサ警察軍長官退陣.後任にロドルフォ・スタンヘ将軍.「わがチリよ,女性たちの抵抗」に記録.

8.26 フレスノ枢機卿,UDIとMDPを除く中道派11政党と10の労組・市民組織の賛同を得て「完全な民主主義への移行のための国民協定」を発表.

国民協定の内容: 選挙の即時実施,官選上院議員の廃止,憲法改正の実施,思想・政党活動の自由の保障,テロ組織の違憲宣言などをうたう.
ADとMDPの統一を狙うものだったが,「あらゆる闘争形態」を主張する共産党は,協定が暴力否定を明言していたため,調印を保留.

1985年9月 チリ大学の民主化闘争

9.05 チリ大学工学部で学生108名が逮捕される.

9.07 政治指導者,労組指導者,ポブラドーレス指導者など64人が,抗議デーのデモを組織したとして逮捕.チリ大学7学部の学生は無期限ストに入る.逮捕された学生が軍事法廷に送られたことに抗議.

9.09 逮捕された活動家64人のうち15人が釈放.学生70人が釈放.27人は武器統制法違反で引き続き拘留.

9.11 ピノチェト,クーデター12周年にあたりラジオ・テレビで演説.民主化要求を拒否し,軍政を正当化.

9.12 カルロス・セルダ特別相,DINAの情報員マヌエル・エスタイと,警察軍のアグスティン・ムニョス大尉を,76年12月の共産党員誘拐事件への関与の疑いで逮捕.

9.26 MDP系の婦人,学生組織がサンティアゴ中心街でデモ.指導者のR.セゲルとM.ブストスが逮捕される.

1985年10月

10.09 学生がセルヒオ・ガエテ教育相の辞任,軍の大学介入中止,拘留中の労組幹部釈放を要求してデモ.警官と衝突.

10.15 民主同盟,労働者全国闘争本部が呼びかけた「連帯デー」,逮捕された労組指導者との連帯を呼び掛ける.中心部でデモ.キャンパスで警官と衝突.セゲル,ブストスら12名は,引き続き拘留中.

10.21 ローマ法王,来年アルゼンチンとチリを訪問すると発表.

10.21 セゲルら8人の労組幹部の釈放が認められる.ブストス,ホセ・ルイス・ディジョルノ,ポブラドーレス幹部のエドワルド・バレンシアの釈放は認められず.

10.25 CNT,11月5,6日にセゲル釈放を要求する国民抗議行動を実施すると発表.医師会,専門職組合連合,トラック業者連合が行動を支持する声明.

10.27 セゲルら拘留中の6人の労組幹部はハンストに入る.

10.29 アントファガスタの軍事法廷,セルヒオ・アレジャーノ・スタルク将軍,マルセル・モレン・ブリート,アルマンド・フェルナンデス・ラリオスに恩赦を適用.彼らは73年10月の「死のキャラバン」の指揮者として少なくとも72人の死亡に関わっていた.

1985年11月 ADの反軍政大集会

11.01 チリ大学学生連合(FECH)の選挙が行われる.民主同盟が5,658票で勝利.MDP候補は5,584票.政府支持派は3,800票にとどまる.

11.03 国民抗議デーを前に,各地で爆弾騒ぎ.

11.5 チリ国民抗議行動で死者5名を出す.負傷者40人,逮捕者数百人.チリ大学工学部学生はキャンパスを占拠しようとして警官隊と衝突.339人が逮捕される.83年以来の毎月の国民抗議行動のため,これまで市民の死者133人に達する.

11.21 民主同盟,反軍政の大集会を成功させる.チリ労働者の大多数を結集する労働者全国闘争本部(CNT)は,全国ストの八六年実施に向けて全力を尽すと声明.

11 軍事評議会内部において憲法見直しをめぐり論争.ベナビデス陸軍中将,評議会を解任される.

12.4 ピノチェト,89年以降も政権を担当すると声明.

12.20 チリ政府,亡命者30名の帰国許可.

12.24 ピノチェト,フレイスノ大司教との会談で「民主主義への移行のための国民協定」を拒否.

