チリ年表 その4

1990年

1990年1月 共産党の武装闘争放棄

1.10 エルウィン閣僚名簿を発表.ピノチェトは3閣僚を社会主義者として非難キャンペーン開始.ピノチェト派は80年憲法で定められた任期を4年に半減するよう強制.

1.31 サンチアゴ刑務所から政治犯49人が脱獄.100メートルのトンネルを掘り,刑務所外側のマポチョ河畔に達する.

1月 共産党,人民総反乱の路線を公式に破棄.エイルウィン政権への協力を打ち出す.FPMR主流派,武装解除し合法活動に復帰.FPMR-AとMJLは武装闘争の継続を宣言.

1990年3月 エイルウィン政権の発足

3.04 アジェンデ未亡人のオルテンシアさんが帰国.

3.07 ピノチェト、最後の置き土産として改悪教育基本法(LOCE)を公布。公教育は国営から自治体の管理へ移行された。

教育は市場原理に基づく学校ビジネスが基本となり、教育の質の低下を招いた。その後の30年間に250の公立校が閉鎖され、私立校が 2500つくられた。学生の70%は授業料を支払うためにローンを抱えることになる。

3.11 エルウィン(Aylwin),大統領に就任.民政移管完了.これまでの軍政下の処刑者は2千5百人,行方不明9百人,逮捕者17万人,亡命者30万人.新政権発足と同時に「真相と和解全国委員会」の設立も明らかにされる.

3.12 国立スタジアムで行なわれた祝賀会に七万人が参加.エイルウィンは「真実と正義を求め,過去の人権侵害に対する補償を行なう」姿勢を明らかにする.

3 エルウィン,ソ連,東欧諸国と国交回復.政治犯4百人を釈放.

3 PAIS,社会党統一で力をうしない解散.

1990年4月 レティグ委員会の発足

4.25 軍政の人権侵害を調査する政府委員会「真相と和解全国委員会」も発足.9ヶ月の期限つきで調査を委託される.ラウル・レティグ(Rettig)委員長の名をとりレティグ委員会とも呼ばれる.レティグ委員会は8人のメンバーから構成.司法省の言う「軍政下で国家職員により行なわれたもっとも重大な人権侵害」について調査を開始.また人権侵害事件の再発防止のための方策を提案するよう求められる.

5.11 エイルウィン,ピノチェトの自由貿易政策をさらに推進.関税率を15%から11%にまで下げる.

5.30 エイルウィン,ピノチェトを官邸に呼び,反政府発言に対し警告.

1990年6月

6.02 北部の町ピサグアの秘密墓地から政治囚20名の遺体発見.彼らは70年代前半に殺害されたものと見られる.カトリック教会は軍を強く糾弾.

6.12 新政権誕生後,初の反ピノチェトデモ.人権擁護委員会のよびかけで5千人が参加.

6.15 チリ下院,全政党の署名により,軍当局に対し処刑者の一覧を提示するよう求める決議を採択.レティグ委員会の調査によれば,軍は73年の4カ月だけで2,115人を殺害.数千人を投獄・拷問.レティグ委員会はいったn解散.その後再編成された「現代の真実」研究委員会(CERC)が発足.

1990年8月 最高裁の開き直り

8.18 パイネ県アギラ・スルでおよそ10体の遺体が掘り出される.彼らはクーデター直後の数年間の間に殺されたと見られる.特別検察官ヘルマン・エルモシジャが捜査に乗り出す.「行方不明者の家族の会」は,レティグ委員会で証言.パイネとウエルケンに少なくとも8カ所の秘密墓地があるとする.

8.22 チリ,米州人権条約を批准.国連の拷問禁止条約に対する前政権の留保条項を破棄.国際市民権・政治権条約に基づく,米州機構人権委員会の監察をを受け入れることを決定.

8.24 チリ最高裁,78年恩赦法の合憲性を全会一致で支持.78年以前に行なわれた人権侵害事件を,すべて恩赦の対象とするもの.

1990年9月 アジェンデの「国葬」

9.04 サンチアゴ総合墓地で17年ぶりにアジェンデ大統領の葬儀.エイルウィン大統領も出席.事実上の国葬となる.ピノチェトは妨害を試みるが,警察軍,空軍のボイコットにより破綻.アジェンデは73年9月11日,ある親戚の墓に埋められた.立会人は妻と娘,姪だけだった.

9.06 ピノチェトの息子(同じくアウグスト・ピノチェト)あてに,陸軍から300万ドルの小切手が振り出された疑惑が浮上.89年1月4日の日付で,バルモルバル兵器会社の買収に関連して支払われたもの.議会は調査委員会の設置を決定.

9.09 行方不明者,処刑者のための記念碑がサンチアゴ総合墓地に建立される.

9.21 軍事法廷,「軍への攻撃」を理由に,三人のジャーナリストを拘留.

10 エイルウィン,リオグループ首脳会議へ出席.

10.24 マプーチェ活動家50人が,ミジャレム木材会社の所有地を占拠.場所はテムコ県ルマコ郊外のサンタクララ.その後警察が導入され,14人が逮捕される.「全土評議会」はマプーチェの自治権拡大を要求し,700人のデモ.

11.14 ラウタロ人民反乱軍,獄中の同志マルコ・アントニオレッティを救出しようとして銃撃戦.看守4人と警官1人を射殺.アント

ニオ・レッティは二日後に潜伏中を射殺される.

1990年12月 社会党の再分裂

12.19 政府,息子の小切手事件に関連してピノチェト辞任を迫る.また陸軍の推挙した将軍二人の承認を拒否(内一人は元DINA幹部).これに怒った軍部は部隊を集結させ,反乱の構えを見せる.エイルウィンとピノチェトの直接会談で妥協成立.議会調査委員会はピノチェト本人への証言を求めないこととなる.陸軍は総司令官ピノチェトへの「ゆるぎない忠誠」を誓う声明.

12 社会党大会.党組織とPPDの関係をめぐり社会党は事実上分裂.アルメイダ派,左派の社会主義統一派がそれぞれ活動.この結果,リカルド・ラゴス・エスコバル(エコノミスト,元大学総長),リカルド・ヌニェス・ムニョスらの率いる社会党「再生派」=PPDが事実上,国内の中道左派潮流を代表する独自政党として機能するようになる.PPDはマルクス主義路線を放棄,市場経済と複数政党制を標榜して支持を伸ばす.キリ民党と民主主義復活をめざす統一協定を結ぶ.

12 MAPUラウタロ派の青年組織ラウタロ青年運動(MJL),革命攻勢を唱えラウタロ人民反乱軍(FRPL)を編成するが,実行にいたらず.

 

1991年

1.03 軍事法廷,ペドロ・フェルナンデス・ディットゥス陸軍大尉に有罪を宣告.86年のロドリゴ・ロハスとカルメン・グロリアに対する人間たいまつ事件の際,火傷を負ったロハスに対し充分な治療を怠った罪を問われたもの.彼に火傷を負わせた罪,カルメン・キンタナに対する罪は問われず.軽犯罪者用刑務所に300日拘禁という軽い刑に終わる.

1.12 73年10月にパイネで虐殺された農民16人を追悼する大衆集会が開かれる.参加者は遺体が隠されていた法医学研究所の前で抗議.

1.26 最高裁,カルロス・セルダ判事を二ケ月の執務禁止処分.セルダ判事は13人の行方不明事件に関連して,恩赦法の適用と審理の終結を求めた最高裁上層部の意見を拒否したため.

2.08 前軍事政権下での人権侵害を調査していた「真実と和解のための委員会」(CERC),3,000件に上る事件の報告書をエイルウィン大統領に提出.報告によれば軍政下の犠牲者は,ほとんどが秘密警察により逮捕あるいは誘拐され,拷問・殺害の後密かに葬られたものと見られる.またレテリエル殺害事件,共産党員3人の首なし死体事件は軍情報局(DINA)によるものと特定される.

1991年3月 レティグ人権報告書の発表

3.03 陸軍少佐で外科医のカルロス・ペレス・カストロ,ランカグアの町で射殺される.彼はCNIと関係を持ち,人権団体から告発されていた.彼はCNIの拷問に立ち会い,囚人の健康状態をチェックする役割を負っていたことを認め,84年に医師会から除名されている.

3.04 「真相と和解のための全国調査団」,全三巻,2千ページからなる「クーデター以後の軍事政権下での人権抑圧の実態に関する報告書」を提出.議長のエイルウィン大統領は,テレビで概要を発表.これによれば,少なくとも2,025人が深刻な人権侵害を受け,死亡もしくは行方不明に至ったとする.またその他,90人が政治的な動機を持つ民間人によって殺され,164人以上が,政治的暴力の結果命を失ったとする.

3.17 独立民主連合(UDI)党首のハイメ・グスマン上院議員,「調査報告は表面的で,歪められ,歴史の解釈に虚偽を持ち込むもの」と非難.グスマンはピノチェト側近で80年憲法の起草者.

3 直後の世論調査では国民の3/4が軍部の人権侵害を非難.残りのうち14%も,人権侵害に関して「軍部が少なくともなんらかの責任がある」と考える.「軍部に責任はない」と答えたのは4%未満にとどまる.人権団体はこれらの事例をすべて裁判にかけるよう要求.

3 その後委員会は,人権侵害が疑われた230のケースで600人の将校(主に陸軍)を尋問.裁判所も軍政時代に起きた行方不明者の捜索に関して数多くの軍将校に証言を求める.捜査当局は,倒産した武器工場の損失保障のため軍がピノチェトの息子に支払った約3百万ドルの行方について,汚職の疑いで捜査を開始.軍は関係軍人の処罰に強く反発,恩赦を要求.

3.20 4軍中もっともエイルウィンに近かったマテイ空軍総司令官,ピノチェト派の圧力を受け辞任.

3.27 ピノチェト,軍事学校で演説.「人権侵犯調査報告」を非難.クーデター後の行動は「自由と主権を救済するための愛国的業績であり,国軍が謝罪すべきものはなにもない」と開き直る.

1991年4月

4.01 FPMR,カトリック大学周辺でハイメ・グスマン・エラスリス上院議員を待ち伏せ,暗殺.独立民主連合は「ピノチェト,もう一度クーデターを」と叫んで市内をデモ.00年11月に解禁された米政府秘密文書によれば,犯行はFPMRの一分派によるもので,潜入した国家情報部のスパイが挑発したものという.

4.16 政府,FPMRを国内保安法を侵したとして強く非難.エンリケ・コレア内相は「政府の目的は,国民の統一を破壊するテロリストを摘発することにあると強調.

4.19 政府,公共安全同同本部を設置し,テロリストの取り締まりに乗り出すと発表.

4.23 FBI,レテリエル暗殺犯の内,唯一逃亡していた亡命キューバ人ビルヒリオ・パブロ・パスをフロリダで逮捕.彼は同じく亡命キューバ人ディオニシオ・スアレス・エスキベル,米国籍でDINAエージェントのマイケル・タウンリーとともに,レテリエルの車に爆弾を仕掛けたことを認める.

1991年5月

5.05 チリ人権委員会,人権と真実に関する国民教育キヤンペーンを開始.レティグ報告の内容と結論を広く普及することが狙い.

5.29 国内七カ所の刑務所にいる未決政治囚51人が,裁判の促進を求め23日間のハンガースト.

1991年6月

6.02 FPMR主流派,共産党とともに声明を発表.武装闘争を非難し厳密に政治闘争に集中すると宣言.

6.07 元コンセプシオン大学学生でMIR活動家,その後官憲のスパイとなったマルシア・アレハンドラ・メリノ・ベガ(通称ラ・フラカ・アレハンドラ),ニバルド・カベサス・ロペス判事の前で4時間にわたり証言.彼女の手引きで多くの活動家が逮捕され行方不明となる.

6.09 チリ出身のピアニスト,クラウディオ・アラウが死亡.

6月 最高裁,73年のカラマでの26人処刑と秘密埋葬に関する審理を終結.恩赦法を適用した軍事法廷の判断を支持.

6月 チリ、外資の流入を規制するencaje制度を導入。取り入れた外貨の20%を、無利子で、90 日から1 年間、強制預託させるもの。

7.31 上院,海外亡命者の帰国を推進する「帰還局」の設立を承認.

8.23 チリ最高裁,レテリエル,プラッツ暗殺の指揮者で当時のDINA長官マヌエル・コントレラス退役将軍に対し60日間の禁足を命令.

1991年9月

9.02 サンチアゴ総合墓地内のパティオ21で,法廷専門官による無名墓地の発掘が始まる.軍政初期に不法処刑された127体の遺骸が掘り出される.

9 レテリエル殺害犯のパスに対して懲役12年の判決.タウンリーは米政府の証人保護プログラムにより米国内で保護されている.

10 労働者中央連合(CUT),第1回総会を開催.合法化へ向け闘争を強化.

1991年11月

11.15 DINA直属の化学者エウヘニオ・ベリオスが失踪.レテリエル事件の特別捜査官アドルフォ・バナドス判事の尋問命令を受けた後行方不明となる.ベリオスはタウンリーの下で致死性ガスのサリンを開発.スペイン外交官カルメロ・ソリアの死に関係していたと見られる.最後に生きているのが確認されたのはウルグアイ国内.彼は誘拐者の手を逃れ警察の保護を求めていたと言われる.1年後にベリオスの射殺死体がウルグアイで発見される.

11.16 国連職員でスペインの市民カルメロ・ソリアが,76年に暗殺された事件で,レティグ委員会はDINAエージェントが彼を誘拐して殺したと結論.これを受けて民間裁判所で審理開始.最高裁は軍部の要請に応え,担当判事ビオレータ・グスマンの反対をおしきり,裁判を軍事法廷に移すことを決定.

11.22 マプーチェ最後の反乱110年を祝う集会.政府は先住民特別委員会の創立を発表.AD-MAPUなどマプーチェ6団体は,これを支持し,「全土評議会」の土地占拠戦術を批判する共同声明.テムコの町では中央広場の壁にマプーチェの歴史画を描こうとした若者が逮捕される.

91年 アレハンドロ・フォックスレー・リエスコ蔵相の下で,91年GDP成長率は5.5%を記録.92年には9%に達する(93年は5.5%).失業率は6.5%にまで低下,93年にはわずか5.5%.インフレイ率は12%に低下.一方この間に貧富の差は一気に加速.人口の4割以上,5百万の人が貧困状態にあり,うち百万は極貧状態にある.地方人口の55%は極貧.教育,保健水準の低下,不十分な農地改革が原因となっている.

91年 キリ民党が綱領改正。共同体的社会主義(Socialista Communitaria)のスローガンは削除される。

 

1992年

1.03 「補償と和解のための全国基金」が創設され,レティグ委員会の業務を引き継ぐ.政府職員による人権侵害の申し立てを受けつける他,家族への補償額を確定する仕事.

2.13 ブッシュ大統領,チリと自由貿易協定の交渉開始の意向を表明.

2月 政府,ガジェトゥー木材会社などからキンケン行政区内の土地を購入し,ペウェンチェ族に交付.この土地はもともとぺウェンチェ族の共有地で,ピノチェト政権の下で接収され,材木会社に販売されたもの.

3 政府,労働者中央連合(CUT)を合法化.

4 コデルコ法成立.未開発資源の探索を国外の会社と共同で行うことを承認.コデルコはこの時点でチリの銅算出の6割を支配.米国のフェルプス・ドッジと日本の住友金属が政府とカンデラリア鉱山(銅,金)の開発契約を結ぶ.

5.13 ブッシュ米大統領,チリと自由貿易協定の交渉開始の意向を表明.

6.20 71年以来となる一斉地方選挙が実施される.

6.23 「全土地会議」の140人が,テムコ近郊カウティンの土地を占拠.警察の強制排除により79人が逮捕される.ほかにバルディビア,ラウタロ県でも土地占拠闘争.旧MIR派の地方ゲリラ組織「貧民ゲリラ軍」と接触との説は,当事者により否定される.

8.23 「国民改革」の大統領候補セバスチャン・ピニェイラの電話による会話記録が,国営放送で流される.この会話の中でピニェイラは自党顧問エベリン・マッテイの追い落とし作戦を画策.

1992年9月

9.04 政府,エイルウィン政権開始以来,刑務所内での虐待が50件にのぼるとするアメリカズ・ウォッチの告発について調査すると発表.

9.15 ブラジルのコロール大統領,元DINAエージェントのオスワルド・ロモの国外追放に応じる.ロモは74年から75年にかけておきた約100件の人権侵害事件にかかわっていたとされる.

9.22 元軍情報部(DINE)スタッフ,国営テレビで「電話盗聴は通常任務のひとつ」と証言.サンチアゴ市内のある場所で,600人の職員がセルラーフォンの24時間傍受を行なっていたことを明らかにする.

9.23 軍はスパイ活動を否定.ピノチェトは声明を発表し,犯罪関係者の証拠を収集することは当然と,開き直る.

9.29 9人の政治囚が早期釈放を求め,40日間のハンガースト.

9月 ラウタロ運動のノルマ・ベルガラら,捜査にあたっていた刑事二人を射殺して逃亡.

10 キリ民党大会.グアトネス(ふとっちょ)と呼ばれる右派の代表で50才の若手フレイが70%を獲得し,チャスコネス(もじゃもじゃ髪)と呼ばれる左派,改革派(中間派)を圧倒.キリ民党はCPD主流を占めるにもかかわらず,政府内要職からは遠ざけられていた.フレイが総裁となるにおよんで党内の力関係は一転し,エイルウィン派などを圧倒するようになった.

11.17 MIR活動家4人に,懲役8年から11年の判決.4人には同時期を刑務所でなく外国で暮らすことが認められる.

92 地方選.共産党の得票率は3.5%にとどまる.

92年 アスンシオンで「テロルの記憶」と名づけられた大量の文書が発見される。ストロエスネル時代の政治警察が作成したもので,警察ファイル、非合法活動に関する命令文書、数千人分の外国人身分証明書、コンドル作戦関連の資料など総計4トンに達する.

92年 カルメロ・ソリア事件で,軍事法廷は恩赦法を適用する判決.これを不服とする原告側とスペイン政府の圧力で,ふたたび控訴審での審理開始.担当判事はマルコス・リベディンスキーとなる.

 

1993年

1 FPMR-A,MAPUーLの指導者200名以上が逮捕され,テロ組織はほぼ根絶.

1月 サンチアゴ南方1200キロ,ケジョンのマプーチェ共同体に合計4万ヘクタールの土地が供与される.土地の利用については,特別先住民委員会にゆだねられる.

1993年3月

3.03 「倫理と情報サービス」を発表したウンベルト・パラマラ退役海軍大尉,プンタ・アレナスで逮捕される.著書は押収される.ホルヘ・マルティネス・ブッシュ海軍司令官は,軍事機密を守るための措置と声明.

3.10 上院人権委員会,レティグ報告に記載されなかった人権侵犯のクレーム受付を60日間延長.「補償と和解の全国基金」の93年末までの延長も決める.

3.11 イタリアの法廷,レイトン夫妻暗殺未遂事件で,中心人物のタウンリーに懲役18年の判決.

3.13 ラウタロ運動のコマンド部隊,サンチアゴ東部の住宅街で警護にあたっていた兵士二人を襲撃.

3.27 カラビネーロス,サンチアゴ市内で銃撃戦の末,副司令官を逮捕.活動家のノルマ・ベルガラを射殺.

3.28 ブラジル人心理学者のタニア・マリア・コルデイロ,テロ活動への参加の疑いで,ランカグアで逮捕される.彼女は12歳の娘とともに捕らえられ,レープされ,殴られ,電気ショックによる拷問を受けた.

3.30 85年の三人の共産党員(ホセ・マヌエル・パラダ,サンチアゴ・ナッティノ,マヌエル・ゲレーロ)殺害事件で,カラビネロス将校のセルヒオ・サラビアとホルヘ・カンディアが逮捕される.

3 公共研究センターの世論調査.PPDの支持率は10.6%で,8.5%の社会党を上回る.ラゴスは大統領選への出馬の意を表明.

4月 ボリビアとチリ,国交回復問題を棚上げして多くの品目の関税撤廃を定める経済補完協定を締結.道路などインフラ整備と入管施設改善,通関手続きの簡素化などで合意.

1993年5月 陸軍による軍事脅迫

5.04 ヘラルド・ロア・オリバレス,著書「外交官不逮捕特権」を発表したフランシスコ・マルトレルと,この本が発禁処分になった後,小分けにして掲載した「エル・シグロ」紙を告発.この本ではロアが軍政時代に行方不明事件を隠匿したことが暴露されている.

5.13 「ラウタロ運動」がサンチアゴ市内のモルモン教会に侵入.火をつける.教会は全焼.

5.21 大統領の軍指導者任免権をめぐり議会内で論争.候補指名を間近に控えたフレイは最終判断を避ける.事態の最終解決は97年のピノチェト退役後に持ち越される.

5.23 CPDの大統領候補指名選挙.政権の安定と政策の継続,影響力の維持を狙うエイルウィンは,大蔵大臣のアレハンドロ・フォックスリ・リエスコを後継者に据えようとする.フォックスリの評価をめぐり激しい議論.キリ民党主流派はフレイを強く推した.いっぽうPPD(社会党と「PPD]党)は,「今度の大統領はキリ民党ではなく社会主義者から」と主張し,公共教育相のリカルド・ラゴス・エスコバルを推してきた.キリ民党はラゴスが立てばCPDが分裂すると脅した.PPDからも,社会主義者の立起はCPDの分裂,ひいては右翼の勝利と反動化につながるとして反対する声があがった.結局フォックスリは出馬を辞退し,キリ民党のフレイが60%を獲得,38%のラゴスを破りCPDの統一候補となる.

5.28 サンチアゴで陸軍による大規模な示威行動.戦闘服に身を固めた将軍連がモネダ宮殿の向かいの建物にあつまり,重武装した60人の将校と,完全武装の特殊部隊「ボイナソ」(黒ベレー部隊)が大統領府の建物を囲むように示威.事件に対する国防省の対応の遅れに抗議.軍に対する人権裁判と,ピノチェトの息子の武器会社との黒い疑惑に対する捜査再開を拒否する構え.

5.28 キリスト教会社会援助基金(FASIC),「今回の軍部の行動は,軍事法廷が人権にかかわる14件の裁判,最高裁が恩赦法を適用した七件の裁判に関して終結をねらったもの」と非難.

5.29 外遊先から帰国したエイルウィンは,ピノチェトをはじめ各政党,人権グループと精力的に会談.その後,軍部の求める包括恩赦法の撤回はせず,行方不明者を調査する民事裁判所の判事の増員,証言を求められた将校に対するプライバシーの保護強化を柱とする法案を提出.しかしこの法案は議会で否決される.

5.29 サンチアゴ刑務所,取り壊しを前に一般公開される.

5月 プラッツ元総司令官の娘,76年のプラッツ夫妻暗殺事件に関して下院人権委員会に調査を依頼.これを受けた人権委員会は,事件にチリ人が関係していたか否かについて調査を開始.

5月 チリとペルー,リマ協約を締結.「1929年条約」の未解決条項の全面解決に向けた本格協議が開始される.

1993年6月 共産党の退潮

6.08 ウルグアイ政府,91年11月にウルグアイで消息を絶った元DINA職員ベリオスが,軍将校により身柄を拘束され国外へ出たと発表.

6 世論調査によれば,10.6%がPPDを支持,社会党支持は8.5%にとどまる.共産党の支持率は5%以下にまで低下.

7 大統領選に関する世論調査.フレイは75%という記録的な支持率を獲得.

1993年9月 左翼ゲリラの活発化

9.02 軍部の圧力の下エイルウィンが提出した「エイルウィン法」,「事実上の無制限恩赦法」だとする人権団体から強い抗議を受け撤回される.

9.11 クーデター20周年を期して抗議のデモ行進.大統領公邸付近で警官隊と衝突,2人が死亡し8人が負傷.

9.11 FPMR/Dとラウタロ青年運動(MJL)が各地で11件の爆弾テロ.ラウタロ青年運動はMAPUラウタロ派またはラウタロ人民反乱軍(FRPL)を称する.一連のテロで55人が負傷.サンチアゴでも米国系ファーストフード店(マクドナルドとケンタッキー)に小型爆弾が仕掛けられる.MIRを名乗る男から犯行声明.

9.23 最高裁,ピサグア事件で恩赦法の適用を決定した軍事法廷の判断を支持.ピサグア近郊の秘密墓地に,73年から74年にかけて殺された19人の遺体が発見された事件.

9 当局,左翼ゲリラに対する取締りを強化.ラウタロ青年運動のナンバー2で,作戦指揮官のデルフィン・ディアス・ケサダを逮捕.さらにFPMR/Dの軍事指揮者マウリシオ・エルナンデス・ノランブエナも逮捕される.

1993年10月

10.21 ラス・コンデスの繁華街で警察の襲撃.バスに乗っていた過激派活動家を逮捕しようとした警察は銃を乱射.この事件で七人が死亡し,16人が負傷.当初エイルウィンは警察側を弁護するが,犠牲者のほとんどが一般市民であったことが判明した後,この事件に関して特別検察官を指名するよう,最高裁に要請.

10.28 軍事政権時代に判決を受けた最後の女性政治囚ベリンダ・スビクエタが大統領恩赦により,七年半の刑務所生活を終え出所.彼女はFPMRメンバーとして製パン工場襲撃に参加.86年4月に捕えられ,軍事法廷により13年の刑を宣告されていた.

10 右派の国家再生党は若手候補の擁立を図るが,UDIの激しい抵抗にあい混迷を深める.UCCをふくめた議論の末,アルトゥーロ・アレッサンドリ・ベサ上院議員(ホルヘ・アレッサンドリの甥)を統一候補に決定.共産党はエウヘニオ・ピサロ・ポブレテ神父を擁立.環境主義者のマンフレイド・マックス・ネーフも独自に立起.

10 チリ全学連選挙.有効投票が有権者の3割に達せず不成立.

10 下院,人権委員会の調査にもとづき,プラッツ事件に関して特別検察官を指名するよう,最高裁に求める決議.最高裁は下院決議を拒否.

11 サンチアゴ地裁,レテリエル事件の犯人マヌエル・コントレラス将軍とペドロ・エスピノサ大佐に懲役刑判決.二人はただちに最高裁に上訴.

11 チリ政府,アリカのチャカジュタ地区に商工団地を創設.隣国のペルー・ボリビアを含む内外の企業の進出を積極的に奨励.

1993年12月 フレイの勝利

12.11 大統領選挙.CPDのフレイが89年のエイルウィンを上回る大量得票(57.4%)でチリ進歩同盟のアルトゥーロ・アレッサンドリ・ベサ(ホルヘの甥)(24.7%)に圧勝.ピノチェト派のホセ・ピニェーラ候補は6%にとどまる.共産党は4.6%で環境主義者にも敗れる.議会選挙ではコンセルタシオンが70議席を確保.右翼の「進歩のための同盟」(Union Por el Progreso)は50議席.上院では98年まで保障された,非選挙議員を含めた右翼を凌駕できず.これらの政党の他,ヒューマニスト=緑の連合,社会民主党などが進出.

12.15 国会,大統領の任期を現行の8年から6年に短縮する憲法修正案を議決.

12月 カルメロ・ソリア事件を担当するマルコス・リベディンスキー判事,恩赦法を適用した軍事法廷の判断を支持し,控訴を棄却.

93 エイルウィン政権成立後3年で,貧困層の収入は3割増加.貧困層の割合はピノチェト時代の45%から30%にまで低下.

 

1994年

1月 国営銅鉱山会社(コデルコ)での軍が関係した汚職事件発覚.労組は陸軍の会社からの引き揚げを求める.軍政時代,コデルコの売り上げの10%は軍に寄付されることが憲法で定められていた.93年の時点で寄付額は年2億ドルに達し,国防予算の1/5を占めていた.フレイ政権はこの特権を廃止しようと試みるが,上院の反対にあい失敗.

2.20 最大警備刑務所(CAS)がオープンする.これに伴い42人の政治犯が転属.アムネスティの報告によれば,その多くが移送中に虐待と拷問を受けた.

3.11 フレイが大統領に就任.フレイの下CPDは引き続き維持され,社会党のヘルマン・コレアとPPDのラゴスが入閣.ピノチェトはなお陸軍総司令官辞任を拒否.

3.27 政府,軍事政権時代の政治犯に対し,残りの刑期を外国で暮らすことを条件として,釈放することを決定.

4月 最高裁,カルメロ・ソリア事件の裁判を再開.(76年に起きた,ECLAのスペイン人職員カルメロ・ソリアがDINAにより誘拐・殺害された事件)

1994年4月 コントレーラスの有罪判決

5.01 国連難民高等弁務官(UNHCR),「チリの亡命者」の状態は,もはや正当化されないと声明.エイルウィンの大統領就任以来,4万5千の亡命者が帰国したが,依然として七万人が亡命継続を余儀なくされていると発表.

5.30 最高裁,レテリエル暗殺事件の裁判でコントレーラスに対し懲役7年,ペドロ・エスピノーサ陸軍准将に対し同6年の判決.ピノチェトはニュルンベルクに匹敵する不当な判決と非難.コントレーラスは収監を拒否し南部の軍病院に立てこもる.いっぽうDINA関係者により,政治犯を南部の火山に突き落としたこと,対ペルー戦に備えてサリンを製造したことが明らかにされる.

6.15 FPMRの二人の指導者が自発的に帰国,そのまま当局により逮捕される.セルヒオ・ブッシュマンは87年に脱獄に成功したあと,ニカラグアで生活していた.

6月 チリ政府,「強制された行方不明者に関する米州会議」に出席.合意文書に調印.議会での批准は遅れる.

7月 ラウタロの創設者ギジェルモ・オサンドロンが逮捕される.

1994年10月 スタンヘ長官の更迭

10.14 カラビネーロス長官ロドルフォ・スタンヘ,フレイ大統領の勧告を受け辞任.85年の共産党員3人の殺害事件で,責任を問われたもの.後任にはフェルナンド・コルデロ・ルスケ将軍.

10.14 法医学研究所,91年にサンチアゴ総合墓地パティオ29で発見された104人の遺骸のうち,13人の身元を確認.この中にはアジェンデの護衛隊員5人がふくまれる.

10月 軍事法廷,「倫理と情報サービス」を発行したパラマラ大尉を,不服従と軍規違反の罪で懲役3年の刑に処す.

1994年11月

11.07 フレイ大統領,軍事政権下での行方不明問題解決のための新法案を国会に提出.人権擁護団体は「人権侵害追及の終止符」と反発.

11.09 ピノチェト陸軍司令官,軍事政権下での弾圧を「忘れろ」と発言.

11.21 「拷問に反対する国際協会」,チリで92年からこれまで,29件の拷問事例があったと報告する.

12.10 パルケ・ポル・ラ・パス(Parque por la Paz)委員会が創設される。拷問を生き延びた人々が、隠された虐待の事実を忘れることなく、語り広めようとする目的。

94年 チリ共産党第20回大会。コルバランに代わりグラディス・マリンが書記長に選出される。同時に党勢後退に歯止めをかけるべく、98年の大統領選挙における共産党の大統領候補となる。

 

1995年

1.19 議会,プンタ・ペウコ刑務所の設置を承認.この刑務所は軍政時代に人権侵害事件を起こしたものを収用する特別刑務所.政府・与党は,これと引き換えに,軍人の逮捕・投獄に関して軍規の改変を行なわないことを約束させる.

3.16 ネルソン・カウコト弁護士,米州人権委員会あてにDINAを告訴.この訴訟は74年7月DINAにより誘拐され失踪したエドワルド・シャンフロー(Chanfreau)の事件に関してのもの.

4月 ウルグアイで消息を絶った元DINA職員ベリオス,頭に銃弾を打ち込まれた死体となって海岸で発見される.軍人が文民政権の下でもピノチェットへの協力を続けていた事実は、ウルグアイ国民に大きな衝撃を与える。ウルグアイでは証拠がないとして裁判が決着しなかったが、チリでは継続される。

ベリオス事件: エウヘニオ・ベリオスはチリの化学者。ピノチェット政権でサリン・ガス生産に関わっていた。レテリエル外相殺害事件に関する証言を逃れ国外に脱出していた。92年11月5日、モンテビデオ東50キロのバルケ・デル・プラタの警察に出頭。誘拐の被害者だと説明し、助けを求める。まもなくウルグアイ軍の将校トマス・カセジャが医師とともに現れ、ベリオスを連行。その後行方不明となる。カセジャによる誘拐・殺害はピノチェトの直接の要請にもとづくものと見られる。93年にピノチェットがモンテビデオを訪問したさい、モンテビデオの旧市街をカセジャとピノチェットが連れ立って歩いている写真が残されていた。

5.30 レテリエル暗殺事件で,元DINA長官マニュエル・コントレーラスに懲役七年,同じく作戦主任ペドロ・エスピノサに6年の判決.コントレーラスは,病気を理由に収監延期を申し出る.

6.24 ローマの法廷,本人不在のままコントレーラスに懲役20年の判決.レイトン夫妻暗殺未遂事件の主犯とされる.

7.19 ピノチェト,元全学連委員長で社会党青年部議長のアルテューロ・バリオを告訴.これにもとづきバリオは逮捕される.バリオはは6月の集会で,軍政時代の人権侵害の罪でピノチェトが告発されるべきだと演説.

8.13 ラ・セルナの控訴院,軍により拷問され殺された,マリオ・フェルナンデス・ロペスの家族に対し26万ドルを支払うよう,国に命令.フェルナンデスはトラック運転手でキリ民党の活動家だった.84年に軍に捕らえられ殺された.

8.23 人権裁判の促進と行方不明者の捜索を目的とする政府提出法案が,上院での審議に入る.軍の圧力の下,与党と右翼のミゲル・オテロ上院議員とのあいだに妥協が成立.人権侵害に関係した人物は証言の代わりに免責されること,証言者の名前は秘匿されることを条件とする.コンセルタシオン活動家と人権擁護団体は,恩赦の合法化であり許されない妥協だとして拒絶

1995年10月

10.30 最高裁,85年の三共産党員誘拐殺害事件(デゴジャードス事件)で,カラビネーロス情報部の捜査官16人に有罪判決.

10 コントレーラス,プンタ・ペウコ刑務所に収監される.

12月 サンチアゴ北部コリーナのペルデウエ軍基地内に,秘密墓地が発見される.73年に殺害された三人の遺骸が発掘される.

95年 チリ,中南米諸国がメキシコの金融危機の影響を受けるなかで,GDP8.3%の成長を達成.輸出額は38%の伸びを示す.アジア向け輸出が北米・ラテンアメリカへの輸出を上回る.とくに対日輸出が急増し,チリにとって最大の輸出相手国となる.

 

1996年

1 ブエノスアイレスで裁判所の命令により,元チリDINA部員アランシビアを拘束.

1 フレイ大統領,軍人の免責につながる人権法案を撤回.

7.05 国家聴聞院(スペイン最高裁),進歩的法律家同盟の提出した,チリにおけるスペイン行方不明者に関する提訴を受理.提訴はピノチェトら元軍事評議会メンバーを対象とする.チリ政府はチリ国内の事件に対するスペインの法的能力を否定.マヌエル・ガルシア・カステジョンの聴聞を拒否.

9.11 FPMRの一派が,アントファガスタで高圧線の鉄塔を爆破.

9.11 総合墓地の行方不明者記念碑前で,クーデター13周年を記念する集会開催.共産党のグラディス・マリン書記長は,ピノチェトを「陰謀と裏切りと犯罪によって権力を獲得した,精神病質の臆病者」と非難する演説.検察は,国家指導者の非難は国家保安法に違反するとして捜査開始.上訴審はマリンの発言は犯罪を構成すると発言.サンチアゴ高裁はマリンに逮捕状を発行.

1996年10月 グラディス・マリンの逮捕

10.1 チリ,農業経営者からの強力な反対を押し切りメルコスールに加盟.

10.22 グラディス・マリン書記長,9月11日の抗議集会での発言でピノチェトの名誉を傷つけたとして逮捕される.6日間にわたり拘留される.

10.24 サンチアゴ高裁のスポークスマン,グラディスはもし有罪となれば3年の禁固刑となるだろうと発言.

10.24 チリ全学連選挙.全学生1万6千のうち9千が投票.共産党系候補が47%を獲得し当選.コンセルタシオン系候補は30%,他にエコロジー系候補が10%,右翼系に候補があわせて12%.

12.30 FPMR武闘派,ヘリコプターによる脱獄作戦を展開.サンチアゴ市内の最大警備刑務所から4人の幹部を脱走させることに成功.

 

1997年

3.15 サン・フェリペで陸軍徴集兵ペドロ・ソト・タピアの遺体の一部が発見される.彼は三ヶ月前に軍内での虐待について抗議した後,行方不明となっていた.

1997年5月 コロニア・ディグニダードの強制捜査

5.08 アジェンデの主治医だったエンリケ・パリスの家族が,軍を殺人の罪で告訴.彼はアジェンデが殺されたとき,モネダ宮殿にいた.そして74年に逮捕され行方不明となっていたが,パティオ29で発見された遺骸の中に発見された.

5.15 ネルソン・アビラ下院議員,ペドロ・ソトら4人の召集兵が軍の情報将校により拷問されたとの調査結果を発表.政府は拷問の事実を否定.

5.19 「陸軍友の会」,ペドロ・ソト事件に関して報道禁止を求める.

5.21 上院,73年以降軍が個人・団体から没収した資産を返還する法案を承認.

5.22 警察,ドイツ系移民の集落コロニア・ディグニダードを捜索.軍政初期の政治囚拘禁・殺害の主犯者で,未成年者に対する性的虐待の罪に問われたポール・シェーファーを捕えることに失敗.

5.26 ペドロ・ソトはダイナマイトにより自殺したとの新証言.これにより被疑者の古参兵4人は釈放される.その後,ペドロ・ソトの同僚ダゴベルト・コントレーラスが「拷問の末,偽証を強要された」と告白.

5.27 FPMR武闘派,サンチアゴ市内で記者会見.武装闘争を止め,合法的な政治組織として活動すると声明.ロレーナ・アストルガは「当局の弾圧を避けるため引き続き地下活動を続けるが,それは非合法闘争の継続を意味するものではない」と語る.

1997年6月

6.02 ペドロ・ソト事件を担当したマヌエル・シルバ特別検察官,ペドロ・ソトは爆弾を使って自殺した可能性もある,と述べる.

6.04 ピノチェト,ペドロ・ソト事件での司法側の対応を非難.「軍はこれ以上のウソに耐えることは出来ない」と述べる.

6.07 ビジャ・バビエラ(旧コロニア・ディグニダー)で,抗議行動中の「行方不明者の家族の会」(AFDD)50人を「住民」が襲撃.

6.17 非選挙選出上院議員を廃止する憲法改正案が,議会上院で成立に失敗.この五年間で三度目.

6.18 アムネスティ,「恐怖と尊厳の年代記」と題する96年度のチリ人権報告を発表.一年間に少なくとも20件の拷問・虐待の事例があったとする.また軍政時代の人権侵害に対する裁判が閉鎖的かつ不充分で,罪が罰せられないままになっていると糾弾.

7.09 オスバルド・ロモ元DINA捜査官に対し,20年の実刑判決が下る.彼は100件以上の人権侵害と関係したとされるが,そのうち74年のグロリア・ラゴス・ニルソンの失踪について罪を問われた.

7.16 昨年のアントファガスタ高圧線鉄塔爆破事件で捕らえられたFPMRの七人に対し,3から12年の実刑判決.

1997年8月

8.08 最高裁,元コロニア・ディグニダーの調査を強化するよう指示.75年から77年までのあいだに,DINAによって112人の政治囚が送り込まれ,その後行方不明となった.

8.19 ペドロ・ソト・タピアの死に関する調査が打ち切られる.容疑者も死因も特定できず,迷宮入り.

8.29 控訴裁,グロリア・キンタナに対する「人間たいまつ」事件で,国家に60万ドルの賠償を命じる判決.国家防衛会議,政府に責任はないとして上訴.

1997年9月 カラビネーロスの暴行

9.04 96年に最大警備刑務所から脱獄したFPMR幹部の一人パトリシオ・オルティス・モンテネグロ,チリ政府の要請を受けたスイス警察により,チューリヒで逮捕される.他の三幹部はキューバに潜伏中といわれる.

9.06 チリの司法・軍当局はスイス政府にオルティス引渡しを求める.

9.11 軍クーデター記念日.カラビネーロスは,総合墓地内の行方不明者記念碑前に集まった抗議デモに,催涙ガスによる弾圧.約90人が逮捕される.

9.23 軍検察当局,最高裁に対し,下級審でも78年恩赦法を厳密に適用し,人権侵犯の疑いのある軍人を保護するよう要請.

9月 エンリケ・パリスと同じくパティオ29で遺骸を発見された,エドワルド・パレデスの遺族が政府を相手に告訴.パレデスはアジェンデ政権における警備警察主任だった.

1997年10月 最高裁の策動

10.10 最高裁,下級審で審理中の軍人による人権侵犯事件約100件について,速やかに審理を終結するよう指示.ただし恩赦法の厳密な適用については言及せず.

10.27 「スペイン民主主義判事協会」,軍政時代にチリで人権侵犯の犠牲となったスペイン人のケースについて,裁判権を放棄しないと言明.

10.28 米州人権委員会,チリの司法官は人権裁判の進行に対して不誠実だと非難する声明.政府はこれに反発.最高裁は沈黙を守る.

10.29 陸軍評議会,14人から出された良心的兵役免除の嘆願を拒否.

1997年11月

11.04 フレイ大統領,陸軍から出されたハイメ・レペ准将の昇格提案を拒否.レペはピノチェト腹心のひとりで,元DINA将校.76年のスペイン外交官カルメロ・ソリア暗殺事件との関連が疑われている.

11.18 ボンの地方裁で争われていたアムネスティとコロニア・ディグニダーの訴訟で,コロニア側が敗訴.この訴訟は77年にアムネスティがコロニア非難のパンフレットを発行したことを,名誉毀損として訴えていた裁判.判決はドイツ系移民が軍事政権と協力して政治犯に拷問を加えていた事実を認める.

11.19 最高裁,人権裁判への恩赦法適用を認めない初の判決.74年の社会党員ロドルフォ・エスペホとグレゴリオ・ロペスの逮捕・失踪事件について恩赦法の適用を認めた軍事法廷の判決を翻す判決.

11.19 ウルグアイ当局,エウヘニオ・ベリオス(元DINA所属の薬剤師)の死を公式に認める通知書を,チリ最高裁あてに送付.

1997年12月 非改選上院議員の指名

12.07 アメリカズ・ウォッチ,チリの人権状況がかなり改善したとする年次報告を発表.しかし言論の自由は依然抑圧されていると警告.