 

1986年

1.15 E.ケネディ元上院議員,チリ訪問.反軍政勢力と会談し「国民協定」支持を表明.「民主主義のために対話と和解を推進するグループ に支援を与えるため」チリを訪問.「私はチリ人民の敵ではなく,拷問と誘拐と,殺人と不当逮捕の敵である.もしチリに民主主義が回復されれば,真っ先にケ ネディ条項の廃棄を提案するだろう」

1.16 共産党員3名殺害事件で有罪とされた警察高官3名に対し,最高裁は無罪判決.釈放.

1 共産党,現在の政治状況においては,大衆の暴力は自衛のため必要であると言明.都市における多発蜂起により国家機能をマヒさせ総蜂起に結びつける路線を提示.”最終攻勢”に備えよとよびかける.蜂起に備え,あらたにセロ戦線を創設.

3.8 国際婦人デー,数千人が街頭行動(映画「ソモス・マノス」に記録)

3 米国,国連人権委員会でチリ非難決議提出.内容はきわめて微温的.

3月末  医師会,ジャーナリスト組合,弁護士会などの連合体である「専門職者同業組合連合」が集会.労働組合,同業組合をはじめとする広範な社会組織を結集した「全国市民会議」の結成を呼びかける.

1986年4月 ANCの結成

4.28 ビカリアの医師ラミロ・オリバレスと弁護士グスタボ・ビジャロボスがテロリストを幇助したとの疑いで逮捕される.パン工場を FPMRが襲撃.この事件で警官一人とゲリラ一人が死亡.ゲリラの負傷者をオリバレスが治療したことが罪に問われる.オリバレスは8か月間を刑に服する.

4 FPMR,チリ中部の発電所を攻撃,中部主要地域が停電.

4 レーガン,早期解決をもとめピノチェトに書簡.

4 自治への介入に反対し,全国大学の9割がストにはいる.

4.26 CNTを中心に,22の全国組織に結集する全国農民委員会,小売商組合連合,トラック業者連合など300組織の代表500人が, 「全国市民会議」(ANC)結成.チリ社会のほとんどあらゆる階層が結集する.専門職組合連合,CNTなどが幹事会を構成.「チリの要求」を採択.民主主 義と人民主権の復活を前面に掲げ,大統領選実施のための話合いを政府に要求.MDPもこれを支持.

1986年5月

5.01 メーデーのデモを試みた市民に対し,武装兵士を動員して弾圧.

5.04 市民的抵抗組織の連合体として,「市民会議」が結成される.

5.15 サンチアゴ市内の33のポブラシオンに一斉捜査.約1万5千人が逮捕される.

5.20 CNTが「平和のための行進」を呼びかける.ピノチェトは,国家警察軍の反対を押し切って軍を投入.都心部の立入を全面的に禁止.中学校生徒が教師や父兄の支援を得てストライキと抗議行動を展開.国立中等学校の民営化に向けての自治体移管政策に反対するもの.

6.01 「チリの要求」の回答期限日が切れる.ピノチェトはこれを無視し,大学内に軍隊を導入.学生は大学の民主化と政府任命の軍人学長辞任を要求して無期限ストライキに入る.

1986年7月 人間たいまつ事件

7.02 市民会議が「チリの要求」をもってゼネスト決行,ADやMDPも参加.労働者の七割,学生の九割がストに参加.商店の七割以上が閉店.市内の交通は大半がストップ.抗議行動はコンセプシオンなど地方でもくり広げられる.

7.03 カル メン・グロリア・キンタナ(女学生)とロドリゴ・ロハス(カメラマン),軍の警備隊により生きながら焼かれる.二人はともに市中心部のノガレス地区で拘引 され,ガソリンをかけた後火をつけられる.「人間タイマツ」となったロハスは4日後に死亡.キンタナは60%の火傷を負いながら命を取り留める.この日他 にも8人が殺される.のちに「Corpus Christi の虐殺」と呼ばれるようになる.

7.10 ピノチェト,コンセプシオンで演説.軍政を97年まで継続すると言明.

7 国家情報局(CNI),「アルバニア作戦」を展開.FPMR活動家12人を虐殺.

1986年8月 FPMRの秘密基地発見

8.8 MIRのパスカル,サンチアゴ市内で秘密記者会見.今後ともFPMRと共同し武装闘争を強化すると発言.キリ民党,共和党は「パスカル氏の無責任な発言は民主勢力に混乱を与え,チリを血の海にしようとするもの」と,一斉にパスカル発言を非難する声明.

8.11 CNI,バジェナールVallenarから2百マイル離れたカリサル・バホCarrizal Bajo海 岸に,漁港で偽装したFPMRの巨大な武器庫を摘発.M16ライフル3,383,火薬2トン,弾薬36万発,カチューシャ型ロケット砲114,対戦車砲 179を捕獲.FPMRのセルヒオ・ブシュマンとアルフレイド・マルブリッチは偽装会社を設立し85年以来武器の密輸を続けていた.隠匿されていた武器 は,コピアノ,バジェナル,ラ・セレナ,サンチアゴなどに向け発送される直前だったという.当局は,密輸された武器の1/3は,すでに地下に入ったと見て 捜査を続行.

8.14 カルロス・セルダ特別検事,警官と軍将校40人を起訴.73年の共産党員10名の逮捕に関連する.前空軍司令官グスタボ・レイも含まれる.上訴審は訴訟を棄却しセルダに永久的取り下げを命じる.

8 FPMR,チリ陸軍大佐を拉致.FPMRのダニエル・ミゲルとホセミゲル,サンチアゴ市内で記者会見.軍に対する敵意はないが,今後もピノチェトに対する支持を止めなければ軍に対する攻撃を強化すると発言.

1986年9月 ピノチェト暗殺未遂事件

9.4 市民会議の組織したゼネスト,当局の反乱未遂事件キャンペーンにより民主同盟が参加を保留したことから,直前にとりやめとなる.

9.07  6:30pm FPMRによる「20世紀作戦」と名づけられたピノチェト暗殺作戦.アンデス山ろくのメルコトンのマンションからの帰途,モバイル・ホーム を牽引したトレーラーが道をふさぐ.その直後FPMRの特攻部隊25名が出現.5台からなるピノチェトの一行に向けバズーカ砲,手投げ弾,機銃などで一斉 射撃.約10分の攻撃により,先頭の車は全焼.残りの車もことごとく破壊される.護衛5人が死亡し10人が重傷を負う.特別に装甲を施された重量三トンの ピノチェトの車だけは銃撃を持ちこたえ,Uターンして脱出に成功.無線で連絡を受けた軍と警察の車が現場へ急行したが,パトカーに偽装した車に分乗したゲ リラ・グループはまんまと包囲網を通りぬけ,全員逃走した.

9.08 FPMR,「三度目は成功させる」という犯行声明を発表.昨年十月にも暗殺を計画したが,その時には直前になってピノチェト一行のルートが変更されたために計画が中止となった.MDPは襲撃を支持する声明.UDはこれを厳しく非難.

9.08 ピノチェトは「今度は我々の側から戦争をしかける番だ.断固とした行動をとる.人権だの何だの言っている連中は残らずチリから追放 するか,幽閉するだけだ」と述べ,ただちに90日間の戒厳令を発令,73年以来の大規模な弾圧となる.反政府系雑誌の6社 (Apsi,Analisis,Hoy,Cauce,La Bicicleta,Fortin Mapocho)は閉鎖される.ロイターなど一部の外国通 信社も閉鎖された.ポブラシオンが襲われ,リカルド・ラゴス,パトリシオ・アレス,ヘルマン・コレアなどの指導者が逮捕される.

9.08 襲撃事件の数時間後から,白色テロ部隊「9月11日部隊」が「目には目を」作戦を展開,共産党とMIRの活動家4人を殺害.ほかに反共行動グループ(AChA),全国戦闘戦線(FNC)などがテロをくり返す.