12.11 総選挙.グラディス・マリンは上院議員として立候補.有権者の4割が投票を棄権.

12.23 フレイ大統領と国家安全保障会議,非選出上院議員の指名を完了.軍部からは,元海軍提督ホルヘ・マルティネス・ブッシュ,前空軍総司令官レーモン・ベガ,前カラビネロス長官フェルナンド・コルデロ,元陸軍将軍フリオ・カネッサが指名される.フレイはさらにエドガルド・ベニンゲル前内相,前チリ国立大学学長アウグスト・パラを指名.フレイは指名発表にあたり,この制度そのものへの反対意見を述べる.

12.29 ピノチェト,指名された非選出議員の過去を暴くと脅迫.エドムンド・ペレス国防相は,ピノチェトを官邸に呼び出し,彼の発言に対する政府の不快感を伝える.

12.31 最高裁,「アルバニア作戦」に対する軍事法廷の恩赦法適用決定を取り消す判決.さらにこの事件に関して特別検察官を指名すると述べる.

97年 社会党が綱領を改正。市場主義を受け入れ、社会民主主義への移行を明確にする。

 

1998年

1998年1月 共産党,ピノチェトを告発

1.12 55才のタクシー運転手ラウル・パルマ・サルガド,尋問中に加えられた拷問の結果,心臓発作で死亡.

1.15 パルマ事件弁護団,カラビネロスを告発.法医学研究所は解剖結果を発表.これによればパルマの遺体は複数の骨折,内臓出血を伴っていた.さらにカラビネロスの拷問を目撃した証人も現れる.

1.17 新しく枢機卿に任命されたホルヘ・メディナ,公式の場でピノチェトに対する支持を明らかにする.政府はメディナ発言を「不適切な発言」と批判.

1.20 カラビネロス調査部,パルマの死に関して警察官4人を免職.

1.20 共産党,人権侵害で軍総司令官ピノチェトを告発.控訴裁はこれを受理.フアン・グスマン判事を担当官に指名.法廷がピノチェトに対する告発を受理したのは最初のケース.

1.21 二人のジャーナリスト(ラファエル・グムシオとポーラ・コッドウ)が投獄される.セルバンド・ホルダン最高裁元長官を「暗い過去を持つ古い,醜い」人物とコメントしたことが,国家保安法違反にあたるとされた.

1.28 二人のジャーナリストに対する,ホルダン元長官の名誉毀損の訴訟が取り下げられる.

1.27 11人のチリ人弁護士が,非選挙・終身上院議員の地位は米州憲章に違反するとして,米州機構に告発.米州機構はこの告発を受けて調査を開始すると発表.

1.29 最高裁,軍事政権下で起きた人権侵害に関する情報を提供するよう求めたスペイン裁判所の要請を拒絶.

1.29 チリ空軍の退役将軍セルヒオ・ポブレテ,スペイン裁判所で証言.クーデターのあと,同僚や部下により拷問にかけられたことを明らかにする.

1998年2月

2.02 チリ政府当局,警察と刑務所が収監者の虐待を続けているとする,米国務省の国際人権白書を否定.

2.19 欧州連合議会,ピノチェトの終身上院議員就任に抗議する決議.「そのような決定は,チリの民主主義にとって利益にならない」と述べる.

2.24 マヌエル・コントレーラス,軍事政権下でのDINAの行動について,ピノチェトが直接責任を負っていたと述べる.さらに74年のプラッツ夫妻暗殺事件を指揮したのはマイケル・タウンリーとその妻マリアーナ・カジェハスだったことも明らかにする.

1998年3月 ピノチェトの退役

3.06 陸軍,ピノチェトを名誉総司令官に叙す.同時に彼に対する永遠の絶対的忠誠を誓う.

3.10 82歳となったピノチェト,陸軍総司令官の地位を降りる.後任にはリカルド・イスリエタ・カファレナ将軍が着任

3.11 ピノチェト,法的訴追を受けない特権を持つ終身上院議員に就任.3197人が殺害(もしくは行方不明)され,9万人が拷問を受け,そして5万4000人が亡命を余儀なくされたチリ軍政時代の犠牲は不問に付される.着帯式には数千人が抗議行動に押しかける.500人以上が逮捕され,12人の警官を含む34人が負傷.

3.12 最高裁,24人が行方不明のままとなっているパイネ事件で,78年恩赦法を適用しないことを決定.

3.13 チロエ州知事ハイメ・モラーガ,警察署内で容疑者に対する拷問があったと証言.証言によれば,18歳の容疑者ペドロ・ガストンは,取調べ中に殴られ,電気ショックを受けた.これにもとづき4人の刑事が解職され,起訴される.

3.15 スペインのテレビ放送,元軍兵士ネルソン・バナドスの殺人告白を放映.バナドスはクーデター直後に,スペイン人聖職者ホアン・アルシナを殺害するよう指示されたという.

3.16 コンセルタシオン党の議員10人が,ピノチェトを憲法違反の罪で告訴.これによれば,ピノチェトは,大統領を辞した90年以降も,陸軍総司令官として国民の名誉と安全を脅かし続けたという.

3.16 政府,行方不明者を識別するためDNAバンクを作る計画を発表.

3.18 最高裁第二小法廷,レテリエル事件に関してコントレーラス側から出されていた再審要請を却下.

3.24 カラビネーロス警察,元コロニア・ディグニダード(現ビジャ・バビエラ)を急襲し占拠.元指導者ポール・シェーファー逮捕に向け,手がかりを探る.

3.24 スペインのマヌエル・ガルシア・カスティジョン判事,軍政時代にチリに在住し,人権侵害を受けたケースの調査を終了.

1998年4月

4.01 軍事法廷,再開されたアルバニア作戦に関する裁判で,特別検察官として民間裁判官ウーゴ・ドルメスチ(Dolmestch)を指名する.

4.03 チリは国際的に死刑廃止を求める国連決議に賛成投票.

4.03 最高裁,マヌエル・カビエセス(ジャーナリスト)に対する裁判を却下.カビエセスは91年,ピノチェトを非難攻撃し,反愛国的行為を働いたとして訴えられていた.

4.09 下院,コンセルタシオン有志により提出されていた,ピノチェトの弾劾提案(違憲告発)を62対52で否決.コンセルタシオン内のキリ民党員11人が,ピノチェト側につく.

4.18 サンティアゴで,米州34ヵ国による第2回南北アメリカ首脳会議.

4.22 南部で土地を占拠していたマプーチェ代表,チリ政府(CONADI)と和解に達する.占拠者は撤退し,政府が土地7万ヘクタールを買収のうえ,1500家族のマプーチェに供与することとなる.しかし土地所有者は売却の話に応ぜず.地元警察は占拠者に対する襲撃を繰り返す.

4 プラッツ暗殺事件を審査中のアルゼンチン司法当局,事件はDINAの仕業によるものと断定.

1998年5月

5.04 軍検察官,前警察軍大尉エルナン・クリストバル・レイバに対し扇動容疑で告訴する.彼はカラビネーロスの低賃金,上級将校と下士官との格差を公的に訴えたため,解雇され逮捕されていた.

5.18 国際刑務所監察委員会(OIP),警察署内での監禁期間中に,未成年者の権利が犯されていると報告.OIPはフランスに本部を置くNGO.

6.06 カルロス・フィゲロア副大統領,ビジャ・バビエラ捜査作戦が失敗に終わったと発表.

6.17 フランシスコ・ハビエル・エラスリスがサンチアゴ大司教に就任.最初の記者会見で,人権がカトリック教会の重要なテーマである点を強調.また78年恩赦法の改正案を支持すると述べる.

6 チリとペルー,経済補完協定を締結.

7月 アルバニア作戦事件を担当する特別検察官ウーゴ・ドルメスチ,FPMRの7人のメンバーの死に関して,5人の前CNIエージェントに対する訴訟を起こす.

7 フレイ政権,財政支出の抑制を断行.

1998年8月

8.15 「死のキャラバン」事件を担当するファン・グスマン判事,恩赦法は真実を発見し,個々の責任を明らかにするための調査の妨げとはならないと述べる.

8.19 上院,クーデター記念日の11日を祝日から廃止し,9月4日を「国家統合の日」とする決議を採択.4日は1970年にアジェンデが大統領に当選した日.

8.20 MORI社,次期大統領選に関する世論調査.67%がラゴス候補を支持する結果.

98年9月

9.2 政府,軍部がクーデター25周年記念式典を中止したことに対し「満足感」を表明.

9.4 アジェンデ大統領追悼25周年式典に6万人が参加.

9.7 メキシコのアジェンデ未亡人,25年前のような不穏な社会状況が出現していることに懸念を表明.

9.11 政府の禁止命令を無視し,クーデター25周年に抗議する街頭行動.カラビネーロスの発砲により,学生クローディア・ロペスが射殺される.この他77人が負傷し,327人が逮捕される.

9.16 「ラ・テルセーラ」紙のフェルナンド・パウルセン編集長と記者のホセ・エール,セルバンド・ホルダン元最高裁長官を侮辱したとして逮捕される.

9.22 英国国防省と密接な関係を持つ武器製造産業の招待をうけたピノチェト,ヒースローに到着.空港では英国外務省がVIPとして扱う.ロンドンの民間病院「ザ・クリニック」に椎間板ヘルニアの手術・療養のために入院.サッチャー元首相らとも会談.

9 フレイ大統領,全国テレビ中継で演説.緊縮型予算編成への国民の理解を求める.

9月 スイス,パトリシオ・オルティスの引渡しを拒否.チリ政府はスイスに対し公式に抗議.

9月 チリ、強制預託を義務付ける資本流入規制策を撤廃。

 

98年10月 ピノチェト逮捕

10.07 下院,9月4日を「国民統一の日」として,あらためて祝日とする決議.

10.14 チリ下院,軍事クーデターの9月11日を国定祝日から外すことを賛成多数で可決.

10.14 チリ・スタジアムの名称を「ビクトル・ハラ」に変更する法案を連立与党の有志議員が提出.ビクトル・ハラは当局に逮捕され,同スタジアムで拷問ののち殺害される.

10.14  スペイン全国管区裁判所のガルソン予審判事,被害者団体の訴えを受け2年にわたり調査.その結果,スペイン市民の人権弾圧にピノチェトが係わったことが明らかになったと告発.国際刑事警察機構(インターポール)を通じて英警察当局に,「事件について尋問を受けるまで英国に身柄をとどめるよう」要請.

10.15 チリ共産党第21回大会が開幕.「野蛮なネオリベラリズム社会から民族主義的な社会民主主義国家への移行」をスローガンに掲げる.

10.16 スペイン予審判事からの逮捕要請を受けたロンドン警察,腰椎ヘルニア手術のため入院中のピノチェトを身柄拘束.容疑はクーデターから83年までの間にチリ滞在中のスペイン人市民が殺害されたというもの.オブザーバー紙は「ピノチェトらはスペイン判事が逮捕要請したことを察知し,17日早朝の航空機で急きょ帰国を計画.直前に気づいたスコットランドヤードが,治療中の病院で緊急逮捕した」と報じる.

10.17 イベロアメリカ首脳会議出席のためリスボン訪問中のチリのフレイ大統領,「ピノチェト元大統領は外交官旅券で英国に滞在しており,逮捕は外交特権に対する侵害である」と英政府に正式に抗議.

10.18 サンチアゴのイギリスおよびスペインの大使館近くで,UDI(民主独立連合)約1000人が抗議行動.両国国旗を燃やす.逮捕者多数と負傷者を出す.

10.18 スペインのアスナール首相,「行政府は司法当局の判断を政治問題に絡めるべきでない」と述べ,チリ政府の批判に反論.

10.19 ガルソン予審判事,国家機構を使っての大量虐殺や拷問など94件にピノチェト元大統領が関与したとの容疑で追訴.身柄引き渡しを英国に要求する手続きを開始.

10.19 フレイ大統領,ピノチェト逮捕に抗議してスペイン訪問を中止.

10.19 米国務省のルービン報道官,「事件はスペインと英国の政府および司法当局の関知するもので,それ以上のコメントすることは適切ではない」と述べる.

10.20 カストロがピノチェト拘束について発言.「裁かれるようになればうれしい」が,その結果「ピノチェトが殉教者となって右翼の立場が強まり,左翼は分裂する可能性がある」と先行きに懸念を示す.またクーデターの背景が米国がいたとし,「ピノチェト一人に罪を帰すべきではない」と語る.

10.20 反ピノチェト派による逮捕支持のデモ.警官隊に投石や火炎ビンを投げ付け,80人あまりが拘留される.

10.20 75年にチリで行方不明となった英国人ウィリアム・ビューサイア氏の家族と人権団体が,ロンドン警察当局にピノチェト起訴を依頼.

10.20 スペインのゴンサレス前首相,チリ訪問を中止すると声明.ピノチェト逮捕に関するスペイン政府の方針が決定していないことを理由とする.

10.21 ピノチェト逮捕に関して賛成,反対両派のデモ.40人以上が拘束される.チリ政府,いかなるピノチェット賛成・反対デモも認可しないと発表.

10.21 リカルド・イスリエタ陸軍最高司令官,ピノチェト釈放のため全力を尽くすと声明.

10.22 欧州議会,スペイン政府に対してピノチェトの身柄引き渡しを英国に要請するよう促す決議を採択(賛成184票,反対12票,棄権14票).この決議は「欧州社会主義グループ」によって提案され,キリスト教民主党系,緑の党なども賛成.サンテール欧州委員会委員長は「犯罪がどこで行われようと,処罰を逃れることができないという国際世論を示すことが大切」と述べ,引き渡しを強く支持.

10.22 ピノチェト弁護団,スペイン当局に裁判権はなく,英警察の逮捕は違法で,ピノチェトには不逮捕特権あるとロンドンの高等裁判所に提訴.また,高齢を理由に人道的見地から身柄拘束を解くよう求める.

10.22 アルゼンチンのメネム大統領,チリ政府の釈放要請を全面的に支持すると表明.サッチャー元首相,タイムズに書簡.「フォークランド紛争で英国を助けたピノチェトを逮捕するのは恥ずべき行為である.ピノチェト処遇はあくまでチリの内政問題であり,スペインや英国が介入すべきではない」とし,ピノチェト釈放を英政府に求める.

10.23 ガルソン予審判事,スイスとルクセンブルクの両国政府にピノチェトの預金口座凍結を求める.同時に捜査員を両国に送り,ピノチェト一家の資産隠しについて調べを始める.

10.23 スペイン全国管区裁判所のフンガリニョ検事局長,ガルソン予審判事が元大統領を裁く権限はないとし,引き渡しに反対する書簡を発表.

10.23 エラスリス・オサ大司教,ピノチェト逮捕は人道的に見て適切でないと発言.

10.23 チリ右翼,英西両国製品の不買運動を呼びかける.

10.24 医療設備を搭載したチリ国軍輸送機がロンドン郊外の軍事基地に到着.ピノチェト釈放に備える.

10.24 クック英外相,チリのフェルナンデス外務次官と会見.英政府が司法介入することは「適当でなく,また不可能なこと」と伝える.また英国は「外交官」としての入国を認めたわけではなく,逮捕を免れる外交特権はない,との立場を明らかにする.

10.25 スウェーデン在住のチリ人亡命者,ピノチェトを告発.これを皮切りに各国でピノチェト起訴が行われ,11月25日までに約200件に上る.

10.26 ロンドン高等法院(判事3人)でピノチェトの釈放要請に関する審理が開始.弁護団は「仮に非人道行為があったとしても,チリ以外に裁判権はない」と弁明.検察側は「暗殺などの行為はスペインをはじめチリ国外に及んでおり,ピノチェト氏に対する裁判権はこうした国々にもある」と反論.

10.26 スイス検察当局,インターポールを通じてピノチェトの身柄拘束を要請.スイスとチリの二重国籍を持つ学生が,チリで拷問を受けた後にアルゼンチンで行方不明になった事件に,ピノチェトが関与したとの疑い.

10.26 ブラジリアでペルー・エクアドル国境紛争の最終和解協定調印式.フレイ大統領とメネム大統領,ピノチェト釈放要請の共同宣言を工作.亡命経験のあるカルドーゾ大統領が強く反対したため流産.

10.28 高等法院,「元国家元首として(英国内では)民事,刑事上の免責特権がある」とし釈放を認める.さらにピノチェトが外交官パスポートを所持していることを考慮し,英警察当局による逮捕は違法との判断を示す.英政府に対し裁判費用など560,000ドルをピノチェット氏に支払うよう命令.

10.29 チリ共産党,高等法院の判決を受け,ピノチェトはチリで裁かれるべきとの声明を発表.

10.29 ピノチェト,「安全対策上の問題」からロンドン北方のグローブランズ・プライオリ病院(精神病院)に転院.

10.29 イタリア連立与党の有志議員,チリ軍政時代にイタリア人3人が死亡・行方不明となっている事件に関し,ピノチェト引き渡し要請を司法当局に求める.

10.29 フランスのギグー法相,ピノチェト免責特権が認められたことに「我慢ならない」 と発言.「ピノチェトの身柄引き渡し請求が提出されれば,直ちに受理」との考えを示す.

10.30 スペインの全国管区司法院,ピノチェト元大統領に対する裁判権がスペインにあるとの結論.併せてアルゼンチン軍政時代の人権抑圧についての裁判権も認める.チリ政府,「両国には司法解釈に大きな対立がある」とし,国際司法裁判所への提訴の構え.

10.30 英高等法院,ピノチェトの保釈申請を認める.ただし抗告に備えて病院内に留まり,英警察による監視下に入るよう指示.

10.30 フランス司法当局,死亡・行方不明となったフランス人(3人)の家族の告発を受理.不法監禁と拷問による容疑で予審手続きを開始.

98年11月

11.01 スペインのアルバレス・カスコス副首相,ピノチェトに関する裁判権を認めた全国管区裁判所の決定を尊重し,身柄引き渡し請求を行う方針を明らかにする.

11.01 上院審査委員会,ピノチェト問題で審議するため,軍政時代の犠牲者・被害者の声を聞く方針を決定.

11.02 フランスのルロワール予審判事,フランス市民行方不明(3人)事件に関して,国際刑事警察機構を通じて国際逮捕状.

11.03 ガルソン予審判事,全国管区裁判所を通じてスペイン政府に,身柄引き渡しを求めるよう正式に請求.

11.04 英国上院で,高等法院によるピノチェト免責判決を受けて,同問題についての審理開始.

11.06 スペイン政府,身柄引き渡しを英国政府に求めることを閣議決定.チリ政府,駐マドリード大使に召還命令.

11.7 ピノチェト,逮捕後初めて声明.「英国に裏切られた感じ」がし,「英国への信頼が揺らいでいる」と発言.「身柄引き渡しの要求には全力で争う」との決意を示す.またクーデターは共産主義から国を守るためだったとし,「現在,チリに自由が回復されたのは私の最大の功績」と自賛.

11.07 サンチアゴのクリクティアン・ラベー市長(右派),駐チリ・スペイン大使を「好ましからざる人物」と宣言.

11.10 ウルグアイ,アルゼンチンおよびチリの国会議員121人が「ピノチェト逮捕支持」の宣言.ウルグアイのヌエボ・エスパシオ党(民主社会主義)の呼びかけによるもので,アルゼンチンの議員59人,チリの議員32人およびウルグアイの議員30人が署名.

11.10 フレイ大統領,ピノチェト問題で国家安全保障会議を召集.ピノチェトには免責特権があり,イギリスには司法権がないと述べる.

11.11 英国政府,身柄引き渡し請求をスペイン司法当局から正式に受ける.またスイス政府も正式に身柄引き渡しを要請した.

11.12 ミランダ連邦下院議員,チリ軍政下にブラジル市民6人が犠牲になったとして告発.ブラジルのブリンデイロ検察長官,英国上院でピノチェト免責裁決がでれば,ブラジルでピノチェト元大統領を起訴する意向を表明.

11.16 チリ最高裁,ピノチェトの人権抑圧に関連して提訴されている11件について,却下の決定.

11.17 英高等法院,12月2日に出廷するようピノチェトに対して命令.

11.19  ドイツ最高裁,ピノチェトに免責特権はなく,訴訟プロセスに問題なしとして提訴を受理.

11.20  国連の拷問対策委員会,ピノチェト元大統領を司法の手で裁くことを求め,「もしそれが出来ない場合は,英国はさまざまな国際条約を侵害することになる」と指摘.

11.25 英国の最高裁に当たる上院,3対2で「逮捕は正当」との判断を裁決.「自国民への組織的な拷問,集団殺害は,国家元首の果たす国家行為ではない.他国の元首であっても,人道・人権問題に関する犯罪には免責は適用されない」とする画期的な判断を示した.

11.28 訪英中のインスルサ外相,「ピノチェトに対し14件の告発がなされている.扱いをチリ国民に任すべきだ」と強調.終身上院議員として「免責特権」を持つ同氏の扱いを見直す考えを示唆.英国内務省は「あらゆる考えを考慮する」とし,チリ政府の対応を待つ.

11.30 ロンドン北部のグローブランズ・プライオリ病院,「元大統領の健康がすでに回復し特別の医療は必要ない」として,できる限り早く退院するよう通告.

98年12月

12.03 元秘密警察作戦主任アルバロ・コルバラン・カスティージャ少佐ほか一人,84年のFPMR活動家虐殺事件で“不必要な暴力”に問われる.