9.09 反政府系週刊誌「アナリシス」の編集者で,チリ・ジャーナリスト協会幹部のホセ・カラスコ,全身に銃弾を打ち込まれた死体で発見さ れる.戒厳令布告直後,カラスコは,私服の武装した男たちによって自宅から連れ出されていた.他にも5人が,秘密警察の手により暗殺.

9月 スラム地区で活動していたピエール・デュボアら外国人神父3人が国外に追放された.

1986年11月 海軍と警察軍のピノチェト離れ

11月 民主同盟,右派の国民党などとともに「民主国民協定」を締結.軍との交渉路線をより鮮明に打ち出す.協定締結にあたって共産党,社会党左派などの人民民主運動は完全に除外される.

11 メリノ海軍総司令官,スタンヘ警察軍長官が,野党代表と公式接触.

11 FPMR,闘争の目的は大衆の自衛力の保持にあると声明.ADとMDPとのあいだに路線をめぐるくいちがい拡大.共産党は合法闘争へスタンスを移す.

12.31 ビノチェト,戒厳令を来月6日に解除すると発表.

12 ピノチェト,クーデター後に海外追放した反体制派の帰国許可促進を発表.

86年 チリの対外債務は、GDP比105・5%に達する。

 

1987年

1.02 首都の外出禁止令が13年ぶりに解除される.

1.06 チリ全土で戒厳令解除.共産党,公式にテロ戦術を批判.FPMRは武装闘争を停止するが,武装闘争継続派はFPMRアウトノモ(FPMR-A)を結成.

2.03 チリ政府,元DINA捜査員で,レテリエル事件の容疑者アルマンド・フェルナンデス・ラリオス元陸軍大尉を米国に引き渡す.

2.25 選挙人登録が開始される.ピノチェト政権の将来を問う来年の国民投票のためのもの.「ノー」キャンペーンは積極的な選挙人登録を呼びかける.この結果700万人が新たに登録.

1987年3月 人民連合幹部の相次ぐ帰国

3 政治囚400人が拷問と虐待に抗議してハンスト入り.

3.24 アルタミラノなど旧UP指導者4人が,帰国禁止命令を犯して国内入り.入国後ただちに逮捕.国内追放処分(レレガシオン)を受ける.この時点でなお数百人が帰国禁止リストに残る.

3月 アルメイダ元外相,共産党幹部のミレイラ・バルトラとフリエタ・カンプサノが国内に潜入し,裁判所に出頭.直ちに逮捕され,国内追放処分を受ける.バルトラとカンプサノは二ヶ月後に釈放されるが,アルメイダはそのまま収監される.

1987年4月 ローマ法王のチリ訪問

4.03 ロ−マ法王,チリを訪問.法王は日程を割いて国立スタジアムでの青年集会,ポブラシオンのひとつラ・バンデラの訪問,さまざまな党派の政治家との会談,カルメン・グロリアとの会見などを行なう.

4.10 オヒギンス広場での野外ミサには60万人が結集.民主主義回復を叫ぶ大集会となる.カラビネーロスは催涙ガスを発射し妨害するが,法王はミサを続行.法王はピノチェト政権を「独裁」と公言.「教会は行動を起こさなければならない。正義のために連帯を。それは神の思し召しだ.フィリピンのマルコス政権崩壊時に教会が果たした役割を、チリ教会も遂行すべき」と述べる.

4 MIR,第4回大会を機に武装行動派と合法活動派,中間派の三派に分裂.最大のグティエレス派は武装路線を捨て,大衆闘争中心の民主化路 線をとる.MDPのMIR代表ヘカル・ネーメ,「パスカルはMIR執行部のメンバーには入っていず,ラファエル・マロト神父を先頭とする国内の全国指導部 が公式の執行部である」と言明.パスカル派は全国書記局を名乗り,ネーメらを修正主義分派として糾弾.武装闘争の継続を宣言.

4 政党法施行.共産党,社会党アルメイダ派などを除く多くの政党が合法化され,政治集会が許可となる.三つの右翼組織(全国統一運動(MUN),全国労働戦線(FNT),独立民主連合(UDI))が国民党の後身として全国改革党を結成.UDIはピノチェト派の政治組織.

4 FPMR-A,4都市で8ヵ所の放送局を占拠,宣伝放送に成功.

5 軍事評議会4人のメンバーのうち,ゴルドン陸軍総司令官を除く3人(メリノ海軍総司令官,マティ空軍総司令官,スタンヘ国家警備隊長官),民間人候補者の選出を提案.

1987年6月 IUの結成

6.11 政府法令18623号を公布.CNIは拘引した人を安全に保持するよう求められる.

6.15  CNIの暗殺部隊,15日深夜から16日早朝にかけ「アルバニア作戦」を展開.二カ所のFPMRアジトを襲い,女性を含む12人のFPMRメンバーを殺 害.「コルプス・クリスティの虐殺」と呼ばれる.当局は「過激派のアジトを踏み潰すのは,法的な義務である」と,作戦を弁護.

6.26 アジェンデの誕生日を期して統一左翼(IU)が結成される.以前のMDP構成団体に加えキリスト教左翼,MAPUが結集.在獄中の クロドミロ・アルメイダを議長に選出.自由で民主的な選挙と人民の要求実現を訴える.「自由で民主的な選挙と人民諸要求のためのコマンド」を創設.

8.13 セルヒオ・ブシュマンら4人のFPMRメンバー,バルパライソの刑務所から脱獄に成功.刑務所長と三人の看守が解任される.

8 全国労働者本部の主催で2万人の反政府集会

1987年9月

9.01 FPMR−A,カルロス・カレーノ大佐を誘拐.カレーノは軍の武器工場の副主任.12月にサンパウロで解放される.

9.02 政治囚がハンストを開始.正当な弁護が制限され,拷問の下で自白が引き出され,裁判が開始されないなどに対する抗議.この時点で450人の政治犯が収監されていたが,判決を受けたのは1/4に過ぎず.

9.04 前国会議員のルイス・グスタビノとエリック・シュナケが国内追放処分を受ける.二人はともに「民主主義を目指す議員団」のメンバーだった.

9.04 チリ大学,ピノチェト政権閣僚のホセ・ルイス・フェデリチが学長に就任.この人事を拒否して大学ぐるみのたたかい.3ヵ月後に勝利する.

1987年10月

10.07 CNT,政府の弾圧下で全国規模のゼネスト決行.377人が逮捕される.

10月 チリ反共法が発効.

1987年11月 社会党の左右分裂

11.7 レネ・ガルシア・ビジェガス判事,警察の保護の下におかれる.彼はサンチアゴ市内ボルゴーニョ拘置所におけるCNIによる拷問の40ケースを扱っており,86年8月以来死の脅迫を受けつづけてきた.

11 極右組織「コマンド・トリサノ」,反政府派の俳優78人にテロ宣告.サンチャゴでの抗議集会には「スーパーマン」のクリストファ・リーブも出席.

11月 リカルド・ヌニェス・ムニョスら社会党ヌニェス派,これまでの対決路線を嫌い社会党「再生派」を結成.マルクス・レーニン主義を放 棄,市場経済を承認し複数主義の社会を目指す.PDCとの対話のなかで,軍政終結のための戦略について合意.民主主義復活をめざす統一協定を結ぶ.

1987年12月

12.04 極右政党,国民改革党が選挙登録される.

12.15 リ カルド・ラゴスら,選挙のための過渡的政党として「民主主義をめざす党」(PPD)を組織.リカルド・ラゴス・エスコバル(エコノミスト,元大学総長)を 議長に据える.民主主義の復活の一点で一致するあらゆる立場の人々数万人が結集する場となる.直接のきっかけとしては,すべての投票所に立会人を置くた め.社会党員以外の都市中間層を結集し,社会党そのものをしのぐ政党に成長.

12 米国,「チリにおける民主主義の確立を支持する」と声明.