12.08 親ピノチェト派約100人,チリ国内で集めた約20万人の嘆願署名を首相官邸に渡し釈放を要請.訪英団代表(国会議員)は「国民は過去を許し,民主主義を守ることを望んでいる」と語る.

12.09 ジャック・ストロー英内相,ピノチェトのスペインへの身柄引き渡しに向けて司法手続きを開始すると発表.ストローはピノチェトの人権抑圧を「重大な犯罪」とし,健康状態も訴追に問題なく,ピノチェトをチリに帰国させる理由はないと述べる.チリは駐英大使を召還し,抗議の意思を表明.

12.09 第15回メルコスル首脳会議,英国政府の決定を「国家の主権を侵害する越権行為」として強く反発.あらゆる手段で国際社会に訴えていくことを表明.首脳会議での宣言書に英政府への抗議内容を盛り込む意向を明らかにする.チリ陸軍,英国の決定は「越権かつ,屈辱的である」と批判する声明を発表.

12.11 ロンドン首都圏治安判事裁判所(一審)で身柄引き渡しの是非を問う審理が開始.弁護団は三審までの司法再審査を請求でき,最終的決定が出され内相が引き渡しの最終決断を下すまでには数年以上かかると見られる.

12.11 フレイ大統領,駐英大使を一時召還.軍・文民からなる国家安全保障評議会を緊急開催.イスリエタ軍司令官は英国とスペインとの国交断絶を強く主張.一方でピノチェト軍政時代のビデラ退役将軍は,軍政時代の罪に関して,裁判所に出頭する用意があると表明.

12.17 五人のメンバーの一人レオナード・ホフマン議員が93年からアムネスティの人権教育などを担う関連団体の会長で,夫人が約20年間にわたりアムネスティのスタッフであることが判明.上院は決定の公平性に異議を唱える弁護団の訴えを受け,11月25日の判決を無効とし,あらためて裁判が行われることになる.

12.30 軍事法廷,ラウタロ人民反乱軍の幹部ギジェルモ・オサンドン・カナス,ホルヘ・ガジャルド・トルヒージョ,ビクトル・プラド・ブラボに終身刑の判決.

 

1999年

1999年1月

1.18 ピノチェットの免責特権と逮捕の適法性に関する再審議が英上院で始まる.

1.18 フレイ大統領,就任後初めて「行方不明者の家族の会」(AFDD)代表と会見.AFDDのソラ・シエラ議長は,過去の人権侵害に関して,ただ真実だけでなく公正さも追求するよう求める.フレイはピノチェト裁判に関して,「政府の姿勢はピノチェトという個人ではなく,司法の原則を守ることにある」と述べる.

1.21 スペイン側弁護人クリストファー・グリーンウッド,「拷問事件はチリ国内のものではなく,それがどこで発生しようと国際社会上の問題である.

1.25 公聴会が再開される.チリ側弁護人,「ピノチェト政権の下でとられたいかなる行動も,合法的な政府機能の表現であり,チリ国内の問題である」との主張を繰り返す.

1.25 アルバニア作戦事件の特別検察官に,ミルトン・フイカ判事が就任.

1999年3月

3.15 インスルサ外相,「ピノチェトがチリに帰還すれば,ロンドンにいるよりさらに問題が複雑になる」と語る.スペイン紙「エル・パイス」のインタビューに応えたもの.

3.16 ピノチェトを支援する市民団体「ピノチェト運動」,スペイン製品の不買運動を1週間実施するよう呼びかける.

3.24 英上院上訴委員会の再審理,6対1でピノチェト元大統領の免責特権を否認,逮捕を有効と決定.1988年12月以降の拷問について罪を問えるとの判断をしめす.

3.26 米国務省の国際人権に関する年次報告発表.チリについては,軍の当局が行方不明者の運命を明らかにすることを拒否し続けており,裁判所は人権侵害に関する裁判を拒否しつづけていると批判.

1999年4月 司法黒書とホルダン判事

4.09 ラウル・シルバ枢機卿が91歳でなくなる.フレイ大統領は5日間の服喪を発表.

4.09 最高裁,セルヒオ・バレンスエラ・パティオ判事をトゥカペル・ヒメネス暗殺事件の担当から外すことを満場一致で決定.82年に元労働運動指導者ヒメネスが暗殺された事件で,バレンスエラ判事は17年もの調査から何の結論も出さず,ヒメネスの家族からも,国家防衛評議会の側からも,忌避の申し立てが行なわれていた.また家族側は,バレンスエラの息子がCNIで働いていたことから,裁判官としての中立性に疑問を呈していた.

4.14 アレハンドラ・マトス記者,裁判官による腐敗,縁故主義,権力の濫用を暴露した「チリ司法黒書」を発表.ホルダン元最高裁長官を中心人物として非難.ホルダン判事はただちにマトスを召喚.本の発行を禁止.編集者と出版社社長を逮捕.著書は発売の24時間後に没収処分となる.逮捕をまぬがれたマトスは,米国に亡命を余儀なくされる.

4.15 英ストロー内相,スペインへの身柄引き渡しの司法手続きの再開を決定.翌日ピノチェトを再逮捕.弁護団は決定を不服としてロンドンの高等法院に控訴.

4.20 フレイ大統領,「英・西両国は,国際法を遵守していない」と非難.「各国はそれぞれの歴史的問題を解決する権利があり,チリはピノチェト問題を裁く権限がある」と語る.

4.23 チリ政府,「裁判の管轄権」について国際司法裁判所に判断を求めると発表.外相は,再度ピノチェトの身柄引渡しを求める.

4.27 CONADIの土地確保の遅れにマプーチェの抗議.10数回にわたり土地占拠を繰り返す.

4.30 アラウカニアで,警察により土地占拠者排除作戦.100人が排除され50人が逮捕される.

4 軍の検事長を25年にわたり勤めた,フェルナンド・トーレ・シルバが退役.軍と過去の人権侵害を切り離そうとするイスリエタ新司令官の意向に沿った人事といわれる.人権派弁護士は最高裁に対し,トーレが25年間に扱った人権侵害関連の事件について,再調査するよう求める.

4月 独立民主同盟(UDI),ホアキン・ラビンを大統領候補者に選出.国民改革党(RN)のピニェイラ党首は,候補者決定選挙への立候補を辞退.

1999年5月 CIA文書の引渡し決議

5.10 マプーチェ活動家50人が,森林地帯の返還を求め,サンチアゴ市内をデモ.警察との衝突で十数人が逮捕される.

5.13 米下院,チリ・クーデターに関するCIA文書を下院に引き渡すよう求めた議案を採択.議案は「文書が白日の下に曝され,ピノチェトの引き渡しが推進されること」を目的とする.提案者のヒンチー議員は「修正案の最終目的は,クーデターへのCIA,国務省,そしてキッシンジャーの関与を明らかにすることにある」と語る.

5.21 アリカで奨学金増額を求める学生のデモ.カラビネーロスの発砲により,タラパカ大学学生のダニエル・メンコが顔面を打ち抜かれ死亡.

5.22 フレイ大統領,バルパライソの議会で教書を発表.議会は千名の抗議者に囲まれる.警察の弾圧で180人が拘留され,数百のけが人を出す.

5.24 カルメン・エルツ弁護士,「死のキャラバン事件」でピノチェト他当時の軍最高幹部を告発する訴状を提出.

5.30 全国873の投票所で,与党コンセルタシオンの大統領候補を決める予備選挙.有権者の18%が投票に参加.社会党のリカルド・ラゴスが70%以上を獲得し圧勝.キリ民党のアンドレス・サルディバル上院議長は3割以下に留まる.

6.08 チリ司法当局 73年の左翼活動家76人殺害の容疑で元軍幹部5人を起訴.

7.02 AFDDのソラ・シエラ議長,腰の手術中に心停止,サンチアゴ市内の病院で死亡.

7.30 マプーチェ活動家が相次ぐ暴力行為.木材会社のトラックや事務所を70人が襲撃.銃撃を加えた後火炎ビンで放火.二つの建物が炎上する.

1999年8月 アスブン事件

8.21 政府主催の人権問題円卓会議,国防省内で第1回目の会合を開く.議長にはエドムンド・ペレス国防相が就任.軍代表,人権派弁護士の他,文化・化学・教育・宗教関係者が参加.証言の見返りとしての免責の範囲が主要議題となる.

8.26 サンチアゴの控訴審,「集中的誘拐事件」に関して,5人の将校に対する告発を受理.グスマン判事の「遺体が見つかっていない誘拐事件については,恩赦法は適用されない」との主張を受け,19人に行方不明者についての裁判を開始すると決定.

8.18 カトリック系放送局の「チャンネル13」で,教会解説者ラウル・アスブンが「社会主義者は社会の寄生虫であり,反愛国的存在である」と述べる.アスブンは73年9月のクーデターにあたり,クーデターを助長する言動を繰り返したことで知られる.

8.19 210人のカトリック聖職者,164人の修道女,二人の助祭が,アスブンに4ページからなる抗議文を送り,放送局解説者の仕事を辞めるよう勧告.

8.26 社会党,カトリック教会聖職者でチャンネル13の解説者ラウル・アスブンを告訴.

8.27 エドムンド・ペレス国防相,軍指導部は行方不明事件に関して「事実を再構築する」準備が出来ていると発表.

1999年9月

9.03 チリ,通貨ペソの変動相場制に移行.

9.12 クーデター26年記念集会.サンチアゴでは1万人が参加し,アジェンデの墓までデモ行進.

9.21 空軍軍事法廷,情報組織が関与した75年のカルロス・サンチェス失踪事件で,司法権を放棄.民間法廷に審理を引き継ぐことになる.

1999年10月 人権疑惑解明委員会の設置

10.08 チリのクーデターに関する国務省機密文書の一部が解禁される.ホーマー暗殺に関するCIAと国務省の関与が明らかになる.ホーマー未亡人はキッシンジャーの喚問を要求.(ホーマーは「ミッシング」のモデル)

10.08 ロンドン治安裁判所,スペインへのピノチェト身柄引き渡しを承認する判断.最終的判断はストロー内相に託される.

10.14 政府が提案した,軍政時代の人権疑惑解明委員会(議長:ベレチ大司教補)が開かれる.軍部は軍政時代に逮捕され行方不明となった1200人の調査を受け入れると発表.

10.23 ピノチェト弁護士団,スペインへの身柄引渡し承認判決に対し抗告.

10.14 バルデス外相,「ピノチェトが83歳の高齢であり,健康上の問題から人道的配慮による釈放を求める書簡を送った」と語る.

1999年11月

11.03 ピノチェト元大統領 人権侵害に関する英判事の質問に回答せず.

11.10 バルデス外相,「ピノチェトを外国の司法機関がさばく権利はない」と強調.

11月 フジモリ大統領,チリを公式訪問.「1929年条約実施取極合意」を取り交わす.

12.12 大統領選,第一回投票.コンセルタシオンのリカルド・ラゴス公共事業相(47.96%)と独立民主連合のホアキン・ラビン(47.52%)との決選投票に持ち込まれる.グラディス・マリンは三位の位置につける.CNNは,「小さいが,不可欠な3.2パーセント」と呼ぶ.

12.28 国防相 軍部に大統領選での中立を要請.

 

2000年

2000年1月 ラゴスの勝利

1.11 ストロー内相,最近の健康状態の悪化に鑑み,医療担当者の意見を尊重し,スペインへの送還を見送りたいと発表.診断内容の発表は拒否.ベルギー当局のほか国際アムネスティーなど6つの人権擁護団体はこれを不服として,その医療診断の再検討を司法の場で行うよう求める.

1.14 スペインのガルソン判事,自らの指定した医師による再診察を要請.

1.16 大統領選決戦投票で,与党連合のリカルド・ラゴスが51%を獲得し当選.独立民主連合のホアキン・ラビンは49%.グラディス・マリンは,決選投票におけるラゴスへの投票を呼びかける.同時にこれまでコンセルタシオンがとってきた新自由主義政策を批判.

リカルド・ラゴスの経歴
ラゴスは社会党員兼民主主義党員でアジェンデ政権時代にモスクワ大使,チリ大経済研究所長を歴任.クーデター後は米国に亡命し,民主化闘争に参加.87年に中道左派の民主主義党の創設に参加.エイルウィン政権で文相,フレイ政権で公共事業相を歴任.

1.16 サンティアゴ中心部の憲法広場でラゴスの勝利を祝う集会.広場を埋めた約6万人の支持者から「ピノチェト元大統領を裁け!」の連呼がわき起こる.

1.17 チリ税関 コカイン7トン押収 密輸グループ20人逮捕.

1.18 チリ ピノチェト元大統領移送のため英に空軍機派遣.

1.20 スペインのマトゥーテス外相,ストロー内相がピノチェトの釈放を発表した場合,異議を申し立てない意向を表明.

1.31 英高等法院 ピノチェト元チリ大統領への司法審査要求を却下.

2000年3月 ピノチェト釈放

3.02 8am ストロー内相,ピノチェトのスペイン司法当局への身柄引き渡しを最終的に見送ると発表.英当局(ロンドン警察)により身柄を拘束されていたピノチェトは,直ちにロンドン郊外の空軍基地から帰国の途につく.

3.02 行方不明者家族らがピノチェト氏の不逮捕特権剥奪申立て.

3.03 ピノチェト,チリ空軍機でサンチアゴの空港に到着.英国での自宅逮捕から約17か月ぶりに帰国.焦点はチリ国内でのピノチェト元大統領の刑事訴追にうつる.

3.06 グスマン判事,8人の弁護士からの依頼を受けて,ピノチェトの不逮捕特権取り消しをサンチアゴ控訴裁判所に求める.

3.11 ラゴス,大統領に就任.アジェンデ以来の社会党政権が発足.

3.13 ラゴス大統領,「政府は司法機関がピノチェトの責任を追及することに対し干渉するつもりはない」と述べる.

3.28 議会,大統領経験者に対して国会議員と同様の不逮捕特権を認める憲法修正法を採択.ピノチェトの不逮捕特権を認める.ラゴス大統領はこの決議を非難する.

2000年4月 ピノチェトの不逮捕特権剥奪

4.18 サンチアゴ控訴裁判所(判事:21人),ピノチェトの議員特権剥奪を問う公判開始前に,健康診断を行うべきとの弁護側からの申請を,全会一致で却下.

4.30 ラゴス大統領,先住民福祉のための16個条を発表.2年以内に5万ヘクタールを1万家族のマプーチェに供与.営農資金200ドルも与えられることとなる.また計画の実施に当たっては,マプーチェ組織との合意が義務付けられる.

4 ラゴス大統領,ピノチェト憲法の改正のため,与野党の代表からなる上下両院合同の作業委員会を設置するよう,アンドレス・サルディバル上院議長に要請.サルディバル議長もこれを受け入れる.国民革新党(RN)と独立民主同盟(UDI)もこの提案を受け入れたが,ピノチェト問題と人権侵害問題に決着をつけることを議題とするとの条件をつける.任命終身上院議員の廃止,国家安全保障評議会の権限と構成(現在は三権代表者と軍代表者の数が等しい),憲法裁判所の構成,大統領の軍司令官罷免権の回復,2人選挙区制度の改正などが改正の課題となる.

5.23 サンチアゴ控訴裁判所,ピノチェトの特権剥奪を13人対9人で可決.

6.04 マプーチェ代表アウカン・ウイルカマン,自らの権利擁護のためには武装反乱しか手段は残されていないと発言.

6.05 サンチアゴ控訴裁判所,ピノチェト元大統領の不逮捕特権の剥奪評決を正式に発表.

6.13 政府主催の人権対話会議,軍部,人権擁護団体,学界および宗教界の代表者による,11時間に及ぶ協議の末,軍政時代の行方不明者の消息を明確にし,公表することで合意.

7.06 軍政時代の逮捕・行方不明者に関する情報提供者の名前を匿名とする法律が発効.

7.25 最高裁,ピノチェトの不逮捕特権剥奪の最終決定前に,健康診断の実施を求める弁護団からの要請を却下.

2000年8月 CIA文書の大量公開

8.01 最高裁判所の20人の判事が,ピノチェトの免責特権(不逮捕特権)の剥奪の可否について,4時間にわたる審議のあと投票.

8.02 メソジスト教会のエンリケ・ビルチェス牧師,ピノチェト時代の失踪者780人のファイルを,大統領あてに提出.これは空軍将校6人の証言によるもの.これによれば秘密警察が数百人の政治犯を海に投げ込んだ.そのうち114人が遺体を引き揚げられ,病院で解剖された.投げ込まれる前,囚人たちは病院で肉食の魚を引きつける物質,数日以内に骨が溶けるような物質を注射された.投げ込む際には,遺体が早く沈むよう,金属の棒をくくり付けられた.

8.08 最高裁は賛成14・反対6でピノチェト終身上院議員の不逮捕特権の剥奪を評決.ピノチェトは「死のキャラバン事件」その他で起訴されることになる.

8.21 フアン・グスマン判事,ピノチェトに対する聴聞を10月に開始すると発表.

8 CIA,チリにおける秘密作戦に関する700以上の記録文書を公開.

2000年9月

9.04 ピノチェト,自宅で記者団と帰国後初の会見.同席した孫が「新しい世代のために,われわれが将来における連帯によって,過去の対立・不和を克服することを期待する」とのメッセージを読み上げる.

9.04 サンチアゴで「国民団結デー」警官隊との衝突で市民一人が射殺される.覆面した挑発者の銃乱射によるものといわれる.デモ隊はバリケードを築き空砲を発射するなど暴れる.政府は11日の騒ぎに備え,武装警官5千を主要都市に配備.

9.11 全国人権会議に結集する諸団体はピノチェト裁判の開始を要求しモネダ宮殿前で集会.夜は国立スタジアムでキャンドル集会.ピノチェト支持派は,士官学校前で集会.

9.18 レテリエル事件関連のCIA文書が公開される.レテリエル事件の首謀者コントレーラス将軍が,事件の時点でCIAの情報提供者であったことが明らかとなる.

9.25 グスマン判事,10月9日に予定していた精神鑑定と尋問を延期すると発表.ピノチェトが裁判に耐えられるかどうかを調べるためのもの.

2000年10月 エレーラ元司令官の告白

10.27 チリの前陸軍司令官カルロス・エレーラ・ヒメネス,82年の労組指導者トゥカペル・ヒメネス殺害に関与したことを認める.トゥカペルは,死亡した2月25日の時点で,金融労連の議長だった.ヒメネス元司令官は,運輸労組の活動家マリオ・フェルナンデス殺害に関与した疑いで逮捕され,プンタ・ペウコの高等保安刑務所に収監中である.フェルナンデスは,84年10月18日に国家情報部(CNI)に逮捕され,拷問の末殺された.ヒメネス元司令官によれば,殺害を指示したのはアルバロ・コルバラン元CNI作戦部長および故ウンベルト・ゴルドンCNI局長だった.

10.27 アルゼンチンのフアン・ホセ・ガレアノ判事,カルロス・プラッツ将軍暗殺事件に関して,ピノチェトのアルゼンチン当局への身柄引き渡しを申請.

10.28 ピノチェト,左葉肺炎などでサンチアゴ陸軍病院に緊急入院.

10.29 地方自治体選挙.コンセルタシオンが全体の52%を獲得.しかし10の主要自治体のうち6自治体では右翼が勝利する.サンチアゴ市長選では,ラゴスと大統領を争ったホアキン・ラビンが,61対29%の大差でコンセルタシオン候補に圧勝.

10.31 エレーラ元司令官,もう一つの殺人事件への関与も認める.それは83年9月12日,建築労働者のフアン・アレグリア・モンカダが殺された事件で,エレーラによれば,それはトゥカペル事件隠滅のためだった.発見されたアレグリアの遺体のそばに遺書があり,トゥカペル殺しを告白する文章があった.しかし警察の捜査では,その遺書はでっち上げだと断定されていた.

2000年11月

11.01 リカルド・イスリエタ陸軍司令官の機構改革計画を政府が承認.これに伴い12人の将軍が退役,ピノチェトの下で軍幹部の地位を占めた将軍のほとんどが一掃されることとなる.

11.02 チリ控訴審第6小法廷,ピノチェトは裁判にかける前に精神鑑定を受けるべきだと決定.弁護士は神経内科や一般内科,老年医学の専門医の診察をも要求するが,拒否される.

11.06 コルバラン元CNI作戦部長,「アルバニア作戦」への関与を認める.これは87年6月15日から16日にかけてFPMRの活動家12人が殺害された事件.コルバランはアレグリア殺害の容疑で収監中で,ミルトン・フイカ判事の司法取引に応じたものと見られる.

11.08 ルイス・コレア・ブロ判事,アルゼンチン当局からのピノチェトら6人に対する身柄引き渡し要請を受けて,国外出国を禁じる命令.

11.10 トゥカペル・ヒメネス事件の捜査を担当するセルヒオ・ムニョス判事,現役のエルナン・ラミレス将軍を事件参加者として告訴.前軍監のフェルナンド・トレス・シルバ退役将軍を事件隠匿の罪で告訴.

11.13 チリの政治的出来事に関する米国政府記録1万6千点(約5万ページ)が公開される.文書がカバーする時期は68年から91年にかけて.公開の対象となる政府機関は国務省,CIA,ホワイトハウス,国防総省,司法省.しかしもっとも問題となる68年から75年のCIA文書約700点は,CIAの抵抗により非公開のままとなる.