87年 人口に占める貧困層比率は39%に達する。この後94年には24%にまで下落するが、依然、70年の17%を大きく上回る。

 

 

反独裁第三のうねり

1988年

1 キリスト教民主党,ピノチェト信任投票への参加を表明.IUは国民投票拒否,自由選挙実現のたたかいを継続.

2.02 キリ民党など16政党,国民投票参加で統一協定を結び,「ノーをめざす運動本部」(Concertacion por el No結成.キリ民党,社会党両派,PPD,その他諸党が加わる.選挙人登録の推進キャンペーンをすすめる.

3 非常事態,さらに半年間延長,バルパライソで武装勢力による連続爆破事件.

4 極右テロ集団,4百名を指名脅迫.これに抗議し記者協会のスト決行.

5 共産党,「ノーをめざす運動」への積極的参加に方針転換.統一協定には加わらず.

1988年6月 IUの国民投票参加呼びかけ

6.07 政府,非常事態をさらに90日間延長.10月5日の国民投票までとする.野党は,非常事態下では選挙の安全が保障されないと抗 議.米国務省も非常事態の延長に懸念を表明.野党を支持する発言.「ピノチェトなきピノチェト体制」の方向に踏みだす.ピノチェトは「内政干渉」と抗議.

6.15 共産党,国民投票に参加すると発表.

6.16 コンセルタシオン,執行部を結成することとなる.代表にキリ民党のエイルウィン議長.

6.18 チリ外務省,「非常事態宣言は,政府の最高判断」と主張,米国の批判に応える.

6.19 国民党党大会,文民・軍部双方が同意できる候補が指名されない限り,国民投票で反対に回ると決定.

6.21 統一左翼,国民投票に参加し「ノー」の投票するよう,最初の公式な呼びかけを発表.

1988年8月 有権者登録運動

8.24 クーデター以来続いた非常事態が,全土で解除.

8.30 ピノチェト,陸軍司令官就任15周年記念式典で演説.「政治家として最適なのは軍人である」と強調.

8.30 四軍の司令官で構成される軍事評議会,十月の国民信任投票候補にピノチェトを指名,

8.31 選挙人登録の締め切り.743万人が登録.これは18歳以上の有権者の92.1%に相当する.

8 米下院外交委員会,全面民主化を支持する決議を採択

8 新しいナショナルセンター「労働者統一中央組織(CUT)」結成.政府はただちにこれを弾圧.ブストス議長,マルティネス副議長が流刑処分を受ける.

8 IU内で国民投票反対の立場をとりつづけていたMIRも,国民投票への参加をよびかける.

1988年 国民投票前のつばぜり合い

9.01 ピノチェト,反体制派4百人の入国禁止を解除.発表はピノチェトの任期を決める国民投票の1ヶ月前,選挙人登録締め切りの翌日おこなわれる.

9.04 ピノチェトの単一候補指名に抗議する「ノー」の大集会,30万人を動員.10日にはIUも15万人の集会を開く.反独裁派は,コンピューターによる独自集計システムを作り上げる.そして,公正な投票を監視する国際的なオブザーバーの派遣を各国に呼びかけた.

9.05 テレビを「ノー」の側にも公開するよう定めた法律が制定.テレビ局が放送時間を毎日三十分間ずつ,信任派(「シー」)と不信任派 (「ノー」)の宣伝に無償で開放することが義務づけられる.ノーのCMではエイルウィンが演説.「われわれチリ国民は真実を望んでいます.人権の尊重を望 んでいます.経済成長を望んでいます.社会正義を望んでいます.ずべての人間が参加する真の民主主義を望んでいます.われわれチリ国民は平和を望んでいま す.そして平和は正義と尊敬と共存の上になりたつことを知っています.『ノー』は平和への意思であり,全員の参加にもとづく共存へと向けて前進することを 意味しているのです」

9.20 テイテルボイム元上院議員(共産党),モスクワから帰国.