1990年公開文書で明らかになったこと
キッシンジャーが座長を勤める「40人委員会」が「ドラスティックな行動計画」を決め,「チリ人をショックに追い込み,反アジェンデの態度をとる」よう画策したことが明らかになる.
②アジェンデの勝利直後の70年9月には,「秘密行動計画」が練られた.アジェンデの大統領就任を阻止するクーデターが失敗した後の国家安全保障会議では,議長のニクソンが「アジェンデをやっつけるために何でもやれ」と発言していた.
③70年11月6日には,「チリ経済を壊滅に追い込むため」,国際銅価格の下落を狙う.このため米国内の戦略備蓄を放出するようNSCに指示.

11.20 ブエノスアイレスの裁判所,チリの元情報部員エンリケ・ラウタロ・アランシビア・クラベルに終身刑の判決.アランシビアは74年9月30日,プラッツ将軍と妻ソフィア・クートベルトを自動車爆弾で殺害した事件にかかわったとして,起訴されていた.

11.25 カトリック教会,軍政時代に人権抑圧事件に対して沈黙を守っていたことを公式に謝罪.

11.25 ピノチェト,85回目の誕生日パーティー.人権抑圧事件に関する大統領としての政治責任をビデオで表明.

11.28 軍政時代に処刑された134人の遺族が,ピノチェト元大統領を告発.告発件数は185件目となる.

11月 チリと米国が労働・環境問題も含む二国間自由貿易協定(FTA)交渉の開始で合意.チリのメルコスル結集をきらう米国側の働きかけによるもの.チリの貿易戦略がメルコスルからNAFTAへシフトする可能性もあり,ラゴス大統領が公約していたメルコスルへの正式加盟問題に影響も.

2000年12月 ピノチェト自宅軟禁

12.01 グスマン判事,ピノチェトを公式に告訴.自宅軟禁を指示.75人の「死のキャラバン」犠牲者に対する「誘拐・加重殺人」の加害者とする。遺体が行方不明の誘拐事件は,現在も続行中であり恩赦が適応されないとの判断に基づく.

12.02 ピノチェト弁護団,グスマン判事による刑事訴追には手続き上の不備があるとして無効の申し立て.

12.04 弁護側のアピールを受けたサンチアゴ控訴裁は,ピノチェトに対する審理を停止.

12.06 最高裁,グスマン判事が国家防衛評議会(検察庁)議長に連帯を求める書状を送ったことを不適切として,同判事を書面で審査することに同意.

12.07 映画「ミッシング」のモデルで,国立スタジアムで処刑された米国人ジャーナリストのチャールズ・ホーマンさんの未亡人ジョイスさんがピノチェトを告発.

12.11 サンチアゴ控訴裁判所(判事3人),グスマン判事による新たな刑事訴追と外出禁止命令を,訴訟手続き上の不備があると全会一致で判断.無効とする.事前に精神鑑定と尋問が行われなかったため.

12.13 コピアノの墓地で「死のキャラバン」の犠牲者三人の遺体が新たに発見される.

12.14 メルコスール第19回総会,ブラジルのサンタ・カタリナ州フロリアノポリスで開催.チリは米国の圧力の下で正式加盟を保留.いっぽう南アフリカはメルコスールへの準公式加盟を発表.

12.20 チリ最高裁,サンチアゴ控訴裁判所の判断を支持.刑事訴追と自宅軟禁命令を無効とする判断を4対1で示した.そしてフアン・グスマン判事に対して,新たに起訴手続きを開始するために20日以内に尋問を開始するよう命じる.

12.21 ピノチェト,高血圧(動脈障害)による体調不良でサンチアゴの陸軍病院に緊急入院.

12.22 カラビネーロス,マプーチェ族が占拠したエル・カルメン農園に突入.マプーチェは同地に対する歴史的所有権を主張して12月初めから占拠を続けていた.

12.27 チリ最高裁,ピノチェトを起訴する前に精神鑑定をし,グスマン判事による尋問を行うよう命じる.

12.28 エルナン・アルバレス最高裁長官,コントレーラスのイタリアへの引き渡しを拒否.DINAをレイトン事件に結びつける十分な証拠がないとする.イタリア司法当局は,75年イタリアで起こったベルナルド・レイトン元副大統領暗殺未遂事件で,コントレーラスに懲役20年を求刑していた.この事件はDINA工作員で米国籍のマイケル・タウンリによって実行され,イタリアのファシズムのグループ「国家前衛」が支援した.レイトン夫妻は重傷を負ったが,命は取り留めた.コントレーラスはプラッツ夫妻暗殺事件で,アルゼンチン当局からも身柄引き渡し要請を受けている.

 

2001年

2001年1月

1.03 ピノチェトの弁護団,精神鑑定(7日および8日)とグスマン判事による尋問(9日)に応じないよう進言.

1.05 最高裁,捜査方法に不正があるとするピノチェト弁護団の訴えを退け,グスマン判事の捜査活動を支持.

1.07 ピノチェトは,グスマン判事が求めている精神鑑定に応じず.

1.08 グスマン判事,ピノチェトの精神鑑定を10日から13日に,尋問を15日に,それぞれ延期.

1.10 ピノチェト,精神鑑定を受けるためサンチアゴ陸軍病院へ入院.

1.13 アラウカーニャ県ビルクンのサンタ・マルガリータ農場を占拠したマプチェ族を警察が強制排除.同じミジャレム木材会社の所有するパンタウエ,サンタアナ,サンタ・エリサの農場では,引き続き占拠が行なわれる.

1.17 カラビネーロス,ミニンコ森林会社の所有するサンタ・エレナ農場から,マプーチェ族占拠者を排除.12歳の少女が銃で撃たれ重傷.また第9地区の知事室を占拠したマプーチェ族女性集団を排除.

1.18 ピノチェトが裁判に耐えられるかどうかを調べる精神鑑定の結果が発表される.法廷から諮問された専門医8人からなる鑑定委員会,ピノチェトが脳動脈硬化性の痴呆になっていると回答.軽い痴呆症であるが,裁判には耐えられるとの判断を示す.

1.19 サンチアゴ控訴院,ヒメネス暗殺事件(82年)に関して,陸軍情報部元副長官フェルナン・ゴンサレス大佐に対する控訴を棄却.

1.21 マニュエル・コントレーラス,レテリエル事件での七年の刑期を終え,出獄.引き続き自宅監視の下に置かれる.グスマン判事は,コブレチュキ銅山会社の元総支配人デイビッド・シルバーマンの失踪事件への関与の疑いで,調査を続行.さらに「カジェ会議事件」(76年に共産党指導者6人が逮捕され行方命となった事件)についても引き続き捜査.

1.23 グスマン判事,ピノチェトをサンチアゴ郊外の自宅別荘で尋問.「死のキャラバン事件」について,ピノチェトは首謀容疑を全面否定.

1.25 アントファガスタ方面司令官として「死のキャラバン」にかかわったホアキン・ラゴス退役将軍,自身の裁判で,責任はピノチェトにあると証言.

1.27 ピノチェト,強い頭痛を訴えてサンチアゴの陸軍病院に緊急入院.一部に脳梗塞との報道も流れる.体調が安定したことから退院し,軍用ヘリで自宅(サンチアゴの西130キロのロス・ボルドス)へ帰る.

1.29 グスマン判事,所定の手続きが完了したことから,あらためてピノチェトを起訴し,自宅軟禁を命じる.この後ピノチェトは45日間自宅軟禁下に置かれる.一連の動きの中で,ピノチェトに対する「救国の英雄」のイメージは地に落ちる.

2001年3月

3.08 サンチアゴ控訴裁判所,弁護側の起訴無効の申し立てについて審議.2-1の評決により棄却する判断を示す.交換条件として控訴裁は,「死のキャラバン」事件でのピノチェトの罪状を,「首謀容疑」ではなく「幇助容疑および犯罪事実の隠蔽」容疑に軽減.ピノチェトの自宅軟禁を解くことを決定。

3.14 グスマン判事,ピノチェト元大統領の42日間にわたる自宅軟禁を解き,警察の監視下での保釈を認める.

2001年5月 出版の自由の回復

5.15 土地占拠中のマプーチェ族農民に対し警察が実力行使.数人が打たれ重傷.警察側にも負傷者を出す.

5.16 チリ全国で奨学金の民営化に反対する学生1万人が抗議行動.警察部隊が工科大学に侵入,学生47人と学生部長のフアン・カルロス・アルドナ教授を逮捕.

5.18 出版法が改正される.軍による出版への干渉を禁止,権限を裁判官に集中する.また軍事法廷のジャーナリストに対する裁判権を剥奪.マトス記者の「チリ裁判所黒書」を念頭に置いたもの.99年,裁判所の内実を告発した『チリ司法黒書』が出版されると,裁判所はただちに出版を禁止して同書を押収し,編集者と出版社社長を逮捕した.著者のマトスは米国に亡命を余儀なくされた.

5月 アルゼンチンの連邦判事、プラッツ夫妻殺害事件に関して、チリ裁判所にピノチェトの引き渡しを求める。

6.04 グスマン判事,米国人ジャーナリストのチャールズ・ホーマンの「死刑執行」に関連して,ピノチェトを尋問することを拒否.グスマンはこれに代わり,キッシンジャー元大統領補佐官の証言をもとめると述べる.

6.18 ピノチェト弁護団,痴呆症の進行などにより,裁判を中止するよう求める.弁護側申請に関する審議(3日間)が始まる.

6月 アジェンデの遺体,国立墓地の歴代大統領が収められている区画に再埋葬される.

6月 アルゼンチンの連邦判事、組織的な「失踪」などの不法行為に加担したとして、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイの元軍人を起訴。チリ裁判所に対しピノチェトの予防拘禁を求める。

2001年7月 ピノチェト裁判の停止

7.01 ピノチェト,血圧が上昇しサンチアゴの陸軍病院に入院.

7.09 サンチァゴ上訴裁判所の第6小法廷,2対1でピノチェトに関する法的な手続きを「一時的に保留」する.ピノチェトの痴呆が裁判に耐えられないほど進行しているとの判断.「裁判不能」という新たな無処罰特権を保障される.

この時点で国家情報局(DINA)のマヌエル・コントレラス元長官ら40人が有罪判決を受けた.さらに将官12人を含む元将校160人が,300件の人権犯罪で訴追され裁判中.

7.09 ピノチェト,血圧が安定したため陸軍病院を退院.終身上院議員を辞し公職から退く.

7.09 サンチァゴ上訴裁判所のフアン・グスマン・タピア判事,70人の元政治犯の証言に基づき、「DINAの5人の元メンバーを誘拐、第一級謀殺と不法な共同犯罪の嫌疑で裁判にかける」と発表.容疑は、「ビジャ・グリマルディ拘留センター」での11人の行方不明者と1人の処刑された政治犯に関わるもの.被疑者はコントレーラス長官のほかミゲル・クラスノフ・マルチェンコ,マルセロ・モレン・ブリト,バスクレイ・サパタ,オスバルド・ロモ・メナ.ほかにカラビネーロスの二人の将校。

DINAの拘留センター: 国家情報司令部(DINA)は、他にもいろいろな秘密の刑務所をサンチァゴ市内および近郊に持っていた。それは例えばロンドレス38、ホセ・ドミンゴ・カナス、ベンダ・セクシー、クアトロ・アラモスなどである。

7.14 ピノチェト裁判の中止に抗議するデモ隊に,警察が放水砲と催涙ガスを使った弾圧.10人を逮捕.

7.30 チリ最高裁,グスマン判事の要請を承認.ヘンリー・キッシンジャーにチャールズ・ホーマン失踪事件について意見をもとめたいとするもの.キッシンジャーへの17の質問は,外交ルートを通しておこなわれる.さらにグスマンは,ナサニエル・デイビス元大使,ジェームズ・アンダーソン元領事など20人に証言を求めている.

7月 アルゼンチンのロドルフォ・カニコバ・コラル判事が、コンドル作戦の責任者として、ピノチェットとウルグアイの退役将軍フリオ・バドラの逮捕・引渡しを求める。

2001年8月

8.02 最高裁判所第二小法廷,コントレーラスを引き続き拘留することを認める.アルゼンチン裁判所の要請にこたえ,プラッツ暗殺事件などでの捜査を進行させるための措置.ピノチェトへの尋問要請に対しては拒否。

8月上旬 心神喪失した筈のピノチェト,退役将軍協会の昼食会に出席.「この困難な時期にあたり,軍部は団結を維持しなければならない」と訴える.

8.12 ラゴス大統領,ピノチェト拘束後の情勢展開を踏まえ,新たな人権政策を発表.78年の「人権犯罪恩赦法」廃棄に関する表明はなし.

新人権政策の柱: ①下級軍人の減刑:上官の命令に服従せざるを得ず人権犯罪を犯した軍人・警官は、関与した人権犯罪について証言すれば減刑する.
②殺害された者の妻子への遺族手当て(月額約285ドル)を50%引き上げる. ③左翼ゲリラのテロで死んだ軍人・警官の遺族にも同等の手当て.
③拷問真相究明委員会を設置,被害者には一時金を支払う. ④議会に国際人権擁護条約の批准を促し、民権擁護のための政府機関を設ける.
⑤人権裁判の進行を早めるため、専任判事を増やす. ⑥人権犯罪を決定し命令した者には減刑はない.

8.13 軍による虐殺被害者の子どもたち3人が,新政策に抗議しハンガーストを開始.「政府と右翼・軍部の交渉に基づく不正義の結晶」と糾弾.行方不明者家族協会も「形を変えた無処罰の方式だ」と非難.

2001年9月

9.07 ピノチェトに対する新たな告発が提出される.これによれば,73年10月6日,ビオビオ県南部の「エル・カルメン・イ・マイテネス」農場で働いていた青年マヌエル・フロレンシオ,ホセ・リボリオ,ホセ・ロレンソ・ルビラル・グティエレスが,彼の命令により殺害されたという.約30人からなるパトロール隊が,3人を拘束.5人の労働者とともに殺害し,ひそかに埋める.

9.09 全国人権会議の主催で,1万人がサンチアゴ市内の総合墓地にデモ行進.参加者の一部は独立民主同盟(UDI)本部を襲撃.警察は催涙ガス及び放水砲で介入.

9.09 CBSのニュース番組「60分」,公開された秘密文書に基づき,シュナイダー元チリ陸軍司令官が米政府首脳の指示を受けたCIAにより殺害されたと報道.息子のシュナイダー・アルセは「これは米政府,ことにCIAとキッシンジャーによる犯罪である」と述べる.

9.10 シュナイダー元陸軍司令官の未亡人及び3人の子供が,キッシンジャーに対して米連邦裁判所において300万ドルの訴訟を起こす.キッシンジャーは,暗殺時の国家安全保障担当補佐官で,対チリ政策を統括していた.彼とともにヘルムズ元CIA長官,ポール・ウィマート退役大佐(当時サンチァゴ大使館付武官)も告発される.

10月 プラッツ夫妻殺害事件でDINAの元メンバーが逮捕される。

2001年11月 共産党本部襲撃

11.27 軍最高幹部の大移動.高齢となった高級幹部15人を含む将軍30人が,現役を引退.カラビネロス最高司令官も,マヌエル・ウルガテからアルベルト・シエンフエゴスに交代.カラビネロスは軍を離れ,内務省管轄へ移行することとなる.軍内のピノチェト派に不満が高まる.

11.27 シエンフエゴスとラゴス大統領が会見.カラビネロス最高幹部の人事刷新について意見交換.

11.28 カラビネロスによる共産党本部急襲.催涙ガス,放水砲で武装した300名以上の警官が出動.無警告のままビル内に突入した警官隊は,電話線を切った後コンピュータやその他の備品を破壊.街路に投げ捨てる.捜査に抵抗した人や,抗議のため結集した人々に襲いかかり,40人を逮捕.10人に負傷を与える.グラディス・マリン書記長,ルイス・バレラ国際部長,共産主義青年同盟委員長らが負傷,逮捕される.

11.28 行政府もカラビネロス最高司令部も,この行動を予告されていなかったことが判明.大統領府は,執行中にグラディス・マリンから寄せられた抗議の電話で,初めて事態を知る.執行責任者のカルロス・エスピノサ中佐(サンチャゴ中部地区)は,「家賃滞納に対し,追い立て命令がサンチアゴ第八民間裁判所のピラール・アグアヤ判事から発せられた」と弁明.シエンフエゴス新司令官は急襲について謝罪.彼が行動を事前に知らなかったことを明らかにし,全面的な調査に乗り出す決意を表明.

11.29 リカード・ラゴス大統領,カラビネロスの行動を非難する声明.「あの頃のイメージがふたたび思い出される」と述べ,旧ピノチェト派の陰謀の可能性を示唆する.同時に,この事件がカラビネロス最高幹部による陰謀であった可能性は強く否定.

11.29 内務省,共産党に三階建ての政府ビルディングを緊急貸与.16日の議会選挙までの一時的な共産党本部とする.チリ選挙法によれば,政党は,法廷および選挙委員会に本部の場所を公式に提示する必要がある.

11.30 シエンフエゴス司令官,サンチアゴ拘置所収監中のグラディス・マリンと会見.その後の記者会見で,セルヒオ・ガルシア治安担当官を調査期間中休職させると発表.

11.30 共産党,アグアヤ裁判官を告発.

11.30 グラディス・マリン,サンチアゴ・タイムス紙と会見.「何か暗いものが,この国をよぎっている.暗闇の勢力がそこにいる.ファシストがカラビネロスと裁判所の中に….これはラゴス政権の軍権力再編成計画への脅しであり,周到に用意されたものだ」

12.01 共産党,「今回の作戦は共産党に対する政治的挑発」と非難.カラビネロスによる治安活動を調査するために,特別裁判官を指名するよう最高裁判所に要請.

2002

3月 グスマン判事,「死のキャラバン」における処刑及び誘拐に係わるピノチェトの違法行為を認定.

7.23 フアン・グスマン判事、あらたに23人の失踪者に関して、7人の元DINA諜報員に対する起訴状を提出。これら23人のデサパレシードスは、1974年から1975年のあいだに逮捕されて、ビリャ・グリマルディで最後に目撃された。

7月 チリ最高裁2法廷,ピノチェットが「軽度の痴呆」で、「法廷で自身を防御することが出来ない」との医師の診断にもとづき裁判を中断.

7月 ピノチェト、最高裁判決を受け終身上院議員を辞職。元大統領としての免責特権が自動的に与えられる。

7月 アルゼンチン連邦裁の判事、ピノチェトに対する大統領免責特権はく奪を要求。プラッツ夫妻の殺害に関し尋問を行なうためとされる。

9月 「死のキャラバン」事件の被害者ベニート・タピアの娘が、ピノチェトに対する民事訴訟を起こす。

10.14 ビリャ・グリマルディ訴訟があまりにも膨大な裁判となったため、訴訟を再配分。アレハンドロ・ソリス・ムニョスが担当判事となる。

11月 最高裁判所、アルゼンチンの判事によるピノチェト尋問要請を却下。

 

2003

3月 国連安保理,イラク紛争の武力解決を拒否.非常任理事国チリは米国の圧力を撥ね退け,最後まで平和解決の道を貫く.

4.15 アレハンドロ・ソリス判事、ビリャ・グリマルディ裁判で、DINA前長官とエージェントに対して有罪判決を下す。独裁のあいだに犯された犯罪に対し、チリの裁判の歴史において最初に下された有罪判決。コントレーラス元長官は懲役15年。

6.06 チリ政府,米国との関係を修復.13年に及んだ紆余曲折の交渉の末、マイアミで自由貿易協定(FTA)に調印.南米で初めての調印国となる.12年後には関税が完全撤廃される予定.

6月 議会、特定の行為について合法性の判断を軍に預ける憲法条項を廃止。軍事クーデターや軍幹部の大権の判断に関わるもの。反対したのは元の軍幹部や指名議員のみ。議会の定めた法律を廃止することの出来る超国家的な力を持った「憲法法廷」と、その指名権をもつで国家安全審議会については、引き続き検討課題となる。

6月 フアン・エミリオ・チェイレ陸軍司令官、「国家的犯罪が二度と繰り返されないことを強く願っている」と述べる。いっぽうで、「人権侵害は個人の行き過ぎた行為であり、軍は組織としては係わっていない」とし、軍そのものの責任は回避。

6月 サンティアゴ第5刑事法廷、元軍人5人の裁判を開始。5人はクーデターの際、ラ・モネダ大統領官邸から連れ去られた14人の遺体を不法に発掘し、海中に投棄したとされる。これらの遺体は1978年12月に首都圏北部にある墓地から持ち出された。

8.27 遺族と人権団体,共産党幹部5人の拉致殺害事件(1976年)で,作戦を命令したとしてピノチェトを告訴.無処罰権を剥奪するようもとめる.最高裁は,15対8で剥奪要求を否決.

8月 ラゴス大統領、軍事政権時代の人権侵害事件の解決に取り組む計画を発表。証言者に対する免訴、人権侵害事件を軍事法廷から文民法廷に移管する、拷問事件を調査する委員会を設立するなどの内容。政令2191(78年恩赦法)の廃止は含まれない。

9.03 チリの人権活動家十二人,行方不明者の家族のハンストに呼応してバルパライソのスエーデン領事館を占拠.5時間後に自主退去.5日には青年たちがピノチェト邸前の道路を封鎖.タイヤを燃やし気勢をあげる.

9.10 人権活動家がスエーデン,ポルトガル,メキシコ領事館を二時間にわたり占拠.ラゴス大統領が右翼に恩赦を与えようとしていると抗議.

9.12 チリ・スタジアム,クーデター30年を記念して「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改称される.

9.14 5千の市民が中央墓地に向けデモ.隊列に潜入した集団がモロトフ弾を投げマクドナルドを襲撃.警官隊の乱入によりデモ隊に逮捕者と怪我人.

10月 グラディス・マリン共産党書記長、脳腫瘍が発見され、ストックホルムで腫瘍摘出の手術を受ける。この後、書記長を辞しキューバで療養生活を送る。後任書記長にはギジェルモ・テイジェルが就任。

10 チリ議会が米国とのFTAを批准。翌年1月に発効。

11月24日 ピノチェトは狂ってはいるがボケてはいないことが明らかになる。ピノチェトは、マイアミのテレビ局「22チャンネル」のインタビューを受け、その大統領在任中にチリで起こったさまざまな出来事(人権問題等)に関して、「何ら謝罪することはない.考えれば考えるほど私は正しい.自分を天使のように感じる.私にあるのは恨みではなく好意だ」 と述べた。さらに自身が86年にマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)に暗殺されそうになった事件を挙げ、むしろ 「共産主義者こそが許しを請うべきだ」 との認識を示した。

12.23 グスマン判事、DINA の3人の幹部を裁判にかける。被告は、DINAの元長官で退役将軍のマヌエル・コントレーラス、代将のペドロ・エスピノサとクリストフ・ウィリキエル。コンドル作戦の一環として行った9人の行方不明者の誘拐で起訴された。

行方不明の9名のMIR活動家: 
以下の9人が捕らえられDINAに引き渡された。フアン・エルナンデス、ルイス・ムニョース、マヌエル・タマジョ、エドガルド・エンリケス(以上4名が76年4月にブエノスアイレスで)、アレクシス・ハカルド・ペサ、ハコボ・ストウルマン、マチルデ・ペサ(以上3名が77年5月に同じくブエノスアイレスで)、フリオ・バジャダーレス(76年7月ボリビアで)、ホルヘ・フエンテス・アラルコン(75年5月アスンシオンで)。
彼らは、ピノチェット体制の主要な拷問場所であったビジャ・グリマルディに入れられたが、そこでの拷問の物語は生存者によって語り継がれている。

 03年 第3極の形成を目指すフントス・ポデモス・マスが結成される。左派の約50の小政党や団体からなる選挙連合。

 

2004年

1月 サンティエゴ控訴裁判所、75年に「失踪」したミゲル・アンヘル・サンドバル・ロドリゲスの事件で、DINAのコントレラスと他4人に「失踪」問題初の有罪判決を支持。

5.28 チリ控訴審,コンドル作戦に関するピノチェットの違法行為を認定し,不逮捕特権を否定.裁判の中で,ピノチェットがワシントンのリッグズ銀行に持っていた秘密口座の存在が明らかになる.この口座には1994年から2002年までのあいだ400万ドルから800万ドルの預金があった。

7月 セルヒオ・ムニョース判事、ピノチェトの秘密口座に関し捜査を開始。

7月 米上院、国内外にピノチェトの家族名義の秘密口座があることを明らかにする。発表によれば、リッグズ銀行などに2700万ドルが預金され、政府から横領した疑いがもたれる。

8.26 チリ最高裁,賛成9,反対8でピノチェットの過去の行為を違法と認定し、不逮捕特権を剥奪.「コンドル作戦」に対する裁判が再開されることとなる.

8.26 大統領府スポークスマンのフランシスコ・ビダルは最高裁判断を尊重するとし「人権問題について大きな進展を遂げた」と述べる.またホセ・ミゲル・インスルサ内相は「司法が解決すべき問題で、軍の中に不満はない」と言明.

8.29 コントレラス、コンドル作戦の存在を否定し、これは友好国間の情報システムだったと述べる。DINAの人権侵害については「我々は誰にも拷問などをしたことがない」と発言。

04年9月

9.01 ピノチェットの弁護団、グスマン判事の「被告人に対する不公平さと執拗な追求」を理由に、同判事の解任を求める。最高裁の判断が出るまで審問は延期される。

9.02 グスマン判事、ピノチェト裁判と並行して、元DINAの幹部ら16人を裁判に付す。少なくとも37人の左派グループを殺害した1975年のコロンボ計画に関する容疑。

9.06 最高裁判所は、フアン・グスマン判事の正統性を確認し、ピノチェット弁護団の訴えを退ける。グスマンによるピノチェト尋問が実現することとなる。この日の尋問は弁護側の不逮捕特権剥奪に対する疑義申し立てによって延期。

9.07 チリ最高裁大法廷、5月28日の控訴審判断を支持.ピノチェトの不逮捕特権を否定.9日11時半にピノチェット尋問が開始されることとなる。グスマン特別判事はチリ大学、カトリック大学、WHOに精神鑑定人の名簿提供をもとめる。

9.08 サンチャゴ控訴審、弁護側のグスマンの忌避申請を受理。ふたたび尋問が延期される。

9.10 ピノチェットの側近だったルイス・コルテス・ビジャ元将軍、軍事クーデターから31年を機にピノチェト訪問。その後、「(ピノチェトは)浮かぬ顔をし、糖尿病に苦しんで、人生の最後の段階にある」と語った。ビジャはインタビューの中で、74年にアルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイとコンドル作戦を策定したこと、チリでの会合をピノチェットが許可したことを認める。

9.15 ピノチェト,呼吸器系の疾患で陸軍病院に入院.

9.16 サンチャゴ控訴審、グスマン判事の審理継続を認める。

9.17 ピノチェト、2日間の入院の後退院。マクシミリアーノ・エラスリス下院議員(右派)は、「彼の死は近いという感じがする」と語る。

9.18 故アジェンデ大統領の娘イサベラ・アジェンデ議員がインタビューに答える。

イサベラ発言の要旨: ピノチェットが苦しんで死ぬことを望んでいる。裁判の前に彼が死ぬことはあり得ることだ。だが、それはたいしたことではない。私が望むのは、我々の法律に勝るものはないという事態を彼が目にするプロセスが始まることだ。
有罪になるかどうかは問題ではない。ベッドで幸せに死ねないプロセスがなければならない。弁護士に見守られながら死んで欲しい。苦しみ、不安に満ちて・・・平和ではない死を望んでいる。

9.21  ウルグアイ所在のリクルート会社,チリの新聞に広告を掲載し元チリ軍兵士を募集.イラク駐留米軍の傭兵となる予定.

9.25 グスマン判事、コンドル計画に関する19の罪状で、ピノチェットを自宅尋問。①「私は大統領だった。そのような小さな事を私に知らせるはずがない」 ②「自分の記憶は弱っている。いいときもあるが、今はあまり正常とは言えない」と逃げる。原告側の弁護士は、ピノチェット逮捕と財産の差し押さえを求める。

04年10月

10.06 チリ議会与野党が、9人の指名上院議員(このうち3人は軍が指名)の廃止に合意。これまでこの制度により、右派と軍が議会の多数をにぎり、旧制度の変更を拒んできた。さらに軍最高司令官の任免権を大統領に戻し、事実上ピノチェットのための制度だった終身上院議員制も廃止することとなる。

10.31 チリ地方選。与党連合が45%、右派連合が39%、残りを少数政党が分け合う。首都サンチャゴでは右翼「チリのための連盟」が僅差で勝利。非暴力主義を掲げるヒューマニズム党(PH)が3.14%を獲得(議席はゼロ)。

04年11月

11.05 チェイレ陸軍司令官、「軍は、厳しいが後戻りの出来ない決定をした。モラルとして受け入れることの出来ない過去の事件の責任を、組織として受け止める」と声明。「当時の軍関係者は国を護るためと信じて行動したが、それは人権蹂躙を正当化する理由にはならない」とし、人権侵害は個人の行き過ぎた行為であり、軍は組織としては係わっていないとした、従来からの軍の主張に終止符を打つ。

11.05 ラゴス大統領は、チェイレ声明を「軍が今日のチリの民主主義と結びつくための歴史的一歩」と評価。

11.05 ソレダ・アルベアール前外相(キリ民党)、大統領選への出馬を表明。与党「民主連帯」内でミチェレ・バチェレ元国防相・厚相(社会党)との争いとなる。

11.10 ピノチェト独裁時代の拷問に関する調査報告が大統領に提出される。セルヒオ・バレチ司教ら6人からなる「チリ政治刑務所及び拷問委員会」が、約3万人から証言を集めたもの。

報告書は3冊、8章からなっており、3つの時期に分けて3万5千人の証言をまとめている。最初の時期は、1973年9月11日のサルバドール・アジェンデ大統領に対するクーデターの直後で、60%のケースがこの時期に当たっている。第二期は1974年から1978年で、主としてDINA(チリ情報部)が活動した時期に当たる。第三期はその後1990年までの期間になる。
証言によれば,当時拘束された人の94%が性的暴力、電気の利用、感覚の敏感な部分の火傷などの拷問の対象となっており,証言した3400人の女性のほとんどは何らかの形で性的暴力の対象になった。

11.10 ラゴス大統領は「この情報によって,我々は目を逸らすことのできない現実に直面させられる。どうして30年もの間,我々は沈黙して生きてこれたのだろう?」と語る。

11.17 サンチアゴでAPEC総会。数百人の学生がサンチャゴ市の中心部で、ブッシュ大統領訪問とAPEC開催に抗議してデモ。警察側は放水と催涙ガスで対抗、300人の学生が逮捕される。

11.28 ラゴス大統領、独裁時代に拷問を受けたと表明した2万8千人に対し,チリの国家は月200ドルの終身年金で償うと発表。

11.28 長女ルシア・ピノチェット、「人をヘリコプターから海に投げ出したと聞いて恐ろしい気がした。そのことをパパに話すと,涙を流していた。私はそれに感動した」と語る。(その後“ワニの涙”だったことが明らかになる)

11月 最高裁、「反体制活動家の誘拐事件は遺体が発見されない限り誘拐状態が78年以降も継続しており、恩赦法の適用を認めない」と判決。コントレラス元DINA長官は恩赦法の適用を求めて最高裁に上告していた。(殺人罪には78年恩赦法が適用されるが、誘拐罪は対象とならない)

04年12月

12.02 陸軍、海軍、警察に続いて、チリ空軍もピノチェト時代の拷問について責任を認め、このようなことが繰り返されないよう万全の対策を尽くす、との声明を発表する。

12.04 サンチャゴ大司教フランシスコ・ハビエル・エラスリス、「ピノチェット時代に拷問を行った軍人も、同じように途方もなく苦しんでいる」として、彼らを非難しないよう求める。

12.13 グスマン・タピア判事、プラッツ将軍夫妻暗殺事件に関してピノチェット元大統領を起訴することを決定。ピノチェットが精神的に裁判のすべてに耐えられるとし、自宅拘留を命じる。弁護側はただちにサンチャゴ控訴審に処分取り消しの申し立て。その後控訴審も特権剥奪を支持したことから、弁護団は最高裁に異議申し立て。

12.16 チリ国会、ピノチェト軍政被害者への賠償法を採択。拘留や拷問の被害者約3万人に対し、月々200㌦の補償金と医療・教育・住宅面での支援のほか、一時金5000ドルも支払われる。獄中で生まれた人達は、兵役免除と7000ドルの一時金を受け取る。

12.18 ピノチェットが脳出血により意識を失って入院。その後危機を乗り越えたが、後遺症があると発表される。

12.20 フアン・グスマン・タピア判事、ピノチェトの精神状態は裁判に耐えられると判断、身柄の拘束と財産の差し押さえを命じる。原告側の弁護士は、「正義は時間がかかる。時には時間がかかり過ぎる、しかし正義はやって来る」と述べた。

12.26 メルクリオ紙、政府と軍がピノチェットの葬儀の儀典の検討に入ったと報道。フアン・エミリオ・チェイレ将軍、病状について厳しい見方を示す。原告側はピノチェットの入院を「ショー」だと批判。

12.30 チリ司法警察、米リッグズ銀行におけるピノチェット秘密口座の預金残高が1600万ドルに達すると発表。90年時点での残高は100万ドル未満で、その後の10年間に急速に増加した。このあと捜査の焦点は、秘密口座からピノチェットの妻や5人の子弟に渡ったとされる金の行方に移る。

12.30 セルヒオ・ムニョース判事、ピノチェトの預金500万ドルを凍結。チリ国税庁は脱税のかどでピノチェットを告発。

 

 2005年

05年1月

1.05 最高裁は弁護側の抗告を棄却。ピノチェット、グスマン判事の命令を受け正式に自宅逮捕となる。

1.06 セルヒオ・ムニョース判事、サンチアゴ市内のピノチェトの事務所を捜索。1億ドルと推定されているリッグズ銀行の口座に関する書類を押収する。

1.06 「ラ・ナシオン」紙、ピノチェットがワシントンにあるチリの軍ミッションを通じて、アメリカの秘密口座の資金をロンドンに送金したと報じる。

1.08 ピノチェットは少なくとも4つの偽造パスポートを持っていることが判明。銀行口座を操作しマネー・ロンダリングをするために、「ダニエル・ロペス」や「ホセ・ラモン・ウガルテ」などの偽名を使っていた。

1.09 ピノチェットの弁護士パブロ・ロドリゲス、4通のパスポートは偽造ではなく、「安全のため」作成したものと語る。Augusto Jose Ramon Pinochet Ugaruteの名前が、順序を変えて使われているから偽造ではないと説明。

1.10 グスマン・タピア判事、3500万ドルの保釈金で元独裁者アウグスト・ピノチェットの保釈を認める。

1.10 セルヒオ・ムニョース判事、「ピノチェトがアメリカ、ヨーロッパ、チリなど130の秘密口座に1500万ドルの預金を隠していたことが判明した」と発表。これは5から10年の監獄入り、脱税額の50から300%の罰金が予想される。

1.15 キリ民党大会、アルベアル前外相を自党の大統領候補に指名。

1.16 セルヒオ・ムニョース判事、ピノチェットの妻のルシアを召喚。ピノチェトと共通の口座を所有し、タックス・ヘブンにある虚構の会社の出資者であるとする。

1.28 リッグズ・ナショナル・バンクが、マネー・ロンダリングに関する法律に反して、ピノチェットの取引を隠していた責任を認めた。ピノチェットは、1994年から2002年までの間に1000万ドルの預金をしている。同銀行は銀行の秘密に関する法律違反で1500万ドルの罰金を払うことになる。

1.28 「コロンボ作戦」でマヌエル・コントレーラスに12年の刑。コントレーラスは、約3時間にわたる自宅での「芝居がかった抵抗」の末、拘禁される。インスルサ内相は、担当のアレハンドロ・ソリス判事が判決にあたりコントレーラスに裁判所出頭を求め、「拒むなら逮捕するよう」命じたことを明らかにする。

コロンボ作戦: 75年7月に開始された左翼革命運動(MIR)の弾圧作戦。活動家119人が虐殺され、アルゼンチンとブラジルで死体が発見された。当時、DINA当局は「MIRの内部抗争により死亡」と発表した。

1.28 国家情報本部(CNI)元長官のウーゴ・サラス・ウェンセル将軍は、1987年アルバニア作戦の名のもと、マヌエル・ロドリゲス愛国戦線の12人を殺害した罪で無期懲役が宣告される。

1.30 社会党大会。ヌニェス上院議員が党首、エスカロナ前党首が幹事長に就任し、バチェレ候補の必勝体制を組む。

1月 東京で、日本・チリFTA共同研究会が第1回会合。

05年2月

2.02 チリ第二のチリ銀行、ピノチェットと家族のマイアミ及びニューヨークにおける口座を閉鎖したと発表。米財務当局は、同銀行に対し顧客の「疑わしい活動」はすべて報告するよう求める。

2.07 パラグアイのエルナン・ケサーダ弁護士、「コロンボ計画にピノチェットがかかわった証拠がある」とし、ピノチェット元大統領の裁判を求める。グスマン特命判事はサンチャゴ上訴裁に同元大統領の特権剥奪の請求。

2.07 コントレーラス、コロンボ計画に関連し、「毎朝ピノチェットとの朝食で、DINAの活動作戦は全て伝えた」と発言。

2.11 チリ警察当局、日本へのチリ人女性の売春斡旋容疑でアニータ・アルバラードを逮捕。

2.22 グスマン特命判事、ピノチェト軍政の元内務・国防大臣(74~78年)のセサル・ラウル・ベナビデス将軍、エンリケ・モンテロ・マルクス空将(74~82年内務次官、82~84年内務大臣)の二人を「コロンボ作戦」における共犯者として逮捕・起訴。起訴状によると、両被告は内務大臣として当時不当逮捕・拷問等が横行していたことを十分に知り得た立場にありながら、訴えの起こされていた裁判所に対して意図的に情報を提供しなかったとされている。

2.23 同じく軍政時代の内相を務めたセルヒオ・フェルナンデス上院議員(78~82、87~88内相)にも、裁判手続きの開始を求めて議員特権の剥奪請求が提出される。

2.28 セルヒオ・フェルナンデス、自らの内相時代に人権の侵害はなかったと発言。ラゴス大統領は、「私自身が獄中で拷問されたことを、彼らが知らないとはおかしなことだ」とコメント。

05年3月

3.02 ベナビデスとモンテロ、30万ペソ(約5万円)の保釈金を支払い釈放される。

3.06 グラディス・マリン共産党前書記長(63歳)がサンチアゴ市内の自宅で息を引き取る。チリ大統領リカルド・ラゴスは二日の公式の喪を宣言。葬儀には延べ100万人が参加。

3.10 アルゼンチン当局、国際刑事警察機構をつうじて国際指名手配されていたドイツ人ポール・シェーファー(83歳)を、ブエノスアイレス郊外で逮捕。シェフェルは8年にわたり逃亡生活を続けていた。

3.13 アルゼンチン政府、チリ司法当局の求めに応じ、パウル・シェフェルを国外追放。チリ当局により逮捕される。ドイツ、フランスも同じような引き渡しを要求している。

パウル・シェフェル(Paul Schaefer)
シェーファーは医師でありナチの幹部だった。戦争孤児の面倒を見るため、若者のための福音派の組織とハウスを作った。61年、児童への性的虐待で告発され、70人の仲間とともにドイツからチリへ逃れた。この年サンチャゴから南へ350キロのパラルに「尊厳コロニー」(Colonia de Dignidad)を建設した。
メンバーは約300人、大多数はドイツからの移住者とその子弟で、一部チリ人もいた。広さは137平方キロメートルで、学校、病院、滑走路、、レストラン、ガソリンスタンドなどを備えている。証言者によると、農業、工業、不動産業などにより数百万ドルを稼いでいたという。また、仕事の提供、学習や医療の無料サービスにより、この地方の信頼を得た。
しかし内部では、性的欲求を抑える教育や男子に対する電気による去勢が行われたという。コミュニティで医師として働いていた女医ギゼラ・ゼエーバルドは、「コロニーで児童に鎮静剤を与え、電気椅子にかけた」と自白している。
ピノチェット時代、施設はDINAの収容所としても使われた。政治的囚人はコロニーに連行され、巣窟のような石の壁のトンネルの中で、有線放送によるワグナーやモーツアルトの曲のもと拷問を受けた。

3.18 グスマン判事、ピノチェット政権時代のコンドル作戦に関与したとして、当時の閣僚二名(セサル・ベナビデス将軍とエンリケ・モンテロ・マルクス将軍)の逮捕を命じる。

3.24 最高裁、プラッツ暗殺事件に関わるピノチェト特権剥奪を支持した上訴裁の決定を、一事不再理の原則に基づき無効とする判断。最高裁は02年にアルゼンチン判事より提出されたDINA幹部の引き渡し請求及びピノチェットの特権剥奪請求を棄却している。

3.26 グスマン判事、ピノチェト将軍がメキシコのPulsar Internacionalに120万ドルを投資していたと発表。脱税容疑で捜査を開始。グスマンの発表によれば、ピノチェトは偽名を含めた7つの銀行口座を海外に持ち、預金額は計160億ドル。フォーブス長者番付でラテンアメリカ随一の資産家カルロス・スリムの資産は125億ドルとされる。

3.25 チリ最高裁、プラッツ元司令官夫妻の殺害事件に関し、ピノチェット元大統領の不逮捕特権の剥奪を下したサンチアゴ控訴審の判決を覆す。89歳の高齢と健康状態などを考慮して15対4で免責判断。

3.28 フアン・グスマン・タピア判事が、35年の勤務を終えて退職する。

3.31 サンチャゴ上訴裁、ベナビデス将軍及びモンテロ将軍の起訴について、「コロンボ作戦」に直接的な関連は存在しないとして、本件起訴処分を無効とする。二人は軍事政権当時の内相であり、2月にグスマン特命判事により共犯者として逮捕・起訴されていた。

3月 米国上院の調査委員会、ピノチェット元大統領の米国銀行隠し口座疑惑に関する報告書を公表。ピノチェットは1979~2004年の間に、これまでに判明していた口座に加えて、偽名の他、妻・子息等の家族、更には現役軍人を含む複数の側近の名義を使うなどして、シティバンクを始めとする9つの金融機関に合計125以上の口座を開設・保有。「800万ドルを大きく上回る額」を管理していた。

3月 チリ国税局、ピノチェットが15億9千万ペソ(約265万ドル)を脱税した疑いがあるとして、サンチャゴ上訴裁に対してピノチェットの特権剥奪請求を提出。

05年4月

4.07 ピノチェット、セルヒオ・ムニョース判事が凍結した500万ドルの預金を解除するよう求める。裁判所はこれを却下。

4.15 ムニョス特命判事、サンチャゴ上訴裁判所に対して、正式にピノチェトの特権剥奪請求を提出。国税当局によれば、ピノチェットは1998年から2002年までの間に脱税を行い国庫に対して約15億ペソ(約265万ドル)の損害を与えた。