9.20 ノーの番組が放送禁止となる.番組の中で,国家情報局(CNI)が拷問を行なっていることを現役の判事が証言したため.放送中止の テロップが出ると,サンティアゴ中で抗議の鍋叩きの音が鳴り渡った.証言の中で,ガルシア判事は,CNIが行なった拷問事件五十件について調査中であるこ とを明らかにし,拷問を受けた者の身体にどのような傷跡が残っていたかを語っていた.「(自分の担当した事件の件数は)五十人以上だ.全員CNIで拷問さ れた.CNIの建物においてCNI部員によって拷問された.絶え間なく拷問された者もいる.拷問は一日中続き,夜通しで午前三時か四時まで続き,独房の ベッドにボロのように投げ出される.数時間休息させて,それからもう一度始まる」

9.22 軍事政権,国連の拷問禁止条約に調印.ただし三点について留保.90年3月まで発効させない,さかのぼって適用しない,国連人権調査団を受け入れない.

9.23 ピノチェト,信認後の基本政策を発表.

9月 アジェンデの妻(オルテンシア・ブッシ)と娘(イサベル・アジェンデ),ミゲル・リティン,インティ・イジマニ,キラパジュンなど数千 の亡命者の帰国あいつぐ.テイテルボイム,セルヒオ・ポブレテ元空将,ルイス・メセス元CUT議長など177人は依然帰国を拒否される.

1988年10月 国民投票の勝利

10.01 ピノチェト不信任をよびかけるデモ,125万人が参加.

10.03 民主同盟の要請にこたえ,各国が投票監視団を派遣.サンティアゴ市で,「チリにおける民主主義をめざす第3回議員国際会議」が開催され,欧州議会のペラエス議長をはじめ,欧米・中南米から348人の議員が参加.監視活動の進め方を協議する.

10.05 チリ国民投票,54%が89年の自由選挙に賛成票を投じ,97年までピノチェトが続投する案に賛成したのは3%にとどまる.反ピノチェト連合の圧勝におわる.勝利を祝うデモ隊に治安部隊の発砲.

10.06 チリ軍事評議会,敗北を認める.ピノチェトはラジオ・テレビ演説で敗北を認めるとともに,残された任期全うすると言明.即時退陣要求を拒否.内閣は総辞職するが,ピノチェトはこれを受理せず.

10.06 祝賀集会に30万人が参加.左翼6党,ピノチェト退陣に向け共同声明を発表.

10.06 アムステルダムでは,公共建築物を旗で飾って勝利を祝う.フランスのロカール首相は「ノー」の勝利を「素晴らしい希望だ」と歓 迎.イタリアのデミタ首相は「民主主義をめざして闘っているチリ国民のため」,クーデター以来空席だった駐チリ大使に,当時の大使だったマサモルミーレ氏 を任命.

10.07 「民主主義と和解をめざす喜びの祭」集会に数十万人が参加.

10.09 ピノチェト,国民投票後初の記者会見.早期辞任要求を拒否,憲法改正に応じる意思なしと表明.

10.11 マテイ空軍総司令官,軍部は政治から手を引くべきだと強調,ピノチェト大統領続投を批判.

10.14 反政府16党,「民主主義をめざす政党連合(コンセルタシオン)」を結成.次期大統領選にむけ統一候補の擁立を決定.

10.21 内閣改造.フェルナンデス内相ら9閣僚を更迭.ピノチェトは発表の席で次期大統領選挙不出馬を示唆.

10.21 FPMRのラウル・ペリグリンとセシリア・マグニ司令官,ロス・キネスの警察署襲撃に失敗,射殺される.死亡時の状況は不明.後に川に浮かんだ死体が発見される.

10 CNIによる拷問事件を調査したレネ・ガルシア判事,結果の公表を理由に職務を停止される.

1988年11月 PAISの結成

11.20 ピノチェト,90年3月の任期終了後は引退すると宣言.右翼の統一組織,国民革新党は普通選挙とピノチェト以外の候補者を要 求.ハルパ総裁を候補に推す.ピノチェト派の独立民主同盟(UDI)は国民革新党を脱退しビュッヒ蔵相を候補者に推す.国民党はディエス元議員を推薦.共 産党,あらゆる方法で軍政と闘う方針を再確認.FPMRは武装闘争を再開.