4.18 ラゴス大統領、ブラジル、ベネズエラとコロンビアを訪問。米州機構・事務総長選でのインスルサ内相への支援確認。

4.20 ラツィンガー枢機卿が新法王ベネディクト2世に就任。チリ出身のメディナ枢機卿がバチカンの報道官をつとめる。メディナはピノチェト軍政下で反体制派狩りに惜しみなく協力した人物。養父に強姦されて妊娠した未成年の少女に出産を命じたこともある。

4.27 サンチャゴ上訴裁、セルヒオ・フェルナンデス上院議員(元内相)に対する議員特権の剥奪請求を棄却。当時DINAは内務大臣に適切に報告を行っておらず、従ってフェルナンデス元内相はコンドル作戦を知り得る立場になかったとする。

6月 大統領選を前に右派のアリアンサが分裂。独立民主同盟(ピノチェト派)のホアキン・ラビンの他に、非ピノチェト系の国民革新(RN)から企業家のセバスティアン・ピニェラが立候補する。

7.01 バルパライソの議会委員会、ピノチェットの妻ルシア・イリアルトが百万ドル以上の金を受け取っていたことを明らかにする。またスペインの汚職検察は、ピノチェットとその子マルコ・アントニオ、リシアが開いた秘密口座を発見。

7.14 チリ上院、ピノチェット憲法の改正を可決。大統領の任期は6年から5年に短縮。再選は禁止される。上院における任命制の9議席と終身上院議員の議席が廃止される。また軍最高司令官の任免権を大統領に戻す。ラゴス大統領は、チリの移行期が終了したと宣言。野党のセルヒオ・ロメロ上院議長も、一つの時代の終りだと述べる。

8月 憲法改正。この結果、上院議員数は48から38になり、今回20議席が改選となる。下院議員は120議席のまま。

9.14 チリ最高裁、コンドル作戦の15人の被害者に関する裁判を開始。

11.23 ビクトル・モンティーリョ判事、「コンドル作戦」について審議することを決定。カルロス・セルダ判事は米国リッグズ銀行の秘密口座に関する公判を決定。

11月24日 ビクトル・モンティーリョ判事、コロンボ作戦の犠牲者6人の聴聞後、ピノチェットの自宅逮捕と拘禁を命じる。

11.28 コントラーレスDINA元長官、1975年にミシェル・バチェレの逮捕を命じたのはピノチェット本人だったと明らかにする。

12.11 大統領選挙の第一次投票。チリ共産党、ヒューマニスト党、MIRなど左翼諸政党は、「もっと良くしよう」連合(Juntos Podemos Mas: JPM )を結成。ヒューマニスト党のTomas Hirshを候補とする。

12.11 チリ国会議員選挙、与党「民主主義のための連帯」が初めて上下両院で過半数を制する。ピノチェット系の「独立民主連合」は、セルヒオ・フェルナンデス元内相、サンチアゴ市長カルロス・ボンバルが落選するなど壊滅的結果となる。

12.28 ピノチェット、自宅拘留のまま警察のリストに登録される。指紋を採られ、写真(前向き、横向き)を撮られる。顧問弁護士は「これは疑いなく侮辱だ」と非難。

12.28 アルゼンチンとチリ、国際的な平和活動で兵力の協力関係を樹立することで合意。両国は国連活動に参加する際に、数百人の兵力を共同指令の下で動かすことになる。

12.30 サンチャゴ控訴審、公金横領にかかわる捜査のため、ピノチェットの無処罰特権を剥奪。賛成判事21、反対3。

12.27 大統領選決選投票でのバチェレ候補支持をめぐってJPMは分裂。共産党は、労働者の権利、先住民の権利、人権など6つの主要な要求項目を条件として、バチェレ支持を打ち出す。ヒューマニスト党はバチェレがラゴスと同様な政策だとし、支持を拒否。

 

 2006年

06年1月

1.03 チリ政府、パウル・シェーファーを逮捕。「コロニア・ディグニダ」を管理下におく。100人に近い反政府派がここで殺されたとされるが、遺体は見つかっていない。

1.12 ピノチェット、保釈金1万9千ドルを支払って自宅拘禁から保釈される。

1月15日 チリの大統領選・決選投票。与党連合(Concertacion)のミチェル・バチェレ前国防相(中道左派)が54%を獲得。Sebatian Pineraを破り当選。初の女性大統領となる。

ミチェレ・バチェレ: ミシェル・バチェレ 54歳。小児科と公衆衛生を専門とする医師で、三人の子供を持つシングルマザー。父親アルベルト・バチェレはチリ空軍の元将軍、軍事クーデターに反対し、ピノチェット政権に捕らえられた。74年3月12日、拷問が原因と考えられる心筋梗塞によって獄死した。
ミシェル自身は、アジェンデ政権の時代に社会党の青年組織「社会主義青年」の指導者だった。クーデター後、夫とともにチリ革命武装戦線を組織し、抵抗運動を行った。夫は暗殺され、バチェレ自身も母アンヘラ・ヘリアとともに捕らえられ、ビジャ・グリマルディの収容所で拷問を経験した。
その後国外追放されオーストラリアと東ドイツで亡命生活を送り、ベルリンのフンボルト大学で医学を学ぶ。79年に帰国した後、NGOレベルで民主化のために働いた。民主化後は厚生省の中でポストを歴任。またチリ政治戦略アカデミー、さらにワシントンの米州防衛大学で軍事戦略を学ぶ。その後ラゴス政権の下で00年に厚生大臣、02年に国防大臣を経験。

1.17 バチェレ次期大統領、外交政策はラテンアメリカ優先にすると述べる。またボリビアとの関係について、「限定なしの広範な対話」を始める用意があると言明。

1.20 サンチャゴ控訴審、ビジャ・グリマルディ(Villa Grimaldi)事件に関するピノチェットの裁判開始を決定。賛成14,反対5の評決だった。ビジャ・グリマルディには、ミシェル・バチェレ次期大統領も捕らえられていた。

1.22 ラゴス大統領、エボ・モラレス氏のボリビア大統就任式に出席。隣国ボリビアへの歴史的訪問となる。

1.23 捜査当局、ピノチェトの妻と4人の子供(マルコ・アントニオ、ジャクリーヌ、ルシア、ベロニカ)らを3,500万ペソの脱税容疑やパスポート偽造容疑で逮捕。マルコ・アントニオの妻マリア・ソレダド・オラーベは、アメリカその他の国に秘密銀行口座を所有し、総額で6600万ドルの脱税を行ったとされる。

1月24日 サンチアゴ控訴審、脱税容疑で逮捕中のピノチェト元大統領夫人らの保釈を認める。長女ルシアは逮捕を逃れ、アルゼンチンから米国亡命を図る。

1.25 ルシア・ピノチェト、チリ当局からの脱税容疑による国際手配を受け、ワシントンの国際空港で身柄を拘束される。

1月28日 ルシア・ピノチェト、米国からアルゼンチン経由で帰国。空港で逮捕される。

1月30日 ミチェル・バチェレ次期大統領、新内閣名簿を発表。公約の通り、男女それぞれ10人ずつの同数。「両性の平等に向けた歴史的第一歩」と強調する。財務相にはハ-バード大学教授のアンドレス・ベラスコ、外相にはエコノミストで元財務相のアレハンドロ・フォクスリー、内相はアンドレス・サルディバル、文化相には女優のパウリナ・ウルティアなど。

06年2月

2.01 サンチャゴ控訴審、コロンボ作戦による3人の反政府派の行方不明事件で、ピノチェット元将軍の裁判を決定する。

2.28 アレハンドロ・ソリス判事、独裁時代に秘密監獄ビジャ・グリマルディでDINAが行った拷問・殺人について、DINA元幹部13人に対し公判を開始。

06年3月

3.07 ピノチェットの秘密口座がチリ国内でも新たに発見される。アメリカで使われたと同じ偽名“ホセ・ラモン・ウガルテ”が使われている。原告弁護士カルメン・エルツが発表したもの。

3.08 クラウディオ・パベス判事、92年のゲラルド・ウベル大佐殺害事件に関して、エウヘニオ・コバルビアス元将軍など5人の逮捕を命令。ウベルはピノチェットが軍司令官だった91年末に、クロアチアへの違法な武器売却が行われたと証言していた。

3.12 バチェレ大統領の就任式。「我々は個人主義を好まない。無関心を好まない」と演説。

3.24 チリ、ストライキや事故により鉱山生産高が減少。これにより06年の成長率は4.0%に低下。

3.28 3.28 チリ、日本とのEPAに署名。

06年4月

4.07 フアン・グスマン・タピア元判事、最高裁メンバー(おそらくはモンティリオ判事)のモラルと倫理の堕落を批判。「最高裁には、長年に渡って女性にセクハラをはたらき、それで何も起こらなかった者がいる。また経歴のある時期に、裸になってテーブルの上で踊って、最高裁まで上りつめた者までいる。売春宿で踊っていたということだ」

4.11 チリ司法当局、コロニア・ディグニダッド事件の関係者18人を起訴。この中には、アルゼンチンで逮捕され送還されたパウル・シェフェルをはじめ、受刑中のマヌエル・コントレーラス、ペドロ・エスピノサが含まれる。

4.13 チリ裁判所のビクトル・モンティリオ判事、「死のキャラバン作戦」の責任者セルヒオ・アレジャーノ・スタルク元将軍らにたいし、ピノチェット時代の特赦法を適用して無罪とする。死のキャラバンは、クーデター直後にアジェンデ政権の政治家や組合リーダー75人を処刑したもの。

4.18 チリのアレハンドロ・フォクスレイ外相、ペルーと自由貿易協定を締結し、ボリビアの太平洋への出口問題を除外しない「広範な統合」をする用意があると発言。

4.18 エウヘニオ・ベリオス殺害に関わったトマス・カセジャら3人のウルグアイ軍人が、アレハンドロ・マドリッド判事の要請に応じチリ当局に引き渡される。

4.21 チリ最高裁、コンドル作戦に関する裁判対象に37人を追加することを認める。

4.24 新政権、大学共通入学試験(PSU)の受験料引き上げと、バス料金の学生割引の制限を発表。

4.26 サンティアゴのメインストリートであるアラメダ通りで、政府提案に抗議する高校生(チリでは14歳から18歳まで)のデモ。47人の高校生が警察に逮捕される。高校生の制服がペンギンに似ていることからペンギン革命 (Revolución de los pingüinos)と呼ばれるようになる。

06年5月

5.01 高校生がデモに参加し、新政策に抗議する。全土で1,024人が警察に逮捕される。

5.10 サルディバル内相、「暴力は正しい手段ではなく、政府は警察の行動を支持する」と開き直る。

5.19 名門校のインスティトゥト・ナシオナルとリセオ・デ・アプリカチオンで、学生たちが学校を占拠し教育改革の改善を求める。その後数日のあいだに、スト/占拠は14校に拡大。

5.26 高校生調整会議(ACES)が「5.30全国ストライキ」を呼びかける。学生用公共バスの無料化、大学統一試験受験の無料化、全日制廃止、教育法の改正などを要求。

5.26 チリ大学学生連合(FECH)、全国教員組合などが支持表明。この日までに70校以上がスト入り。

5.30 79万人の学生が全国各地でデモ。この日までに全国で320の高校が占拠され、さらに100校以上がストライキに入る。73年クーデター後の最大の学生運動となる。

5.30 ジリッチ教育長官と学生リーダー23人が国立図書館で直接会談。図書館前に集まった学生に警官隊が催涙弾を発射。725人が逮捕され26人が負傷する。個人宅にいた見物人も逮捕され、報道関係者も特殊部隊に攻撃された。これらの映像は報道によって流された。

5.31 警察に対する非難が集中する。バチェレ大統領は「警察に治安の維持を期待しているが、昨日目撃したような出来事は到底受け入れることはできない」と非難する。サルディバル内相も、調査の開始と、特殊部隊の隊長と副隊長を含む10人の解雇を指示。

5.31 ACESがジリッチ教育長官の提案を拒否。6.05からの全国ゼネストの決行を宣言。

06年6月

6.01 バチェレ大統領がテレビ演説。学生たちの要求を受け入れ、大統領諮問委員会を設置、新たな教育政策を検討すると述べる。

6.02 ジリッチ教育長官とACESの再度の直接交渉も物別れに終わる。

6.05 ACESが全国ゼネストを決行。高校生に加えて大学生、高校教師、トラック運転手、労働者の組合も連帯スト。警察は運動の拠点インスティトゥト・ナシオナルに対し、催涙ガスや放水で挑発攻撃。240人が拘留される。

6.07 全国で175の学校がストライキを終了し、平常状態に戻る。

6.07 バチェレ大統領が大統領諮問委員会のメンバーを発表。高校生の席は6つだった。

6.09 闘争委員会、大統領提案を受け、ストライキや学校の占拠を終了するよう呼びかける。

6.19 ベネズエラが、国連安保理の非常任理事国に立候補。シャノン米国務次官補は、「グアテマラこそ理事国にふさわしい」と強調。米国務省高官は、「チリ政府がベネズエラの理事国入りを支持するなら、米国はF16戦闘機の操縦訓練を受け入れない」とけん制。

6.20 バチェレ大統領、安保理非常任理事国選出に関する暫定的な判断として、ベネズエラ支持の方向を示す。これに対し野党議員はベネズエラ支持反対の決議案を提出。

6月 バチェレはシリッチ教育相、サルディバル内相を更迭。

06年7月

7月 ピノチェット隠し口座疑惑に関連し、当時の陸軍総司令部の銀行口座の調査が始められる。

7月 「死のキャラバン」事件に関して、裁判手続きの停止が決定した際に対象外であった2名の殺人があらたに取り上げられ、ピノチェトの免責特権剥奪が決定する。

7月 バチェレ政権、「チリ競争力計画」を発表。経済成長を高め競争力を強化するため、中小企業の振興を図る。

06年8月

8.08 警察はサンチアゴの21の学校の生徒2千人のデモに対して催涙ガスと放水砲を使った。生徒は投石で対抗した。

8.23 2,000人の学生が改革の遅れに対する抗議デモ。一部学生が警官隊と衝突し200人以上が逮捕される。

8月 エスコンディータ鉱山の労働争議に連帯する銅鉱山労働者のデモ。同国際価格上昇に伴う賃金の引き上げを要求。

9月 医療従事者による賃上げ要求とストライキ。

06年12月

12月10日 ピノチェト元大統領が入院していた陸軍病院にて心筋梗塞で死去。

12月 ピノチェト元大統領の葬儀、ブランロット国防相は罵声を浴びせた参列者に対し、「自分は任務で参列している。出て行くのは彼らだ」と応える。またクーデターを正当化する弔辞を読んだ元大統領の孫(軍士官)を即刻解任する。

 

 2007年

3.29 新交通システムの不備や教育改革を批判する学生デモ隊が警察と衝突し、学生747人が拘束された。サンティアゴでは少なくとも100台のバスが焼き打ちされた。

4.04 サンチアゴで数百人の学生が抗議行動。警察は催涙弾と放水砲でデモ隊を蹴散らし、約100名を逮捕する。

5.21 バチェレ大統領が記者会見。公共バス料金の値上げについて謝罪する。また、今後数億ドルをかけて教育の改善を行うと約束する。

8月末 CUTの呼びかけでゼネストが決行される。最賃引き上げの他、新自由主義にもとづく構造改革の転換を求める。

9.11 クーデター記念日。デモ隊と警察の衝突で41人が逮捕され300人が負傷する。

10.04 チリ司法当局、ピノチェトの妻と5人の子供に対し、公金横領容疑で逮捕命令。ほかに大統領の元顧問、弁護士など17人も起訴される。これまでの捜査で、130の秘密口座、総額2700万ドルが摘発される。3.26 バルパライソにある国会前に集まった約3500名の大学生が、治安警察の部隊と衝突。

 

 2008年

3.26 バルパライソにある国会前に集まった約3500名の大学生が、治安警察の部隊と衝突。

4.24 サンチアゴ、バルパライソ、Concepcio'n、Temuco、バルディビアの各都市で抗議デモを行った学生、およそ500人が逮捕・勾留される。

5.28 サンチァゴとAntofagastaで学生の抗議デモ。300人以上が勾留される。 

10.26 チリ地方選挙。アリアンサの得票率がコンセルタシオンに2%上回る。コンセルタシオンは民主化以降最初の敗北。

 

 2009年

1.05 バチェレ大統領、総額40億ドルからなる景気刺激計画を発表。

2.12 チリ中銀、貸出金利を2.5から4.75%に引き上げ。?

6月 CEPの世論調査で、バチェレ大統領の支持率が67%に達する。歴代大統領の中では最高となる。

12.13 大統領選挙。右派野党連合の企業家セバシティアン・ピニェラ元上院議員(60)が第1位を確保。第2位となった与党連合「コンセルタシ オン」のエドゥアルド・フレイ元大統領との間で決選投票となる。与党を離脱した無所属候補のエンリケスは20.1%、共産党などで結成した左翼連合候補のホルヘ・アラテは6.2%。

12月 総選挙。共産党、コンセルタシオンとの選挙協力で下院に3議席を獲得。クーデター以来36年ぶりの議席となる。

 

 2010年

1.17 大統領選決選投票。アリアンサのピニェラが51%を獲得。コンセルタシオンのフレイを破り当選。

2.27 コンセプシオンを中心にマグニチュード8.8の大地震が発生。死者486人、行方不明79人を出す。15万人が家を失う。被害総額は約300億ドル。直後の略奪行為が世界に発信される。

3.11 ピニェラ大統領の就任式。アルゼンチン、ボリビア、ペルー、コロンビア、エクアドルの元首が列席。

7.12 マプチェ運動の受刑者が,①反テロ法適用の停止,②インディヘナ居住区に駐留する軍の撤退,③マプチェ族政治囚の釈放を求めてハンストを開始。

10年8月

8.05 サン・ホセ銅鉱山で崩落事故が発生し,33名が生き埋めとなる。

8.22 サンホセの33名が坑道深くに生存していることが確認される。

8.24 ピニェラ大統領が実質的なオーナーであるテレビ局チレビシオンが米複合メディア企業タイム・ワーナー社へ売却される。

10年10月

10.01 政府と一部のマプチェ族活動家の間で、反テロ法の適用停止などで合意。24名がハンストを終了,14名がハンストを継続。世論調査で,政治的弾圧反対は86%に達する。

10.13 サンホセ鉱山で、33名全員が無事に救出される。世界中から約2千人のプレスが集結し,救出作戦の模様が各国で生中継される。ピニェラの支持率は63%に達する。

10.21 コンセルタシオン内部で進路をめぐる対立。PPDのトア委員長は共産党などとの対話を訴えるが、キリ民党は左傾化に反対する。

10.24 政府の教育制度改革案が提出される。①校長への解雇権付与、②高齢教師への退職勧奨、③入学試験の点数で教育学生の待遇を差別、④採用試験の点数で教師の待遇を差別、などひどいもの。

10月 ピニェラ(コロコロの実質オーナー)がサッカー協会会長選挙に干渉。チリ代表監督は抗議の辞任。大統領の支持率は前回より13%低下する。

11月 チリ大学連の選挙。都市工学部地理科の院生カミラ・バジェホ(Camila Vallejo Dowling)が委員長に選出される。

チリ大学学生連合(Federacio'n de Estudiantes de la Universidad de Chile: FECh)は名前の通り、国立チリ大学内の学生諸団体の連合体。全国連合である全学連とは異なる。
FEChは1906年10月21日に結成された。学生の権利と意見を守ること、労働者と貧困者に社会援助を与えることを目的とする。当時学長を勤めていたバレンティン・レテリエル(急進党)はこの運動を全面的に支持する。
クーデター後は弾圧され、78年には新たな右翼学生連合(FECECh: Federacio'n de centros de estudiantes de la Universidad de Chile)が創設される。この連合はピノチェト軍事政権が指名した民間人学長の統制下に置かれた。
しかしFECEChの活動は破産し、84年には自ら解体宣言を発し消滅。地下で反ピノチェト活動を行っていた学生が90年にFEChを再建した。

12.08 サンチアゴ近郊のサンミゲル刑務所で囚人間の抗争から火災となる。死者は81名に上る。この刑務所は収容能力1100名に対し1924名を収容していた。

 2011年

11年1月

1.05 最南端の町プンタ・アレナスでガス料金値上げに反対するデモ。3,500名が市内中心部に集結。バスターミナル,主要道を封鎖。

1.12 プンタ・アレナスで抗議活動による混乱の中,2名の若者が事故死,1名が重傷を負う。道路封鎖が再開される。その後値上げ幅の圧縮と、政府補助の増額で合意。

1.19 教育改革法が、コンセルタシオンの賛成を得て成立。キリ民党は推進の立場をとり、社会党は追随。他党も抵抗するが結局折れる。

1.22 サンティアゴ公共交通機関の料金が値上げされる。

11年4月

4.05 ピニェラ大統領の支持率は42%、不支持率は49%となり11年に入って以降不支持が上回る状況が続く。

4月 チリ学生連合(CONFECH)、抗議活動への参加を呼びかける。

チリの教育予算は、ユネスコが目標として掲げるGDP比7%を大きく下回り、4%程度でしかない。OECDによると、チリは加盟国31カ国のうち教育費の国民負担が最も高い国で、その割合は41.4%に達する。ちなみに日本は34%。
大学生は高利の教育ローンを組むのが常識になっており、卒業時には、学生1人あたり平均で4万5千ドルの借金を抱える。