11.29 非合法下の六つの左翼諸党が,左翼社会主義拡大党(PAIS)への合同を宣言.共産党,社会党アルメイダ派,キリスト教左翼,民主社会主義急進党,MIRグティエレス派が参加.チリ選管,PAISの登録申請を受理.共産党員に選挙出馬可能となる.

12.23 ピノチェト,憲法改正に関して野党と話し合うと発表.カセレス内相が来月中にに野党と会談することとなる.

 

1989年

1月 サンチアゴ南方600キロのプレンでマプーチェ急進派が土地占拠.警官との衝突で指導者5人が負傷.17人が逮捕される.

3.11 ピノチェト,ラジオ・テレビ演説で憲法修正に応ずる意向を表明.

4.28 ピノチェト,6項目の柱からなる改憲案を発表.来年3月の大統領辞任後も陸軍総司令官の地位にとどまると述べる.

4月 市民権と政治的権利に関する国際協定が批准される.国内法として発効.

4月 チリから米国に輸入されたワインに毒物発見.欧米,日本は輸入を禁止.

5.31 憲法改正案策定で政府と野党が合意.

6月 元CNIエージェントで数々の誘拐・虐殺にかかわったロベルト・フエンテス・モリソン,FPMRにより殺害される.

1989年7月 コンセルタシオンの結成

7.06 キリ民党を中心に民主党,PPD=社会党,急進党など17政党からなる「民主主義をもとめる政党連合」(CPD=コンセルタシオン)」を結成.統一候補としてキリ民党元フレイ派のパトリシオ・エルウィンを決定.

7.30 憲法改正をめぐる国民投票.改正賛成が圧倒的多数を占める.国家安全保障会議への民間人参加が認められ,政府への軍の服従が明記される.

7.30 「国民革新」の仲介により,「民政連」と軍事政権のあいだで交渉.国民投票の結果80年憲法の部分修正が実現.共産党は16年ぶりに合法化.

8.19 チリで2万人が反政府デモ,労組は民主主義回復もとめるゼネストをよびかけ.

8月 PAIS,独自にエイルウィンを支持することを決定.

8月 ピノチェト派の国民革新,独立民主同盟などからなる「民主主義と進歩のための同盟」,エルナン・ビュヒ前蔵相を大統領候補に指名.

9.04 MIR指導者のヘカル・ネーメ・クリスティ,ブルネス通りの党本部を出たところを,私服の男に襲われる.大口径の銃弾14発を撃ちこまれ即死.「9月11日部隊」が犯行声明.

10 コルバラン,帰国.

11.14 「拷問に反対する全国デー」開催.ガルシア判事は「死の脅迫」を蹴り参加,判事を罷免される.

1989年12月 エイルウィンの勝利

12.10 エルウィン支持集会に史上最大の百万人が参加

12.14 大 統領選,CPDおよびPAISが支持するエルウィンが,1回目の投票で55.2%を獲得.ピノチェト派のビュヒ候補に圧勝.下院議員選挙でもコンセルタシ オンが120議席中72議席を獲得.しかし上院ではピノチェトが指名する9議席の非選出議員を凌駕できずに終わる.全国改革党は上院議員6人と下院議員 29人を獲得.上院ではキャスティングポートを握る.共産党は15.8%(73年16.2%)の得票率を得ながら議席ゼロにとどまる.PAIS全体でも社 会党の6議席にとどまる.エドワルド・フレイ・モンタルバ元大統領の息子エドゥアルド・フレイ・ルイス=タグレ,サンチアゴから上院議員に選出される.グ アトーネ(PDC右派)を代表.上院財務・予算委員会委員長に就任.

12.15 政治囚との面会を求める家族・市民のデモ,警察の弾圧により10数人が連行.

12 社会党統一大会.ヌニェス派(PPD)とアルメイダ派,MAPUの三派が合同.

12月 マプーチェ1500人が,農地改革,文化・伝統・言語の保護を謳う新法制定を求め,サンチアゴ市内をデモ.