11年5月

5.09 アイセン水力発電計画が承認される。70億ドルをかけ、パタゴニア地方の2本の川にダムを建設するプロジェクト。環境団体や地元住民を中 心に抗議活動が発生。国家警察は放水車や催涙ガス弾を用いて弾圧。チリ全土で1万人以上が抗議活動に参加し,123名が逮捕,27名が負傷する。

5.12 公的教育改善を求めるデモ。約1万5千人が参加。

5.26 約2千人の高校生を含む約8千人が教育省までのデモを行い,ラビン教育大臣へ請願書を提出する。

11年6月

6.01 大学と高校の封鎖行動が開始される。

6.13 封鎖された学校の数が100を越える。そのうち80校はサンチャゴ首都圏内にあった。(警察発表では50校)

6.16 教育省前で警察と学生デモが衝突。放水、催涙弾攻撃、騎馬隊による弾圧に対して学生は投石で応じ、38人が逮捕される。

6.30 民政復帰後最大規模の30万人のデモが行われる。当局発表では10万人。チリ大学正門には「La lucha es de la sociedad entera / Todos por la educacio'n gratuita」(闘いは全社会のもの・自由な教育目指し総決起せよ)の看板が掲げられる。

11年7月

7.05 ピネラ大統領、テレビ演説で教育改革要求に対する対応策を発表。総額40億ドルの教育改革案「GANE」を提起。総額40億ドルの奨学金基金を設立し、その配当と利子(年間3 億ドル)で公教育を支援するというもの。

7.05 学生側は「提案は教育における営利活動を合法化するものであり、後退でしかない」と失望の念をあらわす。

7.05 ピニェラ大統領の支持率は31%,不支持率は60%となった。

7.06 「国際キスの日」にちなみ、「ベサトン(キスキス)大作戦」と銘打ち、交際相手と一斉にキスをする示威運動を展開。サンティアゴ中心部の イタリア広場だけで約2000人の大学生(一部高校生も)たちが30分間キスを続けた。メディアの注目を集める。他にもゾンビの扮装など多彩なデモが展開 される。

7.11 エル・テニエンテ銅山の契約労働者1万5千人が民営化反対ストライキを決行。20年来最大のストライキとなる。

7.14 チリ大学の学生がエル・テニエンテとの連帯デモ。ストライキ中の労働者とともに行進。

7.18 内閣改造に伴いラビン教育相(元サンティアゴ市長)が更迭される(経済企画相に横滑り)。ラビンは法律の抜け穴を利用し、私立の「開発大学」に投資していた。このため学生側からの批判の対象となった。

7.19 この時点で148の高校が占拠闘争を続ける。一方Austral de Chile大学やSantiago de Chile大学では封鎖を解く。

11年8月

8.01 ブルネス新教育相、教育制度改革に関する21項目の新提案を発表。中等~高等教育の再編成案を示す。学生の大学管理への参加、地方自治体への教育丸投げの改善、奨学金の引き上げと学生の負債の救済などからなる。

8.01 学生側はこの提案を“band-aid solution”として拒否。さらに占拠とデモを続けると宣言。

8.04 教育改革を求める抗議デモが大荒れとなる。

「暴力」を演出した警察: 警察は通りに非常線を張ってデモ行進を阻止。一帯は“戒厳状態”となる。警察は催涙ガスを乱射。抗議者は信号を破壊し街路に火をつける。La Polar デパートは焼きつくされた。874人の抗議者が拘留され、警察軍も90人の負傷者を出す。

8.04 インスペテール内相は、大統領官邸へのデモ行進をいっさい許可しないと発表。

8.04 警察軍、共産党本部を包囲し、ドサグサ紛れに突入の構えを示す。

8.04 夕方から全市で抗議の空鍋叩きがおこなわれる。学生の発議によるもの。

8.09 学生デモ。警察発表で7万人が参加。主催者側は約15万人と発表。エンカプチャドス(覆面をした若者)の部隊がモネダ宮殿付近で警官隊と衝突。

8.10 コンセルタシオン、デモ規制は違憲だとしてヒンズペーター内相に対する弾劾決議案を提出。30日の採決で否決される。

8.14 議会が対話を提案するが、学生側はこれを拒否する。

8.17 政府は教育改革に関する21項目提案を一部修正し,学生ローンの利率を2%に引き下げるなど、貧困層に対する経済的支援を増やす計画を公表。

8.18 学生側は新提案を拒否。「傘の行進」が行われる。真冬の雨の中を5万人の学生がデモ行進。教育機会の平等と不当利益行為の終わりを求める。

8.20 5月以来最大規模のデモ。コンサートなどの集会が展開され10万(警察発表)ないし100万人(主催者)が結集。

8.24 48時間ゼネスト決行。銅山労働者が48時間ゼネストを貫徹。官公労を中心に全国の8割の公務員労働者がストに入る。首都圏州の公共交通機関の7割以上が止まる。

8.24 この日だけで少なくとも300人が逮捕される。サンチァゴでは一部のデモがバリケードを張り警官隊と対峙。6人の警官が負傷。

8.25 CUTの呼びかけたデモに延べ60万人が参加(政府発表17万人)。4つの別個のデモがサンチアゴ市内で展開される。Pichilemuで営利教育に抗議し教育の自由をもとめる教員のデモ。警察は約1400名を逮捕。約150名が負傷する。

8.25 サンチアゴで14歳の少年マヌエル・グティエレスが警察軍兵士に胸を撃たれ死亡。実行犯ミゲル・ミジャクラ軍曹は当局から免職となった。

8.31 上院の教育委員会、営利を目的とする教育機関への政府支援を禁止。これは学生の要求の一つであった。

8月 カミラ、国際的に知名度が高まる。ドイツの新聞ディー・ツァイトの表紙にも登場。一方攻撃も強まり、ソーシャルネットで死の脅迫を受ける。カミーラの住所が発表されたため、検察官に警察の保護を求める。

 

11年9月

9.01 高校生に向けて発砲が行われていたことが判明。さらにゴードン警察軍長官が息子の交通違反を圧力で揉み消したことが明らかになり、大統領は自発的辞任を求める。

9.03 ピニェラ大統領が学生,教職員組合,大学長連盟の代表と4時間近くの会談。義務教育の権限を自治体から国へ移す事については政府側が拒否。

9.11 クーデター記念集会。デモに介入した約300人のエンカプチャドスが350ヶ所でバリケード封鎖。13万世帯が停電となる。カラビネロス(警察軍)との衝突で、15歳の少女が銃撃され負傷。ほかに全国350か所で衝突があり、サンチアゴ市内での逮捕者は280人におよぶ。

9.12 共産党の中央委員会本部を暴徒30人が襲撃。コンピュータと家具を破壊。(おそらく警察またはネオナチによる)

9.21 プロビデンシア区の二つの高校の封鎖が警察の手により解除される。

9.22 ピニェラ大統領が国連総会で演説。パレスティナの国連加盟早期実現への支持を表明する。

9.27 CONFECH,政府との対話への参加を決議。教育制度改革が明確化されるまでストライキ、封鎖、抗議デモは継続とする。

9.29 ブルネス教育大臣と大学生、教育界代表者による一回目の対話が開催される。主張は平行線。

9.29 対話と平行して学生デモ。政府発表で2万人,CONFECH 発表で15万人が参加。

9.29 ピニェラ大統領、教育予算を大幅に増額した予算案を発表。政府と学生側との交渉が開始される。学生側はあくまで教育無償化を要求。

11年10月

10.04 ピニェラ大統領の支持率は30%,不支持率は63%。

10.05 チリ学生とピニェラ政府との対話が決裂。学生代表は政府との交渉の席から撤退。

カミラの声明: 政府は大多数の国の要求に向き合う意思もなく能力もない。これが交渉決裂の理由である。
「チリ大学生総連合」 (CONFECH) の代表ダビド・ウレア(急進派)は、「運動を急進化せよ。苦難のときに備えよ」と呼びかける。

10.06 全学連が闘争強化を指令。サンチアゴ・バルパライソでは大規模な衝突が発生。

10.06 国際通貨基金(IMF)、チリの財政状況を分析し、国民の諸要求の高まりに応えるためにも、「企業が支払う税率を国際水準に引き上げ、気前の良い優遇策や税制上の譲歩を減らすべき」と指摘する。

10.07 市民団体「教授会」による「国民投票」が実施される。有権者150万人が参加し、無料教育普遍化に88%が賛成した。

10.07 ピニェラ大統領は刑法を修正し、デモや学校占拠への重罰化を決定。学校占拠は、禁固1.5年から3年となる。

10.11 コロンビアで30以上の大学の学生がストライキに入る。「われわれは、チリ学生からの連帯をも受けている」と主張。

10.14 カミラら学生運動幹部、ヨーロッパへ飛び、スイスのユネスコなどでチリの学生運動について発表。

10.15 チリ学生連合(CONFECH)が全国48時間ストライキを呼びかけ。労働者統一センター(CUT)が支持表明し、抗議行動への参加を呼び掛けた。

10.18 CUTの48時間ゼネストが開始される。Chilean national strike timeline: Oct. 18 に分刻みのタイムラインがあるが、さすがにつき合いきれない。

10.28 中高生連絡会議(ACES)は、サンティアゴを東から西に流れるマポチョ川の川岸に、無期限のテントを設置。ただちに約300人のカラビネロスが出動。放水車、ガス車などで追い払う。うち数十人が川岸におり、川床のなかに逃げる生徒たちを暴力的に排除、検挙。

 

11年11月

11.03 チリの人権団体、米州人権委員会(CIDH)に、学生に対する117件の暴行事例をあげ、警察の権力乱用を告発。

11.07 世論調査で、学生の要求に賛同する人は67%に達する。

11.11 来年度の教育予算案の審議が始まる。国会のあるバルパライソに学生ら約3万人が集まり、国会周辺をデモ行進する。

 11.17 17日にバルパライソ、18日にサンティアゴの「48時間抗議行動」が連続して行われる。

11.24 南米各地でチリ学生と連帯する統一行動。

11年12月

12.07 チリ大学で学生連盟FECHの選挙。再選を狙うカミラは2位にとどまり、副委員長に就任。独立左翼のガブリエル・ボリッチ(法学部卒業生)が委員長となる。執行部の5人の役員はすべて左翼によって独占される。

12月 カミラ、イギリスの新聞ガーディアンの読者によるオンライン投票で 「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれる。

12.29 ピニェラ政権のフェリペ・ブルネラ教育相(2人目)が辞任。

 

2012年

1月5日 チリ政府、ピノチェト軍政を「独裁政権」と表現した学校教科書の記述を「軍事政権」に変更すると発表。

12年4月

4.04 カミラ、チリ共青のカリオラ書記長らがキューバ共産青年同盟の大会に出席するため、キューバを訪れる。フィデル・カストロ前議長は、3時間以上にわたって会談。カミラは会談後フィデルを絶賛。

4.23 アラルド・ベジェル教育相、「教育改革案」を明らかにする。中身はローンの話ばかりで、国家の教育に対する責任には言及なし。

ローン条件の改革: 学生ローン事業から民間部門を排除すること、利率を6%から2%に引き下げることを柱とする。7億ドルを教育予算として徴収し、最貧層には奨学金を付与する。

4.23 チリ大学連のボリク委員長、「債務の借り換えなどは交渉したくない」として提案を拒否。

4.25 チリ大学学生連盟(FECH)、チリ学生連盟(CONFECH)などの学生デモ。主催者発表で80,000人以上、警察発表で48,000人。

12年6月

6.10 カウポリカン劇場で、約1千人のピノチェト信奉者がピノチェトを称える催し。これを糾弾する約3万人の市民が会場に向かう。カラビネロスは劇場から5街区のあいだを封鎖し催涙ガスと放水車で弾圧。

6.28 全国学生ストライキが決行される。サンチアゴ市内でのデモには15万人が結集。

12年8月

8.08 中高生連絡協議会(ACES)の抗議デモ。チリ大学学生連盟(FECH)など大学生も加わり、10,000人以上が集まる。警察は装甲車による催涙ガスと放水、騎馬警官によって学生を解散させ75人を逮捕。

8.08 ACESの報道担当、エロイサ・ゴンサレスは暴力を批判し、カラビネロスがデモに浸透し事件をねつ造している可能性を示唆した。

8.28 チリ学生連盟(CONFECH)の主催するデモ。15万人が結集。チリ大学をふくむ多くの大学が学生によって封鎖される。サンチアゴのユネスコ事務所は、国連でHinzpeter法反対の演説をもとめる中学生により占拠される。

8月 大学生、中高生のほかに教授会(CP)、チリ最大のナショナルセンターである労働者統一センター(CUT)が抗議行動への参加を決定

12年10月

10.25 サンティアゴにおいて、マプチェ人の闘いを支援する大規模な集会がおこなわれた。マプチェの指導者マヌエル・カルフィウは「スペイン人が来て520年、チリ国家にたいして言う、マプチェは生きている、尊厳を持って。チリ政府が簒奪した権利を要求して」と語った。主催者発表で12,000人

10.28 全国345の自治体で市長、市会議員選挙。コンセルタシオン(合意)が43.10%を獲得、2008年選挙の147市長から168に数を増やした。一方の右派与党連合は37.47%、144から121に減らし、サンチアゴを始め重要な市長は軒並み敗北する。チリ共産党(PC)6.44%を獲得。

12年12月

12.28 サンティアゴ控訴審裁判所の特別判事、ミゲル・バスケスは7人の旧軍人をハラ殺害の容疑者として逮捕命令を出した。中心人 物はウーゴ・サンチェス・マルモンティ大佐、ペドロ・バルリエントス・ヌニェス中尉、バルリエントスは米国、フロリダにいるため、国際手配をおこなった。

ビクトル・ハラ虐殺の経過: 軍人はハラを発見し、スタジアムの地下に移し、数日間にわたり拷問をおこなう。
9月16日、ハラは殺害され、道路に放置されていたのを回収される。ハラの妻、ジョーン・ターナーは遺体安置所で夫の遺体を発見、内密に葬り、自身も亡命する。ハラの埋葬に従ったのは、霊柩車の運転手一人であった。
ハラの手は銃床によってつぶされ、身体の多くの骨が骨折し、身体の多くに打撲傷と火傷があった。致命傷は恐らく44発の銃弾で身体をハチの巣にされたことである。
ハラを発見しルシアンルーレットをおこなったなどといわれる、金髪で残虐な将校、“エル・プリンシペ”はエドウィン・ディムテルであることが判明している。

 

2013年

3.28 サンティアゴの20,000人の学生が、教育の根本的な改革を要求してデモ行進

3.29 「闘う青年の日」 周辺部(貧困地区)では青年と治安部隊の衝突。青年の多くはエンカプチャドス(覆面をした若者)で投石と火炎瓶で、カラビネロス(警察軍)は放水車と催涙弾で攻撃した。(実体はならず者の騒動のようである)

闘う青年の日: 1985年3月29日、サンティアゴの周辺部、ビジャ・フランシアに住んでいた兄弟、ラファエルとエドゥアルド・ベルガラ・トレドは警察要員によって射殺される。
またこの日は政治警察によって行方不明となり、その後、斬首されて発見された共産主義者、サンティアゴ・ナッティノ、マヌエル・ゲレロ、ホセ・マヌエル・パラダを記憶する日でもある。

3.30 サンティアゴでは銅産業労働者連盟(FTC)によるストライキと行進がおこなわれた。委託化は隠れた民営化であると批判。

4.01 バチェレはサンティアゴ北部のコンチャリでおこなった演説でピニェラ政権の施策を批判した。自分が大統領に当選したならば、教育での金儲けを終わらせ、すべてのレベルで教育の無料化を前進させると約束した。

5.08 大学生、中高生による政府の教育政策に反対する大規模な抗議行動がおこなわれた。呼びかけたのはチリ学生連盟 (CONFECH)、中高生全国協議会(CONES)、中高生調整会議(ACES)で、サンティアゴでは、80,000人(警察発表は35,000人)以 上の学生が参加した。

5.25 共産党、「新多数派」の形成を提案。大統領選挙においてバチェレを第1回投票から支持すると表明。バチェレもこれを受諾。

新多数派(Nueva Mayoria): コンセルタシオンを構成する4党の他に、拡大社会運動(MAS)、チリ共産党(PCCh)、市民左翼(IC)が加わる選挙連合。

6.13 今年5回目となる大規模な学生デモ。主催者発表で80,000人、警察発表で55,000人が集まった。教育の公共化、無料で質の高い教育をもとめる。カラビネロスによる放水と催涙弾による弾圧で、少なくとも324人が逮捕され、74人が負傷。

カスコス・アスレス: 1年間の被逮捕者は約5千人にのぼる。このため抗議行動では弁護士、法科の学生などのボランティアからなる青ヘル・グループ(カスコス・アスレス)が活躍する。青ヘルメットは国連軍のシンボルである。
彼らはカラビネロスが逮捕する瞬間におこなう暴力をビデオで記録する。被逮捕者の解放のため、裁判で逮捕の不当性を証明するために、このビデオが用いられる。

6.13 学生の抗議行動に労働者統一センター(CUT)がこれに加わり、銅産業労働者、港湾労働者、医療労働者、郵便労働者などが学生運動を支援した

6.26 ふたたび学生デモ。10万人がサンチアゴで抗議行動。

6.27 カラビネロス、封鎖された50の学校のうち28校(うち21校はサンティアゴ市内)の封鎖を解除。130人以上が逮捕され多数の負傷者が出た。

6.30 左右両派の予備選挙で大統領候補が選出される。与党「同盟」(アリアンサ)のなかでは極右政党「独立民主連合」(UDI)のパブロ・ロンゲイラ前経済相、コンセルタシオンは、ミチェレ・バチェレ前大統領が候補となる。

6.30 バチェレ候補、教育無償化法案を当選後100日以内に出し、6年以内に完全に実現すると公約。

6月 「民主主義のための政党連合」(コンセルタシオン)の社会党、キリスト教民主党、民主党、社会民主急進党に左派の共産党、市民左翼、拡大左翼運動(MAS)が加わり、「新しい多数派」を形成し選挙に臨む。

7.15 右派のパブロ・ロンゲイラは健康上の理由(うつ病)から出馬をとりやめた。あらたな候補として、エベリン・マッテイ労働相を決定。

両候補の関係: バチェレとマッティは幼馴染で、アントファガスタでともに遊んだ仲であった。二人の父親フェルナンド・マテイとアルベルト・バチェレはともにチリ空軍の将軍で、親しい友人関係にあった。
クーデターののち、フェルナンド・マテイは空軍学校の校長となり、アルベルト・バチェレはアウグスト・ピノチェッにより迫害されることとなった。

9.04 チリの裁判官組織「司法権判事協会」、軍政時代に裁判官が犯した過ちを謝罪。法廷はクーデターを支持し、多くの市民の人身保護請求を拒否した。

9.08 サンティアゴで、軍事クーデター40周年記念集会。軍政下で殺された約3230人の名前を刻んだ石碑前に、6万人が集まる。

9.11 クーデター40周年。中高生連絡協議会(ACES)は、学生虐殺に抗議するため全国の中高校を占拠することを指令。

9.11 サンティアゴの労働者街で覆面の若者集団とカラビネロス)が衝突。264人が逮捕され、警官42人が負傷する。

9 .11 ピニェラ大統領が記念式典で演説。「民主主義破壊と人道犯罪を阻止すべき立場にありながら、それを怠った者にも責任がある」と指摘。最高裁判所や政治家を暗に批判する。また、「和解には真実追究と正義追及が不可欠だ。それなしの和解は砂上の楼閣だ」と述べ、人道犯罪の追及や賠償の必要を強調する。

9.15 マリオ・カローサ判事が軍事クーデターの「陰謀過程」の調査を開始。調査に答えたアルタミラーノ元社会党書記長(93)は、「キリスト教民主党がアジェンデ政権との協調から脱落しクーデターを招いた」と批判する。キリ民党は「(当時は)民主的野党の立場をとっていた」と反論した。

これはキリ民党の方が正しい。キリ民党が“民主的”であったとは口が裂けてもいえないが。
これに対しアルタミラーノの発言は、彼が度し難い楽天主義者であったことの自己暴露でしかない。

11.08 ネルーダの死因に関する調査グループ、「ネルーダが毒殺されたという物的証拠は発見されなかった」という報告書を提出。原告側は、専門家の報告書にたいしても、主張を変えない意向をしめしている。

11.17 チリの大統領選挙と議会選挙。「新しい多数派」は上下両院で過半数を占めた。しかしアウグスト・ピノチェッ時代の憲法を改正するための2/3には届かず。

学生運動指導者の当選: 学生運動の指導者が4人、下院議員に当選した。カミラはチリ共産党員として、サンティアゴ南部の26区ラ・フロリダから立候補、43%の票を獲得し当選した。同じくチリ共産党からはカロル・カリオラが当選した。彼女はコンセプシオン大学学生連盟の元委員長で、チリ共産青年同盟の書記長でもあった

11月 チリ大学連の選挙。無政府主義のメリッサ・セプルベダが委員長に当選。

12.15 大統領選挙の決選投票。ミチェレ・バチェレが62.18%の得票で当選。

 

2014年

1.25 バチェレ政権に共産党が入閣。クラウディア・パスクアルは女性問題担当大臣となった。